こんにちは!今回は、朝日新聞の記者として中国問題の専門家となり、近衛文麿内閣のブレーンとしても活躍した尾崎秀実(おざき ほつみ)についてです。
表向きは著名なジャーナリストでありながら、実はソ連のスパイ組織「ゾルゲ諜報団」の一員として活動していた尾崎秀実。彼の生涯をたどりながら、その思想、活動、そして獄中から残したメッセージに迫ります。
台湾での少年時代 – 植民地での経験が育んだ思想
日本統治下の台湾での暮らしと社会の実態
尾崎秀実(おざき ほつみ)は、1901年に台湾総督府の官吏であった父・尾崎秀松のもとに生まれました。台湾は1895年の日清戦争後、下関条約によって日本の植民地となり、総督府による統治が始まっていました。日本政府は台湾を「模範的な植民地」とするため、鉄道や港湾、学校などのインフラ整備を進めましたが、その恩恵を受けられるのは主に日本人移住者や台湾の特権階級に限られていました。
尾崎が幼少期を過ごした台北やその周辺では、日本人が行政や経済の中枢を担い、台湾人はその下で働くという厳格な社会構造が形成されていました。台湾の先住民や中国系住民は二級市民として扱われ、日本語の使用が強制される一方で、彼らの文化や言語は抑圧されていました。尾崎が暮らした環境では、日本人子弟が通う学校と、台湾人向けの学校が明確に分けられており、日本人の子供たちは台湾の現地住民との交流がほとんどないまま育つことが一般的でした。しかし、尾崎はそうした状況に違和感を持ち、むしろ台湾の人々の生活や文化に関心を寄せる少年でした。
市場や町を歩けば、日本人が住む西洋風の住宅街と、台湾人が暮らす混雑した細い路地裏との格差は明白でした。台湾の子どもたちは貧しい家計を支えるために幼い頃から働き、日本人のように学校に通うことすらできない子も多かったのです。尾崎は、家庭では日本の近代的な生活を享受しながらも、一歩外に出れば台湾人の厳しい現実を目の当たりにするという環境に育ちました。
家族の影響と台湾での教育環境
尾崎の父・秀松は、日本の植民地政策を推進する立場にありましたが、同時に教育を重視する人物でもありました。家庭では本土の新聞や書籍が並び、尾崎は幼少期から読書を通じて幅広い知識を吸収していました。しかし、父の仕事を通じて植民地統治の実態を垣間見る機会もあり、次第に「統治する側」と「される側」の対比を強く意識するようになりました。
また、尾崎は幼い頃から日本語だけでなく中国語にも触れる機会がありました。当時、日本政府は台湾での日本語教育を推進していましたが、台湾人の間では依然として中国語が主流でした。尾崎は家庭では日本語を話しながらも、外に出ると中国語が飛び交う環境に身を置くこととなり、自然と多言語的な感覚を身につけていきました。彼は学校での日本の歴史教育と、台湾社会の現実との間にあるギャップに疑問を持ち始め、やがてアジアの歴史や国際関係への関心を深めることにつながっていきます。
また、日本の学校教育の中では、大日本帝国の発展と植民地政策の「正当性」が強調されていました。台湾の子供たちも次第に日本式の教育を受け入れるようになっていましたが、一方で、日本人教師の中には台湾人の生徒を差別する者も多く、日本人と台湾人の間には明確な壁が存在していました。尾崎はこうした環境の中で、日本が掲げる「文明開化」の理念と、実際の植民地支配の現実が大きく異なることに気づき、支配者としての日本のあり方に疑問を抱くようになりました。
植民地体験が尾崎秀実の思想に与えた影響
尾崎秀実の思想形成において、台湾での幼少期の経験は極めて重要でした。彼は日本の支配層の一員として成長しながらも、支配される側の台湾人の視点にも共感を持つようになりました。日本の学校では「日本が台湾を近代化し、文明をもたらしている」と教えられましたが、尾崎が目の当たりにしたのは、経済的格差や日本人と台湾人の待遇の違いでした。
この矛盾を理解しようとする中で、彼は次第に社会問題や政治に興味を持ち始めました。台湾での植民地統治のあり方を見つめることで、日本の帝国主義的政策の限界や、アジアの民族独立運動への関心が芽生えたのです。この頃から尾崎は、表向きの日本の政策を無批判に受け入れるのではなく、歴史や政治の背後にある構造を深く考察する姿勢を持つようになりました。
また、彼が後に中国問題評論家として活躍し、さらにゾルゲ事件に関与するに至る思想的背景には、この植民地体験が大きく影響していたと考えられます。台湾での生活を通じて学んだ「国家と民族の関係」や「支配と被支配の構造」は、後年の彼のジャーナリスト・政治思想家としての活動の根底に流れていたのです。
さらに、尾崎は後に中国革命を支持するようになりますが、その思想の原点をたどれば、台湾時代に培われた「アジアの民族的連帯」への意識に行き着きます。彼は、台湾での日本の植民地政策が、中国や他のアジア諸国に対しても同様に適用されることを懸念し、日本がアジアに対して果たすべき本当の役割を模索するようになりました。
このように、尾崎秀実の思想の根幹は、単なる理論や読書によるものではなく、幼少期の台湾での具体的な経験に根ざしていました。植民地支配の実態を直接目にし、台湾人の苦悩を身近に感じたことが、彼の後の政治思想や活動に大きな影響を与えたのです。
エリート教育への道 – 一高から東京帝大へ
日本最高峰の教育機関への進学とその意義
尾崎秀実は、台湾での少年時代を経て日本本土へ戻り、エリートコースを歩むことになります。彼は中学時代から学業成績が優秀であり、当時の最高峰の進学校の一つである 東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校) に進学しました。
当時の日本では、東京帝国大学(現・東京大学)を頂点とする学歴社会が確立しつつありました。特に、東京帝大に進学するための最難関ルートとされたのが、第一高等学校(通称・一高) への進学でした。一高は文科・理科に分かれたエリート養成機関であり、卒業生のほとんどが帝大に進学するため、ここに入ることは将来の官僚や学者、ジャーナリストとしての道を約束されるようなものでした。
尾崎は1919年に一高に入学。ここで彼は、日本のエリート層がどのように形成されていくのかを実感することになります。台湾の植民地体験を通じて社会の不均衡を目の当たりにしてきた彼にとって、日本の本土の学問や知識人の世界はまた異なる刺激をもたらしました。一高の学生たちは、日本の将来を担う存在としての自負を持ちながら、自由闊達な議論を交わしていました。
しかし、尾崎はその中で「支配する側」としてのエリート意識だけでなく、「社会をどう変えるべきか」という問題意識を深めるようになります。彼は本を貪るように読み、特に西洋哲学や社会主義思想に興味を持ち始めました。一高は自由な校風を持ち、学生たちは政治や文学について熱心に議論を交わしていました。尾崎はここで、単なる優等生ではなく、社会の変革を真剣に考える知識人へと成長していきます。
学生時代の思想的変遷と政治への関心
一高時代の尾崎は、文学や歴史に深い関心を持ちつつも、次第に政治的な問題にも目を向けるようになりました。1910年代末から1920年代初頭の日本は、大正デモクラシーの時代であり、言論の自由や民主主義の拡大が盛んに議論されていました。吉野作造の「民本主義」や、大杉栄らによるアナキズム思想、さらにはロシア革命(1917年)の影響を受けたマルクス主義の思想などが知識人の間で注目されていました。
尾崎もまた、こうした時代の潮流の中で自らの思想を深めていきます。彼は最初からマルクス主義に傾倒したわけではありませんでしたが、日本が進める帝国主義政策への疑問や、労働者や農民の困窮を見つめる中で、「社会をどう変革すべきか」という問題を考えるようになっていきました。一高の授業では近代経済学や国際政治について学びつつも、彼は授業の枠を超えて自主的に様々な書籍を読み漁り、同級生たちと熱い議論を交わしていました。
また、一高時代には学外の政治運動にも関心を示し始めます。当時、東京では 社会主義者や労働運動家が活発に活動 しており、一高の学生の中にも彼らに共鳴する者が少なくありませんでした。尾崎は左翼思想に接触しながらも、単純な革命思想に飛びつくのではなく、より理論的な視点から日本の政治や経済の問題を考える姿勢を持ち続けました。
当時の知識人ネットワークと影響を受けた人物
一高から東京帝国大学へ進学すると、尾崎はさらに幅広い知識人と交流するようになります。彼が学んだ 東京帝国大学法学部 は、当時の日本の政治家や官僚を輩出する最重要機関の一つであり、多くの俊英たちが集まっていました。尾崎は大学で政治学や国際関係論を学びながら、社会の実態をより深く理解しようとしていました。
この頃、彼が特に影響を受けたのが、当時の日本の進歩的知識人たちでした。
- 西園寺公一(外交官・後の社会運動家)
- 後藤隆之助(ジャーナリスト)
- 牛場友彦(国際政治学者)
彼らは、日本の国際関係や帝国主義政策を批判的に分析し、日本がどのようにアジアと向き合うべきかを模索していました。尾崎は、彼らとの議論を通じて「日本の未来は軍事力による膨張ではなく、アジアとの協調にある」という考えを強めていきました。
また、尾崎はこの時期に中国問題への関心を深めていきます。彼は 孫文や中国国民党の動向に注目 し、日本の対中政策が果たして正しいのかを冷静に分析する姿勢を持つようになりました。この中国への関心は、後の彼のジャーナリストとしての活動に大きく影響を与えることになります。
朝日新聞記者としての活動
朝日新聞入社とジャーナリストとしての評価
尾崎秀実は東京帝国大学を卒業後、1925年に朝日新聞社へ入社しました。当時の日本は大正デモクラシーの余韻を残しつつも、関東大震災(1923年)の影響や昭和金融恐慌(1927年)による社会不安が広がっていました。また、1925年には治安維持法が成立し、言論の自由が徐々に制限される時代へと移行しつつありました。こうした状況の中で、尾崎は新聞記者という職業を通じて社会の現実を伝えることに強い意義を感じていました。
朝日新聞社は、当時日本国内でも有数の影響力を持つ新聞社の一つであり、政治・経済・国際問題に関する鋭い分析記事を提供していました。尾崎は入社後、まず社会部に配属されましたが、やがて彼の国際政治に関する深い知識が評価され、外交・国際問題を専門とする部署へと移りました。特に中国問題に関する記事では、彼の洞察力と分析力が光り、多くの読者の注目を集めました。
尾崎の記者としての姿勢は、単なる事実報道にとどまらず、その背景にある歴史的・政治的な要因を深く掘り下げるものでした。彼は現場主義を重視し、日本国内の取材だけでなく、中国やソ連の情勢にも強い関心を持ち、独自の視点で国際政治を分析しました。
中国問題の専門家としての発信と影響力
尾崎が最も力を入れたのは中国問題に関する報道でした。彼は、当時の日本の対中政策に対し、批判的かつ冷静な視点を持って分析を加えました。1920年代後半から1930年代にかけて、中国では蒋介石率いる国民党と共産党が対立しながらも、抗日運動が激化していました。一方、日本では満州事変(1931年)を契機に中国大陸への軍事介入を強めており、国際社会との緊張が高まっていました。
尾崎は、日本の対中政策に対する疑問を抱きながらも、あくまでジャーナリストとして客観的な立場を保つよう努めました。彼は、蒋介石の国民党政府が日本の脅威にどのように対処しようとしているのか、また中国共産党がどのように台頭してきたのかを詳細に分析し、その動向を記事にまとめました。こうした記事は、日本政府や軍部の意向とは異なる視点を提供するものとして、多くの知識人から支持を受けました。
また、尾崎はリヒャルト・ゾルゲやアグネス・スメドレーといった国際的なジャーナリストやスパイと接触し、中国情勢に関する情報を共有していました。彼らとの交流を通じて、中国革命や共産主義思想に対する理解を深めるとともに、日本の外交政策に関する新たな視点を獲得していきました。
言論活動を通じた社会へのインパクト
尾崎の書く記事は、多くの知識人や政治家に影響を与えました。彼の分析は、単なる報道を超え、日本の外交政策の問題点を鋭く指摘するものでした。特に、満州事変後の日本の対中戦略に対しては、慎重な外交政策を求める論調を展開し、軍部の強硬路線とは異なる視点を提示しました。
しかし、時代は次第に戦争へと向かい、言論の自由はさらに厳しく制限されていきました。1930年代半ばになると、政府や軍部による検閲が強化され、尾崎のような批判的な視点を持つジャーナリストに対する圧力が増していきました。彼の記事も削除や改変を余儀なくされることが増え、次第に自由な言論活動が難しくなっていきました。
それでも尾崎は、自らの信念を貫き、ジャーナリズムを通じて日本の進むべき道を模索し続けました。彼は「戦争ではなく、対話と外交による解決が必要である」との立場を貫き、日本が軍国主義に傾斜していくことを強く懸念していました。
こうした尾崎の言論活動は、単なる新聞記事の枠を超え、当時の日本の政治・外交政策に一定の影響を与えるものとなりました。しかし、その活動が後にゾルゲ事件へと繋がり、彼自身の運命を大きく左右することになるのです。
上海時代 – 中国革命との出会い
特派員としての上海駐在と取材活動
1930年、尾崎秀実は朝日新聞の特派員として上海に赴任しました。当時の上海は、国際的な政治・経済・文化の交差点であり、日本・欧米・中国の影響が入り混じる都市でした。20世紀初頭からの租界(外国人居留地)が発展し、西洋の近代的なビジネス街が広がる一方、旧市街では貧しい労働者や農民が暮らし、中国の急激な社会変動の縮図とも言える場所でした。
尾崎は特派員として、中国国内の政治動向を取材する役割を担いました。彼の主な取材対象は、蒋介石率いる国民党政府、毛沢東ら共産党勢力、さらには列強諸国の対中政策でした。上海には、蒋介石の国民党政府の影響力が強い一方で、共産党の地下活動も活発であり、さらに西洋列強の思惑が絡み合う複雑な状況でした。尾崎はこうした環境の中で、日中関係の行方を左右する情報を収集し、日本の新聞を通じて報じました。
上海での取材を通じて、尾崎は中国の革命運動に対する理解を深めていきました。彼は、国民党と共産党の対立だけでなく、一般市民の生活や、中国国内の反日感情の高まりも間近で観察しました。満州事変(1931年)以降、日本軍は満州(現在の中国東北部)を占領し、中国との軍事的対立を強めていましたが、尾崎はその影響が上海を含む中国全土に広がっていることを痛感しました。
また、上海には各国のジャーナリストや外交官が集まっており、尾崎は欧米の記者とも積極的に交流しました。彼は日本の新聞記者としてだけでなく、国際的な視点から中国問題を分析する姿勢を持ち、欧米の記者とも議論を交わしながら情報を深めていきました。
中国革命を支持した背景とその思想的変化
尾崎は、当初はあくまでジャーナリストとして中国情勢を観察していましたが、次第に日本の対中政策に疑問を持つようになります。特に、蒋介石の国民党が日本の軍事的圧力を受けながらも国内の統治を維持しようとする姿勢、さらには共産党が農民や労働者を支持基盤として勢力を伸ばしていることに注目しました。
日本では、中国の共産党勢力を「過激な反日集団」として報じることが多かったですが、尾崎は現地での取材を通じて、その実態が単なる反日ではなく、中国の社会改革を目指す運動であることを理解しました。彼は、日本の植民地政策や軍国主義的な外交路線が、むしろ中国の民族意識を強め、共産党の支持を拡大させる要因になっていると考えるようになりました。
特に、1932年に起こった「第一次上海事変」は、彼の思想に大きな影響を与えました。この事件では、日本軍が上海の中国軍と衝突し、一時的に市街戦が繰り広げられました。尾崎は、この戦闘の背後にある日本の軍国主義的な政策と、中国の抵抗運動の関係を詳細に分析し、日本国内の報道とは異なる視点から記事を書きました。
また、中国共産党の動向についても独自の取材を行い、彼らが農民や労働者の支持を集める理由を探りました。中国共産党が行っていた土地改革や労働者の権利向上の取り組みは、日本の大資本家や官僚による支配が強い当時の日本社会と対照的であり、尾崎はその点に注目しました。彼は、日本が軍事的な圧力で中国を支配しようとするのではなく、中国の民族的自立を尊重し、対等な関係を築くべきだと考えるようになりました。
魯迅やアグネス・スメドレーとの交流がもたらした影響
上海時代の尾崎は、国際的な知識人や文化人との交流も深めていきました。その中でも、特に影響を受けたのが 魯迅 や アグネス・スメドレー との出会いでした。
魯迅は、中国文学界の巨星であり、強烈な社会批判を伴う作品を多く発表していました。彼の作品には、日本の軍国主義に対する批判や、中国の封建制度への抵抗が色濃く反映されており、尾崎はこれに深く共感しました。魯迅との交流を通じて、尾崎は「言論によって社会を変革する」という信念を強め、ジャーナリストとしての使命感を新たにしました。
また、アグネス・スメドレーは、アメリカ出身の女性ジャーナリストであり、中国共産党や革命運動を支持する記事を多く執筆していました。彼女は、社会主義思想に基づいた社会変革を支持し、中国の貧しい人々の立場に立った報道を続けていました。尾崎はスメドレーとの交流を通じて、社会主義や共産主義の理論に関心を持つようになり、日本の帝国主義的な政策に対する批判的な視点をさらに強めていきました。
こうした人物との交流によって、尾崎は「中国の変革は単なる一国の問題ではなく、アジア全体の未来に関わる問題である」という視点を持つようになりました。彼は、日本が中国を武力で支配しようとするのではなく、中国の独立と発展を尊重し、協力関係を築くべきだと考えるようになったのです。
尾崎の上海時代は、単なる記者としての取材活動を超え、彼自身の思想的な転換点となる時期でした。日本の軍部による対中政策を批判し、アジアの共存共栄を模索する立場を明確にし始めたこの時期は、彼の後の活動の大きな基盤となりました。
そして、上海での経験が、やがて彼を運命的な人物へと引き寄せることになります。次章では、尾崎がリヒャルト・ゾルゲとどのように出会い、いかにして日本の政治に深く関与していったのかを見ていきます。
ゾルゲとの運命的な出会い
ゾルゲとの接点とその関係の深化
上海時代の尾崎秀実は、中国問題の専門家として国際的な視野を持つジャーナリストへと成長していました。そんな彼の運命を大きく変えたのが、ソ連の諜報員 リヒャルト・ゾルゲ との出会いでした。
ゾルゲは、ソ連の対外情報機関である赤軍参謀本部(GRU)に所属し、日本やドイツの政治・軍事情報を収集するために活動していた人物でした。彼は、ジャーナリストとしての肩書きを隠れ蓑にしながら、日本の軍事動向を探るために上海に滞在していました。ゾルゲは、世界的な政治情勢を見極める優れた分析力を持ち、幅広い人脈を築くことに長けていました。そのネットワークの中で、中国問題に精通し、日本の政策にも深い洞察を持つ尾崎は、格好の協力者となり得る存在だったのです。
1930年頃、上海の外国人記者クラブや知識人が集まるサロンで、尾崎とゾルゲは初めて出会いました。二人はすぐに意気投合し、特に 日本の対中政策、国際情勢、ソ連の役割 について頻繁に議論を交わすようになりました。尾崎にとって、ゾルゲは単なる外国人ジャーナリストではなく、世界の動向を冷徹に分析しながら、日本の政治と軍事を深く理解しようとする知的な同志のような存在でした。
尾崎がゾルゲに惹かれた理由の一つに、ゾルゲの持つ「日本の軍国主義に対する批判的な視点」がありました。尾崎自身も日本の帝国主義的な政策に疑問を抱き、アジア全体の未来を見据えた外交が必要だと考えていました。ゾルゲとの会話を重ねるうちに、尾崎はより一層 国際的な視点から日本の政策を考えるようになり、日本が軍事的拡張ではなく外交的な協調を進めるべきだ という信念を強めていきました。
ソ連のスパイ組織「ゾルゲ諜報団」への関与
尾崎とゾルゲの関係が深まるにつれ、尾崎はゾルゲが単なるジャーナリストではなく、ソ連の情報機関とつながっていることを薄々感じるようになりました。しかし、当時の彼はソ連のスパイ活動に対して直接的な関与をするつもりはなく、あくまで 情報交換の一環 として交流を続けていました。
しかし、1933年に尾崎が上海から東京へ戻ると、ゾルゲもまた日本への潜入活動を本格化させていました。ゾルゲは、ソ連のために日本の政治・軍事情報を収集するためのスパイネットワーク 「ゾルゲ諜報団」 を構築し、日本国内で信頼できる情報提供者を求めていました。彼は尾崎に対し、日本の外交・軍事政策に関する情報提供を求めるようになります。
この頃の尾崎は、既に朝日新聞を退社し、近衛文麿のブレーンとして活動するようになっていました。彼は 昭和研究会 に所属し、日本のアジア政策や戦争回避の可能性を探る政策立案に関わっていました。つまり、彼は 政府の中枢に極めて近い立場 になっていたのです。この状況を知ったゾルゲは、尾崎が持つ情報が極めて価値の高いものであると判断し、より積極的な協力を求めるようになります。
最初のうち、尾崎は「日本の軍国主義を抑制するための情報提供」と考え、ゾルゲに対して軍部の動向や外交政策の内部情報を伝えていました。彼の意識としては、日本が無謀な戦争へと突き進むことを避けるため、国際的な視点からバランスの取れた政策を実現させることが目的でした。しかし、次第にその情報提供の内容は機密性を増し、政府高官の会議内容や軍事計画に関する極秘情報まで含まれるようになっていきました。
尾崎秀実が果たした役割と情報提供の実態
尾崎がゾルゲ諜報団の一員として果たした役割は、日本政府内部の情報をソ連へ伝達することにありました。彼は近衛文麿のブレーンとして得た情報をゾルゲに提供し、それがモスクワへと送られるルートを確立していました。具体的には、
- 日本政府内での対ソ政策の議論の内容
- 日独伊三国同盟に関する交渉過程
- 対米戦争の可能性に関する軍部の動向
といった極めて重要な情報が、彼を通じてゾルゲからソ連へと伝えられていました。特に、日本が太平洋戦争へと突入する可能性に関する情報 は、ソ連の戦略に大きな影響を与えました。当時、ソ連はナチス・ドイツとの独ソ戦(1941年6月開戦)に備える必要があり、日本がソ連と戦う意思を持っているのか、それとも南進して東南アジアへ侵攻するのかを見極めることが極めて重要でした。
尾崎は、1941年の夏に「日本はソ連ではなく、アメリカやイギリスを相手に戦争を始める可能性が高い」という情報をゾルゲに伝えました。この情報はモスクワへ送られ、ソ連は極東での防衛を最小限にとどめ、西部戦線に戦力を集中させる決断を下しました。この戦略が、独ソ戦の流れを大きく左右する要因の一つとなったのです。
尾崎自身は、自らの行動が「スパイ行為」と見なされる可能性を理解していました。しかし、彼にとってそれは単なるスパイ活動ではなく、日本が軍国主義の暴走を止め、戦争を回避するための手段であると考えていました。彼は、日本が軍事的拡張ではなく、より合理的な外交戦略を取ることを望んでおり、そのためにゾルゲへの情報提供を続けていたのです。
しかし、こうした活動はやがて憲兵隊の知るところとなり、1941年10月、尾崎は ゾルゲ事件 に関連して逮捕されることとなります。
近衛文麿のブレーンとして
近衛内閣の政策立案に関与した背景
1930年代後半、日本は急速に軍国主義へと傾斜し、国内外の情勢はますます緊迫していました。1937年に盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が本格化すると、日本政府内では対中政策をめぐる議論が激しさを増しました。この混乱の中で、首相 近衛文麿 は「東亜新秩序」の確立を掲げ、中国との和平交渉を進める一方、軍部の強硬姿勢との板挟みに苦しんでいました。
尾崎秀実は、こうした政治的混迷の中で 「昭和研究会」 という政策研究機関に所属し、近衛内閣のブレーンとしての役割を果たすようになりました。昭和研究会は、近衛の側近である西園寺公一や牛場友彦らが中心となり、日本の新たな国家戦略を模索するシンクタンク的な存在でした。尾崎は、ここで日本の対中政策や国際関係についての意見を述べる機会を得るとともに、政策立案にも関与していきます。
特に、尾崎は「中国問題の専門家」として評価され、近衛をはじめとする政府高官から意見を求められる機会が増えていきました。彼は、日本が中国との全面戦争を回避し、外交的な解決を模索すべきだと主張しましたが、当時の軍部はすでに戦線の拡大を進めており、尾崎の提言は次第に現実と乖離していくことになります。
昭和研究会と東亜協同体論の形成過程
昭和研究会は、日本がアジアの国々と協調し、新しい国際秩序を構築することを目的としていました。その中で生まれたのが、「東亜協同体論」 という概念でした。この思想は、「日本・中国・満州が協力し、欧米の植民地支配とは異なる形のアジア共同体を形成するべきだ」というもので、表向きは「アジア解放」を掲げていました。
尾崎は、この東亜協同体論の形成に深く関わりました。彼は、軍事的な支配ではなく、経済的・文化的な協力関係を築くことで、日本がアジアのリーダーシップを取るべきだと考えていました。しかし、軍部はこの概念を「日本が主導する新秩序」として利用し、アジア支配の正当化に用いるようになっていきました。
尾崎自身は、決して軍国主義的な東亜協同体論を支持していたわけではなく、「日本が一方的に支配するのではなく、各国が対等な関係を築くべきだ」と主張していました。しかし、現実にはその理想は軍部によって歪められ、東亜協同体は「大東亜共栄圏」へと発展し、日本の侵略政策を正当化するスローガンへと変質していきました。尾崎はこの変化を憂慮しながらも、なおも日本の外交政策を平和的な方向へ導くために奔走していました。
満鉄調査部や政府高官との関わりと影響力
尾崎は、昭和研究会の活動だけでなく、満鉄調査部(南満州鉄道株式会社の調査機関)とも関わりを持っていました。満鉄調査部は、満州の経済・政治・軍事に関する情報を収集し、日本政府や軍部に政策提言を行う役割を担っていました。尾崎はここで、アジアの国際関係についての情報分析を行い、日本の対中政策に影響を与えていました。
また、尾崎は政府高官や政治家とも積極的に交流し、近衛文麿のほか、後藤隆之助 や 牛場友彦 らと親交を深めました。彼は、近衛内閣の政策決定過程において重要な役割を果たし、日本の対中戦略に関する提言を行っていました。しかし、軍部の影響力が強まる中で、尾崎のような平和的な外交を志向するブレーンの影響力は徐々に低下していきました。
尾崎は、日本が軍事力によって中国を支配するのではなく、経済的・文化的な関係を通じてアジアの安定を図るべきだと主張していました。しかし、1939年には第二次世界大戦が勃発し、世界情勢はますます不安定になっていきました。尾崎の理想とは裏腹に、日本の軍部はさらに戦争の拡大を進め、日独伊三国同盟(1940年)や南進政策を推し進めていきました。
こうした状況の中で、尾崎はゾルゲとの関係を維持しながら、日本の政策に関する極秘情報を提供し続けていました。彼は、日本が軍事的冒険に走ることを防ぐため、国際的な視点から冷静な判断を下す必要があると考えていました。しかし、1941年になると、彼の活動は憲兵隊に察知され、やがてゾルゲ事件として日本の歴史に刻まれることになります。
二重生活の真実 – スパイ活動の実態
尾崎秀実が担った諜報活動の詳細
尾崎秀実は、日本政府の中枢に近い位置で活動しながら、ソ連のスパイ組織「ゾルゲ諜報団」に情報を提供していました。彼はゾルゲとの関係を通じて、ソ連が日本の外交・軍事戦略を正確に把握できるよう支援していました。
特に重要だったのは、日独伊三国同盟(1940年締結) に関する情報提供でした。当時、日本はナチス・ドイツやイタリアと軍事同盟を結び、国際社会における立場を明確にしようとしていました。しかし、尾崎はこの同盟が日本の外交の選択肢を狭め、結果的にアメリカやイギリスとの対立を決定的なものにすると懸念していました。彼は近衛文麿のブレーンとして政府内の議論を間近で観察し、それをゾルゲを通じてモスクワに伝えていました。
また、日本の対ソ戦略に関する情報 も、尾崎の諜報活動の大きな部分を占めていました。ソ連は、日本が北進(対ソ戦)と南進(対英米戦)のどちらの方針を取るかを見極める必要がありました。尾崎は、日本政府内で「南進論」が優勢になりつつあることを把握し、1941年夏に「日本はソ連を攻撃せず、南進政策を推し進めるだろう」との情報をゾルゲに伝えました。この情報はモスクワへと送られ、スターリンは極東での防衛力を減らし、ドイツとの戦争(独ソ戦)に全力を集中する決断を下しました。これはソ連の防衛戦略にとって極めて重要な情報となりました。
尾崎が伝えた情報は、単なる憶測ではなく、近衛内閣の政策決定プロセスや軍部の動向に基づいたものでした。彼は政策会議の議事内容や政府高官の発言を細かく分析し、それをゾルゲに伝えることで、ソ連がより的確に日本の動きを予測できるよう支援していました。
軍部との関係と機密情報の流出経路
尾崎の情報提供は、どのようなルートを通じて行われていたのでしょうか。彼は政府内の機密情報に直接アクセスできる立場にありましたが、慎重に動く必要がありました。当時、日本国内ではスパイ活動に対する監視が厳しくなっており、軍部は情報漏洩を防ぐための対策を強化していました。そのため、尾崎はゾルゲとの接触方法や情報の伝達手段に細心の注意を払っていました。
一般的に、機密情報は口頭で伝えられることが多かったと言われています。尾崎は、ゾルゲやその仲間と東京のカフェやホテルの一室で密会し、暗号化したメモや口述筆記を通じて情報を渡していたと考えられています。また、尾崎はソ連への直接的な情報伝達は行わず、ゾルゲが仲介する形でモスクワへ情報が送られていました。ゾルゲは、ドイツ大使館の新聞記者としての立場を利用し、ドイツとソ連の通信ルートを活用していたため、情報の流れは慎重に管理されていました。
尾崎の立場が特に重要だったのは、彼が軍部と政界の両方にアクセスできる数少ない人物だったからです。彼は近衛内閣の政策に関与しながらも、軍部の意向を理解し、また満鉄調査部とのつながりを通じて満州での日本の動向を把握することもできました。このため、彼の提供する情報は非常に価値が高く、ソ連にとっては戦略的に極めて有益なものだったのです。
しかし、1941年に入ると、ゾルゲ諜報団に対する日本の警察と憲兵隊の監視が強化され、少しずつ危険が迫っていました。尾崎自身も、自らの活動が発覚すれば死刑は免れないことを理解していましたが、それでも彼は「日本が無謀な戦争に突き進むのを防ぐため」と考え、情報提供を続けていました。
家族、特に妻・英子との関係に見える苦悩
尾崎秀実は、スパイ活動を行う一方で、家庭ではごく普通の夫としての顔も持っていました。彼の妻 尾崎英子 は、夫が政治や国際関係に関心を持ち、知識人たちと交流することに理解を示していましたが、夫が国家機密に関わる危険な活動をしていることには気づいていなかったとされています。
尾崎と英子の関係は非常に良好であり、尾崎は家庭では穏やかな性格の持ち主でした。しかし、次第に彼の行動に対する周囲の警戒が強まり、英子も不安を抱えるようになっていきました。尾崎は、自らの活動が家族に危険を及ぼす可能性があることを承知しており、それゆえに彼女には詳細を語ることはありませんでした。
また、英子は夫の逮捕後に初めて彼のスパイ活動を知ることとなります。彼女は夫の行動を完全には理解できなかったものの、最後まで彼を支え続けました。尾崎が逮捕され、裁判にかけられる中で、英子は夫の無実を信じ続けましたが、彼の思想や信念を考えれば、情報提供が単なるスパイ行為ではなく、日本の未来を憂うがゆえの行動だったことを理解し始めたと言われています。
尾崎は獄中でも妻に手紙を書き続け、その中で自身の思想や信念、家族への愛情を綴っていました。これらの手紙は、後に『愛情はふる星のごとく』としてまとめられ、彼の内面や苦悩を知る貴重な記録となっています。彼は最後まで自身の行動を悔いることなく、「日本の未来のために尽くした」との思いを持ち続けたのです。
最期の日々 – 獄中からのメッセージ
ゾルゲ事件での逮捕から裁判までの経緯
1941年10月、ゾルゲ事件 の摘発により、尾崎秀実は憲兵隊によって逮捕されました。ゾルゲ諜報団の活動は以前から警察や憲兵隊に監視されており、特にドイツ大使館員クラウゼンの動きが捜査の突破口となりました。ゾルゲ自身の逮捕が決定的となると、その関係者として尾崎も逮捕され、厳しい尋問を受けることになります。
尾崎に対する容疑は、国家機密の漏洩、特に日独伊三国同盟に関する情報をソ連に提供したこと でした。彼の供述や物証、さらにゾルゲとの関係が決定的証拠とされ、国家反逆罪に問われることになります。当時の日本は、太平洋戦争開戦を目前に控え、国内の治安維持が最優先とされていたため、スパイ行為は極めて重い罪に位置付けられていました。
尾崎は逮捕後、東京の 巣鴨プリズン(現・東京拘置所)に収監され、そこで約2年にわたり厳しい取り調べを受けました。尋問は連日続き、憲兵隊は彼に対し 「国家の裏切り者」 という烙印を押しました。しかし、尾崎は供述を強要される中でも、自らの信念を貫き、日本の未来のために行動したことを主張し続けました。彼は、自らの情報提供が「日本の軍国主義を抑え、戦争を回避するためのものだった」と述べ、決して個人的な利益のためではなかったことを強調しました。
1944年、軍法会議による裁判が開始されました。尾崎は弁護の余地をほとんど与えられず、すでに有罪は確定的でした。裁判では「日本政府の機密情報を外国に流した」という罪状が正式に認定され、彼には 死刑判決 が下されました。
獄中での思想の変遷と精神的葛藤
尾崎は獄中での生活の中で、自らの思想を改めて見つめ直しました。彼は、「日本が戦争に突き進むのを防ぎたかった」という信念を持ちながらも、自らの行動が最終的にどのような影響を与えたのかを深く考えるようになりました。
獄中で彼が綴った手記には、日本がいずれ戦争に敗れることへの予見が記されています。彼は、日本の軍国主義が長続きせず、最終的には国民に大きな苦難をもたらすだろうと考えていました。そして、その後の日本がどのように変わるべきかについても言及しており、「平和と民主主義を基盤とした新しい日本の姿」 を思い描いていました。
また、彼は自らの家族や友人に対する感謝の言葉も多く残しています。特に妻 尾崎英子 への愛情を込めた手紙は、彼の内面の葛藤と共に、家族への深い思いを伝えるものとなっています。彼は「自分の行動が家族に苦しみを与えたことは痛恨の極みであるが、それでも自らの信念を貫いたことに後悔はない」と記しました。
死の直前まで綴った記録『愛情はふる星のごとく』
尾崎が獄中で残した手紙や文章は、後に 『愛情はふる星のごとく』 としてまとめられました。この書簡集は、彼の思想や信念、そして最後の瞬間までの心情が克明に記録されたものです。
この中で彼は、戦争がもたらす悲劇や、日本の将来に対する思いを率直に綴っています。また、家族や親しい友人への別れの言葉も含まれており、彼が最期まで知的で冷静な態度を保ち続けていたことが伺えます。
1944年11月7日、尾崎秀実は 巣鴨プリズンで死刑を執行されました。享年43歳でした。彼の死は、ゾルゲ事件の象徴的な出来事として、日本の戦時下の厳しい政治状況を物語るものとなりました。
尾崎の遺した言葉は、戦後の日本の民主主義と平和への道を考える上で、重要な意味を持っています。彼は最後まで「国家のために何が正しいのか」を問い続け、自らの信念に殉じたのです。
尾崎秀実が描かれた書籍とその評価
『愛情はふる星のごとく』――獄中書簡が語る信念
尾崎秀実が獄中で綴った手紙や記録は、後に 『愛情はふる星のごとく』 としてまとめられました。この書簡集は、彼の思想や内面の葛藤を知るうえで極めて貴重な資料となっています。
この本のタイトルには、尾崎の精神的な姿勢が象徴されています。「ふる星のごとく」とは、彼が最後まで揺るがなかった信念を指し示しており、死を前にしても動じなかった彼の強い意志が込められています。彼は、単なるスパイではなく、日本の未来を憂い、戦争回避のために行動した知識人であったことを、手紙の中で繰り返し訴えています。
特に、妻・英子への手紙 は感動的な内容となっており、尾崎の家族への愛情と、彼が自らの行動をどのように考えていたのかが詳細に綴られています。「君を苦しめたことは、私の生涯最大の悔いである。しかし、私は私の信じた道を行くしかなかった」と記されており、彼の内面の葛藤が垣間見えます。彼は妻に対して、これからの人生を強く生きるようにと励まし、また彼女に寄せる深い愛情を示しています。
この書簡集は、戦後になって出版され、多くの人々に読まれました。特に、尾崎の思想に共鳴した知識人やジャーナリストの間では、彼の行動を単なるスパイ行為としてではなく、当時の軍国主義に抗った知識人の記録として再評価する動きが広まりました。
『現代支那論』――中国問題の専門家としての分析視点
尾崎秀実は、ジャーナリストとしてだけでなく、中国問題の専門家 としても多くの著作を残しました。その中でも代表的なものが 『現代支那論』 です。
この書籍は、彼が朝日新聞記者時代に取材した中国の政治・経済・社会情勢を分析し、日本の対中政策の課題を指摘したものでした。尾崎は、満州事変(1931年)以降、日本の軍部が中国大陸で拡大政策を取ることに強い懸念を抱いていました。彼は本書の中で、日本の対中戦略が「軍事的な支配」に偏りすぎており、「経済的・文化的な協力」を重視するべきであると主張しています。
また、彼は中国の民族運動や共産党の台頭についても詳細に分析しており、当時の日本政府が軽視していた中国の政治的変化を鋭く指摘していました。尾崎は、単なるイデオロギー的な立場ではなく、冷静な現実分析を基に「日本が中国とどのように向き合うべきか」を論じており、戦後の中国研究にも大きな影響を与えました。
戦後、この書籍は再評価され、日本の歴史学者や国際政治学者の間で「日本が戦争を回避する道を提示していた貴重な記録」として注目されました。尾崎が指摘した「対等なアジア外交」の必要性は、戦後日本の外交政策にも通じるものがあり、彼の先見性が改めて認識されることとなりました。
『ある反逆―尾崎秀実の生涯』――尾崎秀実という人物像の再評価
尾崎秀実の生涯を描いた伝記の中で、最も有名なものの一つが 風間道太郎による『ある反逆―尾崎秀実の生涯』 です。本書は、尾崎の思想や行動を徹底的に掘り下げ、彼がなぜゾルゲ事件に関わるようになったのか、その背景や動機を分析した作品です。
本書は、単なるスパイ事件の記録ではなく、一人の知識人がどのようにして時代の波に巻き込まれていったのか を詳細に描いています。尾崎は、「反逆者」として死刑に処せられましたが、彼の行動の根底には「日本を誤った道から救いたい」という強い意志があったことを、本書は繰り返し強調しています。
特に注目すべき点は、尾崎の 思想的変遷 です。彼は台湾での植民地体験を経て、日本の帝国主義に疑問を持ち、一高・東京帝大での学びを通じてアジア主義に関心を抱きました。さらに、上海での特派員時代に中国革命を間近で見たことで、「日本の進むべき道」を模索するようになりました。そして最終的には、ゾルゲとの出会いをきっかけに、日本の軍国主義に抗う行動へと踏み込んでいったのです。
本書は、こうした尾崎の人生の流れを丹念に追いながら、「彼の行動は果たして裏切りだったのか?」という問いを読者に投げかけます。戦後の日本では、尾崎の評価は単なるスパイではなく、「誤った時代に抗おうとした知識人」としての側面が強調されるようになり、本書もその流れの中で高く評価されました。
尾崎秀実の思想と行動の歴史的評価
尾崎秀実の行動については、現在でも賛否が分かれる部分があります。彼がソ連の諜報活動に協力し、日本の軍事機密を漏洩したことは事実であり、それは当時の日本政府にとって「国家反逆」と見なされるものでした。しかし、その目的は「日本をソ連に売る」ことではなく、「日本が誤った戦争を回避するための情報提供」でした。
彼の残した書籍や手記を読むと、彼がいかに国際情勢を冷静に分析し、日本の未来を真剣に考えていたかが分かります。戦後、日本は軍国主義から脱却し、平和国家としての道を歩むことになりましたが、尾崎が考えていた「アジアとの共存」や「戦争を回避する外交戦略」は、現在の日本外交にも通じる部分があります。
彼の生涯を描いた書籍は、単なる歴史の記録ではなく、「国家とは何か」「愛国とは何か」「知識人はどのように時代と向き合うべきか」といった根源的な問いを現代に投げかけています。
尾崎秀実の生涯を振り返って
尾崎秀実は、台湾での植民地体験から社会の不平等に目を向け、エリート教育を受けながらも、日本の外交や政治のあり方に疑問を抱く知識人へと成長しました。朝日新聞記者として中国問題を追い、上海でゾルゲと出会ったことが彼の運命を大きく変えました。近衛文麿のブレーンとして政府の政策形成に関わる一方、ゾルゲ諜報団の一員として日本の動向をソ連に伝えた彼の行動は、単なるスパイ活動ではなく、「戦争を防ぐための知的闘争」でした。
彼の思想は獄中でも揺るがず、家族や同志への手紙に込められた信念は『愛情はふる星のごとく』として残されました。戦後、日本は軍国主義を脱し、民主主義国家へと変貌しましたが、尾崎が追い求めた「平和と協調の外交」は今なお重要な課題です。彼の生涯は、時代の波に抗いながらも知識と信念を貫いた、悲劇的でありながらも示唆に富むものでした。
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