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チャールズ・ジョージ・ゴードンの生涯:奴隷貿易と戦い続けた信念の軍人

こんにちは!今回は、19世紀の大英帝国が誇った信念の軍人、チャールズ・ジョージ・ゴードン(ちゃーるず・じょーじ・ごーどん)についてです。

中国では「太平天国の乱」を鎮圧して皇帝から称号を授かり、スーダンでは奴隷貿易と戦い、理想を掲げて行政改革に挑みました。やがて彼は、マフディスト反乱軍との壮絶な包囲戦の末に殉職し、「ハルツームのゴードン」として国民的英雄となります。

帝国の理想と現実の間で葛藤したその波乱の生涯を、じっくりと辿っていきましょう。

目次

ゴードン誕生──帝国軍人の道を歩み始めた少年時代

軍人一家に育ったチャールズ・ゴードンの原点

チャールズ・ジョージ・ゴードンは1833年1月28日、イングランド南部のウールウィッチで生まれました。彼の家族は代々軍務に就いていた家系で、父親のヘンリー・ウィリアム・ゴードンはイギリス陸軍の高官であり、少将の地位にまで昇進した人物です。このような背景から、チャールズも幼いころから軍服を身にまとうことに憧れ、兵士としての規律や忠誠を自然と学びながら育ちました。兄弟も複数が軍人として活動しており、家族の日常には常に軍事的価値観や帝国への奉仕という考え方が根付いていました。母親は敬虔なキリスト教徒であり、チャールズにも深い信仰心を植え付けました。のちに彼がスーダンで奴隷貿易に立ち向かう信念の源泉となるのが、この幼少期に培われた宗教的価値観でした。軍人の家庭に生まれ、信仰と義務の中で育ったことが、彼の性格形成に決定的な影響を与えたのです。

王立陸軍士官学校で鍛えられた精神と技術

1852年、19歳のチャールズ・ゴードンは王立陸軍士官学校に入学し、本格的に軍人としての道を歩み始めました。この学校はイギリス陸軍のエリートを養成する機関で、特に工兵や砲兵の教育に力を入れていました。ゴードンはここで地形測量、築城術、爆薬の取り扱いといった技術的な知識を徹底的に叩き込まれ、理論と実践を融合させた訓練を受けました。彼の誠実で規律正しい性格は指導官からも高く評価され、同期の中でも抜きんでた存在として注目を集めるようになります。また、この頃から彼のキリスト教信仰が深まり、日々の祈りと自己鍛錬を欠かさない生活を送っていました。彼は「軍人とはただ戦う者ではなく、神に仕える者である」という強い信念を持ち、これが後年の行動原理にもなっていきます。士官学校で培われた知識と精神は、のちにアジアやアフリカの前線で彼を支える重要な基盤となりました。

初任務で経験した“世界の現実”と東方派遣

卒業後、ゴードンは1854年に勃発したクリミア戦争に従軍することになります。この戦争は、オスマン帝国とロシア帝国の対立にイギリスやフランスが介入したもので、近代戦争として初めて報道が大規模に行われたことでも知られています。若き工兵士官ゴードンは、セヴァストポリの包囲戦で要塞の建設や地雷の設置など危険な任務にあたり、砲弾が飛び交う中で生死をかけた経験を重ねました。教科書にはない戦場の混乱と、兵士たちの苦悩を目の当たりにした彼は、軍事力の限界と人間の悲劇に深い衝撃を受けたといいます。この経験が、単なる帝国の兵士ではなく、道義と信念を重んじる軍人としての自覚を生む契機となりました。戦後、1857年には中国の太平天国の乱に対応するため、清朝支援の任務を受けて東方へ派遣されます。ここでゴードンは、「エバー・ビクトリアス・アーミー」の指揮官として歴史的な活躍をすることになるのです。

太平天国の乱で名を上げたゴードン──中国での勝利と栄光

清朝を揺るがせた「太平天国の乱」とは何か?

太平天国の乱は、1851年から1864年にかけて中国で発生した大規模な内乱で、清王朝を揺るがすほどの激しい戦いとなりました。指導者は洪秀全という人物で、彼は自らを「天王」と名乗り、キリスト教的要素を含む宗教的・革命的思想の下に新しい国家「太平天国」の樹立を目指しました。農民や都市の貧困層を中心に数百万人の支持を集め、一時は南京を首都とする広大な領域を支配します。その勢力は清朝の軍では太刀打ちできないほどに拡大し、イギリスを含む欧米列強もその影響を懸念するようになりました。彼らの関心は、中国市場の安定と貿易路の確保にありました。そこで清朝は、外国人将校の協力を得て新たな軍隊を編成することを決定します。こうして登場したのが「エバー・ビクトリアス・アーミー」であり、チャールズ・ジョージ・ゴードンはその指揮官に抜擢されるのです。彼はこの戦いの中で、その名を歴史に刻むことになります。

“常勝軍”を率いて戦ったチャールズ・ゴードンの指揮力

1863年、ゴードンは正式に「エバー・ビクトリアス・アーミー(常勝軍)」の指揮官に任命されました。この軍はもともとアメリカ人傭兵ウォードが設立したもので、太平天国軍との戦いで一定の成果を挙げていましたが、ウォードの戦死により士気が低下していました。そこに抜擢されたゴードンは、わずか30歳という若さで軍を再編し、指導体制を刷新します。彼は徹底した規律の下で兵を鍛え、近代的な戦術と西洋式の兵器を導入して精鋭部隊を築き上げました。特に都市部の奪還戦においては、築城術と砲撃の活用によって優れた戦果を上げ、太平軍を着実に追い詰めていきます。また、ゴードンは捕虜や住民に対して過度な報復を行わない姿勢を示し、現地でも「正義の将軍」として尊敬されるようになりました。こうした彼の指揮力と人格は部下の忠誠心を高め、軍全体の士気を押し上げる原動力となったのです。まさに彼の手腕が、“常勝軍”という名にふさわしい戦果を実現させたのでした。

ゴードンに贈られた栄誉と国際社会での評価

太平天国の乱は1864年、南京の陥落とともに終結を迎え、清朝は辛うじて体制を保つことに成功しました。その勝利に大きく貢献したのがチャールズ・ゴードンであり、彼は清朝から「二等黄綬勲章(イエロー・ジャケット)」を授与され、清国皇帝からも「義勇公」という称号を贈られました。また、イギリス本国においても彼の功績は高く評価され、ヴィクトリア女王は感謝の意を示し、世間では「中国ゴードン(Chinese Gordon)」の愛称で知られるようになります。この異国での活躍は、当時の英国民にとって帝国の栄光を象徴するものと受け取られました。ゴードンはしかし、自身の名誉や報酬には興味を示さず、受け取った報奨金も多くを慈善活動に費やしました。この姿勢が、単なる戦功者ではなく、理想に生きる「イギリス軍人英雄」としての評価を確固たるものにしていきます。彼の行動は、同時代の軍人の中でも特異な存在として国際的にも注目を集め、後年のスーダン派遣にもつながることになるのです。

ゴードン、スーダン統治へ──帝国の最前線で挑んだ改革と闘争

スーダン総督就任とゴードンが描いた理想の統治

1877年、チャールズ・ゴードンはオスマン帝国の名の下でエジプトが支配していたスーダンの総督に任命されました。背景には、スーダンでの支配が複雑かつ不安定であったことがあり、現地では腐敗した官僚制度や治安の悪化、奴隷貿易の横行などが深刻な問題となっていました。エジプト政府は、それらの問題にメスを入れる改革者としてゴードンに白羽の矢を立てたのです。ゴードンは総督に就任するや否や、現地を巡察し、自らの足で社会の実情を把握しようと努めました。彼は強いキリスト教信仰と道徳観を持っており、善政によって人々を導くという理想を抱いていました。そのため、武力による弾圧ではなく、正義と誠実をもって政治を行うという方針を掲げます。現地住民からは「パシャ・ゴードン」と呼ばれ、時に父親のような存在として慕われました。彼が理想としたのは、帝国の利益と現地の幸福を両立させる「調和的支配」でした。

腐敗した官僚制度との衝突と孤独な戦い

ゴードンの改革は、しかしエジプト本国や現地の利権を握る官僚たちからの強い反発を招きました。彼は税制の不正、役人の賄賂、軍隊による横暴な徴発などを次々と摘発し、公然と批判を行いました。特に彼が厳しく対峙したのが、スレイマン・ゾベイルのような現地の権力者たちでした。ゾベイルは奴隷貿易で莫大な富と影響力を持っており、ゴードンの統治を脅かす存在でした。ゴードンは彼を抑え込むため政治的圧力や軍事力を駆使しつつも、ゾベイルの息子をカイロに送還するなどの非軍事的手段も講じました。こうした対立は、彼の改革が一人の理想主義者の信念に支えられたものであることを際立たせる一方、孤独な戦いであったことも浮き彫りにします。彼はしばしば上層部との連絡を絶ち、自らの信念と現地の人々の声だけを頼りに行政を進めました。その姿は、次第に本国からの理解を得られず、孤立を深めていくことになります。

反乱と混乱の中で続けた治安維持の苦闘

ゴードンの統治期は、一貫して反乱と混乱との戦いでもありました。広大なスーダン領内では、地方部族の反乱や略奪が絶えず、安定した行政を行うには圧倒的に人手と資金が足りませんでした。彼はわずかな兵力と限られた予算の中で、防衛拠点の強化や通信網の整備などを進め、治安維持に尽力しました。この過程で彼の部下として重要な働きをしたのがゲッシー・パシャでした。ゲッシーは現地の風土や情勢を理解し、ゴードンの意図を実行するうえで重要なパートナーとなりました。また、ゴードンは反乱地域に直接赴いて指導者と交渉することも多く、時には命を危険にさらす場面もありました。それでも彼は信仰に支えられ、「自分の命よりも住民の平穏が大事だ」と公言し続けました。こうした行動は、現地の住民からも尊敬を集める一方、エジプトやイギリス本国の政治家からは理解されにくく、彼の孤立をさらに深めていく原因となったのです。

奴隷貿易を許さない──ゴードンの信念と行動力

スーダンに深く根ざした奴隷貿易の構造

ゴードンがスーダン総督に就任した当時、同地では奴隷貿易が経済の一部として深く根付いていました。ナイル川流域やサヘル地域では、アフリカ内陸部の村々が襲撃され、男女問わず多くの住民が奴隷として捕らえられ、エジプトや紅海経由でオスマン帝国、さらには中東諸国へと売られていきました。この構造には、スーダン内部の豪族や軍閥だけでなく、エジプト政府の高官までもが関与しており、公然とした取り締まりが難しい状況でした。特にスレイマン・ゾベイルのような巨大な奴隷商人は、自前の軍隊を持ち、国家の権力と対等に渡り合うほどの影響力を誇っていました。ゴードンはこうした社会構造に深く憤りを感じ、「この世に神の正義があるならば、奴隷制度は必ず滅びるべきだ」と日記に記しています。彼にとって奴隷貿易は単なる違法行為ではなく、人間の尊厳を根本から破壊する悪として捉えられていたのです。

キリスト教信仰が支えたゴードンの使命感

ゴードンの奴隷貿易根絶に対する強い姿勢の背景には、彼の深いキリスト教信仰がありました。幼いころから敬虔な母親に育てられた彼は、「すべての人は神の前に等しい」という聖書の教えを信じ続けていました。この信仰は、スーダンの過酷な状況においても彼の行動指針となり、奴隷解放という使命に燃えさせたのです。彼は奴隷収容所を自ら視察し、酷使された人々の境遇を直に確認しました。そして、奴隷として捕らえられていた女性や子どもたちを解放し、安全な場所へ移送する手続きを自ら指揮しました。ときには自費で衣食住を提供することもあり、その行動は現地住民の間で語り草となりました。また、彼はエジプト政府にも度々改革の必要性を訴え、奴隷貿易を取り締まる新たな法制度の導入を提案しました。こうした姿勢に共感を寄せたのが、ブガンダ王国のムテサ1世や、医師であり探検家のエミン・パシャでした。彼らとの交流は、ゴードンの信念をより国際的な運動へと発展させる土台となりました。

ゴードンの活動が地域にもたらした変化と衝撃

ゴードンによる奴隷貿易抑制活動は、短期的には地域社会に混乱と衝撃を与えました。なぜなら、奴隷貿易は単なる経済活動ではなく、支配層の富と権力の源でもあったからです。彼の強硬な取り締まりによって、ゾベイルらのような豪族は一気に収入を絶たれ、反発を強めていきます。しかし一方で、奴隷制から解放された多くの人々にとっては、ゴードンの行動はまさに「神の使い」のように映りました。解放された元奴隷たちは、ナイル河畔の新設集落で農業や手工業に従事する機会を得るなど、生活の再建が図られました。また、彼の活動はヨーロッパ各国でも注目を集め、キリスト教系の新聞や慈善団体によってその報告が広く伝えられました。ゴードンの姿勢は単なる軍事的・行政的改革者にとどまらず、人道的理念に基づく行動家としての評価を高めることとなります。その結果、彼は道義的リーダーとしての名声を確立し、のちに起こるマフディスト反乱やハルツーム包囲戦でも、現地の人々が最後まで彼を信じた理由の一つとなったのです。

ハルツーム包囲戦──ゴードンが見せた“最後の信念”

マフディの蜂起と急迫するハルツーム情勢

1881年、スーダンで大規模な宗教反乱が発生しました。反乱を率いたのはムハマド・アフマドという人物で、彼は自らを「マフディ(救世主)」と称し、腐敗した支配体制や外国の干渉を否定する急進的なイスラム運動を展開します。マフディ運動は瞬く間に広がり、エジプトやイギリスの支配に不満を抱く部族や農民の支持を集めました。1883年、エジプト軍が反乱鎮圧のため派遣したヒックス将軍の部隊が壊滅すると、スーダン全体が混乱状態に陥ります。この事態を受けてイギリス政府は、ゴードンに再びスーダンへ赴くよう要請しました。1884年2月、ゴードンはハルツームへ到着し、事実上の防衛司令官として、崩壊寸前の行政を立て直すべく行動を開始します。しかし、到着直後からマフディスト反乱軍がハルツームを包囲し始め、町は孤立無援の状態に追い込まれていきます。この時点で、イギリス政府はスーダン放棄の方針を取り始めており、ゴードンは政治的にも軍事的にも見捨てられた状況に置かれるのです。

援軍なき中で見せた防衛戦と苦渋の決断

ゴードンはハルツームの防衛を徹底するため、周囲の堤防を補強し、住民を動員して防壁を築きました。彼の目的は単なる防衛にとどまらず、約3万人の住民とともに市内にとどまり、避難ではなく「守り抜く」ことを選んだ点にあります。なぜ退却せず籠城を選んだのか――それは、彼が住民を見捨てて自分だけが脱出することを信念として拒んだからです。彼は何度もイギリス政府に援軍を要請し続けましたが、ロンドンでは軍事的・政治的コストを懸念する意見が勝り、派遣は遅れに遅れます。ゴードンは日記や公電を通じて、自身の状況と住民の危機を訴え続けましたが、答えは来ませんでした。その間にも物資は枯渇し、飢えと病が人々を襲います。それでも彼は、宗教的説得や配給の工夫によって市民の士気を保ち、防衛体制を維持しました。この時期のゴードンは、軍人としての冷静さと、信仰に基づく使命感を兼ね備えた「最後の守護者」としての姿を強く印象づけます。

殉教ともいえる最期と帝国が見た“英雄の死”

1885年1月26日、ついにマフディスト反乱軍はハルツームの防衛線を突破し、市内へ侵入しました。その二日前、ようやくイギリス軍の援軍が近づいていましたが、到着は間に合わず、ゴードンは宮殿で斬殺されたと伝えられています。享年51歳、その死はイギリス中に衝撃をもって迎えられました。彼の死に際して特筆されるのは、最後まで自らの信念を曲げず、市民を見捨てなかったその姿勢です。生還の道があったにもかかわらず、彼はあえて殉職を選びました。この行動は、イギリス本国では「自己犠牲の象徴」として称賛され、新聞各紙は彼を「ハルツームの英雄」として取り上げました。その一方で、彼を救えなかったイギリス政府に対しては厳しい批判が噴出し、グラッドストン内閣は激しい非難にさらされました。ゴードンの死は、単なる軍人の最期ではなく、帝国が背負う矛盾と、個人の信仰と責任感がぶつかり合った、歴史的な事件として語り継がれることになります。

英雄“ハルツームのゴードン”誕生──伝説となった男の姿

イギリス国民に広がったゴードン崇拝

チャールズ・ジョージ・ゴードンの死は、1885年の初頭、瞬く間にイギリス本国に伝えられました。ハルツームからの悲報は国中に衝撃を与え、新聞各紙は連日ゴードンの最期を報じ、世論は悲しみに包まれました。とりわけ市民階級を中心に、ゴードンは単なる軍人ではなく、「信仰に殉じた殉教者」としての印象を強く与えました。彼がハルツームで孤立しながらも撤退せず、住民を守る選択をしたという事実は、多くのイギリス国民の心を打ったのです。街頭では黒い喪章をつける人々があふれ、教会ではゴードンを追悼する礼拝が各地で行われました。この頃から彼の名前は「ハルツームのゴードン」として一種の象徴となり、道徳的英雄として讃えられるようになります。国家的な英雄像として、子どもたちの教科書に登場し、演説や文学作品でも頻繁に言及されるなど、彼の人物像は国民意識の中に深く刻み込まれていきました。

銅像、伝記、報道が形作った“聖人軍人”のイメージ

ゴードンの死後、彼の功績を称える記念事業が各地で展開されました。ロンドンのトラファルガー広場には、彼の全身像が堂々と設置され、「忠誠と信念の象徴」として多くの人々が足を止めてはその姿に敬意を表しました。また、彼の生涯を描いた伝記も次々と出版され、その代表的なものがバイロン・ファーウェルによる『General Gordon』です。この伝記では、ゴードンの軍事的才能のみならず、キリスト教的価値観に基づく行動原理、そして利害よりも信義を重んじる姿勢が詳細に描かれました。新聞報道も彼を「聖人軍人」として美化し、特に彼の自己犠牲と信念を称える記事が多く見られました。ヴィクトリア朝時代の価値観とも一致し、家庭や国家に尽くす「理想的紳士像」として彼の人生は教訓化されていきます。このように、銅像や書籍、報道といったメディアが複合的に作用し、現実の人物を超えた伝説的なヒーロー像が形作られていったのです。

語り継がれる英雄像とゴードン神話の成立

時が経つにつれ、ゴードンの人物像は「ゴードン神話」とも呼ばれるような象徴的存在へと昇華していきます。特にイギリス帝国主義の全盛期において、彼の姿は「正義のために命を捧げた男」として、帝国の道徳的正当性を支える重要な役割を果たしました。学校教育では「信念を持った軍人」の模範として教えられ、ゴードンの逸話は若者たちの理想像として語り継がれていきます。また、彼の最期を描いた映画『Khartoum』(1966年)では、チャールトン・ヘストンが演じるゴードンが壮絶なまでに信念を貫く姿が描かれ、多くの視聴者の感情を揺さぶりました。この作品もまた、視覚的かつ劇的に「英雄ゴードン」の印象を定着させる一因となりました。ただし、こうした伝説化には事実との乖離も含まれており、ゴードンの矛盾や限界を無視した一面的な美化との指摘も出始めます。それでもなお、「ハルツームのゴードン」の名は、今なおイギリスにおいて一つの道徳的象徴として語り継がれているのです。

ゴードンが歴史に遺したもの──戦術、思想、そして矛盾

軍事戦術と組織論に見る“先見性”と評価

チャールズ・ゴードンが指揮した軍事作戦の数々は、19世紀後半の軍事史において特筆すべき戦術的革新を示しました。特に「太平天国の乱」における都市奪還戦では、民兵を主体とした「エバー・ビクトリアス・アーミー」を、わずか数ヶ月で近代的軍隊に育て上げた手腕が高く評価されています。ゴードンは個々の兵士の士気と規律を重視し、過度な体罰や権威主義的指導を排して、現地兵との信頼関係を築くことに成功しました。また、彼は戦闘においては徹底的に地形を活かした布陣を好み、砲兵の効果的配置によって敵を消耗させる戦法を多用しました。これらの戦術は、現代の「非対称戦争」や「地域防衛戦略」にも通じる柔軟な思考の先駆けとも言えます。さらに、彼の組織論は軍隊のみならず行政にも応用され、スーダン統治時代には少数の信頼できる部下に大きな裁量を与える分権型の統治を実践しました。これらの試みは、短期間ながらも現地社会の安定に寄与したとされ、後の植民地行政にも影響を与えました。

行政官としての限界と実務的苦悩

一方で、ゴードンが行政官として担った改革は、その理想主義ゆえに現実との折り合いに苦しむ場面も少なくありませんでした。スーダン総督時代、彼は税の軽減や汚職撲滅などを目指しましたが、中央政府や軍閥の抵抗により、計画の多くは途中で頓挫しています。また、彼はしばしば命令系統を無視して独自に決断を下す傾向があり、エジプトやイギリス本国の官僚たちとの軋轢を生む原因にもなりました。特に外交交渉では、宗教的信念が強く出すぎるあまり、現地の慣習や政治的現実に対して柔軟性を欠く面がありました。彼はたびたび「私は神に従うのであって、政府には従わない」といった主張をしており、それが時として協調を困難にさせていたのです。このように、ゴードンの行政官としての活動は、高潔な志と理想を持ちながらも、実務の面では限界を抱えており、彼の人物像に複雑な陰影を与えています。

アフリカ・中国社会に残した足跡と歴史的余韻

ゴードンの活動がもたらした影響は、ヨーロッパにとどまらず、彼が直接関与した中国やアフリカにも深い爪痕と余韻を残しました。中国においては、彼の率いた「エバー・ビクトリアス・アーミー」が太平天国の乱を収束させたことにより、清朝の延命に大きく寄与しました。その結果、近代化を志す勢力の台頭が遅れ、間接的に中国の近代国家形成に影響を与えたと見る歴史家もいます。一方、アフリカではスーダンの奴隷貿易抑制や治安維持において、彼の行動は一時的に地域の秩序回復に貢献しましたが、その手法や目的が「植民地支配の補強」として機能した側面も否めません。現地では彼を救世主のように記憶する人々もいた一方、マフディスト反乱軍の視点からは、外来の支配者として否定的に捉えられました。このように、ゴードンの活動は現地の社会構造や民族間の力関係にも長期的な影響を及ぼしており、その評価は一面的では語れません。彼が残した足跡は、帝国主義と理想主義の狭間で揺れ動く、19世紀の世界の縮図ともいえるのです。

英雄か偏執者か──ゴードンをめぐる歴史的評価と論争

カリスマの裏にある宗教的狂信と理想主義

チャールズ・ゴードンは生涯にわたって強いカリスマ性を発揮した人物でしたが、その魅力の裏側には、しばしば「宗教的狂信」とも受け取られかねないほどの徹底した信仰心がありました。彼はキリスト教の中でも特に終末思想に傾倒しており、「世界の終わりは近い」と語ることもしばしばでした。また、自身を神の道具とみなし、上司や政府の命令よりも「神の意思」に従うことを選ぶ傾向が強く見られました。これはハルツーム包囲戦でも顕著で、撤退や逃亡という現実的選択肢を拒否した背景には、自らが人々を救うべき導師のような立場にあると信じていた節があります。彼の理想主義は純粋で高潔であると同時に、現実離れしていたとも言われています。実際、当時の一部の軍人や官僚からは、彼の言動を「熱に浮かされた預言者」と評する声も上がっており、彼の信念が果たして理性ある統治者のものだったのかという疑問は、今日まで議論を呼び続けています。

植民地支配とゴードンの行動の関係性

ゴードンは自らを「正義を体現する存在」として行動しましたが、その活動が結果的にイギリスの植民地支配を補強していたという指摘は無視できません。中国での太平天国の乱鎮圧は清朝の延命に貢献し、アジアにおける列強の影響力維持に間接的に寄与しました。また、スーダンでは奴隷貿易の根絶や治安維持を名目としながら、現地の自律的な政治体制や伝統を弱体化させる結果を生んでいます。ゴードン本人は植民地主義を積極的に支持していたわけではなく、むしろ個人としては現地住民への共感と慈愛を持って接していた記録が多数残っています。しかし、イギリス帝国という枠組みの中で活動した彼の行動が、結果として帝国の意志を強化し、その拡張主義を正当化する一要素となったことは否定できません。これにより、彼の名誉ある行いの数々も「植民地支配の道具であったのではないか」という批判的視点が生まれ、彼の評価には常にその矛盾がつきまとっています。

リットン・ストレイチーらによる“もうひとつの視点”

ゴードンの評価に鋭い批評を加えた人物のひとりが、20世紀初頭の作家・批評家リットン・ストレイチーです。彼は1918年に発表した『Eminent Victorians』の中で、ゴードンを「思慮深い軍人ではなく、感情に流された理想主義者」として描きました。この書籍は、従来のヴィクトリア朝的英雄像を覆す意図のもと書かれたもので、特にゴードンについては、自己犠牲を美徳とする一方で、命令無視や現実逃避とも取れる行動を冷静に分析しています。ストレイチーによれば、ゴードンの「殉教的最期」は感動的である反面、彼を送り込んだ政府や軍部を窮地に陥れた無責任な行動でもあったという指摘がなされます。こうした視点は、それまでの英雄礼賛的な記述とは異なる、より複眼的な評価の先駆けとなりました。その後の歴史学界では、ストレイチーの影響を受けた多くの研究者たちが、ゴードンの行動と人格をより冷静に見つめ直す試みを行っており、「聖人軍人」ではなく「複雑な近代人」としての再評価が進んでいます。

映像と書籍が描いたチャールズ・ジョージ・ゴードン像

伝記『General Gordon』で読み解く人物像の深層

バイロン・ファーウェルによる伝記『General Gordon』は、ゴードンの全生涯を精密に追いながら、彼の人間性の複雑さに深く切り込んだ一冊です。本書は軍事的成功や英雄的な最期だけでなく、彼の精神構造、信仰、孤独、そして周囲との軋轢といった内面にも重点を置いています。ファーウェルは、ゴードンの行動原理の中心にあるのは「信仰に裏打ちされた義務感」であり、それが彼の判断を時に理性的に、時に情緒的に導いたと分析しています。たとえばスーダン統治では、非効率な官僚制度への苛立ちと、自らの手で民を救おうとする献身が交錯し、現実の政治との軋轢を生んでいきます。伝記はまた、彼の最期についても単なる「殉教」ではなく、複雑な心理的背景と責任感の末に選ばれた道であったとする解釈を示しており、従来の英雄像に対する補完的な視座を提供しています。この作品は、ゴードンを一人の立体的な人間として描き出すことに成功しており、歴史家や一般読者に広く読まれてきました。

映画『Khartoum』が dramatize したゴードンの最期

1966年に公開された映画『Khartoum』は、チャールトン・ヘストンがゴードンを演じ、彼の最期を壮大なスケールで描いた歴史劇です。物語はハルツーム包囲戦を軸に展開され、ローレンス・オリヴィエが演じるマフディとの対決が劇的に描かれました。この映画は事実に基づきながらも、ドラマ性を強く意識した演出がなされており、特にゴードンの英雄的孤独と崇高な精神を際立たせています。ゴードンが援軍の到着を信じつつも、それを当てにせず最後まで市民とともに残る姿や、マフディに対して堂々と信仰と正義を語る場面は、観客の感情を強く揺さぶります。一方で、映画はゴードンの宗教的偏執や複雑な人格にはあまり踏み込んでおらず、むしろヴィクトリア朝的な「殉教する英雄」というイメージを補強するものとなっています。批評家の中には、この作品がゴードンの神話化に大きく寄与したと見る向きもあり、映画が果たしたイメージ形成の影響は現在も根強く残っています。

『Eminent Victorians』に見る痛烈な批評と逆説的評価

リットン・ストレイチーによる『Eminent Victorians』(1918年刊)は、ヴィクトリア朝の英雄たちの神話に鋭く切り込んだ批評的エッセイ集であり、その中でもチャールズ・ゴードンは特に象徴的な存在として描かれています。ストレイチーは、ゴードンを高潔な精神の持ち主として認めながらも、その行動がしばしば政府の方針を無視し、感情や信念に突き動かされた「危険な理想主義者」としての側面に注目します。彼のハルツーム籠城を「自ら望んだ殉教」であるとする記述には、ゴードン神話を反転させる鋭い批評精神が光ります。また、ストレイチーは当時の政府が彼を英雄として扱う一方で、実際には彼の行動によって国際的な戦略が混乱し、政治的失点を招いたことも強調しています。この作品は20世紀初頭の歴史叙述に大きな影響を与え、後の歴史家たちがゴードンを再評価する際の重要な資料となりました。つまり『Eminent Victorians』は、単なる批判書ではなく、神話と現実の間にあるギャップを照らし出す試みであり、ゴードンをより人間らしい存在として捉える契機を提供しているのです。

信念と矛盾のあいだに立つ人間──チャールズ・ゴードンの遺産

チャールズ・ジョージ・ゴードンは、戦場での勇敢な指揮やスーダン統治での改革、奴隷貿易撲滅への取り組みによって、19世紀イギリスを象徴する軍人のひとりとして歴史に刻まれました。その行動は強いキリスト教信仰と理想主義に貫かれており、多くの人々から「英雄」として称えられる一方で、その信念がもたらした独断的な判断や現実離れした決断には、今日に至るまで賛否が分かれています。ハルツームでの最期は殉教と見なされ、伝説的な存在へと昇華しましたが、彼の生涯は帝国主義の矛盾と個人の信条がぶつかり合う葛藤の連続でもありました。映像や書籍によって繰り返し再構成されてきたゴードン像は、まさに“語り継がれる存在”として、今もなお新たな視点から問い直されています。彼の人生は、英雄とは何かという問いを我々に投げかけ続けているのです。

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