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新海竹太郎の生涯:騎馬像と《ゆあみ》に込めた美の哲学

こんにちは!今回は、日本近代彫刻の先駆者、新海竹太郎(しんかい たけたろう)についてです。

もともとは仏師の家に生まれ、軍人としての道を歩みながら、馬の木彫がきっかけで彫刻の世界へ――という異色の経歴を持つ新海。西洋で鍛えた技術と日本的情緒を融合させた作品は、明治・大正期の日本に革新をもたらしました。

《ゆあみ》や数々の騎馬像、そして名だたる後進たちを育てた教育者としての顔まで、彼の生涯には彫刻界のすべてが詰まっています。そんな新海竹太郎の波瀾万丈の人生と、彼が遺した芸術の足跡をひもといていきましょう。

目次

彫刻家・新海竹太郎の原点——仏師の家に生まれて

山形の仏師家系に育った少年時代

1868年2月、戊辰戦争のただなかに新海竹太郎は山形市十日町に生まれました。父・新海宗松(のち宗慶)は黒木華郷の三男として生まれ、後に仏師として山形で活躍しました。竹太郎はその宗松の長男として、家業のただなかで育ちました。木の香に満ちた家屋、日々静かに刻まれる彫刻音。父の背を見ながら成長した竹太郎にとって、彫刻はすでに「芸術」である以前に「生活」そのものであったと考えられます。

山形の気候、とりわけ雪深い冬は、屋内での作業を中心とした暮らしを強いられました。しかし、それこそが感性を培う静謐な時間でもありました。降り積もる雪と静かな工房の空気のなか、父の手元で仏像が生まれていく過程を見つめる日々。そうした環境が、幼い竹太郎の中に素材と形に対する特別な感覚を育てていったことは想像に難くありません。

木と遊び、木に学ぶ——如意輪観音の反花制作

明治10年、竹太郎が9歳(数え10歳)のとき、初めて父とともにひとつの仏像制作に関わる機会を得ました。それは如意輪観音菩薩坐像の反花部分。仏像の台座にあたる部分の装飾であり、単なる彫刻ではなく、構造と意匠の両面が求められる箇所です。この制作は父の導きのもとで行われたものですが、竹太郎にとっては単なる模倣ではない“自分の手で形を与える”初めての体験であったといえるでしょう。

当時の竹太郎が感じた木の硬さ、刃を入れたときの手応え、完成後に父が頷いた小さな承認。そうした一連の体験は、職人技の基礎に触れると同時に、彫刻という行為そのものに内在する魅力を感じ取る契機となりました。遊びの延長ではない、木を相手にすることの厳しさと楽しさ。その最初の一歩が、この反花制作だったのです。

地域文化と家業が育んだ造形美の素地

山形市は古くから仏教と工芸が生活と結びついた町でした。市内の寺社には、地域の仏師たちの手による装飾や彫像が多く残され、祭礼や信仰行事には彫刻的要素が自然と溶け込んでいました。こうした文化のなかで育った竹太郎にとって、「形を与えること」は特別な行為ではなく、地域のなかで生きていくための一種の言語でもありました。

父・宗松の工房には、地域からの注文が絶えることがなく、依頼に応じて仏像を造るという実践的な職人の姿が常にありました。その姿を傍らで見つめることができた竹太郎は、技術だけでなく、相手の思いや信仰を形にするという仏師の役割を、早くから理解していた可能性があります。素材と向き合い、人の心を読み取り、それを形にするという素地は、この山形という土地と家業に深く育まれていったのです。

新海竹太郎、軍人から彫刻家へ転じた理由

近衛騎兵としての日々と形へのまなざし

新海竹太郎は、1886年に18歳で山形から上京します。その2年後の1888年12月22日、徴兵により近衛騎兵大隊に入営しました。近衛騎兵は天皇や皇族の護衛を任務とする精鋭部隊であり、厳格な規律と鍛錬が求められる環境でした。彫刻家への道とは一見無関係に思えるこの経験こそが、後の彼の表現に密かに影響を与えていきます。

騎兵として馬に接し、その動きや構造を日常的に観察するなかで、竹太郎のなかには「形にひそむ力」を捉えるまなざしが育まれていきました。仏師の家に生まれ、木彫に親しんできた彼にとって、その視線は自然なものであったともいえます。軍務のなかであっても、目に映る対象を「彫るに値するもの」として捉え始めていたのかもしれません。

在隊中の木彫が示した新たな可能性

1891年11月、竹太郎は満期除隊を迎えます。その在隊中、手すさびに彫った木彫の馬がひとつの転機となりました。この作品は、近衛騎兵大隊の上官であった北白川宮能久親王の目にとまり、高く評価されたと伝えられています。仏師の家で育ち、感覚として培ってきた造形力が、偶然にもこのようなかたちで注目を集めたことで、竹太郎は新たな進路を明確に意識するようになります。

この経験が、彫刻という世界への扉を開く決定的な契機となりました。そして後年、竹太郎は1896年に軍の依嘱によって北白川宮能久親王騎馬像の原型制作を開始します。軍歴と創作が再び交錯するこの仕事へとつながる伏線が、すでにこの時点で生まれていたのです。

彫刻への道を歩み始めた決断の時

除隊直後、竹太郎は彫刻家・後藤貞行に師事します。自身の感覚だけに頼らず、技術と理論を体系的に学ぶための選択でした。さらに後藤の指導のもと、高村光雲が率いた楠木正成像の制作にも助手として加わり、より本格的に彫刻の世界に身を投じていきます。

軍での経験は、単に過去の一章ではありませんでした。馬の筋肉の緊張、騎乗者の重心、装備品の構造。それらは竹太郎の記憶と身体に刻まれ、後の造形に確かな輪郭を与えることになります。仏師の家に育ち、軍人として勤め、そこから自らの意志で彫刻家の道を選び取ったこの一連の流れが、新海竹太郎という作家の骨格をかたちづくっていったのです。

師との出会いが新海竹太郎を彫刻家へ導いた

後藤貞行と楠木正成像の制作に挑む

1891年11月、満期除隊を迎えた新海竹太郎は、直ちに彫刻家・後藤貞行のもとに入門しました。木彫馬が高く評価された経験を経て、彼は本格的な修業の必要性を強く感じていたのです。後藤の工房では、記念碑や銅像といった大型作品の制作が進められており、弟子たちは実際の制作現場を通じて鍛えられていきました。

1892年から翌年にかけて、新海は後藤の助手として「楠木正成像」の制作に参加します。これは住友家から東京美術学校に依頼された国家的記念像で、主任彫刻家は高村光雲。新海は、後藤が担当した馬の部分の制作に関わり、細部の仕上げや形状調整などを担いました。木彫原型は1893年に完成し、銅像は1900年7月に皇居外苑(二重橋外)に設置されました。軍歴と木彫の感覚を併せ持つ新海にとって、ここでの経験は職業彫刻家としての実感を得る初の場であり、また、自身の資質が活きる手応えを感じる転機でもあったのです。

浅井忠・小倉惣次郎から学んだ絵と形の技法

後藤貞行のもとで彫刻の骨格を学びつつ、新海は造形を成り立たせる絵画的構成にも強い関心を寄せていきます。そのなかで出会ったのが、洋画家・浅井忠の講義でした。浅井は東京美術学校において透視図法や幾何画法を教え、『習画帖』(1882年)といった教科書も編んでおり、新海はこれらを通じて「形を構築する視点」を獲得していきました。見ることは、写すことではない。形を読み解く観察と構成力が、彫刻の奥行きを形づくるという自覚が芽生えていったのです。

加えて、新海は小倉惣次郎のもとで塑造を学びました。粘土を使った造形は、木彫と異なる柔軟性を要求する技法であり、ここで培った有機的なフォルム感覚は、のちの裸体像や群像作品に確実な影響を与えることになります。素材の特性を理解し、空間に“肉づけ”する感覚は、小倉の教えを通じて深く身体に染み込んでいったのです。

彫刻の本質を求めた修業と内面の深化

この修業期、新海竹太郎は、技術の習得を超えた「内的彫刻観」の深化を経験していきます。父から受け継いだ仏師の感覚、軍人として見てきた構造と緊張、そして後藤・浅井・小倉という三師から受け取った多様な視点。それらは彼の内面で静かに繋がり合い、「何を彫るか」よりも「なぜ彫るか」を問う契機となっていきました。

浅井忠が説いた“形を構築する”構成意識、小倉惣次郎が体得させた“素材に即した表現”の重要性、そして後藤貞行が示した“職人としての手の力”。それぞれの師の教えが新海の中に積層し、単なる模倣や技巧から離れた「自分のかたち」を模索する下地がつくられていきます。修業は単なる修練の時間ではなく、表現の意味を問い、選び取るための精神の旅路だったのです。

新海竹太郎のヨーロッパ留学と芸術的飛躍

ベルリン美術学校での学びとヘルテルの教え

新海竹太郎は1899年、文部省からの派遣留学生としてドイツ・ベルリン美術学校へと渡ります。30代前半での留学でしたが、既に国内での制作経験と彫刻観を持っていた彼にとって、それは“学ぶ”というより、“問い直す”旅の始まりでした。留学先では彫刻家レオポルト・ヘルテルに師事。ヘルテルは古典主義に立脚しながらも、形の構造と精神性を重視する教育で知られていました。

竹太郎が受けた指導は、単なる技巧の伝授にとどまらず、「なぜその形なのか」「なぜその動きなのか」といった彫刻の背後にある論理と感情の統合を重んじるものでした。たとえば人体の構造を追う写実においても、骨格や筋肉を超えて、姿勢が語る心理や表情が宿す意思までをも見抜こうとする視線。それは、過去の仏像や軍馬像の経験とはまったく異なる思考の領域だったのです。新海はここで、形とは構造であり、感情であり、同時に文化の翻訳装置であるという理解に至ります。

古典彫刻との邂逅がもたらした価値観の転換

ベルリン滞在中、新海はドイツ国内のみならずフランスやイタリアにも足を運び、多くの古典彫刻と対面しました。とりわけローマやフィレンツェで目にしたギリシャ・ローマ彫刻の数々は、彼に衝撃と再発見をもたらします。それらの彫像は、装飾性や技巧を超えて、形そのものが語る力を持っていたのです。筋肉の動き、手のひらの開き方、衣のひだ。それらが意味を超えて存在していたことに、竹太郎は強い感銘を受けました。

これまで彼の中にあった「彫刻は伝えるための手段」という考え方が、この邂逅によって揺さぶられます。彫刻は言葉を超えて語る存在であり、そこに理由づけを求める必要はないのではないか——。そうした価値観の転換が、彼の造形観に新たな地平を開いていきました。古典を“模倣”するのではなく、その“存在の質”を掴み取る。視ることで学び、対話することで自らの美意識を問い直す。ヨーロッパ滞在は、新海にとってまさに形の本質に肉迫する時間だったのです。

帰国後の作品に現れた革新と洗練された様式

1902年の帰国後、新海竹太郎の彫刻には明らかな変化が現れます。構図における安定感、空間の取り方、細部の処理、そして何より“形に語らせる”という静かな強さ。彼がベルリンでの学びと古典彫刻との対話から獲得した感覚は、作品全体に洗練された印象を与えるようになっていました。日本的な木彫の精神性を残しながらも、構築性に富んだ洋風のボリューム感が加わり、様式としても独自の軸を確立し始めます。

また、ただ単に“洋風に傾倒した”のではなく、日本の伝統的造形感覚と西洋的構造美のあいだに新たな関係を築こうとする姿勢が随所に見られます。それは彫刻の“表面”ではなく、“芯”をどう組むかという探究であり、日本と西洋の“接点を形で表す”という試みでもありました。ベルリン美術学校での思索と、古典との邂逅が、日本の地で確かなかたちとして実り始めたのです。

新海竹太郎と太平洋画会での美術運動

吉田博らと創設された太平洋画会と新海竹太郎の参加

1902年、新海竹太郎はヨーロッパ留学から帰国すると同時に、創設されたばかりの太平洋画会に会員として加わりました。この団体は1901年から1902年にかけて、吉田博、満谷国四郎、中川八郎、石川寅治、大下藤次郎、丸山晩霞らによって創設されたもので、日本における洋画の振興と、美術教育の充実を目指した新しい試みでした。新海は創設には関与していなかったものの、その直後から中心的な彫刻家として活動を展開していきます。

のちに1905年、中村不折が留学先のパリから帰国して太平洋画会に加わると、組織としての厚みがさらに増し、画家・彫刻家のジャンルを越えた協働体制が形成されていきます。新海はこの流れのなかで、彫刻部門の代表的存在として、展覧会の構成や教育機関設立など、実務にも関わるようになります。太平洋画会は新海にとって、自らの表現を深めるだけでなく、他ジャンルとの共鳴を体験する重要な舞台となりました。

洋画と彫刻が交錯する表現のフィールド

太平洋画会では、洋画と彫刻が並列に扱われ、相互に刺激を与え合う創作環境が築かれていました。従来、美術団体では絵画が主軸とされ、彫刻は周縁に置かれがちでしたが、この会では「造形芸術として何を成すか」が根本に据えられていたのです。新海はその環境を活かし、彫刻作品を視覚芸術のひとつとして展示空間に組み込み、絵画との視覚的対話を試みました。

展覧会では、絵と彫刻が共存する構成が意図され、新海の作品もまた、その構図や形状において絵画的な視点を取り入れるようになります。遠近感や空間意識、視線の導線といった要素は、彼の彫刻に新たな次元をもたらし、純粋な立体物以上の“場との関係性”を意識した作品へと進化していきました。この実験的な環境こそが、近代日本の彫刻表現に新しい潮流をもたらすひとつの礎となっていったのです。

会務委員・彫刻部主任として団体を支えた新海の役割

1904年、太平洋画会は東京・谷中清水町に研究所を設立。新海はこの機関の彫刻部主任および会務委員として、後進の育成と創作環境の整備にあたります。研究所では、若手彫刻家たちに対して素材の扱いから造形の基礎までを系統的に指導し、また自らも教えることで学ぶ姿勢を崩さずに活動を続けました。彫刻の教育を“職人技術”から“芸術表現”へと移行させる新しいモデルが、ここで試みられていたのです。

一方で、会の運営にも携わり、展覧会の構成、審査、教育内容の検討など、多方面にわたって責任を担っていました。個人としての創作と、団体の方針決定とが交錯するなかで、新海は常に彫刻の本質と向き合い、場に対する責任感を創作の原動力に変えていきます。太平洋画会は彼にとって、彫刻家としての成長を促すと同時に、教育者・運営者としての視野を広げる“共同の場”であり続けたのです。

新海竹太郎の代表作に込められた時代の息吹

裸婦像《ゆあみ》が語る写実と気品

新海竹太郎の代表作《ゆあみ》(1907年)は、日本近代彫刻における裸体像表現の成熟を示す作品として知られています。湯に身を沈める一瞬を捉えたこの木彫裸婦像は、裸体を主題としながらも、いやらしさとは無縁の静けさと精神性を帯びています。木の質感を活かしながら造形された肌の表面や、微妙な重心移動の描写が、身体に内在する動きや感情の起伏を慎ましやかに伝えます。

新海がこの作品に込めたのは、仏師としての精緻な手技と、ベルリンで学んだ人体構造への科学的理解の融合でした。特に、背を丸めた姿勢や脚の配置には、日常的な動作を彫刻として成立させる緻密な観察と設計が見て取れます。その一方で、目線や表情といった装飾性は意図的に排され、むしろ“無言で語る姿”として造形されています。《ゆあみ》は、西洋彫刻の形式に寄りかかることなく、日本人の身体性と精神性をひとつのフォルムに結晶させた新海の到達点といえるでしょう。

騎馬像に宿る国家の意志——《北白川宮》《大山巌》

新海竹太郎の彫刻家としての名を全国に広めたのが、《北白川宮能久親王騎馬像》(1903年除幕)と《大山巌元帥騎馬像》(1919年除幕)の二作です。いずれも国家的記念事業として制作された大型騎馬像であり、明治日本における記憶の形成、視覚的国家表象として重要な役割を担いました。

《北白川宮》は1896年に軍の依嘱を受け、1899年に原型を完成、1902年に鋳造され、翌1903年に近衛師団前(現在の皇居外苑)に設置されました。馬上にある親王の姿には威厳が漂い、馬の前脚の動きや人物の構えが空間に緊張感を与えています。《大山巌》は1918年に原型制作、翌1919年11月3日に国会前庭で除幕されました。こちらではより写実的な身体表現と、将軍としての統率力を象徴する構成が重視されており、馬と人との一体感が際立っています。

これらの作品に通底するのは、新海自身の軍歴に由来する、馬という存在への身体的・構造的理解です。ただ写実するのではなく、彫刻としていかに記憶されるべきかを設計した構図は、当時の視覚文化の中で「国家と個」の関係を象徴する役割を果たしました。記念碑であると同時に、「時代の輪郭を彫る」意志をもった造形なのです。

木彫《一致》《煙草一服》に刻まれた日本的精神

新海竹太郎が記念彫刻と並行して追究していたのが、木彫による生活と労働の瞬間の造形です。その代表が、《一致》(1911年)と《煙草一服》(制作年不詳・1910年代半ばと推定)です。前者は褌姿の男性二人が向き合い、身体を張って協力する姿を表現し、後者は作業の合間に腰を下ろし一服する男の背中を通して、静かな疲労と安堵を描いています。

《一致》では、力を合わせるという行為が身体の傾斜、腕の張り、足の踏ん張りに込められ、言葉を使わずして「協働の精神」を伝えることに成功しています。一方の《煙草一服》は、肩の落ち方や足の投げ出し方といったわずかな要素から、労働後の休息という時間の重さを感じさせます。どちらも、仏師出身ならではの“かたちで語る”造形手法が発揮された作品です。

こうした木彫作品は、新海の彫刻が決して国家や制度のためだけにあったのではなく、「人間の営み」そのものに深く寄り添っていたことを示しています。静かで控えめながら、かたちの内に豊かな物語を孕んだこれらの彫刻は、明治・大正という激動の時代における“庶民の記憶”をも封じ込めた、もうひとつの記念碑といえるでしょう。

教育者・新海竹太郎のまなざしと弟子たち

太平洋画会研究所と教育活動の広がり

1904年、太平洋画会研究所が東京・谷中清水町に開設されると、新海竹太郎はその彫刻部門における指導を担う立場として活動を始めました。この研究所は、展覧会活動だけでなく、美術教育を担う場としての機能を併せ持ち、若手彫刻家の育成においても重要な拠点となります。1905年には谷中真島町に移転し、教育体制がさらに整えられていきました。

当時の新海は、後藤貞行らから学んだ構造的視点を自身の指導にも活かし、木彫・塑造を中心とした写実的表現の指導にあたっていました。太平洋画会研究所での指導を通じて、新海は自らの彫刻観を実作と教育の双方に展開し、のちの日本近代彫刻に多くの影響を与えていくことになります。

1929年には、同研究所は太平洋美術学校と改称され、中村不折が初代校長に就任。教育機関としての性格がさらに明確化されました。この組織的変化により、新海の教育活動もより制度的な位置づけを得ることとなり、彼の指導は単なる師弟関係の枠を超えて、近代彫刻教育の一翼を担うものとなっていきます。

若き彫刻家たちへの影響——朝倉文夫と中原悌二郎

太平洋画会研究所では多くの才能が育ちましたが、特に後年に名を成す彫刻家たちの中に、新海竹太郎の影響を受けた人物が複数います。朝倉文夫(1883–1964)は、東京美術学校での学びのかたわら、1900年代初頭に太平洋画会研究所でも学んだとされています。直接的な師弟関係を示す明確な証拠は限られるものの、研究所での経験が朝倉にとって彫刻的思考を深める契機となった可能性は高いと考えられます。

一方で、中原悌二郎(1888–1921)は、研究所にて新海竹太郎に師事したことが複数の史料で確認されています。中原はその短い生涯の中で《若きカフカス人》などの名作を残しますが、師である新海から塑造の基本と形態感覚の重要性を学び、写実と精神性の両立を志向する彫刻家として成長していきました。

こうした弟子たちは、新海の技術的な指導にとどまらず、彫刻における「かたちと意味の交差点」に意識的であることを学んだと考えられます。その教育のあり方は、次世代に深く影響を与える土壌となっていきました。

彫刻教育における実践と継承

新海竹太郎の教育活動は、作品の表層的な模倣に終始するものではありませんでした。研究所での教育は、塑造・木彫といった実技に基づきながらも、対象をどう観察し、どのように空間に定着させるかという、思考と実作の往還を重視するものでした。

とりわけ、堀進二(1889–1980)は1906年に研究所に入学し、新海から直接指導を受けたことが記録されています。堀はその後、東京高等工業学校などで教鞭を執り、新海から受け継いだ彫刻観を教育の場に広めていくことになります。彫刻という表現を支える構造的な考え方は、こうした弟子たちを通じて次の時代に受け継がれていったのです。

また、1929年の太平洋美術学校への改称と中村不折校長の就任は、新海の教育者としての活動に新たな制度的枠組みを与えるものでした。この中で彼が果たした役割は、単に一作家としての業績にとどまらず、「教えること」そのものを日本近代彫刻の基盤に据える重要な意義を持っていたといえるでしょう。

晩年の新海竹太郎と日本近代彫刻への遺産

帝室技芸員・美術院会員としての名誉と責務

大正六年(1917年)6月11日、新海竹太郎は帝室技芸員に任命され、その造形活動と教育的貢献が皇室に認められました。さらに、大正八年(1919年)には帝国美術院会員に選出されます。帝室技芸員とは天皇の意思に基づいて技芸家に与えられる称号であり、帝国美術院会員は美術を国の文化として支える中心的役割を担う立場でした。

これらの栄誉は、彫刻家としての彼が国家的プロジェクトに深く関与し、教育者として若手を育ててきた実績を裏づけるものです。たとえば、北白川宮能久親王騎馬像や大山巌元帥騎馬像といった国家記念彫刻に加え、1904年からの教育活動など複合的な貢献が評価されています。彼にとってこれらの任命は単なる名誉にとどまらず、彫刻を社会の中心へと引き上げる責務の始まりでもありました。

日本彫刻の骨格を築いた功績の再評価

新海竹太郎は1868年2月27日生まれ、1927年3月12日に没しました。仏師としての家業、1888年に近衛騎兵大隊へ入営、1891年に除隊して後藤貞行に師事、1899年からベルリンで学び、1902年に帰国した後は創作と教育にとどまらず、新しい美術機関づくりを通じて彫刻の制度化に寄与しました。

晩年以降、特に1970年代以降は再評価の機運が高まり、1978年には東京国立近代美術館で回顧展が開かれました。また、専門誌『彫刻評論』でも複数の論考が掲載され、新海が技術や思想の両面から日本近代彫刻の基盤構築に果たした役割が改めて注目されています。彼が遺した作品や制度整備への取り組みは、「時代とともに形は変わるが、核となる思想は変動しない」というものを証し続けています。

死後の顕彰と追悼のかたち

新海竹太郎は1927年3月12日に没しました。弟子や後継者によって追悼のために石膏レリーフや水彩肖像などが制作され、展覧会や記念誌で紹介されました。これらは彼の創作姿勢や教育思想を記録としてとどめる試みであり、彫刻のみならず教育者としての道筋を視覚化する意味を持っています。

彼自身のデスマスクは確認されていませんが、追悼制作物が「師を形で記憶し、次代へ問いを託す場」として機能してきたことは確かです。そこには完成された像ではなく、鑑賞者に余地を与える形の余白が存在します。新海が作品制作の末に到達しようとした問いかけ—「形とは何か」—は、その追悼制作物のなかでも静かに生き続けているのです。

新海竹太郎という存在の重なり

新海竹太郎の歩みは、彫刻家としての創作にとどまらず、教育者、制度設計者としての姿を併せ持つ、重層的なものです。仏師の家に生まれ、軍隊経験を経て、彫刻という道を選んだ彼は、ただ物を彫るのではなく、時代と対話し、形を通じて思想を伝えることに心血を注ぎました。海外で学んだ近代技法を日本に根づかせ、制度や教育の土壌づくりにも尽力した姿勢は、多くの後進に影響を与えています。その足跡は、国家的記念像としての威厳と、個人教育に込められた情熱の両方に表れています。新海竹太郎という存在は、日本近代彫刻の歴史を単につくっただけでなく、その深みに問いを投げかけ続けた、希有な存在だったのです。

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