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櫛田民蔵とは誰?日本マルクス経済学の先駆者の生涯と思想を徹底解説

こんにちは!今回は、日本におけるマルクス経済学の先駆者であり、価値論・地代論をめぐる論争の旗手として活躍した経済学者、櫛田民蔵(くしだ たみぞう)についてです。

福島の農家に生まれ、苦学の末に学問の道を切り開いた櫛田は、河上肇に学び、大原社会問題研究所で研究に没頭し、日本のマルクス経済学を飛躍的に発展させました。小泉信三らとの論争を繰り広げた直情的な学者は、49歳の若さで急逝するまで情熱を燃やし続けました。

彼の激動の生涯と、後世に残した功績を見ていきましょう!

目次

福島の農村に生まれた少年時代

櫛田家の家系と農村での暮らし

櫛田民蔵は、1885年に福島県石城郡小川村(現在のいわき市小川町)に生まれました。櫛田家は代々農業を営む家系で、地域のほとんどの家庭と同様に、自給自足の生活を基本としていました。米や麦、野菜などを栽培し、時には副業として養蚕や薪の販売を行いながら家計を支えていました。

当時の日本は明治政府による近代化政策が進められていましたが、農村の暮らしは依然として厳しく、特に小作農は地主に多くの収穫を納めなければならず、生活に苦しむ家庭も多かったといいます。櫛田家も決して裕福ではなく、民蔵は幼い頃から農作業を手伝いながら育ちました。

春には田植え、夏には草取りや害虫駆除、秋には稲刈りと、季節ごとに異なる作業に追われる日々でした。農閑期となる冬には、薪割りや家畜の世話のほか、家計を助けるために家族総出で副業に励むこともありました。こうした厳しい生活の中で、民蔵はなぜ農民はこれほどまでに苦しい生活を送らなければならないのか、社会の仕組みとはどのようになっているのかといった疑問を抱くようになったと考えられます。

学問への興味を育んだ地域の教育環境

福島県の農村では、教育の機会はまだ限られていましたが、小川村には小学校があり、民蔵もそこに通いました。明治政府は国民の教育水準を向上させるため、1872年に学制を制定し、義務教育の普及を進めていました。しかし、農村では子どもが家計を支える重要な労働力であったため、学校を途中で辞めることも珍しくありませんでした。

そんな中、民蔵は幼い頃から本を読むことが好きで、学問に強い興味を持っていたため、学校の授業を熱心に受けました。特に国語の授業では、漢文の素読が重視されており、『論語』や『孟子』といった古典に触れる機会もありました。こうした学習を通じて、学ぶことの楽しさを知り、次第により高度な教育を受けたいと願うようになっていきました。

また、小川村の学校には熱心な教師が多く、自由民権運動の影響を受けた教育者もいました。彼らは単に知識を教えるだけでなく、社会の仕組みや政治の動向についても関心を持つように指導していました。民蔵はこうした教師の影響を受け、学問が単なる個人の成功のためだけでなく、社会全体をより良くするために役立つものだと考えるようになりました。

さらに、学校の蔵書だけでなく、村の知識人が持っていた本や新聞を読む機会にも恵まれました。時には町へ出て書店で立ち読みをしたり、他の村から借りた本を読んだりすることもあったそうです。こうした経験が、彼の知的好奇心をさらに強め、将来的により広い世界へ飛び出していくきっかけとなりました。

少年時代に影響を与えた福島の社会状況

民蔵が育った明治後期の福島県は、日本全体の近代化の影響を強く受けながらも、多くの社会問題を抱えていました。特に農村部では、地主制度のもとで小作農が増え、貧富の差が拡大していました。1873年に政府が地租改正を行ったことで、土地を手放す農民が増え、地主に土地を借りる小作農が急増しました。地主に納める小作料の負担は大きく、豊作であっても農民の生活は厳しいものでした。

福島県では、小作農の生活苦が深刻化し、農民たちによる小作争議が頻繁に起こっていました。農村では、不作の年には借金を重ねなければならず、借金が返せないまま土地を失う農民も少なくありませんでした。こうした社会の現実を目の当たりにしながら育った民蔵は、経済的な不平等や社会構造の問題に対して強い関心を持つようになったと考えられます。

また、この時代は自由民権運動が活発に行われていた時期でもありました。福島県では1879年に福島事件が発生し、自由民権運動の指導者であった河野広中らが弾圧を受けました。この事件をきっかけに、福島の農村にも政府に対する不満や政治意識が広がっていきました。小川村の人々の間にも、政治や社会改革についての関心が芽生え、村の集会や談話の場でそうした話題が取り上げられることもあったといいます。

さらに、当時の日本は富国強兵政策のもとで軍備拡張を進めており、徴兵制度が導入されていました。農村の若者は次々と兵士として徴集され、日清戦争(1894~1895年)や日露戦争(1904~1905年)に駆り出されていきました。民蔵の周囲でも、戦争に出たまま帰らない者がいたり、戦争から戻っても生活に苦しむ人がいたりと、戦争が農村社会に与える影響は決して小さくありませんでした。こうした現実を見て育った民蔵は、なぜ戦争が繰り返されるのか、なぜ農民がその負担を強いられるのかという疑問を抱くようになりました。

このように、櫛田民蔵の少年時代は、農村の貧困と社会の不平等を身をもって経験する中で、学問への関心を深め、より広い世界へと目を向ける契機となりました。彼はこの後、学問を志して福島を離れ、東京での学びへと進んでいくことになります。

苦学の末に東京外国語学校へ

経済的困難を乗り越えた学びの日々

櫛田民蔵は、幼い頃から学問に強い関心を抱いていましたが、農村の出身である彼にとって、高等教育を受けることは容易なことではありませんでした。福島県の農村では、家計を支えるために子どもが労働に従事するのが当たり前の時代でした。彼の家も決して裕福ではなく、中等教育への進学には大きな経済的負担が伴いました。

しかし、民蔵の向学心は揺るぎませんでした。彼は家計を助けるために農作業を手伝いながらも、夜になると灯火の下で本を読み、知識を吸収することに励みました。当時、福島の農村では書籍を手に入れること自体が難しかったため、彼は地域の知識人や教師から本を借り、何度も繰り返し読んだといいます。また、町に出た際には書店に立ち寄り、限られた小遣いで古書を買い求めることもありました。

そんな民蔵の努力を見た地元の教師や支援者たちは、彼の才能と情熱を評価し、学問の道を進むよう励ましました。当時の日本では、高等教育を受けるためには学費や生活費が大きな障壁となっていましたが、彼は奨学金や働きながらの学業によってその困難を乗り越えました。特に、新聞配達や雑用などの仕事をしながら学費を稼ぐ日々が続き、睡眠時間を削ることもしばしばあったといいます。それでも、彼は決して学ぶことを諦めず、最終的に東京外国語学校への進学を果たしました。

東京外国語学校での学問と思想形成

1900年代初頭、民蔵は東京外国語学校に入学しました。当時の東京外国語学校は、政府の近代化政策の一環として設立され、外交官や通訳官の養成を目的としていました。民蔵が専攻したのはフランス語であり、この選択は後の彼の学問的活動に大きな影響を与えることになります。

フランス語を学ぶことは、単なる語学の習得にとどまらず、西洋の思想や文学、社会科学への窓を開くことを意味していました。当時の日本では、西欧の経済学や哲学が急速に紹介されており、フランスをはじめとするヨーロッパの社会主義思想にも関心が高まっていました。民蔵もまた、フランスの経済学や社会思想に触れる中で、次第に社会問題に対する理解を深めていきました。

東京外国語学校での学びは、彼にとって新しい世界への扉を開く経験となりました。福島の農村で感じていた社会の矛盾や不平等に対する疑問を、理論的に解明する手がかりを得ることができたのです。特に、フランスの社会主義思想や経済学の書物を読むことで、日本の社会構造を批判的に考察する視点を養っていきました。

また、この時期に出会った教師や学友たちも、彼の思想形成に影響を与えました。彼は、経済的に困難な状況にありながらも学問を志す仲間たちと交流し、互いに刺激を受けながら議論を交わしました。こうした経験が、彼を単なる語学学習者ではなく、社会問題を探究する学者へと導いていくことになったのです。

社会問題への関心の芽生え

東京での生活は、民蔵にとって単なる学問の場ではなく、日本の社会をより広い視野で観察する機会ともなりました。彼が東京に出た1900年代初頭の日本は、近代化が急速に進む一方で、貧富の格差や労働問題が深刻化していました。特に、都市部では工業化に伴い労働者階級が増加し、劣悪な労働環境や低賃金に苦しむ人々が多くいました。

東京外国語学校で学ぶ一方で、民蔵はこうした社会の現実にも目を向けるようになりました。彼は新聞や雑誌を通じて時事問題を学び、都市の貧困層や労働者の生活に関する記事を注意深く読んでいたといいます。また、社会主義運動や労働運動の高まりも、彼の関心を引きました。

この時代、日本では幸徳秋水や片山潜といった社会主義者が活動を展開しており、社会問題に対する意識が高まりつつありました。特に1901年には、日本初の社会主義政党である社会民主党が結成されるなど、労働者の権利を訴える動きが活発化していました。こうした状況の中で、民蔵は社会問題を学問的に分析し、解決策を模索する必要性を感じるようになったのです。

彼は、東京の街を歩きながら、福島の農村とは異なる貧困の現実を目の当たりにしました。農村では地主と小作農の格差が問題でしたが、都市部では工場労働者が資本家によって搾取される構造が浮かび上がっていました。こうした現象をどのように理論的に説明し、解決へと導くべきかを考えるうちに、彼の関心は次第に経済学へと向かっていきました。

このように、東京外国語学校での学びと都市生活の経験は、彼に社会の不平等を理論的に理解するための基盤を与えました。そして、彼は次なる学びの場として京都帝国大学へ進学し、本格的に経済学を探究する道を歩み始めることになります。

京都帝国大学での学びと河上肇との出会い

京都帝大進学と専攻分野の選択

東京外国語学校でフランス語と西洋思想を学んだ櫛田民蔵は、さらに高度な学問を志し、京都帝国大学へ進学しました。京都帝国大学(現在の京都大学)は、1897年に設立された日本で二番目の帝国大学であり、東京帝国大学とは異なる自由な学風で知られていました。当時、日本では経済学が学問として確立しつつあり、欧米の経済学理論が次々と導入されていました。

民蔵は経済学を専攻し、特に社会問題に関連する理論に強い関心を持ちました。東京での経験を通じて、農村の貧困や都市の労働問題を学問的に分析する必要性を感じていた彼にとって、経済学は社会の不平等を解明するための有力な手段となりました。京都帝大では、西洋の経済理論を学ぶことができるだけでなく、当時の日本の社会経済状況についての研究も盛んに行われていました。そのため、彼は日本の資本主義や農業経済の実態を学びながら、自らの研究テーマを模索していきました。

この時代、日本の経済学界では、主流派の古典派経済学のほかに、社会主義的な視点からの経済学研究も台頭し始めていました。特にドイツの歴史学派の影響を受けた研究者が増えており、経済を歴史的に分析するアプローチが注目を集めていました。民蔵もまた、経済現象を単なる数式や理論で説明するのではなく、歴史的・社会的な文脈の中で考察することに興味を抱くようになりました。

河上肇との師弟関係と思想的影響

京都帝大での学びの中で、民蔵にとって最も大きな影響を与えた人物の一人が、経済学者の河上肇でした。河上肇は、当時すでに著名な経済学者であり、貧困問題に深い関心を持ち、社会主義的な視点から日本の経済構造を分析していました。彼の代表作『貧乏物語』は、日本の社会問題を鋭く指摘し、多くの読者に衝撃を与えました。

民蔵は、河上肇の講義に魅了され、彼のもとで本格的に経済学の研究を進めることを決意しました。河上肇は理論だけでなく、実際の社会問題に即した研究を重視しており、貧困層や労働者の実態を知ることの重要性を説いていました。彼の授業では、マルクス経済学やドイツ歴史学派の影響を受けた経済学が論じられ、日本資本主義の特異性についての議論が行われていました。

民蔵は、河上肇のもとで学ぶことで、経済学が単なる理論的研究にとどまらず、社会変革のための道具となり得ることを実感しました。彼は、師の思想を深く理解するために、多くの文献を読み込み、討論を重ねました。また、河上肇は研究者としてだけでなく、人間的にも魅力的な人物であり、民蔵は彼の真摯な姿勢や社会への献身に強い影響を受けたといわれています。

二人の関係は、単なる師弟関係にとどまらず、思想を共有する同志のようなものでした。河上肇は民蔵の研究意欲を高く評価し、彼に対して積極的に助言を与えました。後年、民蔵がマルクス経済学の研究に没頭するようになった背景には、河上肇の影響が大きくあったと考えられます。

マルクス主義との出会いとその背景

京都帝大で学ぶ中で、民蔵は次第にマルクス経済学に強い関心を持つようになりました。日本では明治時代後半から、西洋の社会主義思想が紹介され始めていましたが、本格的にマルクス主義が学問として取り上げられるようになったのは、大正時代に入ってからでした。

当時、日本の経済学界では、マルクス経済学に対して懐疑的な意見も多く、政府も社会主義的な思想の普及を警戒していました。しかし、河上肇をはじめとする一部の学者は、マルクスの『資本論』を学び、日本の資本主義の構造を分析するための理論的枠組みとして活用しようとしていました。

民蔵もまた、マルクスの経済学に魅了され、その理論を日本の社会経済の分析に応用できるのではないかと考えるようになりました。彼は『資本論』を原文で読み、マルクスの思想の本質を理解しようと努めました。当時、マルクス経済学の研究にはドイツ語やフランス語の文献を読む必要がありましたが、東京外国語学校での学びがあったため、民蔵は語学の壁を乗り越えて深い研究を進めることができました。

また、この時期には、日本国内でも資本主義の発展に伴う労働運動が活発になり、社会主義思想に関心を持つ学生や知識人が増えていました。民蔵は、京都帝大の学友たちとともに、こうした社会の動きを注視し、資本主義の矛盾について議論を重ねました。特に、日本の農村経済の特殊性や、地主制度の影響について考察を深め、日本の社会構造を理論的に解明することを目指しました。

こうして、京都帝大での学びと河上肇との出会いは、民蔵にとって決定的な転機となりました。彼は単なる学問的な探求者ではなく、社会の変革を志す知識人としての道を歩み始めたのです。この後、彼は東京帝国大学大学院へと進み、さらに経済学の研究を深めていくことになります。

東京帝大大学院での研究と思想の深化

大学院での研究テーマと学問的成長

京都帝国大学で経済学を学び、河上肇の指導のもとで社会問題に対する関心を深めた櫛田民蔵は、さらなる学問的探究を志し、東京帝国大学大学院へ進学しました。当時の東京帝国大学(現在の東京大学)は、日本の最高学府として位置づけられており、経済学研究においても国内随一の学術環境が整っていました。

民蔵が大学院で取り組んだ研究テーマの一つは、日本の資本主義の特質に関する分析でした。日本は明治維新以降、西欧の産業革命を模範としながら急速な経済成長を遂げましたが、その発展の過程には独自の特徴がありました。特に、地主制度のもとでの農村経済の構造や、労働者階級の形成といった問題が、彼の関心の中心にありました。

また、彼は経済学の理論を用いて、当時の日本における貧困や格差の根本的な原因を解明しようと試みました。日本では、西洋の経済学理論がそのまま適用できるのか、それとも日本独自の歴史的背景を踏まえた新たな理論が必要なのかという議論が活発に行われていました。民蔵もこの議論に積極的に参加し、日本の経済構造を理論的に整理しようと努めました。

大学院での研究を通じて、彼は経済学の方法論にも関心を持つようになりました。統計データを用いた実証分析や、歴史的資料を基にした経済史研究など、さまざまなアプローチを駆使しながら、日本資本主義の実態を明らかにしようとしました。こうした学問的努力が、後の彼の研究の基盤を築くことになったのです。

日本における経済学研究の潮流

東京帝大大学院時代の民蔵は、日本における経済学の研究動向を深く理解するようになりました。当時、日本の経済学界では大きく分けて三つの潮流が存在していました。一つは、イギリスのアダム・スミスやデヴィッド・リカードに代表される古典派経済学を基盤とした自由主義経済の立場。二つ目は、ドイツの歴史学派の影響を受け、経済を歴史的文脈の中で理解しようとする立場。そして三つ目が、マルクス経済学を軸にした社会主義的な視点でした。

民蔵は、特にマルクス経済学に強い関心を持ち、その理論を日本社会に適用することを試みました。マルクス主義は資本主義の矛盾を指摘し、労働者階級の解放を目指す理論として広まりつつありましたが、日本ではまだ学問としての体系化が十分に進んでいませんでした。彼は、西洋の理論をそのまま受け入れるのではなく、日本の社会構造を考慮した形でマルクス経済学を発展させる必要があると考えていました。

また、当時の日本では「日本資本主義論争」と呼ばれる大きな学術的対立が生じていました。これは、日本の資本主義がどのように発展してきたのか、またその特質が欧米とどのように異なるのかをめぐる議論でした。民蔵はこの論争にも関心を持ち、自らの研究の中で日本の経済発展の独自性を追求しようとしました。

海外文献の研究とマルクス経済学の探求

東京帝大大学院では、西洋の経済学文献を原語で研究することが求められました。民蔵はフランス語を得意としていたことに加え、大学院時代にはドイツ語の習得にも励みました。これは、マルクス経済学の重要な文献の多くがドイツ語で書かれていたためです。彼は、マルクスの『資本論』を原文で読み込み、その理論をより深く理解しようとしました。

また、彼はマルクスだけでなく、エンゲルスやローザ・ルクセンブルク、カール・カウツキーといった社会主義経済学者の著作にも目を通しました。これらの研究を通じて、彼はマルクス経済学の多様な解釈や発展の可能性について考察を深めていきました。

この時期の彼の研究は、単なる理論的な探求にとどまらず、日本社会の現実と結びついたものでした。彼は、農村経済の実態調査を行い、地主制度の問題点や労働者の生活状況についても調査を進めました。こうした実証的な研究を重視する姿勢は、彼の学問的な特徴となり、後に「労農派」と呼ばれる社会主義経済学の一派を形成する基盤となりました。

さらに、彼は学問の枠を超えて、社会との接点を持つことにも関心を示していました。大学院時代には、労働運動や社会主義運動の動向を積極的に研究し、新聞や雑誌に寄稿することもありました。彼の論考は、社会問題に関心を持つ知識人の間で注目されるようになり、次第に言論人としての役割も果たすようになっていきました。

このように、東京帝大大学院での研究は、櫛田民蔵にとって学問的な成長の場であり、同時に社会の現実に対する理解を深める機会でもありました。彼はここでの研究を通じて、日本におけるマルクス経済学の発展に大きく貢献する素地を築きました。そして、大学院を修了した後、彼は新聞記者としての道を歩み始め、さらに広い社会との接点を持つようになっていきます。

新聞記者から大学教授への転身

大阪朝日新聞論説記者としての言論活動

東京帝国大学大学院での研究を終えた櫛田民蔵は、学者としての道を歩むだけでなく、言論活動を通じて社会に直接影響を与えようと考えるようになりました。彼は大学院修了後、大阪朝日新聞社に入社し、論説記者として活動を開始します。当時の大阪朝日新聞は、全国紙の中でも知識人層に強い影響力を持つ新聞であり、社会問題や政治経済の論評を積極的に掲載していました。

民蔵が記者となった1910年代の日本は、第一次世界大戦(1914~1918年)の影響を受け、急速な経済成長とともに、労働運動や社会主義運動が活発になっていた時期でした。戦争特需によって都市部の工業生産は拡大しましたが、その恩恵を受けられたのは一部の資本家のみで、多くの労働者や農民は依然として厳しい生活を強いられていました。こうした状況の中で、民蔵は経済問題を鋭く分析し、労働者や貧困層の立場に立った論説を執筆しました。

特に、彼が注目したのは、戦争によって引き起こされたインフレーションの影響でした。物価の急上昇により、労働者の実質賃金は低下し、生活は一層苦しくなりました。民蔵は、このような経済構造の歪みを批判し、政府の経済政策の問題点を指摘する論考を発表しました。また、農村経済の疲弊についても取り上げ、日本の資本主義が抱える構造的な問題を広く社会に訴えました。

しかし、当時の日本では、社会主義的な言論に対する政府の取り締まりが厳しくなっていました。特に、1910年の大逆事件以降、社会主義や共産主義に関わる言論は警戒され、多くの言論人が弾圧を受けていました。民蔵の論考も、しばしば政府の監視対象となり、新聞社内部でも扱いが議論されることがあったといいます。それでも彼は、自らの信念を貫き、社会の矛盾を鋭く指摘する姿勢を崩しませんでした。

同志社大学教授としての教育と研究の展開

新聞記者として活躍した民蔵でしたが、より深く学問に専念し、次世代の人材を育成したいという思いから、1920年代に同志社大学の教授に就任しました。同志社大学は、京都帝国大学とは異なり、キリスト教の精神に基づくリベラルな学風を持つ私立大学であり、当時の日本において比較的自由な思想活動が許されている場でもありました。

民蔵は、同志社大学で経済学を講じるだけでなく、社会問題についての講義やゼミも担当し、学生たちに広い視野を持つことを促しました。特に、彼の授業では、西洋の経済学説だけでなく、日本の経済構造の特異性についての議論が活発に行われました。彼は、資本主義の仕組みや労働問題に関する講義の中で、マルクス経済学の視点も取り入れながら、日本の社会が直面する課題について深く掘り下げました。

また、同志社大学においても彼の研究意欲は衰えることなく、新たな学問的な挑戦を続けました。特に、日本の資本主義発展の歴史的背景を分析し、欧米とは異なる日本独自の経済発展の道筋を明らかにしようとしました。彼は、日本における地主制度や封建的な経済構造が、どのように資本主義の発展に影響を与えたのかを詳細に考察し、学界にも大きな影響を与えました。

さらに、民蔵は学生だけでなく、若手研究者とも積極的に交流し、彼らの研究を支援しました。彼のゼミでは、経済学の理論だけでなく、実際の社会問題についても議論され、学生たちはフィールドワークを通じて現実の経済問題に触れる機会を得ました。このような教育方針は、後の日本の経済学界においても重要な影響を与えたといわれています。

言論人として社会に与えた影響

民蔵の活動は、大学の講義や研究にとどまらず、広く社会に向けた言論活動へと発展していきました。彼は新聞や雑誌に寄稿し、資本主義の矛盾や日本の経済構造の問題点について積極的に発言しました。特に、日本の農村経済の衰退や労働者の待遇改善の必要性については、繰り返し論じていました。

彼の言論活動は、当時の社会に大きな影響を与えました。例えば、彼の論考は、労働運動や農民運動の指導者たちにも影響を及ぼし、社会改革を求める声を高める一助となりました。また、彼の思想は、後に「労農派」と呼ばれる経済学の潮流の形成にもつながり、日本の社会主義経済学の発展に貢献しました。

しかし、こうした活動は政府にとっては危険視されるものであり、彼の言論はしばしば当局の監視対象となりました。戦前の日本においては、マルクス主義的な言論は特高警察による取り締まりの対象となることが多く、彼もまたその影響を受けることになりました。それでも彼は、自らの研究と思想を貫き、社会の矛盾を明らかにすることに努めました。

こうして、新聞記者から大学教授へと転身した櫛田民蔵は、学問と実社会を結びつける役割を果たしながら、経済学の発展と社会改革の両面で大きな足跡を残しました。彼の次なる舞台は、大原社会問題研究所という、日本の社会科学研究における重要な拠点でした。ここで彼は、より本格的な研究活動を展開し、日本の社会問題に対する学術的アプローチを深化させていくことになります。

大原社会問題研究所での本格的な研究活動

研究所での主要な研究テーマと成果

櫛田民蔵は、同志社大学での教育・研究活動を経て、さらに本格的に社会問題を研究するため、大原社会問題研究所に関与するようになりました。大原社会問題研究所は、日本の資本主義の発展や労働問題を学問的に研究するために1919年に設立された機関で、経済学や社会学の分野で重要な役割を果たしていました。実業家の大原孫三郎の支援を受け、労働運動や社会政策の調査・研究を目的として設立されたこの研究所は、日本における社会科学研究の先駆けともいえる存在でした。

櫛田が研究所で取り組んだ主要なテーマの一つが、日本資本主義の発展とその特質についての研究でした。彼は、日本の資本主義がどのような経済的・社会的背景のもとで形成され、発展してきたのかを解明しようとしました。特に、農業経済と都市産業の関係、小作制度の歴史的変遷、地主制と工業化の相互作用に注目し、日本独自の経済発展のモデルを理論的に整理することを試みました。

また、櫛田は単なる理論研究にとどまらず、現地調査や統計分析を重視しました。日本各地の農村に赴き、土地制度や小作料の実態を調査し、地主と小作農の経済関係を詳細に分析しました。この実証的なアプローチは、日本の経済学において画期的なものであり、後の日本資本主義論争における議論の基礎ともなりました。彼の研究は学術的関心だけでなく、社会の現実を変えるための道具としての経済学を追求するものでもありました。そのため、大原社会問題研究所での彼の仕事は、労働運動や農民運動とも密接に関わることになりました。

当時の社会問題研究との関連性

大原社会問題研究所が設立された背景には、日本の急速な工業化に伴う社会問題の深刻化がありました。第一次世界大戦後、日本経済は一時的に好景気を迎えましたが、その後の1920年代には戦後恐慌や昭和金融恐慌が発生し、労働者や農民の生活は一層厳しくなりました。都市部では労働争議が頻発し、農村では小作争議が各地で起こっていました。

こうした状況の中で、大原社会問題研究所は、日本の社会問題を学問的に分析し、政策提言を行う役割を担いました。櫛田もまた、労働者や農民の困窮の実態を調査し、その背後にある経済的要因を明らかにしようとしました。彼の研究は、当時の社会問題研究の流れの中で、特に日本の資本主義がどのような特徴を持ち、どのように発展してきたのかという問いに答えようとするものでした。

また、彼は研究を通じて、資本主義の発展が必然的に貧富の格差を生み出し、それが社会不安や労働争議の原因となるという視点を提示しました。この考え方は、西洋の経済学理論を踏まえつつも、日本の歴史的・社会的文脈を考慮した独自の視点であり、多くの研究者に影響を与えました。

加えて、彼は当時の社会主義運動や労働運動とも関わりを持ち、学問の枠を超えた社会的実践にも携わりました。彼の研究は単なるアカデミックな議論ではなく、実際の社会改革と結びつくものであったため、当局からの監視や弾圧の対象となることもありました。

研究仲間との交流と議論の広がり

大原社会問題研究所では、櫛田は多くの優れた研究者と交流し、学問的議論を深めました。特に親交のあった研究者の一人が、高野岩三郎でした。高野は、日本の社会統計学の先駆者であり、労働問題や社会政策に関する研究を進めていました。櫛田は彼とともに、日本の労働市場の変化や賃金体系の問題について議論を交わし、経済構造の変化を統計的に分析することの重要性を認識しました。

また、大内兵衛や森戸辰男とも交流がありました。大内はマルクス経済学の研究者として知られ、櫛田とともにマルクス主義経済学の日本社会への適用について研究を進めました。森戸は、後に社会政策の専門家として活躍することになりますが、当時は労働運動の理論的支柱の一人でした。こうした研究者たちとの議論を通じて、櫛田の思想はより深まり、日本の経済構造の研究において独自の視点を確立するに至りました。

さらに、長谷川如是閑や山川均とも意見を交わしました。長谷川は社会評論家として活躍し、資本主義批判の立場から言論活動を行っていました。山川は労農派の代表的な理論家であり、櫛田とは労働運動の方向性について議論を重ねました。こうした研究者や活動家との交流を通じて、彼の研究はさらに深化し、当時の社会問題に対する理論的な支柱となっていきました。

このように、大原社会問題研究所での研究活動は、櫛田にとって単なる学問的探究ではなく、日本社会の現実を理論的に解明し、それを通じて社会を変革するための実践的な意義を持つものでした。彼の研究は、日本のマルクス経済学の発展に大きく貢献するとともに、労農派の理論的基盤を築くものとなりました。

しかし、彼の研究が次第に政治的な影響を持つようになるにつれ、政府の圧力も強まりました。この時期、日本国内では社会主義的な言論への弾圧が強化され、彼のような経済学者もその影響を受けることになります。

マルクス経済学者としての論争と功績

価値論・地代論をめぐる主要な論争

櫛田民蔵は、大原社会問題研究所での研究を通じて、日本の資本主義の特質を分析する中で、マルクス経済学の理論的深化に取り組みました。特に、彼が関心を持ったのが価値論と地代論でした。マルクス経済学における価値論は、資本主義の経済構造を解明する上で中心的な役割を果たす理論であり、労働価値説を基礎としていました。一方、地代論は農業経済の分析に不可欠であり、地主と小作農の経済関係を理論的に説明するものでした。

当時の日本では、マルクス経済学に基づく価値論や地代論の解釈をめぐって、研究者の間で活発な論争が繰り広げられていました。櫛田は、この論争の中心人物の一人として、マルクスの理論を日本の社会経済に適用する方法について議論を重ねました。彼は、日本の農業経済の特殊性を考慮しながら、地代の形成過程を詳細に分析し、日本資本主義の発展における地主制の役割を理論的に整理しようとしました。

また、彼の価値論の研究は、単なる理論的考察にとどまらず、日本の労働市場や賃金制度の分析にも応用されました。彼は、日本の資本主義がどのように労働力を搾取し、どのように価値を生産・分配しているのかを、マルクス経済学の枠組みの中で明らかにしようとしました。彼の研究は、日本の経済構造を解明するための新たな視点を提供し、後の経済学者たちに大きな影響を与えました。

小泉信三らとの理論的対立とその影響

櫛田民蔵の研究は、日本の経済学界において大きな反響を呼びましたが、それと同時に、彼の理論に対する批判や異論も多く寄せられました。特に対立を深めたのが、小泉信三をはじめとする自由主義経済学者との論争でした。小泉信三は、ケンブリッジ学派の影響を受け、マルクス主義経済学とは異なる立場から資本主義経済を分析していました。彼は、市場メカニズムの重要性を強調し、マルクス経済学の価値論に対して懐疑的な立場を取っていました。

櫛田は、小泉らの自由主義的な経済理論に対して、資本主義の矛盾を指摘し、労働者の搾取構造を理論的に解明する必要性を強調しました。彼は、マルクスの理論に基づき、資本主義が本質的に持つ不平等構造を説明しようとしましたが、小泉らはそれに対して「市場の自由競争こそが経済の発展を促す」と反論しました。

この論争は、日本の経済学界における大きな対立点となり、多くの学者や知識人を巻き込むものとなりました。結果として、日本の経済学は、自由主義経済学とマルクス経済学という二つの主要な潮流を軸に発展していくことになり、櫛田の研究はその一翼を担うものとなりました。彼の理論は、特にマルクス経済学を基盤とする研究者たちに強い影響を与え、後の日本資本主義論争にも大きな影響を与えることになりました。

労農派の理論的支柱としての役割

櫛田民蔵は、単なる学者ではなく、日本の労働運動や農民運動とも深く関わりを持っていました。彼の研究は、労農派と呼ばれる社会主義経済学の一派の理論的基盤となりました。労農派は、日本における農民と労働者の連携を重視し、資本主義に対抗する勢力としての役割を果たすことを目指していました。

当時の日本の社会主義運動は、労働者中心の労働派と、農民を重視する労農派に分かれていました。労働派は、都市の労働者階級を主体とするマルクス主義的な運動を展開し、労働組合の組織化を進めていました。一方、労農派は、日本の農村社会の特殊性を考慮し、農民層を社会変革の重要な担い手と位置づけました。櫛田は、この労農派の立場を支持し、地主制度の打破と農民の経済的自立を訴えました。

彼の理論は、当時の農民運動にも影響を与えました。日本各地で発生していた小作争議の指導者たちは、彼の研究を参考にしながら、地主制度の不当性を訴え、農民の権利を求める運動を展開しました。また、労働運動の指導者たちの間でも、彼の価値論や地代論が議論され、労働者の賃金問題や生産関係の分析に応用されることになりました。

しかし、こうした活動が政府に警戒されるようになると、彼の言論は次第に弾圧の対象となりました。戦前の日本では、特高警察による社会主義思想の取り締まりが強化され、マルクス経済学を研究する学者たちにも厳しい監視の目が向けられるようになりました。櫛田の研究もまた、その影響を受けることになり、発表の場を制限されることが増えていきました。

それでも彼は、自らの研究を続け、日本社会の資本主義の特性を理論的に明らかにすることに努めました。彼の研究は、後の日本の経済学者に大きな影響を与え、戦後の経済学界においても重要な理論的遺産として受け継がれていくことになりました。

こうして、櫛田民蔵は、マルクス経済学の研究を通じて日本の社会問題を鋭く分析し、自由主義経済学者との論争を展開しながら、労農派の理論的支柱としての役割を果たしました。彼の研究は、学問的な意義だけでなく、実際の社会運動にも大きな影響を与えました。しかし、彼の学問的探究は49歳という若さで突然の終焉を迎えることになります。次の段階では、彼の晩年の研究や急逝がもたらした衝撃について詳しく見ていきます。

49歳での急逝と残された業績

晩年の研究と執筆活動の軌跡

櫛田民蔵は、大原社会問題研究所での研究や、労農派の理論的支柱としての活動を続ける中で、日本の資本主義の特質をさらに深く分析しようとしていました。特に晩年には、資本主義の発展過程における農業経済の役割や、日本の労働市場の変遷についての研究に力を注いでいました。彼の研究は、単なる理論的考察にとどまらず、実際の社会運動と密接に結びついていたため、その影響力は広がり続けていました。

1920年代後半、日本社会は世界恐慌の影響を受け、経済状況が悪化していました。1930年に始まった昭和恐慌により、労働者の失業率が上昇し、農村でも貧困が深刻化しました。こうした社会状況の中で、櫛田は日本の経済構造の問題点をさらに掘り下げ、日本の資本主義がどのような要因によって危機を迎えたのかを分析しようとしました。

また、この時期には、彼の理論を集大成するための執筆活動にも精力的に取り組んでいました。彼の論文や著作は、マルクス経済学の視点から日本の経済を分析するものであり、日本資本主義の発展における矛盾や構造的問題を明らかにしようとするものでした。特に、小作制度と地代の問題に関する研究は、日本の農業経済の発展を理解する上で重要な資料となりました。

しかし、こうした研究が進む中、彼の健康状態は次第に悪化していきました。過労と長年の研究による疲労が蓄積し、体調を崩すことが増えていったといいます。それでも彼は研究を続け、社会の矛盾を明らかにするための執筆活動を止めることはありませんでした。

突然の死が与えた衝撃とその背景

1934年、櫛田民蔵は49歳の若さで突然この世を去りました。その死は、学問界だけでなく、社会運動に関わる多くの人々に大きな衝撃を与えました。彼の死因については詳細な記録が残っていませんが、長年の過労や、社会主義的な研究を続ける中で受けた精神的な圧力が影響したのではないかとも言われています。

当時の日本は、社会主義的な思想やマルクス経済学に対する弾圧が強まっていた時期でした。政府は、労働運動や農民運動を取り締まり、左派的な思想を持つ学者や知識人にも監視の目を向けていました。櫛田の研究は、学問的な視点から資本主義の矛盾を指摘するものでしたが、当局からは危険視されていた可能性があります。こうした社会的な圧力もまた、彼の健康悪化に影響を与えたのではないかと考えられます。

彼の死後、彼の研究や思想を引き継ごうとする動きもありました。彼が生前に取り組んでいた研究は、後の経済学者や社会運動家によって再評価されることになります。特に、彼の日本資本主義に関する分析は、戦後の経済学界においても重要な議論の対象となりました。

後世への影響と櫛田民蔵の評価

櫛田民蔵の研究は、彼の死後も多くの経済学者に影響を与えました。特に、日本の資本主義の歴史的発展を分析する際には、彼の理論が重要な参考とされました。彼が取り組んだ価値論や地代論の研究は、戦後の日本資本主義論争においても引用され、学問的な意義を持ち続けました。

また、彼の思想は、戦後の社会運動にも影響を与えました。労働運動や農民運動の指導者たちは、彼の理論を基に、日本の経済構造を批判し、労働者や農民の権利を守るための運動を展開しました。特に、労農派の経済学者たちは、彼の研究を継承し、日本社会の変革を目指す理論を発展させていきました。

さらに、彼の著作は、戦後に再評価され、1970年代には「櫛田民蔵全集」としてまとめられました。これにより、彼の研究は後世の研究者にも広く知られることとなり、日本の経済学の発展に寄与することになりました。また、2021年には「櫛田民蔵 マルクス探求の生涯」という伝記が刊行され、彼の生涯と研究が改めて注目されるようになりました。

このように、櫛田民蔵の研究と思想は、彼の死後も受け継がれ、日本の経済学界や社会運動に大きな影響を与え続けました。彼が49歳という若さでこの世を去ったことは惜しまれますが、彼の残した業績は今もなお、多くの研究者や思想家によって語り継がれています。次の章では、彼の著作や研究成果がどのように評価されているのかを詳しく見ていきます。

書籍に見る櫛田民蔵の思想と研究成果

『櫛田民蔵全集』に見る研究の集大成

櫛田民蔵の研究成果は、彼の死後も高く評価され、1970年代には「櫛田民蔵全集」としてまとめられました。この全集は、彼が生前に発表した論文や評論を集成したものであり、日本の資本主義の発展やマルクス経済学の理論的探究に関する重要な記録となっています。

全集には、日本の農業経済や小作制度に関する分析が詳述されており、彼が生涯をかけて追究した地代論や価値論についての研究が体系的に整理されています。特に、日本の封建的な土地制度がどのように資本主義の発展に影響を与えたのかという議論は、後の日本資本主義論争においても重要な位置を占めることになりました。

また、彼の研究の特徴の一つとして、単なる理論的考察にとどまらず、統計資料や現地調査を用いた実証的な分析が挙げられます。彼は、日本各地の農村で土地所有の実態を調査し、小作農がどのような経済的条件のもとで生活していたのかを細かく記録しました。こうした研究は、当時の経済学界においても画期的な試みであり、後の農業経済学や社会経済史の発展に大きな影響を与えました。

さらに、彼の価値論の研究では、マルクスの『資本論』を基にしながらも、日本の経済構造に適用する方法を模索していました。彼は、日本の労働市場や賃金制度の特異性を考慮し、単純に西洋の経済理論を当てはめるのではなく、日本社会の現実に即した経済分析を行おうとしました。この点において、彼の研究は、後のマルクス経済学の発展にも寄与するものとなりました。

『櫛田民蔵 マルクス探求の生涯』が描く人物像

2021年には、石河康国によって「櫛田民蔵 マルクス探求の生涯」という伝記が刊行されました。この書籍は、櫛田の生涯を丹念に追いながら、彼の学問的な業績や思想の変遷を詳しく記述しています。

この伝記では、櫛田が福島県いわき市小川町の農村で育ち、貧しい環境の中で学問を志したことが強調されています。幼少期の体験が彼の社会問題への関心を高め、経済学へと進むきっかけになったことが詳細に描かれています。また、東京外国語学校や京都帝国大学での学びが、彼の思想形成にどのような影響を与えたのかについても触れられています。

さらに、櫛田が大原社会問題研究所での研究活動を通じて、日本資本主義の特質を理論的に明らかにしようとしたことが、具体的な研究成果とともに紹介されています。特に、日本の小作制度や地主制の問題を分析する中で、マルクス経済学の地代論を応用しようとした試みは、彼の学問的な独自性を示すものとして評価されています。

この書籍では、彼の学問的な業績だけでなく、彼の人柄や生き方にも焦点が当てられています。彼は、決して権威に屈することなく、自らの信念に基づいて学問を追求し続けました。特に、自由主義経済学者との論争においても、自らの立場を貫き、社会の矛盾を明らかにしようとする姿勢が描かれています。こうした彼の生き方は、後の社会科学者や経済学者にとっても、大きな刺激となりました。

河上肇との書簡に見る思想の深化

櫛田民蔵の思想の深化を知る上で重要な資料の一つが、「河上肇より櫛田民蔵への手紙」です。この書簡集には、彼と河上肇の間で交わされた思想的な議論が記録されており、二人がどのように経済学を探究し、日本社会の課題に向き合っていたのかが分かります。

河上肇は、日本のマルクス経済学の先駆者の一人であり、特に『貧乏物語』を通じて、日本社会における貧困問題を鋭く指摘しました。櫛田は、京都帝国大学時代に彼の指導を受け、強い影響を受けました。二人の間では、マルクス経済学の解釈や、日本資本主義の特異性についての議論が活発に交わされていました。

特に注目されるのは、日本の農業経済に関する書簡です。河上は、マルクス主義の理論をどのように日本の封建的な土地制度に適用できるかについて考察しており、櫛田もそれに対して自らの意見を述べています。彼は、西洋の資本主義とは異なり、日本の資本主義は地主制の影響を強く受けているため、マルクスの理論を単純に適用することはできないと主張しました。

また、二人の書簡には、当時の日本の政治状況や、社会主義運動への見解も含まれています。櫛田は、労働運動や農民運動の発展に期待を寄せる一方で、政府の弾圧に対する懸念も示していました。こうした書簡を通じて、彼の学問的な探究心だけでなく、社会変革への強い関心もうかがうことができます。

この書簡集は、単なる学問的な議論の記録ではなく、当時の日本の知識人がどのように社会を捉え、変革を目指していたのかを知る貴重な資料となっています。櫛田の思想は、決して一人の学者の個人的な考察にとどまるものではなく、日本の社会経済の発展に対する鋭い洞察を伴ったものでした。

このように、彼の著作や書簡を通じて、櫛田民蔵の思想と研究の軌跡をたどることができます。彼の研究は、単なる理論的な探究ではなく、日本の社会問題を解決するための実践的な意義を持つものでした。そして、その思想は、彼の死後も多くの学者や社会運動家に影響を与え続けています。

櫛田民蔵の生涯とその遺産

櫛田民蔵は、福島の農村に生まれ、苦学の末に学問の道を歩み、日本の資本主義の特質を解明しようとした経済学者でした。東京外国語学校で西洋の思想に触れ、京都帝国大学で河上肇の指導を受けながら経済学を深く学びました。東京帝国大学大学院での研究を経て、大阪朝日新聞の論説記者として言論活動を展開し、同志社大学では教育者として多くの学生を育てました。その後、大原社会問題研究所で本格的な研究を進め、日本の資本主義の発展と農村経済の分析に尽力しました。

彼は、価値論や地代論をめぐる論争を通じて、日本のマルクス経済学の発展に貢献し、労農派の理論的支柱としても活動しました。49歳で急逝しましたが、その研究は「櫛田民蔵全集」としてまとめられ、今も学問的遺産として残されています。彼の思想は現代にも通じ、日本の経済構造を理解する上で重要な示唆を与え続けています。

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