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小栗忠順とは誰?横須賀製鉄所を築き、日本の近代化を支えた男の生涯と悲劇の最期

こんにちは!今回は、幕末の近代化を推し進めた幕臣、小栗忠順(おぐり ただまさ)についてです。

遣米使節としてアメリカの技術力を学び、横須賀製鉄所の建設やフランス式軍制の導入に尽力した小栗忠順。しかし、彼の改革は幕府崩壊の波に飲み込まれ、悲劇的な最期を迎えることになります。

明治維新後も語り継がれた彼の功績と波乱の生涯を詳しく見ていきましょう。

目次

文武に秀でた旗本の家に生まれて

神田駿河台に生まれた名門の子息

小栗忠順(おぐり ただまさ)は、1827年(文政10年)、江戸の神田駿河台に生まれました。彼の家系は代々幕府に仕える旗本の家柄であり、父・小栗忠高も幕府の要職を歴任した人物でした。小栗家は単なる旗本ではなく、特に財政や行政に関わる勘定方(現在の財務官僚に相当する職)を務める家柄であり、幕府内でも知識層としての地位を確立していました。

神田駿河台は、江戸でも武家や学者が多く住む地域として知られており、周囲には昌平坂学問所(幕府直轄の最高学府)や私塾が多く存在しました。小栗家のような家柄の子息にとって、こうした環境は学問や文化を深く学ぶ絶好の場でした。幼少期から知識人たちの議論を耳にし、書物に親しむ機会に恵まれたことは、後の彼の改革的な思想や国際的視野の形成に大きな影響を与えたと考えられます。

また、当時の幕府は財政難に苦しんでおり、小栗の父・忠高も勘定方の役人として財政再建に取り組んでいました。その姿を間近で見て育った小栗忠順は、幕府の財政問題や政治の実態に早くから関心を抱くようになりました。こうした背景が、彼が後に幕府財政の改革を志す動機となったのです。

剣術・砲術・蘭学に励んだ少年時代

小栗忠順は、幼少期から武芸に励み、特に剣術の腕前を磨きました。彼が学んだのは、幕末において名高い直心影流(じきしんかげりゅう)であり、師範は島田虎之助でした。直心影流は、実戦向けの合理的な剣術であり、戦場や決闘でも有効とされていました。後に幕府の剣術指南役となる山岡鉄舟もこの流派に影響を受けており、幕末期の多くの剣豪たちが直心影流を学んでいました。

剣術に加えて、小栗は砲術にも関心を示しました。これは、当時の軍事技術の変化を敏感に察知していたためです。幕末には、西洋式の火器や大砲が戦場で重要視されるようになり、旧来の槍や弓による戦闘から大きく変わりつつありました。彼は、従来の武士が重視していた剣術だけでなく、最新の軍事技術にも適応する必要があると考えたのです。

その考えから、小栗は結城啓之助という砲術家と交流を深めました。結城は、オランダ式の砲術に精通しており、開国論を唱える知識人でもありました。二人は、日本が西洋の技術を取り入れなければ国際社会で生き残れないと考え、砲術や兵学を積極的に学ぶようになりました。この頃から、小栗はすでに幕府の将来を見据え、西洋の知識を積極的に取り入れる姿勢を持っていたことがわかります。

また、小栗は学問にも熱心に取り組みました。特に蘭学(オランダ学問)に強い関心を持ち、江戸にあった蘭学塾にも通っていました。当時、日本は鎖国政策をとっており、西洋の知識を得る手段は限られていましたが、長崎の出島を通じてオランダ語の書物が入ってきていました。これらの書物を通じて、小栗は西洋の科学、医学、政治制度などを学びました。

彼が蘭学に熱心だった理由は、単なる知的好奇心だけではなく、幕府の未来に危機感を抱いていたからでした。欧米列強が次々とアジア諸国を植民地化する中で、日本も例外ではなく、いずれ開国を迫られることは明白でした。小栗は、そのときに備えて、西洋の技術や制度を学ぶことが必要だと考えていたのです。

若くして幕臣となり頭角を現す

19歳になった小栗忠順は、正式に幕臣としてのキャリアをスタートさせました。幕府の役人としての道を歩み始めた彼は、すぐにその才覚を発揮し、上司や同僚から注目される存在となります。特に彼が得意としたのは財政分野であり、当時の幕府の深刻な財政問題に対して積極的に意見を述べるようになりました。

幕府が慢性的な財政難に陥っていた理由の一つに、外国との貿易における不均衡がありました。開国前後、日本は金や銀といった貴重な資源を海外に流出させ、経済的な打撃を受けていました。この状況を改善するため、小栗は積極的に貿易や貨幣制度の見直しを提案しました。

また、彼は外交にも関与するようになります。1853年(嘉永6年)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、日本に開国を迫るという事件が起こりました。この黒船来航は、日本中に大きな衝撃を与え、多くの幕臣が対応に追われました。小栗もこの問題に深く関わることになり、外交と軍事の両面で日本の近代化が不可避であると確信しました。

さらに、彼は幕府の改革派と親交を深め、特に勝海舟や榎本武揚といった同じ志を持つ人物たちと交流を持つようになりました。勝海舟は海軍の創設を推進し、榎本武揚は洋学を取り入れた新たな軍事戦略を模索していました。小栗は彼らと協力しながら、幕府の近代化に向けた施策を次々と提案していきます。

こうして、小栗忠順は若くして幕府内で頭角を現し、日本の近代化を進めるための重要な役割を果たしていくことになります。彼の持つ財政・軍事・外交の幅広い知識と実行力は、後の遣米使節や横須賀製鉄所の建設といった大きな事業に結びついていくのです。

幕府財政を憂い、開国の必要性を説く

幕府財政の窮状と海外列強の圧力

19世紀半ば、日本の財政状況は危機的な状態にありました。江戸幕府は約250年にわたる統治の中で財政の健全性を維持してきましたが、度重なる天災や社会の変化、そして西洋列強の圧力が、その均衡を崩しつつありました。特に、天保の大飢饉(1833~1839年)は全国に深刻な被害をもたらし、幕府の財政をさらに圧迫しました。

小栗忠順が幕臣として台頭してきたころ、幕府の財政は慢性的な赤字に陥っていました。幕府の収入の大半は年貢(農民からの税収)に依存していましたが、農業生産の伸び悩みや商業経済の発展により、封建的な財政システムは時代に合わなくなっていました。さらに、貨幣経済の発展に伴い、大名の借金が膨らみ、彼らが幕府に頼るようになったことも財政を圧迫する要因となっていました。

そこに追い打ちをかけたのが、海外列強の圧力でした。1853年、ペリーが率いるアメリカの黒船が浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。この出来事は幕府にとって未曾有の危機であり、従来の鎖国政策がもはや限界に達していることを示していました。さらに、1858年には日米修好通商条約が締結され、諸外国との不平等条約が相次いで結ばれることとなりました。

これらの条約では、日本の関税自主権が制限され、外国商人が自由に貿易できるようになりました。しかし、貿易が始まると、日本の金や銀が大量に流出し、物価が高騰するという問題が発生しました。特に、当時の日本では金貨の含有量が外国の基準よりも高かったため、外国商人は日本の金貨を安く買い取り、自国で交換することで莫大な利益を得ていました。これにより、日本の経済は急激に混乱し、庶民の生活も圧迫されました。

小栗忠順は、このような状況に対して強い危機感を抱き、幕府の財政改革が急務であることを訴えるようになりました。彼は、これまでの農本主義的な経済政策を改め、西洋の経済システムを参考にした近代的な財政運営を導入すべきだと考えていたのです。

西洋技術に学び、改革への意欲を燃やす

小栗忠順は、単なる財政官僚にとどまらず、西洋の技術や制度を学ぶことにも強い関心を持っていました。幕末の混乱の中で、彼は勝海舟や榎本武揚といった開国派の幕臣たちと交流し、海外の最新技術を日本に導入することの重要性を理解していました。特に、海軍力の強化と近代産業の導入が、日本の独立を守るために不可欠であると考えていました。

彼の改革意欲が強まったのは、1860年に派遣された遣米使節の成功を受けてのことでした。この使節団は、日本が初めて正式な外交使節団としてアメリカを訪れたもので、小栗は後にこの経験を生かし、日本の近代化に向けた具体的な政策を提案していきます。

特に、小栗が注目したのは通貨制度の改革でした。外国との貿易が進む中で、日本の貨幣制度は国際基準に合っておらず、経済的に不利な立場に置かれていました。彼は、幕府の財政を立て直すためには、貨幣の鋳造基準を見直し、国際的な通貨制度に適応する必要があると主張しました。これは後に、彼がフランスの技術を導入して横須賀製鉄所を建設し、日本の産業基盤を強化するという政策へとつながっていきます。

また、小栗は当時の日本の軍事力にも限界を感じていました。幕府軍は依然として旧来の武士階級を中心とした戦闘方式を取っており、西洋列強に対抗するには到底不十分でした。彼は、軍制改革の必要性を強く訴え、西洋式の軍隊組織や装備を導入すべきだと主張しました。この考えは、後にフランスの軍事顧問団を招聘し、幕府軍の近代化を進めるという具体的な行動へとつながります。

勘定奉行として取り組んだ新たな試み

1862年、小栗忠順は勘定奉行(現在の財務大臣に相当)に任命されました。これは、幕府の財政を直接管理する重要な役職であり、当時の幕府財政の危機を乗り越えるために抜擢された形でした。彼は、従来の幕府の財政運営の在り方を抜本的に見直し、次のような改革を試みました。

  1. 貨幣制度の改革 – 金貨の含有量を見直し、国際基準に適合させることで、金銀の流出を防ぐ。
  2. 殖産興業の推進 – 幕府主導で工業を振興し、西洋技術を取り入れた産業の育成を図る。
  3. 貿易政策の見直し – 不平等条約の影響を最小限に抑えるため、外国との貿易ルールの再検討を進める。
  4. 軍事財政の強化 – 近代的な軍事力を整備するために必要な予算を確保し、軍備を強化する。

彼の財政改革は、幕府の生き残りをかけた重要な試みでしたが、反発も少なくありませんでした。特に、財政の無駄を削減する過程で、旧来の既得権益を持つ大名や幕臣たちからの反発を受けることが多く、改革の実現には多くの困難が伴いました。

それでも、小栗は信念を曲げることなく、日本の近代化のために尽力しました。彼の取り組みは、後の明治政府の財政政策にも大きな影響を与え、「明治の父」とも称される理由の一つとなっています。

遣米使節として目の当たりにした近代国家

1860年、遣米使節団の一員として渡米

幕末の日本にとって、1858年に結ばれた日米修好通商条約は歴史的な転換点でした。この条約により、日本はアメリカと正式に外交関係を結び、開国への道を歩み始めました。しかし、日本国内では未だ外国との交渉に不慣れであり、西洋諸国の制度や技術に関する知識も乏しい状況でした。

このような状況下で、日本政府(幕府)は条約の批准と国際関係の確立を目的として、遣米使節団を1860年に派遣しました。これは日本が初めて正式な外交使節団をアメリカへ送り、国際社会の一員として認められるための重要な外交ミッションでした。小栗忠順は、使節団の外国奉行支配組頭として選ばれ、幕府の財政と外交の専門家としてこの歴史的な旅に参加しました。

この使節団は、幕府高官である新見正興(しんみ まさおき)を正使、村垣範正(むらがき のりまさ)を副使とし、約70名の幕臣が同行しました。彼らは軍艦ポーハタン号に乗り、まずはハワイを経由してアメリカ本土へ向かいました。ハワイでは現地の人々から歓迎を受け、日本と太平洋地域の交易の可能性を垣間見る機会もありました。

この旅の中で、小栗は西洋の技術や産業、経済の仕組みを学び、日本が目指すべき未来の姿を模索するようになります。そして、彼がアメリカ本土で目の当たりにした光景は、日本の近代化の必要性を確信させるものでした。

ワシントン海軍工廠で見た最先端技術

使節団がアメリカ本土に到着すると、彼らは首都ワシントンD.C.へ招かれ、アメリカ合衆国政府の歓迎を受けました。使節団はホワイトハウスで当時の大統領ジェームズ・ブキャナンと会見し、日米間の友好関係を確認しました。日本が西洋諸国の外交儀礼に従って正式に条約を履行する意志を示したことで、国際社会における日本の立場が一歩前進することになりました。

しかし、小栗忠順にとって最も印象的だったのは、ワシントンD.C.にある**ワシントン海軍工廠(Washington Navy Yard)**の視察でした。ここはアメリカ海軍の重要な造船・軍需産業の拠点であり、小栗は初めて本格的な近代造船技術を目の当たりにしました。

小栗が驚いたのは、巨大な蒸気機関を備えた軍艦が大量生産されている光景でした。当時の日本では、軍艦は手工業的な造船技術で建造されており、大規模なドックや工場を持つ国はほとんどありませんでした。対照的に、アメリカは工場化された造船技術を確立し、短期間で強力な海軍を整備できる体制を整えていました。

特に、小栗が関心を持ったのは鋳鉄製の大砲でした。日本の武士たちは依然として火縄銃や伝統的な武器に頼っていましたが、欧米列強の軍隊はすでに強力な大砲と蒸気機関を駆使した戦術に移行していました。このままでは、日本の軍事力は到底西洋に対抗できないと痛感したのです。

小栗はこの視察を通じて、日本が海軍力を強化し、最新の造船技術を導入することが不可欠であると確信しました。彼は後にフランスの技術を導入して横須賀製鉄所を設立することになりますが、その構想の原点はこのワシントン海軍工廠での体験にあったと言えます。

パナマ鉄道を体験し物流革命を確信

アメリカ訪問の後、使節団は帰国の途に就きますが、その途中でパナマ鉄道(Panama Railroad)を利用する機会がありました。これは当時、パナマ地峡を横断する最短の交通手段として開発された鉄道であり、大西洋と太平洋を結ぶ重要な貿易ルートとなっていました。

小栗はこの鉄道の存在に強い衝撃を受けました。日本では未だ鉄道が敷設されておらず、国内の物流は主に船や馬によって行われていました。しかし、パナマ鉄道のような鉄道網が整備されれば、物資の輸送時間が大幅に短縮され、経済活動が飛躍的に発展する可能性があると直感しました。

特に、パナマ鉄道の効果として次のような点に注目しました。

  1. 物流の効率化 – 海路では長期間かかる輸送が、鉄道を使えば数時間で完了する。
  2. 軍事戦略の強化 – 兵士や物資の迅速な移動が可能となり、戦争時の対応力が向上する。
  3. 経済発展への貢献 – 商業が活性化し、各都市の発展を促進する。

これらのメリットを理解した小栗は、日本にも鉄道を導入すべきだと強く感じるようになりました。そして、帰国後に鉄道建設の必要性を幕府に提案することになります。日本で本格的な鉄道建設が始まるのは明治時代に入ってからですが、小栗のこの視察体験がその先駆けとなったのは間違いありません。

アメリカ視察が小栗忠順に与えた影響

この遣米使節の経験を通じて、小栗忠順は西洋の圧倒的な技術力と経済力を目の当たりにし、日本の近代化が避けられないことを痛感しました。ワシントン海軍工廠で学んだ造船技術、パナマ鉄道で実感した物流の重要性——これらの知見が、後の彼の政策に大きな影響を与えます。

帰国後、小栗は幕府内で近代化政策を推し進めるために奔走します。特に、横須賀製鉄所の建設、フランス軍事顧問団の招聘、通貨改革の推進など、彼が主導した改革の多くは、このアメリカ視察の経験に基づくものでした。

横須賀製鉄所の建設と近代化への布石

フランスの技術を取り入れ、横須賀製鉄所を建設

1860年の遣米使節としての経験を経て、小栗忠順は日本の近代化に向けた具体的な施策を模索するようになりました。特に彼が注目したのは、近代造船技術の導入と海軍力の強化でした。ワシントン海軍工廠で目の当たりにした近代的な造船技術は、日本の軍事力が欧米列強に対抗するためには不可欠であると確信させるものでした。

帰国後、小栗は幕府内で造船所の建設を提案し、1865年(慶応元年)、フランスの技術を導入して**横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)**の建設を開始します。これには、小栗の強い信念と政治手腕が必要でした。なぜなら、当時の幕府内には「莫大な財政負担になる」という反対意見も多く、外国の技術導入に対する警戒感も根強かったからです。しかし、小栗は「国を守るためには強い海軍が必要であり、そのためには近代的な造船所が不可欠である」と主張し、幕府の承認を取り付けました。

この計画の実行にあたり、小栗はフランス公使レオン・ロッシュおよび技術者のレオンス・ヴェルニーと協力しました。レオン・ロッシュはフランス政府の外交官であり、日本の近代化に協力的な立場を取っていました。一方、レオンス・ヴェルニーは造船技術者であり、日本における近代造船所建設の中心人物となりました。彼の指導のもと、最新の技術を用いた製鉄所と造船施設の建設が進められました。

日本初の近代造船所が誕生するまでの道のり

横須賀製鉄所の建設は、単なる造船所の建設ではなく、近代的な産業基盤を整備する国家プロジェクトでした。造船所の建設に伴い、以下のようなインフラ整備も進められました。

  1. 製鉄施設の設置 – 近代的な鋳鉄・鍛鉄技術を導入し、軍艦や大砲の生産を可能にする。
  2. 船渠(ドック)の整備 – 蒸気船の修理・建造が可能な大規模なドックを建設する。
  3. 技術者の育成 – フランス人技術者の指導のもと、日本人技術者を養成し、国内での造船技術の確立を目指す。
  4. 都市基盤の整備 – 横須賀の町にはフランス式の都市計画が導入され、上下水道や道路の整備が進められた。

横須賀製鉄所の建設にあたり、小栗は兵庫商社の構想も打ち出しました。これは、幕府が主導する貿易機関を設立し、外国との貿易を管理しながら経済的な自立を図るという計画でした。もしこの構想が成功していれば、幕府は外国資本に頼ることなく、独自の資金調達で近代化を進めることができたかもしれません。しかし、この計画は幕府内の保守派からの反発もあり、実現には至りませんでした。

メートル法導入を提言し、近代化を促進

小栗忠順が進めたもう一つの重要な施策が、日本の度量衡(計量単位)の改革です。当時、日本では尺貫法(尺や匁などの単位)が使われていましたが、これは国際貿易には適さないものでした。小栗は、フランスの技術を導入する過程でメートル法に触れ、その合理性に注目しました。

フランスの技術者ヴェルニーらと協議する中で、小栗は「今後、日本が国際社会で競争するためには、統一された計量制度が必要である」と考え、メートル法の導入を提案しました。彼は、横須賀製鉄所の建設にあたってメートル法を使用するよう働きかけ、一部の工業分野では実際にメートル法が取り入れられるようになりました。

しかし、この改革も幕府内の保守派からの反発を受けました。尺貫法は日本の伝統的な度量衡であり、多くの商人や職人がそれに慣れ親しんでいたため、突然の変更には強い抵抗がありました。最終的に、日本が本格的にメートル法を導入するのは明治時代に入ってからになりますが、小栗のこの先見性は、日本の工業化における重要な布石となったのです。

横須賀製鉄所がもたらした日本の近代化

横須賀製鉄所は、小栗忠順の強い信念と行動力によって実現した、日本初の本格的な近代造船所でした。この施設は、後に明治政府のもとで横須賀造船所として引き継がれ、日本の海軍力強化の基盤となります。

さらに、この製鉄所で育成された技術者たちは、日本の近代産業の発展に貢献しました。明治維新後、多くの技術者が新政府に雇われ、日本各地で工業化が進められることになります。横須賀で培われた技術が、日本全体の発展につながったと言えるでしょう。

しかし、小栗自身はこの偉業を後世に語ることはできませんでした。幕府が崩壊し、彼が新政府によって処刑されたため、その功績は長らく隠されたままとなってしまいました。もし彼が生きていれば、日本の近代化はさらに早く進んでいたかもしれません。

幕府陸海軍の改革とフランス式軍制導入

幕府軍の近代化を進めた改革者としての手腕

幕末の日本は、欧米列強の圧力によって軍事的危機に直面していました。1853年の黒船来航以来、外国の艦隊が日本沿岸に頻繁に現れ、その軍事力の圧倒的な差を見せつけました。この状況に危機感を抱いた幕府は、軍制改革を進める必要に迫られていました。

小栗忠順は、財政改革や産業振興と並行して、幕府の軍事力強化にも積極的に関与しました。彼は、近代国家を築くためには強力な軍隊が必要であり、特に西洋式の軍隊を採用しなければならないと考えていました。彼の目標は、幕府軍を単なる武士の集団から、近代的な組織化された軍隊へと変革することでした。

まず、小栗が着手したのは海軍の強化でした。彼は、遣米使節団の一員としてアメリカの海軍力を目の当たりにし、日本もこれに匹敵する海軍を持たなければならないと痛感していました。そのため、彼はフランスから最新の軍艦を購入し、さらに横須賀製鉄所の建設を推進して、国内で軍艦を建造できる体制を整えようとしました。

一方で、陸軍の近代化も同時に進められました。従来の幕府軍は、主に藩ごとに編成された寄せ集めの軍隊であり、統一された指揮系統や戦術が存在しませんでした。しかし、小栗は西洋式の軍隊を導入することで、中央集権的な軍事組織を構築しようとしました。

フランス軍事顧問団を招聘し組織を強化

幕府は、近代的な軍事制度を確立するためにフランス軍事顧問団を招聘することを決定しました。1867年(慶応3年)、フランスのナポレオン3世の協力を得て、軍事顧問団が日本に派遣されました。この顧問団の中心人物がジュール・ブリュネでした。彼はフランス陸軍の将校であり、後に旧幕府軍とともに箱館戦争で戦うことになる人物です。

フランス軍事顧問団は、日本の武士たちに近代的な戦術、銃器の運用、兵站の管理などを指導しました。彼らの指導のもと、幕府は洋式陸軍の編成を開始し、フランス式の訓練を受けた新たな兵士たちを育成しました。これにより、幕府軍の戦闘力は大幅に向上しましたが、その改革が本格的に機能する前に戊辰戦争が勃発してしまいました。

小栗は、フランス軍事顧問団の支援を受けながら、兵制改革をさらに推し進めようとしました。彼は、幕府軍を単なる武士の軍隊から、国民全体が支える軍隊へと変革する構想を持っていました。これは、後の徴兵制の考え方にも通じるものであり、日本の軍制改革の先駆けとなったと言えるでしょう。

また、小栗は軍事だけでなく、軍事技術の発展にも力を注ぎました。彼はフランスの技術を参考にしながら、日本国内での武器製造を推進し、幕府軍が西洋式の武器を自前で調達できるようにしようとしました。この試みは、後の日本の軍需産業の発展に大きな影響を与えることになります。

大村益次郎との対立と意見の相違

小栗忠順が幕府軍の近代化を推進する一方で、新政府側でも軍制改革を進める動きがありました。その中心人物が大村益次郎でした。大村は長州藩出身の軍学者であり、西洋の軍事理論に精通していました。

小栗と大村は、それぞれ幕府軍と新政府軍の軍制改革を主導する立場にありましたが、両者の考え方には大きな違いがありました。

  1. 軍事モデルの選択
    • 小栗はフランス式の軍隊をモデルとし、強力な中央集権的な指揮系統を確立しようとしました。
    • 大村はプロイセン式の軍隊を参考にし、国民皆兵制度(徴兵制)を導入しようとしました。
  2. 軍の構成
    • 小栗は、幕府の財政改革と並行して軍の近代化を進め、限られた予算の中で効率的な軍事力を整備しようとしました。
    • 大村は、武士階級に依存しない庶民主体の軍隊を編成し、藩兵を統合して新たな国民軍を作ろうとしました。
  3. 戦略の違い
    • 小栗は、幕府が持つ限られた戦力を精鋭化し、最小限の戦力で最大の防御力を発揮する戦略を採用しました。
    • 大村は、圧倒的な兵力差を活かし、新政府軍が一気に幕府を打倒するための戦略を立てました。

結果的に、戊辰戦争では大村益次郎の構想した新政府軍が勝利し、小栗の進めた幕府軍の近代化は未完のまま終わることになります。しかし、小栗の進めた軍事改革は、後の帝国陸海軍の創設に影響を与え、日本の軍事力強化の土台となりました。

未完に終わった軍制改革とその遺産

小栗忠順の軍事改革は、幕府の崩壊によって中断されましたが、その影響は明治時代に引き継がれました。特に、フランス軍事顧問団の影響を受けた士官たちは、新政府の軍制にも影響を与え、日本の陸海軍の基礎を築きました。

また、小栗が推し進めた横須賀製鉄所の建設は、明治政府によって引き継がれ、日本の造船技術と軍需産業の発展に寄与しました。彼の構想した軍制改革が完成していれば、日本はより早く近代的な軍隊を確立し、日清戦争や日露戦争に向けた準備が整っていたかもしれません。

兵庫商社と徳川埋蔵金伝説の真相

幕府財政の再建を目指した商社構想

幕末の日本において、幕府の財政は深刻な危機に直面していました。開国後、日本は外国との貿易が本格化しましたが、不平等条約により関税自主権を持たず、外国商人に有利な条件での取引を強いられました。その結果、金銀の流出が続き、国内経済が大きく混乱しました。

小栗忠順は、こうした状況を打破し、幕府の財政基盤を強化するために「兵庫商社」の設立を構想しました。これは、幕府が主導する貿易会社であり、外国商人に対して自主的な価格交渉を行い、貿易の利益を幕府財政に還元する仕組みを作ることを目的としていました。兵庫商社の構想は、現代の国営貿易企業に近いものであり、外国の資本に依存せずに日本の経済を安定させる狙いがありました。

当時、日本の主要な貿易港として横浜が機能していましたが、ここでは外国商人の影響力が強く、日本側が主導権を握ることが難しい状況でした。そこで、小栗は兵庫(現在の神戸)を新たな貿易拠点とすることを提案しました。兵庫は地理的にも西日本の玄関口として最適であり、江戸幕府の直轄地として管理もしやすかったためです。彼の構想では、兵庫商社が幕府の管理下で貿易を行い、利益を幕府の財政再建に活用する計画でした。

この計画が成功していれば、日本の貿易政策はより自主的なものになり、外国資本に翻弄されることなく、幕府が経済的な主導権を握ることが可能だったかもしれません。しかし、この構想は幕府内部の反対や混乱によって実現には至りませんでした。また、1867年に大政奉還が行われ、幕府の終焉が近づく中で、兵庫商社の設立どころではなくなってしまったのです。

兵庫商社の設立とその意義とは?

小栗の構想した兵庫商社は、単なる貿易機関ではなく、国内経済の振興にも大きな影響を与えるものでした。彼は、外国との貿易を通じて、日本国内の産業を発展させることを狙っていました。特に、横須賀製鉄所のような近代的な工業施設の整備と連携し、国内での生産力を向上させることで、海外依存を減らすことを目指していました。

また、兵庫商社の設立は、幕府の財政改革とも密接に関係していました。当時の幕府財政は、藩からの上納金(租税)と商人からの借金に依存していましたが、これは持続可能なものではありませんでした。小栗は、幕府自らが貿易を行い、収益を確保することで、財政を健全化するというビジョンを持っていました。

この商社構想は、後の渋沢栄一による「日本の株式会社制度」にも影響を与えたとされています。渋沢は後に「第一国立銀行」や「王子製紙」など多くの企業を設立し、日本の資本主義を発展させましたが、その基礎となる考え方は、小栗の兵庫商社の構想と共通する部分が多かったのです。

しかし、兵庫商社の計画が実現しないまま幕府は崩壊し、結果的に明治政府が近代経済政策を担うことになりました。もし小栗の構想が成功していれば、日本の経済発展のスタートはより早かったかもしれません。

徳川埋蔵金の謎と真実に迫る

小栗忠順といえば、しばしば語られるのが「徳川埋蔵金伝説」です。これは、幕府崩壊の際に、小栗が莫大な幕府の財産を隠したという伝説であり、今もなお「小栗上野介が隠した財宝」として語られることがあります。

この伝説の発端は、小栗が幕府財政を立て直すために多額の資金を管理していたことにあります。彼は、幕府の財政再建のために金銀の備蓄を確保していたとされ、その金が幕府崩壊後に忽然と姿を消したことで、「小栗が埋蔵したのではないか?」という噂が生まれました。

具体的に、埋蔵金の存在が噂される場所としては、以下のような説があります。

  1. 群馬県高崎市周辺 – 小栗が最期を迎えた地域であり、彼の管轄地であったため。
  2. 横須賀製鉄所の地下 – 近代化のために確保された資金が隠された可能性。
  3. 江戸城地下 – 幕府の財産が城内の秘密の金庫に保管されていたという説。

しかし、これらの埋蔵金が実際に発見されたという確証はありません。歴史的に見ても、小栗が個人的に財宝を隠したという記録は存在せず、むしろ彼は幕府の財政を健全に管理しようとしていたことが知られています。

では、なぜこのような埋蔵金伝説が生まれたのでしょうか?

その背景には、明治政府による小栗忠順の評価の封印があると考えられます。小栗は幕末の近代化政策において重要な役割を果たしましたが、幕府側の人物であったため、明治政府によってその功績が意図的に隠された可能性があります。埋蔵金伝説も、小栗が財政を管理していた事実と、彼の急死によって真相が分からなくなったことが結びついて生まれたものと考えられます。

いずれにせよ、小栗忠順が財政再建を目指し、経済政策を推進していたことは紛れもない事実です。彼の構想は、後の日本の経済発展に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

戊辰戦争と幻の箱根挟撃作戦

幕府崩壊の危機に立ち向かった小栗の戦略

1868年(慶応4年/明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は、新政府軍の進軍を受けて江戸の防衛戦を検討せざるを得ない状況に追い込まれました。幕府の財政・軍事を担っていた小栗忠順は、この危機に際しても冷静に状況を分析し、幕府が生き残るための戦略を模索しました。

小栗が重視したのは、江戸での決戦を避け、地の利を活かした防衛戦を展開することでした。江戸城周辺は広大であり、大規模な戦闘になれば市街地が巻き込まれ、甚大な被害を受けることが予想されました。そのため、幕府軍が戦う場として小栗が選んだのは、箱根でした。

箱根は東海道の要衝であり、山岳地帯にあるため防御に適した地形でした。幕府軍がここで防衛線を敷き、新政府軍を迎え撃つことで、戦局を有利に進めることができると小栗は考えました。彼は、この戦略を実行に移すことで、幕府軍が一定の勝利を収め、新政府軍との講和交渉を有利に進めることができると期待していました。

箱根での挟撃作戦を提案するも実現せず

小栗が立案した「箱根挟撃作戦」は、幕府軍が箱根の要所を抑え、新政府軍を迎え撃つだけでなく、別動隊を使って敵の補給路を断つというものでした。これは、地形を活かした防衛戦略として理に適っており、新政府軍の進撃を遅らせる効果が期待できました。

しかし、この作戦は実現することなく終わりました。その最大の要因は、徳川慶喜の決断でした。慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敗北した後、戦争を拡大させることを避けるため、江戸城を明け渡すという方針を固めていました。そのため、幕府軍の徹底抗戦を主張する小栗の意見は退けられ、戦わずして幕府は解体されることとなりました。

また、幕府内部でも意見が分かれていました。小栗のように戦闘継続を主張する者もいれば、和平交渉を優先すべきだと考える者もいました。この内部分裂が幕府軍の統一的な作戦遂行を困難にし、結果的に小栗の戦略は採用されませんでした。

徳川慶喜の決断がもたらした結果

江戸城は無血開城となり、幕府軍は新政府軍に降伏しました。この決断により、江戸の市民が戦火を免れたことは評価されるべき点ですが、幕府側にとっては敗北を決定づける結果となりました。小栗が考えていたように、もし箱根での防衛戦が実施されていれば、新政府軍の進軍は遅れ、幕府がより有利な条件で交渉を進める可能性があったかもしれません。

小栗忠順にとって、この決断は無念そのものでした。彼は幕府を守るために尽力し、軍制改革を進めてきましたが、その成果を発揮する機会を失ってしまいました。新政府軍による統治が始まると、小栗は旧幕臣として追われる身となり、最終的に非業の最期を迎えることになります。

烏川河原に散った非業の最期

上野国権田村へ退避した小栗の晩年

戊辰戦争において幕府軍の敗北が決定的になると、小栗忠順は幕臣としての立場を追われることになりました。新政府が本格的に旧幕府関係者の処分を進める中、小栗は1868年(明治元年)4月、江戸を離れ、上野国(現在の群馬県高崎市付近)の権田村に退避しました。

この地を選んだ理由の一つは、小栗が権田村を含む地域の支配者として深い関わりを持っていたことにあります。彼は勘定奉行として財政や軍事を担当していただけでなく、開発や産業振興にも関心を持ち、この地域の整備に尽力していました。そのため、地元の住民たちからは一定の支持があり、身を寄せるには適した場所だったのです。

しかし、小栗は単に隠遁生活を送るつもりはありませんでした。彼は新政府に対して直接弁明する機会を求め、「日本の近代化のために行ったことは決して幕府のためだけではなく、新政府にも役立つはずだ」と主張するつもりでいました。また、彼には「軍事力を整備し直し、新政府との対抗勢力を作る」という構想もあったと言われています。これは、彼が単なる一幕臣ではなく、国家戦略を描く人物であったことを示しています。

しかし、彼の動向は新政府側にも察知されていました。特に、新政府において影響力を強めていた大隈重信や大村益次郎らは、小栗の存在を危険視していました。彼らは「小栗の軍事的才能と組織力が新政府の安定を脅かす可能性がある」と考え、彼の速やかな排除を決定しました。

新政府軍による捕縛と無念の処刑

1868年4月27日、新政府軍は小栗忠順を捕縛するため、権田村へと進軍しました。彼の身柄を確保するために動いたのは、板垣退助が率いる新政府軍の部隊でした。小栗は抵抗することなく、冷静に状況を受け入れ、捕縛されました。

捕えられた小栗は、高崎の本陣に連行され、新政府の取り調べを受けました。この際、彼は自らの行動について詳細に説明し、自身が幕府の忠臣であるだけでなく、日本の近代化のために尽力したことを強調しました。しかし、新政府側はこれを認めず、小栗を「反政府的な危険人物」として処刑する方針を決定しました。

処刑が行われたのは、1868年5月28日(明治元年4月6日)、烏川(からすがわ)の河原でした。小栗は最後まで毅然とした態度を崩さず、処刑直前に「私は日本のために尽くした。後の世の人々が必ず理解してくれるだろう」と言い残したと伝えられています。そして、首を刎ねられ、享年42歳の生涯を閉じました。

小栗と共に処刑されたのは、彼の忠実な部下であった山浦環(やまうら たまき)ら数名の幕臣でした。彼らもまた、小栗と共に日本の近代化を目指した仲間であり、最後までその信念を貫いた者たちでした。

明治政府に封じられた功績の数々

小栗忠順の死後、その功績は長らく公には評価されませんでした。新政府にとって、小栗は旧幕府の中心人物であり、その政策や業績を正当に評価することは、新政府の正当性を揺るがしかねないものでした。そのため、彼の名前は意図的に歴史から消され、彼が主導した横須賀製鉄所の建設や軍事改革、経済政策などの業績も、新政府のものとして語られることが多くなりました。

特に、横須賀製鉄所はその後明治政府によって引き継がれ、日本の近代造船技術の基盤となりました。しかし、小栗の名は公式な記録から外され、あたかも明治政府が最初から計画していたかのように扱われました。また、小栗が目指した貨幣制度の改革や貿易管理の構想も、後に渋沢栄一らの手によって実現されましたが、そこに小栗の名が刻まれることはありませんでした。

このような扱いの背景には、小栗が「幕府の官僚」であったことだけでなく、「新政府の都合の良い歴史」にそぐわなかったことが挙げられます。新政府は、自らを「維新の英雄」として描くため、幕府側の功績を認めることを避けたのです。そのため、小栗の存在は長い間、一般にはほとんど知られず、歴史の影に埋もれることとなりました。

しかし、昭和に入ると歴史研究が進み、小栗の功績が再評価されるようになりました。特に、横須賀製鉄所の建設や幕府財政の改革に関する研究が進むにつれ、「小栗忠順こそが日本の近代化の先駆者であった」との評価が広がっていきました。さらに、彼を題材にした書籍や漫画が登場し、徐々にその名が知られるようになりました。

もし小栗が生き延び、新政府の一員として改革を進めていたならば、日本の近代化はさらに早まっていたかもしれません。しかし、彼はあくまで幕臣としての忠義を貫き、新政府に降ることなくその生涯を閉じました。その信念と功績は、後の歴史の中で徐々に明らかにされ、日本の近代化における重要な役割を果たした人物として、再び脚光を浴びるようになりました。

小栗忠順を描いた書籍・映像作品

『小栗忠順のすべて』(村上泰賢)— 再評価される幕末の改革者

長らく歴史の影に埋もれていた小栗忠順ですが、昭和以降の研究によって徐々にその功績が再評価されるようになりました。その代表的な研究書の一つが、村上泰賢による『小栗忠順のすべて』です。この書籍では、小栗の生涯を詳細に分析し、彼が果たした財政改革、軍制改革、貿易政策の重要性を明らかにしています。

本書は、小栗が単なる幕臣ではなく、日本の近代化における先駆者であった点を強調しています。特に、横須賀製鉄所の建設や兵庫商社の構想といった近代化政策が、後の明治政府の政策とどれほど密接に関わっていたかを詳細に解説。彼が遣米使節の経験から学んだことを、日本の近代化にどのように活かそうとしたのかが、具体的なエピソードを交えて描かれています。

また、彼の功績が明治政府によって封じられた経緯にも言及し、小栗の政策が後の渋沢栄一らの財政・産業政策に与えた影響を論じています。小栗の名が歴史の表舞台に戻るきっかけとなった重要な一冊です。

『猛き黄金の国』(本宮ひろ志)— 漫画で描かれた異端の幕臣

小栗忠順の生涯は、小説や映画だけでなく、漫画作品としても描かれています。その代表作の一つが、本宮ひろ志による歴史漫画『猛き黄金の国』です。本宮ひろ志は、『サラリーマン金太郎』や『俺の空』などで知られる漫画家で、熱血漢のキャラクターを描くことに定評があります。本作では、幕末の動乱の中で近代化を推し進める小栗忠順の姿が生き生きと描かれています。

この作品では、小栗の財政手腕や軍事改革に焦点を当て、彼がどのようにして幕府の近代化を進めようとしたのかがドラマティックに表現されています。特に、兵庫商社の設立を目指して奔走する姿や、幕府内での政治的な駆け引きに翻弄される場面は、歴史を知らない読者にもわかりやすく描かれています。

また、本作では小栗が改革者としてだけでなく、信念を貫く人間としての葛藤や苦悩が丁寧に描かれており、彼の人間味を感じることができます。歴史に詳しくない人でも、漫画ならではの表現で小栗忠順の生涯を学ぶことができる作品です。

『天涯の武士』(木村直巳)— 幕末の動乱を生きた男の物語

小栗忠順を描いた漫画作品の中でも、より史実に忠実な作風で知られるのが、木村直巳の『天涯の武士』です。本作は、幕末の動乱の中で翻弄されながらも、最後まで信念を貫いた武士たちを描く物語であり、小栗忠順の生涯もその重要な一部分として取り上げられています。

この作品の特徴は、幕末の政治的背景や軍事状況が緻密に描かれている点です。例えば、小栗が進めた幕府の軍制改革や、横須賀製鉄所の建設過程など、彼が日本の近代化に果たした役割が丁寧に描かれています。また、彼がフランスの軍事顧問団を招聘し、幕府軍の近代化を図る場面なども詳しく描かれ、彼のビジョンの大きさが読者に伝わります。

さらに、本作では小栗忠順の最期も重厚に描かれています。彼が幕府崩壊後に群馬の権田村に身を寄せるも、新政府軍によって捕えられ、最期を迎えるまでの過程が丹念に描写されています。烏川の河原で処刑される場面では、小栗が最後まで毅然とした態度を崩さなかったことが強調されており、その姿勢が「武士の誇り」として描かれています。

本作は、小栗忠順の生涯を歴史的な視点から知ることができる貴重な作品であり、幕末の動乱をリアルに体験できる作品でもあります。

NHK大河ドラマ『青天を衝け』— 武田真治が演じた小栗忠順

2021年に放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、小栗忠順を武田真治が演じました。この作品は、「日本資本主義の父」とも称される渋沢栄一を主人公にしたドラマであり、幕末から明治にかけての社会変革が描かれています。その中で、小栗は幕府の財政改革を主導する重要な人物として登場しました。

ドラマでは、小栗が渋沢栄一と出会い、彼に幕府の財政や貿易政策について教える場面が印象的に描かれています。特に、小栗が渋沢に対して「これからの日本には、軍事力だけでなく経済力が必要だ」と説くシーンは、小栗のビジョンの広さを表しており、多くの視聴者の共感を呼びました。

また、横須賀製鉄所の建設に関するエピソードも取り上げられ、小栗がフランスの技術者レオンス・ヴェルニーと協力しながら日本の工業化を進めようとする姿が描かれました。これは、彼がいかに実務家であり、日本の未来を見据えた政策を打ち立てていたかを示す重要なシーンでした。

一方で、ドラマでは小栗の最期もリアルに描かれています。新政府軍によって捕えられ、烏川河原で処刑される場面では、彼が最後まで冷静に振る舞い、未来の日本に思いを馳せる姿が感動的に演出されました。このシーンは、視聴者に彼の悲劇的な運命と、それでも揺るがぬ信念を印象づけるものでした。

日本の近代化を先駆けた小栗忠順の遺産

小栗忠順は、幕末という激動の時代にあって、日本の近代化を先導した異才の官僚でした。横須賀製鉄所の建設、幕府財政改革、軍制の近代化、国際貿易の管理など、彼が進めた政策の多くは、その後の明治政府によって引き継がれ、日本の発展の礎となりました。

しかし、小栗は時代の波に翻弄され、新政府の意向によって歴史から葬られました。もし彼の政策が幕府のもとで実現していれば、日本の近代化はさらに早まり、より整然とした形で進んでいたかもしれません。

彼の名誉が回復し、その功績が正当に評価されるようになったのは、昭和以降のことでした。近年では、書籍や映像作品を通じて彼の生涯が広く知られるようになっています。小栗忠順の挑戦と信念は、現代に生きる私たちにとっても多くの示唆を与えてくれるでしょう。

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