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大川周明の生涯:東京裁判で東條英機を殴った男が残したイスラム研究の足跡

こんにちは!今回は、戦前日本を揺るがした思想家・大学教授、大川周明(おおかわしゅうめい)についてです。

アジア解放を叫び、インド独立を支援し、日本独自の国家社会主義を唱えた男は、五・一五事件に関与し、東京裁判では「唯一の民間人A級戦犯」として法廷に立ちました。

晩年にはコーランの全訳という異色の功績を残した、大川の波乱と情熱に満ちた生涯をひも解きます。

目次

大川周明の原点と思索の始まり

医師の家系と学問への目覚め

大川周明(おおかわしゅうめい)は、1886年(明治19年)、山形県の日本海に面する港町・酒田(さかた)に生を受けました。その家系は、江戸時代に庄内(しょうない)藩の藩医を務めたとされる医師の血筋です。父もまた医師であり、大川が育った家庭には、西洋の近代的な知が流入する時代にあっても、伝統的な学問や精神性を重んじる空気があったと想像されます。活気ある港町として多様な文化が交差する酒田の風土と、武士階級の知を受け継ぐ家庭環境。これらが、若き日の大川の中に、物事の本質を探求しようとする知的な好奇心の種を蒔いたのかもしれません。彼は幼い頃から学業に秀でていたとされ、その関心は単に知識を暗記することに留まらず、やがて人間や社会のあり方そのものを問う、より大きな思索へと向かっていくことになります。後の彼の思想に見られる、日本の伝統への深い眼差しと、アジア全体を見渡す広い視野の萌芽(ほうが)は、この庄内の地で育まれた精神的背景にその源流を見出すことができるでしょう。

旧制中学から東京帝国大学へ進んだ若き学徒

郷里の庄内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)でその才能を認められた大川周明は、卒業後、さらに高次の学問を求め、熊本の旧制第五高等学校(だいごこうとうがっこう)へと進学しました。ここは全国から優秀な若者が集まるエリート養成機関であり、彼はここで幅広い教養と知的な刺激を受けながら、自らの進むべき道を探求します。そして、当時の若者たちの最高目標であった東京帝国大学に見事合格。数多ある学部の中で、彼が進んだのは文科大学でした。これは、将来の立身出世を考えれば法科などを選ぶのが一般的だった時代において、彼の関心がどこにあったかを明確に示しています。彼は社会的な成功や実利的な学問よりも、より根源的な問い、すなわち「人間とは何か」「真理とは何か」という哲学的な探求に強く惹かれていたのです。エリート街道を順調に進むその裏側で、彼の内面では、近代日本のあり方や西洋中心の価値観に対する静かな、しかし根源的な問いが育まれつつありました。この問いこそが、彼を唯一無二の思索の道へと導く原動力となっていきます。

印度哲学に目覚めた学生時代の情熱

東京帝国大学に入学した大川周明は、正式に「印度(いんど)哲学」を専攻します。西洋哲学が学問の主流であった当時、この選択は彼の強い意志の表れでした。彼は、プラトンやカントといった西洋の知性を学ぶ一方で、それだけでは埋められない精神的な渇望(かつぼう)を感じていたと考えられます。なぜ、我々は西洋の思想を絶対的なものとして受け入れなければならないのか。アジアには、アジア独自の精神的な伝統があるのではないか。この問題意識に突き動かされるように、彼は古代インドの深遠な思想世界へと没入していきます。特に、宇宙と自我の同一性を説く『ウパニシャッド』の哲学や、それを体系化したヴェーダーンタの思想は、彼の心を強く捉えました。この探求は、書斎の中だけの知的な遊びではありませんでした。欧米列強の脅威にアジア全体が晒(さら)される中で、日本の、そしてアジアの精神的な拠り所を確立しようとする、極めて実践的な目的意識を伴うものだったのです。この学生時代の情熱的な思索を通じて、大川の視野は日本という国家の枠を超え、アジア全体の運命へと開かれていきました。

アジアの中の日本を求めて──満鉄時代の経験

満鉄調査部での実地調査と中国認識の深化

東京帝国大学でアジアへの強い問題意識を抱いた大川周明は、1918年(大正7年)、その思索を実践に移すべく南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社します。彼が身を置いたのは、満鉄の中核的な頭脳集団であった「調査部」でした。この調査部は、1908年に東京で設立された「東亜経済調査局」の流れを汲む、当時の日本で屈指の調査機関であり、単なる一企業の調査部門に留まらず、その報告は日本の大陸政策にも影響を及ぼすほどのものでした。ここで大川は、念願だったアジア研究の最前線に立つことになります。彼は調査員として中国大陸に渡り、その広大な土地で近代化の波と伝統社会がせめぎ合う現実を自らの目で確かめていきました。欧米列強の経済的侵出、国内の政治的混乱、そしてその中でたくましく生きる民衆の姿。書物の上で築き上げてきたアジア像は、この生々しい現実の前に、より立体的で複雑なものへと再構築されていきます。観念的だった彼の思想が、大陸の土の匂いと人々の息遣いを吸収し、血の通ったものへと変貌を遂げたのは、まさにこの満鉄調査部での経験によるものでした。

『復興亜細亜の諸問題』と理論化されたアジア主義

中国大陸での精力的な調査活動を通じて得た知見は、大川周明の中で一つの体系的な思想へと昇華されていきます。その最初の集大成が、1922年(大正11年)に出版された『復興亜細亜(ふっこうアジア)の諸問題』です。この著作は、大川が自らの「アジア主義」を世に問うた、彼の思想家としての出発点とも言える一冊でした。本書において大川は、アジア諸国が苦境にある根本的な原因は欧米列強による植民地支配であると断じ、そこからの脱却を強く訴えました。しかし、彼が提唱した「復興」とは、単に欧米の技術や制度を模倣することではありませんでした。むしろ、アジア各民族が一度は失いかけた固有の文化や伝統、精神性に立ち返り、それを土台として主体的な近代化を達成すべきだ、というのがその核心でした。そして、このアジア全体の解放と再生という壮大な事業において、いち早く近代化を成し遂げた日本が「盟主」としての指導的な役割を担うべきだと説いたのです。この鮮烈な主張は、当時の言論界に大きな波紋を広げ、大川周明はアジアの未来を語る上で欠かせない、重要な思想家として認知されるようになりました。

インド独立運動との連携と現地の人々との交流

大川周明の活動は、調査や理論の構築だけに終わりませんでした。彼の思想は、国境を超えた具体的な連帯へと発展していきます。その象徴的な出来事が、イギリスからの独立を目指すインド独立運動家たちとの交流でした。当時、本国での弾圧を逃れて日本に亡命していたラース・ビハーリー・ボースをはじめとする活動家たちにとって、大川は最も信頼できる支援者の一人となります。彼は、中村屋の創業者・相馬愛蔵夫妻らとともにボースを庇護(ひご)し、その活動を精神的、経済的に支えました。大川にとって、彼らとの交流は自らの思想を検証する貴重な機会でした。アジアの解放を願う彼の理論は、インドの独立に命を懸ける活動家たちの情熱と交わることで、より切実で実践的なものへと磨かれていったのです。書斎での思索や大陸での調査に加え、こうした亡命者たちとの人間的な繋がりが、大川のアジア主義にリアリティと深みを与えました。この経験は、彼を単なる学者や理論家から、歴史の変革に自ら関与しようとする行動家へと、さらに一歩踏み出させる重要な契機となったのです。

教育現場で広がる思想──大学人・大川周明の実践

拓殖大学・法政大学での講義と学生との対話

満鉄での経験を通じて自らの思想に確信を得た大川周明は、その情熱を次世代に注ぐべく、大学の教壇に立つ道を選びます。1920年(大正9年)に拓殖(たくしょく)大学の教授となると、その後は法政大学でも教鞭(きょうべん)を執り、アジアの歴史や思想、欧米の植民政策などに関する講義を行いました。彼の講義は、単に知識を伝達するだけのものではありませんでした。満鉄時代に大陸で直接見聞きした体験談や、アジア各地の独立運動家たちとの交流で得た生々しい情報を交えながら、日本の進むべき道とアジアの未来を熱く語る、気迫に満ちたものであったと伝えられています。その言葉には、書斎の中だけでは決して得られない真実味と、国家の将来を憂う真摯(しんし)な響きがありました。多くの学生たちはそのカリスマ性に強く惹きつけられ、彼の講義室は常に知的な興奮と熱気に満ちていたようです。大川にとって大学とは、自らの思想を若者たちの魂に直接届け、未来への共鳴者を育てるための、何よりも重要な舞台でした。

法政大学大陸部長としての実務と人材育成

大川周明の教育への関与は、一教授としての活動に留まりませんでした。彼は自らのアジア主義を、より具体的な形で実現するための組織作りにも尽力します。その集大成が、1938年(昭和13年)に彼が初代部長となって設立された、法政大学の「大陸部」です。日中関係が極度に緊張していたこの時期にあえて、大陸、特に中国からの留学生への専門教育と、将来大陸で活躍する日本人学生の育成を目的とした部署を立ち上げたのです。大川は大陸部長として、留学生のための日本語・予備教育のカリキュラムを整え、日中学生が互いに学び合う環境作りに情熱を注ぎました。彼の狙いは、単なる語学や専門技術の教育ではなく、異文化への深い理解と敬意を持った国際的人材を育成することにあったと考えられます。困難な時代だからこそ、対話と教育を通じてアジアの未来を担う人材を育てようとしたその姿勢は、教育者・行政官としての大川の信念を強く示すものと言えるでしょう。

法学博士号取得と『日本二千六百年史』執筆の背景

教育者として多忙な日々を送る一方で、大川周明自身の学問的探求が終わることはありませんでした。彼の研究は、アジアのみならず、日本の歴史や西洋の制度にも及んでいます。その学術的成果として特筆すべきは、1926年(大正15年)に論文『特許植民会社制度研究』によって法学博士の学位を取得したことです。この研究は、大航海時代以降のヨーロッパによる植民地経営の実態を分析したもので、彼のアジア主義が、西洋の行動原理への深い理解に裏打ちされていたことを示しています。そして、彼の日本史観の集大成と言えるのが、1939年(昭和14年)に出版され、国民的なベストセラーとなった『日本二千六百年史』です。この本は、初代神武天皇から始まる日本の歴史物語を、明快かつ力強い文体で描き出したものでした。皇紀(こうき)二千六百年を祝賀する当時の時流の中で書かれましたが、その本質的な目的は、国民、とりわけ若者たちに自国の歴史の連続性と、日本の国家としてのあり方(国体)への自覚を促すことにありました。この著作は、教育者・大川周明の一つの到達点であり、彼の思想が次なる政治の領域へと深く関わっていく転換点にもなったのです。

理論と行動を重ねた政治思想家としての顔

「日本国家社会主義学盟」と理論的指導

大学での教育活動だけでは、深刻化する社会の矛盾を解決できない。そう痛感した大川周明は、より直接的な政治変革の運動へと身を投じていきます。昭和初期の日本は、世界恐慌の影響で経済が混乱し、既存の政党政治への不信感が渦巻いていました。こうした状況下で、国家の抜本的な改造を掲げるさまざまな運動が生まれます。その一つが、1932年(昭和7年)に発会した「日本国家社会主義学盟(にほんこっかしゃかいしゅぎがくめい)」でした。大川は、この組織の結成を主導したわけではありませんが、その深い学識と影響力を見込まれて顧問に就任し、理論的な支柱としての役割を担いました。この学盟は、財閥による経済支配を批判し、農地の解放や中小企業の保護といった社会主義的な政策を、天皇を中心とする国家の枠組みの中で実現しようと訴えました。思想家として培った理論を、現実の政治運動の指針として提供する。ここには、書斎に留まることを良しとせず、自らの知性で国家の危機に立ち向かおうとする、行動の人としての大川の姿が明確に表れています。

北一輝・満川亀太郎との関係と思想的影響

大川周明の政治思想を語る上で欠かせないのが、二人の盟友、北一輝(きたいっき)と満川亀太郎(みつかわかめたろう)の存在です。彼らは1919年(大正8年)、日本の国家改造とアジアの解放を掲げる思想団体「猶存社(ゆうぞんしゃ)」を結成。一時期、日本の革新運動を牽引する中心的な存在となりました。腐敗した政治を一掃し、社会の不公正を正すという目的意識は共有していましたが、その方法論において、特に大川と北の間には埋めがたい溝がありました。北一輝が軍事クーデターによる急進的な革命を志向したのに対し、大川は国民全体の精神的な覚醒を通じた、より秩序だった国家革新を理想としていたようです。互いの才能を認め合うがゆえの強い絆と、思想的な違いからくる激しい対立。この緊張関係は、1923年の猶存社解散という形で終わりを迎えます。しかし、彼らが掲げた国家改造の思想は、当時の現状に憤る青年将校や民間活動家たちに深く浸透し、後の日本の革新運動に大きな思想的影響を与えていく潮流の一つとなったのです。

著作を通じた社会改革と啓蒙の試み

直接的な政治運動への関与と並行して、大川周明は言論の力で社会を啓蒙(けいもう)することの重要性も強く認識していました。彼は、論文やパンフレットといった著作、そして全国での講演活動を通じて、自らの思想を精力的に訴え続けます。その主張の核心は、資本主義の暴走がもたらした格差社会への批判と、私利私欲に走る政党政治への決別でした。そして彼が対案として示したのが、理想の日本の姿です。それは、万世一系の天皇を国民統合の精神的な核とし、富の公正な分配が実現された「搾取なき新日本」を建設し、アジアの盟主として国際社会で道義的な役割を果たしていく、という壮大な国家構想でした。彼の著作活動は、単に自説を広めるためだけのものではありませんでした。むしろ、国民一人ひとりが「この国をどうすべきか」という主体的な意識を持ち、国家のあり方を根本から問い直すことを促す、知的な呼びかけだったのです。理論と行動、そして言論による啓蒙。大川はこれらを駆使して、日本の社会を根底から変えようと試みた、類い稀な政治思想家でした。

五・一五事件と思想の転換点

事件への共鳴と行動の背景

大川周明が唱え続けた国家改造の思想は、1932年(昭和7年)5月15日、ついに現実の銃声と共鳴します。この日、海軍の青年将校らが武装蜂起し、犬養毅(いぬかいつよし)首相を官邸で殺害するという、日本近代史を震撼(しんかん)させる事件が起きました。これが「五・一五事件」です。大川は、このクーデター計画の立案や実行に直接加わってはいませんでした。しかし、事件を起こした青年将校たちの多くは、大川の著作や思想に深く傾倒しており、彼らの精神的な支柱となっていました。さらに、大川は彼らの運動に資金を提供するなど、間接的ながら明確な支援を行っていたのです。なぜ彼は、一線を越えてテロリズムに共鳴したのでしょうか。そこには、言論や合法的な政治活動だけでは、もはや腐敗しきった政党政治や財閥支配を打ち破ることはできないという、彼の強烈な焦燥感と危機感があったと考えられます。理論家として始まった彼の国家改造への情熱は、ついに「非常手段もやむなし」とする過激な思想へと踏み込み、自らが育てた思想が現実の凶刃と化すのを、是認するに至ったのです。

逮捕から裁判、禁錮刑確定までの過程

事件から約一ヶ月後の1932年6月、大川周明は背後で事件を操った首謀者の一人として逮捕されます。当代随一の論客であった彼がテロ事件の被告人として法廷に立つという事実は、社会に大きな衝撃を与えました。裁判は長期にわたります。1934年の第一審(東京地方裁判所)では、反乱罪として懲役15年という重い判決が下されました。しかし、控訴審で懲役7年に減軽され、最終的に1935年(昭和10年)10月、大審院(だいしんいん)において禁錮(きんこ)5年の刑が確定します。これは民間人の被告としては最も重い刑罰でした。裁判の過程で彼は、自らの行動が国家を憂う「一片の赤心(いっぺんのせきしん)」、すなわち偽りのない真心から出たものであると堂々と主張しました。その姿は、自らの思想に殉じようとする思想家の矜持(きょうじ)を示すものでしたが、司法の判断は、彼の行動が国家の秩序を乱したという事実を重く見たのです。この判決により、彼の華々しいキャリアは、一旦の終焉を迎えることになりました。

獄中で迎えた思想の内的変化

社会の表舞台から完全に隔絶された獄中での歳月は、大川周明の思想に決定的とも言える変化をもたらしました。これまで外の世界へ向かっていた社会変革への情熱は、静かな独房の中で、自らの内面世界を探求するエネルギーへと転化していきます。政治的な活動の挫折を経て、彼はより根源的な救済の道を模索し始めたのかもしれません。この時期、彼の関心と思索は、特にイスラームの世界へと深く傾倒していきました。彼は獄中で、イスラーム教の聖典である「クルアーン(コーラン)」の原典研究に着手し、その全文を翻訳するという壮大な作業に没頭します。それは、政治による国家の救済というテーマから、より普遍的で精神的な、人間の魂そのものの救済というテーマへと、彼の探求が大きく舵を切ったことを示していました。この獄中での内省と、異文化の叡智(えいち)との出会いこそが、彼の人生の最終章を飾る、偉大な学術的業績へと繋がる、重要な準備期間となったのです。

戦争と裁判に翻弄された知識人

A級戦犯起訴までの経緯と政治的背景

五・一五事件の刑期を終え、研究と思索の日々に戻っていた大川周明を、歴史は再び表舞台に引きずり出します。日本の敗戦後、1945年から始まった極東国際軍事裁判、通称「東京裁判」。そこで彼は、軍人でも政府高官でもない民間人でありながら、最高ランクの「A級戦犯」として起訴されるという、極めて異例の扱いを受けました。なぜ一介の思想家が、戦争指導者たちと並んで裁かれることになったのでしょうか。連合国検察側は、大川の著作や思想が「日本の侵略戦争を正当化し、国民を戦争へと駆り立てたイデオロギーの源泉」であると見なしたのです。彼が長年訴え続けたアジア解放の論理や、日本の歴史的使命を説いた『日本二千六百年史』などの著作が、結果として大日本帝国の侵略行為を美化し、思想的に支える役割を果たしたと断罪されました。彼の「ペン」が、軍人の「剣」と同等の戦争犯罪を構成すると考えられたのです。これは、彼の思想そのものが罪に問われるという、近代の裁判史上でも稀に見る「思想犯」としての起訴でした。

梅毒性精神障害による免訴と医療の舞台裏

東京裁判の公判初日、世界中の注目が集まる法廷で、大川周明は歴史に残る行動に出ます。前の席に座っていた東条英機(とうじょうひでき)の禿頭(とくとう)を、後ろから平手でピシャリと叩いたのです。この奇行は、法廷を騒然とさせ、彼の「狂気」を世界中に印象づける象徴的な出来事となりました。この一件をきっかけに、彼の精神状態が問題視され、日米の精神科医による鑑定が行われることになります。鑑定の結果、彼は長年罹患(りかん)していた梅毒の進行による精神障害を患っており、正常な思考能力を失っていると診断されました。この医学的な判断に基づき、大川は「訴訟能力なし」として、裁判の続行を免除される「免訴(めんそ)」という形で、裁きから外れることになります。有罪か無罪か、その判決を聞くことなく、彼は歴史を裁くための法廷から退場させられました。思想の罪を問われたはずの知識人は、最終的に一人の病者として、歴史の審判から切り離されるという、何とも皮肉な結末を迎えたのです。

「狂気の知識人」とされた評価の二重性

法廷での奇行と、精神障害による免訴。この二つの事実は、大川周明に「狂気の知識人」という強烈なレッテルを貼り付け、その後の彼の評価を決定づけました。果たして、彼の狂気は本物だったのか。それとも、連合国が主導する一方的な裁判を嘲笑(ちょうしょう)し、その権威を失墜させるための、計算され尽くした「演技」だったのか。この問いは、戦後長きにわたって大きな論争の的となります。この「狂気」という評価は、極めて二重の意味合いを持っていました。一方では、大川の思想の持つ危険性や異常性を際立たせ、「狂人が唱えた思想」として彼の言論を無効化する役割を果たしました。しかし、もう一方では、その「狂気」こそが彼を戦争責任の追及から免れさせ、結果的に命を救うことにも繋がったのです。大川周明という人物は、単なる精神病者としてではなく、「狂気」というミステリアスな物語をまとった存在として、戦後の日本社会に記憶されていきました。彼の存在は、戦争とは何か、責任とは何かという、重い問いを私たちに投げかけ続ける、複雑な影を落としているのです。

晩年に到達したイスラーム研究と思想の結晶

『古蘭』全訳に捧げた晩年とその学術的意義

東京裁判という歴史の狂騒から解放された大川周明は、一切の公的活動から退き、静かな思索の日々へと入ります。彼の晩年の情熱は、一つの壮大な学問的偉業へと注がれました。それは、イスラーム教の聖典「クルアーン(コーラン)」を、アラビア語の原典から直接、全文日本語に翻訳するという大事業でした。五・一五事件の獄中で芽生えたこの計画に、彼は退院後本格的に取り組み、約4年という歳月をかけて完成させます。彼の翻訳は、その格調高い文語体の美しい日本語によって、神の言葉が持つ荘厳さを表現しようと試みた点に大きな特徴があります。1950年(昭和25年)に『古蘭(コーラン)』として刊行されたこの翻訳書は、戦後の日本において、原典から直接訳された本格的なクルアーン全訳として広く受け入れられました。これにより、多くの日本人が初めてイスラーム世界の深遠な精神に触れる機会を得ることとなり、戦後日本のイスラーム研究の発展に欠かせない礎(いしずえ)を築いたと高く評価されています。

イスラーム思想への共感とその研究内容

大川周明は、なぜ生涯の知的探求の終着点としてイスラームを選んだのでしょうか。その関心は晩年に始まったものではなく、戦前の1942年には『回教概論』を著すなど、長年にわたるものでした。彼が特に惹かれたのは、唯一絶対の神(アッラー)の前での万人の平等という思想や、信者の共同体「ウンマ」を重んじる社会観だったのかもしれません。これらは、彼が理想とした日本の国家像やアジアの連帯というテーマと、どこか共鳴する部分があったと推察されます。また、信仰が日々の生活の隅々にまで浸透し、政治や経済と分かちがたく結びつくイスラームの世界観は、精神と現実の統合を目指した彼の思想と深く響き合ったことでしょう。彼の研究はクルアーン翻訳だけに留まらず、イスラームの歴史や法学、儀礼に至るまで多岐にわたります。それは、彼の探求が、異文化への表面的な興味ではなく、その文明の全体像を体系的に理解しようとする、生涯をかけた真摯(しんし)なものであったことを物語っています。

未刊原稿と後世への影響──全集編集の現状

1957年(昭和32年)、大川周明は71歳でその波乱に満ちた生涯を閉じます。しかし、彼の思索の旅は、死の直前まで終わることはありませんでした。彼の死後、書斎からは多数の未刊原稿や書きかけの草稿が発見されており、最晩年まで尽きることのなかった研究への情熱を物語っています。その膨大な著作と思想の全貌を後世に伝えようと、彼の死後、1961年から十数年をかけて『大川周明全集』(全7巻)の編纂(へんさん)が進められました。この全集は、彼の思想を多角的に研究するための基礎資料として、今日でも多くの研究者に利用されています。アジア主義の思想家、国家社会主義の運動家、そして日本におけるイスラーム研究の先駆者。大川周明は、時代によって様々な顔を見せ、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい評価に晒(さら)され続けてきました。しかし、彼が生涯をかけて問い続けた「日本とは何か」「アジアはいかにあるべきか」「人間はいかに生きるべきか」という問いは、その重みを失うことなく、現代を生きる私たちにも、静かに、そして鋭く語りかけてくるのです。

他者のまなざしに映る大川周明という人物像

松本健一『評伝・大川周明』が描く思想の全貌

大川周明という、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物の全体像を、特定のイデオロギーのレッテルを貼らずに描き出そうとした画期的な試みが、思想評論家・松本健一による『評伝・大川周明』です。この大著は、大川を単なる「右翼の黒幕」といった一面的なイメージから解放し、近代日本が抱えた矛盾と生涯をかけて格闘した一人の「知識人」として捉え直しました。松本は、大川のアジア主義から国家社会主義、そして晩年のイスラーム研究に至るまで、一見すると脈絡のないように見える思想の遍歴を丹念に追い、その根底に流れる一貫した論理と情熱を明らかにしようと試みます。そこから浮かび上がるのは、西洋近代文明の行き詰まりを予見し、それに代わる新たな普遍的価値を、日本の伝統やアジア、イスラームの世界に求め続けた、孤独な探求者の姿です。この評伝の登場によって、大川周明は単なる歴史上の「怪物」ではなく、その苦悩と模索を共感をもって理解すべき、複雑で多面的な思想家として、再び私たちの前に姿を現したのです。

『大アジア主義』『イスラームと天皇のはざまで』の主張整理

松本健一の評伝が示した大川像の多面性は、その後の研究でさらに様々な角度から光が当てられていきます。例えば、評論家・関岡英之の『大川周明の大アジア主義』は、大川のアジア主義思想を、現代のグローバリズムに対抗する「反米愛国」の思想として再評価し、現代日本の進むべき道を考える上での重要な思想的遺産として位置づけています。これは、大川を何よりもまず「政治思想家」として捉える視点です。一方で、宗教学者・臼杵陽(うすきあきら)による『大川周明―イスラームと天皇のはざまで』は、全く異なる光を当てます。この本は、大川の思想の核心を、彼の生涯を貫く「宗教性」に見出します。そして、彼が最終的にイスラームへ深く傾倒していった過程を、日本の伝統的な天皇観との緊張関係の中で読み解こうと試みます。こちらは、大川を「宗教思想家」として捉える視点と言えるでしょう。このように、同じ大川周明という人物を扱いながらも、論者によって「政治」の側面が強調されたり、「宗教」の側面が前景化されたりするのです。

エリック・ヤッフェ『狂気の残影』に見る晩年の人物像

大川周明という人物の複雑さは、海外の研究者をも惹きつけています。アメリカ人ジャーナリスト、エリック・ヤッフェの『大川周明と狂気の残影』は、特に東京裁判で見せた彼の「狂気」の謎に正面から挑んだノンフィクションです。ヤッフェは、当時の医療記録や関係者の証言を丹念に取材し、大川の狂気が果たして本物だったのか、それとも歴史を嘲笑(ちょうしょう)するための壮大な演技だったのかを追求します。この本が興味深いのは、単に「狂気」の真相を探るだけでなく、その後の大川の人生を丁寧に追っている点です。ヤッフェの筆を通して、私たちは思想家や運動家といった公的な顔の裏にある、家族との穏やかな日常や、ひたすらクルアーンの翻訳に没頭する晩年の大川の姿を知ることができます。思想の巨人、狂気の知識人、そして一人の家庭人。様々な他者のまなざしを通して見えてくるのは、どの単一のイメージにも収まりきらない、どこまでも多角的で、矛盾をはらんだ、一人の人間の奥深い姿なのです。

大川周明という巨大な問い

この記事では、思想家・大川周明の波乱に満ちた生涯を、その原点から晩年のイスラーム研究、そして後世の評価に至るまで、多角的に追ってきました。

アジアの解放を夢見た理想主義者は、やがて国家改造を志す行動家となり、五・一五事件への関与で罪に問われます。戦後はA級戦犯として裁かれながらも「狂気」によって免訴され、その果てに日本におけるクルアーン翻訳の金字塔を打ち立てました。彼の生涯は、まさに近代日本の希望と挫折、その光と影のすべてを体現しているかのようです。

大川周明を「右翼の黒幕」という一つの言葉で片付けるのは簡単です。しかしその奥には、西洋近代への根源的な問いと、日本の進むべき道への真摯な模索がありました。彼の思想が持つ理想と危うさの両面を知ることは、歴史上の人物をレッテルで判断するのではなく、その複雑さを丸ごと受け止めることの重要性を教えてくれます。大川周明という人物は、今なお「日本とは何か」を私たちに問い続ける、巨大な存在なのです。

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