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大杉栄とは誰?平民社から甘粕事件まで、無政府主義に生きた男の生涯

こんにちは!今回は、明治・大正期の無政府主義者、思想家、社会運動家である大杉栄(おおすぎ さかえ)についてです。

自由と平等を求め、権力と闘い続けた大杉の思想と生き方は、現代にも影響を与え続けています。今回は、彼の生涯とその波乱万丈な運命を紐解いていきます。

目次

丸亀から新発田へ─故郷を持たない少年時代

香川県丸亀市に生まれ、新発田で過ごした幼少期

大杉栄は1885年(明治18年)1月17日、香川県丸亀市に生まれました。大杉家は代々武士の家系であり、父・大杉平八は日本陸軍に属する軍人でした。当時の軍人は国家の発展とともに各地へ転勤を繰り返すことが多く、大杉家も例外ではありませんでした。大杉は丸亀で生まれたものの、幼少期をほとんどそこで過ごすことはなく、家族とともに新潟県新発田市へ移り住みます。

新発田は江戸時代から城下町として発展し、明治時代に入ると陸軍の駐屯地が設けられるなど、軍都としての色彩を強めていました。父・平八はこの新発田の歩兵第16連隊に勤務しており、大杉家はその影響を大きく受けることになります。軍人の家として規律を重視した生活が求められ、大杉もまた厳しい軍隊式のしつけを受けながら成長しました。

しかし、新発田の自然や文化もまた、大杉の感性に大きな影響を与えました。新発田は越後平野に広がる豊かな田園地帯を持ち、日本海にも近いことから漁業も盛んな地域でした。幼少期の大杉は、地元の子どもたちと田畑や川で遊びながら育ちました。彼は好奇心旺盛で、昆虫採集や読書を好みました。後に彼が翻訳することになる『ファーブル昆虫記』への関心も、こうした幼少期の経験が影響しているのかもしれません。

しかし、新発田での生活は決して長くは続きませんでした。父の転勤に伴い、大杉一家は再び移動を余儀なくされるのです。

父の転勤と家庭不和による落ち着かない生活

大杉の父・平八は職務に忠実な軍人でしたが、家庭内では厳格で支配的な人物でした。息子にも軍人としての資質を求め、規律を重んじる教育を施しました。例えば、大杉が少しでも行儀の悪い振る舞いをすると、父は容赦なく叱責し、時には体罰を与えることもありました。このような厳格な家庭環境の中で、大杉は幼い頃から自由を求める心を強くしていきます。

また、大杉家は頻繁な転勤によって落ち着いた生活を送ることができませんでした。新発田の後も、宇都宮や仙台など、さまざまな土地を転々としました。引っ越しのたびに新しい学校へ通うことを余儀なくされ、彼はそのたびに新しい環境に適応しなければなりませんでした。友人を作ってもすぐに別れを迎える生活は、大杉にとって孤独感を伴うものでした。

さらに、家庭内の不和も彼の精神に影響を与えました。母・スエは比較的穏やかな性格でしたが、父・平八との関係は決して良好ではありませんでした。平八の厳格な態度に対し、スエは息子を庇おうとすることが多く、そのたびに夫婦間の衝突が生じました。こうした家庭環境の中で、大杉は家庭というものに対して懐疑的な視線を持つようになり、後年の「家族制度批判」や「自由恋愛思想」にもつながっていきます。

「故郷なき者」としてのアイデンティティと思想への影響

大杉にとって、「故郷」とは単なる地理的な場所ではなく、精神的な拠り所を意味するものでした。しかし、彼の幼少期は絶えず移動を伴い、特定の土地に帰属意識を持つことができませんでした。丸亀に生まれながらも、彼にとっての故郷はそこではなく、新発田でもなく、むしろ「どこにもない」ものだったのです。

このような「故郷なき者」としての経験は、大杉の思想形成に大きな影響を与えました。彼は後年、国家や権力に対する強い批判を展開し、無政府主義(アナーキズム)に傾倒していきます。大杉にとって、国家とは人々を無理やりある土地に縛り付け、服従を強いる存在でした。彼自身がどこにも根を下ろせず、自由な生活を送ることができなかったからこそ、国家や社会の強制的な枠組みに対して強い反発を抱いたのです。

また、大杉は「故郷を持たないこと」そのものを一種のアイデンティティとして受け入れるようになります。彼は後に『自叙伝』の中で、「自分はどこにも属さず、どこにでも属する者である」といった趣旨の言葉を残しています。つまり、特定の土地に縛られないことこそが、大杉にとっての自由の象徴だったのです。

こうした考え方は、彼の無政府主義の理論にも影響を及ぼします。例えば、大杉はアナルコ・サンディカリズム(労働組合主義的アナーキズム)を支持しましたが、その根底には「人はどのような組織にも束縛されるべきではない」という信念がありました。故郷を持たないこと、国家に縛られないこと、そして最終的には社会制度そのものに囚われないこと――これらは彼の思想の根幹を成すものであり、そのルーツは幼少期の経験にあったのです。

このように、大杉栄の少年時代は、彼の思想の基盤を形作る重要な時期でした。故郷を持たず、家庭にも安住できなかった経験が、彼にとっての自由の追求を決定づけたのです。

軍人の道を断たれ、言葉の世界へ─挫折と目覚め

陸軍幼年学校での適応困難と退学の決断

大杉栄の父・大杉平八は、陸軍軍人としての誇りを持ち、息子にも同じ道を歩ませようと考えていました。明治時代の日本において軍人は国家の中枢を担う存在であり、家庭内での父の影響力を考えれば、大杉が軍人を目指すことは自然な流れだったといえます。1897年(明治30年)、12歳になった大杉は東京の 陸軍中央幼年学校(現在の防衛大学校の前身の一つ)に入学しました。

しかし、幼年学校での生活は、大杉にとって想像以上に過酷なものでした。そこでは軍隊式の厳格な規律が敷かれ、自由な発想や個性は許されませんでした。日々の生活は軍事訓練と学業に追われ、少しでも規律を乱せば厳しい罰則が課されました。軍人としての資質が求められるこの環境の中で、大杉は次第に息苦しさを覚えます。彼はもともと自由奔放な気質を持っており、画一的な軍隊生活には適応できなかったのです。

また、大杉は学業成績こそ優秀だったものの、軍人としての素質には欠けていました。特に 体力面の問題 が大きく、幼年学校で求められる過酷な訓練についていくことができませんでした。軍人としての将来に疑問を感じ始めた大杉は、次第に「軍隊生活は自分には向いていないのではないか」と考えるようになります。そして、1901年(明治34年)、16歳の時に 自ら退学を決断 しました。

退学は大杉にとって大きな挫折であり、また、家族にとっても衝撃的な出来事でした。特に父・平八の失望は大きく、大杉を厳しく叱責しました。彼は幼い頃から父の期待を一身に受けて育ちましたが、それを裏切る形になったのです。こうして、大杉は軍人としての道を完全に断たれることになりました。

東京外国語学校で開花した語学の才能

軍人の道を諦めた大杉は、次に 言葉の世界 へと目を向けます。1903年(明治36年)、彼は 東京外国語学校(現・東京外国語大学) に入学しました。ここで彼は、フランス語を専攻し、語学の才能を開花させます。

東京外国語学校での学びは、大杉にとって刺激的なものでした。軍隊のような規律に縛られず、自由に学問を追求できる環境は、彼にとってまさに理想的なものでした。彼はフランス語だけでなく、英語やドイツ語などにも関心を持ち、語学の習得に没頭しました。もともと読書好きだった彼は、外国語を学ぶことで新しい思想や文化に触れることができることに大きな喜びを感じました。

また、この時期に大杉は ジャン=ジャック・ルソーやミハイル・バクーニン、ピョートル・クロポトキン など、ヨーロッパの思想家の著作を読み漁るようになります。特に クロポトキンの無政府主義思想 は、大杉の思想形成に大きな影響を与えました。軍隊のように個人を抑圧する権力構造を嫌悪していた彼にとって、クロポトキンの「相互扶助」に基づく無政府主義の考え方は強く響いたのです。

さらに、大杉は語学の才能を生かして翻訳にも取り組むようになりました。彼は後に『ファーブル昆虫記』の翻訳を手がけますが、この時期にフランス語を学んだことが、その後の翻訳活動の基盤となっています。東京外国語学校での学びは、大杉にとって単なる語学習得の場ではなく、新しい思想と出会う重要な時期だったのです。

社会主義との出会いがもたらした思想的転機

東京外国語学校で語学の才能を伸ばしていた大杉ですが、彼の人生を決定づける大きな転機が訪れます。それは 社会主義との出会い でした。

1904年(明治37年)、日露戦争 が勃発します。政府は戦争遂行のために厳しい軍国主義を推し進め、多くの若者が戦場へと送られました。この戦争を通じて、大杉は国家権力の暴力性を強く意識するようになります。彼は戦争を支持する世間の風潮に疑問を持ち、戦争によって多くの人々が苦しむ現実に対して強い憤りを感じるようになりました。

この頃、大杉は 社会主義運動 に関心を持ち始めます。当時、日本では幸徳秋水や堺利彦らによる社会主義運動が活発化しており、大杉もその思想に共鳴するようになりました。特に、社会主義が提唱する 「平等」や「自由」 の理念は、大杉にとって非常に魅力的なものでした。彼は次第に社会主義者たちと交流を深め、運動に関わるようになっていきます。

この時期に大杉が影響を受けたのが、幸徳秋水 でした。幸徳は1901年に『社会主義神髄』を著し、日本における社会主義思想の普及に尽力していました。大杉はこの本を読み、社会主義が単なる理論ではなく、実際に社会を変革するための運動であることを理解しました。さらに、彼は幸徳が設立した 「平民社」 に興味を持ち、後にこの団体に参加することになります。

こうして、大杉は軍人としての人生を捨て、新たな道を模索し始めました。彼にとっての「戦い」とは、武器を持って戦場に出ることではなく、言葉によって社会を変えることだったのです。軍隊という抑圧の象徴から離れ、自由を求める思想へと向かった彼の旅は、ここから本格的に始まることになります。

平民社との邂逅─社会主義からアナキズムへ

幸徳秋水、堺利彦らとの出会いと平民社への参加

1904年、日露戦争の最中にあった日本は、国家総動員体制のもとで戦争遂行を推し進めていました。軍国主義が社会全体を覆う中で、それに抗う形で台頭してきたのが社会主義運動でした。その中心にいたのが、幸徳秋水や堺利彦らが設立した平民社でした。

大杉栄は東京外国語学校に在学中、戦争への違和感を抱くようになり、社会主義の書物を読み漁るようになります。そして、当時の社会主義者たちの活動に共鳴し、平民社の存在を知りました。平民社は、政府の厳しい弾圧の中で「平民新聞」を発行し、戦争反対を訴える活動を展開していました。政府は日露戦争に関する批判を厳しく取り締まりましたが、大杉はこうした弾圧に屈しない平民社の姿勢に深く感銘を受けます。

1905年、大杉は平民社の集会に足を運び、そこで幸徳秋水や堺利彦と直接出会いました。幸徳は明治期の代表的な社会主義者であり、1901年に発表した「社会主義神髄」で社会主義の理念を日本に広めた人物です。堺利彦もまた、言論活動を通じて社会改革を目指す思想家でした。大杉はこの二人に強く惹かれ、平民社の活動に本格的に加わることを決意します。

この頃、大杉は「平民新聞」や「新社会」といった新聞や雑誌の編集に関わるようになり、社会主義の言論活動にのめり込んでいきました。言葉を通じて社会を変革しようとする彼の姿勢は、この時期に培われたものです。

社会主義運動の実践と、アナキズムへの傾倒

平民社での活動を続ける中で、大杉の思想は次第に社会主義からアナキズム(無政府主義)へと傾倒していきます。そのきっかけとなったのが、1907年の「幸徳事件」と、その後の社会主義運動の分裂でした。

1907年、幸徳秋水が社会民主党を結成しようとした際、政府はこれを激しく弾圧しました。結果として、党はすぐに解散を余儀なくされ、社会主義者たちは政府の監視下に置かれることになります。大杉はこうした状況を目の当たりにし、国家権力と妥協しながら運動を進めることに疑問を抱くようになりました。彼にとって、権力は常に抑圧と暴力をもたらす存在であり、国家や制度そのものを否定しなければ本当の自由は実現しないと考えるようになったのです。

また、大杉はこの頃、フランスの無政府主義者であるクロポトキンの「相互扶助論」に出会い、大きな衝撃を受けます。クロポトキンは、生物は闘争ではなく「相互扶助」によって進化すると説き、個人の自由と共同体の助け合いを重視する無政府主義の理論を展開していました。この思想に触れた大杉は、国家や権力を否定するだけでなく、新たな社会の在り方を模索し始めます。

さらに、大杉は直接行動の重要性を強調するようになり、既存の体制に対する実力行使も辞さない姿勢を示すようになります。これに対し、平民社内部でも意見の対立が生じ、大杉は次第に平民社の主流派から距離を置くようになっていきます。

「平民新聞」「新社会」などを通じた言論活動

言論の力を信じていた大杉は、平民社の機関紙「平民新聞」や「新社会」を通じて、積極的に社会主義・アナキズム思想を広める活動を展開しました。特に1907年から1910年にかけて、大杉は「新社会」の編集に深く関わり、多くの論説を発表しました。

彼の論調は次第に過激になり、単なる社会改良ではなく、体制そのものの打倒を主張するようになります。この頃、大杉は「権力は暴力によってしか維持されないものであり、それに対抗するためには、われわれもまた暴力をもって応じなければならない」という考えを持つようになりました。こうした急進的な思想は、当時の社会主義運動の中でも異彩を放つものでした。

しかし、大杉の言動は政府の注意を引き、彼は警察からの監視を受けるようになります。やがて1910年には「大逆事件」が発生し、多くの社会主義者や無政府主義者が逮捕・処刑されました。幸徳秋水もその犠牲者の一人となり、彼の処刑は大杉にとって大きな衝撃となります。この事件を通じて、大杉は国家権力の残忍さを改めて認識し、アナキズムへの信念をさらに強めていきました。

この時期の大杉の言論活動は、後の無政府主義運動の基盤を築くものであり、彼の思想的転換点となりました。社会主義からアナキズムへ、そして言論から直接行動へと進む大杉の姿勢は、この頃から明確に形作られていったのです。

獄中で鍛えた精神─「一犯一語」の哲学

社会運動による度重なる投獄とその影響

大杉栄は言論と行動を武器に、体制を批判し続けました。そのため、彼の人生にはたびたび 逮捕と投獄 が付きまといました。日本政府は明治後期から大正にかけて、社会主義者や無政府主義者に対する取り締まりを強化しており、大杉もその標的となったのです。

彼の最初の本格的な投獄は 1908年(明治41年)の赤旗事件 でした。この事件は、社会主義者たちが東京・日比谷公園で開いた集会で赤旗を掲げ、「 アンチパトリオティズム(反愛国主義) 」や「 無政府主義万歳 」と叫んだことが問題視されたものです。警察はこれを危険思想とみなし、参加者を一斉に逮捕しました。この際、大杉も 懲役1年 の判決を受け、獄中生活を送ることになります。

さらに 1910年(明治43年)には大逆事件 が発生し、幸徳秋水をはじめとする社会主義者が大量に処刑されました。この事件によって日本の社会主義運動は壊滅的な打撃を受けますが、大杉は逮捕を免れたものの、その後も政府の監視下に置かれ続けました。彼はこの事件を「国家による計画的な虐殺」として強く批判し、より一層の反体制的な活動を行うようになります。

その結果、大杉は1914年(大正3年)に 新聞『近代思想』での無政府主義的な言論活動 を理由に再び投獄され、翌1915年(大正4年)に釈放されるまで獄中での生活を余儀なくされました。この間、彼は自由を奪われながらも、ある独自の哲学を育んでいきます。それが 「一犯一語」 の精神でした。

「一犯一語」─獄中での語学習得と知的鍛錬

大杉は投獄されるたびに、単に時間を浪費するのではなく、むしろ「学びの場」として活用しました。彼は 「一犯一語」 という信念を持ち、「 一度の投獄で新しい言語を一つ学ぶ 」ことを自らに課しました。これは、監獄という極限状態の中でも知的成長を続けるための大杉独自の哲学でした。

例えば、 1914年の投獄中にはロシア語を学び、トルストイやクロポトキンの原書を読み始めました。彼はクロポトキンの「相互扶助論」に影響を受けていましたが、より直接的に思想を理解するためには原典を読む必要があると考えたのです。さらに 1916年(大正5年)の再投獄中にはスペイン語 を学び始め、スペインの無政府主義者たちの著作に触れるようになります。

このように、大杉は獄中を「思想と知識を鍛える場」として活用し、語学を通じて国際的な視野を広げていきました。彼にとって、言葉を学ぶことは単なる知的好奇心ではなく、思想の武器を手に入れることでもあったのです。

読書と思索を深めた獄中生活の軌跡

獄中生活は、大杉にとって単なる拘束ではなく、深い思索の時間となりました。彼は監獄の中で 数多くの書物を読破し、独自の思想を深めていきました。特に読んでいたのは、以下のような書物でした。

  • クロポトキン『相互扶助論』(無政府主義の理論的基礎)
  • バクーニン『国家と無政府』(国家権力に対する徹底的な批判)
  • ルソー『社会契約論』(人民主権と自由の思想)
  • トルストイ『戦争と平和』(非暴力と抵抗の精神)

これらの著作を読みながら、大杉は「 国家権力は本質的に抑圧的なものであり、それに対抗するには個々人の自立と相互扶助が必要である 」という考えをさらに強めていきました。

また、彼は監獄の中でさまざまな文章を書き記し、釈放後に発表することを考えていました。例えば、彼の著作の中でも特に重要な 『自叙伝』 は、獄中での経験をもとにしたものであり、彼がどのように思想を形成し、行動してきたのかを詳細に綴っています。

しかし、獄中生活は決して快適なものではありませんでした。 監視と制約の中で、自由を求める精神がますます強くなっていった ことは間違いありません。大杉は、投獄されるたびにより過激に、より直接的に行動するようになっていきます。獄中という制約が、彼の思想をより純粋な形へと研ぎ澄ませたのです。

大杉栄は「 人はどのような状況に置かれても学ぶことができる 」と信じ、実際にそれを実践しました。「一犯一語」の哲学は単なる言葉ではなく、大杉が生涯をかけて貫いた姿勢だったのです。

アナキズムの確立─運動と弾圧のはざまで

アナルコ・サンディカリズムの受容と理論構築

獄中での思索と語学の鍛錬を経て、大杉栄の思想はより明確になりました。それは、無政府主義(アナキズム)を基盤としながら、労働運動との結びつきを重視する「アナルコ・サンディカリズム(無政府的労働組合主義)」という考え方です。

アナルコ・サンディカリズムとは、国家や資本家の権力を否定し、労働者自身が労働組合を通じて社会を運営するという思想です。フランスやスペインで発展したこの運動は、大杉が獄中で学んだクロポトキンやバクーニンの思想と深く結びついていました。彼は、単なる言論活動にとどまらず、現実の労働運動を通じて社会の変革を目指すべきだと考えるようになります。

1917年にロシア革命が勃発すると、大杉はこの出来事に大きな衝撃を受けました。労働者と農民が権力を握り、国家体制を覆したことは、大杉にとって希望の象徴でした。しかし、革命後のソビエト政権が急速に官僚化し、国家権力を強化していく様子を見て、大杉は次第に疑念を抱くようになります。「革命が成功しても、新たな支配構造が生まれるだけではないか」と考え、より分権的で自由な社会を目指すアナルコ・サンディカリズムの立場を強めていきました。

この頃、大杉は積極的に労働運動に関わり、アナキストとしての立場を明確にしながら理論を構築していきました。彼にとって革命とは、単なる政権交代ではなく、個人が自由を手にし、社会全体が根本から変わることを意味しました。そのためには、既存の権力を打倒するだけでなく、労働者自身が自立し、互いに支え合う仕組みを作らなければならないと考えたのです。

労働運動と社会運動の融合を目指した挑戦

1919年、大杉は帰国した山川均や荒畑寒村らとともに、労働組合運動の推進に本格的に関わりました。当時の日本では、労働者の権利意識が高まり、各地でストライキが発生していました。特に、第一次世界大戦後のインフレによって生活が困窮する中、労働者たちは賃上げや労働環境の改善を求めて組織化を進めていたのです。

大杉はこうした労働運動に積極的に関わり、アナキズムの理論を広めることに努めました。彼は、労働運動が単なる賃金交渉にとどまるのではなく、資本主義そのものを否定し、新たな社会を構築する運動であるべきだと主張しました。具体的には、労働組合が政府や資本家と妥協するのではなく、自ら生産手段を管理し、労働者の手で社会を運営することを目指すべきだと考えたのです。

この考えに基づき、大杉は各地の労働組合の指導者と連携し、労働運動と社会運動を結びつける活動を展開しました。彼は新聞や雑誌を通じて労働者に向けたメッセージを発信し、労働運動の意義を説きました。特に、大杉の著作や演説は当時の若い活動家たちに大きな影響を与え、アナキズムの思想を広める役割を果たしました。

しかし、政府はこうした動きを危険視し、労働運動への弾圧を強めていきました。大杉自身もたびたび逮捕され、新聞の発行を禁じられるなどの妨害を受けました。それでも彼は活動をやめず、労働者の側に立ち続けました。

政府の弾圧とアナ・ボル論争による思想対立

この時期、大杉は日本国内の左翼運動内部で「アナ・ボル論争」に巻き込まれることになります。これは、アナキズム(無政府主義)とボルシェヴィズム(共産主義)のどちらが革命の手段として適切かをめぐる論争でした。

ロシア革命後、日本の左翼運動でもボルシェヴィズムを支持する勢力が増えていました。彼らは、強力な指導部を持つ共産党を組織し、国家権力を奪取することで社会主義を実現すべきだと考えていました。一方、大杉を含むアナキストたちは、権力の集中を否定し、個人の自由と自治を重視する立場を取っていました。

大杉は、ボルシェヴィズムの方法論を強く批判し、「権力を掌握する革命は、最終的に新たな支配者を生むだけであり、真の自由を実現するものではない」と主張しました。彼は、ロシア革命の初期の理念には共感しながらも、その後のソビエト政権の独裁化を見て、国家を前提とする革命の危険性を指摘したのです。

この論争は左翼運動内部で激しさを増し、大杉は共産主義を支持する勢力からも敵視されるようになりました。政府の弾圧に加え、内部対立による孤立という厳しい状況の中でも、大杉は自らの信念を貫き続けました。

しかし、こうした彼の立場は、政府にとってますます脅威と映るようになりました。1923年、大杉は再び警察の監視下に置かれ、彼の思想と運動は国家権力によって封じ込められようとしていました。

彼のアナキズムの実践は、単なる理論ではなく、現実の労働運動や社会運動と密接に結びついていました。しかし、政府の激しい弾圧と左翼内部の対立のはざまで、彼の運動は次第に厳しい局面へと追い込まれていきました。

自由恋愛の実践─伊藤野枝と日蔭茶屋事件

伊藤野枝との出会いと、社会を揺るがせた恋愛観

大杉栄の人生において、思想と同じくらい重要だったのが「自由恋愛」の実践でした。その象徴的な存在が、女性解放運動家でありアナキストでもあった 伊藤野枝 です。

伊藤野枝は1895年(明治28年)、福岡県に生まれました。幼少期から向学心が強く、女性の教育機会が限られていた時代において、地元の女学校を卒業後に上京し、日本女子大学校(現在の日本女子大学)に進学しました。彼女は在学中に文学や社会問題に関心を持ち、社会主義やフェミニズムの思想に触れるようになります。そして次第に、当時の結婚制度や家父長的な価値観に疑問を抱くようになりました。

1912年(大正元年)、伊藤野枝は雑誌『青鞜』を通じて、大杉栄と知り合います。『青鞜』は平塚らいてうが創刊した女性解放運動の先駆的な雑誌であり、伊藤も寄稿するようになっていました。大杉はすでに無政府主義者として知られ、多くの著作を発表していましたが、彼の思想や生き方に共鳴した伊藤は、次第に彼との交流を深めていきました。

しかし、当時の大杉にはすでに妻子がいました。一方の伊藤も、大学在学中に教師の辻潤と結婚していました。しかし、二人は社会の定めた結婚制度に縛られることを拒否し、「恋愛は自由であるべきだ」という考えを共有するようになります。そして、1916年(大正5年)、伊藤は夫の辻潤との婚姻関係を解消し、大杉とともに生きる道を選びました。

「日蔭茶屋事件」によるスキャンダルと反響

伊藤野枝との関係が世間を大きく揺るがしたのが、1916年(大正5年)の「日蔭茶屋事件」でした。

当時、大杉は伊藤野枝との新しい生活を始めたばかりでしたが、その一方で妻・登美との関係も完全には断ち切れていませんでした。そんな中、伊藤、大杉、そして大杉の妻・登美の三人が同じ部屋に泊まるという出来事が発生しました。これが「日蔭茶屋事件」として大きく報道され、社会的なスキャンダルへと発展しました。

事件が起きたのは、横浜・磯子にあった「日蔭茶屋」という旅館でした。ここで大杉は、伊藤野枝と妻・登美とともに一夜を過ごしたとされています。新聞はこれをセンセーショナルに報じ、「大杉栄、二人の妻とともに茶屋に宿泊!」と大々的にスキャンダル化しました。

当時の日本社会は、儒教的な家族制度が色濃く残っており、結婚は社会の秩序を維持するためのものでした。そこに、既婚の男女が自由に恋愛をし、しかも三人で一夜を共にするという行為は、当時の常識を根底から覆すものでした。新聞各紙はこの事件を「道徳崩壊」「家庭破壊」として大きく批判し、世間からのバッシングが大杉と伊藤に集中しました。

しかし、大杉はこうした批判に対し、強く反論しました。彼は「愛とは個人の自由な選択によるものであり、社会の制度によって制約されるべきではない」と主張し、家族制度そのものを否定しました。また、伊藤も「女性が主体的に愛を選ぶことこそ、真の解放である」と訴えました。彼らの主張は一部の進歩的な人々には支持されたものの、一般社会にはほとんど受け入れられず、逆に二人は社会的な孤立を深めていくことになりました。

家族・結婚制度に対する大杉の思想的立場

大杉栄は、結婚制度そのものを批判し、「家族は国家による支配の最小単位であり、個人の自由を抑圧する装置である」と考えていました。彼は、「結婚は愛の終焉であり、自由恋愛こそが人間本来の姿である」と主張し、恋愛を国家や社会の制度によって管理されることを拒否しました。

この思想の背景には、彼の無政府主義の理念が深く関わっています。大杉にとって、国家も家族も同じく個人を縛る「制度」であり、それらは最終的に権力構造を生み出すものでした。したがって、国家を否定するならば、同時に家族制度も否定しなければならないと考えました。

また、大杉は「子どもは親の所有物ではなく、一個の独立した存在である」とも主張しました。彼は教育の在り方にも言及し、親が子どもを自分の価値観で縛りつけることを強く批判しました。こうした考えは、後に彼が翻訳することになる『ファーブル昆虫記』にも通じるものがあります。彼は、昆虫の世界を通じて「生物は本来、自由に生きるものであり、人間もまたそうあるべきだ」という思想を育んでいきました。

しかし、こうした大杉の考え方は当時の社会においては受け入れがたいものであり、日蔭茶屋事件以降、彼と伊藤野枝はますます社会的な孤立を深めていきました。それでも二人は信念を曲げることなく、共に生活を続け、思想的な活動を継続しました。

自由恋愛の実践は、大杉栄のアナキズム思想の一環であり、単なる恋愛問題ではなく、社会制度そのものに対する根源的な問いかけでした。しかし、その思想と生き方は、当時の日本社会にはあまりにも急進的すぎたのです。

パリへの逃亡─国際アナキズム運動への関与

日本政府の監視を逃れ、アナーキストとしてパリへ

日蔭茶屋事件を経て、大杉栄はさらに社会的な注目を集めました。しかし、その影響は単なるスキャンダルにとどまらず、彼の政治活動に対する政府の監視が一層厳しくなる結果を招きました。1910年の大逆事件以降、日本政府は社会主義者や無政府主義者に対する取り締まりを強化しており、大杉もまた公安当局の標的とされるようになりました。

1919年、大杉は第一次世界大戦後の世界情勢の変化に強い関心を抱き、特にヨーロッパの労働運動やアナキズムの潮流を直接見聞しようと考えました。当時の日本はまだ封建的な価値観を色濃く残していましたが、ヨーロッパでは労働者階級の運動が高まり、社会主義や無政府主義の思想が現実の社会変革へと結びつきつつありました。

大杉は政府の監視を逃れるようにして、1919年12月にフランスへ向けて出発しました。彼の渡仏は、単なる知的好奇心によるものではなく、国際的なアナキズム運動への関与を本格化させるための重要な一歩だったのです。

メーデー演説と国際的アナキズム運動の中での役割

1920年5月、大杉はパリに滞在中、フランスのアナーキストたちと交流を深める中で、パリ・メーデーの集会に参加しました。このメーデーは、労働者の権利を訴えるための国際的な祝祭日であり、ヨーロッパ各地のアナーキストや社会主義者が一堂に会する場でもありました。

大杉はこのメーデーで演説を行い、日本における労働運動や政府の弾圧の実態を語りました。彼は、日本の労働者がまだ組織化されておらず、権利を獲得するための闘争が十分に行われていないことを訴えました。そして、日本の無政府主義者たちが厳しい弾圧の下に置かれている現状を伝え、国際的な連帯を求めたのです。

この演説はフランスのアナーキストたちに大きな衝撃を与え、日本における社会運動の厳しさが初めて広く認識されるきっかけとなりました。また、大杉自身もフランスのアナーキストたちの活動に触れることで、国際的な視野を広げ、アナキズムの実践について多くの知見を得ることになりました。

フランス滞在中、大杉は当時のアナーキズム運動の中心人物であるセバスティアン・フォールやエマ・ゴールドマンらと交流を持ちました。特にゴールドマンは、女性の権利や自由恋愛を主張するアナーキストとして知られており、大杉の思想と多くの共通点を持っていました。彼はこうした国際的なアナキストたちの活動を目の当たりにすることで、自らの思想の方向性をより明確にし、日本の運動に応用できる新たな戦略を模索するようになりました。

パリでの思想的深化と帰国後の展望

パリ滞在中、大杉はフランスの労働運動だけでなく、芸術や文化にも強い影響を受けました。パリは当時、シュルレアリスムやダダイズムといった前衛芸術が台頭し、伝統的な価値観に対する批判的な運動が盛んでした。大杉はこうした芸術運動にも興味を持ち、アナキズムと芸術の関係についても考察を深めるようになりました。

また、彼はこの時期に多くのアナキスト文献を収集し、日本に持ち帰ることを考えていました。彼が特に影響を受けたのは、クロポトキンの「相互扶助論」や「現代のアナルコ・サンディカリズム」に関する書物であり、これらを翻訳し、日本の労働運動に紹介することを計画していました。

しかし、1920年の終わり頃になると、日本政府が彼の動きを警戒し始めました。大杉の渡仏はすでに日本の公安当局に知られており、彼がフランスでアナーキストたちと連携していることは問題視されていました。そこで、大杉は1921年に日本へ帰国することを決意しました。彼は帰国後、日本の労働者運動をさらに発展させるために活動を再開するつもりでした。

帰国後、大杉はヨーロッパで学んだアナルコ・サンディカリズムの考えを日本に紹介し、労働者の自治を目指す運動を本格的に推進しようとしました。しかし、日本政府は彼の帰国直後から厳しい監視を続け、彼の活動を阻止しようと動き始めます。

パリでの経験は、大杉にとって単なる学びの機会ではなく、日本のアナキズム運動を国際的な潮流と結びつける重要な転機となりました。彼は、国家を否定し、労働者自身の手による社会の運営を目指すという思想をさらに強め、日本の運動を新たな段階へと導こうとしました。

しかし、彼の帰国後、日本社会はますます不穏な状況へと突入していきました。1923年には関東大震災が発生し、その混乱の中で大杉は運命的な事件に巻き込まれることになります。

関東大震災の混乱と、甘粕事件の衝撃

震災直後の混乱期における大杉の行動と思想活動

1923年9月1日、関東大震災が発生しました。この未曾有の大災害は、東京とその周辺地域を壊滅状態に陥れ、10万を超える人々が命を落としました。地震そのものの被害に加え、各地で発生した大火災が都市を焼き尽くし、社会は極度の混乱に陥りました。こうした状況の中で、大杉栄はどのように行動したのでしょうか。

震災発生時、大杉は東京にいました。彼は家族とともに被害の状況を確認しながら、市民の救援活動に奔走しました。しかし、大杉が直面したのは、単なる自然災害の惨状ではなく、それに乗じて巻き起こる 国家権力と社会の暴力 でした。

震災直後、日本各地で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった デマ が広がりました。この虚偽情報は、警察や軍隊、さらには民間の自警団による 朝鮮人虐殺 へと発展しました。関東大震災の混乱の中で、日本政府は戒厳令を敷き、軍や警察の権限を強化しました。その結果、政府は反体制的な思想を持つ者たちを 「危険分子」として一掃する機会 と捉え、無政府主義者や社会主義者への弾圧を強化しました。

大杉は、この混乱の中で政府の暴力が拡大していくことを鋭く見抜いていました。彼は、震災を利用した国家権力の拡張と、社会の不安を背景にした排外主義の台頭を批判し、アナキズムの視点からこの事態を警鐘する文章を書こうとしていました。しかし、彼自身がこの弾圧の矛先となることを、まだ予期してはいませんでした。

甘粕正彦による大杉・伊藤野枝・橘宗一の虐殺事件

震災の混乱の最中、大杉栄は軍の特務機関に目をつけられていました。彼を狙ったのは、憲兵隊の 甘粕正彦 という人物でした。甘粕は当時、憲兵大尉として活動しており、社会主義者やアナキストを「国を乱す危険人物」とみなしていました。震災後の混乱を利用し、大杉を排除することを決意した甘粕は、独自の指示で「 大杉とその仲間を逮捕する 」という行動に出ました。

1923年9月16日、大杉栄は 東京・麻布の自宅 で憲兵隊に逮捕されました。この時、彼の妻である 伊藤野枝 と、彼女の6歳の息子 橘宗一 も同時に連行されました。憲兵隊は彼らを 市ヶ谷の憲兵隊本部 に連行し、そのまま拷問を加えたとされています。

そして翌日、9月17日未明、大杉と伊藤野枝、橘宗一の 3人は虐殺されました。彼らの遺体は、憲兵隊の手によって 東京湾に遺棄 されたとされています。後に発見された遺体は、拷問の跡が残り、特に大杉の遺体は 内臓が破裂するほどの暴行を受けていた という証言もあります。

この事件は「 甘粕事件 」と呼ばれ、日本の近代史における最も凄惨な政治的虐殺の一つとなりました。特に、政治犯として扱われた大杉や伊藤野枝だけでなく、無実の子どもである橘宗一までが犠牲となったことは、社会に大きな衝撃を与えました。

軍部の関与と甘粕事件の歴史的意味

甘粕事件は、単なる憲兵隊の暴走ではなく、日本政府と軍部が密かに関与していた可能性が高いとされています。震災後、政府はアナキストや社会主義者の排除を狙い、憲兵や警察を利用して弾圧を進めていました。甘粕は、そうした政府の意向を敏感に察知し、自らの判断で大杉たちを粛清したと考えられています。

事件後、甘粕正彦は 軍法会議にかけられましたが、わずか3年の禁固刑 で済まされました。その後、彼は仮釈放され、後に満州へ渡り、関東軍の情報機関の中心人物となっていきます。つまり、この事件は政府や軍部にとって「問題視されるべき事件」ではなく、むしろ「 反体制派の一掃 」という目的を果たしたものだったのです。

大杉栄の死は、日本の無政府主義運動にとって決定的な打撃となりました。彼は 日本におけるアナキズムの象徴的な存在 であり、その死によってアナーキストたちの活動は大きく後退せざるを得ませんでした。さらに、日本社会はこの事件をきっかけに、一層の国家主義へと傾斜していくことになります。

一方で、この事件は多くの知識人や文化人に衝撃を与え、大杉の思想を再評価する動きも生まれました。例えば、作家の 辻潤 や 神近市子 らは、大杉の死を悼みながら彼の思想を受け継ぎ、アナキズムや自由主義の精神を広めようとしました。

甘粕事件は、国家権力が反体制的な思想を武力で抑圧しようとした歴史の象徴的な出来事であり、その後の昭和期の軍国主義へとつながる布石ともなりました。大杉栄の死は、一つの個人の死にとどまらず、日本の思想史において深い影を落としたのです。

大杉栄の思想が残したもの─文化への影響

栗原康『大杉栄伝 永遠のアナキズム』に見る大杉の評価

大杉栄の生涯は、時代の流れの中でさまざまな評価を受けてきました。戦前の日本においては国家転覆を目論む危険人物とみなされ、戦後も一部の知識人や研究者を除いてその思想が広く受け入れられることはありませんでした。しかし、時代が進むにつれて彼の思想の本質が再評価されるようになり、特に21世紀に入ってからは、大杉栄を日本の自由思想の先駆者として見直す動きが活発化しています。その流れの中で出版されたのが、栗原康の『大杉栄伝 永遠のアナキズム』です。

栗原康は、日本のアナキズム思想を研究する政治学者であり、本書では大杉栄の思想と行動を現代の視点から分析しています。彼は、大杉を単なる無政府主義者としてではなく、自由を求めて生きた一人の人間として描き、権力や制度に縛られない彼の生き方そのものが、現代社会にとっても重要な示唆を持つと論じています。

また、本書では大杉の思想が単なる反権力の立場にとどまらず、日常生活や人間関係のあり方にまで及んでいたことが強調されています。例えば、大杉は労働者の解放を唱えるだけでなく、教育や家庭、さらには恋愛や性のあり方まで、既存の制度を根本から問い直そうとしました。その思想は、現代におけるフェミニズムやジェンダー論、さらにはオルタナティブな生き方を模索する人々にも通じるものがあります。

栗原康は、大杉の思想を単なる過去の遺産としてではなく、今なお生き続けるものとして位置づけています。彼の著書は、大杉栄の思想が現代においてもなお重要な意味を持ち続けていることを、多くの読者に示しています。

『風よ あらしよ 劇場版』に描かれたアナーキストの生涯

大杉栄の生涯は、数多くの文学や映画の題材にもなってきました。その中でも、近年特に注目されたのが、アニメ映画『風よ あらしよ 劇場版』です。この作品は、大杉栄と伊藤野枝の生涯を描いたものであり、特に二人の自由恋愛と社会運動への情熱が強調されています。

『風よ あらしよ』はもともと文学作品として発表されたもので、1991年にはNHKでドラマ化もされました。そして2022年にはアニメ映画として劇場公開され、新たな世代の観客に大杉栄の生涯が伝えられることとなりました。

本作では、大杉がいかにしてアナキズムに目覚め、国家権力と対峙しながらも信念を貫いたかが丁寧に描かれています。また、彼と伊藤野枝の関係も、単なる恋愛としてではなく、「制度に縛られない生き方を貫く二人の戦い」として表現されています。この視点は、現代社会における個人の自由や多様な価値観のあり方を考える上で、大いに示唆に富むものとなっています。

『風よ あらしよ』が評価された点の一つに、歴史的な事実に基づきながらも、現代の視点を取り入れた表現が挙げられます。例えば、大杉の思想や行動が持つ今日的な意味を、視覚的に強く訴えかける演出が随所に見られます。また、彼の思想がどのように広がり、どのように弾圧されていったのかを分かりやすく描くことで、彼の生きた時代のリアリティを観客に伝えることに成功しています。

この映画の公開を通じて、大杉栄という人物が再び注目されるようになり、彼の思想に関心を持つ人々が増えています。特に若い世代にとって、大杉の生き方は「既存の価値観にとらわれずに、自分の信じる道を進む」ことの象徴として映ったのではないでしょうか。

『自叙伝・日本脱出記』に込められた思想のエッセンス

大杉栄の思想を理解する上で欠かせないのが、彼自身が記した『自叙伝』と『日本脱出記』です。これらの著作には、彼の思想の核心が詰まっており、特に『自叙伝』は彼の生涯とその思想的変遷をたどる上で重要な資料となっています。

『自叙伝』では、幼少期の孤独な経験や、軍人としての道を拒絶した経緯、そしてアナキズムに目覚めるまでの過程が詳細に語られています。特に注目すべきは、彼が自らの人生を「故郷なき者」として捉えていた点です。彼は、特定の国家や社会制度に帰属することを拒み、常に自由を求めて生きました。その姿勢は、彼の生涯を通じて一貫しており、この自叙伝を読むことで、彼の思想の根幹にある「自由への渇望」がより深く理解できます。

一方、『日本脱出記』は、大杉が国外へ逃れようとした際の記録であり、日本政府の監視を逃れながらも自由を求め続ける彼の姿が描かれています。特に興味深いのは、彼が国外のアナキストたちとどのように交流し、国際的な視野を広げていったかという点です。大杉の思想は決して日本国内に閉じたものではなく、常に国際的な運動との関わりを持っていました。

これらの著作は、彼の思想を学ぶ上での重要な手がかりとなるだけでなく、現代に生きる私たちに対しても、多くの示唆を与えてくれます。自由とは何か、権力とは何か、そして個人の生き方とはどうあるべきか――。こうした根源的な問いを投げかける大杉の言葉は、時代を超えて今もなお響き続けています。

まとめ:大杉栄の思想とその遺産

大杉栄は、軍人の道を拒み、言論と行動によって自由を追求したアナキストでした。彼は社会主義運動に身を投じ、国家権力を否定し、個人の自由を最大限に尊重するアナルコ・サンディカリズムを提唱しました。その思想は、労働運動や教育、家庭制度にまで及び、国家や社会の枠組みにとらわれない新たな生き方を模索するものでした。

しかし、彼の思想は当時の日本社会にとってあまりにも急進的であり、政府の激しい弾圧を受け続けました。そして、関東大震災の混乱の中、甘粕事件によって命を奪われることになりました。

それでも、大杉の思想は死によって消えることはありませんでした。彼の生き方は、多くの知識人や文化人に影響を与え、現代でもなお議論の対象となっています。彼の自由への渇望と、既存の権力に屈しない精神は、今を生きる私たちにとっても多くの示唆を与えてくれます。彼の生涯は、自由を求めるすべての人々にとって、今なお重要な意味を持ち続けているのです。

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