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末次平蔵の生涯:台湾事件を裏で操った「黒衣のフィクサー」の正体

こんにちは!今回は、江戸時代初期の長崎を舞台に、幕府の権威を背負って世界と戦った「政商」、末次平蔵(すえつぐへいぞう)についてです。

宿敵を政争で葬り去り、台湾でオランダ総督の身柄を拘束し、将軍をも動かして大国オランダを屈服させた人物。単なる豪商の枠を超え、外交と武力を操った「黒衣のフィクサー」の素顔とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

「オランダを屈服させた日本人」として伝説となり、長崎貿易の覇者として君臨した末次平蔵の、野望と策謀に満ちた生涯をひも解きます。

目次

博多の豪商から長崎の支配者へ駆け上がった末次平蔵のルーツ

父・末次興善が築いたキリシタン豪商としての強固な地盤

末次平蔵という名は、実は代々受け継がれてきた名跡です。この一族が歴史の表舞台に躍り出るきっかけを作ったのは、今回の主役である2代目平蔵政直の父、初代・末次興善でした。彼はもともと博多を拠点とする有力な商人でしたが、戦国時代の動乱期にあたる1571年、新たな貿易の窓口として開港された長崎へと目をつけ、移住を決断します。

当時の長崎は、ポルトガル船が入港し、イエズス会の教会が立ち並ぶ、まさに「日本のローマ」とも呼べる異国情緒あふれる都市へと変貌しつつありました。興善は、この新興都市長崎において、たぐいまれな商才を発揮します。彼は単に物を売買するだけでなく、当時の長崎で必須のパスポートとも言える「キリスト教」をいち早く受け入れました。熱心なキリシタンとなり、イエズス会に対して多額の寄付を行うことで、教会勢力という当時の長崎における最強の後ろ盾を得ることに成功したのです。

こうして末次家は、博多商人のネットワークと、長崎の教会勢力とのパイプという二つの強力な武器を手にしました。初代・興善が築き上げたこの強固な経済地盤こそが、後に息子である政直が、長崎の支配者として君臨するための最初の踏み台となったのです。彼らの屋敷には異国の珍品が溢れ、その富はすでに町人のレベルを超えつつあったと伝えられています。

2代目政直はいかにして若き日の野心と実力を育んだか

2代目となる末次平蔵政直の正確な生年は詳らかではありませんが、父が築いた莫大な富と、国際色豊かな長崎の空気の中で育ったことは間違いありません。彼は若い頃から父の貿易実務を手伝い、荒くれ者の船乗りたちや、海千山千の外国人商人たちと渡り合う中で、冷徹な計算高さと度胸を身につけていったと考えられます。

政直が青年期を過ごした時代の長崎は、豊臣秀吉によるバテレン追放令や、その後の徳川家康による貿易統制など、政治情勢が激しく揺れ動いていました。この不安定な状況下で生き残るためには、単に商売が上手いだけでは不十分でした。権力の風向きを読む嗅覚と、勝つためには手段を選ばない政治力が必要だったのです。

政直についてもイエズス会の記録に洗礼を受けた旨が記されていますが、彼は父ほど純粋な信仰者ではなかったという見方が有力です。彼にとって宗教とは、あくまで貿易を円滑に進めるためのツールの一つに過ぎなかったのかもしれません。若き日の政直は、父の代からの教会との関係を維持しつつも、次第に力を強めていく徳川幕府の役人たちへも接近し、巧みに両天秤にかけるしたたかさを養っていきました。

高木作右衛門ら地元の有力者と結んだ鉄のネットワーク

長崎という特殊な都市で権力を握るには、地元の有力者たちとの連携が不可欠でした。政直が特に手を組んだのが、長崎町年寄の一人である高木作右衛門という人物です。高木家もまた、長崎の行政実務を担う有力な家系であり、末次家とはビジネス上のパートナーであり、政治的な盟友でもありました。

また、末次茂房などの一族も、彼の手足となって動きました。彼らは長崎の町政の中枢に入り込み、奉行所からの命令を町民に伝える立場を利用して、自分たちに有利なように情報を操作することも可能だったといえます。

政直を中心とするこの「末次派」とも呼べるグループは、貿易の利権を独占し、長崎の富を自分たちの手元に集めるための鉄の結束を誇りました。彼らは表向きは幕府に従順な町役人を演じつつ、裏ではライバルを蹴落とすための情報を共有し、緻密な包囲網を敷いていったのです。この強固なネットワークこそが、後の大事件や政争を勝ち抜くための最大の武器となりました。

宿敵の村山等安を葬り去るために利用した過去の疑惑と策謀

代官の座を巡って激化していった村山等安との権力闘争

長崎には、幕府の直轄領を管理する「長崎代官」という役職がありました。これは名目上は幕府の役人の下請けですが、実質的には貿易の許認可や徴税権に関わる莫大な権限を持つポジションです。この座を巡って末次平蔵政直の前に立ちはだかった最大の壁が、当時の代官である村山等安でした。

村山等安もまた、末次家と同様にキリシタンとの関わりが深く、海外貿易で財を成した傑物です。彼は豊臣秀吉の時代から長崎の実力者として君臨し、徳川の世になってもその地位を保っていました。しかし、同じ「貿易商兼権力者」という属性を持つ二人が、狭い長崎の中で共存し続けることは不可能でした。

利益の配分、貿易船の出航順序、さらには市中の取り締まり方針に至るまで、両者はことあるごとに対立しました。等安にとって政直は生意気な新興勢力であり、政直にとって等安は自分の野望を阻む目の上のたんこぶでした。両家の従者同士が町中で乱闘騒ぎを起こすこともあったと語られるほど、その対立は公然のものとなっていったのです。

長崎奉行の長谷川藤正を味方につける巧みな政治工作

正面からぶつかっても、長年の実績を持つ代官・村山等安を倒すことは容易ではありません。そこで政直がとった手段は、等安の上司にあたる「長崎奉行」を味方につけることでした。当時、長崎奉行として着任していた長谷川藤正(権六)は、等安の傲慢な態度や、彼が旧来の教会勢力と深く結びつきすぎていることを快く思っていなかったとされます。

政直はこの長谷川藤正に接近し、莫大な付け届けをしたという噂もあれば、等安の不正の証拠を密かに提供したとも言われています。藤正にとっても、扱いにくい等安を排除し、自分の意向に従順な(と当時は思われた)政直を代官に据えることは、メリットのある話でした。

「敵の敵は味方」という冷徹な論理で結ばれたこの同盟関係は、等安にとって致命的でした。奉行という公権力が末次側に傾いたことで、等安は徐々に孤立を深めていきます。政直は虎視眈々と、等安に最後の一撃を加えるタイミングを待ち続けました。

大坂の陣での内通疑惑を数年越しに告発し一族を葬った執念の策

そして1619年、ついに決着の時が訪れます。政直は当初、等安を「貿易上の不正」や「金銭トラブル」で訴えましたが、最終的に等安の息の根を止めたのは、より政治的で致命的な告発でした。それは、4〜5年前に終結していた「大坂の陣」に関連する、村山家一族の不穏な動きについての疑惑です。

「村山等安の息子たちは、大坂の陣の際、密かに豊臣方に武器や兵糧を送り、一族の一部は敵方として加担していた」——政直によるこの訴えは、徳川幕府にとって最も忌むべき「反逆」の告発でした。等安本人は徳川方として従軍していましたが、息子たちの行動については弁明しきれない部分があったとされます。さらに、彼らがキリシタンを匿っていたという罪も加わりました。

この訴えにより、村山等安は捕縛され、江戸で斬首されました。さらに彼の一族も処刑され、村山家は完全に滅亡しました。過去の疑惑を数年越しに蒸し返し、ライバルを物理的に消滅させるという結末。末次平蔵政直が、単なる商人ではなく、血なまぐさい政治闘争を勝ち抜く冷徹なマキャベリストであったことを象徴する出来事といえます。

キリシタン弾圧の先兵として幕府の信頼を勝ち取った統治者

代官就任と金森可重の娘を迎えたことによる武家社会への食い込み

宿敵・村山等安を葬り去った功績により、末次平蔵政直はついに念願の長崎代官に任命されました。これは町人身分としては破格の出世であり、長崎の行政、司法、そして貿易の全権を掌握したことを意味します。

さらに政直は、その地位を確固たるものにするため、武家社会との結びつきを強めました。特筆すべきは、飛騨高山藩主である大名・金森可重との縁戚関係です。記録によれば、金森可重の娘が末次家に(おそらく政直の息子の妻として)嫁いだとされます。一介の商人の家が大名の娘を迎え入れるなど、厳しい身分制度があった江戸時代では異例中の異例でした。

この婚姻により、末次家は「町人でありながら武家に準ずる権威」を手に入れました。彼らは帯刀を許され、屋敷の構えも大名屋敷のような壮麗なものへと改装したと伝えられています。金と権力、そして名誉。そのすべてを手に入れた政直は、もはや誰も無視できない「長崎の支配者」として君臨することになったのです。

かつてのパトロンだったイエズス会と決別し弾圧者へ転じた理由

しかし、代官としての地位を維持するためには、幕府の方針に絶対服従しなければなりません。当時の幕府の最重要課題は「キリスト教の禁教」でした。かつて父の興善はイエズス会のパトロンであり、政直自身も洗礼を受けていた過去があります。しかし、彼はここで冷徹な判断を下しました。

「キリシタンとの完全な決別」です。政直は自らが棄教するだけでなく、かつての仲間であった宣教師や信徒たちを徹底的に取り締まる側へと回りました。なぜこれほど鮮やかに転身したのか。それは、彼の行動原理が信仰心よりも、「幕府の代官として長崎を統治し、貿易利権を守る」という現実的な利益に基づいていたからに他なりません。

このドライな転身こそが、末次平蔵という人物の真骨頂でした。彼は過去の信仰や情緒に流されることなく、時代の勝者である徳川幕府の方針を忠実に実行することで、自身の政治的立場を盤石なものにしたのです。

教会破壊や取り締まりの先頭に立ち長崎の支配権を盤石にする

代官となった政直の統治下で、長崎のキリシタンに対する圧力は年々強まりました。幕府の禁教令が厳格化する流れの中で、長崎市内にあった教会施設は次々と破却され、その跡地には日本の寺院が建立されていきました。象徴的な例として、1620年にはキリシタンの福祉施設「ミゼリコルディア」の跡地が下賜され、そこに大音寺の寺域が整備されたことなどが知られています。彼が代官として、長崎の景観と精神を「キリシタンの町」から「幕府の町」へと塗り替える実務を担ったことは確かでしょう。

また、政直の最晩年にあたる1629年頃からは、長崎において「踏み絵」による信徒の判別が導入され始めたとされます。これは当時の長崎奉行であった水野守信らが考案・主導したものといわれていますが、政直は代官としてその執行を現場で支える立場にありました。

かつての同胞を取り締まる側に回ることは、並大抵の精神力ではできません。しかし政直は、幕府への忠誠を行動で示す道を選びました。こうして禁教政策を推し進めることで、彼は幕府からの信頼を不動のものとし、代官としての地位をさらに強固なものにしていったのです。

朱印船貿易の繁栄が生み出した末次平蔵の莫大な富と武力

東南アジア全域にネットワークを広げた末次船の圧倒的な規模

長崎代官として政治権力を握った政直ですが、彼の力の源泉はあくまで、父・興善の代から継承し、さらに拡大させた貿易事業にありました。徳川家康から始まった「朱印船貿易」において、末次家は最も多くの朱印状(渡航許可証)の発給を受けた有力家系の一つです。彼らの船はベトナム、タイ、カンボジア、そして台湾へと、東南アジア全域の海を駆け巡りました。

末次船が日本へ持ち帰ったのは、中国産の生糸や鹿皮、鮫皮、砂糖、香木などの貴重品でした。具体的な利益額については諸説ありますが、当時の長崎貿易全体の取扱高から推測しても、一回の航海で動く金額は現在の価値で換算して莫大な規模であったことは間違いありません。

また、末次家は単に船を出すだけでなく、各地の港での取引相手との関係構築にも余念がありませんでした。現地の支配者や日本人町との太いパイプを維持し、安定的に商品を確保するネットワークを築き上げていたと考えられます。この情報力と物流網こそが、政直の政治力を支える経済基盤でした。

武装化を進め私設海軍と化した商船団の実態

「商船」といっても、当時の海は危険に満ちていました。海賊や他国の武装船とのトラブルから身を守るため、朱印船は大砲や鉄砲で重武装するのが常識でした。その中でも末次船団は、組織的な防御体制において際立っていたとされます。

乗り組んでいる船員たちは、航海技術だけでなく、有事の際には戦闘員として機能するだけの武装と練度を備えていました。彼らは、東南アジアの海上で他の商人や海賊との競争・衝突に備え、常に臨戦態勢をとっていました。これはもはや、単なる商船団というよりは「武装した海上勢力」に近い存在だったと言えるでしょう。

もちろん、当時の通信技術では、長崎にいる政直が遠洋の船へリアルタイムで指示を出すことは不可能です。しかし、出発前に綿密な計画を授けられた船長たちは、現場での判断で平蔵の利益を最大限に守るよう徹底されていました。この自律的な武力行使の能力が、後のオランダとの衝突(タイオワン事件)で遺憾なく発揮されることになります。

巨額の利益を背景に幕閣へ食い込むロビー活動

貿易で得た富は、長崎の繁栄のためだけに使われたわけではありません。政直は、その資金力を背景に、江戸の幕閣に対しても強力な働きかけを行っていたと考えられています。

具体的な献上品の内容や相手については確実な史料こそ少ないものの、一介の代官に過ぎない彼が、国家間の外交問題にまで口を出せる立場を築いた事実は、彼が中央政界に強力な支持基盤を持っていたことを強く示唆しています。彼は長崎での地位と、海外情勢に関する独自の情報網を武器に、幕府の政策立案に関与できる数少ない「実務家」として重用されたのです。

「金と情報を持つ者が、政治をも動かす」。 政直の存在は、武士という身分を超えて、経済人が国家運営に深く食い込んだ、江戸時代初期特有のダイナミズムを象徴しています。

オランダ総督を人質に取り謝罪させたタイオワン事件の衝撃

台湾利権を巡り東インド会社と対立した背景

末次平蔵の生涯で最大のハイライトであり、日本外交史に残る大事件が「タイオワン事件」です。事の発端は、台湾(当時の呼称は高砂国など)での貿易利権争いでした。当時、オランダ東インド会社(VOC)は台湾のタイオワン(現在の台南周辺)に拠点を築き、中国産の生糸貿易を独占しようとしていました。

しかし、台湾はもともと日本の朱印船も自由に出入りしていた場所です。末次船にとっては、後から来たオランダ人が「ここは我々の領土だ、税金を払え」と主張し始めたことに納得がいきません。「家康公の朱印状を持つ我々が、なぜ外国の商社の指図を受けねばならないのか」。プライドと実益の両面で、衝突は避けられないものとなりました。

妨害を繰り返すノイツ総督への報復計画の全貌

台湾のオランダ行政長官(総督)として着任したピーテル・ノイツは、VOCの利益を最優先し、会社の商業独占権を厳格に守ろうとする人物でした。彼は、既得権を主張する日本船に対し、武器の没収や出航の差し止めといった厳しい制限措置を行いました。これにより貿易の機会を奪われた末次家は、莫大な経済的損失を被ることになります。

この報告を受けた長崎の政直は、当然ながら激怒しました。彼は泣き寝入りすることなく、現地に向かう腹心・浜田弥兵衛(はまだやひょうえ)に対し、強い姿勢で交渉に臨むよう指示を与えたと考えられます。「末次家の、ひいては日本の商人の面目を潰すな」。その命を受けた弥兵衛たちは、決死の覚悟で再び台湾へと向かいました。

浜田弥兵衛が総督を人質にした前代未聞の事件

1628年、浜田弥兵衛率いる末次船団は、台湾のタイオワンに入港しました。オランダ側による厳しい監視下で交渉は難航しましたが、事態は誰も予想しなかった方向へ動きます。弥兵衛ら日本側の一行が、ノイツ総督の執務室(あるいは居館)に押し入り、総督の身柄を拘束してしまったのです。

この大胆な行動により、オランダ側の警備兵も手出しができない膠着状態に陥りました。VOCの拠点が機能不全となる中、ノイツはやむなく日本側の要求を受け入れ、貿易の妨害を止めることや、以前没収した積荷を返還することを約束しました。さらに、約束の履行を保証するため、ノイツの息子を含む数名のオランダ人が人質として日本へ連行されることになりました。

一商人の船団が、当時世界最強の海洋国家であったオランダの拠点で総督を屈服させたこの事件は、東アジアの海に大きな衝撃を与えました。そしてこの武力衝突は、単なる民間トラブルの枠を超え、日蘭両国を巻き込んだ深刻な外交問題へと発展していくのです。

将軍徳川家光を動かし国家外交をリードした一商人の勝利

事件を有利に導くため幕閣へ行った猛烈な工作

事件の後、浜田弥兵衛たちは帰国しましたが、問題はこれで終わりではありません。オランダ側は当然、幕府に対して「日本人が不法な暴力を振るった」と抗議してくるはずです。下手をすれば、国際問題を起こした責任を問われ、末次家がお取り潰しになる可能性もありました。

しかし、政直は先手を打っていました。彼は事件の報告を受けるや否や江戸へ向かい、自身が持つ幕閣へのパイプを総動員して猛烈な工作を展開しました。彼は、この事件を単なる商人間のもめ事ではなく、「オランダが日本の朱印状の権威を軽んじ、国辱を与えた事件である」と定義づけました。この「国家の威信」に訴える論理構築こそが、彼の最大の武器でした。

水野守信らと連携し断行したオランダ貿易停止措置

当時の長崎奉行(水野守信ら)も、この前代未聞の事件について幕府へ報告を行いました。平蔵側の「オランダに非がある」とする主張と、現地の奉行所からの報告を合わせ、幕府は重大な外交判断を下すことになります。

時の将軍、3代・徳川家光は、諸大名の統制と同様に、対外関係においても「武威」を示すことを重視していました。幕府は、この事件をオランダによる挑発と受け止め、極めて厳しい報復措置を決定します。それは、平戸のオランダ商館を閉鎖し、貿易を全面的に停止するというものでした。

一商人の訴えがきっかけとなり、国家が国交断絶に近い措置に踏み切ったのです。これは、末次平蔵という男が仕掛けた情報戦が、幕府の強硬な外交方針と合致した結果といえるでしょう。

オランダが屈服しノイツが日本へ引き渡された結末

日本との貿易を止められたオランダ東インド会社(VOC)は、莫大な損失に直面し、パニックに陥りました。日本市場を失うことは、彼らのアジア戦略の崩壊を意味するからです。数年にわたる交渉の末、オランダ側はついに全面的な譲歩を余儀なくされました。

VOCは事件の責任者としてピーテル・ノイツを解任し、最終的に彼を日本へ引き渡すことで幕府の怒りを解こうとしました。かつての総督が、囚われの身として日本に送られてくる──これは日本の外交的勝利を象徴する出来事でした。

しかし、末次平蔵政直自身は、この完全な結末を見届けることはできませんでした。彼は事件の解決に向けた交渉が続く最中の1630年(寛永7年)、病によりこの世を去っていたからです。彼が命がけで守ろうとした「末次船の特権」と「日本の面目」は、彼の死後にオランダを屈服させる形で果たされました。その死は、激動の時代を駆け抜けた「政商」にふさわしい、劇的な幕切れだったといえます。

末次平蔵をもっと知るための本や資料ガイド

H3-1:海洋冒険小説の傑作、吉村昭『朱の丸御用船』

末次平蔵政直と、その腹心・浜田弥兵衛の活躍を最も臨場感たっぷりに描いた小説といえば、吉村昭の『朱の丸御用船』です。徹底的な史料調査に基づく骨太な作風で知られる吉村昭が、タイオワン事件に至るまでの末次家の繁栄と、オランダとの緊迫した駆け引きを描き切っています。

この作品では、平蔵が単なる利益追求者としてだけでなく、海洋国家日本の夢を背負った男として描かれています。特に、ノイツとの対決シーンの緊迫感は圧巻です。史実の重みと物語の面白さを兼ね備えた、入門書にして決定版と言える一冊です。

最新成果で実像に迫る、永松実『長崎代官末次平蔵の研究』

より深く、史実としての末次平蔵を知りたい方には、2021年に出版された永松実氏による『長崎代官末次平蔵の研究』がおすすめです。これは小説ではなく学術的な研究書ですが、末次家のルーツから、貿易の実態、政治的な影響力までが、一次史料に基づいて詳細に解明されています。

「フィクサー」としての平蔵が、具体的にどのような行政文書を残し、どのように町を支配していたのか。伝説のヴェールを剥ぎ取り、実務家としての彼の実像に迫るには、この本が最良のガイドとなるでしょう。歴史ガチ勢の方には特に読んでいただきたい一冊です。

島原の乱前夜を描く、飯嶋和一『出星前夜』

最後に紹介するのは、飯嶋和一の傑作長編『出星前夜』です。この作品の主な舞台は、初代・政直が亡くなった後の時代。主人公の一人として登場するのは、政直の跡を継いだ息子の3代目平蔵(茂貞)です。

偉大な父が築いた繁栄の中で、徐々に迫りくる鎖国の足音と、島原の乱へと繋がる不穏な空気。父の代には盤石だった末次家の支配が、時代の変化とともにどう変質していったのか。父・政直が作り上げた「システム」が、後の世代にどのような影を落としたのかを知るうえで、この小説は非常に示唆に富んでいます。父の物語の「その後」を知りたい方におすすめです。

海を越えた野望を抱き国を動かした末次平蔵という男の足跡

博多からやってきた一人の商人の息子が、長崎という混沌の都市を制圧し、やがては大国オランダさえも外交でねじ伏せる。末次平蔵政直の生涯は、まさに「下剋上」と「海外雄飛」の塊のような物語でした。

彼は決して清廉潔白な英雄ではありません。政敵を無慈悲に葬り、信仰さえも捨てて権力を握ったその生き方は、現代の感覚では「悪徳政治家」や「死の商人」に映るかもしれません。しかし、彼のような強烈なエゴイズムと実行力を持った人間がいたからこそ、当時の日本が欧州列強の植民地化の波に飲み込まれず、対等以上の外交関係を築けたという側面も否定できません。

「商人が国を守り、国を動かす」。 その稀有な実例を残した末次平蔵。彼が駆け抜けた時代の熱気は、今も長崎の海風の中に残っているように思えます。かつて彼が見つめ、世界へと挑んだその青い海だけが、野望に生きた男の真実を静かに物語り続けているのです。

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