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大杉栄とは誰?平民社から甘粕事件まで、無政府主義に生きた男の生涯

こんにちは!今回は、明治・大正期の日本を代表するアナキスト・思想家・作家、大杉栄(おおすぎさかえ)についてです。

社会主義に目覚め、言論と行動で国家権力に挑み続けた男は、恋も思想も“自由”に生き抜きました。赤旗事件、日蔭茶屋事件、甘粕事件——数々の衝撃的事件の中心にいた彼の38年の生涯は、まさに嵐のよう。現代にも通じる「個人の自由」を貫いた生き様をひも解いていきます。

目次

少年・大杉栄の原風景と軍人教育との衝突

軍人一家に生まれた少年時代

大杉栄(おおすぎさかえ)は、1885(明治18)年1月17日、当時はまだ愛媛県に属していた那珂郡丸亀(なかのごおりまるがめ、現在の香川県丸亀市)で生を受けました。父は、天皇を護衛するエリート部隊である近衛(このえ)の少尉・大杉東(あずま)。軍人を輩出する家系に生まれた栄に、周囲が輝かしい軍人としての未来を期待したのは当然のことでした。しかし、この少年の内面には、定められたエリートコースとは全く別の世界が広がっていました。彼は、厳格な「規律」を体現する父のもとで育つ一方で、故郷・丸亀の豊かな自然の中に「自由」を見出します。夢中になって昆虫を追い、植物を心ゆくまで観察する時間。そこには、階級も命令も存在しません。なぜ彼は、これほど自然に心惹かれたのでしょうか。それはおそらく、軍人一家という息苦しさの中で、ありのままの生命が躍動する世界こそが、人間本来の姿だと肌で感じていたからに違いありません。この、規律と自由という両極端な世界での経験が、後にあらゆる権威に反発し、生命の解放を叫ぶことになる彼の思想の、まさしく原点となったのです。

新潟・新発田で芽生えた反骨心

父の転勤に伴い、少年時代の大杉は14歳になるまでを新潟県の城下町・新発田(しばた)で過ごします。新しい環境は、多感な彼にとって、自らと社会との関係を問い直す大きなきっかけとなりました。中央から来た軍人の息子という立場は、時にやっかみの対象となり、地元の子供たちとの間に見えない壁を作ります。彼はここで、個人が「よそ者」として集団から疎外されるという経験をしました。なぜ、みんなと同じでなければいけないのか? なぜ、個人は集団の論理に従わなければならないのか? この素朴な、しかし根源的な疑問が、彼の心に反骨精神の炎を灯します。その矛先は、学校の教師という身近な「権威」にも向けられました。彼は、教師が振りかざす一方的な正しさや、生徒を型にはめようとする圧力に、黙って従うことができませんでした。理不尽だと感じれば、相手が誰であろうと堂々と自分の意見を主張する。その姿勢は、単なる反抗ではなく、彼が大切にしようとした「個人の尊厳」を守るための戦いだったのです。この新発田での経験を通じて、権威に盲従することを拒絶し、自らの頭で考え、行動するという、彼の生涯を貫く生き方の土台が築かれていきました。

陸軍幼年学校での反発と退学処分

1899(明治32)年9月、14歳を過ぎた大杉は、エリート軍人への登竜門である名古屋陸軍地方幼年学校に入学します。しかし、個人の尊厳を何よりも重んじる彼と、個性を圧殺し絶対服従を叩き込む学校の体質は、はじめから相容れるものではありませんでした。彼にとってそこは、上官の命令に思考停止で従うことを強いる、理不尽な世界そのものでした。そして1901年、彼の運命を決定づける事件が起こります。同期生との喧嘩のさなか、激昂した相手が振りかざしたナイフによって、大杉は胸を深く刺されるという大怪我を負ったのです。誰もが、彼を同情すべき被害者だと思うでしょう。しかし、軍隊という組織の論理は、世間の常識とは全く異なりました。なぜ、被害者である彼が罰せられなければならなかったのか。それは、組織の「和」を乱す「騒動を起こした」こと自体が、個人の理非曲直よりも重い罪と見なされたからです。結局、彼はこの事件をきっかけに退学処分を言い渡されます。この理不尽極まりない結末は、彼に国家や軍隊という権力組織への根本的な不信を植え付けました。しかし同時に、敷かれたレールから外れたことで、彼は初めて、自らの意志で人生を歩み出す「自由」を手に入れたのです。これは挫折ではなく、思想家・大杉栄が誕生する、必然の船出でした。

学問と信仰を追い求めた青年期の大杉栄

東京外国語学校で開かれた世界

軍隊という道を絶たれた大杉栄。彼が次に見出した希望の光は、未知の世界へとつながる「外国語」でした。1903(明治36)年、彼は東京外国語学校(現在の東京外国語大学)のフランス語科に入学。それは、閉鎖的な規律の世界から、無限に広がる知の世界への大きな飛躍でした。なぜ彼は、数ある学問の中から語学を選んだのでしょうか。それは、言葉こそが既存の国家や権威の枠組みを超え、人間精神を解放する翼だと直感したからかもしれません。彼はフランス語の習得を通じて、西洋の自由な思想や文学に触れ、視野を爆発的に広げていきます。そして1905(明治38)年頃、彼は雑誌『直言』の記事をきっかけに、国際補助語・エスペラントの存在を知ります。あらゆる国家や民族の壁を乗り越え、世界中の人々が平等な立場で対話する。この普遍主義の理想は、理不尽な権力構造をその肌で知る彼の魂を強く揺さぶり、後の思想形成に大きな影響を与えていくことになるのです。

海老名弾正のもとでの信仰と洗礼

旺盛な知的好奇心を満たす一方で、大杉の心には依然として「何を信じて生きるべきか」という根源的な問いが渦巻いていました。学問だけでは埋められない精神的な渇きを癒すため、彼は宗教、とりわけキリスト教の世界に救いを求めます。彼が門を叩いたのは、当代きってのオピニオンリーダーであった牧師・海老名弾正(えびなだんじょう)が率いる、日本組合本郷基督教会(にほんくみあいほんごうキリストきょうかい、現在の弓町本郷教会)でした。海老名の説く、社会実践を重んじ、個人の人格完成を目指すという力強いメッセージは、確固たる道徳的な支柱を求めていた青年の心を強く捉えました。軍隊で否定された「個人の尊厳」が、ここでは神聖なものとして語られていたのです。その傾倒は真摯なもので、同年10月には洗礼を受け、正式な教会員となりました。この時期の彼は、社会の変革を叫ぶ活動家ではなく、自らの生きる意味と魂の救済を、神の教えの中に純粋に追い求める一人の求道者でした。

信仰からの離反と新たな思想への模索

熱心なクリスチャンとして歩み始めた大杉でしたが、彼の探求心は、やがて教会の教えという枠組みの中に留まることを許しませんでした。なぜ、彼は一度は身を捧げた信仰から離れていったのでしょうか。その理由は、彼自身の思想的な深化にありました。彼が師事した海老名弾正の教えは、個人の人格を高めることで社会を善導し、最終的には国家とも調和していく側面を持っていました。しかし、大杉の目は次第に、個人の内面の問題だけでは解決できない、社会の構造そのものに潜む不正義へと向けられていきます。貧しい人々はなぜ貧しいのか。労働者はなぜ搾取されるのか。これらの問いに対し、「魂の救済」や「人格の向上」という答えは、彼にはあまりに無力なものに思え始めたのです。信仰が個人の救済を説く一方で、目の前には救われない人々がいる。この矛盾に気づいた時、彼はキリスト教の限界を感じずにはいられませんでした。社会の不正義の根源を断ち切るには、もっとラディカルな、社会そのものを根本から変革する思想が必要だ。この確信こそが、彼を信仰の道から離れさせ、次なる思想、すなわち社会主義へと向かわせる原動力となったのです。

社会主義に目覚めた大杉栄と平民社での実践

幸徳秋水との出会いと思想的転機

個人の救済を説くキリスト教に限界を感じ始めていた大杉栄。彼が次なる思想の光を求めていた1904(明治37)年、日本はロシアとの戦争に突入しました。挙国一致で戦争を賛美する空気の中、敢然と非戦を訴える新聞がありました。幸徳秋水(こうとくしゅうすい)や堺利彦(さかいとしひこ)らが発行する『平民新聞』です。その勇敢な姿勢に魂を揺さぶられた大杉は、彼らの活動拠点である「平民社」の門を叩きます。そこは、彼が探し求めていた理想郷のような場所でした。学者も職人も学生も、あらゆる身分の人々が対等な立場で集い、自由闊達に議論を交わしている。その中心にいた幸徳の、国家を恐れぬラディカルな思想と、人を惹きつけてやまない人間的魅力に、大杉は急速に傾倒していきます。幸徳が紹介する海外の多様な社会主義思想は、彼の知性を刺激し、やがて国家という権力装置そのものを否定する、より徹底した思想、アナキズムの存在へと彼を導いていくことになるのです。

赤旗事件と警察による弾圧

平民社での活動を通じて、大杉は思索家から行動する実践家へと着実に変貌を遂げていきました。そして1908(明治41)年6月22日、彼の名を世に知らしめる「赤旗事件」が起こります。社会主義者の出獄歓迎会の後、荒畑寒村(あらはたかんそん)や堺利彦、山川均(やまかわひとし)といった同志たちが、革命の象徴である赤旗を掲げて街頭に出たところを、警官隊が暴力的に鎮圧しようとしました。なぜ、旗を掲げただけでこれほどの弾圧を受けねばならなかったのか。それは、社会主義運動の台頭を恐れる国家権力が、彼らの存在そのものを押し潰そうとしていたからです。警官が同志から赤旗を力ずくで奪おうとした、まさにその時、大杉は敢然と立ちはだかりました。そして、腕力に訴える警官に対し、「その旗は我々の所有物だ」と、国家権力による理不尽な横暴に、法的な「所有権」を盾として真っ向から抵抗したのです。これは、彼の反骨精神が単なる感情的な反発ではなく、知性と論理、そして行動とが一体となったものであることを示す、象徴的な瞬間でした。

反権力運動への決意と長期投獄

赤旗事件の激しい抵抗により、大杉は他の同志たちと共に検挙され、裁判の結果、重禁固2年6ヶ月という厳しい実刑判決を言い渡されました。これが彼にとって初めての投獄体験ではありませんでした。1906年の東京市電運賃値上げ反対運動など、すでに数度の検挙・拘留を経験していたのです。しかし、今回の判決は、これまでの短期的な拘留とは全く意味合いが異なるものでした。それは、彼が「国事犯」、すなわち国家の秩序に歯向かう危険人物であるという、司法からの明確な烙印でした。この宣告は、彼に恐怖や絶望ではなく、むしろ反権力運動家としての揺るぎない「覚悟」を植え付けました。自分はもはや、社会の外部から体制を批判する者ではない。国家によって自由を奪われ、その矛盾を自らの身体で引き受ける「当事者」なのだと。この長期投獄は、彼の思想から一切の甘さをそぎ落とす、決定的な契機となります。そして、冷たい壁に囲まれた静かな監獄での日々が、皮肉にも彼の知性をさらに飛躍させる、新たな思索の舞台となっていくのでした。

獄中で深化する大杉栄の思想と言語習得

「一犯一語」の誓いとその背景

赤旗事件によって千葉監獄に投獄された大杉栄。鉄格子に閉ざされた独房は、彼の肉体の自由を無慈悲に奪いました。しかし、権力が彼の身体を縛ることはできても、その精神と知的好奇心までを縛ることはできませんでした。むしろ、この静かで過酷な環境こそが、彼の知性を異常なまでに研ぎ澄ませる特別な舞台となったのです。彼はこの逆境の中で、常人には到底思いもよらない、驚くべき誓いを立てます。それが「一犯一語(いちぱんいちご)」――すなわち、一度投獄されるたびに、一つの新しい外国語をマスターするという誓いでした。なぜ、彼はこのような奇妙な目標を掲げたのでしょうか。それは単なる気晴らしや自己満足ではありません。国家権力によって社会から隔離された彼にとって、語学の習得は、その国家の監視や論理の及ばない広大な世界へと精神を解き放つための、切実な実践だったのです。官憲には理解できない言葉で思索し、海外の同志と心を通わせる。それは、投獄という罰を、自らの成長の糧へと転化させてしまう、彼一流のユーモアと反骨精神の結晶でした。

多言語を操る方法と動機

「一犯一語」という誓いは立てたものの、教師も満足な辞書もない獄中で、一体どうやって新しい言語を習得したというのでしょうか。その方法は、彼の驚異的な集中力と独創的な学習法にありました。彼は、手に入れることのできるあらゆる活字を教材に変えました。キリスト教の伝道師が差し入れた各国語の聖書、古新聞の切れ端、雑誌の包装紙。彼はすでに習得していたフランス語の知識を足がかりに、イタリア語やスペイン語、ドイツ語、ロシア語といった言語の文法構造を類推し、パズルを解くように単語の意味を解読していったのです。その学習意欲を支えた動機は、単なる知識欲ではありませんでした。それは、世界中で起こっている革命の動きや、新しい思想を、翻訳を介さずに直接原語で理解したいという、活動家としての渇望でした。特に、彼が熱心に学んだ国際語・エスペラントは、国境や民族といった国家の枠組みを超えて人々が連帯するという、彼が理想とするアナキズムの世界像と完全に一致するものでした。彼にとって語学とは、国家の壁を乗り越え、世界中の同志と精神的に手をつなぐための、最強の「武器」だったのです。

翻訳による知の拡充と思想の発展

獄中で習得した言語能力は、大杉に新たな武器をもたらしました。それが「翻訳」です。彼は、限られた資料の中から、ヨーロッパの最先端の思想家の著作を見つけ出し、次々と日本語への翻訳を試みます。特に彼が惹きつけられたのは、ロシアの地理学者であり、アナキズムの理論的支柱でもあったピョートル・クロポトキンの思想でした。彼はその主著『相互扶助論』の一部を翻訳し、その思想の神髄に触れていきます。なぜ、翻訳という作業が重要だったのでしょうか。それは、単に言葉を置き換える行為ではなく、その思想家の論理を骨の髄まで理解し、自らの血肉とするための、最も深く、最も誠実な対話の形だったからです。ダーウィンの生存競争理論が社会に浸透する中で、クロポトキンが示した「生物は競争するだけでなく、互いに助け合うことで進化してきた」という相互扶助の思想は、大杉が目指すべき社会の具体的なビジョンを照らし出す光となりました。この獄中での地道な翻訳活動こそが、彼を単なる情熱的な活動家から、日本におけるアナキズム思想を体系的に語りうる、屈指の理論家へと飛躍させた、決定的な一歩だったのです。

大杉栄の恋と家族観──堀保子・神近市子との関係

堀保子と築いた家庭と運動の両立

長い獄中生活を終えた大杉栄を待っていたのは、彼の活動を理解し、献身的に支えてくれた女性、堀保子(ほりやすこ)でした。二人は正式な入籍はしないまま同棲を開始し、事実上の夫婦として家庭を築きます。それは、絶え間ない闘争に身を置く彼にとって、束の間の安らぎを得られる場所であったはずです。しかし、二人の生活は常に困窮を極めました。その日の糧さえ、保子が雑誌編集などで得るわずかな収入に頼るほかない。一方で大杉は、社会運動に身を投じては、たびたび検挙・投獄を繰り返す。家庭の安定を願う保子の切実な想いと、社会の変革のためには家庭さえも犠牲にすることを厭わない大杉の情熱。この両立不可能な二つの願いは、常に二人の間に緊張感を生んでいました。彼は保子を人間として愛しながらも、個人を縛る「家制度」や法的な婚姻関係を思想的に否定していました。この深刻な矛盾こそが、彼の家庭生活そのものを不安定にし、やがて新たな波乱を呼び込む土壌となったのです。

神近市子との情熱と日蔭茶屋事件

家庭生活の現実と、自らの思想とのギャップに苦しむ大杉。そんな中、彼は新たな出会いを重ねていきます。事実上の妻である保子、そしてすでに行動を共にする思想的同志・伊藤野枝という存在がありながら、彼はさらに、東京日日新聞の記者として活躍する知的な女性、神近市子(かみちかいちこ)に強く惹かれていきました。彼はこの複雑な四角関係を、旧来の道徳を打ち破る「自由恋愛論」の実践と位置づけ、全員に理解させようと試みます。しかし、その試みは、彼の思想的な理想とは裏腹に、女性たちの間に激しい嫉妬と憎悪の渦を巻き起こすだけでした。そして1916(大正5)年9月16日、この歪んだ関係は、ついに血塗られた破局を迎えます。神奈川県の旅館・日蔭茶屋(ひかげちゃや)で、嫉妬に狂った神近市子が、大杉の首を刃物で深く切りつけたのです。世に言う「日蔭茶屋事件」。この衝撃的なスキャンダルは、大杉の自由恋愛論がいかに人間の生々しい感情を無視した、観念の遊戯であったかを、残酷なまでに暴き出してしまいました。

恋愛と家族制度に挑んだ思想

日蔭茶屋事件は、単なる痴情のもつれとして、世間の格好のゴシップとなりました。しかし、この血生臭い事件の背景には、大杉栄の真剣な、しかしあまりに未熟な思想的挑戦がありました。彼の唱えた「自由恋愛論」の核心にあったのは、恋愛や結婚が、人が人を「所有」する制度と見なす旧来の道徳への徹底した反発です。彼は、個人を社会や家に縛り付ける一夫一婦制を批判し、人間は複数の他者を、それぞれ異なる形で同時に愛することができ、それこそが生命の可能性を無限に広げる「生の拡充」につながると信じていました。彼は自らの生々しい人間関係そのものを実験台として、この思想を証明しようとしたのです。しかし、現実は彼の理想を無残に打ち砕きました。この事件は、理論だけでは人の心を救うことも、導くこともできないという痛烈な教訓を、彼自身に突きつけました。この大失敗と挫折の経験こそが、彼の思想から観念的な甘さを取り除き、次なるパートナーとの関係を、より深く、より本質的なものへと昇華させていくための、避けては通れない試練となったのです。

伊藤野枝との共闘に見る大杉栄の思想と実践

思想的パートナーとしての伊藤野枝との出会い

日蔭茶屋事件という血塗られた破局は、大杉栄の自由恋愛論がいかに観念的で未熟であったかを、彼自身に痛感させました。しかし、この痛みを伴う大失敗こそが、彼に次なる関係性を築くための、避けては通れない教訓を与えます。その試練の末に、彼がたどり着いた究極のパートナーが、伊藤野枝(いとうのえ)でした。二人の出会いは事件より前でしたが、この破局を乗り越える中で、その関係は単なる同志や恋人といった言葉では表せない、より深く、本質的なものへと昇華していきます。なぜ、野枝は唯一無二の存在となり得たのでしょうか。婦人解放運動の旗手として、すでに名を馳せていた野枝は、因習に縛られることを誰よりも嫌う、強い自我と知性を持った女性でした。彼女は大杉の掲げる思想の輝きだけでなく、その裏にある人間的な弱さや矛盾をも含めて、すべてを理解し、受け止めることができる稀有な存在だったのです。そこにあったのは、一方的な思慕や献身ではなく、互いの知性に対する深い尊敬でした。二人は対等な立場で議論を戦わせ、時には互いを厳しく批判し合う、まさに魂の「共闘」関係を築き上げていったのです。

『近代思想』での発信と実践活動

大杉と野枝の強固なパートナーシップは、すぐに具体的な「行動」となって社会に発信されていきました。その最前線となったのが、二人が中心となって次々と立ち上げた雑誌メディアです。彼らは、雑誌『近代思想』や、その後継となる『文明批評』『労働運動』などを拠点に、まさに二人三脚で論陣を張りました。そこでは、アナキズムや労働問題、婦人解放といったテーマについて、二人の署名が並んで掲載されることも珍しくありませんでした。特筆すべきは、彼らが単に原稿を執筆するだけでなく、印刷所の選定から資金繰り、配布に至るまで、出版活動のほとんど全てを、志を同じくする少数の仲間たちと共に自らの手で行ったことです。なぜ、彼らはそこまでしたのでしょうか。それは、この実践そのものが、既存の資本主義システムや流通網から自立し、自分たちの思想を直接読者に届けようとする、アナキズム思想の具体的な表現だったからです。彼らにとって雑誌作りは、単なる言論活動ではなく、思想と行動と生活が分かちがたく結びついた「メディア運動」そのものだったのです。

家庭と思想を一致させた共同生活

大杉と野枝の関係が画期的であったのは、彼らがその思想を、自らの「家庭」という最も身近な場所で実践しようと試みた点にあります。二人は生涯、法的な婚姻関係を結びませんでした。彼らの共同生活は、旧来の家父長制的な支配・被支配の関係を完全に否定し、互いが経済的にも精神的にも自立した個人として尊重し合う、新しい家族の形を模索する壮大な社会実験の場でした。そこでは、家事や育児(野枝には連れ子がおり、大杉との間にも複数の子供が生まれる)においても、固定的な性別役割分業を押し付け合うことはありませんでした。彼らの家庭は、社会の最小単位である「コミューン(生活共同体)」であり、そこでこそ、人間が持つ生命の可能性を最大限に開花させるという「生の拡充」が実現されるべきだと考えたのです。もちろん、その生活は常に貧しく、数々の困難があったことでしょう。しかし、あらゆる矛盾や困難を抱えながらも、自らの思想と生活を一致させようともがき続けたその格闘の軌跡こそが、二人の関係を歴史上類を見ない、輝かしいものにしているのです。

甘粕事件で絶たれた命と大杉栄の思想的遺産

関東大震災と戒厳令下の混乱

伊藤野枝という最高のパートナーを得て、思想と生活を一致させる壮大な社会実験を続けていた大杉栄。その輝かしい実践の日々は、しかし、一つの巨大な天災をきっかけとした国家の暴力によって、あまりにも突然、そして無残に終わりを告げることになります。1923(大正12)年9月1日、関東地方を未曾有の巨大地震、関東大震災が襲いました。帝都・東京は一瞬にして壊滅し、インフラは麻痺。この極限状況は、人々の心に深い恐怖と疑心暗鬼を植え付けました。なぜ、この天災が彼の死に直結したのでしょうか。それは、震災による社会の混乱が、国家権力にとって、かねてより危険視していた人物を合法・非合法に排除する、またとない口実を与えたからです。政府は直ちに戒厳令を布告。その一方で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「社会主義者が暴動を企てている」といった根も葉もない流言飛語が、軍や警察によって意図的に、あるいは無意識に広められ、民衆のパニックを煽りました。この狂乱の中で、多くの朝鮮人や中国人、そして社会主義者たちが、自警団や官憲の手によって虐殺されたのです。社会全体が、理性を失った巨大な凶器と化した、まさにその時でした。

甘粕事件の真相と国家の暴力

戒厳令下の狂気が帝都を覆っていた1923年9月16日の夜。大杉と野枝は、鶴見の親族宅を訪れた際、そこにいた甥の橘宗一(たちばなむねかず、米国籍を持つ6歳の少年)が「東京の焼け跡が見たい」と強く望んだため、彼を伴って東京へ向かう途中にいました。その無邪気な好奇心が、悲劇の引き金となるとは誰も知る由もありませんでした。彼らは警察官に尾行され、そのまま麹町の憲兵隊司令部へと不当に連行されます。そして、その密室で、憲兵大尉・甘粕正彦(あまかすまさひこ)らの手によって、三人は惨殺されました。抵抗する力も持たない野枝と、幼い宗一までもが、容赦なく命を奪われたのです。遺体は古井戸に投げ捨てられ、事件は闇に葬られようとしました。世に言う「甘粕事件」。この事件は、単なる一軍人の暴走として片付けられるものではありません。なぜ、彼ら三人が殺されなければならなかったのか。それは、大杉栄が、国家の秩序を根底から揺るがしかねない、最も危険なアナキストと見なされていたからです。この震災の混乱に乗じ、法も裁判も無視して「危険人物」を社会から抹殺する。そこには、国家という巨大な暴力装置の、冷徹な意志が働いていたと見るのが自然でしょう。これは、国家による、まぎれもない超法規的な虐殺だったのです。

「生の拡充」が現代に与えた影響

甘粕事件によって、大杉栄の肉体は滅ぼされました。しかし、彼が生涯をかけて追求し、訴え続けた思想までを消し去ることはできませんでした。彼の思想的遺産の核心、それは「生の拡充」という言葉に集約されます。これは一体、何を意味するのでしょうか。それは、国家、社会、道徳、法律といった、あらゆる外部から押し付けられた権威や束縛から自らを解放し、一人ひとりが生まれながらに持つ生命の可能性を、最大限に開花させるべきだという考え方です。それは、単なるわがままな欲望の肯定ではありません。徹底して自由になった個人同士が、互いに支配したりされたりすることなく、尊重し合い、助け合う(相互扶助)ことで、真に自由な社会を築こうとする、ラディカルな個人主義であり、同時に共同体主義でもありました。彼のあまりにも早すぎる死は、アナキズムという壮大な社会実験を道半ばで中断させました。しかし、管理社会化が進み、同調圧力が強まる現代において、「自分の人生を、他ならぬ自分の手に取り戻せ」と叫んだ彼の思想は、ますますその輝きを増しています。権力に屈せず、自らの「生」を最後まで燃やし尽くそうとした彼の生涯は、今なお私たちに、生きることの本当の意味を問い続けているのです。

文学・映像・漫画に描かれた大杉栄の肖像

『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(栗原康)に描かれた「破壊の倫理」

国家の暴力によって肉体を滅ぼされた大杉栄ですが、彼の思想は死してなお、後世の表現者たちを挑発し続けています。その最も先鋭的な応答の一つが、政治学者の栗原康による評伝『大杉栄伝 永遠のアナキズム』でしょう。この本で描かれる大杉は、単なる歴史上の人物ではありません。現代社会の閉塞感を打ち破るための、生きた思想家として召喚されます。栗原が特に強調するのは、大杉の行動の根底にあった「破壊の倫理」です。それは、既存の秩序や常識、退屈な日常といった、人間を縛るあらゆるものを徹底的に破壊し、その瓦礫の中から新しい生を創造しようとする、極めてポジティブなエネルギーとしての破壊です。アカデミックな評伝でありながら、その文体はまるでパンクロックのように過激で、情熱的。栗原は、大杉の言葉と行動の中に、現代の私たちが忘れてしまった、生きることの野生的な喜びと、それに伴う過激な自由を見出します。この本を読んだ者は、教科書的なアナキスト像を覆され、国家や社会に牙をむき続けた、永遠の反逆者としての大杉栄に新たに出会うことになるのです。

『風よ あらしよ』(村山由佳)と映像化による大衆的再評価

これまで大杉栄の物語は、どこか専門的で、一部の歴史好きや思想に関心を持つ人々の間で語られることが主でした。その状況を大きく変えたのが、作家・村山由佳による小説『風よ あらしよ』と、それを原作としたNHKでのテレビドラマ化(2022年)、そして劇場版映画(2024年)です。この作品群の最大の特徴は、物語の主役を、大杉ではなくパートナーの伊藤野枝に据えた点にあります。なぜ、この視点の転換が重要だったのでしょうか。それは、野枝というプリズムを通して描くことで、思想の巨人としての大杉だけでなく、恋人として、同志として、そして一人の人間としての彼の喜びや苦悩、そして弱さまでもが、より瑞々しく、血の通ったものとして浮かび上がってきたからです。特に映像化は、二人の情熱的な生き様と悲劇的な最期を、鮮烈なイメージとして多くの視聴者に届けました。これにより、大杉と野枝の物語は、歴史の教科書の中から解き放たれ、現代に生きる私たちにも通じる、普遍的な愛と闘いの物語として、広く大衆的な再評価を受けるに至ったのです。

瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』に見る野枝との愛憎劇

大杉栄と伊藤野枝の関係を、思想の実践としてではなく、抗いがたい情念の物語として描いたのが、作家・瀬戸内寂聴です。その代表作である『美は乱調にあり』と、その続編『諧調は偽りなり』において、瀬戸内は二人の魂の結びつきを、大正という自由な時代の空気を背景に、濃密な愛憎劇として描き出しました。ここで強調されるのは、思想や理論では割り切れない、人間の根源的なエロス(性愛)の力です。瀬戸内は、特に女性たちの内面心理に深く分け入り、自由を求めながらも嫉妬に苦しみ、理想を掲げながらも現実の愛憎に引き裂かれる、人間存在そのものの業(ごう)を浮き彫りにします。この物語の中で大杉は、もはや社会変革を志す思想家というよりも、その圧倒的な生命力で多くの女性を惹きつけ、翻弄する、宿命的な男性として描かれています。それは、彼の自由恋愛論が、頭で考えた理屈ではなく、彼の肉体がもつ抗いがたいエネルギーの発露であったことを示唆しているかのようです。思想と肉体が分かちがたく結びついた、生々しい人間としての大杉像がここにあります。

松下竜一『ルイズ 父に貰いし名は』から見える父としての姿

革命家、思想家、そして稀代の恋人。様々な顔を持つ大杉栄ですが、彼に「父親」という、これまでほとんど光の当てられてこなかった側面から迫った画期的な作品があります。それが、ノンフィクション作家・松下竜一による『ルイズ 父に貰いし名は』です。この作品は、大杉と野枝の間に生まれ、事件当時は母・野枝の故郷である福岡にいたため、奇跡的に難を逃れた四女・ルイズ(後に留意子と改名)の数奇な生涯を追ったものです。松下は、遺された手紙や関係者の証言を丹念に拾い集め、革命運動の喧騒の裏にあった、ささやかな家族の日常と、子供たちに向けられた大杉の深い愛情を浮かび上がらせます。なぜ、彼は娘にフランスの女性アナキスト「ルイーズ・ミシェル」の名を与えたのか。そこには、たとえ共に生きることは叶わなくとも、娘の未来に託した彼の切なる願いがありました。この作品、及びこれを原作とした映画『ルイズ その旅立ち』(1997年)を通して、私たちは、反逆者というパブリックイメージとは全く異なる、一人の子煩悩な父親としての大杉栄の姿を知ることができるのです。

『エロス+虐殺』(1970年)で表現された政治と性愛の交錯

数ある大杉栄関連の作品の中で、最も難解で、最も前衛的なアプローチを試みたのが、映画監督・吉田喜重による1970年の映画『エロス+虐殺』です。この作品は、大杉の生涯を時系列に沿って再現するような、凡庸な伝記映画ではありません。吉田監督は、大杉が生きた大正時代と、映画が撮影された1960年代末の学生運動の時代という、二つの時間を意図的に交錯させ、観客をめまいのような映像体験へと誘います。この映画が執拗に問うのは、大杉の思想の核心にあった「エロス(性愛の自由)」と「虐殺(政治的暴力)」とが、いかにして深く結びついていたか、という点です。個人の性的な解放を求める思想は、なぜ国家による暴力的な死を招かなければならなかったのか。この問いに、映画は明確な答えを与えません。白と黒のコントラストが際立つ美しい、しかし不安を掻き立てる映像の中で、歴史上の人物としての大杉は解体され、その思想だけが亡霊のように現代に蘇ります。それは、大杉栄という存在を、安易な共感や理解から守り、彼のラディカルな問いを、時代を超えて私たちに突きつけ続けるための、芸術的な格闘なのです。

「生の拡充」を叫び続けた永遠の反逆者

軍人エリートの道を自ら断ち切り、社会主義、そしてアナキズムへと突き進んだ大杉栄。その生涯は、絶え間ない闘争と、自由恋愛論の実践と破綻、そして関東大震災の混乱に乗じた国家権力による虐殺という、まさに波乱に満ちたものでした。

しかし、彼を単なる反逆者と見るのは一面的です。彼の行動の根底には、国家や社会、道徳といったあらゆる権威から自由になり、一人ひとりが持つ生命の輝きを最大限に開花させるべきだという「生の拡充」の思想がありました。彼はその思想を、言論だけでなく、恋愛、家族、生活のすべてを通じて体現しようとした、全身全霊の実践家だったのです。

常識に縛られ、空気を読むことが求められる現代だからこそ、「お前の生は、お前のものだ」と叫んだ彼の生き様は、私たちに鋭く問いかけます。大杉栄の物語は、自らの人生を生き抜くことの困難さと、その圧倒的な価値を、時代を超えて教えてくれるのです。

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