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    吉備真備の生涯:地方豪族から右大臣へ、知識と兵法で乱世を制した学者の実像

    こんにちは!今回は、奈良時代の政界を揺るがした異能の知識人、吉備真備(きびのまきび)についてです。

    地方豪族の出身ながら二度にわたって唐へ渡り、最新知識を日本にもたらし、70歳にして軍の総司令官として反乱を鎮圧した人物。生涯の友・阿倍仲麻呂や鑑真、聖武天皇らと深く交わり、学問の力で乱世を切り拓いた男は、まさに日本史上稀に見る「学者にして政治家、そして軍事指揮官」でした。

    地方出身者から右大臣へと上り詰めた吉備真備の、波乱と奇跡に満ちた生涯をひも解きます。

    目次

    備中の有力豪族に生まれ遣唐留学生に抜擢された吉備真備

    地方豪族の下道氏に生まれた秀才

    吉備真備(当時は下道真備)は、持統天皇9年(695年)頃、備中国(現在の岡山県倉敷市真備町周辺)を拠点とする地方豪族、下道氏の子として生を受けました。生年は明確ではなく、693年説など諸説ありますが、およそ7世紀末に生まれたことは間違いありません。 下道氏は、古代から吉備地方を治める吉備氏の一族ですが、都の中央貴族たちと比べれば、決して高い身分ではありませんでした。当時の律令社会において、地方豪族の出身者が中央で高位に上ることは、極めて困難な道のりだったのです。

    しかし、真備には幼い頃から類まれな才能がありました。書物を読み解く力、物事の本質を見抜く聡明さは、周囲の大人たちを驚かせたといいます。 やがて都へ上り、官僚育成機関である大学寮に入学すると、その才能は開花します。儒教や歴史、漢文学などあらゆる分野で頭角を現し、「地方出身の秀才がいる」という評判は、やがて朝廷の上層部にまで届くようになったのです。

    エリートではない身分から運命を変えた遣唐留学生への抜擢

    真備に人生最大の転機が訪れたのは、養老元年(717年)に出発する第9次遣唐使の留学生に選ばれたときのことでした。 当時の遣唐使は、命懸けの航海を経て唐の先進文化を学ぶ、国家プロジェクトの精鋭部隊です。通常、こうした役割に選ばれるのは有力貴族の子弟や、すでに実績のある官人が中心でした。

    当時まだ下級官人に過ぎなかった地方出身の若者が選ばれたのは、極めて異例の抜擢といえるでしょう。 これは、当時の朝廷が「身分に関わらず、本当に能力のある者を唐へ送りたい」という実利的な判断を下した結果だと考えられます。真備の選抜は、まさに実力主義の人事そのものでした。 このとき、共に留学生に選ばれたのが、のちに真備の生涯の友となる阿倍仲麻呂や、留学僧の玄昉でした。

    入唐への準備と阿倍仲麻呂や玄昉らとの出会い

    選抜から出発までの準備期間、真備たちは過酷な日々を過ごしました。 言葉の習得はもちろん、航海術の基礎や、唐の礼儀作法の予習など、学ぶべきことは山ほどあります。 この期間中に、真備は阿倍仲麻呂や玄昉と深く交流しました。

    阿倍仲麻呂は名門氏族の出身でありながら、驕ることなく真備の才能を認め、対等な友人として接してくれました。一方の玄昉は、俗人離れした野心と強烈な個性を持つ僧侶で、真備とは「知と術」という補完関係を築いていきます。 「我らは生きて再びこの土を踏めるだろうか」 そんな不安を語り合いながらも、若き彼らの目は、海の向こうにある世界帝国・唐へと向けられていました。彼らの背負った使命感と友情が、その後の日本の歴史を大きく動かしていくことになるのです。

    長安で阿倍仲麻呂と共に世界の知を吸収した17年間の青春

    玄宗皇帝の黄金時代である長安で触れた世界標準

    養老元年(717年)、真備たちを乗せた遣唐使船は、暴風雨の恐怖を乗り越えて唐の都・長安に降り立ちました。 当時の長安は、玄宗皇帝の治世下で、「開元の治」と呼ばれる黄金時代へと向かおうとしていた時期にあたります。シルクロードを通じて東西の文物が集まり、世界中から人々が訪れる、まさに世界最大の国際都市として繁栄を極めていました。

    真備が目にしたのは、整然と区画された壮大な都市計画、整備された法制度、そして圧倒的な文化の厚みです。 彼はここで、単なる書物の知識だけでなく、国家とはどうあるべきか、法とはいかに運用されるべきかという統治の実態を肌で感じ取りました。日本という島国の常識が通用しない巨大な帝国の中で、真備は貪欲にそのシステムを吸収していったのです。

    三略や六韜から陰陽道までどん欲に吸収した知識

    長安での真備の学習意欲は凄まじいものでした。 通常、留学生は儒教の経典(『五経』など)や歴史書(『漢書』など)を中心に学びますが、真備の関心はそれにとどまりません。

    彼は、天文学や暦学、音楽、建築、そして軍事学(兵法)にまで関心を広げていきました。 特に、『三略』や『六韜』といった兵法書、さらには「太一・遁甲」と呼ばれる軍事的な占術についても深く研究したといわれています。これらは後の日本の陰陽道にも通じる知識ですが、当時の真備にとっては、魔法というよりも実践的な軍事技術として学んでいた側面が強いでしょう。 すべてを学び尽くして帰る。 真備が長安の市場で、支給された生活費をすべて書物に変えて買い漁っていたという逸話が伝わっていますが、それほどまでに彼の知識への執念は強かったのです。

    親友である阿倍仲麻呂との語らいとそれぞれの選択

    長安での滞在は、当初の予定を大幅に超えて17年にも及びました。 この間、真備と阿倍仲麻呂は、互いに切磋琢磨し、異国の地での寂しさを慰め合う無二の親友として日々を送りました。 仲麻呂はその才能を玄宗皇帝に愛され、唐の官僚として異例の出世を果たしていきます。

    天平6年(734年)頃、ようやく日本への帰国船が手配されると、二人は大きな決断を迫られました。 真備は学んだ知識を日本に持ち帰り、国づくりに活かすという使命を選び、帰国を決意します。一方、仲麻呂も帰国を望みましたが、彼が乗ろうとした船が難破するなど、度重なる不運に見舞われました。 結局、仲麻呂は幾度も帰国を試みながら叶わず、唐の朝廷に仕え続ける道を選ばざるを得ませんでした。 日本を頼む。 そう言ったかもしれない仲麻呂の想いを背負い、真備は膨大な書物と知識を抱えて、日本への帰路につくことになります。

    聖武天皇の寵愛を受け学者から実務家へと変貌した帰国後の飛躍

    持ち帰った知識への熱狂と聖武天皇や橘諸兄による重用

    天平7年(735年)、40歳前後で帰国した真備は、時の天皇、聖武天皇に温かく迎えられました。 真備が献上した唐の文物や書物、天文書、測量器具、楽器などは、聖武天皇にとって理想の国家を作るための貴重な情報源となったのです。

    帰国から間もなく、日本を大きな悲劇が襲います。天平9年(737年)に発生した天然痘の大流行です。これにより、政権の中枢にいた藤原四兄弟が相次いで亡くなるという緊急事態に見舞われました。 この政治的空白を埋める形で台頭したのが、皇族出身の実力者・橘諸兄でした。橘諸兄は、新体制のブレーンとして、唐から最新の知識を持ち帰ったばかりの真備と僧・玄昉を抜擢しました。 真備は大学寮の指導官となり、さらには政治の中枢にも参画し始めます。一介の学者が国の舵取りに関わるという、前代未聞の事態でした。

    藤原広嗣の乱による反吉備および玄昉包囲網への対応

    しかし、急激な出世は旧来の貴族たちの反感を買うことになります。 家柄の低い地方出身者と僧侶が、天皇の側近として国を動かしていることへの嫉妬と不満は、日増しに高まる一方でした。 その不満を爆発させたのが、大宰府にいた藤原広嗣です。

    天平12年(740年)、広嗣は真備と玄昉を朝廷から排除することを求めて上表し、九州で挙兵します(藤原広嗣の乱)。 このとき、真備は聖武天皇に対し、広嗣の主張の不当性を説き、毅然とした態度を貫いたとされます。 真備自身はこの乱で直接戦場には赴いていませんが、彼が唐で学んだ軍事知識が、討伐軍の編成や戦略立案に何らかの影響を与えたのではないかとも推測されています。 乱は短期間で鎮圧されましたが、これは真備にとって、自らの知識が政治的な争乱と結びつく初めての体験となりました。

    皇太子時代の孝謙天皇の教育係として築いた師弟の絆

    この時期、真備はもう一つの重要な任務を任されています。 それは、聖武天皇の娘である阿倍内親王(のちの孝謙天皇/称徳天皇)の教育係(東宮学士)です。 真備は彼女に『漢書』や『礼記』を講義し、君主としての教養と心得を授けました。

    女性皇太子への教育は前例の少ないことでしたが、真備は彼女の聡明さを愛し、熱心に指導にあたりました。阿倍内親王もまた、博識で実直な真備を師として深く信頼したといいます。 また同時期、盟友の玄昉も聖武天皇の母である藤原宮子の病を祈祷で治癒させ、宮廷内での信頼を不動のものにしていました。 この時期に培われた真備と阿倍内親王の師弟の絆は、数十年後、真備が絶体絶命の危機に陥ったとき、そして国家が転覆しかけたときに、最強の武器として機能することになるのです。

    藤原仲麻呂による左遷人事と鑑真を伴った決死の帰国

    藤原仲麻呂の台頭と大宰府への左遷で見せた雌伏の時

    しかし、政治の風向きは変わりやすいものです。 聖武天皇が譲位し、孝謙天皇の時代に入ると、藤原氏による巻き返しが始まりました。その中心にいたのが藤原仲麻呂です。 仲麻呂は、橘諸兄政権のブレーンであった真備や玄昉を政敵と見なし、中央から遠ざけようと画策しました。

    天平19年(747年)、玄昉は筑紫へ左遷され、その地で没します。真備もまた、この前後の時期に筑前守や肥前守として大宰府へ送られました。 世間的には左遷であり、不遇の時代といえるでしょう。しかし、真備はただ手をこまねいていたわけではありません。 大宰府において、彼は対外防衛の拠点となる怡土城(いとじょう)の整備計画に関わったとも伝えられ、また得意の天文学知識を活かして暦の指導を行うなど、地方行政の現場で着実に実績を積み重ねていきました。 この期間は、彼にとって政治的な雌伏の時であると同時に、軍事や土木の実務能力を磨き上げる準備期間でもあったのです。

    事実上の追放だった二度目の遣唐使と長安での涙の再会

    天平勝宝2年(750年)、権力を握った藤原仲麻呂は、真備に対してさらなる辞令を下します。 遣唐副使への任命です。 すでに50代半ばを過ぎていた真備にとって、命懸けの航海を伴う渡唐は、事実上の体好い国外追放に他なりませんでした。それでも真備はこの役目を受け入れます。

    天平勝宝4年(752年)、真備は藤原清河を大使、大伴古麻呂らを副使とする遣唐使団の一員として、再び海を渡りました。 長安に到着した真備を待っていたのは、かつての親友、阿倍仲麻呂との再会です。 35年の時を経て、互いに白髪混じりとなった二人は手を取り合い、涙を流したといいます。 唐の高官となっていた仲麻呂は、真備たちの外交活動を全力でバックアップしました。過酷な運命の中で旧友との絆を確かめ合えたことは、真備にとって何よりの救いだったに違いありません。

    藤原清河との別れを越えて鑑真を日本へ導いた帰国航海

    この遣唐使には、もう一つ大きな目的がありました。それは、唐の高僧である鑑真の招聘です。 しかし、帰路は苦難の連続となりました。 天平勝宝5年(753年)、帰国の途についた船団を暴風雨が襲います。大使の藤原清河と、念願の帰国を志して同乗していた阿倍仲麻呂の乗る第一船は南方へ漂流し、ベトナム付近にまで流されてしまいました。彼らはついに、日本の土を踏むことは叶いませんでした。

    一方、真備が指揮する第二船には、度重なる渡航の失敗により視力を失いつつあった鑑真が乗っていました。 真備は幾多の危機を乗り越え、卓越した判断力で船を導きます。 天平勝宝6年(754年)、真備の船は奇跡的に日本への帰国を果たしました。友や上司との永遠の別れを代償にした帰還でしたが、鑑真の来日は日本の仏教界に決定的な変革をもたらすことになります。 この命懸けの功績により、真備の存在感は、彼を追放したはずの藤原仲麻呂にとっても無視できないものとなっていったのです。

    70歳にして軍学と呪術を駆使し藤原仲麻呂の乱を鎮圧した老将軍

    造東大寺長官としての復帰と恵美押勝との暗闘

    帰国後の真備は、「造東大寺長官」というポストを与えられ、大仏殿の建設プロジェクトを指揮することになりました。これは、彼の行政手腕を評価しつつも、政治の中枢からは遠ざけておきたいという藤原仲麻呂の意図による人事だったと考えられます。真備は黙々とこの巨大事業に取り組みながら、時勢の変化を注視していました。

    やがて政治情勢は複雑化します。時の天皇である淳仁天皇を後ろ盾に独裁を強める仲麻呂に対し、退位した孝謙上皇(元孝謙天皇)が反発を強め、対立構造が鮮明になったのです。 乱の直前、仲麻呂は唐風の「恵美押勝(えみのおしかつ)」という名に改名し、自らの権威を誇示しようとしました。これに対し、孝謙上皇はかつての師である真備を呼び戻します。 私が頼れるのは、そなたしかいない。 真備は上皇の信頼に応え、仲麻呂に対抗するための参謀として動き出します。

    乱勃発により帝から全権を託された70歳の総司令官

    天平宝字8年(764年)、ついに藤原仲麻呂(恵美押勝)が挙兵しました(藤原仲麻呂の乱)。 仲麻呂軍は精強であり、初期の兵力では朝廷軍を上回っていました。朝廷内が動揺する中、孝謙上皇は吉備真備を「中衛大将(ちゅうえいたいしょう)」に任命し、軍事の全権を委ねました。中衛大将とは、宮中の警備を担う部隊のトップであり、事実上の総司令官です。

    このとき、真備は数えで70歳になっていました。 通常であれば隠居して余生を過ごしているはずの老学者が、国家の命運を賭けた内戦の指揮を執ることになったのです。しかし真備の眼光は鋭く、その頭脳には唐で学んだ知識が詰まっていました。

    実戦的な兵法と心理戦で敵を追い詰めた逆転の勝利

    真備の指揮は、極めて冷静かつ的確でした。 彼は唐で学んだ『孫子』などの兵法を応用し、敵の動きを先読みしました。仲麻呂軍が再起を図るため、東国へ逃れようとしていると察知するや、真備はすかさず別働隊を派遣し、交通の要衝である勢多橋(せたのはし/現在の瀬田の唐橋)を焼き落とさせたのです。 退路を断たれた仲麻呂軍は行き場を失い、琵琶湖の西岸へと追い込まれていきました。

    また、一部の研究では、真備が学んだ天文学や陰陽道の知識が、天候予測や情報戦において何らかの役割を果たした可能性も指摘されています。 戦いは勢いと機を見るにあり。 真備の老獪な采配の前に、仲麻呂軍は次々と撃破され、瓦解していきました。かつて自分を左遷し、追いやった最大の政敵を、真備は自らの知力と武略によって完全に打ち破ったのです。

    右大臣として道鏡政権を支え光仁天皇即位を見届けた晩年

    学者出身として初の右大臣就任と道鏡との協力関係

    藤原仲麻呂の乱が鎮圧されたことで、孝謙上皇(称徳天皇)の政権は盤石なものとなりました。 この功績により、真備は右大臣に任命されます。地方豪族の出身者が大臣の位に上り詰めるのは、日本の歴史上、極めて稀な快挙でした。

    この時期、政権の実力者として台頭していたのが、僧侶の弓削道鏡です。 称徳天皇の深い寵愛を受けた道鏡は、法王として絶大な権力を振るいましたが、真備は道鏡と対立することなく、実務面で政権を支え続けました。 道鏡が宗教的な権威を担う一方、真備は行政や軍事の実務トップとして機能するという役割分担があったと考えられます。真備はあくまで天皇に忠実な官僚として、不安定な政権が崩壊しないよう、老骨に鞭打って支え続けたのです。

    称徳天皇崩御後の藤原永手らとの駆け引きと光仁天皇の即位

    神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御すると、再び深刻な後継者争いが勃発します。 独身だった女帝には子供がおらず、皇位継承は混迷を極めました。 このとき、藤原永手らは天智天皇系の白壁王(のちの光仁天皇)を擁立しようと動きました。一方、真備は天武天皇系の皇族である文室浄三(ふんやのきよみ)や文室大市(ふんやのおおいち)を推したという説も伝わっていますが、真相は定かではありません。

    政治的な駆け引きの結果、最終的に白壁王が光仁天皇として即位しました。 真備が推したとされる候補は敗れましたが、彼はこの決定に従い、新天皇の即位を見届けました。長きにわたり天武天皇系の皇統に仕えてきた真備にとって、天智天皇系への皇統転換は、一つの時代の終わりを意味していたのかもしれません。

    政界引退と静かな最期に残された吉備の名

    光仁天皇の即位後、真備は自らの役割を終えたと悟ったのか、政界からの引退を決意しました。 朝廷側は慰留しましたが、真備の意志は固く、官職を辞して隠居生活に入ります。 そして宝亀6年(775年)、吉備真備はその生涯を閉じました。享年、数え年で81歳。平均寿命が短いこの時代において、驚異的な長寿でした。

    彼が残した功績は、故郷にも深く刻まれています。 彼が生まれたとされる備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市)周辺には、昭和に入ってから彼にちなんで命名された真備町という地名が残り、多くの史跡と共にその遺徳を伝えています。 地方から世界へ飛び出し、知識で国を救った吉備真備の生涯は、1200年以上の時を超えて、今なお人々に語り継がれているのです。

    吉備真備をもっと知るための本・資料ガイド

    吉備真備の実像は、歴史書の中だけでなく、物語や伝説としても非常に魅力的です。ここでは、真備をより深く、多角的に知るための3つの作品を紹介します。

    ボストン美術館所蔵の傑作『吉備大臣入唐絵巻』

    鎌倉時代初期に描かれたとされる『吉備大臣入唐絵巻』は、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されている日本美術の傑作です。 この絵巻では、唐に渡った真備が、唐人たちから無理難題を吹っかけられる様子が描かれています。「『文選』を解読せよ」「囲碁で勝負せよ」といった試験に対し、真備は鬼となった阿倍仲麻呂の霊の助けを借りて、空を飛んだり、碁石を飲み込んで証拠隠滅したりと、とんでもない術を使って勝利します。

    かつては日本にあったものの明治時代に海外へ流出したため、日本の国宝には指定されていませんが、その歴史的・美術的価値は国宝級です。 一見、荒唐無稽なお伽噺ですが、「当時の日本人にとって、真備がいかに『人知を超えた知識人』に見えていたか」を象徴しています。彼が持ち帰った知識があまりに高度で先進的だったため、後世の人々はそれを「魔法」のように感じたのでしょう。

    里中満智子『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語』に見る師の姿

    里中満智子氏による漫画『女帝の手記 孝謙・称徳天皇物語』(中公文庫など)は、孝謙天皇(称徳天皇)を主人公に据えた歴史大作です。 この作品の中で、吉備真備は若き日の阿倍内親王(孝謙)の教育係として登場し、生涯を通じて彼女を支える父代わりのような存在として描かれています。

    政治的な野心よりも、教え子である女帝を守るために戦う真備の姿は、非常に人間臭く、感動的です。 特に、藤原仲麻呂の乱での老将軍としての活躍や、道鏡との微妙な距離感など、歴史の空白部分を埋める解釈が秀逸です。堅物な学者というイメージを一新し、情に厚く、芯の強い真備像に出会いたい人には最適な一冊です。

    学者としての実像を解く繁田信一『陰陽師の起源』

    真備が「陰陽師の祖」とされる理由を、学術的に解き明かしたのが繁田信一氏の『陰陽師の起源』(角川ソフィア文庫)です。 安倍晴明などのイメージが強い陰陽道ですが、本書では、そのルーツが吉備真備によって唐から持ち帰られた知識にあることを論じています。

    真備が学んだ『三略』『六韜』などの兵法書の中に、占術や呪術的な要素(太一・遁甲など)が含まれており、真備はこれらを魔法としてではなく、軍事作戦を有利に進めるための合理的なデータ分析技術として運用していたという視点は非常にスリリングです。 伝説上の魔法使いではなく、最先端の科学技術者としての吉備真備の実像を知りたい方におすすめの研究書です。

    実力で時代を切り拓いた学者宰相である吉備真備の生き方

    奈良時代という激動の時代を、知識という武器一つで渡り歩いた吉備真備。 地方豪族から出発し、二度の渡唐で世界の最先端に触れ、最後は国の最高権力者にまで上り詰めたその生涯は、まさに立身出世の極みでした。

    しかし、彼の人生を振り返ると、そこにあるのは単なる個人的な栄達への欲求だけではありません。 学んだことを国のために使う。 その強烈な公的使命感こそが、彼を突き動かしていた原動力でした。左遷されても地方行政で実績を残し、70歳を過ぎて戦場に立ち、道鏡政権下でも実務を全うした姿からは、私利私欲を超えた官僚としての矜持が伝わってきます。

    現代の私たちにとって、吉備真備の生き方は、単なる勉学の勧め以上の意味を持っています。 それは、家柄や前例が幅を利かせる社会であっても、圧倒的な専門性と実務能力があれば壁を突き破れるという実力主義の希望であり、異文化の知識を日本の現実に適応させる柔軟さの重要性です。 閉塞感のある時代だからこそ、知識と行動力で運命を切り拓いた真備の姿は、今なお色褪せない輝きを放っているのです。

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