こんにちは!今回は、朱子学を武器に佐賀藩の教育と政治を変え、さらには幕府の学問行政にも深く関与した江戸時代のスーパー儒学者、古賀精里(こがせいり)についてです。
藩校「弘道館」の創設者として藩学を整えた彼は、やがて「寛政の三博士」として昌平坂学問所に迎えられ、全国の学問方針に影響を与える存在となりました。学者であり、改革者でもあった古賀精里の生涯とその思想、そして弟子たちにまで連なる影響力をたっぷりご紹介します!
“学問で世を変える”原点:古賀精里、佐賀に生まれる
名門佐賀藩士の家に育った少年時代
古賀精里(こがせいり)は、1750年(寛延3年)、肥前国佐賀、現在の佐賀県佐賀市にあたる地で誕生しました。彼の生家である古賀家は、佐賀藩に仕える武士の家柄であり、代々学問を重んじる伝統を持っていました。父・古賀精忠もまた学識に優れた人物で、家中では知性と品格を兼ね備えた家系として知られていました。このような名門の家に生まれたことは、精里の人格形成と学問的志向に大きな影響を与えました。当時の佐賀藩は、学問によって藩政を支えるという意識が強く、武士にとっては武術と同等、あるいはそれ以上に学問が重視されていました。古賀家にとって、子どもが書を学び、礼を知り、学問によって人の上に立つことは当然のこととされていたのです。幼少期から規律正しい生活と学問中心の教育を受けた精里は、このような家庭と藩の風土に支えられ、後の朱子学者としての道を歩む基盤を築いていきました。
幼少期から始まった学問への探求心
古賀精里は、幼い頃から文字に強い関心を持ち、4歳で漢字の読み書きを始めたと伝えられています。佐賀藩では当時、藩士の子弟に対して基本的な素読教育が徹底されており、古賀家でも例外なく日々の学習が行われていました。特に精里は、『論語』や『孟子』といった儒学の経典を自ら繰り返し読むほどで、近所では「神童」と呼ばれるほどの才能を示していたのです。彼が特に惹かれたのは、道徳や礼節を重んじる儒学の思想であり、これらが人の生き方を導く知恵であることに強い関心を抱いていました。どうして人は善をなすべきなのか、なぜ学問が人を高めるのかといった問いを幼少期から自分なりに考える姿があったと言われています。精里はまた、佐賀藩の学者や親族からの教えに触れながら、多くの書物に親しんでいました。机に向かい、時には暗い蝋燭の明かりのもとで書を読みふける姿は、大人たちを驚かせるほどであったそうです。この早熟な探求心が、のちに彼が全国に名を知られる学者となる原動力となりました。
若くして藩に知られた異才
古賀精里の学才は、10代半ばにはすでに佐賀藩内で高く評価されていました。特に15歳頃には藩主鍋島重茂の側近の目にも留まり、藩内文書の整理や書簡の起草といった、重要な文筆の任を任されるようになります。この時期、通常であれば年長の藩士が行うような職務を担っていたことは、精里の才知が並外れていたことを物語っています。なぜ彼が若くして異才として知られるに至ったのかというと、それは単に知識量の多さではなく、古典を深く理解し、自分の意見として語ることができたからです。知識を受け身で学ぶのではなく、自らの考えとして再構築する力は、当時の学者として非常に重要な資質でした。また、彼の文章には理論性と説得力があり、若くして周囲の大人たちを唸らせたと言われています。藩は彼の将来に大きな可能性を見出し、さらなる成長を促すため、後に京都・大阪への遊学を命じることになります。こうして、古賀精里は地方の一学徒から、中央の学問世界へと羽ばたく第一歩を踏み出すことになるのです。
思想を鍛えた旅:古賀精里が朱子学者となるまで
京都・大阪での遊学が開いた視野
古賀精里は1773年(安永2年)、24歳のときに佐賀藩の命を受けて、学問研鑽のため京都・大阪への遊学を開始しました。これは藩が彼の才覚を高く評価し、さらなる見聞と修養を積ませようとしたものであり、当時の学者としては非常に名誉ある機会でした。まず向かったのは京都で、ここでは儒学のみならず仏教や国学の影響も受けることになります。学問が一つの流派にとどまらず多様に展開していた京都において、精里は多くの知識人と議論を重ね、視野を広げていきました。
続いて滞在した大阪では、町人文化や商業の活気に触れ、学問が現実社会にどう結びつくかを強く意識するようになります。この時期、彼は福井小車や西依成斎といった関西の儒学者たちと交流を深め、学問の枠を超えた思想的刺激を受けました。彼らとの議論を通じて、学問は人間性を高めるだけでなく、社会や政治をも動かす力であるという確信を強めていきます。この遊学の旅は、単なる知識の習得にとどまらず、古賀精里にとって「学問とは何か」「思想はいかに人と社会に作用すべきか」を考える転機となったのです。
陽明学への傾倒とその限界
遊学中の古賀精里は、当初朱子学よりも実践を重視する陽明学に強い関心を抱いていました。陽明学は、室町時代以降に日本でも広まり、「知行合一(ちこうごういつ)」、すなわち知識と行動は一体であるという教えを説きます。精里はこの思想に魅了され、特に人間の内面にある良知を重視する陽明学の考え方に深い共感を抱きました。行動を通じて徳を実践するこの学問は、精里にとって「学問をどう現実に活かすか」という問いに対する一つの答えであったのです。
しかし、しばらく学ぶうちに彼は次第に陽明学の限界を感じ始めます。陽明学が個人の内面に重きを置きすぎるあまり、組織的な秩序や社会全体の道徳の統一という観点においては弱い面があると気づいたのです。また、当時の日本では陽明学が一部の過激な行動主義とも結びついており、精里はそこに危うさを見出しました。彼は学問を個人の救いだけでなく、国家や藩の健全な統治の基盤と考えていたため、より客観的で体系的な理論を求めるようになります。この内面的な葛藤と模索が、後の朱子学への転向を促す重要な契機となったのです。
朱子学に辿り着いた理由と覚悟
陽明学への傾倒とそこからの離脱を経た古賀精里が最終的に選んだのは、朱子学でした。朱子学とは、南宋時代の儒学者・朱熹が体系化した儒教の一派で、理(ことわり)を重んじ、秩序ある社会を築くための指針とされました。精里はその理論の明快さ、そして道徳と政治を結びつける体系性に魅了されます。学問が単に個人の内面にとどまるのではなく、社会制度や政治に生きる理論であるという点に、精里は深い確信を抱いたのです。
朱子学を本格的に学び始めたのは30歳前後、1780年前後とされます。この時期、彼は柴野栗山や尾藤二洲といった俊才たちと交流を持ち、彼らと互いに切磋琢磨する中で自らの思想を固めていきました。特に柴野栗山との交流は、のちに昌平坂学問所での活動にもつながる重要な縁となります。また、朱子学が幕府の正学とされていたことも、彼の選択に影響を与えた要因でした。
精里は朱子学に身を捧げる覚悟を固め、学問を「理に基づいて人を導く道」として捉えました。この覚悟は後に、藩校弘道館の設立や藩政改革など、彼が実際に朱子学を社会の中で実践していく原動力となっていきます。
学問で藩を変える:古賀精里が弘道館に込めた願い
佐賀藩に戻り学問振興を志す
古賀精里は、遊学を終えた後の1780年代初頭、佐賀藩に帰藩します。このとき彼はすでに朱子学の理論とその実践的応用に強い信念を持っており、単なる学者としてではなく、藩の将来を学問の力で導こうとする覚悟を抱いていました。帰藩後、精里は藩主や上級藩士たちに対し、学問の振興こそが藩政改革の土台であると説き、その必要性を熱心に訴えます。
当時の佐賀藩は、幕末のような大きな動乱期ではなかったものの、藩財政や武士階級の教育体制には多くの課題を抱えていました。精里は、藩士たちの知識と人格を高めることが藩の安定と発展につながると考え、教育制度の整備に力を入れることを決意します。この頃、彼が朱子学者としてだけでなく、教育者としての意識を明確に持ち始めたことは、後の藩校「弘道館」の設立へと直結する重要な転換点でした。
また、この時期には、他藩との知識人ネットワークも活発化しており、彼は柴野栗山や頼春水らとの文通を通じて、全国的な学問の潮流にも目を向けていました。こうして精里は、地域の知識人ではなく、広い視野を持つ思想家・改革者としての道を歩み始めたのです。
藩校「弘道館」を設立した教育者としての顔
1790年(寛政2年)、古賀精里は佐賀藩の藩校「弘道館」の創設を主導します。弘道館は、それまで散発的に行われていた藩士教育を制度として整備し、朱子学を中心とする儒学教育を組織的に行う場として設立されました。この時、精里は教官としてのみならず、教育理念の設計者としても重要な役割を果たしました。彼の教育方針は、知識だけでなく人格の陶冶を重んじるもので、いかなる身分の者であっても、学問を志す者には門戸を開いたとされています。
なぜ精里がこのような教育制度を目指したのかといえば、それは朱子学の根本にある「理」を社会に実現するという志からでした。彼にとって学問とは、単なる知的訓練ではなく、人として、そして政治を担う者としての道を学ぶ手段だったのです。また、弘道館では講義のみならず、討論や講読会も行われ、学びの場としての自由さも備えていました。
弘道館は佐賀藩内で高く評価され、後に他藩の教育制度にも影響を与えることになります。このように、古賀精里は教育者としての実績を通じて、藩内の学問的風土を一変させたのです。藩校の設立にあたっては、弟子の古賀穀堂など優れた学徒を集めることにも成功し、教育の質の高さは国内でも群を抜くものとなりました。
教育制度を整え、藩士を育てる改革者
弘道館設立後、古賀精里はその運営に深く関わり、教育制度そのものの改革にも乗り出します。彼は単に教科書を教えるのではなく、「いかにして学ぶか」という方法論を重視しました。たとえば、『四書』や『五経』の素読に加えて、それらを現実の社会や政治にどう応用すべきかを考える「講義」と「議論」の時間を制度として組み込みました。これは朱子学が持つ実学性を、教育の現場で徹底するための工夫でもありました。
また、彼は教師の質にもこだわり、教官には単なる学者ではなく、人格と実務能力を兼ね備えた者を選抜しました。こうした改革は、藩士の知的水準を飛躍的に高め、後に幕末にかけて佐賀藩が他藩に先んじた改革藩として名を上げる素地を築くことになります。
精里が弘道館に注いだ情熱は、ただの教育改革にとどまりませんでした。教育とは、人を育て、やがて社会を変える力であると信じていた彼は、藩士たちに対して常に「自己を律し、理に従い、義を行う」ことを説きました。この信念は、彼の弟子や後継者に脈々と受け継がれていきます。彼の教育改革はまさに、思想と制度の両面から藩政の未来を照らすものでした。
政治も学問で導く:古賀精里の藩政改革とは
藩政顧問として抜擢された背景
古賀精里は、教育者としての手腕が高く評価されたことで、藩校弘道館の整備だけでなく、藩の政治運営にも関わるようになります。1790年代中頃、佐賀藩主・鍋島斉直の信任を得た精里は、藩政顧問という重職に抜擢されました。当時、佐賀藩では財政難や農村の荒廃など、藩の将来を揺るがす深刻な課題が山積しており、知識と倫理を備えた人物による指導が求められていたのです。
精里がなぜ政治に起用されたのかといえば、彼の学識だけでなく、人間性と実行力が評価されていたからです。単なる理論家ではなく、教育現場で実績を積み、現実の問題を解決する力を持つ人物として、藩内外から一目置かれる存在でした。また、彼が重んじていた朱子学は、君臣関係のあり方や政治の正当性を理論的に示す学問であり、藩主からすれば政治の「道」を学問的に裏付けてくれる支柱でもありました。
このようにして精里は、教育者として培った理念を政治の場に持ち込み、学問と政治を結びつける実践に乗り出していきます。彼の顧問就任は、佐賀藩における学問主導型の政治改革の始まりでもあったのです。
朱子学に基づいた実学的な政治改革
古賀精里が政治顧問として取り組んだのは、朱子学の理念に基づいた実践的な藩政改革でした。彼は、政治とは人心を正し、秩序を保ち、民を導くものであると考えており、そのためには為政者自身が徳を備え、理に従った行動をとるべきだと説きました。こうした考えのもと、彼はまず官僚制度の見直しに着手します。役職ごとの権限と責任を明確にし、能力と人格を兼ね備えた者を登用する制度改革を進めたのです。
また、農政面でも具体的な改革を実施しました。農民への課税制度を合理化し、過度な負担を軽減する一方で、生産力を向上させるための技術指導や用水路整備にも力を入れました。これらは、朱子学における「経世済民(けいせいさいみん)」、すなわち民を救い、世を治めるという理念に基づいています。
さらに、精里は役人に対する倫理教育も推進しました。藩校で学んだ若い藩士たちに、朱子学を通じて政治の根本的意義を教え、「為政とは私利を追うものではなく、公の道を行うものである」と繰り返し説きました。このような改革の一つひとつが、学問を政治に活かす精里の信念の表れでした。
学問が政治を動かすという実践
古賀精里の藩政改革の真価は、理想を語るだけでなく、それを制度として実行に移した点にあります。彼は学問、とりわけ朱子学が持つ倫理的・理論的な力を、政治の現場に応用することで、藩全体を内側から変えようとしました。たとえば、藩主との間には定期的な進講の時間が設けられ、朱子学の理念に基づく政治の在り方が語られました。そこでは単なる知識の伝達にとどまらず、藩主自身の「徳」をどう養うかという、人格形成の問題まで踏み込んだ議論が行われていたのです。
また、政策の決定過程にも「理」を重んじる姿勢が導入され、感情や私情ではなく、全体の調和と正義に基づいて決断がなされるよう努められました。これは、朱子学が説く「格物致知(かくぶつちち)」、すなわち事物の本質を理解し、真理を究めるという態度を政治に応用したものです。
こうした取り組みは、ただ藩の内政を整えるだけでなく、佐賀藩全体に「学問こそが政治の礎である」という共通意識を育てました。やがて、この精神は精里の弟子たちにも引き継がれ、後年の藩政改革や教育振興へとつながっていきます。古賀精里は、学問を単なる知識ではなく、社会を動かす原動力と捉えた実践者として、藩政に深く刻まれた存在となったのです。
江戸の学問中枢へ:古賀精里、昌平坂へ登る
幕府に見出された学者としての実力
古賀精里は、佐賀藩内で教育と政治の両面にわたり活躍していた人物ですが、その才能はやがて幕府の知るところとなり、1792年(寛政4年)、江戸の昌平坂学問所への登用という大きな転機を迎えます。昌平坂学問所は、幕府が儒学の振興と人材養成のために設置した学問の最高機関で、全国から選ばれた俊才が集められる場でした。精里がここに招かれた背景には、朱子学の正統的な理解に加え、教育・政治における実践的な業績がありました。
幕府はこの時期、寛政の改革の一環として「寛政異学の禁」を発布し、朱子学を官学として確立する政策を進めていました。まさにその中心思想を担う人物として、精里は白羽の矢を立てられたのです。彼はこの機会にあたって私的な立場から一歩踏み出し、国家的な教育と政治思想の形成に貢献する使命を担うことになります。
こうして精里は、地方藩士から一転して幕府中枢の学問的権威へと躍進し、その存在は「寛政の三博士」としての評価を確固たるものとしていきました。
昌平坂学問所で果たした役割
昌平坂学問所において、古賀精里は教官としてだけでなく、学問所の運営や教育方針の立案にも深く関わりました。彼の役割は、朱子学を理論として教えることにとどまらず、いかにしてこれを実生活や政治に応用するかという視点から、多くの門弟に影響を与えるものでした。彼の講義は難解とされながらも、論理の筋が通り、特に『大学』『中庸』といった四書の解釈には高い評価が集まりました。
さらに、彼は若い学徒たちに対し、「学問は人を導くためにこそある」という信念を伝え、単なる知識の吸収ではなく、人格の陶冶こそが学問の目的であると説きました。このような教育姿勢は、多くの弟子たちに強い影響を与え、後の幕府官僚や藩校の教師となって各地に広がっていきます。
また、精里は制度改革にも取り組み、学問所での教材整備や学則の明確化にも尽力しました。その姿勢は、学問を官製の形式にとどめることなく、真に生きた思想として根付かせようとするものでした。昌平坂という場を通して、精里は全国の知識人ネットワークにおける中核的存在となっていきます。
柴野栗山・尾藤二洲と並び称された理由
古賀精里が「寛政の三博士」の一人として柴野栗山、尾藤二洲とともに並び称された理由は、彼ら3人がそれぞれ異なる個性と専門性を持ちながら、共に幕府の朱子学体制を築き上げた中心人物であったからです。柴野栗山は政策理論に長け、政治と学問の橋渡し役を果たし、尾藤二洲は漢詩文と教育論に深く通じ、若き学徒を指導する手腕に優れていました。対して古賀精里は、理論と実践の融合を重視し、教育・政治・思想の3つの柱を同時に支える人物として評価されました。
三者の中でも、精里は特に「実行する知」としての学問を強調し、佐賀藩での改革経験を活かして幕府にも現実的な施策の提言を行いました。頼春水や河井継之助といった人物が精里の門下に連なっていることからも、彼が後世に与えた影響の大きさが窺えます。
また、彼ら三博士は互いに親交を持ち、書簡を通じて意見を交わす中で、学問的な共通理解と政策的一体感を形成していました。その結びつきがあったからこそ、幕府は学問を国家の統治理念として確立することができたのです。精里の存在は、この知的連携の要として欠かすことのできないものでした。
書による革命:古賀精里の著作が開いた儒学の扉
儒学の教科書としての書物の力
古賀精里は、口頭での教育や講義だけでなく、書物によって広く学問を伝えることの重要性を深く理解していました。江戸時代の学問の普及において、教科書の整備は欠かせない要素であり、精里はその執筆と編纂にも力を注ぎました。なぜなら、儒学の根本原理をわかりやすく記述し、多くの学徒が自学自習できる環境を整えることが、教育の裾野を広げる鍵になると考えていたからです。
彼の書物は単なる注釈ではなく、読者の理解を助けるために、背景や用例、実生活とのつながりを丁寧に説明しているのが特徴です。学問の抽象性にとどまらず、具体的な道徳や行動規範として儒学を捉え直すその筆致は、当時の多くの学者にとって新鮮で、刺激的なものでした。また、これらの著作は、藩校や私塾の教材として全国で用いられるようになり、精里の教育思想が地方へと広がるきっかけにもなりました。
印刷技術が発達していた江戸後期において、書物による知識の伝達は非常に有効な手段であり、精里の著作はまさに“文字を通じて思想を広げる革命的行動”だったのです。
『四書集釈』が変えた学びの現場
古賀精里の代表的な著作のひとつが『四書集釈(ししょしっしゃく)』です。この書物は、朱子学の基本文献である『四書』―『大学』『中庸』『論語』『孟子』―の注釈と解説を一冊にまとめたもので、教育現場での使いやすさを第一に考えて編集されています。精里はこの著作において、単なる経文の解釈だけではなく、各章句が実生活にどう結びつくかを具体例とともに丁寧に記述しました。
『四書集釈』は、1790年代から広く読まれるようになり、多くの藩校や私塾で教材として採用されました。とりわけ、理解しやすい言葉遣いや、章ごとの要点整理などは、当時の学徒にとって学びやすい構成となっており、これまで敷居が高かった朱子学を身近にした功績は大きいものでした。
また、この著作は精里の教育思想を体現したものであり、「学問は人間性を磨き、社会に貢献するための手段である」という彼の理念が全編にわたって貫かれています。後に『四書集釈 古賀精里』という言葉が一種の学問ブランドのように扱われるようになったのは、この本が果たした教育的役割の大きさゆえです。
文字を通じて広がる学問と思想
古賀精里は、自らの思想と学問を多くの人に届けるため、「書く」という行為を重要な社会的使命と位置づけていました。彼が執筆した書物は、内容の正確さだけでなく、読者への深い配慮が感じられる点で、多くの人々の信頼を集めました。とくに地方にあっては、直接精里の講義を受ける機会のない者も多く、その著作は「第二の師」として機能したのです。
精里の書物が与えた影響は、単に学問の普及にとどまりませんでした。彼の文字は、人々の生き方や考え方を変え、儒学という思想が現実の暮らしや政治のあり方に深く根ざすきっかけとなったのです。たとえば、彼の教えを受けた弟子たちは、藩校の教師として地方に赴き、そこで精里の書物を用いて教育を広めていきました。このように、文字を通じて精里の思想は「人から人へ」だけでなく、「書物から人へ」も確実に伝わっていったのです。
また、書物という形で残された学問は、時代を超えて後世に影響を与えます。江戸時代末期から明治初期にかけて、儒学の再評価が進む中でも、古賀精里の著作は教育者たちの手本として再び脚光を浴びることになります。このようにして、精里は学問の伝道者としてだけでなく、書を通じて思想を時代に刻む不朽の教育者となったのです。
精里が遺した人づくり:弟子と家族に刻んだ哲学
家族への教育と自らの信念
古賀精里は、生涯を通じて教育に情熱を注いだ人物でしたが、その教育熱は家族に対しても例外ではありませんでした。彼は、家族という最も身近な共同体こそが、人間の品格や知性を育む基礎になると考えており、自らの家庭においても徹底して学問と礼節を重視した生活を貫いていました。とくに甥であり後継者ともなった古賀穀堂に対しては、幼少期から厳しくも温かい教育を施し、のちに学者として世に出る土台を築きました。
精里がなぜ家族にこれほどまでに教育を重視したのかというと、それは朱子学の根本にある「家族は徳の起点である」という思想に基づいています。家族が調和を保ち、それぞれの役割を果たすことが、やがて社会全体の安定につながるという考えは、彼の生活の中でも徹底されていました。また、自らの信念として、「学問とは人を導く光であり、それはまず最も近しい者への導きから始まる」と語っていたことも伝えられています。
その教えは、身内にとどまらず、後に精里が出会う多くの弟子たちの教育にも応用されていきました。家族への教育という小さな単位の実践が、やがて広い社会に波及していくという彼の思想は、まさに人づくりの哲学の根幹をなしていたのです。
全国に広がった弟子たちのネットワーク
古賀精里のもとには、藩内外を問わず多くの門人が集まりました。その教えは佐賀という一地方にとどまらず、江戸・京都・大阪をはじめとする全国の学者や官僚にまで届き、弟子たちの活躍によって精里の思想は各地に根を下ろすこととなります。中でも、河井継之助のように政治と学問を両立させた人物や、草場珮川のように地方教育を担った人材は、精里の実学的朱子学の継承者として高く評価されています。
このような弟子の広がりは、ただ学問を教えたというだけではなく、精里自身が「人を育てるとは、その人がまた他者を育てる存在になることだ」と捉えていたからこそ実現したものでした。彼は、弟子との関係を単なる師弟にとどめず、「同志」として信頼し、ときに生活面まで気遣う姿勢を見せています。
また、精里の教育は画一的ではなく、弟子それぞれの性格や素質に応じて指導の方法を変える柔軟さも持ち合わせていました。そうした個別的な関わりが、弟子たちの深い忠誠心と尊敬を育んだのです。このネットワークは、幕末から明治にかけての激動期にも生き続け、各地で新たな思想と制度改革を担う人材を生み出しました。
「劉家の三鳳」が体現した教育の成果
古賀精里が築いた教育の成果を象徴する存在のひとつが、「劉家の三鳳(りゅうけのさんほう)」と呼ばれる三人の優秀な門人たちです。この三鳳とは、古賀穀堂・古賀侗庵・古賀瑋堂の三兄弟を指し、いずれも古賀家の親族であり、精里の薫陶を直接受けた人物たちです。三人はそれぞれ異なる分野で活躍しましたが、共通しているのは、朱子学の理念を深く理解し、それを行動に移す能力に優れていた点です。
たとえば、古賀穀堂は精里の後継者として弘道館の指導を引き継ぎ、教育制度の安定と拡充に努めました。侗庵は文章や書の才に秀で、儒学思想の普及に貢献し、瑋堂は教育と実務を兼ね備えた地方行政官としての役割を果たしました。彼らの活動は、まさに精里の教育理念が結実した例であり、「人づくり」の成果が血縁と学縁を通じて継承されていったことを示しています。
なぜ三鳳と呼ばれたのかといえば、それは中国の古典において、聖人の下に三羽の鳳凰が集まるという故事に由来し、優れた弟子が一門に三人も現れたことが希有であるとの賛辞からです。この表現には、古賀精里の教育がいかに深く、広く、持続的な影響力を持っていたかが象徴されています。三鳳の存在は、古賀家ひいては精里の学統が、時代を超えて息づいていたことを物語るものです。
独身の儒学者が遺したもの:古賀精里、静かな晩年
独身を貫いた理由と学問への情熱
古賀精里は生涯独身を貫いたことで知られています。江戸時代において、家を継ぎ、子をもうけることは武士として当然の道とされていましたが、彼はあえてその慣習に背を向け、自らの人生をすべて学問と教育に捧げる道を選びました。その理由について明確な記録は残されていませんが、多くの史料や弟子たちの記述から、彼の学問に対する尋常でない熱意と自己規律の高さがうかがえます。
精里にとって、学問とは自己の徳を磨き、他者を導く道であり、それを日々実践するには、俗世的な煩わしさを断つことが必要だったのかもしれません。また、彼は甥の古賀穀堂をはじめとした親族の教育には深く関与しており、自らの思想や精神を継ぐ存在を育てることには強い関心を持っていました。このようにして、血縁の子を持たずとも、学問による精神的な継承を実現していたのです。
彼の生き方は、まさに「学問即人生」という理念を体現するものであり、個人の幸福よりも公への奉仕を選ぶ姿勢は、朱子学者としての覚悟と矜持に満ちたものでした。精里の独身という選択は、儒学に生きた一人の思想家としての生涯を象徴するものだったと言えるでしょう。
静かに幕を閉じた最期とその評価
古賀精里は1827年(文政10年)、78歳でその生涯を終えました。晩年は佐賀に戻り、政治の第一線からは退いたものの、教育者・思想家としての活動は続けており、弟子たちへの指導や著作の整理に努めていました。特に若い門人への講義は最期の年まで続けられ、彼の学問に対する情熱が衰えることはありませんでした。最晩年には、体力の衰えを感じつつも、自ら筆を執って記録を残すなど、知的営為に生きた人生を最後まで貫いています。
彼の死は、佐賀藩内外に大きな衝撃を与えました。弟子たちや学界の関係者からは惜しみない追悼の言葉が寄せられ、彼の功績を称える書や詩が多く残されています。また、彼が遺した教育制度や著作は、死後も長く活用され、儒学の学統を支える基盤として継承されていきました。
評価において特筆すべきは、彼が単なる理論家ではなく、教育・政治・思想の実践者として後世に強い影響を与えたことです。昌平坂学問所や弘道館での功績により、「学問で世を変える」という思想は、精里の名とともに記憶され続けています。静かな最期であったにもかかわらず、その存在は日本儒学史においてきわめて重い意味を持っているのです。
今に生きる精里の教育と思想
古賀精里の死からおよそ200年が経過した現代においても、彼の教育理念と思想は静かに息づいています。とりわけ「人格を重んじる教育」や「理に基づく政治的思考」といった彼の考え方は、現代の教育哲学や倫理教育の中にも通じるものがあります。精里は、学問を単なる知識としてではなく、個人と社会をより良く導く道として位置づけ、徹底して実践に結びつけた点で、きわめて現代的な思想家でもありました。
また、彼の著作や教育制度は、幕末・明治の思想家たちにも大きな影響を与えました。弟子の河井継之助を通じて、理想と現実の間で悩みつつも正義を追求する精神は、近代日本の政治思想にも繋がっています。さらに、教育者としての姿勢は、教え子たちを通じて全国の藩校や私塾へと波及し、「一人の学者が社会を変える」という希望を具現化した存在として語り継がれています。
精里が遺した数々の書や日記は、今日でも研究対象として読み継がれており、その中に込められた知恵や哲理は、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。彼の人生は、変わりゆく時代においても、人を育て、世を導く学問の力を信じる姿勢の象徴であり、まさに“今に生きる儒者”と言える存在です。
書と記録が語る人物像:古賀精里を継いだ声たち
代表作に込めた思想の核心
古賀精里の思想の中核を知るうえで、彼の代表的な著作群は欠かせません。特に『四書集釈』は、朱子学の理念を平易に説き、学びの場において極めて広く使用されたことで知られています。この著作の中で彼が一貫して訴えているのは、知識の習得が目的ではなく、徳を磨き、理に基づいて行動する人物を育てることこそが学問の本質であるという考え方です。
また、彼の注釈は独特のバランス感覚を備えており、朱子の原典を尊重しつつも、日本の風土や時代背景に即した解釈が加えられています。これにより、朱子学という外来思想をただの模倣に終わらせず、日本社会の実態に根ざした生きた学問として昇華させている点に、精里の独自性が見て取れます。
彼が書物に託した思想は、のちの学者たちによって引き継がれ、明治期以降の教育や道徳教育の源流ともなりました。書に込められたこの思想の芯には、常に「学問とは社会と人を良くするための道である」という強い信念が流れており、それが古賀精里という人物の哲学を今に伝える重要な記録となっています。
『津島日記』に記された師弟の絆
古賀精里の人物像をより立体的に知ることができる史料として、『津島日記』という記録があります。これは、彼が津島藩(現在の長崎県対馬)に滞在した際に記されたもので、弟子たちとの交流や講義の様子、さらには日々の思索の記録が綴られています。とりわけ注目されるのは、弟子との対話の場面における精里の姿です。彼は上から教え込むのではなく、相手の言葉を丁寧に聞き、問いを通して思考を深めさせる指導法を取っていたことがわかります。
この日記には、弟子たちの成長を喜び、自らの失言を反省し、常に謙虚な姿勢で学問と向き合う精里の姿が描かれており、単なる学者ではなく「人を育てる人間」としての温かさと厳しさがにじみ出ています。彼に学んだ多くの弟子たちが、のちにそれぞれの地で教育者や政治家として活躍した背景には、こうした人間的な関わりがあったことがうかがえます。
『津島日記』はまた、精里の生活や感情の揺れも記録しており、完璧な儒学者像だけでなく、悩み、迷いながらも真理を求め続けた等身大の人物像を伝えてくれます。この記録は、古賀精里がどれだけ深い信念と誠意をもって学問と人に向き合っていたかを物語る、貴重な一次資料といえるでしょう。
儒学の系譜における精里の位置づけ
古賀精里は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した儒学者として、日本儒学史において極めて重要な位置を占めています。朱子学を幕府の官学として確立する上で中心的役割を果たしたことに加え、その思想と教育は、後世の儒学者たちの指針ともなりました。彼が「寛政の三博士」の一人として柴野栗山、尾藤二洲とともに称される理由も、単なる学識の高さではなく、学問を社会制度と教育に結びつけた実践者としての貢献が大きかったからです。
彼の影響は、門弟の活躍を通して明治以降にも引き継がれていきます。特に、河井継之助のように儒学を政治理念と実践に活かした人物や、地方教育に尽力した草場珮川など、彼の薫陶を受けた人々が各地で改革や人材育成に取り組んだことは注目に値します。
さらに、彼の思想は幕末の尊皇攘夷運動や明治維新に向けた精神的支柱としても一定の影響を与えたとされ、儒学の道が単なる古典主義に終わらず、時代の転換点で生きた思想として息づいた背景には、精里のような実践的学者の存在がありました。
このように、古賀精里は「学者の学者」ではなく、「社会に働きかける思想家」としての系譜に連なる人物であり、儒学を通じて日本の近代教育や倫理思想にまでつながる道を切り開いた存在として高く評価されています。
学問を生き、学問で世を導いた古賀精里の軌跡
古賀精里は、江戸時代という封建体制のもとで、学問を通じて社会を変革しようとした稀有な思想家であり、実践者でした。佐賀藩に生まれ、若くしてその才能を認められた精里は、朱子学を通じて人を育て、藩を導き、さらには幕府の学問体制にも深く関与しました。書を通じて思想を広げ、数多くの弟子を育て上げた彼の業績は、時代を超えて教育と政治の在り方に影響を与え続けています。独身を貫き、私を捨てて公に尽くしたその生き様は、まさに「学問即人生」を体現するものであり、現代においてもなお、深い示唆を与えてくれる存在です。
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