MENU

貝原益軒とは誰?学問・健康・夫婦愛に生きた日本のアリストテレスの生涯

こんにちは!今回は、江戸時代を代表する儒学者・本草学者であり、『養生訓』の著者としても名高い 貝原益軒(かいばら えきけん) についてです。

健康法や教育論を分かりやすい言葉で説き、庶民にも広く学問を広めた益軒。その生涯をたどりながら、彼が日本の知的発展に与えた影響を詳しく見ていきましょう!

目次

福岡藩士の家に生まれた神童時代

名門・福岡藩士の家に生まれた益軒の出自

貝原益軒(かいばら えきけん)は、1630年(寛永7年)に福岡藩士の家系に生まれました。彼の家は代々福岡藩に仕え、武士としての伝統を持つ家柄でした。福岡藩は豊前国中津から筑前国福岡に移封された黒田長政によって開かれた藩であり、初代藩主のもとで武士の教養や儒学の学問が重視されていました。

益軒の父・貝原寛斎も武士でありながら、学問に対する関心が深く、息子にも幼少のころから教育を施しました。母についての詳細は伝わっていませんが、武家の家風に則り、幼い益軒に礼儀作法や基本的な読み書きを教えたと考えられます。当時の武士の子供たちは通常、10歳前後から本格的な学問を学び始めるのが一般的でしたが、益軒はそれよりもはるかに早く書物に親しみ、文字を自在に扱えるようになりました。

また、福岡藩では黒田家の家臣を対象とした学問所があり、益軒も幼少期からそこで漢籍を学びました。しかし、彼の学問への情熱は並外れており、単なる武士の教養としての学びにとどまらず、より広い学問の世界へと強く興味を持つようになりました。名門の家柄に生まれたものの、彼の関心は武芸や戦の技術よりも、知の探究へと向かっていったのです。

幼少期から驚異的な読書量で「神童」と称される

益軒は幼いころから読書に没頭し、周囲から「神童」と称されるほどの才能を発揮しました。特に漢籍に対する理解が早く、5、6歳のころにはすでに『論語』や『孟子』を読み始めていたと伝えられています。通常、これらの書物は10代半ば以降に学ぶ内容であり、それを幼少期に理解していたことは驚異的でした。

彼は読んだ書物を単に暗記するだけでなく、その内容を自分なりに解釈し、周囲の大人に対して意見を述べることもありました。ある日、家族の前で『孟子』の一節について自らの考えを述べたところ、大人たちが感嘆し、「この子はただものではない」と驚いたといわれています。このような逸話からも、彼がいかに幼少期から鋭い思考力を持ち、読書を単なる知識の吸収ではなく、思索の手段として活用していたかがわかります。

また、彼は読むだけでなく、書くことにも早くから関心を持ちました。10歳になるころには、自ら読んだ書物の内容をまとめ、感想を書き記す習慣を持っていました。これは後の膨大な著作を生み出す基盤となったと考えられます。当時の武士の子供は、剣術や武道の修練にも励むのが普通でしたが、益軒はそれ以上に学問に時間を費やし、日々書物を読み漁る生活を送っていました。

学問への情熱を燃やし、独学で知識を吸収

益軒は正式な教育機関だけでなく、独学によっても知識を吸収していきました。当時、福岡藩では朱子学が奨励されており、益軒も藩の学者から朱子学を学びました。しかし、彼は朱子学だけにとどまらず、さまざまな分野に興味を持つようになり、自ら書物を集めて独学を続けました。

彼が特に関心を持ったのは、本草学(薬学)や医学、地理学、歴史などでした。本草学とは、植物や鉱物、動物を薬として利用する学問であり、益軒はこの分野に強い興味を抱き、後に『大和本草』や『養生訓』を執筆するきっかけとなります。彼は幼少期から「人の役に立つ学問」に価値を見出しており、単に知識を蓄えるだけでなく、それを社会に役立てることを意識していました。

また、益軒は学問をより深めるために、他藩の学者や知識人との交流を求めるようになります。福岡藩内にとどまらず、京都や長崎に伝わる最新の学問に関心を寄せ、どのようにすればより多くの知識を得られるかを模索しました。当時の長崎は海外との交易が盛んであり、西洋の医学や本草学の知識が伝わってきていました。益軒はこのような新しい学問に強い関心を抱き、後に長崎や京都へ遊学する道を選ぶことになります。

こうして、幼少期から読書と独学を続けた貝原益軒は、やがてその知識を活かして多くの著作を生み出し、学問の世界で名を成していくことになります。彼の学問への情熱は少年時代からすでに燃え上がっており、その後の人生においても決して衰えることはありませんでした。

若き日の挫折と浪人生活への転落

18歳で福岡藩に仕官するも、思うようにいかない日々

貝原益軒は、幼少期から学問に秀でた才能を発揮し、「神童」と称されるほどの知識を蓄えていました。その才能が評価され、1648年(慶安元年)、18歳のときに福岡藩に仕官することになります。武士の家に生まれた者として、藩に仕えることは当然の道であり、益軒も学問を活かして藩政に貢献することを期待されていました。

しかし、益軒の理想とは裏腹に、藩士としての生活は思うようにいかないものでした。当時の福岡藩は、黒田家による厳格な体制が敷かれており、武士の役割は軍事や行政に重点が置かれていました。益軒のように学問を重んじる者が活躍する場は限られており、彼の能力を発揮できる機会はほとんどありませんでした。

また、武士としての務めには剣術や軍学の習得が求められましたが、益軒は学問に没頭するあまり、武芸にはさほど関心がありませんでした。周囲の藩士たちが武道に励むなか、益軒は書物に向かうことを好み、それが周囲との軋轢を生む要因にもなりました。彼の学問への熱意は評価される一方で、藩の実務においては浮いた存在となり、思うように活躍できない日々が続きました。

藩主の怒りを買い、浪人生活を余儀なくされる

益軒の学問に対する姿勢や、武士としての役割に対する意識の違いは、やがて藩の上層部との摩擦を生むことになります。特に、藩主・黒田光之のもとで仕えていた際、彼の考え方が受け入れられず、次第に立場が危うくなっていきました。

福岡藩では、朱子学を基盤とした儒学が重視されていましたが、益軒はそれにとどまらず、さまざまな分野の学問を独自に探求していました。彼は藩の方針に従うよりも、自らの知的探求を優先し、幅広い学問に没頭するあまり、藩の意向に背くような態度をとることもあったと考えられます。この姿勢が、藩の上層部から問題視されるようになり、ついに藩主の怒りを買うことになってしまいました。

結果として、益軒は仕官してから数年後に職を解かれ、浪人生活を余儀なくされました。武士の身分を持ちながらも、藩の庇護を受けることができなくなったのです。当時、武士が浪人になることは非常に厳しい状況を意味していました。収入がなくなるだけでなく、社会的な立場も失い、生活の基盤が揺らぐことになります。多くの浪人は、他藩への再仕官を目指すか、町人として生計を立てる道を探すしかありませんでした。

益軒も一時は失意に沈んだと考えられます。しかし、彼はこの苦境を学問を深める機会と捉え、新たな道を模索することを決意しました。

挫折を糧に、新たな道を模索する益軒

浪人となった益軒は、福岡を離れ、各地を巡りながら学問の道を歩むことになります。多くの武士にとって、浪人生活は社会的な挫折を意味しましたが、益軒にとってはむしろ自由な学問探求の始まりでした。藩に縛られることなく、さまざまな分野の知識を吸収する機会を得たのです。

この時期に、彼は本格的に医学や本草学(薬学)に関心を持ち始めました。もともと幅広い学問に興味を抱いていた益軒でしたが、浪人生活を機に、実生活に役立つ学問をより深く探求するようになります。当時、医術は武士の身分に関わらず、多くの人々に必要とされる知識であり、益軒はそれを通じて社会に貢献する道を模索しました。

また、彼はこの時期に京都へ向かい、多くの学者たちと交流を深めるようになります。京都は学問の中心地であり、松永尺五や木下順庵といった当代一流の儒学者たちが活躍していました。彼らとの出会いが、益軒の学問に大きな影響を与え、彼の思想をさらに深化させることになります。

このように、18歳で仕官するも思うようにいかず、浪人生活に転落した益軒でしたが、その挫折を乗り越え、新たな学問の道を切り開いていきました。彼にとってこの浪人時代は、後の大著『養生訓』や『筑前国続風土記』を生み出すための大きな転機となったのです。

浪人時代が生んだ医学と学問への目覚め

藩を離れたことで自由に学問を追求する機会を得る

福岡藩を離れ、浪人となった貝原益軒にとって、この時期は大きな転機となりました。仕官していた頃は藩の方針に従う必要があり、学問の探求にも制限がありました。しかし、浪人となったことでその束縛から解放され、自らの興味に従って自由に学ぶことができるようになったのです。

益軒はもともと朱子学を中心とした儒学に精通していましたが、浪人時代を機に、より幅広い分野の学問へと関心を広げていきました。特に彼が力を入れたのが医学や本草学(薬学)でした。学問の中心地である京都に滞在し、優れた学者たちと交流を持ちながら、医術や薬草に関する知識を深めていきます。

また、浪人として各地を巡るなかで、益軒はさまざまな階層の人々と接する機会を得ました。これにより、庶民の暮らしや健康に対する考え方を知ることができ、医学がいかに人々の生活と密接に関わっているかを実感します。彼は単なる学問として医学を学ぶのではなく、実際に人々の役に立つ知識として応用することを強く意識するようになりました。

このように、浪人となったことで益軒はより自由に学問を探求することができるようになり、その後の彼の思想や著作に大きな影響を与えることとなったのです。

本草学(薬学)を学び、医学への関心を深める

本草学とは、植物・鉱物・動物などの自然物を薬として利用するための学問であり、当時の医学の重要な分野の一つでした。江戸時代には、病気の治療や健康維持のために漢方薬が広く用いられており、本草学の知識を持つことは医者だけでなく、一般の人々にとっても重要でした。

益軒はこの本草学に強い関心を持ち、京都や長崎で本草学に詳しい学者たちと交流を深めます。特に、向井元升や稲生若水といった医師・本草学者との交流を通じて、より実践的な医学知識を身につけていきました。向井元升は江戸幕府の医官として活躍し、西洋医学の知識にも通じていたため、益軒にとって貴重な学びの機会となりました。

また、当時の日本では中国の薬学書である『本草綱目』(明の李時珍による著作)が広く読まれていました。益軒もこの書物を学びながら、日本の気候風土に適した独自の薬学体系を築くことに関心を持つようになります。この考え方は、後に彼が著す『大和本草』の基盤となりました。

益軒は単に書物を読んで知識を得るだけでなく、自ら野山を歩き回り、薬草を観察することで実地の学問として本草学を探求しました。こうした実践的な学びの姿勢は、彼の学問の特徴の一つとなり、その後の著作にも色濃く反映されていきます。

当時の医術と養生法に触れ、『養生訓』の原点を形成

本草学を学ぶなかで、益軒は医術そのものにも深い関心を抱くようになります。当時の医術は、鍼灸や漢方薬を用いた治療が中心でしたが、西洋医学の影響も徐々に広まりつつありました。長崎ではオランダ医学の知識が伝えられ、蘭学者たちが解剖学や解剖生理学を学んでいました。益軒もこうした西洋医学の知識に触れる機会を得た可能性があります。

また、この時期に彼が関心を持ったのが「養生(ようじょう)」の概念でした。養生とは、病気になってから治すのではなく、普段から健康を維持することで病気を予防するという考え方です。益軒は、医者にかかる前に自らの生活習慣を整えることが重要であると考え、どのようにすれば健康を維持できるのかを研究するようになりました。

この考え方は、後に彼が著す『養生訓』の基本理念となります。『養生訓』は、医学書というよりも、日常生活のなかで実践できる健康法をまとめた実用書であり、益軒の独自の視点が反映された著作です。彼がこのような視点を持つようになったのは、浪人時代にさまざまな医術や養生法に触れ、実際にそれを試しながら学びを深めたことが大きな要因でした。

このように、浪人生活を送るなかで益軒は本草学や医術に関する知識を深め、単なる学問としてではなく、人々の健康を支える実践的な知識として役立てることを考えるようになりました。この時期の学びが、後の彼の著作に大きな影響を与え、江戸時代における健康思想の発展に寄与することとなるのです。

京都遊学と学問の深化

京都で松永尺五や木下順庵らと交流し、知見を広げる

浪人となり、自由に学問を探求する道を選んだ貝原益軒は、さらに知識を深めるために京都へと向かいました。京都は当時、日本の学問と文化の中心地であり、多くの優れた学者が集まる場所でした。ここで益軒は、松永尺五(まつなが せきご)や木下順庵(きのした じゅんあん)といった著名な学者と交流し、学問の幅をさらに広げていきます。

松永尺五は、林羅山の弟子であり、江戸時代初期の朱子学の大家として知られる人物でした。彼は益軒にとって重要な師であり、朱子学を中心とした儒学の深い教えを受ける機会を提供しました。一方、木下順庵は後に徳川綱吉の侍講(学問を教える役職)となるほどの学者であり、益軒にとって刺激的な存在でした。木下順庵の学風は、朱子学にとどまらず幅広い知識を取り入れるもので、益軒の知的好奇心をさらに高めるきっかけとなりました。

また、この時期には山崎闇斎(やまざき あんさい)とも接触したと考えられています。山崎闇斎は、朱子学の一派である崎門学を創始した学者であり、神道思想と儒学を融合させた独自の学問を展開しました。益軒はこのような多様な思想に触れることで、朱子学の枠にとらわれない独自の学問体系を築く下地を養っていったのです。

朱子学を学び、独自の学問体系を構築

京都での遊学を通じて、益軒は朱子学の体系を本格的に学びました。朱子学は、宋の時代に朱熹(しゅき)によって確立された儒学の一派であり、日本の武士社会でも重要な学問とされていました。福岡藩時代にも朱子学には触れていましたが、京都ではさらに高度な学びを得ることができました。

朱子学の中心概念である「理」と「気」の思想は、益軒の学問観にも影響を与えました。「理」とは万物を支配する普遍的な法則であり、「気」はそれを構成する要素です。益軒はこの考え方を応用し、自然界の秩序や人間の生き方に関する独自の理論を展開していくようになります。

しかし、彼は単に朱子学を学ぶだけでなく、それを実生活や医学に応用する道を模索しました。たとえば、養生(健康維持)の観点から、朱子学の「性即理(せいそくり)」という考えを取り入れ、人間の本質を自然の理と調和させることが重要であると考えました。この思想は後の『養生訓』にも反映されており、益軒が健康に関する書物を執筆する際の重要な基盤となりました。

また、朱子学は倫理や道徳を重視する学問でもあり、益軒はそれを日本の社会にどのように適用できるかを模索しました。特に「忠孝」の概念には関心を持ち、日本の武士道との関係を探求する姿勢も見せました。益軒は、学問が単なる知識の習得ではなく、社会に役立つものであるべきだと考えており、これは彼の著作活動にも大きく影響を与えています。

幅広い学問を吸収し、名を高める

京都での学びは、益軒にとって単なる知識の蓄積にとどまらず、彼の学問的視野を大きく広げるものでした。彼は朱子学だけでなく、医学、本草学(薬学)、歴史学、地理学など幅広い分野の学問に触れました。こうした多岐にわたる知識の探求は、後に彼が『筑前国続風土記』や『大和本草』といった著作を執筆する際の土台となります。

また、京都での学問的交流を通じて、益軒の名は徐々に広まり、多くの学者や知識人から一目置かれる存在となっていきました。学問の世界では、知識を持つだけでなく、それをいかに活用し、社会に貢献できるかが重要とされます。益軒はまさにその実践者であり、知識を蓄えるだけでなく、それを生かす方法を常に考えていました。

さらに、京都での生活を通じて、彼は書物の収集にも力を入れるようになりました。当時の学者は、限られた書物の中で学問を深めるしかありませんでしたが、益軒はできるだけ多くの書物を手に入れ、それを自らの研究の材料としました。彼は自分の蔵書をもとに独学を続け、多くの分野の知識を整理し、後の著作活動に活かしていきます。

このように、京都での遊学は益軒にとって大きな成長の機会となりました。松永尺五や木下順庵といった優れた学者たちとの交流を通じて、彼の学問はさらに深化し、独自の学問体系を築く道を歩み始めたのです。彼は単なる学者ではなく、知識を社会に還元する実践的な知の探求者となり、その後の人生においても学び続ける姿勢を貫いていきました。

福岡藩への復帰と『黒田家譜』の編纂

再び福岡藩に仕え、教育政策に関与

京都での遊学を経て、多くの学問を吸収した貝原益軒は、福岡藩からの召還を受け、再び藩に仕えることになりました。時は1674年(延宝2年)、益軒が44歳の頃のことでした。かつて若き日に挫折を味わい浪人となった彼でしたが、学問の実績が評価され、再び仕官の道が開かれたのです。

この復帰の背景には、当時の福岡藩主・黒田光之の方針がありました。光之は藩政の安定と学問の奨励に力を入れており、益軒の持つ幅広い知識を藩のために活用しようと考えたのです。益軒は藩の教育政策に関与し、若い藩士たちに学問の重要性を説く役割を担いました。福岡藩では儒学が重んじられており、益軒もまた朱子学を基盤としながらも、実学としての学問の大切さを説き、武士たちに知識を持つことの重要性を説きました。

さらに、益軒は藩の教育機関である藩校の整備にも関与し、藩士たちがより良い学問を学べる環境を整えるよう努めました。彼の教育に対する姿勢は、単なる暗記や儒学の知識の詰め込みではなく、「実践的に活かせる知識を持つこと」が重要であるという考えに基づいていました。この考え方は後の著作活動にも影響を与え、益軒は生涯にわたって教育の普及に尽力することになります。

藩命により『黒田家譜』を編纂し、歴史研究にも貢献

福岡藩に復帰した益軒は、藩主・黒田光之の命を受けて『黒田家譜』の編纂を担当することになりました。『黒田家譜』は、黒田家の歴史を詳細に記録することを目的とした歴史書であり、益軒はこれを編纂することで、歴史研究にも大きな貢献を果たしました。

この編纂作業は膨大なものであり、黒田家の初代・黒田孝高(官兵衛)から藩政の現状に至るまでの記録をまとめる必要がありました。益軒は過去の文献を丹念に調査し、藩の古文書や記録を精査しながら、歴史的事実を正確に整理しました。また、単なる年表や出来事の羅列ではなく、黒田家の治世や政策、武士たちの生き方についても詳細に考察を加え、歴史の流れをわかりやすくまとめました。

益軒はこの作業を通じて、歴史を単なる過去の記録ではなく、「現在に活かすべき教訓」として捉えていました。彼は『黒田家譜』のなかで、藩政のあり方や、武士としての生き方についても論じており、これが後の時代の教育や統治に影響を与えることとなります。この歴史観は、彼の他の著作にも通じるものがあり、単なる学者ではなく、社会に貢献する知識人としての姿勢がうかがえます。

藩士としての地位を確立しつつ、学問の普及に努める

『黒田家譜』の編纂という大仕事を成し遂げた益軒は、その学識と功績が認められ、福岡藩内で確固たる地位を築くこととなりました。藩主・黒田光之や藩の上層部からも信頼され、学問を広める役割を担うことになります。

特に、益軒は学問の普及を重視し、武士だけでなく、町人や農民にも知識が必要であると考えていました。彼は書物を著し、それを広く一般の人々にも読めるよう工夫しました。この思想は、後に彼が執筆する『和俗童子訓』にもつながり、武士だけでなく庶民の教育にも関心を持つようになっていきます。

また、益軒は学問だけでなく、実生活に役立つ知識を広めることを重視しました。彼が晩年に執筆する『養生訓』は、まさにこの考えを実践したものといえます。健康を維持するための養生法や生活習慣の重要性を説いたこの書物は、江戸時代の人々に広く受け入れられ、現代に至るまでその教えが生き続けています。

こうして、浪人生活を経て福岡藩に復帰した益軒は、藩政や教育に貢献しながら、学問を社会に広めるという重要な役割を果たしていきました。単なる藩士としてではなく、知識人としての使命を果たすことで、彼は江戸時代の学問の発展に大きく寄与することとなったのです。

夫婦で歩んだ学問と旅の記録

22歳年下の妻・東軒との結婚と支え合う日々

貝原益軒は、学者としての生涯を歩むなかで、22歳年下の妻・貝原東軒(かいばら とうけん)と結婚しました。東軒の本名は詳しく伝わっていませんが、彼女は夫の学問を深く理解し、生涯にわたって支え続けた賢夫人として知られています。益軒が結婚したのは、彼が50歳を超えたころとされ、当時としては晩婚でした。

当時の武士や学者の間では、夫が研究や政治に専念し、妻が家を守るという役割分担が一般的でした。しかし、益軒と東軒の関係は単なる夫婦の枠を超え、学問をともに追求する「知的な伴侶」としての側面が強かったと考えられています。益軒は長年にわたり数多くの著作を執筆しましたが、それを支えたのが東軒でした。彼女は益軒の書物の筆写を手伝い、読書の感想を述べ、時には意見を交わすこともあったと伝えられています。

また、益軒は自らの著作のなかで、東軒について「賢妻であり、学問に理解のある女性」と評しています。江戸時代の女性は学問に触れる機会が限られていましたが、東軒は例外的な存在であり、益軒の学問を深く理解し、それを支えたことがわかります。夫婦の強い絆と相互理解が、益軒の長年の執筆活動を支えた重要な要素となったのです。

学問の支えとなった東軒との旅の記録

益軒は生涯にわたり多くの書物を執筆しましたが、そのなかには各地を巡る旅の記録も含まれています。彼の旅行記のなかでも有名なのが『西遊記』であり、これは江戸時代の九州各地の風土や文化を詳細に記録した貴重な書物です。この旅には東軒も同行し、夫婦で学問を追求しながら各地を巡ったことがわかっています。

江戸時代の旅は現代と違い、決して容易なものではありませんでした。街道を徒歩で移動し、宿場町に泊まりながらの長旅は、特に女性にとって大きな負担となるものでした。しかし、東軒はそうした苦労をいとわず、益軒の旅に付き添い、彼が見聞を広めることを支えました。旅の道中では、各地の植物や風土を観察し、それを益軒の本草学研究に役立てることもありました。

また、益軒は旅先で医者や学者と積極的に交流し、新たな知見を得ることに努めました。長崎ではオランダ医学に関心を持つ学者たちと議論し、京都では儒学の大家と交流するなど、旅を通じて得た知識が彼の学問に大きな影響を与えました。東軒はこうした旅をともにすることで、益軒の学問的成長を間近で支え続けたのです。

夫婦で共に過ごした穏やかな晩年

益軒は70歳を過ぎてもなお執筆活動を続け、多くの著作を世に送り出しました。しかし、彼の晩年は単なる執筆生活ではなく、東軒とともに静かで充実した時間を過ごすことにも重きを置いていました。江戸時代の平均寿命は50歳前後といわれるなかで、益軒は80歳を超える長寿を保ちました。その背景には、健康に対する深い知識と、穏やかで安定した家庭生活があったと考えられます。

東軒もまた、晩年まで益軒を支え続けました。益軒は『養生訓』のなかで、「健康を保つには心穏やかに過ごすことが大切である」と述べています。これは彼自身の実践でもあり、夫婦での平穏な生活が長寿につながったことを示唆しています。益軒は東軒との生活を通じて、精神の安定が健康に与える影響を身をもって感じていたのかもしれません。

晩年の益軒は、教育や健康に関する書物を精力的に執筆しながらも、家庭のなかで東軒と穏やかな時間を過ごすことを大切にしました。夫婦でともに学び、支え合いながら過ごした日々は、彼の長年の研究の成果を形にする上で欠かせないものでした。そして、その知識は後世に受け継がれ、江戸時代のみならず現代においても価値あるものとして読み継がれています。

70歳からの執筆活動と『養生訓』の誕生

70歳を過ぎても衰えない学問への情熱

貝原益軒は70歳を迎えてもなお、その学問に対する情熱を失うことはありませんでした。江戸時代において70歳を超えること自体が稀であり、ましてやこの年齢で新たな書物を次々と執筆することは驚異的なことでした。彼の長寿の秘訣は、まさに後に著す『養生訓』の内容そのものであり、健康を維持するための生活習慣や考え方を自ら実践していたことにありました。

益軒は晩年に至るまで、毎日の規則正しい生活を心がけ、適度な運動や食生活の管理に努めていました。また、精神的な安定を重要視し、心を乱すことなく平穏な気持ちで日々を過ごすことを大切にしていました。彼は「怒りや悲しみなどの極端な感情は、健康に悪影響を及ぼす」と考え、日々の暮らしのなかで冷静さを保つよう努めました。この考え方は『養生訓』のなかでも強調されており、現代のストレス管理の概念にも通じるものがあります。

また、彼は読書や執筆を続けること自体が健康の秘訣であるとも考えていました。知的活動を続けることで、老化を防ぎ、心身ともに活力を維持することができるという信念を持っていたのです。そのため、70歳を超えてもなお筆を取り続け、膨大な量の書物を著し続けました。

83歳で執筆した『養生訓』が大ヒット

益軒の晩年の代表作として最も有名なのが、『養生訓』です。これは彼が83歳のときに執筆した書物で、当時としては異例の高齢での著作でした。『養生訓』は単なる医学書ではなく、長寿と健康を保つための生活の知恵をわかりやすく記した実用書でした。江戸時代の人々にとって、病気になってから治療するのではなく、日々の生活のなかで健康を維持することが重要であるという考え方は革新的なものでした。

この書のなかで益軒は、「養生(健康管理)には日々の習慣が大切であり、病気になってから慌てて治療をするのでは遅い」と説いています。食事、睡眠、運動、心の持ち方など、現代にも通じる健康法が数多く紹介されており、その実践的な内容が多くの人々に受け入れられました。たとえば、「腹八分目を心がける」「適度な運動を続ける」「過度な感情の起伏を避ける」といった教えは、今日の健康管理にも通じる考え方です。

『養生訓』はそのわかりやすい内容と実践的な教えによって、武士や町人など幅広い層に受け入れられ、大きな反響を呼びました。特に、当時の医者にかかることが難しかった庶民にとって、病気を予防するための具体的な指針を示したこの書物は、非常に役立つものでした。出版後、全国に広まり、多くの人々がこの書を手に取り、日常生活に活かすようになりました。

江戸時代に巻き起こった健康ブーム

『養生訓』の出版は、江戸時代の健康思想に大きな影響を与えました。それまで、医療は医者に頼るものという考えが一般的でしたが、この書物をきっかけに「自らの健康は自ら守る」という意識が広まりました。これが、江戸時代における健康ブームの一因となったのです。

また、当時の江戸では長寿を願う風潮が広まりつつあり、健康に関する知識への関心が高まっていました。都市部では、漢方医学や本草学の研究が進み、庶民の間でも薬草や食生活に気を配る習慣が広まりつつありました。こうした社会的背景のなかで、『養生訓』は時代のニーズにぴったりと合致し、爆発的に普及していったのです。

さらに、この書の影響は日本国内にとどまらず、後の時代にも受け継がれていきました。明治時代になると、西洋医学が本格的に導入されましたが、『養生訓』に書かれた予防医学の考え方は、近代医学にも通じるものが多く、現在でもその教えは広く読まれています。

こうして、益軒は70歳を超えてもなお執筆を続け、83歳で『養生訓』という大ベストセラーを生み出しました。その知恵と実践的な教えは、江戸時代の人々だけでなく、現代に生きる私たちにとっても価値あるものとして、長く受け継がれているのです。

知の巨人が遺した最晩年の功績

教育の普及に尽力し、和文での著作を推奨

貝原益軒は晩年に至るまで、学問の普及に尽力しました。彼は江戸時代の教育を重視し、「学問は一部の特権階級だけのものではなく、より多くの人々に広めるべきである」と考えていました。そのため、学者や武士だけでなく、町人や庶民にも理解しやすい書物を著すことに力を入れるようになります。

それまでの学問書の多くは漢文で書かれており、知識人階級にしか読めないものでした。しかし、益軒は「学問は庶民の生活にも役立つものでなければならない」と考え、和文(日本語)での著作を積極的に推奨しました。これにより、学問が庶民にも浸透し、特に道徳や健康に関する知識が広まるきっかけとなりました。

彼の著作のなかでも、『和俗童子訓』はその代表的なものです。これは子供の教育に関する書物で、儒学の教えを基にしながらも、親子の関係や子供のしつけ、学問の大切さについてわかりやすく説かれています。益軒は「子供の教育こそが、社会の発展の基礎である」と考えており、特に幼少期の教育の重要性を強調しました。この考え方は、江戸時代の寺子屋教育の発展にも影響を与え、後の日本の教育制度にもつながる思想となりました。

また、益軒は学問を学ぶ者に対し、単に知識を得るだけでなく、それを実生活に活かすことが重要であると説きました。彼の教育に対する理念は、「知識は行動を伴ってこそ意味がある」という実学の精神に根ざしており、この思想は『養生訓』をはじめとする彼の多くの著作にも反映されています。

60部270余巻に及ぶ膨大な著作の執筆

益軒の晩年の功績のひとつに、膨大な著作活動があります。彼は生涯を通じて60部270余巻にも及ぶ書物を執筆し、その内容は儒学・医学・本草学・歴史・地理など、多岐にわたりました。これは江戸時代の学者のなかでも圧倒的な執筆量であり、彼の驚異的な知的探究心を示すものです。

彼の代表作には、以下のようなものがあります。

  • 『大和本草』(1709年):本草学(薬学)の集大成であり、日本の風土に合った薬草を詳しく解説した書物。
  • 『筑前国続風土記』(1703年):福岡藩の歴史や地理、文化をまとめた書物であり、近世日本の地誌研究の先駆けとなるもの。
  • 『養生訓』(1713年):健康と長寿の秘訣を説いた書物であり、江戸時代の人々の生活に大きな影響を与えた。
  • 『和俗童子訓』(1710年):子供の教育や家庭のしつけについて記した書物で、当時の教育に関する重要な指針となった。

これらの書物は、単なる学問的研究にとどまらず、実際に人々の暮らしに役立つ実用的な知識を提供することを目的としていました。特に『大和本草』は、当時の日本における薬草学の発展に大きく貢献し、後の本草学研究の礎となりました。益軒は、日本の風土に適した薬草を紹介することで、海外の知識を取り入れるだけでなく、日本独自の医学を発展させることを目指したのです。

また、彼の著作の特徴として、難解な学問をできるだけ分かりやすく説明する工夫が見られます。これは、彼が学問の大衆化を強く意識していたことの表れであり、庶民にも親しみやすい書物を数多く残しました。その結果、彼の書物は武士や学者だけでなく、町人や商人の間でも広く読まれるようになり、学問の普及に大きく貢献しました。

84歳で生涯を閉じるも、現代まで続く影響

1714年(正徳4年)、貝原益軒は84歳でその生涯を閉じました。江戸時代において、70歳を超えること自体が珍しいなか、彼は長寿を全うし、晩年まで精力的に執筆活動を続けました。これはまさに彼が説いた「養生の教え」を実践し続けた結果であり、その健康管理の知恵が彼自身の長寿に直結したといえるでしょう。

彼の死後も、彼の著作は多くの人々に読み継がれ、江戸時代の学問の発展に大きな影響を与えました。特に、『養生訓』や『和俗童子訓』は、時代を超えて広く読まれ、日本の教育や健康観に深く根付くこととなりました。

また、益軒の学問の姿勢は、後の多くの学者に影響を与えました。彼の実学的な考え方は、蘭学者や近代医学の発展にもつながり、さらには明治時代の教育制度にも影響を及ぼしました。彼の「知識は行動と結びついてこそ価値がある」という考え方は、現代の教育や研究にも通じるものがあり、その思想は今もなお生き続けています。

益軒が生涯をかけて探求した学問は、決して一部の知識人のためだけのものではなく、庶民の生活や健康を支えるものでした。そのため、彼の著作は単なる歴史的資料としてではなく、現代においても価値あるものとして読み継がれています。彼が残した知識と教えは、江戸時代から現代へと脈々と受け継がれ、日本の文化や学問の礎のひとつとなっているのです。

『養生訓』の教えと現代医学との対比

『養生訓』に記された健康法の内容

貝原益軒が晩年に著した『養生訓』は、江戸時代における健康維持の指南書として広く読まれました。この書物は、単なる医学書ではなく、日常生活における健康管理の実践方法を説いたものであり、現代の健康法にも通じる内容が数多く含まれています。

『養生訓』の基本的な考え方は、「病気になってから治すのではなく、普段から健康を維持することが重要である」というものです。これは、現在の予防医学の考え方と非常に近いものがあります。益軒は、人々が健康で長生きするためには、日々の生活習慣を整えることが何よりも大切だと説き、以下のような具体的な健康法を示しました。

  • 食生活の管理:「腹八分目」を推奨し、暴飲暴食を戒める。消化の良い食べ物を選び、過度に刺激の強いものを避けることが健康維持につながるとした。
  • 適度な運動:体を適度に動かすことで血の巡りを良くし、老化を防ぐ。特に歩くことを推奨し、自然と触れ合うことで精神の安定にもつながるとした。
  • 精神の安定:「心の持ち方が健康を左右する」とし、怒りや悲しみといった極端な感情の起伏を避けることが、健康維持に重要であると説いた。
  • 規則正しい生活:早寝早起きを勧め、自然のリズムに合わせた生活を送ることが健康に良いとした。
  • 休息と労働のバランス:過労を避け、適度に休息を取ることで長寿を保つことができると考えた。

益軒は、こうした健康法を単なる理論としてではなく、自らの生活のなかで実践し、それをもとに『養生訓』を執筆しました。彼が84歳まで長寿を保ったこと自体が、この健康法の有効性を証明しているといえるでしょう。

現代医学との共通点と相違点

『養生訓』に書かれた内容は、現代の医学と比較しても興味深いものがあります。そのなかには、現代の健康法と共通する点も多くありますが、当時の限られた医学知識のなかで語られているため、現代の科学的視点から見ると異なる部分もあります。

共通点

  1. 予防医学の考え方:現代医学でも、「病気になってから治療するのではなく、普段の生活習慣を整えて病気を防ぐことが重要」という考えが重視されている。益軒の養生思想は、まさにこの予防医学の原点といえる。
  2. 食事の重要性:現代の栄養学でも「食べ過ぎを避け、バランスの良い食事を摂ることが健康維持に不可欠」とされており、益軒の「腹八分目」の教えと一致している。
  3. 運動の推奨:現代医学でも適度な運動が健康維持に効果的であることが科学的に証明されており、益軒が推奨した「歩くこと」の重要性は、今日でも推奨される健康法の一つである。
  4. ストレス管理:現代の医学や心理学では、ストレスが健康に与える影響が研究されており、益軒が説いた「精神の安定が健康に不可欠」という考え方と一致する。

相違点

  1. 医学的根拠の違い:益軒の健康法は、経験則や儒学的な思想に基づいており、科学的な裏付けがあるわけではない。一方、現代医学は実験や統計データに基づいて健康法を提唱している。
  2. 薬草の利用:益軒は本草学(薬学)の知識を持ち、漢方薬や薬草の利用を推奨していた。しかし、現代医学では漢方薬よりも科学的に検証された医薬品が主流となっている。
  3. 病気の原因の理解:益軒の時代には細菌やウイルスの概念がなく、病気は体内の「気」の乱れによって起こると考えられていた。現代医学では病気の多くが細菌・ウイルス・遺伝・生活習慣などによるものであることが解明されている。
  4. 医学的介入の違い:益軒は病気の治療よりも予防を重視し、医者にかかる前に自らの生活を正すことを推奨した。しかし、現代医学では早期発見・早期治療が重要視され、医療機関の利用が勧められている。

このように、『養生訓』の内容は、現代医学と多くの共通点を持ちながらも、当時の知識に基づく独自の視点を持っています。とはいえ、生活習慣の改善を通じて健康を維持するという考え方は、時代を超えて価値のあるものといえるでしょう。

今なお通用する健康の知恵とは?

『養生訓』が書かれてから300年以上が経過した現在でも、その教えは多くの人々に受け入れられています。特に、「食事」「運動」「精神の安定」といった基本的な健康管理の要素は、現代においても変わらない重要なテーマです。

現代の健康法においても、「腹八分目」「適度な運動」「ストレスを溜めない」「早寝早起き」といった生活習慣の重要性が指摘されており、これは益軒の説いた養生の考え方と一致しています。さらに、現代では科学的な根拠に基づいた健康法が発展し、食事や運動の具体的な方法がより明確になっていますが、基本的な考え方自体は『養生訓』と大きく変わっていません。

また、精神の健康が体に与える影響についても、現代医学では「心身相関」として研究が進められています。益軒が説いた「怒りや悲しみは健康に悪影響を与える」という考えは、現在のストレス管理の考え方と一致しており、科学的にも裏付けられています。

このように、300年前に書かれた『養生訓』の内容は、現代においても十分に通用する健康の知恵として生き続けています。益軒の教えは、時代を超えて私たちの生活に役立つものであり、彼の養生の考え方は、今後も健康を考えるうえで重要な指針となることでしょう。

貝原益軒の生涯とその功績を振り返る

学問を貫いた生涯とその軌跡

貝原益軒の生涯を振り返ると、幼少期から驚異的な読書量で「神童」と称され、若くして福岡藩に仕官するも挫折を経験し、浪人生活を余儀なくされました。しかし、その逆境を糧として学問の道を追求し続け、京都での遊学を経て朱子学を深め、医術や本草学(薬学)に目覚めました。

その後、福岡藩に復帰し、『黒田家譜』の編纂など藩の学問政策にも貢献しましたが、彼の真の功績は、学問を武士階級だけのものではなく、庶民にも広めることに力を注いだ点にあります。教育においては『和俗童子訓』を著し、子供の学びの重要性を説き、本草学では『大和本草』を編纂し、日本の植物学の発展に寄与しました。さらに、晩年には『養生訓』を執筆し、予防医学の概念を広めることで、江戸時代の人々の健康観に大きな影響を与えました。

益軒は一貫して「学問は人々の役に立つものでなければならない」という実学の精神を貫き、単なる知識の蓄積にとどまらず、それを社会に還元することを重視しました。この姿勢は、彼が残した膨大な著作の随所に表れています。

近世日本の学問と社会に与えた影響

益軒の著作は、江戸時代の教育や医学、歴史、地理など多方面にわたる影響を及ぼしました。彼の教育論は、寺子屋などの庶民教育にも影響を与え、日本の識字率の向上に貢献しました。また、『大和本草』は日本の本草学(薬学)の発展を促し、日本独自の薬学体系を築く礎となりました。

さらに、『養生訓』によって予防医学の概念が庶民に広まり、江戸時代の健康ブームを巻き起こしました。この考え方は、現代の健康管理にも通じるものであり、彼の思想は現代においても多くの人々に影響を与え続けています。

また、彼が学問を実生活に活かすことを重視したことは、後の蘭学者や近代医学者たちにも影響を与え、日本の学問の発展に大きく貢献しました。特に、シーボルトなどの西洋医学者が日本に本格的な医学知識を伝える際、益軒の本草学の研究がその基礎知識として活用されたことは注目に値します。

現代に生き続ける益軒の思想

貝原益軒の思想は、300年以上の時を経た現在でも、私たちの生活に大きな示唆を与えています。『養生訓』の教えは、食生活やストレス管理、運動習慣など、現代の健康管理に通じるものが多く、予防医学の先駆者として再評価されています。

また、『和俗童子訓』に見られる「幼少期の教育の重要性」は、現在の教育論にもつながる考え方です。現代の幼児教育や家庭教育の基礎となる考え方が、すでに江戸時代の益軒の時代に確立されていたことは驚くべきことです。

さらに、彼の「学問は社会に役立てるべきもの」という実学の精神は、現代の科学や技術の発展にも通じる普遍的な価値観です。知識を得るだけでなく、それをどのように社会のために活用するかという視点は、現代においても重要なテーマであり続けています。

貝原益軒は、単なる江戸時代の学者にとどまらず、日本の教育・医学・歴史研究に大きな影響を与えた知の巨人でした。彼の思想は、時代を超えて受け継がれ、今もなお私たちの暮らしに息づいています。

まとめ:貝原益軒の生涯から学ぶ知恵とその現代的価値

貝原益軒は、江戸時代の学者として幅広い分野に精通し、生涯を通じて学問の探求と普及に努めました。福岡藩士としての挫折を乗り越え、京都遊学で多様な学問に触れ、医学や本草学、教育において大きな功績を残しました。特に『養生訓』に代表される健康思想は、現代の予防医学と通じるものがあり、その教えは今日でも実践可能な内容として評価されています。

また、『和俗童子訓』に見られる教育の重要性に関する考え方や、学問を社会に還元するという姿勢は、現代の教育や研究の在り方にも通じるものがあります。益軒の生涯からは、知識を実生活に活かし続けることの大切さが学べます。

彼の思想は300年以上経った今でも色褪せることなく、私たちの生活に役立つものとして生き続けています。益軒の教えを現代に活かし、学びと健康を大切にすることで、より良い人生を送るヒントを得ることができるでしょう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次