こんにちは!今回は、古代東アジアの激動の中で日本史上初めてその名を世界に刻んだ倭国王、帥升(すいしょう)についてです。
百六十人もの生口(せいこう)を海を越えて献上し、当時の超大国である後漢の権威をしたたかに利用し、卑弥呼に先駆けて国際外交の扉を開いた人物。史料にはわずか一行しか記述が残っていませんが、その一行の背後には、列島の覇権を懸けた血なまぐさい争乱と、大陸の皇帝権力を利用しようとする高度な政治的駆け引きが隠されています。
謎に包まれた倭国王帥升の正体と外交戦略、そして日本史上初めて名を刻んだ男の挑戦に満ちた生涯をひも解きます。
倭国王帥升が登場する以前の東アジア情勢と倭の社会
『漢委奴国王』の金印から五十年で激変した国際環境
帥升が登場する西暦107年からさかのぼることちょうど50年、西暦57年に倭の奴国(なこく)の王が派遣した使節が後漢の都である洛陽を訪れ、光武帝から「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という金印を授かりました。この有名な出来事は、日本の支配者層が初めて中国王朝との正式な外交関係を樹立した画期的な事件として知られています。しかし、この金印授受から帥升が登場するまでの50年間、中国の歴史書から倭国に関する記述はぷっつりと途絶えてしまいます。この空白の半世紀の間に、東アジアの国際秩序は劇的な変化を遂げていました。
光武帝が再興した後漢王朝は、当初こそ強力な求心力を誇っていましたが、一世紀末から二世紀初頭にかけて徐々にその支配力に陰りが見え始めていました。皇帝の短命化が進み、幼い皇帝が即位しては、その母や祖母の一族である「外戚(がいせき)」が実権を握るという政治構造が常態化しつつあったのです。かつて倭の奴国からの使節が目にした盤石な帝国は、帥升の時代にはすでに過去のものとなりつつあり、周辺諸国もまた、揺らぐ大国の隙をうかがうような不穏な空気に包まれていました。
こうした状況下で、倭国側の事情もまた大きく変化していたと考えられます。かつては北部九州の一角を占めるに過ぎなかった地域勢力が、より広域的な政治連合へと発展していく過程で、単なる「朝貢」以上の政治的な後ろ盾を必要とし始めていました。帥升が登場するのは、まさに日中双方の情勢が大きく動き出そうとする、時代の転換点だったのです。
揺らぐ後漢帝国と周辺諸民族による反乱の連鎖
一世紀末から二世紀初頭にかけての後漢帝国は、国境地帯における異民族の反乱に頭を悩ませていました。特に深刻だったのが、西方の遊牧民である羌(きょう)族や、北方の匈奴(きょうど)、そして西域諸国の動向です。彼らは後漢の支配力の低下を敏感に感じ取り、度重なる反乱や離反を繰り返していました。これにより、後漢政府は莫大な軍事費の支出を余儀なくされ、財政は逼迫の一途をたどっていたのです。
このような大陸内部の混乱は、海を隔てた倭国にとっても対岸の火事ではありませんでした。中国王朝の威信が低下すれば、それまで中国の権威を背景に勢力を維持していた周辺諸国のバランスも崩れます。半島情勢や列島内の勢力図も流動化し、より強い後ろ盾を持つ者が生き残るという過酷な生存競争が始まっていました。帥升が遣使を決断した背景には、こうした「帝国の揺らぎ」がもたらした危機感と好機が入り混じっていたことでしょう。
帥升の外交は、平和な時代の儀礼的なものではなく、激動する国際情勢の中で自国の生存と覇権を確かなものにするための、極めて現実的かつ戦略的なアクションだったと言えます。彼は、衰えゆくとはいえ腐っても大国である後漢というカードを、絶妙なタイミングで切ろうとしていたのです。
帥升が直面していた一世紀末から二世紀初頭の国内事情
吉野ヶ里遺跡が語るクニグニの分立と武力衝突の影
帥升が生きた時代、日本列島は弥生時代後期にあたります。この時期の社会状況を雄弁に物語っているのが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に代表される巨大な環濠集落の存在です。吉野ヶ里遺跡では、集落の周りに深い堀を巡らせ、鋭い逆茂木(さかもぎ)を設置し、望楼(物見櫓)から常に周囲を警戒するという、極めて防御的な構造が見られます。これは、当時のクニグニが互いに激しい緊張関係にあり、いつ敵が攻めてきてもおかしくない状況だったことを示しています。
さらに衝撃的なのは、この時期の遺跡から出土する人骨の状況です。矢尻が突き刺さったままの人骨や、首を切られた痕跡のある人骨が多数見つかっており、集落単位での小競り合いを超えた、組織的な武力衝突が頻発していたことがうかがえます。後の「倭国大乱(わこくたいらん)」へとつながる政治的な緊張状態が、すでに帥升の時代には高まっていました。帥升自身も、こうした戦乱の中で武力を背景に勢力を拡大していった有力な王の一人であったことは間違いありません。
彼が統率していたのは、単一の集落ではなく、複数のクニを束ねる連合体であったと推測されます。しかし、その支配は決して盤石なものではありませんでした。常に隣接する敵対勢力の脅威にさらされ、いつ足元をすくわれるか分からない不安定な権力基盤の上に、彼の王権は成り立っていたのです。
なぜこの時期に再び中国への朝貢が必要となったのか
国内での争いが激化すればするほど、指導者には「自分が正統な支配者である」という強力な根拠が必要になります。武力による制圧だけでは、いつかより強い武力を持つ者に取って代わられる恐れがあるからです。そこで帥升が目をつけたのが、50年前に奴国の使節が利用した「中国皇帝からの承認」という権威でした。後漢の皇帝から正式に「王」としての地位を認められれば、国内のライバルたちに対して圧倒的な優位性を主張することができます。
また、中国との交易を通じて得られる先進的な文物は、配下の豪族たちを繋ぎ止めるための重要な威信財(いしんざい)となりました。特に鉄資源や鏡、そして絹織物などは、当時の倭国においては喉から手が出るほど欲しい貴重品です。これらを独占的に入手ルートに乗せることは、経済的・軍事的な優位性を確立することと同義でした。つまり、帥升の遣使は、単なる名誉欲からではなく、国内政治を勝ち抜くための必須条件だったのです。
さらに言えば、帥升は「倭国王」という称号を名乗っています。これは、かつての「奴国王」のような一地方の王ではなく、倭国全体を代表する王であることを対外的に宣言するものでした。実際に倭国全土を支配していたかどうかは別として、彼には列島全体を視野に入れた覇権構想があり、その実現のために後漢という外部権力を利用しようとした野心家であったことがうかがえます。
帥升が後漢の安帝へ生口百六十人を献上した歴史的背景
『後漢書』のわずか一行に刻まれた永初元年の記録
帥升の名が登場するのは、中国の歴史書『後漢書』の「東夷伝」にある、次の一節です。「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」。日本語に訳せば、「安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王の帥升らが、生口(奴隷)を160人献上し、皇帝への謁見を願い出た」となります。たったこれだけの記述ですが、ここには日本古代史を考える上で無視できない重要な情報が詰まっています。
まず注目すべきは「永初元年」という年号です。これは後漢の安帝が即位した翌年にあたります。新皇帝の即位というタイミングを見計らって使節を送り込んでいることから、帥升たちが大陸の情勢をかなり正確に把握していたことが分かります。
また、記述が「帥升等(すいしょうら)」となっている点も見逃せません。この「等」の一文字は、彼が単独の絶対的な君主として振る舞っていたわけではなく、複数の有力な首長たちを代表する「盟主」のような立場として、連合政権を率いていた可能性を示唆しています。そして何より重要なのが、ここで初めて具体的な固有名詞が記録されたことです。この一行こそが、日本人が歴史という舞台に初めて個人として登場した瞬間なのです。
生口百六十人の正体とこれらを渡海させた王の権力
この記述の中で最も異様なのが、「生口百六十人」という献上品の数です。後の時代、邪馬台国の卑弥呼が魏に最初に献上した生口の数は「男生口四人、女生口六人」の計十人です。後継者の壹与(いよ)の時でも三十人でした。それと比較すると、帥升の百六十人という数は桁違いに多いことが分かります。なぜ、これほど大量の人員を献上する必要があったのでしょうか。
一つの有力な説は、前述した「国内の緊張状態」との関連です。激しい武力衝突があれば、当然ながら大量の捕虜が発生します。帥升は、敵対勢力との戦いで得た捕虜たちを処刑するのではなく、「生口」という名の貢物として利用した可能性があります。つまり、160人という数字は、当時の倭国でそれだけの規模の戦闘が行われていたことの証左であり、同時にその勝者となった帥升の軍事力を誇示するものでもあったのです。
また、160人もの人間を、食料や水と共に小さな船に乗せ、荒波の玄界灘を越えて中国まで輸送するには、高度な航海技術と兵站(ロジスティクス)能力が不可欠です。途中で逃亡や反乱を防ぐための監視体制も必要だったでしょう。単に人を捕まえるだけでなく、彼らを生きたまま大陸の都まで送り届ける実行力を持っていたことこそが、帥升等の権力の巨大さを物語っています。この160人は、単なる労働力としての贈り物である以上に、帥升の実力を後漢朝廷に見せつけるためのデモンストレーションだったのかもしれません。
帥升による外交使節団の派遣と鄧太后が果たした重要な役割
西の反乱に苦しむ女傑・鄧太后と安帝の複雑な事情
帥升の使節団が到着した当時の後漢の政治状況に目を向けてみましょう。当時、皇帝の安帝は即位したばかりの13歳の少年であり、政治の実権を握っていたのは先帝(和帝)の皇后である皇太后、鄧綏(とうすい・鄧太后)でした。彼女は非常に聡明で政治力に長けた女性として知られていますが、その治世は苦難の連続でした。特に頭を悩ませていたのが、先述した西方の羌族による大規模な反乱です。この反乱は10年以上続き、後漢の国力を大きく疲弊させていました。
鄧太后にとって、西からの凶報が絶えない中、はるか東の果てにある倭国から使節がやってきたことは、政治的に大きな意味を持ちました。儒教的な徳治主義の観点からすれば、「遠方の野蛮人でさえ、我々の徳を慕って貢物を持ってきた」という事実は、彼女の政権の正当性を内外に示す絶好のプロパガンダとなるからです。
つまり、帥升の使節団を歓待し、その名を歴史に留めたのは、安帝本人というよりは、摂政である鄧太后の意向が強く働いていたと考えられます。彼女は、国内の不満や西域での失態をカバーするために、東方からの来訪者を必要としていました。帥升の外交は、こうした鄧太后の政治的ニーズと見事に合致したため、成功を収めることができたのです。
東の果てからの朝貢が後漢朝廷にもたらした政治的価値
帥升がもたらした「生口160人」という異例の多さも、鄧太后にとっては好都合でした。数が多ければ多いほど、遠方の国がどれほど深く恭順の意を示しているかを視覚的にアピールできるからです。おそらく洛陽の宮廷では、異国の服を着た160人の行列が、鄧太后の威光を称える演出として大々的に披露されたことでしょう。
当時の知識人たちにとって、海を越えた彼方の国からの朝貢は、古代の聖王である「三皇五帝」や周の時代の伝説にも匹敵する快挙と映りました。「これほど遠方からの使者は、伝説の時代でさえ稀である」という事実は、鄧太后の徳が四方に及んでいることの何よりの証明となります。
こうして見ると、帥升の外交戦略の巧みさが際立ちます。彼は単に貢物を持って頭を下げに行ったのではなく、相手が何を欲しているかを見極め、自分たちの持てるリソース(捕虜)を最大限に活用して、自国の地位を高めることに成功しました。鄧太后という強力な女性統治者の存在なくしては、帥升の名がこれほど明確に記録されることはなかったかもしれません。東の王と西の女傑、二人の利害が一致した瞬間、日本の歴史に最初の「名前」が刻まれたのです。
歴史から消えた帥升と皇国史観が直面した「王」の扱い
范曄はなぜ三百年後の『後漢書』でその名を特記したのか
帥升が死んでから約300年後、南北朝時代の歴史家である范曄(はんよう)によって『後漢書』が編纂されました。范曄は、数ある記録の中からなぜ「帥升」という固有名詞をわざわざ選び出し、後世に残したのでしょうか。もちろん、彼の手元に当時の外交記録(公文書)が残っていたことが前提ですが、それだけが理由ではないでしょう。
ここには、中華思想特有の歴史観が見え隠れします。范曄が生きた時代もまた、異民族の侵入や王朝の興亡が激しい時代でした。そうした中で、「漢の全盛期(あるいは徳が及んでいた時代)には、東の果ての王でさえ、その名を名乗って臣従してきた」という記述は、中華文明の普遍性と威光を強調する効果を持ちます。つまり、帥升の名前は、彼個人の名誉のためというよりは、漢王朝の(ひいては中華文明の)徳の広がりを証明するための「証拠」として採用された側面があるのです。
しかし、意図はどうあれ、范曄の筆によって帥升は永遠の命を得ました。もし范曄が「倭王あり」とだけ書いて済ませていたら、私たちは日本最初の王の名前を知る由もなかったでしょう。記録者である范曄の視点と、記録された帥升の野心、その両方が噛み合った奇跡的な記述と言えます。
皇国史観はいかにして『外国史料の王』と向き合ったか
時は流れて日本の江戸時代。国学者たちは、海外の史料に記された「帥升」という存在に大いに悩まされることになります。彼らにとって日本は「万世一系」の天皇が統治する国であり、外国の文献にポッと出の王の名前があることは、整合性を取る上で非常に厄介な問題でした。
『異称日本伝』を著した松下見林(まつした けんりん)は、漢籍に現れる日本記事を詳細に考証し、帥升についても客観的な分析を試みました。彼は、帥升を**第12代景行天皇(けいこうてんのう)**に比定するなど、なんとか日本の正史との整合性を図ろうと苦心しています。
一方、『古事記伝』で知られる本居宣長(もとおり のりなが)は、よりラディカルな解釈を行いました。彼は「中国人は自分たちの都合よく外国のことを書くものだ」として距離を置きつつ、帥升については**「倭国全体の王ではなく、『面土国(めんどこく)』という一部族の小王に過ぎない」**と断じました。こうすることで、天皇家の皇統が中国に臣従したという事実を否定しようとしたのです。
このように、帥升という存在は、近代以前の日本の知識人たちにとっても、「自分たちの歴史をどう定義するか」という問いを突きつける異物であり続けました。彼らは帥升を無視することもできず、かといって完全に受け入れることもできず、それぞれの論理でその扱いに苦慮したのです。
帥升の死後に訪れた倭国大乱の時代と卑弥呼へのつながり
外交的権威の限界と列島を巻き込む『倭国大乱』の勃発
帥升は後漢の権威を借りて国内の安定を図ろうとしましたが、その効果は永続的なものではありませんでした。帥升の遣使から数十年が経過した二世紀の後半、倭国は「倭国大乱(わこくたいらん)」と呼ばれる激動の時代を迎えます。『後漢書』や『魏志倭人伝』が「倭国乱れ、互いに攻伐すること歴年」と記した、泥沼の内戦状態です。
帥升の時代にもすでに存在していた各クニ間の緊張関係は、時間の経過とともに緩和されるどころか、むしろ限界まで高まってしまったようです。一人の男性王が持つ武力や外交的権威だけでは、肥大化する各地の勢力争いを抑え込むことができなくなったのでしょう。この大乱は数十年にわたって続き、列島規模で多くの血が流されることになりました。
男性王・帥升の時代から女王・卑弥呼の時代へ
出口の見えない泥沼の内戦に疲弊したクニグニの王たちは、やがて一つの決断を下します。それは、男性の王ではなく、宗教的なカリスマ性を持つ女性を共立(きょうりつ)して王とすることでした。こうして登場するのが、邪馬台国の女王・卑弥呼です。
帥升から卑弥呼へ。この流れは、単なる王の交代劇ではありません。「武力と対外的な政治力」を基盤とする男性王(帥升)の支配から、「呪術的権威と宗教的統合」を基盤とする女性王(卑弥呼)の支配へのパラダイムシフトと見ることができます。帥升の挑戦は、結果的には大乱を未然に防ぐ決定打にはなりませんでしたが、彼の存在があったからこそ、「武力だけでは国は治まらない」という教訓が得られ、次の卑弥呼の時代への道が拓かれたとも言えるのです。帥升は、卑弥呼という巨大な存在が登場する前の、重要な架け橋としての役割を果たして歴史の舞台から去っていきました。
帥升をもっと知るための本・資料ガイド
帥升は謎の多い人物ですが、関連する史料や研究書にあたることで、彼が生きた時代の空気をよりリアルに感じることができます。ここでは、歴史初心者から一歩踏み込んでみたい方におすすめの3冊を紹介します。
石原道博 編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝 他三篇』(岩波文庫)
まずは基本中の基本、原典に触れてみましょう。この本には、帥升が登場する『後漢書』東夷伝だけでなく、有名な『魏志倭人伝』なども収録されています。 帥升に関する記述は本当に短いのですが、実際に自分の目で「安帝永初元年 倭國王帥升等……」という漢字の並びを確認すると、歴史の重みが違って見えてきます。また、訳注が充実しているので、「生口」の意味や当時の中国側の事情についても理解を深めることができます。古代史の謎解きは、まずこの一冊を手元に置くところから始まります。
上田正昭『倭国』(講談社学術文庫)
日本古代史研究の第一人者である著者が、倭国がいかにして形成され、統一されていったかを丹念に追った名著です。 この中で上田氏は、「帥升等」という記述の解釈や、生口(奴隷)の問題について深く切り込んでいます。特に、単なる労働力としての奴隷ではなく、当時の社会構造の中で生口がどのような意味を持っていたのかという考察は、帥升の権力の本質を理解する上で非常に示唆に富んでいます。文庫本で手に入りやすく、古代史のダイナミズムを味わうにはうってつけの一冊です。
七田忠昭『吉野ヶ里遺跡』(同成社)
帥升の時代の「クニ」の姿を視覚的にイメージしたいなら、この本が最適です。吉野ヶ里遺跡の発掘に携わった著者による解説書で、豊富な図版とともに弥生時代後期の社会が解説されています。 巨大な環濠、物見櫓、そして首のない人骨。これらは帥升が生きた時代が、いかに緊張感に満ちた「戦争の時代」であったかを無言のうちに語っています。「もしかしたら帥升も、このような環濠集落の王だったのかもしれない」と想像しながら読むと、無機質な遺跡の解説が、一気に人間臭いドラマの舞台に見えてくるはずです。
最初の倭王帥升が歴史に刻んだ先駆的な足跡
日本史上初めてその名を記された男、帥升。彼の人生は「安帝の永初元年」というわずかな記録の中に凝縮されていますが、そこから見えてくるのは、激動の東アジア情勢の中で生き残りをかけた一人のリーダーの姿です。
国内では血で血を洗う争いが続き、国外では大帝国・後漢が揺らぎ始める。そんな危機の時代に、彼は百六十人もの生口を引き連れて海を渡るという、誰もなし得なかった壮大な賭けに出ました。その決断は、鄧太后という大陸の権力者のニーズと共鳴し、結果として彼の名を永遠に歴史に刻み込むことになりました。彼の外交は、後の卑弥呼や倭の五王へと続く、中国王朝との交渉の歴史のまさに原点と言えるものです。
史料が少ないがゆえに、私たちは想像の翼を広げることができます。帥升は、現代の私たちが直面するような「変化の激しい時代にどう生き残るか」という課題に、二千年前の日本列島で最初に向き合った先駆者だったのかもしれません。
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