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小栗忠順とは誰?横須賀造船所を築き、日本の近代化を支えた男の生涯と悲劇の最期

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こんにちは!今回は、幕末の近代化を推し進めた幕臣、小栗忠順(おぐり ただまさ)についてです。

遣米使節としてアメリカの技術力を学び、横須賀造船所の建設やフランス式軍制の導入に尽力した小栗忠順。しかし、彼の改革は幕府崩壊の波に飲み込まれ、悲劇的な最期を迎えることになります。

2027年の大河ドラマの主人公にも決まった小栗忠順の功績と波乱の生涯を詳しく見ていきましょう。

目次

生い立ちと基礎形成

江戸・神田駿河台に生まれた旗本の子

小栗忠順は、1827年に江戸・神田駿河台で生まれました。小栗家は三河以来の譜代で、徳川家康に仕えた家柄です。父・小栗忠高は新潟奉行などを務めた中堅旗本で、地方行政と海運・貿易に関わる経験をもつ人物でした。母は邦子(くに子)と伝えられ、忠順の幼少期を支えましたが、その来歴や出自には史料間の揺れもあります。

幼名は剛太郎、のちに通称「又一(またいち)」を名乗ります。成人後には官職名から「豊後守」、のちに「上野介(こうずけのすけ)」とも呼ばれました。のちに「小栗上野介」という呼び名で知られるのは、この官職名によるものです。

父・忠高は新潟奉行として北前船の往来する港を治め、蝦夷地やロシアをにらんだ海防問題とも無縁ではありませんでした。この「地方行政+対外関係」という仕事ぶりは、若い忠順に「財政」「貿易」「海防」が一体となった政治を意識させる土台になった、と見る研究者もいます。

見山楼の学問と安積艮斎・栗本鋤雲

8歳のころ、忠順は神田駿河台の私塾「見山楼」で学びはじめます。ここの主が、朱子学者の安積艮斎(あさかごんさい)です。安積艮斎は、朱子学を中心としつつも、実務官僚として役に立つ人材を育成することに熱心で、のちに幕臣・藩士・学者など、多くの俊英を世に送り出しました。

見山楼での学びは、漢文の素読や四書五経の講義だけではありませんでした。艮斎は、政治の仕組みや歴代王朝の盛衰を「制度と人材」の問題として語ったと言われます。忠順はそこで、「法律や制度をどう設計するかが国家の運命を左右する」という感覚を早くから身につけたと考えられます。

この見山楼での仲間の一人が、のちに蘭学者・ジャーナリストとして活躍する栗本鋤雲(くりもとじょうん)です。栗本はのちにフランス語を学び、フランス公使レオン・ロッシュや宣教師メルメ・カションとのパイプ役を担う人物になりますが、出発点は忠順と同じくこの漢学塾でした。のちに横須賀製鉄所構想を進める際、小栗・栗本・カション・ロッシュの四者が重要な会談を行っていますが、そこには少年期からの「同門」の信頼感が伏線として横たわっていたと見てよいでしょう。

武芸修行と島田虎之助・田付主計・窪田清音

忠順は文だけではなく、武芸にも熱心でした。剣術は直心影流の名人・島田虎之助(しまだとらのすけ)に学び、免許皆伝を受けたとされます。島田虎之助は「幕末三剣士」の一人とも称される剣客で、その教えは単なる技の鍛錬ではなく、武士としての自尊心と胆力を育てるものでした。のちに徳川慶喜に対し、袴の裾をつかんで徹底抗戦を訴えたという有名な場面には、この剣客から学んだ「一歩も引かぬ気質」がにじんでいるとも言われます。

砲術は、鉄砲方である田付主計(たつけかずえ)に師事しました。田付主計は、幕府公式の砲術家として西洋砲術の導入にも関わった人物で、その門下には、のちに開成学校(現・東京大学の源流の一つ)を支える佐野鼎(さのかなえ)や結城廉之助など、開国派の俊才が多くいました。この砲術塾での議論を通じて、小栗は早い段階から「黒船に対抗するには海防と産業の近代化が不可欠だ」という開国論に傾いていきます。

さらに、窪田助太郎清音(くぼたすけたろうきよね)からは柔術と山鹿流兵学を学びました。山鹿流は、兵学でありながら、城下町の構造や軍役負担のシステムなど、「制度としての軍事」を教える学問でもありました。この学びは、のちに小栗が「徳川版・近代軍制」や郡県制構想を語る際の理論的な背骨となっていきます。

こうして、忠順の基礎は、安積艮斎の学問、島田虎之助らの武芸、田付主計・窪田清音の兵学・砲術という「文武両道」の上に築かれていきました。

海外経験と開国論の成熟

目付という仕事と「通貨交渉」という裏ミッション

万延元年遣米使節は、1858年に締結された日米修好通商条約(ハリス条約)の批准書を交換するために、1860年に派遣された使節団です。正使は外国奉行・新見正興、副使は村垣範正、そしてその二人に次ぐ「ナンバー3」の立場で、目付として小栗忠順が選ばれました。

「目付」は、もともと幕府内部で役人たちを監察し、不正や怠慢がないかをチェックする役職です。使節団においては、随員たちの行動や会計を監督する「監査役」のような存在でした。しかし小栗には、もう一つ、極めて重要な裏ミッションが与えられていました。それは、金銀の交換比率についてアメリカ側と交渉し、日本からの金流出を食い止めることです。

当時、日本では金銀比価が世界標準と大きく異なっていて、外国商人が銀を持ち込んで日本の金に交換し、差額で大きな利益を上げる「アービトラージ」が横行していました。小栗は貨幣制度に強い関心を持ち、条約のもつ経済的な歪みを是正しようとしていました。現地では一時、「目付は spy(スパイ)なのか」と疑われましたが、小栗は「目付とは censor(監察官)である」と説明して切り抜けたという有名なエピソードが伝わります。

ポーハタン号と咸臨丸、そして勝海舟・福沢諭吉

1860年1月22日(陽暦2月13日)、77名からなる遣米使節団は、アメリカ海軍の軍艦ポーハタン号で横浜を出航しました。同時期に、日本側の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が浦賀を出航し、勝海舟を艦長に、福沢諭吉を通訳見習いとしてサンフランシスコへ向かっています。

福沢はのちに『福翁自伝』や『西洋事情』などでこの体験を振り返り、「西洋を自分の目で見る必要」を世に説くことになります。小栗と福沢は、船は違えど「日米修好通商条約の批准書交換」という同じ任務のもと、同じ年に太平洋を渡った仲間でした。福沢が後年、「鞠躬尽瘁の人」と小栗を評したとされるのは、この時期から小栗の存在感を意識していたからだと解釈する説もあります。

ポーハタン号は、ジョサイア・タットノール代将指揮のアメリカ海軍の蒸気フリゲートで、当時としては最新鋭の軍艦でした。日本側から見ると、ポーハタン号に乗ること自体が「黒船の内部を徹底的に観察する」絶好の機会でもありました。小栗は船内の機関部や居住区の構造、航海日誌や補給のシステムなど、後年の横須賀製鉄所・造船所構想に直結する要素を細かく観察していたと推測されます。

ハワイ寄港と「国旗」としての日の丸

ポーハタン号は横浜を出ると、まずハワイに寄港しました。ここで一行は、ハワイ王国のカメハメハ4世とエマ女王の歓迎を受けています。

この際、使節団は日本の船としての印だった日の丸を正式な「国旗」として掲げることを幕府に申請し、承認を得たと伝えられます。つまり、小栗たちが乗るポーハタン号のマストには、日本の国旗としての「日の丸」と、アメリカ合衆国の星条旗が同時に翻っていたのです。この経験は、日本が初めて近代国際社会の「主権国家の一員」として振る舞う瞬間でもありました。

サンフランシスコで見た「フロンティアの都市」

1860年3月29日、ポーハタン号はサンフランシスコに到着します。サンフランシスコは、ゴールドラッシュからまだ日が浅い「フロンティア都市」で、港には世界各地の船がひしめき、丘の上には木造家屋が密集していました。

一行は約3週間滞在し、市長主催の歓迎行事に参加したり、市内の工場や造船所を視察したりしました。新聞は「異国から来たサムライ・アンバサダー」として彼らを大々的に報じ、沿道には見物人があふれたといいます。

このころ、別ルートで到着していた咸臨丸の一行には勝海舟や福沢諭吉がおり、サンフランシスコでポーハタン組と合流しています。福沢の有名な記念写真(白人少女テオドラ・アリスとのツーショット)が撮影されたのもこの地でした。小栗自身がどこまで街を歩き、何を見たかは日記や書簡に断片的に残るのみですが、木造の街並みと港湾施設、活気ある商業空間は、後年の「江戸・東京改造構想」にも影響を与えたと考えられます。

パナマ鉄道と「蒸気文明」の衝撃

サンフランシスコを4月7日に出た一行は、ポーハタン号で中米パナマに向かいます。当時、パナマ運河はまだ完成しておらず、大西洋と太平洋を結ぶ手段は「パナマ鉄道」だけでした。

ポーハタン号はパナマ太平洋側の港に入港し、そこから一行は鉄道に乗り換えて大西洋側のアスピンウォール(現コロン)へと移動します。副使・村垣範正の日記には、汽車の轟音を「雷の鳴りはためく如く」と表現し、窓外の景色があまりに速く流れて「草木もしまのように見える」と書き残しています。

それまで、人と荷物の移動は「船」か「馬」「徒歩」が基本だった日本人にとって、鉄道は文字通り新世界の象徴でした。小栗もまた、この「時間と空間を圧縮する技術」に衝撃を受けたはずで、のちに日本国内での鉄道導入や通信・運輸制度への関心につながったと考えられます。

ワシントン海軍工廠・ホワイトハウス・ブキャナン大統領

大西洋側の港からアメリカ海軍のロアノーク号に乗り換えた一行は、1860年5月14日にワシントン海軍工廠のあるワシントン海軍工廠(Washington Navy Yard)に上陸しました。

ワシントン滞在の主目的は、ハリス条約の批准書を交換することです。5月17日にはホワイトハウスでジェームス・ブキャナン大統領主催の晩餐会が行われ、その席で小栗は目付としての役割を果たしつつ、アメリカ側要人との会話にも参加したとみられます。批准書の正式な交換は5月22日に国務省で行われ、その後6月5日には大統領から使節三名に金メダル、随員に銀・銅の記念メダルが授与されています。

ワシントン滞在中、小栗はワシントン海軍工廠の視察にも参加しました。ここでは、ドックや工作機械、砲の鋳造施設などを詳細に見学し、その様子が絵入りの日記にも残されています。この経験は、後年の横須賀製鉄所構想に直接つながる「原体験」としてたびたび指摘されています。

さらに小栗・新見・森田の三名は、フィラデルフィア造幣局を訪問し、日本貨幣の分析実験を見学しました。ここでアメリカの近代的な貨幣製造システムを目にしたことは、小栗の貨幣制度改革・金銀比価是正の構想をさらに現実的なものにしたと考えられます。

ボルティモア・フィラデルフィア・ニューヨークの都市体験

6月8日、一行は汽車でワシントンを出発し、まずボルティモアに向かいます。続いて6月9日にサスケハナ川をフェリーで渡ってフィラデルフィアに到着しました。

フィラデルフィアでは、博物館や印刷所、工場などさまざまな施設を見学しています。村垣の日記には、博物館で「万国の物品、鳥獣虫魚数万種あり」と書かれており、当時のアメリカが自然史コレクションと産業展示を通じて「世界を一望できる場」を作り出していたことがうかがえます。小栗もまた、この「見せる科学・産業」のあり方から、博覧会や産業振興の重要性を学んだと考えられます。

6月16日にはニューヨークに到着し、市主催の盛大なパレードで迎えられました。ブロードウェイを行進する日本使節の姿は新聞各紙で大きく報じられ、沿道の建物には星条旗と日の丸が掲げられました。現代のニューヨーク歴史協会や地方史家の研究でも、このパレードが「多文化都市・ニューヨークの自己イメージ」の形成に一定の役割を果たしたと評価されています。

世界一周の帰路と、日本の変化

ニューヨークでの滞在を終えた一行は、1860年6月30日にアメリカ軍艦ナイアガラ号に乗り込み、大西洋を渡ってヨーロッパ・アフリカ・アジアを経由しながら世界一周の帰路につきました。途中、カーボベルデ諸島のポルトグランデ、アンゴラのルアンダ、ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)、香港などに寄港し、11月8日に江戸湾へ帰着しています。

この長い航海は、単にアメリカとの往復ではなく、「世界の海上交通ネットワーク」の一端を体験するものでもありました。石炭補給のための寄港地、ヨーロッパ列強の植民地拠点、それぞれの港で見た倉庫・ドック・税関のシステム。小栗は、世界の海運と植民地経済がどのように動いているのかを、肌で感じることができた数少ない幕臣の一人になったのです【要確認:各寄港地での小栗個人の行動記録の有無】。

一方、日本国内では、彼らの航海中に大きな事件が起きていました。1860年3月24日(安政7年3月3日)、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されます。井伊は、日米修好通商条約に署名し、遣米使節の派遣を決断した張本人でした。その井伊が倒れたという報せは、ポーハタン号一行がアメリカ滞在中に、ポニー・エクスプレスなどを通じて伝わったとされています。

小栗にとって、海外で条約の批准手続きを進めている最中に、その条約を推進した主君が国内で暗殺されたという事実は、「日本の近代化は国内政治の安定なしには進まない」という痛烈な教訓として刻まれたはずです。この経験が、のちに彼が「徳川政権の権威を立て直した上での近代化」を目指す姿勢につながっていきます。

近代国家構想と主な業績

勘定奉行としての財政再建と「会社」構想

帰国後、小栗は目付・町奉行などを経て、幕府の財政を担う勘定奉行に抜擢されます。ここで彼が目指したのは、単なる歳出削減ではなく、経済の仕組みそのものを近代化することでした。

例えば、労務管理の面では、横須賀造船所をはじめとする事業で、日本で初めてとされる体系的な就業規則や年功賃金規定を導入したとされています。これは、単に「軍事施設の建設」をするだけでなく、そこで働く人々の働き方や給与体系まで設計しようとした試みでした。

また、兵庫商社など、幕府主導の商社設立構想にも関わり、「株式会社」的な仕組みや為替会社の構想を打ち出したとする研究があります。渋沢栄一が後年語る「会社・銀行制度の導入」と同じ方向性を、小栗は官僚の立場から模索していたと言えるでしょう。

ここで関わる人物として重要なのが、三井財閥中興の祖とされる三野村利左衛門です。三野村は金融・流通のプロとして小栗と交わり、のちに明治政府の金融制度整備にも深く関わることになります。戊辰戦争前夜、罷免されて失脚した小栗にアメリカ亡命を勧め、千両箱を差し出したのも三野村でしたが、小栗は「主君を見捨てて逃げるわけにはいかない」とこれを断ったと伝えられています。

同時代人の大隈重信は、のちに「我々のやっていることは小栗上野介の模倣にすぎない」と述べたと伝えられます。大隈は若いころ小栗家に出入りした経験もあり、小栗の国家構想の一端を近くで見聞きしていた可能性があります。

横須賀造船所とレオン・ロッシュ、レオンス・ヴェルニー

小栗の業績として最も有名なのが、横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設です。アメリカ・ワシントン海軍工廠の視察経験を踏まえ、「蒸気機関を原動力とする総合工場」を日本にも持つべきだと考えた小栗は、当初アメリカやイギリスに協力を依頼しましたが、南北戦争や各国事情で断られます。

そこで登場するのが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュです。ロッシュは生糸確保などの経済的利害から日本への接近を図っており、小栗はこのフランス側の思惑を逆手にとって、造船所建設の技術協力を引き出しまし。この交渉では、見山楼以来の友人でフランス語通の栗本鋤雲と、フランス人宣教師メルメ・カションが重要な仲介役を務めています。

計画が認められると、フランスから造船技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーが招聘されました。ヴェルニーは現場責任者として、ドック・工場・官舎など一体となった近代的造船所を設計・建設し、日本人技術者・工員の養成に尽力しました。横須賀製鉄所が「工場+教育機関」であったことは見落とされがちですが、ここから海軍技術者や工学系人材が育ち、のちの日露戦争での日本海軍の技術的基盤となっていきます。

この横須賀造船所の長期的な意義については、のちに連合艦隊司令長官となる東郷平八郎が、1912年に小栗家の遺族を自邸に招き、「日本海海戦で勝てたのは、小栗上野介が横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と謝意を述べたという逸話が伝わっています。

軍制改革と大村益次郎との比較

小栗は勘定奉行だけでなく、陸軍奉行・歩兵奉行など軍事関係の役職も歴任しました。フランス式軍事顧問団を受け入れ、洋式訓練を受けた伝習隊の整備に関わるなど、「徳川版・近代陸軍」の構想を持っていたことがうかがえます。

戊辰戦争期、小栗は榎本武揚や大鳥圭介らとともに、箱根での迎撃と、艦隊による駿河湾での補給線遮断を組み合わせた挟撃作戦を主張したとされています。この作戦案を聞いた新政府軍の軍事指導者・大村益次郎は、「もしこの策が実行されていたら、我々の首はなかったであろう」と評したという伝承があり、小栗の戦略構想を高く評価していたとされます。

明治新政府側から見れば、大村益次郎は「日本近代陸軍の父」と呼ばれますが、その「敵側」に、小栗という同等レベルの軍略家・軍制設計者がいた、という視点は、近年の研究でようやく注目されつつあります。

郡県制構想と「徳川近代」のイメージ

小栗は、財政・軍事だけでなく、地方行政の近代化にも関心を持っていました。江戸幕府の藩制を廃し、全国を中央政府直轄の「郡県」に再編する構想を持っていたとする研究があり、「徳川絶対主義」論として紹介されることもあります。

ここには、「将軍を中心とする近代国家」を構想する小栗と、「天皇を中心とする近代国家」を目指した大久保利通・大隈重信ら明治指導者との鏡像関係が見て取れます。司馬遼太郎は、『明治という国家』で「じつは、小栗も勝も、明治国家誕生のための父たちだった」と述べ、薩長だけでなく、徳川側の官僚・技術者が敷いたレールの上に明治国家が乗ったのだと強調しています。

戊辰戦争・挫折・最期

徳川慶喜への諫言と勝海舟との対立

1867年、大政奉還が行われ、翌1868年に鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、徳川政権は一気に窮地に立たされます。江戸に戻った徳川慶喜が恭順の道を探るなか、小栗は榎本武揚・大鳥圭介らとともに徹底抗戦を主張しました。

江戸城の評定の場で、小栗は退席しようとする慶喜の袴の裾をつかみ、「上様、お待ちくだされ、ご決断を」と食い下がったと伝えられますが、慶喜はこれを「無礼者」と振り払い、その場で小栗は罷免されたとされます。

この頃、同じ西洋通の幕臣である勝海舟は、江戸城無血開城に向けて西郷隆盛と交渉を進めていました。勝は「江戸を戦場にしてはならない」と考え、早期講和を優先します。一方、小栗は「江戸を近代的な軍港・軍都として再構築しうる潜在力」を信じており、ここで一戦交えることで、国内政治のバランスを再調整できると見ていたふしがあります。こうして、かつて同じように海外経験を持った勝海舟と小栗忠順は、維新期に「恭順派」と「徹底抗戦派」として立場を分かつことになりました。

権田村への退去と家族の逃避行

罷免後、小栗は領地である上州権田村(現・群馬県高崎市倉渕町)に退去を命じられます。ここで、母・くに子と妻・道子(建部政醇の娘)とともに生活を整え、農地の開墾や養蚕の奨励などを行ったとされます。

一方で、道子はこの時期に身重で、のちに会津方面へ逃れる途中で娘・国子(くにこ)を出産したと伝えられています。幕府崩壊の渦中で、小栗家は「主君に殉じる武士の家」として、母と妻、そして生まれたばかりの娘が命懸けの逃避行を強いられることになりました。

このころ、三野村利左衛門は、小栗に対してアメリカへの亡命を勧めたと言われています。「ここで命を落とすのはあまりに惜しい。アメリカで再起を」と、千両箱を用意したものの、小栗はこれを受け取らず、あくまで日本に留まる道を選びました。

「埋蔵金」の嫌疑と東山道軍による処刑

やがて新政府軍の東山道先鋒軍が上州へ進出すると、小栗は「幕府の軍資金・埋蔵金を隠匿している疑いがある」として目をつけられます。いわゆる「徳川埋蔵金」伝説と結び付けられ、小栗の屋敷から大量の金銀や武器が出てくるのではないかと疑われたのです。

小栗は東善寺で新政府軍の取り調べを受けますが、具体的な証拠は見つからないまま、略式の軍法会議のような手続きで斬首刑を言い渡されました。1868年閏4月6日、小栗忠順は42歳で処刑されます。罪状は「官金を盗み取り、反乱を企てた」とされますが、後世の研究では、この罪状を裏付ける客観的な証拠は確認されていません。

東郷平八郎や大隈重信、渋沢栄一が後年に残した言葉を見ても、小栗は「罪なくして斬られた」人物として記憶されており、その意味で彼の最期は、勝者の論理のなかで葬られた近代化官僚の典型例だと言えるかもしれません。

評価の変遷

明治初期の忘却と一部エリートによる高評価

明治政府が描いた維新史では、薩長土肥の志士たちが主役となり、徳川側の官僚は多くが「旧弊」あるいは「敵」として処理されました。小栗もまた、長らく「逆賊」「埋蔵金を隠した幕臣」といったイメージの中に閉じ込められていました。

しかし、この流れのなかでも、大隈重信は小栗を高く評価していました。「我々のやっている近代化は、小栗上野介の模倣にすぎない」という趣旨の発言は、小栗の制度設計力をよく知る者の証言として重みがあります。

福沢諭吉もまた、佐幕寄りの立場から小栗を尊敬していたとされ、慶應義塾内では「小栗の案どおりフランスから軍艦と軍用金を借りていたら、官軍は危なかった」という話がたびたび語られたという回想も伝わっています。

海軍・実業界からの視点—東郷平八郎と渋沢栄一

横須賀造船所は、明治以降、日本海軍の中核拠点として機能しました。日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎は、戦後しばらくして小栗家の遺族を自邸に招き、「あの勝利は、小栗上野介殿が横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです」と謝意を述べた、とされています。

一方、実業界から見ると、渋沢栄一や三野村利左衛門が小栗と近接した領域で活動しています。渋沢が明治政府側の「会社・銀行制度の父」だとすれば、小栗は徳川側からその萌芽をつくろうとした存在であり、両者の間には「政権をまたいだ制度設計の連続性」が見て取れます。

司馬遼太郎以後の再評価と現代研究

20世紀後半になると、小栗の評価は大きく揺れ動きます。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』では小栗をやや否定的に描いたものの、『明治という国家』では一転、「明治の父」の一人として小栗と勝海舟の貢献を強調しました。

一方、地方史家や寺院関係者からの再評価も進みます。小栗の終焉地・東善寺の住職である村上泰賢は、『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』などの著作で、小栗の実像と処刑の不当性を訴えました。

また、「罪なくして斬らる 小栗上野介」などの作品を通じて、小説・ノンフィクションの世界でも小栗は「明治の父でありながら忘れられた人」として描かれています。近年は、横須賀市や群馬県高崎市など自治体レベルでも、小栗の業績が展示やパンフレットで紹介され、一般への認知も広がりつつあります。

もっと知るための本・資料ガイド

佐藤雅美『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』

佐藤雅美『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』は、歴史小説のかたちで小栗の一生をたどる作品です。遣米使節の緊張感ある交渉や、横須賀製鉄所構想の舞台裏、慶喜への諫言と最期の場面など、ドラマ性の高いシーンが多く描かれています。高校生や一般の読者にとっては、まず「ストーリー」として小栗像に触れる入口として最適な一冊と言えるでしょう。

村上泰賢『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』

村上泰賢『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』は、小栗の墓所を守る東善寺の住職による評伝です。寺に残された過去帳や口碑、地域の古文書などを丹念に読み解き、小栗処刑の経緯と、「罪なくして斬られた」という地元の記憶を掘り起こしています。歴史ガチ勢や史料に興味のある読者には、一次史料への距離感を意識しながら読むと面白い本です。

大島昌宏『罪なくして斬らる 小栗上野介』

大島昌宏『罪なくして斬らる 小栗上野介』は、中山義秀文学賞を受賞した歴史小説で、東善寺での取り調べから処刑に至る心理劇を重厚に描いています。司法手続きの不備や「勝者の都合で作られた罪状」が、読者に強い違和感を残す構成になっており、「なぜ小栗は斬られなければならなかったのか」という問いを深く味わいたい人に向いた一冊です。

童門冬二『小説 小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男』

童門冬二の『小説 小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男』は、官僚・リーダーシップものを多く書いてきた著者ならではの視点から、小栗を「プロジェクトマネージャー」として描きます。横須賀造船所や兵庫商社、就業規則づくりなど、「ソフトとハードをセットで設計する」小栗の姿が伝わり、現代のビジネスパーソンが読んでも共感しやすい内容になっています。

現代を生きる私たちにとっての意味

制度を設計する人の孤独とリスク

小栗忠順の人生を振り返ると、「制度を設計する人」は常にリスクを背負わざるをえない、ということが見えてきます。財政や軍制、造船所や就業規則といった仕組みは、成功してしまえば「当たり前」になり、もともと誰の発案だったかは忘れられがちです。その一方で、政治的に敗れれば、失敗の責任を一身に負わされて処罰されることもあります。

現代の官僚やエンジニア、企業のマネージャーにとっても、「システムを作る仕事」の本質はあまり変わっていません。小栗のケースは、その極端な例として、「成果は長く残るのに、名前は忘れられる」ことすらあるという現実を教えてくれます。

勝者の物語に埋もれた「もう一つの近代化」

日本の近代史は長らく、薩長を中心とする「維新の英雄物語」として語られてきました。その陰で、徳川側にいた小栗や勝海舟が描いた「徳川近代」は、ほとんど顧みられてきませんでした。しかし、司馬遼太郎や現代の歴史家たちが指摘するように、日本の近代国家は、徳川時代からの制度や人材を土台として生まれています。

小栗を通してこの「もう一つの近代化」を学ぶことは、勝者/敗者という単純な区別を超え、複数の選択肢があったこと、そして別のルートの近代日本もありえたことを想像する練習になります。西郷隆盛や大村益次郎という「敵側」のリーダーたちが、小栗の能力を認めていたという伝承自体が、そのことを象徴していると言えるでしょう。

グローバル化と安全保障の時代に読む小栗忠順

万延元年遣米使節以来、小栗は「見て学び、仕組みに落とし込む」という姿勢を貫きました。ポーハタン号での航海、ワシントン海軍工廠やフィラデルフィア造幣局の視察、パナマ鉄道やニューヨークの大都市空間。そこで得た知見をもとに、横須賀造船所や会社制度、軍制改革といった具体的な制度設計に踏み込んでいきます。

現代の日本もまた、国際情勢の変化や安全保障、経済グローバル化のなかで、新しい制度設計を迫られています。海外の制度をそのまま真似るのではなく、自国の文脈に合わせて翻訳し直す—小栗が試みたのは、まさにそうした「翻訳としての近代化」でした。

「幕府の命運に限りはあっても、日本の命運には限りはない」とする言葉が小栗に帰せられることがあります。もしこれが彼の本心を表しているならば、小栗忠順は、政権の枠を超えて「日本という共同体」の未来を考えようとした稀有な官僚だったと言えるでしょう。横須賀のドックや、日本海海戦で活躍した軍艦のリベットの一つひとつに、その視線の延長を見出すことができるかもしれません。

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