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チャールズ・ジョージ・ゴードンの生涯:奴隷貿易と戦い続けた信念の軍人

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こんにちは!今回は、19世紀の大英帝国を象徴する「清廉潔白なキリスト教騎士」であり、植民地行政官、チャールズ・ジョージ・ゴードンについてです。

中国で「常勝軍」を率いて太平天国の乱を鎮圧し、アフリカのスーダンでは奴隷貿易と戦い、最後は救世主としてハルツームで散った人物。ヴィクトリア朝の英国民を熱狂させ、死後には詩人アルフレッド・テニスンが追悼の詩を捧げた英雄は、同時に極度の偏屈者であり、政府の命令を無視して独断専行を繰り返す「扱いづらい男」でもありました。

栄光と矛盾に満ちたチャールズ・ゴードンの、ドラマチックな生涯をまとめます。

目次

チャールズ・ゴードンの生い立ちとクリミア戦争での初陣

軍人の家系に生まれたチャールズ・ゴードンの幼少期

1833年、ロンドン近郊のウーリッジ。代々軍人を輩出してきた名門ゴードン家に、チャールズ・ジョージ・ゴードンは生まれました。父ヘンリー・ウィリアム・ゴードン(1786-1865)は王立砲兵隊の少将であり、厳格さを絵に描いたような人物でした。そんな家庭環境の中で育ったチャールズですが、少年時代は「手に負えない悪童」として有名だったといいます。

彼は極度のかんしゃく持ちで、気に入らないことがあるとすぐに暴れだす激しい気性の持ち主でした。1848年、15歳で王立陸軍士官学校(ウーリッジ)に入学してからもその性格は変わらず、規則違反や上官への反抗でしばしば問題を起こしています。ある時、下級生をいじめていた上級生に対し、頭から本を叩きつけて反撃したというエピソードも残っています。また、自分の階級章を引きちぎって投げ捨てるなど、権威に対する反発心も人一倍強い少年でした。

しかし、その一方で彼は、成長するにつれて深い宗教心に目覚めていきます。姉オーガスタの影響を強く受けた彼は、聖書を肌身離さず持ち歩き、すべての出来事を「神の意志」として受け入れる独特の精神世界を築き上げていきました。成績は優秀で、特に地図作成や築城術においては卓越した才能を見せ、1852年、王立工兵隊の少尉として任官しました。激しい攻撃性と敬虔な信仰心。この矛盾する二つの要素が、若きゴードンの中で奇妙に共存していたのです。

クリミア戦争の塹壕で見せたチャールズ・ゴードンの資質

1855年1月、21歳のゴードン少尉に最初の転機が訪れます。当時のヨーロッパを揺るがしたクリミア戦争への従軍です。ロシア帝国の南下政策に対し、イギリス・フランス・オスマン帝国が連合して戦ったこの戦争で、ゴードンはセヴァストポリの包囲戦に参加しました。泥まみれの塹壕の中で、彼は初めて「死」と直接向き合うことになります。

この極限状態において、ゴードンの特異な資質が開花しました。敵の砲弾が雨のように降り注ぐ中、彼は遮蔽物に隠れることもなく、平然と立ち上がって測量や陣地構築の指揮を執ったのです。周囲の兵士が恐怖に震える中、彼は「いつ死ぬかは神によって定められている。人間の意思でそれを避けることはできない」と語り、超然とした態度を崩しませんでした。この一種の宿命論的な死生観は、後の彼のキャリアを通じて一貫した特徴となります。

また、この戦場での盟友との出会いも重要でした。後にエジプトやスーダンで彼の命運を握ることになるジェラルド・グラハムや、ガーネット・ウルズリーといった若き将校たちとは、この塹壕戦を通じて生涯続く絆を結びました。極寒の地での過酷な任務は、ゴードンという青年に「軍人としての有能さ」と「現世への執着のなさ」を深く植え付けたのです。

ゴードンが「チャイニーズ・ゴードン」となった常勝軍の指揮

ウォードとバージヴィンが遺した常勝軍を継承するまで

クリミア戦争後、ゴードンは1860年に中国(清)へと派遣され、10月にはアロー戦争の最終局面である北京占領に参加しました。この時、彼はイギリス軍の一部として皇帝の離宮である円明園(ユアンミンユアン)の焼き討ちに立ち合い、その凄惨な光景を目撃しています。その後、1862年5月に上海へ配属され、太平天国軍の脅威から上海を防衛するための測量や作戦に従事することになりました。

当時、上海防衛のために組織されていたのが、西洋式の装備を持つ傭兵部隊「常勝軍」です。この部隊はアメリカ人のウォード・フレデリック・タウンセンドが創設しましたが、彼の戦死後に指揮を継いだH・A・バージヴィンは清朝側と対立し、敵である太平天国側に寝返るという裏切り行為に走ります。統制を失った常勝軍を立て直すため、規律あるイギリス正規軍の将校が必要とされ、1863年3月、ゴードンが正式に常勝軍の指揮官に就任しました。

ゴードンは就任直後から軍の改革に着手しました。略奪を厳禁し、定期的な給与支払いを保証することで兵士の信頼を勝ち取ると同時に、蒸気船を活用した水陸両用作戦で太平天国軍を次々と撃破していきます。彼の指揮スタイルは異様でした。彼は自衛用の銃を持たず、指揮棒(ステッキ)一本だけを持って最前線に立ち、弾丸が飛び交う中で平然と部隊を指揮したのです。兵士たちは彼に心酔し、こうして彼は「チャイニーズ・ゴードン」としての名声を確立していきます。

李鴻章との確執とチャールズ・ゴードンの怒り

常勝軍の活躍の裏には、清朝の実力者である李鴻章との協力関係がありました。李鴻章はゴードンの軍事的才能を高く評価していましたが、西洋的な騎士道を重んじるゴードンと、冷徹なリアリストである李鴻章との間には、埋めがたい溝がありました。その対立が決定的になったのが、1863年11月の蘇州陥落です。

ゴードンは蘇州の市民と兵士に対し、「武器を置けば人道的に扱う」と約束し、開城させました。しかし、ゴードンの部隊(常勝軍)は略奪防止のために街に入ることを禁じられ、代わりに李鴻章の率いる清朝帝国軍だけが入城しました。そこで、李鴻章は独断で、降伏した太平天国の将軍たちや数多くの捕虜を処刑してしまったのです。

約束を反故にされたゴードンの怒りは凄まじいものでした。彼は「私の名誉が汚された」と激昂し、装填済みの拳銃を持って李鴻章を殺そうと陣営中を探し回ったといわれています。李鴻章は慌てて逃げ隠れ、事態は深刻な外交問題に発展しかけました。最終的に二人は和解し、ゴードンは再び指揮を執ることになりますが、戦後、清朝皇帝から贈られた多額の報奨金や勲章を、彼は「汚れた金は受け取れない」として断固拒絶しました。このエピソードは、ゴードンの清廉潔白さを世界に印象づけると同時に、彼の性格がいかに妥協を許さない激しいものであるかを示しています。

同時代の日本と清国――ゴードンが見た東アジアの近代化

ここで少し視点を広げて、同時代の日本との関わりを見てみましょう。ゴードンが常勝軍を率いて活躍した1860年代前半は、日本ではまさに幕末の動乱期にあたります。彼が蘇州で激闘を繰り広げていた1863年は、日本では薩英戦争が起き、新選組が京都で活動していた時期です。海を隔てた二つの国で、西洋の軍事技術と伝統的な価値観が激しくぶつかり合っていました。

ゴードンと対立しつつも共闘した李鴻章は、後に清朝の外交・軍事の最高責任者となり、約30年後の日清戦争(1894-95年)において、日本の伊藤博文や陸奥宗光と対峙することになります。ゴードンが常勝軍に導入した「西洋式の規律と火力の集中」というコンセプトは、李鴻章が創設した淮軍(わいぐん)や後の北洋軍・北洋艦隊へと受け継がれていきました。

ゴードン自身は日本を訪れることはありませんでしたが、彼が中国にもたらした軍事近代化の衝撃は、間接的に日本の明治維新後の軍制改革にも影響を与えたと言えます。日本もまた、ゴードンが体現するような「西洋列強の圧倒的な武力」を目の当たりにし、急速な近代化へと舵を切らざるを得なかったからです。ゴードンの活動は、東アジア全体が「近代」という荒波に飲み込まれていく、その最前線の光景そのものでした。

チャールズ・ゴードンの慈善活動とナイル源流への探検

グレーブセンドでの「世捨て人」生活と信仰の深化

中国での任務を終えて1865年に帰国したゴードンを待っていたのは、国民的英雄としての熱狂的な称賛でした。しかし、名声を何よりも嫌う彼は、華やかなロンドンの社交界を逃げるように去り、テムズ川河口の町グレーブセンドで要塞建設の地味な任務に就くことを希望しました。この地で1871年頃まで過ごした約6年間は、ゴードンにとって「最も幸福で平穏な日々」となりました。

彼は公務以外の時間のほとんどを、貧困児童学校(ラッグド・スクール)での活動や慈善事業に捧げました。驚くべきことに、彼は給料のおよそ90%をこうした活動に費やしており、身寄りのない子供たちを自宅に招いては体を洗わせ、教育を施したのです。彼自身は粗食に甘んじ、家にある家具や装飾品はほとんど売り払ってしまいました。

この時期の彼の清廉さを象徴する、確実なエピソードが残っています。中国皇帝から贈られた最高位の栄誉『黄馬掛(こうばかい)』とは別に、彼のために特別に鋳造された大きな金メダルについてです。彼はそのメダルに刻まれた銘文をわざわざ削り取り、当時発生していたランカシャー地方の飢饉への救済資金として、匿名で寄付してしまったのです。「神への奉仕の前では、地上の栄誉は無意味だ」。そうした彼の態度は、ヴィクトリア朝社会において崇高であると同時に、理解不能な「変人」とも映りましたが、彼にとってはこの奉仕こそが軍人としての栄光よりも価値のある「真の任務」だったのです。

サミュエル・ベイカーの後任として挑む赤道州の開拓

しかし、世界は彼を放っておきませんでした。1874年、エジプトの統治者(クディーヴ)であるイスマイル・パシャからの熱烈な招聘を受け、ゴードンは再び未開の地へと向かいます。今度の舞台は中国ではなく、アフリカ・ナイル川上流の「赤道州(現在の南スーダンやウガンダの一部)」でした。彼の任務は、前任者である著名な探検家サー・サミュエル・ベイカーに代わり、この地域の地図を作成し、エジプトの支配権を確立することでした。

赤道州でのゴードンは、優れた実務家としての能力を発揮します。彼はナイル川の航行を妨げる巨大な浮草(サッド)を除去して航路を確保し、要塞(ステーション)を各地に築いて通信網を整備しました。また、部下であるアメリカ人探検家チャールズ・シャイリー・ロングを南方のブガンダ王国(現在のウガンダ)へ派遣し、ムテサ1世との外交関係を樹立させるなど、積極的な拡大政策をとります。

この時期、彼は医師であり語学に堪能なエドゥアルド・シュナイッツァー(後のエミン・パシャ)を側近として重用しました。1876年にゴードン自身がスーダン全土の総督に昇進すると、1878年には信頼するエミン・パシャを後任の赤道州知事に指名しています。しかし、現地の環境は過酷を極めました。マラリアや赤痢などの風土病が蔓延し、多くの部下が命を落としました。加えて、カイロから派遣されてくるエジプト人官吏たちの腐敗は目に余るものがあり、ゴードンは孤独な戦いの中で、次第に精神と肉体を消耗させていきます。

ゴードンによるスーダン全土の統治と奴隷貿易との戦い

イスマイル・パシャの野望とチャールズ・ゴードンの孤独な改革

1876年10月、ゴードンの赤道州での不屈の働きを評価したイスマイル・パシャは、彼に赤道州だけでなく、スーダン全土の総督総長(Governor-General)という強大な権限を与えることを約束しました。ゴードンはその後、1877年にかけてアビシニア(現在のエチオピア)国境での困難な外交交渉にあたり、1878年1月にハルツームに戻って、本格的にスーダン全土の統治を開始しました。ここから1879年(正式な辞任は1880年)までの約3年間、彼はこの広大な地域の統治に心血を注ぐことになります。

彼に託された最大の使命は、「奴隷貿易の撲滅」でした。当時のスーダン経済は、象牙と並んで黒人奴隷の売買によって成り立っており、地方の有力者や政府の役人までもがこれに関与して巨万の富を得ていたのです。ゴードンはこの巨悪に対し、妥協のない全面戦争を挑みます。「奴隷貿易は神の法に反する」という信念のもと、彼は高速のラクダに乗って広大な砂漠を信じられないスピードで移動し、神出鬼没に各地の検問所を視察しました。その移動距離は年間数千キロにも及び、いつどこに現れるかわからない「ゴードン・パシャ」の存在は、不正を行う役人たちを震え上がらせました。

しかし、この改革は困難を極めました。奴隷貿易の禁止は、スーダンの伝統的な経済構造を根底から破壊することを意味し、現地のアラブ系商人や部族長たちの猛烈な反発を招きました。また、カイロ政府内の高官たちとの関係も決して良好ではなく、ゴードンはその日記の中で、誰にも理解されない孤独と、終わりのない任務への絶望をたびたび書き残しています。

参謀ロモロ・ゲッシと共に挑んだ奴隷商人との死闘

この孤独な戦いでゴードンの唯一にして最強の味方となったのが、イタリア人の冒険家ロモロ・ゲッシです。ゴードンは彼を重用し、スーダン南部で活動する強力な奴隷商人勢力に対する軍事作戦を任せました。

当時、最大の脅威となっていたのは、スレイマン・ズベイールでした。彼の父である大海賊ズベイール・ラフマ・マンスゥルは1876年にカイロで拘禁されていましたが、息子のスレイマンはその跡を継いで1877年に反乱を開始し、私兵団を率いて政府軍に抵抗していたのです。ゲッシはゴードンの信頼に応え、少数精鋭の部隊を率いて2年以上にわたりスレイマン軍と死闘を繰り広げました。そして1879年7月15日、ゲッシはスレイマン・ズベイールをガラ(Gara)での戦闘で殺害することに成功します。

この勝利は、スーダンにおける奴隷貿易網に大打撃を与え、ゴードン統治下の最大の軍事的成果となりました。しかし、こうした武力による強引な制圧は、同時に新たな火種を生むことにもなりました。伝統的な生活様式や権益を侵害されたスーダンの人々の中に、「異教徒の支配者」に対する憎悪が静かに、しかし確実に蓄積されていったのです。ゴードンが正義を行えば行うほど、皮肉にも後の大反乱の土壌が耕されていくという悲劇的な構造が、そこにはありました。

チャールズ・ゴードンの彷徨とマフディーの乱への帰還

テウフィク・パシャ政権下での辞任と世界各地への放浪

1879年6月26日、ゴードンの最大の理解者であったイスマイル・パシャが、莫大な対外債務と財政破綻の責任を問われ、列強の圧力によって退位させられます。後を継いだ息子のテウフィク・パシャは、父のお気に入りであり、制御不能な力を持つゴードンを疎ましく思っていました。二人の関係は急速に冷え込み、ゴードンは1880年1月にスーダン総督を辞任し、傷心のままロンドンへ帰国しました。

ここからの数年間、ゴードンは迷走ともいえる放浪生活を送ります。インド総督リポン卿の秘書官に就任したかと思えば数日で辞任し、かつての戦場である中国へ旅立ったり、モーリシャスで工兵隊の任務に就いたり、南アフリカのケープ植民地で軍事顧問を務めたりと、世界各地を転々としました。しかし、どの職も長続きしませんでした。彼の非妥協的な性格と、「神の命令」以外に従おうとしない態度は、官僚的な組織の中では異物でしかなく、上層部と衝突しては辞表を叩きつけることを繰り返したのです。パレスチナでの隠遁生活では、聖書の記述に基づいた独自の考古学研究に没頭するなど、世捨て人のような側面も強めていきました。

スティードの世論工作とスーダン再派遣への決定的な流れ

その頃、ゴードンが去ったスーダンでは事態が一変していました。1881年6月29日、宗教指導者ムハンマド・アフマドが「マフディー(救世主)」を名乗り、外国支配と重税に苦しむ民衆を率いて蜂起したのです。これを「マフディーの乱」と呼びます。反乱は瞬く間に広がり、エジプト政府が派遣した鎮圧軍は次々と撃破されました。ゴードンの旧知であるバレンタイン・ベイカー(サミュエル・ベイカーの弟)率いる部隊も、エル・テブの戦いで壊滅的な敗北を喫します。

イギリスのグラッドストン政権は当初、スーダンへの不介入を決めており、現地のエジプト軍や外国人の撤退のみを望んでいました。しかし、ここで世論が大きく動きます。『ポール・モール・ガゼット』紙の編集長ウィリアム・トマス・スティードが、1884年1月9日にゴードンへの独占インタビューを掲載し、「スーダンの人々を見捨てるのか」「ゴードン・パシャなら、そのカリスマ性だけで事態を収拾できる」というキャンペーンを展開したのです。

「国民的英雄を再びスーダンへ!」。世論の熱狂は最高潮に達し、政府もこれを無視できなくなりました。グラッドストン首相らは、渋々ながらゴードンの再派遣を決定します。この決定には、エジプト総領事であるエヴリン・バリング(後のクロマー卿)が強く反対していました。彼はゴードンの不安定な性格を熟知しており、彼を送れば単なる「撤退任務」では済まなくなり、イギリスが泥沼の戦争に巻き込まれると予見していたのです。しかし、大衆の英雄が動き出した今、それを止めることは誰にもできませんでした。

チャールズ・ゴードン最後の317日――ハルツーム包囲戦の真実

バリング総領事との対立および救援軍の遅れ

1884年2月18日、ゴードンは再びハルツームに到着しました。市民は彼を救世主として歓呼で迎え、「ゴードン・パシャ万歳!」の声が街に響き渡りました。しかし、ゴードンはすぐに絶望的な現実を悟ります。マフディー軍の勢いは凄まじく、平和的な撤退など不可能な状態だったのです。彼は「撤退のためには、まずマフディー軍を叩かねばならない」と判断し、本国に援軍を要請します。

ここから、ゴードンの人生で最も長く、壮絶な戦いが始まります。カイロにいるバリング総領事やロンドンの政府は、「あくまで撤退が任務だ」として援軍派遣を拒否し続けました。ゴードンはこれに激しく反発し、「名誉ある撤退ができないなら、私はこの街と運命を共にする」と宣言。事実上、政府の命令を拒否してハルツームに留まる道を選びます。そして1884年3月13日、マフディー軍によってハルツームは完全に包囲されました。

孤立無援の中、ゴードンは巧みな指揮で防御戦を展開しました。独自の紙幣(約束手形)を発行して経済を回し、自ら病院を見回って負傷者を励ましました。彼は領事代理として現地にいたフランク・パワーズ記者を通じて、外部へ悲痛なメッセージを送り続け、イギリス国民の良心に訴えかけました。しかし、事態は悪化の一途をたどります。9月には頼みの綱であった副官J・D・H・スチュワート中佐らを蒸気船アッバス号で脱出させようとしましたが、船は座礁し、彼らはアブ・ハマド近郊で殺害されてしまいます。ゴードンはいよいよ、たった一人でこの街を支えなければならなくなりました。

マフディー軍の突入とチャールズ・ゴードンの最期

ゴードンの死を覚悟した訴えに、イギリス国内では女王ヴィクトリアまでもが政府の対応を批判し、ついに救援軍の派遣が決定されます。指揮を執ったのは、かつての戦友ガーネット・ウルズリー将軍でした。ウルズリーは全力を挙げてナイル川を遡行しますが、砂漠の過酷な環境とマフディー軍の抵抗により、進軍は遅々として進みませんでした。

ハルツーム市内の状況は限界に達していました。食料は尽き、ネズミや革靴まで食べる飢餓地獄となり、ナイル川の水位低下によって防御線に穴が開き始めていました。1885年1月26日未明、マフディー軍がついに総攻撃を開始し、市内に雪崩れ込みました。宮殿の階段の上で、ゴードンは正装に身を包み、静かに彼らを待ち受けていたとされます。

彼の最期については諸説あります。無抵抗のまま槍で刺されたとも、拳銃で数人を倒した後に討ち取られたとも言われています。彼の首は切り取られ、マフディーのもとへ届けられました。ウルズリー率いる救援軍の先遣隊が、ハルツームを望む地点に到着したのは、そのわずか2日後の1月28日のことでした。煙を上げる街を見て、彼らは自分たちが間に合わなかったことを悟ったのです。

チャールズ・ゴードンをもっと知るための本・資料ガイド

ゴードンの劇的な生涯は、多くの作家やクリエイターを刺激してきました。ここでは、彼の人物像をより深く理解するための作品をいくつか紹介します。

リットン・ストレイチー『ヴィクトリア朝の偉人たち』

1918年に発表されたこの伝記集は、それまでの「聖人ゴードン」という神話を解体した問題作です。著者のストレイチーは冷徹かつ皮肉な筆致で、ゴードンの宗教的熱狂、情動的な不安定性、そして自己破壊的な傾向を容赦なく暴き出しました。 第一次世界大戦後の「古い英雄像」への幻滅ムードの中で書かれた本書は、英雄を「悩み多き人間」として引きずり下ろしましたが、そのことで逆にゴードンという人間の複雑な魅力が浮き彫りになったとも言えます。聖人伝ではない、近代的な視点で彼を捉え直すための出発点となる古典的な一冊です。

映画『カーツーム』(1966年制作)

チャールトン・ヘストンがゴードンを、名優ローレンス・オリヴィエがマフディーを演じた歴史スペクタクル映画の大作です。史実とは異なる脚色もありますが、ゴードンの高潔さと頑固さ、そしてマフディーとの「信仰者同士の精神的な対決」が見事に描かれています。 特に、砂漠の孤独な風景と、死を覚悟してなお義務を遂行しようとするゴードンの悲壮な姿は、映像ならではの説得力があります。歴史の概略をドラマチックに把握するには最適の作品であり、ゴードン役のヘストンの演技は、彼の「偏屈な英雄」としての側面をよく表現しています。

陳舜臣『太平天国』・司馬遼太郎などの視点

日本の読者にとっては、中国を舞台にした作品からゴードンに入るのもおすすめです。陳舜臣の大作『太平天国』では、常勝軍時代のゴードンが登場します。中国側の視点から描かれることで、彼が単なる「西洋の英雄」ではなく、中国社会にとっては異質な介入者であり、しかしある種の潔癖さを持った人物として立体的に浮かび上がります。 また、司馬遼太郎も『坂の上の雲』などで、後に日清戦争で日本と対峙することになる李鴻章を描写する際、その背景として常勝軍やゴードンとの関わりに触れています。東アジア史の流れの中で彼を位置づけたい方には、こうした視点からのアプローチが非常に興味深いでしょう。

「ゴードン・パシャ」が遺したもの――帝国主義時代の光と影

チャールズ・ジョージ・ゴードンは、19世紀の大英帝国が掲げた「文明化の使命」を最も純粋に、そして最も過激に体現した人物でした。彼は富や名声を求めず、自らが信じる正義と神のために命を捧げました。その生き方は、金銭的利益を追求するだけの植民地経営とは一線を画しており、同時代のイギリス人にとって、失われつつある騎士道の具現化のように映ったことでしょう。

しかし、現代の視点から振り返れば、彼の行動は独善的な帝国主義そのものであったという評価も可能です。彼の改革は現地の文化や経済構造を無視した側面があり、結果としてマフディーの乱という激しい反発を招く一因ともなりました。彼は「聖人」であると同時に、圧倒的な力で他国をねじ伏せようとした「侵略の尖兵」でもあったのです。その熱意が空回りし、多くの血が流れたこともまた事実です。

それでもなお、ハルツームの官邸で救援を待ちながら、市民のために食料を配り、絶望的な日記を書き続けた彼の最後の317日は、人々の心を打ち続けています。それは、国家の論理や政治的な計算を超えて、一個の人間が自らの義務と運命に殉じようとした、凄絶な魂の記録だからかもしれません。ゴードンの死は、大英帝国の黄昏(たそがれ)を予感させる、美しくも悲しい象徴として今も語り継がれています。

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