こんにちは!今回は、冷戦末期のソビエト連邦を率いた最後の最高指導者、ミハイル・ゴルバチョフについてです。
閉塞した社会主義体制に「ペレストロイカ(改革)」のメスを入れ、情報公開「グラスノスチ」を断行し、東西冷戦を終わらせた男は、20世紀後半の世界を劇的に変えました。しかしその代償として、自らが愛した巨大国家ソ連の崩壊を招き、国内では「裏切り者」と罵られる孤独な運命を背負うことになります。
核戦争の恐怖から人類を救いながらも、自国の帝位を失ったミハイル・ゴルバチョフの、矛盾と理想に満ちた生涯をひも解きます。
スターリンの恐怖と妻ライサの愛が育んだゴルバチョフの原点
粛清の記憶と貧しい農村での少年時代
1931年3月、ミハイル・ゴルバチョフはロシア南部のスタヴロポール地方、プリヴォリノエ村の貧しい農家に生まれました。彼が生まれた当時のソ連は、ヨシフ・スターリンによる独裁体制の真っただ中であり、強制的な農業集団化によって農村は疲弊しきっていました。ゴルバチョフの家族もまた、この時代の荒波とは無縁ではありませんでした。
彼の父方の祖父アンドレイは農業ノルマの未達を理由にシベリアへ流刑にされ、さらに母方の祖父パンテレイは大粛清の最中に「人民の敵」というレッテルを貼られて逮捕・拷問を受けました。幼いミハイルは、両祖父が味わったこの二重の悲劇を通じ、家の中に重くのしかかる「不当な弾圧への恐怖」を肌で感じながら育ちました。
しかし、彼は体制を憎んで反逆児になったわけではありません。むしろ、生き残るために体制の中で優秀であることを証明しようとしました。少年時代の彼は、学校の勉強だけでなく、父親とともにコンバインの運転手として働き、1948年には記録的な収穫量を達成しています。当時まだ17歳という未成年ながら、その圧倒的な働きぶりが評価され、翌年には「労働赤旗勲章」を授与されました。泥にまみれて働く勤勉さと、勲章という国家からの承認。この二つが、彼をモスクワという権力の中枢へと押し上げる切符となったのです。
こうした背景のもとで、彼は「共産主義は正しいはずだが、現実はどこか間違っている」という、後の改革への種火ともいえる違和感を抱き始めていました。祖父を奪った理不尽なシステムと、勲章をくれた栄光あるシステム。二つの矛盾する顔を持つソビエト連邦という国を、彼は内側から見つめていたのです。
モスクワ大学での法学研究と共産党への忠誠
1950年、ゴルバチョフはソ連最高峰の教育機関であるモスクワ大学法学部に入学します。当時のエリートコースといえば理系技術者が主流でしたが、彼があえて法学部を選んだことは、後の統治スタイルに大きな影響を与えることになります。「力による支配」ではなく「法による支配」という概念に触れたことは、彼の中にリベラルな精神を育みました。
大学時代の彼は、熱心な共産党員として活動する一方で、教条的なマルクス主義の授業には退屈さを感じていたといいます。ここで彼が出会った重要な友人の一人が、後に最高会議議長となり、政治的パートナーでありながら最終的に彼を裏切ることになるアナトリー・ルキヤノフでした。若き日の二人は、スターリン死後の「雪解け」の空気を共に呼吸し、より人間的な社会主義の可能性について議論を交わしたことでしょう。
彼は学業においても極めて優秀でしたが、決してガリ勉タイプではありませんでした。演劇サークルに参加したり、学生寮での議論に明け暮れたりと、社交的で快活な性格は多くの友人を惹きつけました。この時期に培われた「対話の能力」こそが、後に西側諸国の首脳たちを魅了し、冷戦の氷を溶かす武器となっていくのです。
生涯の同志ライサ・ゴルバチョワとの運命的な出会い
モスクワ大学での生活において、ゴルバチョフにとって最も大きな収穫は、学問でも党活動でもなく、ライサ・チタレンコ(結婚後のライサ・ゴルバチョワ)との出会いでした。哲学科の学生だったライサは、知的で洗練されており、田舎出身のゴルバチョフにとって眩しい存在でした。ダンスパーティーで彼女に一目惚れした彼は猛アタックをかけますが、当初ライサは慎重だったといいます。
しかし、二人はすぐに意気投合しました。ライサは単なる恋愛対象ではなく、ゴルバチョフにとって知的な対話ができる唯一無二のパートナーとなりました。彼女は鋭い洞察力を持ち、ゴルバチョフが政治的な迷いを感じたときには、常に的確な助言を与えました。ソ連の指導者の妻といえば、表舞台には出ず家庭に引っ込んでいるのが通例でしたが、ライサはその慣習を打ち破り、常に夫の隣で堂々と振る舞いました。
二人の絆は、政治的な同志愛と深い愛情が混ざり合った強固なものでした。彼らは貧しい学生寮での新婚生活からスタートし、手を取り合って権力の階段を上っていきます。ゴルバチョフという政治家を語る上で、ライサという「鏡」の存在を無視することはできません。彼女の存在があったからこそ、彼は保守的な男性社会である共産党の中で、人間的な感性を失わずにいられたのかもしれません。
ゴルバチョフを変えた地方での実績とアンドロポフの後ろ盾
スタヴロポール地方での実績と党内での昇進
大学を卒業したゴルバチョフは、華やかなモスクワでのキャリアを一時離れ、故郷のスタヴロポール地方に戻ります。ここで彼は、共産党の地方組織での活動に没頭しました。通常、地方勤務は左遷や停滞を意味することもありますが、ゴルバチョフにとってはこの地こそが最強の実験場でした。彼は若き活動家として、机上の空論ではなく現場の実務に取り組みます。
彼は、若者の政治参加を促すコムソモール(共産主義青年同盟)の活動で頭角を現し、やがて党の第一書記として地方全体の責任を負う立場になります。彼のスタイルは、これまでの尊大な官僚たちとは異なっていました。農場に自ら足を運び、労働者たちの不満に耳を傾け、泥道を歩くことを厭いませんでした。この「現場主義」は、彼に対する地元民の信頼を勝ち取ると同時に、硬直した官僚機構に対する彼自身のフラストレーションを蓄積させることにもなりました。
また、スタヴロポール地方はソ連有数の穀倉地帯であると同時に、カフカス山脈の北麓に位置する風光明媚な保養地でもありました。これが彼の運命を大きく左右します。モスクワの激務に疲れた党幹部たちが、休暇のためにこの地を訪れるのです。ゴルバチョフは彼らを完璧なホスピタリティでもてなし、知的な会話で楽しませました。「地方に優秀で話の通じる若者がいる」という評判は、幹部たちの口伝えでクレムリンへと届いていきました。
ユーリ・アンドロポフという強力な後ろ盾
スタヴロポールの保養地を訪れた幹部の中で、ゴルバチョフにとって最も重要だった人物が、当時のKGB(国家保安委員会)議長、ユーリ・アンドロポフです。冷徹で知的な現実主義者であり、党内の腐敗を誰よりも知るアンドロポフは、同郷出身でもあるゴルバチョフに特別な関心を寄せました。
アンドロポフは、腎臓病の療養のために度々スタヴロポールを訪れ、そのたびにゴルバチョフと長時間話し込みました。二人は焚き火を囲みながら、ソ連が抱える深刻な問題について語り合ったといいます。KGBのトップとして社会の裏側まで知り尽くしたアンドロポフと、地方行政の現場でシステムの実情を見てきたゴルバチョフ。世代の違う二人は、現状のソ連がこのままでは立ち行かないという危機感を共有していました。
アンドロポフという強力な後ろ盾(パトロン)を得たことは、ゴルバチョフにとって決定的な転機でした。アンドロポフは、老衰しきったブレジネフ体制の次を見据え、自分の手足となって動ける「新しい血」を探していたのです。ゴルバチョフはまさにその理想形でした。この出会いがなければ、彼は地方の優秀な行政官として一生を終えていたかもしれません。
地方から見たソ連農業の停滞と限界
アンドロポフの引き立てがあったとはいえ、ゴルバチョフ自身が直面していた課題は深刻でした。彼は農業担当として、ソ連の食糧生産の効率化を求められていましたが、そこで目にしたのは集団農場(コルホーズ・ソフホーズ)制度の構造的な欠陥でした。
どれほど労働者が汗を流しても、作物は流通の過程で腐り、機械は故障したまま放置され、数字だけの虚偽報告が横行する。個人の創意工夫や努力が報われないシステムの中で、農業生産性は西側諸国に比べて絶望的に低いままでした。ゴルバチョフは「集団請負制」などの部分的改革を試みますが、中央からの指令経済という巨大な壁の前では、地方レベルの改善など焼け石に水でした。
「システムそのものを変えなければ、パンすらまともに作れない」。この痛切な実感こそが、後に彼が最高指導者となった際に、農業改革にとどまらず政治システム全体の改革へと突き進む原動力となりました。地方での挫折と焦燥感は、彼の中に「ラディカルな変革」への覚悟を静かに、しかし確実に育てていたのです。
「鉄の歯」を持つ男、ゴルバチョフがクレムリンの頂点に立つまで
モスクワ中央への進出とミハイル・スースロフの監視
1978年、ついにゴルバチョフはモスクワへ召喚され、党中央委員会書記(農業担当)に抜擢されます。47歳での中央入りは、老人ばかりのソ連指導部においては驚異的な若さでした。しかし、クレムリンは決して居心地の良い場所ではありません。そこは権謀術数が渦巻く伏魔殿でした。
彼を待ち受けていたのは、アンドロポフだけではありません。「灰色の枢機卿」と呼ばれ、党のイデオロギーを一手に管理していたミハイル・スースロフもまた、ゴルバチョフを注視していました。スースロフは頑迷な保守派でしたが、ゴルバチョフの知性と実務能力は高く評価していました。ゴルバチョフは、スースロフの前では忠実な共産主義者を演じつつ、アンドロポフとは改革の必要性を共有するという、極めて高度なバランス感覚を要求されました。
この時期、ゴルバチョフは自らの改革色を隠し、「有能で従順な若手」として振る舞いました。出る杭は打たれる世界です。彼はライサと二人三脚で、決して敵を作らず、それでいて存在感を示すという難しい綱渡りを続けます。スースロフのような長老たちに可愛がられながら、彼は着実に権力基盤を固めていきました。
ブレジネフらの相次ぐ死と後継者争いの行方
1980年代に入ると、ソ連は「老人の葬列」と呼ばれる時期に突入します。まず1982年、長期政権を敷いたレオニード・ブレジネフが死去。後を継いだのはゴルバチョフの師、アンドロポフでした。アンドロポフは政権につくとすぐに規律引き締めと腐敗摘発に乗り出し、ゴルバチョフを実質的なNo.2として重用しました。改革の準備は整ったかに見えました。
しかし、アンドロポフの命は病によって尽きかけます。わずか1年3ヶ月の在任で彼が死去すると、揺り戻しが起きました。保守派の重鎮たちが推したのは、病弱で旧態依然としたコンスタンティン・チェルネンコでした。改革の火は消えかけたように見えましたが、チェルネンコもまた重病を抱えており、実務能力はありませんでした。
結果として、ゴルバチョフはチェルネンコ政権下でも実質的に党務を取り仕切ることになります。病床の最高指導者に代わり、会議を主催し、外交の表舞台にも立つようになりました。チェルネンコが死去するのは時間の問題であり、次こそはゴルバチョフの番であることは、誰の目にも明らかになりつつありました。この「待機期間」に、彼は改革派の仲間を要職に配置し、来るべき時代への布石を打ち続けました。
アンドレイ・グロムイコの指名による書記長就任
1985年3月、チェルネンコが死去。運命の政治局会議が開かれます。ここでゴルバチョフを後継者として強力に推したのは、皮肉にも保守派の長老であり、長年外相を務めてきたアンドレイ・グロムイコでした。
西側諸国から「ミスター・ニェット(拒否)」と恐れられた強面(こわもて)のグロムイコですが、彼はソ連が直面している危機の深さを誰よりも理解していました。「ミハイル・セルゲーエヴィチ(ゴルバチョフ)は素晴らしい笑顔を持っているが、その笑顔の下には鉄の歯がある」。グロムイコはそう評し、難局を乗り切るにはゴルバチョフの若さとエネルギー、そして冷徹な判断力が必要だと判断したのです。
長老たちの総意を得て、54歳のミハイル・ゴルバチョフはソ連共産党書記長に選出されました。若く、精力的で、弁舌爽やかな新しいリーダーの誕生に、ソ連国民だけでなく世界中が期待を寄せました。しかし、グロムイコが評した「鉄の歯」が、古いシステムそのものを噛み砕いてしまうことになるとは、この時まだ誰も予測していませんでした。
冷戦終結とドイツ統一を成し遂げたゴルバチョフのペレストロイカ
アレクサンドル・ヤコブレフと描いた改革の設計図
最高権力者となったゴルバチョフは、直ちに改革に着手します。その理論的支柱となったのが、「ペレストロイカの設計者」と呼ばれる知的な策士、アレクサンドル・ヤコブレフです。元カナダ大使であり、西側の民主主義を肌で知るヤコブレフは、ゴルバチョフに対し「単なる経済の立て直しではなく、社会全体の意識改革が必要だ」と説きました。
二人が掲げたスローガンが「ペレストロイカ(立て直し)」と「グラスノスチ(情報公開)」です。これまで党が隠蔽してきた歴史の闇、スターリン時代の犯罪、経済の不都合な真実を国民に公開し、自由な議論を促しました。これは、恐怖と秘密によって維持されてきたソ連の統治システムを根底から覆す劇薬でした。新聞やテレビは連日、これまでタブーだった話題を報じ、国民は熱狂しました。ゴルバチョフは、真実を知れば国民はより自発的に社会主義の建設に参加すると信じていたのです。
チェルノブイリ原発事故がもたらした衝撃と情報公開
しかし、グラスノスチの真価が問われる巨大な悲劇が発生します。1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所事故です。当初、古い体質の官僚たちは事故の規模を隠蔽しようとしました。ゴルバチョフ自身も初期情報は不正確なものでしたが、事態の深刻さが明らかになるにつれ、彼は決断を迫られます。
「隠すのか、明らかにするのか」。ゴルバチョフは最終的に、情報の公開と国際社会への支援要請を選びました(ただし、その決断の遅れには今も批判があります)。この事故は、ソ連の技術的欠陥だけでなく、官僚主義の腐敗を白日の下に晒しました。ゴルバチョフにとってチェルノブイリは、改革がもはや選択肢の一つではなく、国家存亡に関わる急務であることを痛感させる出来事となりました。彼は後に「チェルノブイリこそが、ソ連崩壊の真の原因だったかもしれない」と語っています。
レーガンやコールと共に冷戦終結とドイツ統一を決断した瞬間
内政改革と並行して、ゴルバチョフは外交面でも「新思考」を展開しました。軍事費の増大に喘ぐソ連経済を救うため、西側との対立関係を解消しようとしたのです。ここで相対したのが、アメリカのロナルド・レーガン大統領と、イギリスのマーガレット・サッチャー首相でした。
「鉄の女」サッチャーは早くからゴルバチョフを見出し、「彼は共に仕事ができる男だ」とレーガンに紹介しました。レーガンもまた、当初はソ連を「悪の帝国」と呼びましたが、ゴルバチョフとの対話を通じて信頼関係を築いていきます。1986年のレイキャビク会談、そして翌年の中距離核戦力(INF)全廃条約の調印。核戦争の時計の針は劇的に巻き戻されました。
そして、ゴルバチョフ外交の最大のクライマックスであり、最も困難な決断が「ドイツ再統一」でした。1989年、ベルリンの壁が崩壊すると、西ドイツのヘルムート・コール首相は統一への道をひた走ります。第二次大戦でナチス・ドイツに甚大な被害を受けたソ連にとって、統一ドイツの復活は悪夢以外の何物でもありません。軍部や保守派は猛反発しました。
しかしゴルバチョフは、コールの提案を受け入れました。東ドイツを見捨てる形になろうとも、ヨーロッパの分断を終わらせ、西側からの経済支援を得ることを選んだのです。これは冷戦の完全な終結を意味する歴史的英断でしたが、同時に「ソ連の東欧における覇権」を自ら放棄する行為でもありました。
中曽根康弘ら西側首脳との関係改善模索
日本との関係においても、ゴルバチョフは変化をもたらしました。当時の首相・中曽根康弘とは、互いに「話の通じる指導者」として一定の信頼関係を模索しました。北方領土問題の解決には至りませんでしたが、長年冷え切っていた日ソ関係に対話の窓を開いた意義は小さくありません。ゴルバチョフの笑顔とオープンな態度は、西側諸国におけるソ連のイメージを一変させる「ゴルビー・ブーム」を巻き起こしました。
ノーベル賞の栄光の陰で国内の混乱と孤独に直面したゴルバチョフ
エゴール・リガチョフら保守派との対立激化
外交での華々しい成果とは裏腹に、国内では改革の副作用が深刻化していました。自由にはなったが、店には商品がない。そんな状況に、党内の保守派は苛立ちを募らせます。その筆頭が、党内No.2のエゴール・リガチョフでした。
リガチョフは当初ゴルバチョフを支持していましたが、改革が社会主義の根幹を揺るがし始めると、「行き過ぎだ」と公然と批判するようになります。有名な「ニーナ・アンドレーエワ論文」(スターリン主義を擁護し、改革を批判する投書)が掲載された際、ゴルバチョフが外遊中だったこともあり、保守派による巻き返しのクーデター前夜のような空気が流れました。ゴルバチョフは帰国後、激しく反論して主導権を取り戻しますが、党内の亀裂は修復不可能なほど深まっていました。
経済改革の行き詰まりと民族紛争の激化により深まるノーベル賞受賞者の孤独
さらに、ゴルバチョフを追い詰めたのは経済と民族問題でした。計画経済を緩めたものの市場経済は機能せず、物流は麻痺。国民は日々の食料調達にすら苦労するようになります。そして、「グラスノスチ」によって抑圧から解放された各共和国の民族意識が爆発しました。
特にバルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)やカフカス地方での独立運動は激化の一途をたどります。1991年1月、リトアニアの首都ビリニュスにソ連軍が介入し、市民に死傷者が出た「血の日曜日事件」。平和の使徒であるはずのゴルバチョフが、武力弾圧を黙認した(あるいは統制できなかった)として、国内外から激しい非難を浴びました。
1990年、ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞します。世界は彼を英雄として称えましたが、ソ連国内の反応は冷ややかでした。「平和賞をもらう暇があるなら、パンをくれ」。西側での拍手喝采と、国内での罵声。この残酷なコントラストこそが、この時期のゴルバチョフの孤独を象徴しています。
ボリス・エリツィンの猛追とジョージ・H・W・ブッシュとのマルタ会談
右からの保守派の突き上げに対し、左(急進改革派)からはボリス・エリツィンが猛攻撃を仕掛けました。かつてゴルバチョフがモスクワに引き上げたエリツィンは、改革の遅さを批判して党指導部を追われましたが、民衆の支持を背に復活を果たしていました。エリツィンは「ソ連」という枠組みそのものを否定し、ロシア共和国の自立を主張します。
ゴルバチョフは、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とのマルタ会談(1989年)で冷戦の終結を宣言し、国際的な地位を保とうとしましたが、足元の権力基盤は崩れ落ちる寸前でした。彼は保守派と急進派の間でバランスを取ろうと右往左往し、結果として双方からの信頼を失っていったのです。
エドゥアルド・シェワルナゼの辞任と警告
ゴルバチョフの孤立が決定的になったのは、盟友エドゥアルド・シェワルナゼ外相の辞任でした。実直に新思考外交を支えてきたシェワルナゼは、ゴルバチョフが保守派に譲歩し、軍部の台頭を許していることに絶望しました。
1990年12月、シェワルナゼは議会で突然の辞任演説を行います。「独裁が迫っている!」。彼はそう叫び、ゴルバチョフに警告を発して去っていきました。最も信頼できる友の離反は、来るべき破局の予兆でした。しかし、ゴルバチョフはその警告を十分に受け止めることができず、逆に保守派の人物を側近に登用してしまうのです。
クーデターとソ連崩壊により権力を失ったゴルバチョフの晩年
ゲンナジー・ヤナーエフら側近による8月クーデター
1991年8月、悪夢は現実となります。ゴルバチョフがクリミア半島の別荘(フォロス)で休暇中、彼が信頼して登用したはずの副大統領ゲンナジー・ヤナーエフ、KGB議長クリュチコフら保守派グループがクーデターを起こしたのです。彼らは「国家非常事態委員会」を名乗り、ゴルバチョフを別荘に軟禁。核のボタンを含む全権を奪おうとしました。
テレビに映し出されたヤナーエフの手は、緊張と恐怖で震えていました。時代錯誤なクーデターに対し、モスクワ市民とエリツィンは戦車の上に立って抵抗しました。皮肉にも、ゴルバチョフが育てた「自由の空気」が、クーデターを失敗させたのです。しかし、この事件によってゴルバチョフの権威は地に落ち、クーデターを鎮圧したエリツィンが実質的な勝者として君臨することになりました。
アナトリー・ルキヤノフの裏切りと権威の失墜
ゴルバチョフにとって最も痛手だったのは、大学時代からの親友であり、共に改革を夢見たはずのアナトリー・ルキヤノフが、クーデター側の黒幕の一人だったことでしょう。信頼していた側近たちの裏切り。別荘からモスクワに戻ったゴルバチョフは、もはや以前の指導者ではありませんでした。
議会に登壇したゴルバチョフに対し、エリツィンはあからさまに侮辱的な態度を取り、彼の目の前で共産党の活動停止命令書に署名を迫りました。ゴルバチョフは抗議する力もなく、ただ従うしかありませんでした。彼が守ろうとした「ソ連共産党」と「連邦」は、彼自身の目の前で解体されていったのです。
クレムリンからの退去とソビエト連邦の消滅
1991年12月25日、ミハイル・ゴルバチョフはテレビ演説で大統領辞任を表明しました。クレムリンの上空から、鎌と槌の赤旗が降ろされ、代わりにロシアの三色旗が掲揚されました。20世紀を代表する超大国、ソビエト連邦が消滅した瞬間でした。
「私は自らの選択を後悔していない」。演説でそう語った彼の表情は、重荷を下ろした安堵と、無念さが入り混じった複雑なものでした。核戦争の危機を回避し、人々に自由を与えた功績は不滅ですが、政治家としては国を失うという完全な敗北を喫したのです。
晩年の平和活動とロシア国内での冷ややかな評価
辞任後のゴルバチョフは、ゴルバチョフ財団を設立し、環境問題や平和活動に尽力しました。しかし、最大の悲しみは妻ライサとの死別でした。クーデター時の軟禁生活で精神的ショックを受けたライサは、その後脳卒中で倒れ、1999年に白血病でこの世を去ります。最愛の妻を失ったゴルバチョフの悲嘆は深く、彼は晩年、彼女の写真を常に見つめていたといいます。
21世紀に入り、ロシアではウラジーミル・プーチンが権力を握ります。強権的な手法で秩序を回復させたプーチンに対し、ゴルバチョフは当初支持を与えつつも、次第に「民主主義の後退」を批判するようになりました。しかし、国内でのゴルバチョフ人気は低調なままでした。多くのロシア人にとって、彼は「偉大な帝国をアメリカに売り渡し、混乱と貧困を招いた裏切り者」でしかなかったからです。
2022年8月、ゴルバチョフは91歳で静かに息を引き取りました。その死に対し、西側諸国からは最大級の賛辞が送られましたが、ロシア国内の反応は複雑で、国葬が行われることもありませんでした。世界から愛され、自国からは疎まれた男。その評価の分裂こそが、彼が成し遂げた変革の巨大さを物語っています。
ゴルバチョフを知るための書籍・メディアガイド
ミハイル・ゴルバチョフ『ゴルバチョフ回顧録』
まずは本人による証言、全2巻の大著『ゴルバチョフ回顧録』(新潮社など)です。この本は1990年代半ば、辞任からそれほど時間を置かずに書かれました。そのため、彼自身の「自己弁護」の色彩が濃いことは否めませんが、それゆえに彼が当時何を考え、どのような論理で動いていたかが生々しく伝わってきます。
特に興味深いのは、アンドロポフら旧世代の指導者たちへの観察眼と、改革に着手した際の高揚感の描写です。彼は自分が「社会主義を破壊しようとした」のではなく、「理想的な形に修正しようとした」のだと繰り返し訴えます。結果を知る我々からすれば「甘い見通し」に見える部分もありますが、巨大なシステムと格闘した当事者の苦悩を一次情報として知るには不可欠な資料です。
ウィリアム・トーブマン『ゴルバチョフ』
ピューリッツァー賞を受賞したウィリアム・トーブマンによる評伝『ゴルバチョフ』(白水社)は、客観的な視点から彼の実像に迫る決定版です。トーブマンは、ゴルバチョフを単なる英雄とも失敗者とも決めつけず、「並外れた自信と、他人の意見に耳を傾ける柔軟性が同居する複雑な人物」として描きます。
この本が優れているのは、妻ライサとの関係性や、彼の性格的な弱さ(決断の先送りや、言葉への過剰な信頼)にも深く切り込んでいる点です。なぜ彼はエリツィンを甘く見たのか、なぜ民族問題の爆発を予見できなかったのか。心理描写を通じて、政治劇の裏側にある人間ドラマを浮き彫りにしています。「歴史に翻弄された」のではなく、「自らの性格が歴史を作った」ことがよく分かる一冊です。
ヴェルナー・ヘルツォーク『ゴルバチョフとの対話』
最後に紹介するのは、巨匠ヴェルナー・ヘルツォーク監督によるドキュメンタリー映画『ゴルバチョフとの対話』(2018年)です。晩年のゴルバチョフに対し、ヘルツォークがインタビューを行う形式ですが、ここにはかつての権力者の威圧感はありません。
画面に映るのは、腹が出て、歩くのもやっとの好々爺です。しかし、その眼光は鋭く、時に悲しげです。彼は「私の墓標にはこう刻んでほしい。『我々は試みた』と」と語ります。ライサの話になると涙を浮かべる姿は、政治家としてではなく、一人の人間としてのゴルバチョフを強烈に印象づけます。プーチン政権下のロシアで、過去の遺物のように扱われながらも、自らの信念を静かに語る姿に、観る者は「歴史の重み」を感じずにはいられません。
平和の英雄か帝国の破壊者か問い続けるミハイル・ゴルバチョフの足跡
ミハイル・ゴルバチョフは、間違いなく20世紀で最も重要な政治家の一人です。彼は40年以上にわたる冷戦を終わらせ、核戦争という人類滅亡の悪夢を取り払いました。その功績は、どれほど国内で批判されようとも揺らぐことはありません。
しかし同時に、彼は「意図せざる破壊者」でもありました。彼が目指した「人間的な社会主義」は、結果として国家の解体と混乱を招き、多くの人々の生活を破壊しました。理想と現実のギャップ、改革の速度と社会の許容力。その狭間で彼が味わった挫折は、現代の指導者たちにとっても重い教訓となっています。
自由を恐れず、対話を信じた男の足跡は、分断が再び深まりつつある今の世界において、より一層の切実さを持って私たちに語りかけてきます。彼の試みは失敗だったのか、それとも未完の希望なのか。その答えを出し続けることこそが、彼の遺産を受け継ぐ私たちの役割なのかもしれません。

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