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    九条兼実の生涯:頼朝と幕府を創り、法然に救いを求めた「玉葉」の主

    こんにちは!今回は、平安末期の動乱を「知性」と「記録」で戦い抜いた摂関家の麒麟児、九条兼実(くじょう かねざね)についてです。

    日記『玉葉』に世界のすべてを書き留め、源頼朝と手を組んで鎌倉幕府の設計図を描き、晩年は法然にすがって魂の救いを求め続けた男。政治の頂点(関白)と個人の内面(信仰)の両方において、これほど濃密な時間を生きた平安貴族は他にいないかもしれません。

    「道理」を武器に乱世と格闘し、最後は静かな祈りに辿り着いた九条兼実の、波乱と苦悩に満ちた生涯をひも解きます。

    目次

    危機感の中で九条兼実が日記『玉葉』を書き始めた理由

    摂関家の御曹司として父の藤原忠通から受け継いだ才覚

    九条兼実は、平安時代の貴族社会における最高の名門、藤原摂関家の御曹司として生を受けました。父は関白・藤原忠通です。兼実は幼い頃から、将来の政界を背負って立つエリートとして、厳格な英才教育を受けて育ちます。漢文を読みこなし、和歌を詠む。そして何より、「有職故実(ゆうそくこじつ)」と呼ばれる朝廷の儀式作法を、徹底的に叩き込まれたといいます。

    父・忠通は、保元の乱などをくぐり抜けてきた老練な政治家でしたが、兼実はその背中を見て成長しました。父から受け継いだのは、単なる知識だけではありません。「摂関家こそが天皇を補佐し、国家の秩序を守る存在である」という、強烈な自負と責任感です。幼少期に培われた、妥協を許さない知的な厳しさと政治への高い意識こそが、後の兼実の生き方を決定づける土台となりました。彼は若くして右大臣へと昇進しますが、その才能は周囲から一目置かれる一方で、煙たがられるほどの鋭さをすでに帯びていたのです。

    分裂する家門と兄の松殿基房に対する強烈なライバル心

    兼実が青年期を迎えた頃、摂関家の絶対的な権威はすでに揺らぎつつありました。特に父・忠通の死後、家督を巡る争いは複雑な様相を呈します。兼実の前に立ちはだかったのは、異母兄である基房(もとふさ)や、若くして亡くなった同母兄・基実の息子である甥の基通(もとみち)といったライバルたちでした。後に「近衛家」「松殿家」「九条家」などと呼ばれることになる摂関家分裂の萌芽が、まさにこの時、兄弟や甥との争いの中で生まれようとしていたのです。

    本来であれば、抜群の才覚を持つ兼実こそが順当に摂関の座を継ぐべき器でした。しかし、時の権力者である平清盛や後白河法皇の思惑により、彼はしばしば冷や飯を食わされる立場に置かれてしまいます。特に、異母兄の基房が平家と結んで関白の座に就いたことは、若き兼実にとって大きな屈辱でした。能力では勝っているはずの自分が、政治力学によって兄の後塵を拝する。この悔しさは、彼の中に「政治とは力なのか、道理なのか」という問いを深く刻み込みました。基房への対抗心と孤立感は、兼実をより一層、学問と記録の世界へと没頭させる要因となっていったのです。

    崩壊する儀式や先例を死守しようとした記録者としての使命

    こうした鬱屈とした日々の中で、兼実が並々ならぬ情熱を注いだのが、日記『玉葉(ぎょくよう)』の執筆です。彼が日記を書き始めたのは、単なる趣味や備忘録のためだけではありません。源平の争乱によって朝廷の秩序が崩れ、正しい儀式が行われなくなっていく現状に対し、「このままでは朝廷そのものが消滅してしまう」という強烈な危機感を抱いていたからです。もし儀式の手順や先例が失われれば、貴族社会はその存在意義を失いかねません。

    兼実は日記の中で、日々の政治情勢だけでなく、儀式の詳細な手順、天変地異、さらには人々が交わした噂話までをも克明に記録していきました。そこには、「正しい姿」を書き留めておくことで、いつか秩序が回復した際に参照できるようにしたいという、公家としての執念が込められています。『玉葉』とは、後世の研究者のために書かれた史料である以前に、混乱する現実の中で兼実自身が自己のアイデンティティと「あるべき政治の姿」を確認するための、孤独な戦いの記録でもあったといえるでしょう。

    平清盛への沈黙と抵抗の果てに九条兼実が貫いた道理

    右大臣として直面した平氏政権の専横と非道理な振る舞い

    兼実が政界で地位を固めつつあった時期、日本の政治は平清盛を中心とする平氏政権によって支配されていました。兼実は右大臣という高い地位にありましたが、実権は平家一門と、彼らと結託する異母兄・松殿基房らに握られているのが実情でした。兼実は、武力と財力に物を言わせて朝廷の慣例を無視する平家のやり方を、冷ややかな目で見つめていました。彼にとって政治とは「道理(物事の正しい筋道)」に基づくべきものであり、力の論理だけで押し切る平家の手法は、到底受け入れがたいものだったのです。

    平家の全盛期、公家たちは保身のために清盛の機嫌を伺うことに必死でしたが、兼実は安易に迎合することを拒みました。もちろん、表立って反抗すれば失脚や処罰の恐れがあるため、表面上は波風を立てないよう慎重に振る舞いましたが、その内面では平家の専横に対する批判的な視点を研ぎ澄ませていたといえます。あくまでも「朝廷の公事(公務)」を滞りなく行うことを最優先とするリアリストとして、彼は平家政権と一定の距離を保ち続けました。

    日記という密室で吐露した激しい怒りと毒舌の記録

    兼実の怒りが頂点に達したのは、かつて兄・基実の妻であり、平清盛の娘でもあった平盛子が亡くなった際の遺領問題です。本来であれば摂関家に返還されるべき膨大な荘園が、清盛の強引な手腕によって平家一門に横領されてしまったのです。兼実はこの暴挙に対して表立って抵抗する軍事力を持っていませんでしたが、日記『玉葉』の中では筆鋒鋭く清盛や平家一門を批判しています。

    日記の中で兼実は、「言語道断」「希代の事なり」といった激しい言葉を使い、平家の行いを糾弾しました。普段は冷静沈着な兼実ですが、日記という「密室」においては感情を露わにし、理不尽な現実に対する憤りを書き殴っています。これは単なる悪口ではなく、彼なりの「正義の告発」でした。現実世界では沈黙を強いられる分、日記の中では誰にも遠慮することなく「道理」を説く。そうすることで、彼は精神の均衡を保ち、政治家としての矜持を守り抜こうとしたのでしょう。

    治承寿永の乱という激動の中で保った公家社会の守護者としての矜持

    やがて治承四年(1180年)、源頼朝が挙兵し、各地で反平家の狼煙が上がります。いわゆる治承寿永の乱の始まりです。世の中が武力による解決へと急速に傾斜していく中で、兼実はあくまで「法と先例」に基づいた解決を模索し続けました。清盛が福原への遷都を強行した際も、兼実はその強引な手法を批判し、早期の京への還幸を主張し続けるなど、無言の抵抗を示しています。

    武士たちが血を流して争う外の世界に対し、内の世界である朝廷の秩序をいかに守り抜くか。この時期の兼実は、平家の専横に耐えながらも、来るべき新しい時代に誰と手を組むべきかを、慎重に見極めようとしていました。彼は決して平家と共に滅びるつもりはなく、かといって無謀な反乱分子に加担することもしませんでした。嵐が過ぎ去るのを待つ巨木のように、じっと「その時」を待ちながら、朝廷という組織が瓦解しないよう、現場監督として踏ん張り続けたのです。

    義仲に絶望した九条兼実が源頼朝に見出した武家の秩序

    木曾義仲の入京と狼藉によって直面した言語道断の現実

    平家一門が都落ちし、代わって京都に入ってきたのは木曾義仲でした。平家の圧政から解放された喜びも束の間、この義仲軍の入京は、兼実にとって新たな悪夢の始まりとなります。義仲の軍勢は都の作法を解さず、市中での略奪や乱闘が横行し、治安は極端に悪化しました。さらに義仲自身も、朝廷の微妙な政治力学を理解せず、無作法な振る舞いを繰り返します。

    兼実は『玉葉』の中で、義仲のことを「その体、人にあらず(その様子は人間ではない)」とまで酷評し、彼との対話が不可能であることに絶望しました。兼実にとって、政治とは高度な知的ゲームであり、共通のルールと言語が必要です。しかし義仲にはそれが通じませんでした。兼実が求めていたのは、単に平家を倒す武力ではなく、朝廷の権威を尊重し、理路整然と話ができる「話の通じる」政治パートナーだったのです。義仲への失望は、兼実に「武士とは野蛮なものだ」という偏見を強化させかねない出来事でした。

    鎌倉からの使者が示した礼節と共通する政治言語への希望

    そんな兼実の前に現れたのが、鎌倉の源頼朝からの使者でした。頼朝は義仲とは異なり、京の朝廷に対して極めて丁重な姿勢を示しました。彼は朝廷の伝統的権威を尊重し、失われた荘園や神領を元の持ち主に返還することを申し出たのです。また、頼朝からの書状は礼儀正しく、公家社会のルールを踏まえた見事なものでした。

    兼実はこの頼朝の提案に驚き、かつ歓喜しました。「この武士は、道理をわきまえている」。兼実が頼朝の中に見出したのは、暴力的な武士のイメージとは異なる、秩序を重んじる「法的な精神」です。頼朝とならば、言葉が通じる。頼朝とならば、崩壊した朝廷の秩序を立て直すことができるかもしれない。義仲に絶望していた反動もあり、兼実は鎌倉の頼朝に強い希望を抱きました。これは、公家と武家という立場の違いを超えて、秩序を愛する者同士が共鳴した瞬間でもあったといえるでしょう。

    後白河法皇との暗闘と朝廷再建のために選んだ武家との提携

    一方で、当時の朝廷にはもう一人の巨頭、後白河法皇が君臨していました。後白河法皇は「日本一の大天狗」と称される通り、権謀術数を駆使して武士たちを操り、自らの権力を維持しようとする変幻自在の政治家です。原理原則を重んじる兼実とは、水と油のような関係でした。法皇は義仲を利用したり、あるいは頼朝を牽制したりと猫の目のように態度を変えましたが、兼実は一貫して「頼朝との提携こそが朝廷再建の道」と確信し、鎌倉とのパイプ役を買って出ます。

    頼朝もまた、京都の朝廷政治を円滑に進めるためには、法皇の恣意的な政治を抑え込み、理路整然と実務をこなせる人物が必要だと痛感していました。こうして利害が一致した二人は急速に接近します。頼朝は朝廷に対し、兼実を天皇への奏上文書を事前に確認できる「内覧(ないらん)」の地位に就けるよう強く後押しし、さらに事実上の執政者として国政を任せるよう働きかけました。これは、頼朝が兼実を「朝廷における自分の代理人」として指名したに等しい行為です。義仲への絶望から始まった兼実の模索は、頼朝という最強のパートナーを得て、ついに実を結び始めたのでした。

    鎌倉幕府の設計図として九条兼実が実現した征夷大将軍

    頼朝との二人三脚で進めた戦後処理と摂政への就任

    源頼朝の全面的なバックアップを得て、文治二年(1186年)、九条兼実はついに念願の摂政(のちに関白)に就任しました。これは、長年ライバル関係にあった近衛基通や松殿基房を排しての勝利であり、九条家という新たな摂関家が確立された瞬間でもあります。ここから、兼実と頼朝による「公武協調」の黄金時代が幕を開けました。

    兼実は頼朝の武力を背景に朝廷の引き締めを図り、頼朝は兼実の知恵を借りて東国支配の正統性を確立していきました。二人は頻繁に書状を交わし、綿密な打ち合わせのもとで戦後処理を進めていきます。兼実は摂政就任の前後からその実務能力を遺憾なく発揮し、「新制」と呼ばれる一連の法令を発布して荘園の整理や警察権の強化を図りました。これらは頼朝の意向を汲んだものであり、鎌倉の実力行使を朝廷が法的に追認する形をとることで、無用な摩擦を避ける知恵だったのです。

    朝廷内の反対をねじ伏せて実現させた征夷大将軍の称号

    この時期の兼実の最大の功績の一つは、頼朝の「征夷大将軍」就任を実現させたことです。実は、朝廷内には頼朝に大きな権限を与えることへの警戒感が根強くあり、特に後白河法皇は頼朝に高い官位を与えることを渋り続けていました。頼朝自身はこの称号を強く望んでいましたが、法皇の存命中は実現が困難な状況が続いていたのです。

    しかし、建久三年(1192年)に法皇が崩御すると、兼実は素早く動きました。彼は反対派の公家を抑え込み、頼朝を征夷大将軍に任じる手続きを進めたのです。兼実は、武家の棟梁である頼朝に公的な地位を与えることで、逆に彼を朝廷のシステムの中に組み込み、カオス状態だった武士の支配権を安定させようとしました。これは、のちに700年近く続く「幕府」というシステムの基礎設計図を、公家の側から引いたようなものといえます。兼実の尽力がなければ、鎌倉幕府の成立はもっと遅れていたか、あるいは違う形になっていたかもしれません。

    娘の任子を入内させて次世代へつなごうとした九条家の繁栄

    さらに兼実は、自らの娘である九条任子(にんし)を、若き後鳥羽天皇に入内させ、中宮(皇后)とすることに成功します。これは摂関家として、天皇の外戚となり権力を盤石にするための常套手段でした。同時に、兼実の嫡男・九条良経(よしつね)も順調に昇進し、天才的な和歌の才能で朝廷に華を添えていました。

    娘が天皇の后となり、息子が次代を担う。そして東国には頼朝という強力な後ろ盾がいる。この時期、兼実の人生はまさに絶頂にあり、彼が理想とした「公家と武家が手を取り合う平和な世」が実現したかに見えました。九条家は名実ともに朝廷の筆頭となり、兼実の構想した政治秩序は完成に近づいているように思われました。しかし、その繁栄の足元には、すでに不穏な亀裂が走り始めていたのです。政治の世界における権力は水物であり、頂点を極めた瞬間から、下り坂が始まっていたのかもしれません。

    頼朝の沈黙と政変による失脚で九条兼実を襲った政治力学

    源通親の策謀と頼朝の静観によって梯子を外された建久七年の政変

    兼実の権勢は盤石に見えましたが、建久年間に入ると状況は暗転し始めます。その最大の要因は、成長した若き帝、後鳥羽天皇の存在と、兼実の政敵である源通親(みなもとの みちちか/土御門通親)の台頭でした。後鳥羽天皇は、兼実のような堅苦しい有職故実の大家よりも、柔軟で機知に富んだ通親を好みました。通親は村上源氏の出身で、巧みな政治手腕と愛想の良さで帝や宮中の女性たちの心をつかんでいったのです。

    さらに悪いことに、兼実の娘・任子は天皇との間に内親王(皇女)しか産めませんでしたが、通親は妻の連れ子(在子)を自らの養女として強引に入内させ、その娘が見事に皇子(のちの土御門天皇)を産んだのです。これにより、外戚としての地位獲得競争において、兼実は決定的に不利な立場に追い込まれました。通親はこの機を逃さず、反兼実派を結集して兼実の排斥を画策します。建久七年(1196年)、ついに「建久七年の政変」が勃発し、兼実は関白を罷免され、娘の任子も宮中から追放されるという屈辱を味わうことになります。

    なぜ盟友だった頼朝は兼実を見限ったのかという孤立無援の失脚劇

    この政変の際、兼実が頼みの綱としたのは盟友であるはずの源頼朝でした。しかし、ここで頼朝は冷徹な判断を下します。兼実を守るために介入するのではなく、静観を決め込んだのです。あれほど協力し合った仲だったにもかかわらず、なぜ頼朝は兼実を見限ったのでしょうか。

    一説には、頼朝自身も娘(大姫)を入内させようとしており、その障害となる兼実の娘・任子の存在が邪魔になったとも言われています。また、兼実を切り捨ててでも、朝廷の実権を握り始めた通親や、宮中の女性実力者である丹後局(たんごのつぼね)といった勢力と結ぶ方が、幕府にとって得策だとドライに判断した可能性もあります。頼朝にとって兼実はあくまで「政治パートナー」であり、利用価値が下がれば切り捨てられる存在だったのかもしれません。頼朝の沈黙は、兼実にとって通親の攻撃以上に手痛い打撃であり、政治家としての彼の心を折る決定打となりました。

    頼朝の死によって完全に閉ざされた政治への復帰の道

    失脚後、兼実は隠居状態となりながらも、心のどこかで政界復帰の機会をうかがっていました。政治情勢が変われば、また頼朝が自分を必要とする時が来るかもしれない。そんな一縷の望みを持っていたのです。しかし、建久十年(1199年)、その頼朝が急死してしまいます。

    かつて「公武協調」の夢を共に描いた盟友の死は、兼実にとって政治生命の完全な終わりを意味していました。頼朝亡き後の鎌倉幕府は内部抗争に明け暮れ、京都の兼実を顧みる余裕などありません。こうして、兼実の政治的な復権の道は完全に閉ざされました。彼は政治の表舞台から去り、内面世界へと大きく舵を切ることを余儀なくされます。しかしそれは、彼にとって新たな人生の、そして本当の意味での「救い」を探す旅の始まりでもあったのです。

    相次ぐ肉親の死と法然への帰依で九条兼実が見つけた光

    愛息の良経らに先立たれた相次ぐ不幸と深まる孤独

    政治の第一線から退いた兼実を待っていたのは、静かな余生だけではありませんでした。相次ぐ肉親の死という、耐え難い不幸が彼を襲ったのです。まず、最愛の妻が亡くなり、家庭内の安らぎが失われました。さらに、兼実の期待を一身に背負い、父の後を継いで摂政となっていた嫡男・九条良経までもが、父より先に急死してしまいます。良経は歌人としても政治家としても極めて優秀であり、兼実にとって自慢の息子であると同時に、九条家の未来そのものでした。

    弟や親しい人々も次々と世を去っていきました。自らが心血を注いで築き上げた政治的地位を失い、さらに家族まで失った兼実の心には、底知れぬ孤独と虚無感が広がっていたことでしょう。「道理」を貫いて生きてきたはずなのに、なぜ自分はこれほど多くのものを失わなければならないのか。現実の厳しさは、彼の知性や誇りだけでは支えきれないほど重いものでした。

    『選択本願念仏集』誕生の背景にある法然との師弟愛

    そんな失意の兼実の心を救ったのが、浄土宗の開祖・法然(ほうねん)でした。兼実は以前から仏教に関心を持っていましたが、晩年は特に法然に深く帰依するようになります。法然が説く「南無阿弥陀仏と唱えれば、どのような罪深い人間でも救われる」という専修念仏の教えは、厳格な儀式や形式(=有職故実)に生涯を捧げてきた兼実にとって、まったく新しい救いの形でした。

    兼実は法然を師と仰ぎ、月輪(つきのわ)の屋敷に招いては、公卿の身分を忘れて地べたに座るような謙虚さで教えを請いました。この師弟関係から生まれたのが、日本仏教史に残る名著『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』です。兼実は法然に対し、「あなたの教えの真髄を書き残してほしい」と強く懇願しました。当初、法然は秘伝の教えを文字にすることをためらっていましたが、兼実の熱意にほだされ、ついに筆を執ったと伝えられています。兼実は政治家としての「記録への執念」を、最後は「信仰の記録」へと昇華させ、後世に偉大な遺産を残したのです。

    承元の法難と親鸞らとの縁を経て政治家から求道者へ至る最期

    また、法然の弟子である親鸞(しんらん)と兼実の間にも、深い縁があったという伝承が残されています。親鸞が兼実の娘(玉日)と結婚したという説や、兼実の支援を受けたという逸話が語り継がれていますが、史実としての確証はありません。しかし、こうした物語が生まれたこと自体、兼実が単なる権力者ではなく、新しい仏教の庇護者として人々から敬愛されていたことを物語っています。

    承元元年(1207年)、法然が流罪となる「承元の法難」が起きた際、兼実はすでに政治力を失っていながらも、師を守ろうと必死に奔走しました。しかしその甲斐なく、法然は土佐へ配流されてしまいます。そして同年、法然との別れからわずか数ヶ月後の四月、兼実は59歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。まるで師のいない現世にもはや未練はないとでも言うかのように。権謀術数が渦巻く政治の世界で「道理」を求め続け、最後は「祈り」の中に安らぎを見出した九条兼実。その最期は、かつての権力者としての華やかさはなくとも、一人の求道者として満ち足りた静けさの中にあったのかもしれません。

    九条兼実をもっと知るための本と資料ガイド

    ここでは、九条兼実という人物をより深く、立体的に理解するための作品や資料を紹介します。映像作品から本格的な史料まで、興味に合わせて手に取ってみてください。

    ドラマ『鎌倉殿の13人』が描いた変わり者の兼実像

    2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、ココリコの田中直樹さんが九条兼実を演じました。この作品での兼実は、公家特有の「もって回った言い方」をする変わり者として描かれつつも、源頼朝(大泉洋)と奇妙な友情を結ぶ知的なパートナーとしての側面が強調されていました。

    特に印象的だったのは、兼実が頼朝に対して「朝廷の理屈」を説くシーンや、政治的な駆け引きの中で見せる冷徹な表情です。ドラマならではの脚色はありますが、「武士に理解を示した唯一の公卿」という兼実の歴史的な立ち位置が分かりやすく表現されています。ドラマを入り口にすることで、「堅苦しいお公家さん」というイメージの裏にある、彼の人間臭さや苦悩を感じ取ることができるでしょう。

    弟が見た兄の苦闘を描く慈円の『愚管抄』

    兼実を理解する上で外せないのが、同母弟である慈円(じえん)が著した歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』です。天台座主という仏教界のトップに立った慈円は、兄・兼実を政治的に支え続けた最大の理解者でもありました。

    『愚管抄』の中で慈円は、武士の台頭を「道理(歴史の必然的な流れ)」として捉え、その変化に対応しようとした兄・兼実の姿勢を肯定的に描いています。歴史の転換点において、兄がいかに苦心して朝廷を守ろうとしたか、その内面を最も近くで見ていた弟の証言は貴重です。現代語訳も出版されていますので、当時の知識人が歴史をどう見ていたのか、その生の思考に触れてみてください。

    難解な『玉葉』を読み解く五味文彦氏の研究

    兼実自身が書いた『玉葉』は、漢文で書かれた膨大な日記であり、原文を読みこなすのは至難の業です。しかし、そこには歴史の真実が詰まっています。この『玉葉』の世界を一般読者にも分かるように解説しているのが、歴史学者・五味文彦氏の著作です。

    例えば『「玉葉」を読む―九条兼実の日記』(山川出版社)などは、兼実の視点から見た源平争乱のリアルな姿を鮮明に浮かび上がらせてくれます。なぜ彼があの時あのような記述をしたのか、その行間に隠された政治的意図や感情を読み解く知的興奮は、歴史好きにはたまりません。教科書的な記述だけでは分からない、生々しい中世の政治現場を体感できる一冊といえるでしょう。

    乱世を記録し祈りに生きた九条兼実の真実

    武士の世が始まろうとする激動の時代、九条兼実は「記録」と「道理」を武器に、朝廷という古い秩序を守り抜こうとしました。彼は源頼朝という異質の存在と手を組むことで、鎌倉幕府という新しいシステムの設計に深く関与します。その意味で、彼は時代の単なる傍観者ではなく、時代を動かした変革者の一人だったといえるでしょう。

    しかし、政治家としての彼は、冷徹な権力闘争の末に敗れ去りました。それでも彼が歴史に名を残したのは、失意の中で出会った法然の教えに救いを求め、信仰者としての生を全うしたからに他なりません。『玉葉』に残された膨大な記録と、彼が守り育てた浄土教の精神は、今も私たちに乱世を生き抜く人間の強さと弱さを語りかけています。

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