こんにちは!今回は、江戸時代後期に東北地方をくまなく歩き、膨大な文章と図絵を残した稀代の旅行家、菅江真澄についてお話しします。
彼は三河国を飛び出し、30歳で帰らぬ旅人となって以来、北日本の風景や習俗、アイヌの人々の暮らしを克明にスケッチし、日記に書き残した人物です。時に旅人として警戒されながらも筆を止めず、名もなき村々の祭りや道具を記録し続けたその姿勢は、まさに「民俗学の先駆者」と呼ぶにふさわしいものでした。
故郷を捨てて北の土となった男が、生涯をかけて見つめ続けた「庶民の真実」とは何だったのか、その足跡をたどってみましょう。
30歳で故郷を捨てて旅に出た若き日の菅江真澄

謎多き前半生と故郷三河からの出奔
菅江真澄、本名を白井秀雄(または英二)というこの人物は、宝暦4年(1754年)に三河国渥美郡、現在の愛知県豊橋市に生まれました。しかし、彼がどのような幼少期を過ごし、どのような家庭環境で育ったのか、その前半生については多くの謎に包まれています。彼自身が後に書き残した記録の中にも、故郷での生活を懐かしむ記述はあれど、家族や個人的な事情に触れた部分は極めて少ないのです。
確かなことは、彼が30歳を迎えた天明3年(1783年)、突如として故郷を去り、二度と戻らない旅に出たという事実です。この出奔の理由については、「失恋や許嫁との死別が原因である」とするロマンチックな説や、「家業の失敗や身分上のトラブルがあった」とする説など、様々な推測がなされていますが、決定的な証拠は見つかっていません。ただ一つ言えるのは、彼の中には強烈な「知への渇望」と、見知らぬ土地への憧れが渦巻いていたということです。彼は安定した定住生活を捨て、草鞋を履いて道の彼方へと歩き出しました。それは、当時の一般庶民としては異例ともいえる、目的の定まらない漂泊の旅の始まりでした。
信濃から奥州への旅で養われた観察眼
故郷を出た真澄は、まず信濃国(長野県)へと向かいました。この初期の旅において、彼は単に名所旧跡を巡るだけでなく、その土地特有の植物や奇岩、あるいは人々の話し言葉に強い関心を示しています。信濃の山深い道を歩きながら、彼は目にするものすべてを記録しようと試みました。雪深い峠を越え、越後(新潟県)へと抜ける過酷な道のりは、若き日の真澄にとって、自然の厳しさと美しさを肌で学ぶ最初の試練だったと言えるでしょう。
その後、彼は日本海沿いに北上し、出羽国(山形県・秋田県)を経て、奥州(東北地方北部)へと足を踏み入れます。この道中で彼が養ったのは、物事を先入観なく見つめる鋭い観察眼でした。当時の多くの文人たちが、和歌の名所や歴史的な古戦場といった「過去の権威」に関心を寄せたのに対し、真澄の目は常に「現在の風景」と「生きた人間」に向けられていました。道端の草花の名前を土地の古老に尋ね、珍しい祭りがあれば足を止めて詳細にメモを取る。そうした地道なフィールドワークのスタイルは、この初期の放浪時代に確立されていったのです。
好奇心を支えた本草学と和歌の教養
真澄の旅が単なる物見遊山で終わらず、学術的な価値を持つ記録となり得た背景には、彼が身につけていた深い教養がありました。彼は若い頃から本草学(植物や鉱物などの薬効を研究する学問)に親しんでおり、動植物に対する専門的な知識を持っていました。これにより、旅先で見かける植物を正確に同定し、その特徴を文章と絵で記録することができたのです。
また、彼は和歌にも深く通じていました。当時の教養人にとって、和歌はコミュニケーションの道具でもありました。旅先で宿を借りる際、主人と歌を詠み交わすことで信用を得たり、土地の知識人たちと交流を深めたりすることができたのです。三河時代に国学者から学んだとされる古典の知識は、彼が地方の言葉(方言)の中に古代日本語の残滓を見出す助けともなりました。本草学者としての科学的な目と、歌人としての感性豊かな心。この二つを併せ持っていたからこそ、菅江真澄は独自の「図絵」という表現方法を生み出すことができたのです。
津軽海峡を越えてアイヌ文化を目撃した菅江真澄

アイヌ社会に向けた冷静で温かい視線
天明8年(1788年)、真澄は津軽海峡を渡り、蝦夷地(現在の北海道)へと足を踏み入れました。当時の和人社会において、蝦夷地は「異域」であり、そこに住むアイヌの人々に対しては差別的な偏見や誤解が少なからず存在していました。しかし、真澄が残した記録には、そうした偏見に満ちた視線はほとんど見られません。彼はあくまで一人の観察者として、アイヌの人々の生活に興味を抱き、ありのままを記録しようと努めました。
彼は松前藩の支配下にあった和人の居住地だけでなく、アイヌの人々が暮らす集落(コタン)にも積極的に近づきました。彼らの住居の構造、衣服の文様、狩猟の道具、そして神への祈り(カムイノミ)の儀式などを、驚くべき詳細さで記録しています。特筆すべきは、彼がアイヌ語にも関心を持ち、地名や物の名前をカタカナで記録しようとした点です。異文化を「野蛮なもの」として切り捨てるのではなく、「自分たちの文化とは異なる、尊重すべき生活様式」として捉える真澄の態度は、現代の文化人類学にも通じる客観性と温かさを持っていたといえるでしょう。
津軽滞在中に日記へ刻んだ民俗記録
蝦夷地から戻った真澄は、その後数年間にわたり津軽地方(現在の青森県北西部)に滞在しました。この時期、彼は弘前やその周辺の村々を巡り、多くの日記を執筆しています。ここで彼を支援したのが、地元の有力者である小西宮太郎といった人々でした。彼らは真澄の学識と人柄に惚れ込み、宿や食事を提供するとともに、地域の情報を提供してくれる重要なパトロンとなりました。
津軽での真澄は、特に庶民の信仰や年中行事に注目しました。例えば、お盆の精霊送りの風習や、虫送りの行事、あるいは山岳信仰に基づく登拝など、地域に根付いた精神文化を克明に記録しています。また、この時期には、山伏や修験者たちとも交流を持ちました。特に修研福寿院宥香という人物は、真澄にとって得難い情報源でした。宥香の案内により、一般の旅人が立ち入ることのできない山深い聖地や、秘された儀式の場にも真澄は足を運ぶことができたのです。こうした「内側からの視点」を得たことで、彼の記録は表面的な紀行文を超えた、厚みのある民俗誌となっていきました。
松前での経験が育んだ図絵のスタイル
真澄の記録の最大の特徴は、文章に添えられた詳細な挿絵(図絵)にあります。このスタイルが確立されたのは、やはり松前(蝦夷地)や津軽での経験が決定打となりました。見たこともない北方の動植物や、独特な形状をしたアイヌの民具、あるいは複雑な祭りの配置などは、従来の和歌や文章表現だけでは伝えきれないものだったからです。そこで彼は、対象を正確に写生し、図解入りの記録を残すことを自らに課すようになりました。
彼の描く絵は、美術的な美しさを追求したものではなく、あくまで「情報の正確さ」を最優先したものでした。植物であれば葉脈の走り方や根の形状まで、民具であれば素材の質感や結び目の一つひとつまでが丁寧に描かれています。誰かに教わった画法というよりは、対象を理解したいという執念が生んだ独自の「記録画」といえるでしょう。この時期に培われた「見て、描いて、保存する」という徹底した実証的姿勢こそが、後の秋田時代における地誌編纂事業でも遺憾なく発揮されることになるのです。
医師武田成親との出会いで秋田に定住した菅江真澄

白糸の滝への誘いで果たした秋田入国
寛政から享和へと時代が移り変わる頃、真澄は津軽と秋田の国境付近を行き来していました。そんな彼にとって、人生の大きな転機となったのが、秋田藩領の大館に住む医師、武田成親(敬夫)との出会いでした。享和元年(1801年)、成親は真澄に対し「白糸の滝を見に行かないか」と誘いをかけます。この誘いは、単なる観光の誘いではありませんでした。学問を愛し、真澄の才能を見抜いていた成親は、彼を秋田の知的ネットワークに引き入れたいと考えていたのです。
この旅をきっかけに、真澄は本格的に秋田藩領内へと足を踏み入れます。当初は一時的な滞在のつもりだったかもしれませんが、この地には彼を魅了する手つかずの自然と、深い歴史、そして何よりも彼を温かく迎える人々が待っていました。一度は津軽に戻るなどの動きを見せつつも、成親との縁は、結果として真澄が後半生を過ごすことになる「秋田定住」への最初の扉を開くことになったのです。
奈良喜右衛門らと深めた文化的な交流
秋田に入った真澄を支えたのは、武田成親だけではありませんでした。秋田藩領内の各地の豪農や商人、神職たちがネットワークを作り、真澄をリレー形式で歓待しました。例えば、秋田(久保田)の町人で商売に成功した奈良喜右衛門は、真澄に書斎となる「奥の六畳間」を提供し、静かに執筆に集中できる環境を整えました。旅に疲れた真澄にとって、喜右衛門の家は我が家のように心安らぐ拠点となったのです。
また、鹿角地方では荒谷忠右衛門富訓や佐藤太治兵衛といった地域の有力者が宿を提供し、それぞれの土地の伝承や古文書を真澄に見せました。彼らにとって、諸国を歩き博識な真澄をもてなすことは、自分たちの教養を深め、外の世界の情報を得る貴重な機会でもありました。さらに、真澄は旅先で出会った鈴木常雄や村上良道といった在地の人々とも積極的に交流しました。彼らはその土地の歴史や地理に精通しており、真澄の調査を実務面で支えました。こうした草の根の交流があったからこそ、真澄の『遊覧記』には、公的な記録には残らないような庶民の生の声が息づいているのです。
鳥屋長秋と語り合った旅の文人の理想
真澄の旅は孤独なものでしたが、秋田に定住するにつれて、精神的な孤独を癒やしてくれる友の存在も増えていきました。その一人が、秋田の町人であり本居大平門下で古典を学んだ鳥屋長秋です。彼は真澄と同じく「風雅」を愛する文人であり、やがて真澄とは年齢や身分を超えて心を通わせる特別な関係へと発展していきました。二人は時に一緒に名所を巡り、また離れているときは手紙や和歌を送り合いました。
彼らが語り合ったのは、権力や名声とは無縁の学問への情熱であり、古の歌人たちが求めたような漂泊の美学でした。しかし真澄の場合、そこに「記録する」という科学的な使命感が加わっていた点が独特です。長秋との語らいの中で、真澄は自分の旅が単なる逃避や遊興ではなく、後世に残るべき仕事であるという確信を深めていったのかもしれません。友の存在は、不安定な旅暮らしを続ける真澄にとって、心の錨のような役割を果たしていました。
高階貞房に見出され地誌編纂に挑んだ菅江真澄

漂泊の客から秋田藩の公的な事業へ
秋田での滞在が長引くにつれ、真澄の存在は次第に藩の上層部の耳にも届くようになりました。当時、秋田藩(久保田藩)は藩主・佐竹義和(さたけ よしまさ)のもとで文化振興に力を入れており、領内の地誌(地理や歴史の記録)を編纂する事業が進められていました。ここで真澄に白羽の矢を立てたのが、秋田藩士であり国学者でもあった高階貞房です。
貞房は真澄の並外れた知識と画力、そして何より長年のフィールドワークで培われた実績を高く評価しました。「この男を単なる旅人として遊ばせておくのは惜しい」。そう考えた貞房が藩主・義和にその才を強く推挙したことにより、文化9年(1812年)、真澄は正式に藩の地誌編纂事業に関わることになります。これは、身分を持たない漂泊の旅人であった真澄が、晩年になって初めて「公的な役割」と「安定した立場」を得た瞬間でもありました。
植田義方が評価した真澄の稀有な才能
真澄が藩の事業に抜擢された背景には、彼の学問的素養の高さがありました。ここで思い出されるのが、かつて真澄が影響を受けたとされる国学者、植田義方の存在です。義方は賀茂真淵の門下であり、万葉集の研究で知られた人物ですが、真澄が秋田で地誌編纂に取り組む頃にはすでに故人となっていました。しかし、義方が説いた「古えの心を尋ね、言葉と土地の関係を明らかにする」という国学の精神は、真澄の中にしっかりと受け継がれていました。
高階貞房や藩主たちは、真澄の描く図絵や文章の中に、単なる記録を超えた「学問的な深み」を見て取ったのでしょう。それは亡き師とも呼べる植田義方から受け継いだ、真実を詳細に書き留めようとする執念の結実でもありました。この抜擢により、真澄は個人的な日記の執筆から、藩という組織のための公的な記録作成へと、その活動のステージを大きく引き上げることになります。
藩内全域の調査許可と組織的な巡村
地誌編纂の専従者として、公認の身分を得た真澄は、藩発行の通行手形を持ち、堂々と領内を調査できるようになりました。これまでのような「怪しい旅人」として疑われる心配はなくなり、村の庄屋や寺社も協力を惜しまなくなりました。
彼は高階貞房らの支援を受けながら、秋田領内の隅々まで足を運びました。その調査範囲は膨大で、村の成り立ち、産物、戸数、寺社の由緒、古城跡、伝説に至るまで、あらゆる情報を網羅しようとしました。この時期に作成された膨大なスケッチや草稿は、後に『秋田風土記』などの基礎資料となっていきます。組織的なバックアップを得た真澄の健脚は、老境に入ってなお衰えることなく、むしろ水を得た魚のように秋田の野山を駆け巡ったのです。
大友直枝らと共に知の集大成を目指した菅江真澄

中央の学問への渇望と情報収集への執念
秋田に定住し、地誌編纂という大事業に取り組むようになった真澄でしたが、彼が常に意識していたのは江戸や京都の最新の学問動向でした。地理的に離れた秋田の地にあって、中央の一流学者たちと直接膝を交える機会は限られていました。しかし、真澄はそこで諦めることはありませんでした。
彼はパトロンである高階貞房などのルートを通じて、中央で出版された書物や学説を貪欲に入手していました。かつて彼が憧れた本居宣長やその門流の国学の精神を、書物や人づての情報を頼りに独学で深めていったのです。辺境に身を置きながらも、その視座は常に日本全体の歴史や文化に向けられていました。この「知への渇望」こそが、地方の記録に留まらない普遍的な価値を彼の著作に与えた原動力でした。
大友直枝と掘り下げた土地の信仰史
秋田定住時代の真澄にとって、最も心を許せる友であり、学問的な同志となったのが大友直枝です。直枝は横手盆地にある保呂羽山神社の社家(神職)であり、深い教養を持つ国学者でもありました。真澄は直枝の屋敷に長く滞在し、彼の蔵書を読み漁り、共に古今の歴史について語り明かしました。
二人の関係は非常に親密で、残された書簡には、薬の送り合いや健康を気遣う文面、あるいは借りた本の感想などが細やかに綴られています。真澄は直枝の協力を得て、秋田南部の山岳信仰や神社史を深く掘り下げていきました。直枝のような地元の知識人がいたからこそ、真澄はよそ者では踏み込めない地域の精神世界の内奥まで理解することができたのです。直枝は真澄の最大の理解者であり、真澄が「秋田の人」になるための精神的なアンカー(錨)の役割を果たしました。
那珂通博との切磋琢磨が生んだ記述
また、秋田藩校「明徳館」で学問を究めた儒学者・那珂通博とも深い親交がありました。通博は歴史考証に厳格な学者であり、真澄の著作に対しても建設的な批判や助言を行いました。真澄の文章が、情緒的なだけでなく史料批判に耐えうる客観性を持っているのは、通博のような厳格な学者と切磋琢磨した影響も大きいでしょう。
那珂通博や大友直枝といった「秋田の知の巨人たち」との交流の中で、真澄の仕事は個人の旅日記から、後世に残るべき歴史資料へと昇華されていきました。彼らは互いに刺激し合い、田舎にいながらにして、江戸や京都にも劣らない高いレベルの知的空間を作り上げていたのです。
未完の構想を抱えて野辺に散った晩年の菅江真澄

老いと闘い整理し続けた膨大なスケッチ
70代に入っても真澄の創作意欲は衰えませんでしたが、肉体の老いは確実に彼を蝕んでいました。目は霞み、足腰も弱る中で、彼はこれまでに描きためた数千枚に及ぶスケッチやメモの整理に没頭しました。彼の部屋は紙の山で埋め尽くされ、それを清書し、彩色し、一冊の本にまとめる作業は、終わりの見えない戦いのようでした。
彼は自分が死ぬまでに全ての記録を完成させられないことを悟っていたかもしれません。それでも、震える手で筆を握り続けました。「一つでも多くの図絵を、一行でも多くの記録を残したい」。その執念だけが、老いた彼の体を突き動かしていました。
田んぼの畔で行き倒れた伝説と史実
文政12年(1829年)7月、菅江真澄は76歳でその生涯を閉じました。彼の最期については、長く「貧困と孤独のうちに、旅先の田んぼの畔で行き倒れて死んだ」という劇的な伝説が語られてきました。民俗学者・柳田國男も長く、真澄を「孤独な漂泊者」の象徴として捉えていました。
しかし、近年の研究により、これは誤りであることが分かっています。実際の真澄は、仙北郡角館(現在の仙北市)にある知人宅で、静かに人生の幕を閉じたと考えられています。そこには、彼の活動を支え続けた秋田の人々の温かい眼差しがあったことでしょう。彼は孤独な野垂れ死にではなく、多くの理解者に囲まれ、尊厳を持って人生の幕を下ろしたのです。それでも、「行き倒れ伝説」が長く語り継がれたこと自体が、人々が抱いた「旅に生きた男」のイメージの強烈さを物語っています。
柳田國男らが再発見した資料的価値
真澄の死後、友人の鳥屋長秋らが石碑を建立しその霊を弔いましたが、彼の膨大な著作は出版されることなく、秋田の蔵の中に眠ったまま時が流れました。明治に入り、近代化の波が押し寄せると、彼の存在は忘れ去られようとしていました。その封印を解いたのが、昭和の民俗学者・柳田國男や渋沢敬三らでした。
彼らは真澄の残した記録を見て驚愕しました。そこには、失われてしまった日本の原風景、庶民の暮らし、信仰の形が、写真のない時代にありながら、まるで写真のように鮮明に記録されていたからです。「これは日本民俗学の宝だ」。柳田らの再評価により、菅江真澄の名は一躍全国に知られることとなりました。彼の仕事は100年の時を超えて、近代日本が失った「過去への記憶」を呼び覚ますタイムカプセルとなったのです。
菅江真澄をもっと知るための本・資料ガイド

菅江真澄の世界はあまりに広大で、一つの記事では語り尽くせません。ここでは、彼の足跡をより深く知るための本や資料を紹介します。原典から研究書、エッセイまで、それぞれの角度から「真澄像」に触れてみてください。
ありのままを歩く原典『菅江真澄遊覧記』
真澄自身が書いた日記と図絵の集大成です。東洋文庫(平凡社)などから現代語訳や注釈付きのものが出版されており、比較的容易に読むことができます。 この本を開くと、江戸時代の東北の空気がそのまま流れ出してくるようです。雪深い山道で見た奇妙な鳥、村祭りで踊る人々の熱気、そして真澄自身が感じた旅の寂しさや喜び。ページをめくるたびに、まるで真澄の肩越しに風景を眺めているような錯覚に陥ります。「まずは本人の言葉に触れたい」という方には、これ以上の入り口はありません。特に図絵の細密さは必見で、当時の衣服や道具のデザインを知るための貴重な資料としても楽しめます。また、植物や鳥などの自然史記録としての価値も高く、博物学的な視点からも興味深い一冊です。
研究の決定版『菅江真澄全集』(未来社)
菅江真澄研究の基礎となる、最も包括的な資料集です。この全集により、彼のすべての著作、書簡、スケッチが体系的に整理され、現代の研究者たちがアクセスできるようになりました。本格的に真澄を研究したいという方には、この全集なしには始まらない、必読の資料です。巻末の年譜や索引も充実しており、真澄の生涯を時系列で追うための貴重なツールとなっています。
巨人の実像に迫る『菅江真澄の旅』
民俗学者・宮本常一による評伝的な解説書です。宮本自身もまた、日本全国を歩いて庶民の暮らしを記録した「歩く巨人」でした。 著者は、同じ「旅する民俗学者」としての視点から、真澄の行動原理や記録の価値を鋭く分析しています。「なぜ真澄はここを記録したのか」「この記述の裏にはどんな苦労があったのか」。宮本だからこそ気づける真澄の凄みや人間臭さが、温かい筆致で語られています。真澄を単なる偉人として崇めるのではなく、泥臭いフィールドワーカーの先輩として敬愛する著者の姿勢が、読者の共感を呼びます。
気配を感じる『街道をゆく 北のまほろば』
司馬遼太郎の紀行エッセイシリーズ『街道をゆく』の中に、真澄を扱った章があります。司馬は秋田や青森を旅する中で、ふとした瞬間に真澄の気配を感じ取ります。 「この風景を真澄も見たのだろうか」。司馬独特の透徹した歴史眼と詩的な感性が、真澄という人物の輪郭を現代の風景の中に浮かび上がらせます。学術的な解説とは一味違う、文学者の感性が捉えた「菅江真澄という現象」。歴史ファンならずとも引き込まれる、静かで深い思索の旅へといざなってくれる一冊です。
現代に記録の意義を問いかける菅江真澄の生涯

故郷を捨て、地位も名誉も求めず、ただひたすらに「見て、描いて、残す」ことに生涯を捧げた菅江真澄。彼が残した膨大な図絵と文章は、現代の私たちに静かな、しかし強烈なメッセージを投げかけています。
それは、「ありのままを記録すること」の尊さです。スマホで誰もが簡単に写真を撮れる現代ですが、真澄のように対象をじっくりと観察し、その本質を理解しようとする姿勢を、私たちはどれだけ持てているでしょうか。彼は名もなき村人の生活の中に文化を見出し、消えゆくものへの愛おしさを筆に込めました。
秋田の土になった漂泊の記録者、菅江真澄。彼の生き方は、効率や成果ばかりが求められる現代において、「知る喜び」と「伝える情熱」の原点を私たちに教えてくれているのです。


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