こんにちは!今回は、織田信長の次男として生まれ、戦国から江戸初期を生き抜いた武将・大名、織田信雄(おだのぶかつ/のぶお)についてです。
二度の改易を経験しながらも、織田家を唯一存続させた彼の生涯を振り返ります。
信長の次男として生まれて
織田信雄の誕生と幼少期の足跡
織田信雄(おだのぶかつ/のぶお)は、戦国時代の名将・織田信長の次男として誕生しました。生年については諸説ありますが、一般的には1558年(永禄元年)頃と考えられています。幼名は「茶筅丸(ちゃせんまる)」とされ、幼少期の記録は少ないものの、織田家の一門として生まれた彼は、戦国武将として生き抜くための教育を受けたことは間違いありません。
信雄の生まれた織田家は、もともと尾張(現在の愛知県西部)の一豪族に過ぎませんでしたが、父・信長の驚異的な軍事的成功によって、1570年代には日本全国へ影響を及ぼす大大名へと成長していました。信雄は、そんな織田家の次男として、常に父の偉大な影響を受ける立場にありました。
幼少期の信雄についての具体的な記録はほとんど残っていませんが、織田家の家臣や重臣たちに囲まれながら育ったことは確かです。織田家では、子供たちも早い段階から政治や戦の世界に関与することが求められました。特に信長は実力主義の武将であり、たとえ自身の子供であっても能力がなければ厳しく扱うことで知られています。信雄も例外ではなく、早くから家督を継ぐための準備を進められましたが、その能力については兄・信忠と比較されることが多かったようです。
兄・信忠、弟・信孝との関係性
織田信雄には、兄・織田信忠と弟・織田信孝という二人の兄弟がいました。三兄弟の中で最も優秀と評価されていたのは長兄・信忠でした。信忠は信長の嫡男として早くから父の側に付き、戦場での指揮を経験しながら成長していきました。1572年(元亀3年)には武田信玄の侵攻に備えるために美濃・尾張方面の防衛を担当し、1575年(天正3年)には長篠の戦いに参戦するなど、実戦経験も豊富でした。
一方の信雄は、1570年代半ばになると、信長の命により伊勢国の北畠家へ養子として迎えられることになります。この措置は、織田家の支配を伊勢国に確立するためのものであり、兄の信忠のように中央の軍事や政務に関わるのではなく、地方統治の役割を担う形になりました。信長が信雄を北畠家に送り込んだ背景には、信雄を一国の主として鍛える意図があったと考えられます。
また、信雄と弟・信孝の関係も重要です。信孝は織田家の三男として生まれ、信長の影響を受けながら育ちました。彼は信雄とは異なり、比較的軍事的な才能を発揮し、1582年(天正10年)の本能寺の変後には、織田家の後継者争いで信雄と激しく対立します。信孝は柴田勝家と手を組み、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と戦う立場を取りますが、最終的には敗北し、1583年(天正11年)に自害する運命をたどりました。
信雄にとって、兄・信忠の存在は常に比較対象であり、また弟・信孝との確執は織田家内での立場を揺るがす要因となりました。織田家という巨大な家の中で、信雄は常に兄弟たちと比較されながら生きていくことを余儀なくされていたのです。
父・信長の期待と信雄の立場
信雄がどのような立場にあったのかを理解するには、父・信長の視点を考慮する必要があります。信長は実力主義を徹底する武将であり、家臣であろうと、親族であろうと、能力がない者には容赦なく厳しく接しました。
信長が最も期待していたのは、やはり嫡男の信忠でした。信忠は若い頃から戦場での経験を積み、1575年(天正3年)には家督を正式に譲られるなど、後継者として順調に育成されました。一方、信雄は1570年代に入るまで目立った功績がなく、信長からの評価はそれほど高くなかったと考えられます。そのため、1575年頃に伊勢国の北畠家へ養子入りさせられたのは、信雄を直接織田家の中心には置かず、地方統治者として育てようとする意図があったからだと考えられます。
しかし、信雄の統治能力は必ずしも高くなく、後の天正伊賀の乱(1579年)では、伊賀国を攻める際に計画の甘さが露呈し、大敗を喫することになります。この戦いの失敗により、信長は大いに激怒し、信雄の軍事的能力に疑問を抱くことになりました。結局、天正伊賀の乱の後、信長自らが伊賀国を平定するために動くことになり、信雄は父の期待を十分に満たすことができなかったのです。
信雄は、常に父・信長や兄・信忠と比較されながら生きる運命にありました。彼の立場は、信長の次男という名誉あるものではありましたが、その実力を証明できる機会が少なかったこと、また兄弟や周囲の武将たちとの関係性に悩まされ続けたことが、彼の人生を大きく左右することになります。
信長の死後、信雄は織田家の存続をかけた権力闘争に巻き込まれていくことになります。それは、彼にとって試練の連続となる道でした。
北畠家の養子となる転機
伊勢国の名門・北畠家とは?
織田信雄の人生において、大きな転機となったのが北畠家への養子入りでした。北畠家は、伊勢国(現在の三重県)を治める名門であり、南北朝時代から続く由緒ある家柄でした。
北畠家の祖先は、鎌倉時代の公卿・北畠親房(きたばたけちかふさ)にまで遡ります。親房は南朝側の重臣として活動し、子孫たちも代々南朝方の拠点である伊勢国司(こくし)を務めていました。戦国時代に入ると、北畠家は室町幕府の衰退とともに独立性を強め、一時は伊勢国の有力な戦国大名として存続していました。しかし、織田信長の勢力拡大によって、北畠家の立場は次第に危うくなっていきました。
1569年(永禄12年)、信長は伊勢侵攻を開始し、北畠家と対立します。当時の当主・北畠具教(とものり)は奮戦しましたが、織田軍の勢いを止めることはできず、北畠家は織田家の軍門に下ることになります。その際に結ばれた和平の条件の一つが、信長の次男・信雄を北畠家の養子に迎え入れることでした。これにより、信雄は形式的に北畠家の後継者となり、「北畠具豊(ともとよ)」と名を改めることになります。
この養子縁組の背景には、信長の巧妙な戦略がありました。北畠家は伊勢国で長年支配を続けてきた名門であり、完全に武力で滅ぼすよりも、信長の子を養子として送り込むことで、織田家による伊勢支配をより安定したものにしようとしたのです。信雄にとっては、これが初めての本格的な領地支配の経験となりました。
北畠家相続と改名の背景
1570年(元亀元年)、信雄は北畠家の家督を正式に継ぎ、「北畠具豊」と名乗ることになります。しかし、この相続には裏がありました。当時の当主であった北畠具教は、表向きには信雄を養子として迎え入れましたが、実際には織田家の圧力に屈した形であり、内心では信長に対する反発を抱いていました。
信長は、伊勢国を確実に掌握するためにさらなる策を講じます。それが、1575年(天正3年)に行われた北畠具教の粛清でした。信雄はこの年、織田家の家臣である滝川一益や丹羽長秀らとともに北畠家の居城・大河内城を制圧し、具教を強制的に隠居させます。さらに、具教はその後まもなく暗殺されることになります。この事件により、北畠家は完全に織田家の支配下に入り、信雄がそのまま当主の座につくことになりました。
ただし、信雄が「北畠具豊」と名乗っていたのは短期間でした。1576年(天正4年)頃には「織田信雄」に戻し、北畠家の名跡は事実上消滅しました。これは、信雄が北畠家を利用しつつも、あくまで織田家の一員であることを明確にする意図があったと考えられます。
この改名は、信長の意向を反映したものだった可能性が高いです。信長は名門・北畠家の権威を利用する一方で、織田家の支配を強固にするため、信雄が自らの本来の姓に戻ることを許可したのでしょう。こうして、信雄は正式に織田家の一員として伊勢国を治める立場となりました。
形式上の当主?信雄の実際の立ち位置
北畠家の当主となったとはいえ、信雄の立場は決して安定したものではありませんでした。彼は形式的には伊勢国の領主となりましたが、実際の統治は滝川一益や織田家の重臣たちによって支えられていました。特に滝川一益は、信長の信頼厚い武将であり、伊勢国における織田家の統治を主導する役割を担っていました。
また、信雄自身も統治者としての経験が乏しく、家臣たちをまとめる能力には限界がありました。そのため、伊勢国の支配は常に不安定な状態にあり、一部の国人領主たちは織田家の支配に反発していました。こうした状況の中で、信雄が試みた施策の一つが、独自の家臣団の形成でした。彼は北畠家旧臣の一部を取り込みつつ、新たに織田家の家臣を登用し、自らの権力基盤を築こうとしました。
しかし、信雄の統治能力の限界が露呈する出来事が、1579年(天正7年)の天正伊賀の乱でした。この戦いで信雄は、伊賀国の攻略を試みましたが、地元の豪族や忍者勢力の抵抗に遭い、大敗を喫します。この失敗は信長の怒りを買い、結果的に信雄の評価をさらに下げることになりました。
結局、伊勢国の支配は信雄だけでは維持できず、織田家の強大な軍事力によってかろうじて保たれている状態でした。信雄は形式的には領主でありながらも、実際の政治や軍事の決定権は織田家の重臣たちに委ねられていたのです。このことからも、彼が「北畠家の当主」として完全に独立していたわけではなく、あくまで織田家の勢力拡大のための道具として利用されていたことが分かります。
このように、信雄の北畠家相続は彼にとって大きな転機ではありましたが、決して自らの意志で得たものではなく、信長の戦略の一環であったことが明らかです。そして、この経験は、後に信雄が織田家の主導権争いに巻き込まれていく布石ともなりました。
伊勢国支配と軍事的挑戦
北畠家の実権掌握と信雄の手腕
織田信雄が北畠家の当主となったものの、実際の統治は一筋縄ではいきませんでした。1575年(天正3年)に北畠具教を排除し、名実ともに伊勢国の支配者となった信雄ですが、その実権は完全には確立されていませんでした。伊勢国は長らく北畠家の支配下にあったため、地元の豪族や国人たちの多くは、織田家の統治を受け入れようとしなかったのです。
信雄は、北畠家旧臣の懐柔を図る一方で、新たに織田家から派遣された家臣を重用し、伊勢国の統治体制を固めようとしました。しかし、信雄自身にはまだ実戦経験が乏しく、政治的手腕も十分とは言えなかったため、滝川一益や柴田勝家といった有力な家臣たちの助力なしには安定した統治を行うことができませんでした。
また、伊勢国には伊賀国という独立性の強い地域が隣接していました。伊賀は「伊賀忍者」として知られる忍術集団が多数存在し、外部の支配を拒む風潮が強い土地でした。この伊賀を完全に制圧することが、伊勢国の安定化に不可欠であると考えた信雄は、積極的に軍事行動を起こすようになります。
伊勢国統治における政策と課題
信雄は伊勢国の統治を安定させるため、いくつかの政策を打ち出しました。その一つが、城郭の整備と軍事力の増強でした。伊勢国の要所には織田家の家臣を配置し、北畠時代からの影響を排除する形で統治を進めました。しかし、この方針は地元の勢力との摩擦を生む結果となり、たびたび反乱が発生する原因にもなりました。
また、経済政策としては、織田信長が進めていた楽市・楽座の導入を試みました。楽市・楽座は、従来の商業ギルド(座)による特権を廃止し、自由な商業活動を促進する制度です。これにより、伊勢国の経済を活性化させようとしましたが、地元の商人や既得権益を持つ勢力からの反発も少なくありませんでした。
さらに、信雄は仏教勢力との関係にも苦慮しました。伊勢国には長年、寺社勢力が強い影響力を持っており、織田家の進出によって彼らの立場が揺らぎつつありました。信雄は一部の寺院を保護しつつも、織田家の方針に従わない勢力には厳しく対処する姿勢を取りました。このような宗教政策の影響もあり、伊勢国の支配は一筋縄ではいかなかったのです。
天正伊賀の乱における信雄の関与
1579年(天正7年)、信雄は隣国・伊賀への侵攻を開始します。これが「天正伊賀の乱」と呼ばれる戦いの始まりです。伊賀国は、独自の武装勢力を持つ地域であり、特に忍者集団の存在が特徴的でした。伊賀の国人たちは自治意識が強く、戦国大名の支配を拒む姿勢を貫いていました。
信雄は、伊勢国の支配を安定させるためには、伊賀の勢力を制圧することが不可欠であると考え、約1万の兵を率いて伊賀に侵攻しました。しかし、この戦いは信雄にとって大きな試練となりました。伊賀の地形は山間部が多く、ゲリラ戦を得意とする伊賀忍者たちは、織田軍の大規模な動きを察知し、各地で伏兵を用いた奇襲を仕掛けました。
信雄の軍は伊賀勢の巧みな戦術に翻弄され、戦局は不利な状況へと追い込まれていきます。信雄自身の指揮能力も決して高くはなく、兵の士気を維持することが難しくなりました。最終的に信雄軍は大敗を喫し、伊賀国の完全制圧には失敗しました。この敗戦に激怒した信長は、信雄の指揮能力に対して強い不信感を抱き、翌年の1580年(天正8年)には自らの軍勢を動員し、伊賀を徹底的に攻め滅ぼすことを決断します。
1581年(天正9年)、信長は約4万の大軍を率いて伊賀国を再び攻め、今度は圧倒的な軍事力を背景に、伊賀の国人勢力を殲滅しました。伊賀の城や村々は徹底的に破壊され、生き残った者たちの多くは四散することになりました。この時点で、伊賀国は完全に織田家の支配下に入りましたが、信雄の評価は大きく下がる結果となりました。
この一連の出来事を通じて、信雄の軍事的な未熟さが浮き彫りになりました。信長は、息子である信雄に一定の期待を寄せていたものの、この敗戦によって信雄を「頼りない指揮官」として見なすようになったと考えられます。信雄は伊勢国の支配者としての地位を維持したものの、父・信長の信頼を完全に勝ち取ることはできませんでした。
こうして、信雄の伊勢国統治は苦難の連続でした。形式的には伊勢国の領主でありながらも、実際の統治には多くの困難が伴い、特に天正伊賀の乱での失敗は彼の評価を大きく傷つける結果となりました。しかし、この挫折の後、信雄はさらなる試練を迎えることになります。それが、1582年(天正10年)に起こる「本能寺の変」でした。
本能寺の変と織田家の激動
信長死す!混乱する信雄の立場
1582年(天正10年)6月2日、日本史において大きな転機となる事件が起こります。それが「本能寺の変」です。明智光秀が突如として主君・織田信長を襲撃し、信長とその嫡男・信忠が自害に追い込まれました。
この時、信雄は伊勢国にいました。彼にとって本能寺の変は、まさに寝耳に水の大事件でした。信長と信忠が相次いで亡くなったことで、織田家の後継問題が一気に表面化し、家臣たちの間では動揺が広がりました。信雄もまた、この混乱の中で自らの立場を見極めなければならず、重大な決断を迫られることになったのです。
本能寺の変の直後、各地の織田家の武将たちはそれぞれ独自の対応を取りました。羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)はすぐさま備中高松城の戦いを切り上げ、わずか10日で京へ戻るという驚異的な「中国大返し」を敢行しました。一方で、柴田勝家や滝川一益といった重臣たちは、すぐには動くことができず、織田家全体としての対応は遅れをとりました。
信雄は、伊勢国という地理的に京から遠い場所にいたため、迅速な行動を取ることが難しい立場にありました。彼は本能寺の変の詳細を確認しつつ、次の動きを探ることになります。ここで信雄は、織田家の存続を図るための政治的な動きを始めることになるのです。
清洲会議での駆け引きと決断
本能寺の変から1ヶ月後の6月27日、織田家の今後を決める重要な会議が清洲城で開かれました。これが「清洲会議」です。
清洲会議には、織田家の主要な家臣たちが集まりました。羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興といった重臣たちが議論に参加し、信雄もまた織田家の当主候補の一人として会議に関与しました。
会議の最大の争点は、「織田家の後継者を誰にするか」でした。候補としては、信長の次男である信雄と、信長の嫡孫(三男・信忠の子)である三法師(さんぼうし、後の織田秀信)が挙げられました。
信雄は血筋の面では有力な後継者でしたが、彼には軍事的な実績が乏しく、本能寺の変後の動きも決して素早いものではありませんでした。一方で三法師はまだ幼く、政務を執ることができないものの、「信長の嫡男・信忠の子である」という正統性がありました。
この後継者問題では、秀吉が巧みに立ち回りました。秀吉は三法師を後継者とすることで、織田家の統治権を自らが掌握できる状況を作り上げようとしたのです。これに対して柴田勝家は信雄を支持し、織田家の血統を重視する立場を取ります。結果として、清洲会議では「三法師を後継者とし、信雄がその後見役となる」ことが決定されました。
この決定は、信雄にとって微妙なものでした。名目上は織田家の実権を握ることができるように見えましたが、実際には秀吉が三法師を利用して権力を握る狙いが透けて見えていたからです。しかし、信雄にはこの時点で秀吉に対抗するだけの政治的・軍事的な力がなく、ひとまずこの決定を受け入れざるを得ませんでした。
三法師擁立と織田家の主導権争い
清洲会議の結果、信雄は織田家の「後見人」としての立場を得ましたが、実際には秀吉との権力争いに巻き込まれていくことになります。
信雄は清洲会議の後、三法師を擁して織田家の正統性を守る姿勢を示しましたが、秀吉の動きは速く、着々と織田家の実権を掌握していきました。秀吉は信雄を懐柔するために一定の配慮を見せつつも、次第に信雄の影響力を削ごうと動き出します。
そんな中で起こったのが、柴田勝家と秀吉の対立でした。勝家は清洲会議の際に信雄を支持しており、秀吉の台頭を快く思っていませんでした。そして1583年(天正11年)、ついに勝家と秀吉の間で「賤ヶ岳の戦い」が勃発します。
信雄はこの戦いでは中立的な立場を取りますが、結果的に秀吉が勝利し、柴田勝家は自害に追い込まれます。これにより、織田家内部で秀吉の影響力が決定的なものとなり、信雄の立場はますます厳しくなっていきました。
さらに、1584年(天正12年)には、信雄と秀吉の間で決定的な対立が生じます。信雄は次第に秀吉の圧力に反発するようになり、最終的には徳川家康と結びつくことで秀吉に対抗しようとします。こうして、信雄は次なる大戦「小牧・長久手の戦い」へと突入していくことになるのです。
秀吉との対立と小牧・長久手の戦い
信雄 vs. 秀吉、対立の経緯と背景
本能寺の変後、織田家の主導権をめぐる争いが激化していく中で、織田信雄は次第に豊臣秀吉と対立する立場に追い込まれていきました。清洲会議の結果、信雄は名目上、三法師(織田秀信)の後見人として織田家を継ぐ立場を得ましたが、実際には秀吉が実権を掌握し、信雄の影響力は徐々に低下していきました。
1583年(天正11年)、織田家重臣であり、信雄を支持していた柴田勝家が「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に敗れ、自害に追い込まれたことで、信雄の立場はさらに弱まります。織田家内では秀吉の支配が進み、信雄は政治的に孤立していきました。
しかし、信雄は織田家の正統な後継者の一人であり、また伊勢・尾張といった重要な領地を有していました。これにより、彼はまだ一定の影響力を持ち続けており、秀吉にとっては完全に無視できない存在でした。
そんな中、信雄は秀吉の圧力に対抗するため、徳川家康と手を結ぶ決断を下します。家康もまた、秀吉の勢力拡大を警戒しており、信雄との同盟は彼にとっても好都合でした。こうして、1584年(天正12年)、織田信雄・徳川家康連合軍と、豊臣秀吉軍が衝突する「小牧・長久手の戦い」が勃発することになります。
家康との同盟と小牧・長久手の戦局
信雄は1584年3月、正式に徳川家康と同盟を結び、秀吉に対して挙兵しました。信雄は尾張・伊勢の兵を集め、家康は三河・遠江の軍勢を動員し、両者は約3万の兵力を擁する大軍となりました。これに対し、秀吉は10万を超える兵を動員し、圧倒的な兵力で信雄・家康連合軍を圧倒しようとします。
戦いの主戦場となったのは尾張の小牧城と長久手の地でした。信雄は小牧城に本陣を置き、家康とともに防衛体制を固めました。秀吉はまず正面突破を試みますが、徳川軍の堅固な守備に阻まれ、攻撃は難航します。
そこで秀吉は戦術を変え、一部の軍勢を東に迂回させ、長久手方面から攻撃を仕掛ける作戦を立てました。しかし、家康はこの動きを素早く察知し、長久手方面に精鋭部隊を派遣。結果、長久手の戦いでは徳川軍が秀吉軍の先鋒を撃破し、大勝利を収めました。この戦いで、秀吉方の池田恒興や森長可といった有力武将が戦死し、秀吉にとっては大きな痛手となりました。
この勝利により、信雄・家康連合軍は戦局を有利に進めるかに思われました。しかし、戦争が長引く中で、信雄の態度が次第に揺らぎ始めます。秀吉は戦術的には劣勢だったものの、政治的な交渉力を駆使し、信雄を懐柔しようと動き始めたのです。
敗北の要因と信雄の苦渋の決断
小牧・長久手の戦いは、軍事的には家康・信雄側が優位に立っていましたが、秀吉は戦場外での政治交渉によって形勢を逆転させようとしました。秀吉は、信雄の側近や家臣たちに働きかけ、和睦を進めるように圧力をかけました。
さらに、秀吉は信雄の母・お鍋の方を通じて説得を試み、信雄に対して「このまま戦い続ければ、織田家の存続が危うくなる」と伝えました。織田家はすでに信長の死後、大きく揺らいでおり、信雄がこれ以上戦いを続ければ、さらに立場が悪化する可能性があったのです。
1584年11月、信雄はついに秀吉との単独講和を決断します。これにより、小牧・長久手の戦いは終結しました。しかし、この講和は信雄にとっては屈辱的なものであり、また家康にとっても信雄の突然の離脱は予想外の出来事でした。家康は信雄の決断に不満を抱きましたが、戦局が変化した以上、戦いを続けることは困難となり、やむを得ず撤退することになりました。
この和睦により、信雄は一時的に秀吉からの攻撃を免れることができましたが、結果的には徳川家康との関係を悪化させることになりました。また、秀吉に対する影響力も低下し、織田家の当主としての権威はさらに弱まることになります。
こうして、小牧・長久手の戦いは信雄にとって「勝利しながらも敗北した戦い」となりました。軍事的には優位に立ちながらも、政治的な駆け引きに敗れ、秀吉の台頭を許してしまったのです。この後、信雄は秀吉の圧力にさらされ、次第に追い詰められていくことになります。
二度の改易と流浪の時代
秀吉への降伏と領地没収の運命
小牧・長久手の戦いで秀吉と単独講和を結んだ信雄でしたが、それは彼の立場を強化するどころか、むしろ弱体化させる結果となりました。講和後も秀吉は信雄を信用せず、政治的に従わせるための圧力を強めていきます。
1585年(天正13年)、秀吉は関白に就任し、織田家よりも格上の権力を持つ立場となりました。この頃から信雄の影響力はますます低下し、秀吉にとって彼は「名ばかりの織田家当主」として扱われるようになります。そして1586年(天正14年)には、信雄の本拠地である尾張を正式に没収されることになりました。
この時点で信雄は事実上の「織田家の主」としての地位を失い、織田家の存続は秀吉の意向に委ねられることになります。秀吉は信雄に対し、伊勢・尾張を手放すよう強く迫り、その代わりとしてわずか数万石の小領地を与える形で懐柔しようとしました。しかし、信雄はこれを受け入れず、なおも抵抗を試みます。
そんな中で、信雄の周囲には次第に秀吉派の家臣が増え、彼を裏切る者も現れるようになりました。これにより、信雄は完全に孤立し、1588年(天正16年)、ついに秀吉に降伏することを余儀なくされます。降伏の結果、信雄はすべての領地を没収され、一時的に出家することで政治の世界から退くことになりました。この時、彼は「常真(じょうしん)」という法名を名乗るようになります。
しかし、信雄の苦難はこれで終わりではありませんでした。彼はその後も政治の世界に戻る機会を探り続けますが、秀吉の勢力が強固である限り、再起は容易ではありませんでした。
徳川政権下での再起と再びの改易
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去すると、日本の政治情勢は再び大きく動き始めます。信雄はこの機会を捉え、再び政治の舞台に復帰しようと試みました。彼が頼ったのは、かつて小牧・長久手の戦いで共闘した徳川家康でした。
家康はこの頃、豊臣政権内で台頭しつつあり、特に秀吉の死後は次第に関白・豊臣秀頼を支える五大老の筆頭として実権を握るようになっていました。信雄は家康のもとを訪れ、織田家の復権を支援してもらうよう働きかけます。その結果、家康の庇護を受ける形で、大和宇陀(現在の奈良県宇陀市)に5万石の領地を与えられ、大名として復帰することができました。
しかし、信雄の復帰は長くは続きませんでした。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発します。信雄は徳川方として行動を取るものの、戦局に大きく関与することはできず、関ヶ原の後も政治的な影響力を持つことはありませんでした。さらに、1608年(慶長13年)になると、突如として信雄は再び改易され、大和宇陀の領地を失うことになります。
この改易の理由については明確な記録が残されていませんが、一説には信雄が政治的に不用意な行動を取ったことや、家康の信任を完全には得られなかったことが影響しているとされています。こうして信雄は、二度目の改易を経験し、再び領地を失うこととなったのです。
放浪の果てに信雄が見出したもの
二度の改易を経て、信雄はもはや政治の世界に戻ることはできなくなりました。彼はしばらくの間、京都や江戸で暮らし、その後は駿河国(現在の静岡県)や尾張国(現在の愛知県)を転々とする放浪生活を送ることになります。
しかし、信雄は単なる浪人として生涯を終えたわけではありません。彼は武士としての生活から離れる中で、文化人としての側面を強めていきました。特に、茶道や能楽といった文化活動に関心を持つようになり、当時の文化人たちとの交流を深めていきます。
また、彼は自らの織田家の存続を諦めることなく、子孫たちが大名として復帰できるように様々な働きかけを行いました。その結果、彼の子孫は後に徳川幕府の下で旗本として存続することができました。これは、信雄が政治の世界を離れた後も、織田家の名を守るために努力を続けた成果であると言えるでしょう。
信雄の生涯は、波乱に満ちたものでした。父・信長の影響を強く受けながらも、政治や軍事において決して成功を収めたとは言えません。しかし、二度の改易や放浪生活を経験しながらも、最後まで織田家の存続を願い続けた彼の姿勢は、歴史の中で独特の存在感を放っています。
このようにして、信雄は戦国の荒波に翻弄されながらも、最後まで織田家の血筋を絶やさぬように生き抜いたのでした。そして、彼の人生は徳川家康との和解と、新たな再興の道へと続いていくことになります。
徳川家康との和解と再興への道
家康との関係修復とその背景
二度の改易を経験し、領地を失った織田信雄でしたが、彼は完全に歴史の表舞台から退くことはありませんでした。1608年(慶長13年)に大和宇陀5万石を没収された後、信雄は江戸へ移り、徳川家康との関係修復を模索することになります。
そもそも信雄と家康の関係は、小牧・長久手の戦いでの同盟に始まりました。しかし、信雄が戦の途中で秀吉と単独講和を結んだことが家康の不信感を招き、その後の関係は決して良好なものではありませんでした。さらに、関ヶ原の戦いでは家康側に味方しながらも、戦局に大きな影響を与えることはできず、その存在感は薄れるばかりでした。
そんな信雄が再び家康と和解し、大名としての地位を取り戻すことができた背景には、いくつかの要因がありました。一つは、信雄が織田家の正統な後継者の一人であるという点です。家康は天下統一を進める中で、かつての有力大名たちを自らの支配下に組み込むことを重視していました。織田家は徳川家の宿敵・豊臣家と対抗できる名門であり、その血筋を自らの支配下に置くことは、家康にとっても政治的に有利だったのです。
また、信雄は江戸に移った後、徳川幕府に対して積極的に忠誠を示し、幕府との関係を深めていきました。彼は幕府の儀礼や行事に参加し、徳川家の安定に貢献する姿勢を見せることで、家康からの信頼を徐々に回復していったのです。
大和国宇陀5万石の領主としての再出発
こうした努力が実り、1615年(元和元年)、信雄は再び大名として復帰することが許されました。与えられた領地はかつての大和国宇陀(現在の奈良県宇陀市)で、再び5万石の領主として統治を行うことになります。これは、家康が信雄の忠誠を認め、織田家の名を存続させるための配慮であったと考えられます。
宇陀の地は、かつて信雄が秀吉の圧力に屈して失った領地でしたが、再びこの地を任されたことで、信雄は名誉回復を果たしたと言えるでしょう。彼はこの地で新たな統治に取り組み、幕府の意向を尊重しながら、領国経営に努めました。
しかし、信雄が再び政治の中心に返り咲くことはありませんでした。すでに徳川家康は天下を統一しており、信雄に求められたのは「織田家の名を守りつつ、幕府に従う」ことであり、かつてのように独立した勢力として振る舞うことは許されなかったのです。それでも、信雄は幕府に従いながら、大和宇陀の統治に専念することで、織田家の存続を図りました。
織田家の存続を図る信雄の戦略
信雄は、織田家の存続を何よりも重視しました。彼自身はすでに戦国武将としての輝きを失っていましたが、織田家の名を後世に残すために、家康との関係を維持しながら生きる道を選びました。
このため、信雄は自らの子孫が徳川幕府の中で生き残ることができるよう、積極的に幕府と関係を築こうとしました。彼の子供たちは江戸幕府の旗本として取り立てられ、織田家の血筋は幕府の支配下で存続することになります。これは、織田信長の時代に織田家が日本全国に影響を与えた時とは比べ物にならないほどの縮小でしたが、それでも信雄にとっては「織田家が完全に滅びることを防ぐ」という意味で重要な選択だったのです。
また、信雄は江戸時代においても、文化活動や社交の場で一定の影響力を持ち続けました。特に、茶道や能楽といった分野に関心を持ち、文化人としての側面を強めていきました。戦国時代を生き抜いた彼は、最終的には武士としての生き方ではなく、文化人としての生涯を選ぶことになったのです。
こうして、信雄は波乱万丈の人生を経て、織田家の存続という目標を果たすことに成功しました。彼の戦いはもはや戦場のものではなく、織田家の名を守るための政治的な戦いへと変化していたのです。そして、信雄の晩年は、宇陀松山藩主として穏やかに過ごすことになります。
大和宇陀松山藩主としての晩年
宇陀松山藩での統治と施策
徳川家康の庇護のもと、大和国宇陀に5万石の領地を与えられた織田信雄は、ここで新たな統治を開始しました。宇陀の地は、かつて豊臣秀吉によって信雄が追放された場所でしたが、再びこの地を治めることになったのは、彼にとって名誉の回復とも言える出来事でした。
しかし、かつてのような独立勢力としての力はすでになく、信雄の役割は「徳川幕府の秩序の中で領地を安定させる」ことに限られていました。そのため、彼は戦国時代のような過激な軍事行動を取ることはなく、幕府の方針に沿った領国経営を心がけました。
信雄は宇陀松山藩において、城下町の整備や寺社の保護を進め、領民の生活の安定を図りました。特に、宇陀の地は商業が発展していたため、江戸時代初期の経済政策として流通を活性化させることに重点を置いたと言われています。かつて父・信長が推進した「楽市・楽座」の考え方を取り入れ、自由な商業活動を奨励する姿勢を見せました。
また、信雄は治世において過度な年貢の取り立てを行わず、比較的温和な統治を心がけたとされます。これは、彼自身がかつて領地を奪われ、戦乱の中で苦しい立場を経験したことによるものかもしれません。彼の施策は幕府の政策と対立することなく、穏やかに進められたため、信雄の治める宇陀松山藩は比較的安定した領地となりました。
しかし、信雄の統治が長く続くことはありませんでした。1615年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、幕府はさらなる統制を強化するようになります。その影響もあり、信雄は再び改易され、大和宇陀松山藩の領地を失うことになりました。この時、幕府が改易を決定した理由は明確には記録されていませんが、一説には「織田家の名門としての影響力を削ぐため」であったとも考えられています。
こうして、信雄は再び浪人の身となり、再起の機会を失うことになったのです。
茶道・能楽への関心と文化活動の広がり
信雄は戦国武将としての人生を送る中で、後年になるにつれて文化活動への関心を深めていきました。これは、織田信長や織田家の伝統に影響を受けたものと考えられます。信長自身が茶道や能楽を好み、文化人としての側面を持っていたことから、信雄もまたその影響を受けたのです。
特に茶道に関しては、信雄は千利休の流れをくむ茶の湯を学び、自らも茶会を開くなどして文化人としての活動を行いました。武士としての立場を失った後も、信雄は文化人としての交流を続け、京都や江戸で多くの知識人と親交を深めたと伝えられています。
また、能楽にも関心を持ち、支援を行ったことが記録されています。能楽は戦国時代から武士の嗜みとして重視されており、信雄もまたその伝統を受け継いだのです。彼が特に力を入れたのは「観世流」の能であり、江戸時代に入っても能楽の保護を行いました。
こうした文化活動は、信雄が戦国大名としての地位を失ってもなお、織田家の精神を受け継ぎ続けた証と言えるでしょう。戦乱の時代を生き抜いた彼が、最終的には文化人として名を残したことは、歴史の中で特異な位置づけとなっています。
72年の生涯を終えた信雄の最期
改易後の信雄は、京都や江戸を転々としながら晩年を過ごしました。幕府からは一定の年金が与えられていたとされ、大名としての権力は失ったものの、貧困に陥ることはなかったようです。彼は公家や茶人、文化人との交流を続けながら静かに暮らし、武将としての過去よりも、文化人としての生涯を重視するようになりました。
そして、1630年(寛永7年)、信雄は72歳でこの世を去りました。当時の武将としては非常に長寿であり、特に戦国時代を生き抜いた人物の中では異例の寿命でした。彼の死後、その遺体は京都の大徳寺に葬られました。大徳寺は織田信長ともゆかりの深い寺院であり、信雄にとっては父の遺志を継ぐ最後の場所となったのです。
信雄の人生は、戦国時代の動乱の中で数多くの挫折を経験しながらも、最終的には織田家の血統を守ることに成功したものだったと言えます。彼は戦国武将としては決して成功したとは言えませんでしたが、文化人としての晩年を送り、歴史の中に名を残しました。その生涯は、波乱万丈でありながらも、最後には静かで穏やかなものだったのです。
こうして、織田信雄は戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の歴史を生き抜き、武士として、そして文化人としての生涯を全うしたのでした。
織田信雄を描いた歴史の中の姿
『信長公記』に見る信雄の評価
織田信雄の生涯を知る上で、一次史料として重要なのが、太田牛一によって記された『信長公記』です。『信長公記』は織田信長の家臣であった太田牛一が執筆した信長の生涯を記録した書物であり、戦国時代の出来事を知る上で貴重な資料とされています。しかし、『信長公記』には信雄に関する記述があまり多くありません。これは、信雄が兄・信忠と比べて政治や軍事の分野で大きな功績を残さなかったためと考えられます。
また、信雄に関する評価もあまり芳しくなく、本能寺の変後の動きについても「積極的な行動を取ることができなかった」といった記述が見られます。特に、天正伊賀の乱での失敗や、秀吉との対立で不利な状況に追い込まれたことなど、決断力や戦略的な手腕に欠けていた点が強調されています。
しかし、『信長公記』はあくまで信長を中心に記録された書物であるため、信雄の評価が低いのは「信長の跡を継ぐべき人物としては相応しくなかった」という視点が影響している可能性もあります。信雄が本能寺の変後に苦しい立場に置かれ、秀吉との政治的な駆け引きの中で苦悩したことを考えると、単に無能と断じるのは適切ではないかもしれません。
『清須会議』などの創作における描かれ方
織田信雄は、歴史創作の中ではしばしば「凡庸な武将」として描かれることが多く、特に映画や小説では、秀吉や家康といった英雄的な人物と対比される形で「決断力のない人物」として扱われることがあります。
例えば、映画『清須会議』(2013年、監督:三谷幸喜)では、信雄は「後継者争いに巻き込まれながらも、主導権を握ることができない人物」として描かれています。清洲会議での信雄は、豊臣秀吉や柴田勝家の駆け引きに翻弄される立場にあり、最終的には三法師(織田秀信)が後継者として擁立されることになります。この映画の中では、信雄はどこか頼りなく、自らの意志を貫くことができない武将として描かれていますが、これはあくまで創作の中での解釈であり、史実とは異なる部分も多いです。
また、小説やゲームの中では、「父・信長に比べて凡庸な存在」として描かれることが一般的ですが、一部の作品では「政治的に翻弄された悲劇の人物」としての側面が強調されることもあります。特に、信雄は家康との同盟を模索したり、秀吉に対抗しようとしたりするなど、決して受け身一辺倒の人物ではありませんでした。こうした側面を考慮すると、信雄は「戦国の動乱に翻弄された武将」として、より同情的な視点から描かれるべき人物かもしれません。
江戸時代の系図や軍記に残る信雄の足跡
江戸時代に入ると、戦国時代の出来事が軍記物語や系図書によってまとめられるようになり、信雄の名もそれらの中に記録されることになります。例えば、『寛政重修諸家譜』や『織田系図』といった史料では、信雄の子孫が旗本として存続したことが記されています。これらの史料によると、信雄の子孫は幕府の庇護を受けつつも、織田家の名を残すために尽力したことが分かります。
また、『勢州軍記』のような軍記物語では、信雄の行動がやや誇張され、特に秀吉との対立や小牧・長久手の戦いの場面が劇的に描かれることがありました。軍記物語は必ずしも史実に基づいているわけではなく、時には物語性を重視した記述がされるため、信雄の評価にも幅があります。しかし、こうした史料の中で信雄が取り上げられていること自体、彼が戦国時代において一定の役割を果たしたことを示していると言えるでしょう。
さらに、江戸時代には織田家に関する伝説や逸話が語り継がれ、その中で信雄も「織田家の後継者として生きた人物」として記憶されました。彼の評価は決して一様ではなく、時代や文献によって異なりますが、織田家の血筋を守り続けたことは確かであり、その足跡は歴史の中に刻まれ続けています。
織田信雄の生涯を振り返って
織田信雄は、織田信長の次男として生まれながらも、父や兄・信忠ほどの軍才や政治的手腕を持たず、戦国の荒波に翻弄された武将でした。伊勢国の名門・北畠家を継いだものの、その統治は困難を極め、天正伊賀の乱では大敗を喫しました。本能寺の変後は、清洲会議で三法師を擁立しつつも、豊臣秀吉の台頭により織田家の主導権を奪われていきました。
小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結び、秀吉に対抗しましたが、最終的に単独講和を結び、領地を没収されます。その後も徳川政権下で再起を図り、大和宇陀5万石を与えられるも再び改易され、流浪の身となりました。しかし、彼は文化活動に尽力し、茶道や能楽を通じて織田家の名を守り続けました。
波乱に満ちた生涯を送りながらも、信雄は織田家の血統を後世に伝えることに成功しました。戦国を生き抜いた彼の足跡は、今も歴史の中に刻まれています。
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