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小田実とは何者か?『何でも見てやろう』で世界を旅し、反戦を訴えた作家の生涯

こんにちは!今回は、作家・政治運動家として活躍した小田実(おだ まこと)についてです。

彼は『何でも見てやろう』の著者として知られ、ベトナム反戦運動「べ平連」の代表を務めるなど、多彩な活動で知られています。そんな小田実の生涯を振り返ってみましょう。

目次

大阪での少年時代

生い立ちと家族環境―戦時下の影響と幼少期の記憶

小田実(おだ まこと)は1932年(昭和7年)9月2日、大阪市住吉区に生まれました。幼少期は、日本が戦争へと突き進む時代と重なり、彼は幼いながらに戦時下の厳しい生活を経験することになります。特に1945年(昭和20年)3月13日から14日にかけての大阪大空襲では、彼の住む町も爆撃の被害を受け、焼け野原となった街並みを目の当たりにしました。

空襲警報が鳴るたびに家族とともに防空壕へ逃げ込み、爆撃音を聞きながら恐怖に震えた記憶。戦後、瓦礫の山となった街を歩きながら、亡くなった人々の遺体を見た経験。これらの出来事は、小田の心に深く刻まれ、「なぜ戦争は起こるのか?」「戦争をなくすためにはどうすればよいのか?」といった問いを抱くようになります。

さらに、戦時中の物資不足は家庭にも影響を与えました。食料は配給制となり、母親が長時間並んでも手に入るのはわずかな米や芋。終戦後も食糧難は続き、人々は闇市で食べ物を買い求めるしかありませんでした。小田もまた、少年時代から生きるための困難と向き合い、その中で「社会の仕組みとは何か」「なぜ人々は困窮するのか」といった社会問題への関心を芽生えさせていったのです。

旧制天王寺中学から新制夕陽丘高校へ―学び舎での青春時代

戦後、日本はGHQの占領下に置かれ、民主化が進められていきました。その流れのなか、小田は1946年(昭和21年)、旧制天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高校)に進学します。戦争の爪痕が色濃く残るこの時代、彼は勉学に励み、特に文学と語学に強い関心を示しました。戦時中は敵国語として学ぶことを禁じられていた英語が、戦後になって一気に解禁され、アメリカ文学やイギリス文学を読む機会が増えたことが、彼の知的探求心を刺激したのです。

1948年(昭和23年)、学制改革により旧制中学が新制高校に移行すると、小田は新しく設立された大阪府立夕陽丘高校へ転校します。ここで彼は、英語の習得に本格的に取り組み、ラジオ英会話を活用して独学で学びました。また、この頃からヘミングウェイやスタインベックといったアメリカ文学に傾倒し、特に『怒りの葡萄』を読んで、社会の矛盾を文学で表現することの意義を知ります。

また、小田は高校時代、読書だけでなく議論を通じて思想を深めることにも熱心でした。戦後日本の進むべき道や、民主主義とは何かといったテーマを友人たちと語り合う日々は、彼の社会観を形成する大きな要素となりました。学問に対する情熱とともに、社会への問題意識を持ち始めた彼の青春時代は、まさに「知ること」「考えること」に満ちたものだったのです。

幼少期の体験が培った価値観―社会への関心の芽生え

戦争の悲惨な体験と、その後の混乱の中で生き抜いた経験は、小田実の価値観を大きく形作りました。しかし、彼は単に「戦争は悪だ」と断じるのではなく、「なぜ戦争が起こるのか?」「どうすれば戦争をなくせるのか?」といった根源的な問いを持ち続けました。この問いに対する答えを見つけるため、彼は歴史や社会学の本を読み漁り、知識を深めていきます。

また、戦後の大阪では、市民同士が助け合いながら復興を進める姿が見られました。瓦礫の中で人々が協力し、少しずつ町を再建していく様子は、彼にとって希望の象徴でもありました。この経験から、小田は「市民の力で社会を変えられる」という考えを持つようになります。この思想は、のちに彼が主導した市民運動、特にべ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)や阪神・淡路大震災時の市民救援センター設立につながっていきます。

さらに、戦後日本の混乱とともに、新たな価値観が生まれつつあることも彼は敏感に感じ取っていました。戦前の軍国主義からの脱却、アメリカ型の民主主義の導入、急速に進む経済復興の裏側にある社会の矛盾。これらを自分自身で考え、理解しようとする姿勢が、小田の思想の出発点となったのです。

彼の人生を貫く「行動する知識人」としての姿勢は、まさにこの少年時代の経験によって培われました。「なぜ社会はこうなっているのか?」「どうすればよりよい社会をつくれるのか?」という問いは、彼の生涯を通じて持ち続けたテーマであり、それこそが彼の作家・運動家としての原動力となったのです。

東大生から代ゼミ講師へ

東京大学文学部言語学科へ―学問への情熱と学生生活

1951年(昭和26年)、小田実は東京大学文学部言語学科に入学しました。当時の日本は朝鮮戦争(1950〜1953年)の影響を受けており、アメリカの経済支援によって戦後復興が進んでいた時代でした。しかし、一方で日本国内には戦争責任や米軍駐留をめぐる議論が渦巻き、学生運動も盛んになりつつありました。そんな中、小田は東京大学で本格的に学問に取り組みます。

言語学科を選んだのは、幼少期から続く言葉への興味と、世界の多様な文化を知りたいという欲求からでした。特に、英語を中心に多言語を学びながら、言語の背景にある社会や文化について深く考えるようになります。また、彼の興味は単なる言語学の枠を超え、文学、哲学、歴史、政治学などにも広がり、幅広い知識を吸収していきました。

この頃、彼は東京でさまざまな知識人や文化人と交流を持つようになります。親交を深めたのが、哲学者の鶴見俊輔や作家の野間宏、井上光晴らでした。彼らとの議論を通じて、小田の思想はより洗練され、社会問題への関心がさらに強まっていきます。また、戦後の日本文学に大きな影響を与えた柴田翔や高橋和巳とも出会い、文学を通じて社会を描くことの意義を考えるようになります。

学生時代、小田は大学の枠を超えた活動にも熱心でした。学内では演劇や文学サークルに参加し、執筆活動を行う一方で、社会問題に関する討論会やデモにも関わるようになります。特に、1950年代半ばに高まった安保闘争の影響を受け、政治と市民の関係について深く考えるようになりました。

大学卒業後の進路選択―作家志望と教育の現場へ

1955年(昭和30年)、小田は東京大学を卒業します。文学や言語学に対する探求心は尽きることがなかったものの、卒業後の進路については大いに悩みました。彼の周囲には、大学院に進学して学問の道を究める者もいれば、すぐに新聞社や出版社に就職する者もいました。しかし、小田はどちらの道も選びませんでした。

彼が強く志していたのは、作家として生きることでした。大学時代からすでに執筆活動を続けており、卒業後も本格的に文章を書いていきたいと考えていました。しかし、作家として生計を立てるのは容易ではなく、生活の糧を得る手段として教育の現場に立つことを決意します。こうして、彼は英語教師としてのキャリアをスタートさせることになりました。

小田は、英語教師の仕事を単なる生計の手段と考えていたわけではありません。戦後の日本において、英語教育は単なる語学の習得ではなく、国際社会とつながるための重要な手段でした。彼は「言葉を学ぶことは、世界を知ることだ」と考え、単なる文法や読解ではなく、文化や思想を交えた授業を行うようになります。この教育方針は、後に代々木ゼミナール(代ゼミ)での講師時代にも生かされていきました。

代々木ゼミナールの英語講師時代―教育者としての一面

1950年代後半、小田は予備校「代々木ゼミナール(代ゼミ)」の英語講師として教壇に立ちました。当時の日本では大学進学率が急速に上昇し、受験産業が発展していた時期でした。代ゼミもまた、戦後の混乱から脱し、新しい時代に対応した教育機関として成長を続けていました。

小田の授業は、単なる受験対策にとどまらず、言葉の背後にある文化や歴史までを含めた内容で、生徒たちに大きな刺激を与えました。例えば、英文解釈の授業では、単に単語や文法を解説するのではなく、文章の背景にあるアメリカ社会や政治の話を交えながら講義を行いました。そのため、彼の授業は「知的な冒険」とも評され、多くの生徒たちから絶大な支持を得るようになります。

また、小田は「受験英語」に対して批判的な立場を取っていました。彼は、英語を単なる試験の道具としてではなく、「世界を理解するためのツール」として捉えていました。そのため、授業ではニュース記事や海外の文学作品を積極的に取り上げ、生徒たちに「英語を通じて世界を見る」という視点を持たせようとしました。

このような教育方針は、一部の受験生や保護者の間で賛否を呼ぶこともありました。しかし、小田は一貫して「受験のためだけの英語教育ではなく、もっと広い視野を持つべきだ」と主張し続けました。この姿勢は、のちの彼の執筆活動や市民運動にも通じるものであり、「知識は社会を変える力となる」という彼の信念の表れでもありました。

代ゼミでの講師時代は、小田にとって教育者としての一面を確立する重要な時期でした。同時に、この経験を通じて、彼は「日本の若者がどのように世界を見ているのか」「教育の現場が抱える問題とは何か」といったテーマについて深く考えるようになり、それが後の社会活動や作家活動の土台となっていくのです。

フルブライト留学とバックパッカー時代

フルブライト奨学生としてハーバード大学へ―アメリカでの学びと刺激

1958年(昭和33年)、小田実はフルブライト奨学金を得て、アメリカ・ハーバード大学に留学しました。フルブライト奨学金は、第二次世界大戦後にアメリカが各国の優秀な学生に提供した国際交流プログラムであり、日本からの留学生にとっては非常に名誉な制度でした。当時、日本からアメリカへの留学はまだ一般的ではなく、特に文学や言語学を学ぶためにハーバードへ行くという選択は、極めて先駆的なものでした。

ハーバード大学では、彼はアメリカ文学や比較文化論を専門的に学びながら、現地の社会や文化に深く触れていきました。留学前からアメリカ文学に傾倒していた小田にとって、本場の環境で学ぶことは刺激的でした。特に、彼が影響を受けたのが、アメリカの自由な議論文化でした。大学では教授と学生が対等に議論し、批判や異なる意見を尊重し合う環境が整っており、それまでの日本の教育とは大きく異なっていました。

また、この時期のアメリカは、公民権運動が活発化していた時期でもありました。1955年にはモンゴメリー・バス・ボイコット運動が始まり、1957年にはリトルロック高校事件が発生するなど、人種差別撤廃を求める運動が全米で高まっていました。小田は、こうした現場に足を運び、デモに参加する学生たちと交流することで、「社会運動が社会を変える力を持つ」という実感を得ていきます。この経験は、後に彼が反戦運動や市民運動に関与する大きなきっかけとなりました。

留学生活で得たもの―知的探求と世界観の拡張

ハーバード大学での留学生活を通じて、小田は「世界を見る目」を大きく変えていきました。特に、彼が痛感したのは「日本の常識が世界の常識ではない」という事実でした。それまでの彼は、日本の価値観を中心に考えていましたが、アメリカで多国籍の学生と交流するなかで、異なる文化や思想がいかに多様であるかを実感しました。

例えば、日本では「和を重んじる文化」が良しとされる一方で、アメリカでは「個人の意見を明確に主張すること」が重要視されていました。講義では教授が学生に積極的な発言を促し、議論が活発に行われていましたが、最初は「自分の意見を述べるのが恥ずかしい」と感じたこともあったといいます。しかし、小田は徐々にこの環境に適応し、自分の考えを論理的に述べることの重要性を学んでいきました。

また、留学中に出会った世界各国の留学生たちは、彼にとって貴重な刺激となりました。特に、アジアやアフリカからの留学生との交流を通じて、戦後の日本がどのように見られているのかを知ることができました。彼らの多くは、戦前の日本が植民地支配を行っていたことを批判的に見ており、小田は自国の歴史を客観的に見つめ直す機会を得たのです。

こうした経験から、小田は「世界を知らなければ、日本のことも本当には理解できない」という考えを持つようになります。この思考は、のちに彼が世界一周旅行を敢行し、『何でも見てやろう』を書く原動力となっていきます。

世界一周旅行の軌跡―訪問国とエピソード

1960年(昭和35年)、ハーバード大学での留学を終えた小田実は、帰国する前に「世界を自分の目で見て回る」ことを決意します。彼は奨学金の残りやアルバイトで貯めた資金を使い、バックパックひとつで世界一周旅行へと出発しました。この旅は、彼の人生において極めて重要な経験となり、のちにベストセラーとなる旅行記『何でも見てやろう』へと結実していきます。

小田が訪れた国々は、アメリカを出発点にヨーロッパ、中東、アフリカ、アジアなど多岐にわたりました。彼は単なる観光旅行ではなく、現地の人々とできるだけ深く交流し、その国のリアルな姿を知ることを目的としていました。

特に印象的だったのが、インドでの経験でした。彼はカルカッタ(現コルカタ)を訪れ、極貧の生活を送る人々と接し、「世界にはこれほどまでに貧しい人々がいるのか」と衝撃を受けます。また、ガンジス川沿いで人々が裸足で生活し、最低限の食事しか取れない現実を目の当たりにし、「自分が日本で享受してきたものが、いかに恵まれたものであったか」を痛感しました。

さらに、エジプトではピラミッドを訪れた際、地元の少年が観光客相手に靴磨きをして生計を立てている姿を見て、「教育の機会がないことが、貧困の連鎖を生む」という現実を実感します。この旅を通じて、小田は「世界の現実を知ること」がいかに重要かを確信し、日本に戻ったらその経験を伝えたいという思いを強めました。

また、旅の途中で資金が尽きそうになったときには、現地でアルバイトをしながら旅を続けました。フランスでは農場で働き、イギリスでは日本語教師の仕事を見つけ、旅費を稼ぎました。この経験から、彼は「どんな環境でも生きていける」という自信を得ることになります。

こうした体験が、のちに『何でも見てやろう』の執筆につながり、同書は単なる旅行記を超えて、「世界を見ることの意義」を説く書として、多くの読者に影響を与えることになります。

『何でも見てやろう』で作家デビュー

旅行記『何でも見てやろう』の誕生――執筆の背景と動機

1961年(昭和36年)、小田実は世界一周の旅から帰国しました。この経験を活かし、彼は「世界のリアルな姿を伝えたい」という強い思いから、旅行記の執筆を決意します。ちょうどこの頃、日本では高度経済成長が進み、海外旅行が夢のまた夢だった時代でした。一般の人々にとって、外国とは映画やニュースの中の遠い世界であり、実際に訪れることができる人は限られていました。

そんな中、小田は自身の旅で見たもの、感じたことをできるだけ生の言葉で伝えようとしました。彼が重視したのは、単なる観光地の紹介ではなく、「現地の人々とのリアルな交流」でした。インドのスラム街で出会った少年、エジプトで靴磨きをしていた子どもたち、フランスの農場で共に働いた労働者たち――こうした人々とのエピソードを通じて、読者に「世界は広く、そして多様だ」ということを伝えたかったのです。

また、彼の文章の特徴として、「肩の力を抜いたユーモア」があります。旅の中で体験した失敗談やハプニングも包み隠さずに書き、「旅をすることは、失敗することでもある」という視点を読者に提供しました。これにより、読者は単なる異国のレポートとしてではなく、「自分も旅をしているような感覚」で本を読むことができたのです。

こうして執筆された『何でも見てやろう』は、1961年から1963年にかけて『朝日新聞』に連載され、その後、1964年(昭和39年)に講談社から単行本として出版されました。

出版後の反響と評価―社会へのインパクト

『何でも見てやろう』は、発売と同時に大きな話題となりました。当時の日本では、まだ海外旅行が一般的ではなく、庶民が外国の実情を知る機会は限られていました。そんな時代に、小田の旅行記は、「世界を知る窓」として多くの読者に受け入れられました。

特に若者たちにとって、小田の文章は「世界に飛び出す勇気をくれる本」でした。旅先で出会った人々との交流、異文化の衝撃、時には失敗やトラブルを笑い飛ばす姿勢――それらすべてが、新しい時代の価値観を象徴するものでした。これまで海外を「遠い存在」と考えていた人々に対し、小田は「世界は案外近いものだ」「誰でも旅に出ることができる」というメッセージを届けたのです。

また、本書は単なる旅行記にとどまらず、日本社会への批評でもありました。戦後の復興を経て、経済成長を遂げつつあった日本の姿を、海外からの視点で見つめ直す内容は、多くの読者にとって新鮮なものでした。例えば、小田はアメリカやヨーロッパの豊かな生活を紹介しながらも、「日本は経済成長を目指すばかりで、人間の幸福とは何かを見失っていないか?」という鋭い問いを投げかけています。この社会批評的な視点も、本書が広く読まれた理由のひとつでした。

発売後、本書はベストセラーとなり、若者たちを中心に熱狂的に支持されました。「海外に行く前に読むべき本」として、多くの大学生や知識人に読まれ、後に続くバックパッカー文化の先駆けともなりました。

現代バックパッカー文化への影響―旅と表現の先駆者

『何でも見てやろう』は、日本におけるバックパッカー文化の礎を築いたともいえます。1960年代当時、日本人が海外を自由に旅することは、まだ珍しいことでした。しかし、この本の影響を受けて、「自分も世界を見てみたい」と考える若者が増えていきました。

特に1970年代になると、ヒッピー文化やバックパッカーの流れとともに、日本人の若者が海外に出るケースが増加します。この流れを受けて登場したのが、沢木耕太郎の『深夜特急』(1979年)です。『深夜特急』は、1970年代後半にアジア・ヨーロッパを旅した沢木自身の経験を描いた旅行記であり、その文体やスタイルは『何でも見てやろう』の影響を強く受けています。

しかし、『何でも見てやろう』と『深夜特急』には大きな違いもあります。沢木の旅は、一人の若者が自分自身と向き合いながら成長していく「内省的な旅」でしたが、小田の旅は「世界の人々との交流」を重視したものでした。彼にとって旅とは、単に自分のためのものではなく、「世界を知り、その現実を伝えること」でした。

また、小田は『何でも見てやろう』の成功に甘んじることなく、その後も世界各国を訪れ、取材を続けました。特に、戦争や社会問題を抱える地域を積極的に訪れ、現地の人々の声を記録するジャーナリスト的な姿勢を強めていきます。例えば、のちに彼がベトナム戦争中のホーチミンを訪れ、アメリカ軍の爆撃を受ける市民の姿を伝えたのも、「世界を見て、伝える」という彼の一貫したスタンスに基づくものでした。

こうした活動は、のちのべ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)の結成につながり、小田実は単なる旅行作家ではなく、「行動する知識人」としての道を歩み始めることになります。

べ平連代表としての反戦運動

「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」設立の経緯―反戦の決意

1965年(昭和40年)、アメリカが北ベトナムへの本格的な爆撃(北爆)を開始し、ベトナム戦争が激化していきました。この戦争は、日本にも大きな影響を及ぼしました。米軍基地のある沖縄や横田、横須賀などはベトナムへの兵站(へいたん)拠点となり、日本企業も米軍向けの物資を供給することで経済的利益を得ていました。しかし、その一方で、「戦争に加担しているのではないか?」という疑問が日本国内で高まりつつありました。

こうした状況の中、1965年10月、小田実は哲学者の鶴見俊輔や評論家の加藤周一らとともに「ベトナムに平和を!市民連合(略称:べ平連)」を結成しました。べ平連は、それまでの学生運動や労働運動とは異なり、政党や特定の団体に属さない「市民による運動」として発足しました。これまでの反戦運動は、左翼系政党や労働組合が主導することが多かったため、一般市民が参加しにくい雰囲気がありました。しかし、小田たちは「誰でも参加できる」「肩書きや立場に関係なく市民として声を上げることが重要だ」と考え、新しい形の運動を模索したのです。

この考え方は、彼のアメリカ留学時代の経験に大きく影響されていました。ハーバード大学留学中、小田はアメリカの公民権運動を目の当たりにし、「市民が自発的に動くことで社会を変えられる」という確信を得ました。このときの経験が、日本での市民運動のスタイルにも反映されたのです。

べ平連の具体的な活動――デモ・講演・国際連携

べ平連の活動は、従来の政治運動とは一線を画すものでした。従来の反戦デモがシュプレヒコール(声をそろえて叫ぶ抗議)を中心に行われていたのに対し、べ平連は「個々の市民が自分の言葉で発信する」ことを重視しました。

特に有名なのが、「無言のデモ」でした。1966年(昭和41年)から、べ平連のメンバーは銀座や新宿で、プラカードを掲げて無言で歩くデモを実施しました。プラカードには、「ベトナムに平和を!」「No More War」といったシンプルなメッセージが書かれ、参加者は声を上げずに静かに行進しました。これは、当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。従来のデモとは違い、暴力的な衝突を避けながら、静かにしかし強くメッセージを発信するこの方法は、多くの市民の共感を得て、運動が広がるきっかけとなりました。

また、べ平連は国際的な連携も重視しました。小田は1967年(昭和42年)、実際にベトナムを訪れ、戦争の実態を現地で取材しました。ハノイではアメリカ軍の爆撃で破壊された建物や、避難を強いられる市民たちの姿を目の当たりにし、「この戦争の現実を日本に伝えなければならない」と強く感じました。帰国後、小田は講演活動を精力的に行い、ベトナムの状況を伝えるために各地を回りました。

さらに、1968年(昭和43年)には、べ平連のメンバーがアメリカへ渡り、ニューヨークやワシントンD.C.で反戦デモに参加しました。これは、日本の市民運動が海外の反戦活動と連携する初めての試みであり、「国境を越えた市民の連帯」という新しい形を示すものでした。

反戦運動が社会に与えた影響―市民運動の広がり

べ平連の活動は、単なる反戦運動にとどまらず、日本における市民運動のあり方を大きく変えました。それまでの社会運動は、政治団体や労働組合が主導するものが多く、一般の市民が気軽に参加できる雰囲気ではありませんでした。しかし、べ平連は「誰もが自分の意志で参加できる運動」としての新しいスタイルを確立し、それがのちの「市民運動」のモデルとなっていきました。

べ平連の影響を受けた運動の例として、1970年代の成田空港反対闘争(成田闘争)、1980年代の反原発運動、そして2000年代以降の「九条の会」の活動などが挙げられます。特に、小田実自身も晩年に「九条の会」の活動に関わり、べ平連の経験を活かして憲法9条を守る運動を展開しました。

また、べ平連の活動を通じて、小田は「言葉の力」が持つ可能性を強く意識するようになりました。彼は、ただ反戦を訴えるだけでなく、「なぜ戦争が起こるのか」「戦争を止めるために何ができるのか」といった本質的な議論を重視しました。そのため、彼の講演や著作は、単なるスローガンではなく、具体的な行動へとつながるような内容になっていました。

しかし、一方でべ平連の活動は、日本社会の中で激しい批判にもさらされました。特に、アメリカとの関係を重視する保守派からは「反米的な運動」として敵視され、新聞や雑誌では「過激な左翼運動」と決めつけられることもありました。しかし、小田は「これはイデオロギーの問題ではなく、市民が戦争に反対する権利の問題だ」と主張し続けました。

このように、べ平連は日本の市民運動の新しい形を作り上げると同時に、小田実自身の「行動する知識人」としての立場を確立する大きな転機となったのです。

世界を舞台にした作家活動

各国での取材と執筆―ジャーナリストとしての視点

べ平連の活動を通じて「社会に対して発言し、行動すること」の重要性を実感した小田実は、その後も積極的に世界各国を訪れ、現地の状況を取材しながら執筆活動を続けました。彼にとって「旅」は単なる娯楽ではなく、「世界を知り、現実を記録する手段」でした。

1970年代、小田はアジア、中東、アフリカ、南米など、当時の国際情勢の激動の中心にある地域を訪れました。特に、1973年のチリ・クーデター(アジェンデ政権の崩壊)や、1975年のベトナム戦争終結の際には、現地に赴き、自らの目でその変化を確かめました。彼の取材は、単なる報道記事ではなく、「そこで生きる人々の視点」に立ったものであり、ジャーナリストとしての鋭い観察眼が光るものでした。

また、1979年にはカンボジアのポル・ポト政権崩壊後の混乱する現地に足を運び、内戦の爪痕が残る社会の実態を克明に記録しました。彼は、日本の読者に対し「遠い国の話」ではなく、「日本とも無関係ではない世界の出来事」として伝えようと努めました。この姿勢は、彼が生涯にわたって持ち続けた「市民としての責任」に根ざしたものでした。

国際的な文学賞の受賞歴―評価された作品群

こうした精力的な取材活動の成果は、多くの著作として結実しました。小田は、ノンフィクションだけでなく、小説や評論も手がけ、その幅広い執筆活動は国内外で高く評価されました。

1970年には、彼の代表的な評論集『HIROSHIMA』が発表されました。本書は、広島への原爆投下が持つ意味を世界的な視点から論じた作品であり、日本国内だけでなく、海外でも大きな反響を呼びました。特に、戦争責任や核兵器問題に対する鋭い指摘が評価され、英語やフランス語にも翻訳されました。

また、1980年代には小説作品にも力を入れ、1982年に発表した『アメリカ』は、日本人の視点からアメリカ社会を批判的に描いた作品として注目されました。この作品は、彼のアメリカ留学時代の経験をもとにしたものであり、日本がどのようにアメリカの影響を受けてきたのかを分析する内容になっていました。

さらに、彼の活動は国際的にも評価され、1986年には「ヨーロッパ文化賞」を受賞しました。この賞は、ヨーロッパの文化や思想に貢献した人物に贈られるものであり、日本人としての視点を持ちながらも、グローバルなテーマに取り組んだ彼の功績が認められた証でした。

多言語への翻訳と海外での反響―世界に広がる言葉

小田実の著作は、日本国内だけでなく、多くの言語に翻訳され、世界中で読まれるようになりました。特に『何でも見てやろう』は英語、フランス語、ドイツ語、韓国語などに翻訳され、多くの読者に影響を与えました。この作品は、日本の若者だけでなく、世界中の若者に「世界を見ることの大切さ」を伝えるものとして評価されました。

また、『HIROSHIMA』はアメリカやヨーロッパの大学で講義の教材として使用され、戦争と核兵器の問題を考える上での重要な文献とされました。小田自身も海外の講演会に招かれ、各国で戦争と平和についての議論を行いました。彼の言葉は、単なる日本人の視点ではなく、世界的な問題意識を持つものとして、多くの人々に受け入れられました。

こうした活動を通じて、小田実は「日本の作家」という枠を超え、「世界の知識人」としての地位を確立していきました。彼の著作や講演は、単なる文学や評論ではなく、社会を変えようとする強い意志に支えられたものだったのです。

阪神・淡路大震災と被災者支援

震災発生時の状況と小田実の行動―いち早く現場へ

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生しました。マグニチュード7.3の巨大地震が近畿地方を襲い、特に神戸市を中心に甚大な被害をもたらしました。死者は6,400人以上、負傷者は43,000人を超え、多くの家屋が倒壊し、道路やライフラインも寸断されました。

この未曾有の災害に対し、小田実は即座に行動を起こしました。彼は震災発生直後に現地へ向かい、被災地の状況を自分の目で確認しようとしました。すでに60代後半に差し掛かっていた彼でしたが、「何が起きているのかを知り、できることをする」という信念のもと、自らの足で被災地を歩きました。

神戸の街に入った小田は、その惨状に言葉を失いました。瓦礫と化した市街地、助けを求める人々、崩れたままの高速道路。行政の対応は遅く、自衛隊の出動も迅速ではなかったため、被災者は初期の救援活動をほとんど受けられない状態でした。この現実を目の当たりにした彼は、「市民の手で支援を始めなければならない」と強く感じました。

被災者支援活動の具体的な取り組み―「市民救援センター」の設立

小田は、「市民による救援が必要だ」と考え、すぐに仲間たちとともに「市民救援センター」を設立しました。これは、政府や自治体の支援が行き届かない中で、市民同士が助け合うための拠点でした。

市民救援センターでは、被災者への物資支援をはじめ、避難所の運営、炊き出し、医療支援などを行いました。特に、行政の手が回らない高齢者や障害者、外国人労働者など、支援の対象から取り残されがちな人々に対するサポートを重視しました。小田は、「誰もが平等に助けを受けられる社会でなければならない」と主張し、ボランティア活動の重要性を強く訴えました。

また、小田は震災発生直後からメディアを通じて情報を発信し続けました。「国や自治体の支援が遅れている」「市民が主体となるべきだ」といったメッセージを積極的に発信し、多くの市民が自発的にボランティア活動に参加するきっかけを作りました。結果として、全国各地からボランティアが神戸に集まり、市民主体の支援活動が広がっていったのです。

当時の日本では、まだ「ボランティア活動」が一般的ではなく、災害支援といえば行政や自衛隊が行うものという認識が強かった時代でした。しかし、阪神・淡路大震災をきっかけに、市民が主体的に支援活動を行う動きが広がり、後の災害時のボランティア活動の先駆けとなりました。

震災支援から得た教訓―市民の連帯と社会変革

震災後の支援活動を通じて、小田実は「市民の力が社会を変えることができる」という確信を強めました。政府の対応が遅れる中で、市民同士が自発的に助け合うことの重要性を目の当たりにした彼は、「市民が社会の主役となるべきだ」と改めて強く感じたのです。

また、小田は震災後に書いた文章や講演の中で、「災害は社会の矛盾をあぶり出す」と指摘しました。阪神・淡路大震災では、都市の防災インフラの脆弱さ、行政の縦割り体制、被災者支援の格差など、多くの問題点が浮かび上がりました。特に、高齢者や貧困層、外国人労働者といった「社会的に弱い立場にある人々」が支援から取り残されるケースが多かったことを、小田は強く批判しました。

震災の経験を通じて、小田は「災害をきっかけに社会のあり方を問い直すことが必要だ」と訴えました。彼は、被災者支援の枠を超え、「市民がもっと政治に参加し、社会を変えていくべきだ」というメッセージを発信し続けました。この思想は、のちに彼が関わる「九条の会」の活動にもつながっていきます。

さらに、阪神・淡路大震災をきっかけに、日本では「ボランティア元年」と呼ばれるほど、市民による支援活動が広がりました。小田のように、市民主体の活動を提唱した知識人の存在が、日本の災害支援の在り方を大きく変えたのです。

平和運動家としての晩年

「九条の会」での活動―憲法を守るための戦い

阪神・淡路大震災を通じて市民の力を再認識した小田実は、晩年にかけてますます社会運動にのめり込んでいきました。その中でも特に力を入れたのが、日本国憲法第9条の擁護活動でした。

2004年(平成16年)、小田は作家の井上ひさし、憲法学者の奥平康弘、評論家の鶴見俊輔らとともに「九条の会」を結成しました。九条の会は、戦争放棄を定めた憲法9条の改正に反対するための市民運動であり、「平和を守るために憲法を変えてはならない」と訴えました。

当時、小泉純一郎内閣のもとで、自衛隊の海外派遣や日米同盟の強化が進められており、憲法9条を改正しようとする動きが本格化していました。特に、2003年(平成15年)のイラク戦争では、日本政府が自衛隊を派遣し、「平和憲法を持つ国が海外で軍事活動を行うことは許されるのか?」という議論が沸き起こっていました。

これに対し、小田実は「戦争に加担する国になってはいけない」「9条を守ることこそが、戦争を防ぐ最も確実な方法だ」と強く訴えました。彼は全国各地で講演を行い、市民に憲法の大切さを語りかけました。さらに、新聞や雑誌への寄稿を通じて、「9条改正は、日本の戦後民主主義の根幹を揺るがす問題だ」と警鐘を鳴らし続けました。

晩年に取り組んだ平和運動―日本と世界の未来へ

小田実は、「九条の会」の活動だけにとどまらず、世界規模での平和運動にも積極的に関わりました。2005年(平成17年)、彼は広島・長崎の被爆60周年を機に、改めて核兵器廃絶の重要性を訴えました。特に、彼が長年にわたって取り組んできた『HIROSHIMA』の著作は、戦争の記憶を次世代に伝えるための重要な役割を果たしていました。

また、彼は2006年(平成18年)には、イラク戦争の影響を受けた難民支援活動にも関わり、戦争が生み出す悲劇について現地取材を行いました。彼の考えの根本には、「戦争を知り、それを伝えることが平和への第一歩である」という理念がありました。

晩年、小田は体調を崩しながらも、精力的に講演活動を続けました。「市民が声を上げなければ、権力は勝手に動いてしまう」と強調し、特に若者に対して「無関心こそが最大の敵だ」と訴えました。彼にとって、「知識人が社会に関与すること」は、生涯を通じた使命だったのです。

2007年の逝去とその後の評価―遺された思想と影響

2007年(平成19年)7月30日、小田実は肺がんのため東京都内の病院で死去しました。享年75。彼の死は、多くの知識人や市民運動家にとって大きな損失となりました。

彼の葬儀には、長年の盟友である鶴見俊輔や井上ひさしをはじめ、多くの文化人や市民が参列しました。彼の活動を振り返ると、「反戦」「市民運動」「知識人の社会的責任」というテーマが一貫していたことがわかります。彼は単なる作家ではなく、「行動する知識人」として、常に現場に立ち続けた人物でした。

また、小田実の思想は、彼の死後も多くの人々に受け継がれました。九条の会の活動は今も続いており、彼が残した反戦のメッセージは、現在の日本社会においても重要な意味を持ち続けています。さらに、『何でも見てやろう』は今なお多くの若者に読まれ、「世界を知ることの大切さ」を伝えています。

2015年(平成27年)、安全保障関連法案(いわゆる「安保法制」)をめぐる議論が激化した際、小田の著作や言葉が改めて注目されました。「市民が声を上げなければ、社会は変わらない」という彼の信念は、現代の若者たちにも響き、新たな市民運動の原動力となっています。

こうして、小田実が遺した思想や行動は、時代を超えて受け継がれ、今もなお社会に影響を与え続けているのです。

小田実を描いた書物・アニメ・漫画

鶴見俊輔著『期待と回想』―盟友が語る小田実の姿

小田実と長年にわたる親交を持ち、市民運動の同志でもあった鶴見俊輔は、2007年に小田の死を受けて著書『期待と回想』を刊行しました。本書は、鶴見が出会った多くの知識人や活動家たちについて書いた回顧録ですが、その中でも小田実についての記述は特に印象的です。

鶴見は、小田のことを「日本における新しいタイプの知識人」と評しました。作家でありながら、社会運動にも積極的に参加し、時にはデモの最前線に立ち、時には世界各国を飛び回る行動力を持つ人物。彼の知的好奇心は尽きることがなく、学問や文学だけでなく、社会の現実を自ら体験し、それを言葉として発信し続けたことを鶴見は高く評価しました。

また、本書では、べ平連の活動時に見せた小田の「ユーモアと柔軟性」についても触れられています。べ平連は決して暴力的な運動ではなく、市民の自由な発想で創り上げた平和運動でした。例えば、シュプレヒコールではなく「無言のデモ」を提案し、プラカード一つで人々にメッセージを届けるという方法を取ったのは小田のアイデアでした。鶴見は、「彼の発想にはいつも新鮮な驚きがあった」と振り返っています。

『期待と回想』は、小田実という人物の知的背景や活動の理念を、最も近くで見ていた鶴見俊輔が語る貴重な証言の書です。小田の生き方を知る上で、欠かせない一冊といえるでしょう。

沢木耕太郎著『深夜特急』との比較――旅する作家の系譜

小田実の代表作『何でも見てやろう』と、沢木耕太郎の『深夜特急』(1979年)は、日本の旅行文学における二大巨頭とも言える作品です。どちらも、著者自身の世界旅行の体験を元にした旅行記ですが、両者には決定的な違いがあります。

『何でも見てやろう』が1960年代の国際情勢を背景に、「世界の現実を伝える」という使命感を持った旅行記であったのに対し、『深夜特急』は1970年代後半のバックパッカー文化の中で、「自分探し」の要素が強い作品でした。沢木耕太郎は、香港からロンドンまでの長旅を通じて、自分が何者であるかを考えながら旅を続けます。対して、小田は、「世界を知ることこそが、日本の未来を考える手がかりになる」と考え、旅を通じて社会の仕組みを読み解こうとしました。

また、文体の違いも明確です。小田実の文章は、時に辛辣な批評を交えながら、読者に「考えさせる」構成になっています。一方、沢木の文体は軽快で読みやすく、旅の魅力を感覚的に伝えることに重点を置いています。

このように、『深夜特急』は「個人的な冒険」、『何でも見てやろう』は「社会的な冒険」という色合いが強く、それぞれ異なる魅力を持っています。しかし、どちらの作品も、多くの日本人に「世界に出てみよう」という勇気を与えた点で共通しており、日本の旅行文学の歴史において重要な役割を果たしています。

『環[特集]われわれの小田実』―思想と生涯を振り返る

2008年、小田実の死後、藤原書店は『環[特集]われわれの小田実』を刊行しました。本書は、小田の思想と活動を総括するために、多くの知識人や研究者が寄稿した特集本であり、彼の生涯と遺した言葉を振り返る貴重な資料です。

この特集では、べ平連の元メンバー、作家、政治学者などがそれぞれの視点から小田実を論じています。特に、彼の「市民運動家」としての側面に焦点を当てた論考が多く、「知識人が社会運動にどう関わるべきか」というテーマについて深い議論が展開されています。

また、本書の中で特に興味深いのは、小田の「旅する作家」としての側面と、「平和運動家」としての側面のバランスについての考察です。彼は単に海外を旅して文章を書く作家ではなく、その経験を通じて社会を変えようとする行動派の知識人でした。『環[特集]われわれの小田実』では、彼のこうした多面的な姿を多角的に分析し、「日本における新しい知識人像」として位置づけています。

この特集本は、小田実の活動を包括的に理解するための資料として、現在でも研究者や読者の間で広く読まれています。彼の思想の影響がどのように現代に受け継がれているのかを知る上で、非常に有益な一冊といえるでしょう。

まとめ:小田実の生涯とその遺産

小田実は、作家、知識人、そして社会運動家として、戦後日本に大きな影響を与えた人物でした。戦争の記憶と戦後の混乱を体験した少年時代から始まり、東大での学び、フルブライト留学、世界一周旅行を経て、『何でも見てやろう』で作家デビューを果たしました。その後も、べ平連の活動を通じて市民運動の新たな形を示し、世界各地の取材を重ねながら、戦争や貧困の現実を伝え続けました。

阪神・淡路大震災では市民救援センターを立ち上げ、市民主体の支援活動を推進。晩年には九条の会の設立に関わり、憲法9条を守る運動に尽力しました。彼の思想や行動は、日本社会における「行動する知識人」のモデルとなり、今なお多くの人々に影響を与えています。

「世界を知ることは、日本を知ること」と説いた彼の言葉は、グローバル化が進む現代においても色褪せることなく、私たちに問いを投げかけ続けています。

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