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末広鉄腸の生涯:不屈の言論魂と政治小説『雪中梅』の情熱

こんにちは!今回は元武士でありながら筆一本で明治新政府に戦いを挑んだ反骨のジャーナリスト、末広鉄腸(すえひろてっちょう)についてです。

現代で言えば社会派インフルエンサーとベストセラー作家を兼ねたような存在ですが、その人生は決してスマートな成功譚ではありません。何度も監獄にぶち込まれ、政治的な立場を変えては批判され、それでもなお「国を良くしたい」という情熱だけは最期まで燃やし続けました。

その名前の通り「鉄」のような硬い意志と腸(はらわた)を持って言論の戦場を駆け抜けた男の生涯を紹介します。

目次

末広鉄腸の生い立ちと宇和島藩での基礎形成

伊予宇和島の風土と陽明学への傾倒

嘉永2年(1849年)、末広鉄腸(本名・末広重恭)は、伊予国宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)の藩士の家に生まれました。宇和島藩といえば、「賢侯」と謳われた藩主・伊達宗城のもと、幕末において開明的な政策をとっていたことで知られます。鉄腸の家は勘定役を務める実務的な家系であり、彼自身も幼い頃から藩校「明倫館」に通い、厳格な教育を受けて育ちました。

若き日の鉄腸の人格形成に大きな影響を与えたのは、宇和島という土地が持つ進取の気風でした。当時の宇和島は、西洋の兵学や技術を積極的に取り入れており、鉄腸もまた、ただ古文書を読むだけの学問には満足できない少年でした。彼が後年、知識と行動の合一を説く「陽明学」の徒となり、京都で儒学者・春日潜庵に師事してその思想を完成させることになりますが、その「行動する精神」の種は、すでにこの宇和島時代に蒔かれていたと言えるでしょう。

また、明倫館で机を並べた学友たちと切磋琢磨した日々も、彼を支えました。中央から遠く離れた四国の地でありながら、日本の行く末を案じ、議論を戦わせた若き日の熱気。それが、後の「言論人・末広鉄腸」の土台となったのです。

動乱の幕末で見せた末広鉄腸の若き才気

幕末の動乱期、宇和島藩もまた時代の波に翻弄されていました。鉄腸は若くしてその才能を認められ、10代後半には藩校の教授手伝いを務めるほどでした。彼は文弱な徒ではなく、剣術にも励み、文武両道を地で行く青年でした。藩内では尊王攘夷論が渦巻く中、鉄腸もまた熱い血をたぎらせていましたが、彼の視線は単なる外国人排斥には留まりませんでした。

当時の宇和島藩には、かつて蘭学者・高野長英や、医学者村田蔵六(大村益次郎)らが滞在した実績があり、西洋の知識に対して非常に貪欲でした。こうした環境で育った鉄腸は、古い武士の道徳を守りつつも、新しい時代のシステムを学ぶ重要性を肌で感じ取っていたのです。「国を守るためには、まず国を知り、そして世界を知らなければならない」。漠然とした、しかし強い確信が彼の中に芽生えていました。

この時期、彼はまだ「鉄腸」という号は名乗っていません。しかし、後年成島柳北から「鉄石の心腸」と評されることになる、容易には折れない強靭な意志と反骨精神は、この若き時代からすでにその片鱗を見せていたのです。

王政復古後の挫折と新たな道への模索

慶応3年(1867年)の大政奉還、そして明治維新。世の中は劇的に変わりました。宇和島藩も新政府側として活動しますが、鉄腸自身にとってこの変革は、大きな試練の始まりでした。旧来の身分制度が崩れ、実力次第で何にでもなれる時代が到来した一方で、武士としてのアイデンティティは揺らぎ始めます。

明治2年(1869年)、鉄腸は新政府の太政官に出仕するため、京都へ上ります。しかし、維新直後の混乱の中で、彼は一度挫折を味わいます。彼が抱いていた「武士として国に尽くす」という純粋な理想と、現実の政治のドロドロとした駆け引きとのギャップに苦悩したのです。多くの士族が時代の変化についていけず没落していく中、鉄腸もまた、自分の進むべき道を模索し、悶々とした日々を過ごしました。

この京都時代こそが、彼にとって重要な転換点となりました。前述の春日潜庵に本格的に師事し、陽明学の神髄に触れたのもこの頃と考えられます。「知っているだけでは意味がない。行わなければ知っているとは言えない」。師の教えは、迷える鉄腸の背中を強く押しました。彼はやがて、より大きな舞台である東京へと向かう決意を固めます。それは、不屈の言論人・末広鉄腸が、本当の意味で覚醒するための旅立ちでした。

上京した末広鉄腸の若年期の転機と新聞界入り

新政府への出仕と「藩閥政治」への幻滅

明治の上京ブームに乗って東京へ出た鉄腸は、新政府の大蔵省などに官吏として採用されます。当時の政府機関は近代国家建設の最前線であり、安定した給与と地位が約束された場所でした。しかし、ここで鉄腸の「鉄の腸」が早くも軋みを上げ始めます。彼が任されたのは組織の末端に近い仕事であり、そこで目の当たりにしたのは、露骨な「藩閥政治」の壁でした。

薩摩や長州出身者が要職を独占し、出身地によって出世が決まるような状況に、非藩閥である宇和島出身の鉄腸は激しい憤りを感じます。また、上司に対して媚びへつらう同僚たちの姿も、彼の武士道精神とは相容れないものでした。彼は「高官」として優雅に振る舞ったわけではなく、むしろ組織の理不尽さを肌で感じる「現場の官吏」として、官僚機構の腐敗を睨みつけていたのです。

「こんな腐った組織の中で、上司の顔色を窺って生きるのが本当の奉公か」。鉄腸は自問自答を繰り返しました。安定した生活を捨ててでも、自分の言いたいことを言い、貫きたい正義がある。そう考えた彼は、明治8年(1875年)、ついに辞表を叩きつけます。それは、単なる退職ではなく、自由な言論人としての覚醒でもありました。

言論の自由を求めて在野へ下る決断

官吏を辞めた鉄腸が選んだのは、当時勃興しつつあった「民権運動」と「新聞」の世界でした。板垣退助らが唱える自由民権運動に共鳴した彼は、政府の外側から国を変えようと決意します。しかし、武力で政府を倒す時代は終わりつつありました。これからの武器は、刀ではなく「言論」であると、彼は直感したのです。

当時の新聞は、現代のような中立公正な報道機関ではなく、それぞれの政治的立場を主張する「政論新聞」が主流でした。政府を攻撃し、民衆を啓蒙するためのツールとして、新聞は最強の武器でした。鉄腸は持ち前の漢文の素養と、鬱屈した官吏時代に溜め込んだ情熱を文章にぶつけることで、在野の士として生きる道を選びました。

彼は、「官」に頼らず「民」の力で国を動かすことを理想としました。そのためには、まず国民自身が賢くなり、政治に関心を持たなければならない。彼の筆は、読者である士族や豪農層に向けて、「立ち上がれ、声を上げろ」と煽り続けました。この時期の彼の文章は、格調高い漢文調でありながら、読む者の血を沸かせるような迫力を持っていました。

『曙新聞』でのデビューと最初の筆禍事件

鉄腸の本格的なジャーナリスト活動は、『曙新聞(あけぼのしんぶん)』への入社から始まります。当初は一記者としてのスタートでしたが、彼の書く論説はあまりにも鋭く、かつ過激であったため、たちまち頭角を現し、事実上の主筆(編集責任者)としての役割を担うようになりました。彼はここで、政府の失政や専横を痛烈に批判する論陣を張ります。

しかし、政府も黙ってはいません。明治8年(1875年)に制定された「新聞紙条例」と「讒謗律(ざんぼうりつ)」は、政府批判を厳しく取り締まる悪法でした。鉄腸はこの法律に真っ向から挑戦します。「悪い法律だからこそ、破って抗議するのだ」と言わんばかりに、彼は「変則の政体」を批判する記事などを執筆し、筆を緩めませんでした。

その結果、彼は新聞紙条例違反で投獄されます。これが、彼にとって人生初の監獄体験でした。普通の人間ならここで心が折れるか、表現をマイルドにするところです。しかし、鉄腸は違いました。獄中で彼は、「言論の自由のために罪人となるのは、むしろ名誉である」と確信を深めたのです。この最初の投獄こそが、彼を単なる元官吏から、不退転の決意を持つ「反骨の闘士」へと変貌させる決定的な転機となりました。出獄した彼は、以前にも増して激しい論調で政府に噛みつくようになるのです。

『朝野新聞』で成島柳北と並び立つ末広鉄腸の頭角

成島柳北との運命的な出会いと共闘

『曙新聞』での活動を経て、鉄腸はさらなる活躍の場を求めます。そこで運命的な出会いを果たしたのが、『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』の社長、成島柳北でした。柳北は、かつて徳川幕府で外国奉行や会計奉行などの要職を歴任した元高官でありながら、維新後は野に下り、その深い教養と洒脱で皮肉の効いた文章で人気を博していた一流の文化人です。

「直情径行の熱血漢」である鉄腸と、「冷徹でシニカルな知識人」である柳北。一見すると水と油のような二人ですが、不思議とウマが合いました。元幕府高官として政治の裏表を知り尽くした柳北は、鉄腸の持つ圧倒的な熱量を高く評価し、鉄腸もまた柳北の識見の高さと懐の深さに敬服しました。鉄腸が『朝野新聞』に入社すると、同紙は「柳北の諷刺」と「鉄腸の激論」という二枚看板を掲げ、当時の新聞界で圧倒的な部数を誇るようになります。

また、この頃鉄腸はイギリス帰りの民権思想家・馬場辰猪とも交流を深めます。馬場から伝え聞くイギリスの議会政治や自由主義のあり方は、鉄腸の理論武装を助け、彼の主張に「西洋の理屈」という強力な裏付けを与えました。こうして鉄腸は、感情だけでなく論理でも政府を追い詰める論客へと成長していきました。

過激な政府批判と「獄中の抵抗」にまつわる逸話

『朝野新聞』時代の鉄腸は、まさに「戦うジャーナリスト」でした。彼は政府の失政を見逃さず、徹底的に糾弾しました。当然、政府からの弾圧も苛烈を極めます。新聞の発行停止命令は日常茶飯事、鉄腸自身も何度も警察に拘束され、裁判にかけられました。

史実として、彼は禁獄(実刑)と罰金を何度も受けています。ある時は数ヶ月、ある時は一年近くを獄中で過ごしました。しかし、鉄腸にとって入獄は勲章のようなものでした。彼が収監されるたびに『朝野新聞』の部数は伸び、「鉄腸、またやったか」「さすがは我らの代弁者だ」と読者は喝采を送りました。

後年の伝記(大町桂月著など)によれば、獄中の鉄腸については数々の壮絶な逸話が語られています。彼は看守の目を盗んでは、差し入れられた弁当の包み紙やちり紙に、爪やこよりを使って記事の下書きを書いていたとも言われます。また、同志たちと壁越しの会話をするために、「咳払い」の回数で暗号を送り合うなど、あの手この手で抵抗を続けたというエピソードも残っています。真偽のほどは定かではありませんが、こうした伝説が語られること自体が、当時の人々にとって彼がいかに不屈の象徴であったかを物語っています。

自由民権運動の高揚と運動内部の空気

鉄腸が筆を振るった明治10年代は、自由民権運動が最高潮に達した時期でした。国会開設を求める署名活動や演説会が全国各地で開かれ、鉄腸はその運動の先頭に立つスターの一人でした。彼は紙面だけでなく、演説会の弁士としても人気を博しました。その語り口は情熱的で、聴衆の涙と興奮を誘ったといいます。

この時期、彼は馬場辰猪ら理論派の民権家たちと呼応しながら、運動の核心部分に関わっていきました。大井憲太郎のような急進的な活動家たちとも、同じ民権の志を持つ者として響き合う部分はあったでしょう。彼らは「天賦人権説」を信じ、国民には生まれながらにして自由と権利があると主張しました。

しかし、民権運動が盛り上がる一方で、運動内部では対立も生じ始めていました。穏健派と過激派、あるいは指導者同士の主導権争いです。鉄腸は派閥争いを嫌い、純粋に「言論の力」を信じて活動を続けましたが、運動が政治的な駆け引きの道具になっていく現状に、徐々にフラストレーションを溜めていったとも考えられます。そして、政府による弾圧が物理的な暴力性を帯びてくる中で、鉄腸は「新聞論説」という手段の限界を感じ始めます。そこで彼が見出した次なる武器、それこそが「小説」でした。

政治小説『雪中梅』を生んだ末広鉄腸の最盛期の仕事

演説禁止と閉塞状況の中で選んだ「小説」という武器

明治10年代後半、政府による言論弾圧は陰湿かつ巧妙になっていきました。明治13年(1880年)の集会条例改正などで、公の場での演説や政治活動が厳しく制限される中、鉄腸ら民権派は手足を縛られたような状態に陥ります。直球の政治批判をすれば即逮捕、新聞も停止処分を受ける。そんな閉塞状況の中で、鉄腸は起死回生の一手を考案します。

「演説がダメなら、物語にすればいい。論文が読まれないなら、面白い小説にして読ませればいい」

彼は、自分の政治思想を架空の物語に託す「政治小説」というジャンルを開拓しました。現代で言えば、社会問題をテーマにしたエンターテインメント作品や、政治的なメッセージを含んだライトノベルを書くようなものです。これは、検閲の網をかいくぐるための苦肉の策であると同時に、難しい政治の話を敬遠しがちな一般大衆にリーチするための、極めて戦略的なメディアミックスの手法でした。

ベストセラー『雪中梅』が描いた理想の政治

明治19年(1886年)、鉄腸は小説『雪中梅(せっちゅうばい)』を発表します。この作品は、主人公の青年志士・国野基(くにの・もとい)が、様々な困難(=雪)に耐えながら、美しいヒロイン・富永お春(=梅)との恋を成就させ、同時に国会開設という政治的理想を実現していく物語です。

これが空前の大ベストセラーとなりました。当時の若者たちは、主人公の熱い演説に酔いしれ、ヒロインとのロマンスに胸をときめかせました。鉄腸は小説の中で、登場人物たちの会話を借りて、当時の政府の腐敗を批判し、あるべき議会政治の姿を分かりやすく説いたのです。『雪中梅』の成功は、単に本が売れたというだけでなく、「政治を大衆の娯楽にした」という点で革命的でした。

翌明治20年(1887年)には、『雪中梅』に続く作品として『花間鶯(かかんおう)』も発表されて好評を博し、彼は作家としての収入を得るようになりました。その多くは、来るべき国会開設に向けた政治活動の資金に充てられたといいます。しかし同年、政府は保安条例を制定して弾圧をさらに強化し、鉄腸を含む多くの民権家を東京から追放しました。ベストセラー作家となってもなお、彼と政府との戦いは終わらなかったのです。

村山竜平との連携と『国会』新聞の創刊

小説で大衆の心を掴んだ鉄腸ですが、彼の本分はあくまで「政治報道」にありました。この時期、彼は大阪朝日新聞の創業者である村山竜平と連携を深めます。村山は鉄腸の知名度と筆力を高く評価し、鉄腸もまた村山の実業家としての手腕を信頼しました。

明治23年(1890年)11月、いよいよ帝国議会開設が目前に迫ると、鉄腸は村山竜平と共同で、東京で日刊新聞『国会(こっかい)』を創刊します。この新聞は、その名の通り、開設される議会の活動を報じ、監視するためのメディアでした。鉄腸はここでも筆を振るい、単なる小説家ではなく、実務的なジャーナリズムの指揮官として健在であることを示しました。

小説で理想を語り、新聞で現実を動かす。鉄腸のメディア戦略はここに極まりました。そしてこの『国会』新聞を足場として、彼はいよいよ現実の「代議士」として、国政の場に打って出る準備を整えたのです。

海外体験と国権論への転換、末広鉄腸の思想的変化

海外視察の旅とホセ・リサールとの友情

『雪中梅』のヒット後、保安条例による東京退去命令などの影響もあり、鉄腸は人生の転機となる海外旅行に出発します。明治21年(1888年)、アメリカ経由でヨーロッパを巡る旅でした。この旅の船上(客船ベルジック号)で、彼は一人の青年と運命的な出会いを果たします。フィリピン独立運動の英雄、ホセ・リサールです。

当時、フィリピンはスペインの植民地支配下にありました。リサールはその圧政からの解放を夢見て活動しており、日本の鉄腸に強い関心を抱きました。鉄腸は英語が得意ではありませんでしたが、リサールもまた片言の日本語を操り、二人は筆談や身振りを交えて、東洋の未来について熱く語り合いました。

「日本は近代化に成功しつつあるが、フィリピンはまだ苦しんでいる。同じアジアの同胞として、日本はもっとアジアに関心を持つべきだ」。リサールのこの訴えは、鉄腸の心に深く刺さりました。二人はロンドンやパリでも行動を共にし、短い期間ながら兄弟のような友情を育みました。鉄腸にとってリサールは、単なる旅の道連れではなく、「失われつつある侍の魂を持つ同志」として映ったのかもしれません。

世界を見て知った「弱肉強食」の現実

欧米諸国を巡った鉄腸が目の当たりにしたのは、圧倒的な文明の差と、冷徹な国際政治の現実でした。イギリスやフランスの議会政治は素晴らしかったものの、彼ら列強がアジアやアフリカで行っていることは、残酷な植民地支配でした。「自由や平等などと言っているが、それは白人社会の中だけの話ではないか」。鉄腸はそう痛感します。

これまで彼は、国内において「民権(国民の自由)」を最優先に主張してきました。しかし、世界に出てみると、日本がいかにひ弱な存在であるかを思い知らされます。「民権も大事だが、そもそも国そのものが強くならなければ、日本もフィリピンのように植民地にされてしまう」。

この強烈な危機感が、鉄腸の思想を大きく転換させました。彼は帰国後、それまでの「民権論」から、対外的な強硬姿勢を主張する「国権論」へと軸足を移していきます。これは変節というよりも、世界の残酷な現実を見たゆえの、彼なりの「進化」であり「憂国」の帰結でした。この旅の経験と、リサールをモデルにした英雄像は、帰国後に執筆された政治小説『南洋の大波瀾(なんようのだいはらん)』に色濃く反映されています。

代議士としての奮闘と挫折、末広鉄腸の晩年と最期

第一回衆議院選挙での当選と犬養毅との連携

帰国後の明治23年(1890年)、ついに大日本帝国憲法下での第一回衆議院議員総選挙が行われました。鉄腸は故郷・愛媛から出馬し、見事に当選を果たします。かつて言論弾圧で投獄された男が、堂々と国会議事堂の赤絨毯を踏んだのです。

議会において、鉄腸は犬養毅や尾崎行雄といった若手政治家たちと行動を共にします。特に犬養毅とは気が合い、二人はしばしば連携しました。犬養もまた中国革命の支援者であり、鉄腸のアジア主義的な視点と共鳴する部分があったのでしょう。しかし、当時の議会は「民党(野党)」と「吏党(政府系)」の激しい対立の場でした。予算案を巡る攻防や、条約改正問題を巡って、議場は常に怒号が飛び交っていました。

鉄腸はその持ち前の大音声で政府を追及しましたが、彼が求めたのは単なる反対のための反対ではなく、「強い日本を作るための建設的な議論」でした。その姿勢は、時に味方であるはずの民権派からも「政府に歩み寄っているのではないか」と誤解される原因となりました。

政党政治の現実と孤立、そして早すぎる死

政治家としての鉄腸は、必ずしも器用ではありませんでした。彼の主張する「国権論(対外強硬論)」は、党内の主流派であった大石正巳らと対立を引き起こすことになります。大石らは欧米協調を重視する欧化主義的な側面を持っていたため、アジア連帯や対外自主を唱える鉄腸とは、同じ党にいながらそりが合わなかったのです。

また、鉄腸は党利党略に従うことを極端に嫌いました。「自分が正しいと思うことは、党の方針に逆らってでも貫く」。この一本気な性格は、ジャーナリストとしては美徳でしたが、集団行動が求められる政党政治家としては致命的な欠点になり得ました。彼はいくつかの政党を渡り歩き、あるいは除名され、次第に政界での居場所を狭めていきます。そんな中、吉田一士や村松恒一郎といった同郷の理解者たちが彼を支えましたが、鉄腸は少数派の孤立を恐れず、信念に基づいて独自の道を突き進みました。

そして晩年、皮肉にも彼を襲ったのは「舌」の病でした。長年、演説と言論で戦ってきた彼が、舌癌(当時は舌岩と呼ばれた)に冒されたのです。病状は急速に悪化し、自慢の弁舌を振るうことはおろか、食事をすることもままならなくなりました。それでも鉄腸は筆談で意思を伝え、病床から政治情勢を憂う文章を書き続けました。

明治29年(1896年)2月、リサールがフィリピンで処刑される約10ヶ月前、末広鉄腸はこの世を去りました。享年47。あまりにも早い死でした。葬儀には、かつての盟友・成島柳北(1884年没)の門下生たちや、犬養毅をはじめとする多くの政治家が参列しました。犬養毅は「彼は真の国士であった」とその死を悼み、激動の時代を駆け抜けた友との別れを惜しみました。

末広鉄腸をもっと知るための本・資料ガイド

政治小説の金字塔『雪中梅』(岩波文庫など)

末広鉄腸を語る上で、やはりその主著『雪中梅』は避けて通れません。現代の感覚で読むと、演説調の会話が長く続く点に戸惑うかもしれませんが、これこそが「明治の熱気」そのものです。 主人公・国野基がヒロイン・お春との恋を実らせつつ、国会開設という政治的ゴールを目指すストーリーは、今の少年漫画やライトノベルにも通じる「王道」の展開です。当時の読者が何に興奮し、どんな未来を夢見ていたのか。その空気感を肌で感じるには、解説書を読むよりも、この原典のページをめくるのが一番の近道です。

盟友が綴る一代記『末広鉄腸伝』(大町桂月)

鉄腸の死後、文筆家の大町桂月によって書かれた伝記です。桂月は鉄腸より20歳ほど年下ですが、同じく漢文の素養を持ち、鉄腸の「国士」としての気概に深く共鳴した人物でした。 本書の魅力は、鉄腸を単なる「偉人」として祭り上げるのではなく、頑固で喧嘩っ早いが、どこか憎めない人間味あふれる人物として描いている点にあります。史実としての正確さもさることながら、筆者である桂月自身の熱量も相まって、「末広鉄腸という男の体温」が文章から立ち上ってくるような良書です。国立国会図書館デジタルコレクションなどで閲覧が可能であり、研究者にとっても第一級の資料となっています。

リサールとの旅を記した『唖之旅行』と『南洋の大波瀾』

鉄腸の海外体験とリサールとの友情を深く知るには、彼自身の旅行記『唖之旅行(おしのりょこう)』や、小説『南洋の大波瀾』が最適です。 『唖之旅行』というタイトルは、英語が苦手だった鉄腸が、言葉が通じない中での旅を「唖(おし)」に例えてユーモラスに表現したものです。言葉の壁がありながら、いかにしてリサールと心を通わせたのか、その過程が生き生きと描かれています。また『南洋の大波瀾』は、当時の日本人が「南洋(東南アジア)」をどう見ていたかを知る貴重な資料です。現在では入手が難しい作品ですが、国立国会図書館デジタルコレクションなどで全文を無料で閲覧することができます。

不屈の言論人、末広鉄腸が貫いた「熱」と行動の軌跡

末広鉄腸の生涯を一言で表すなら、「不屈」という言葉が最もふさわしいでしょう。幕末の宇和島に生まれ、官僚としての安定を捨て、新聞記者として投獄され、小説家として大衆を熱狂させ、そして政治家として国政の場に立つ。その目まぐるしい転身の裏には、常に「国を良くしたい」「自分の信じる正義を貫きたい」という、マグマのような情熱がありました。

彼が成島柳北やホセ・リサールといった国境や立場を超えた友人たちと深く結びついたのも、彼自身が損得勘定ではなく、魂の熱量で人と付き合う人間だったからに他なりません。晩年、対外硬派(国権論)へと軸足を移したことで、かつての民権派の同志とは道を分かつことになりましたが、それもまた、世界を知ってしまった彼なりの「進化」であり「憂国」の結論でした。手段は変われど、その「鉄の腸(はらわた)」に秘めた志がブレることは一度もなかったのです。

現代の私たちは、スマートフォン一つで世界中に意見を発信できる「言論の自由」を手にしています。しかし、鉄腸のように、身を削ってでも伝えたい言葉を、私たちは持っているでしょうか。投獄を恐れず、孤立を恐れず、信念のためなら地位さえも捨てた末広鉄腸という人物は、閉塞感漂う現代において、私たちが忘れかけている「熱量」の大切さを、今なお強烈に問いかけています。

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