こんにちは!今回は、明治・大正期に活躍した政治家・教育者、大隈重信(おおくましげのぶ)についてです。
日本初の政党内閣を組織し、外務・大蔵の両分野で近代国家の礎を築いたほか、私学の雄・早稲田大学を創設するなど、政治・外交・教育の三分野で圧倒的な足跡を残した近代日本のキーパーソン。
爆弾事件で右足を失っても前向きに生きた楽天家・大隈の、波乱と情熱に満ちた生涯をたどります。
八太郎から学問の才へ花開く大隈重信の原点
ひ弱で心優しい、意外な少年時代
明治の日本をダイナミックに動かした大政治家、大隈重信は、1838年(天保9年)、肥前国佐賀、現在の佐賀県に生まれました。幼名は八太郎(はちたろう)。後の豪放磊落(ごうほうらいらく)なイメージからは想像もつきませんが、幼い頃の彼は、実はひ弱で泣き虫な、心優しい少年だったと伝えられています。その物静かな性格から、家の外で元気に遊びまわるよりも、静かに過ごすことの多い子どもだったようです。彼は6歳(数え7歳)になると、佐賀藩の藩校である弘道館(こうどうかん)の外生寮に入学し、学問の道を歩み始めます。彼が育った佐賀藩は、長崎警備の任を通じて海外の情勢に明るく、新しい技術や思想を積極的に受け入れる進取の気風に満ちていました。この先進的な環境が、内向的だった少年の知的好奇心を静かに、しかし力強く育んでいったのかもしれません。彼の人生の出発点は、力強さではなく、繊細な感受性にあったのです。
母・三井子が授けた未来への教え
物静かな八太郎少年を深い愛情で支え、彼の未来を照らす指針を与えたのが、母の三井子(みいこ)でした。大隈が13歳の時に夫を亡くし、女手一つで家庭を切り盛りした彼女は、息子の心に生涯の宝となる教えを授けます。それは、単に善悪を諭すだけでなく、未来へ向かうための心構えを示すものでした。例えば、「いつも先を見て進みなさい」「過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません」という言葉。これは、後年、大隈が幾多の政治的困難や挫折に直面しても、常に前向きな精神を失わなかった楽天性の源流と言えるでしょう。また、「けんかをしてはいけません」「人をいじめてはいけません」「困った人がいたら助けなさい」という教えは、もともと心優しかった彼の気質をさらに育みました。なぜ彼女は、このような未来志向の教えを授けたのでしょうか。それは、変化の時代を生きる息子に必要なのは、過去に囚われることではなく、未来を創造する強い意志と、他者を思いやる温かい心だと信じていたからでしょう。
藩校で光った非凡な記憶力と学びの姿勢
身体的にはひ弱だったかもしれない八太郎ですが、学問の世界、特に藩校・弘道館(こうどうかん)では、他の誰もが目を見張るほどの才能を輝かせ始めます。彼の最も優れた能力の一つが、非凡な記憶力でした。当時の学問の中心であった儒学の書物を声に出して読む「素読(そどく)」では、他の生徒が苦労して覚える内容を、彼は驚くほど速く正確に記憶してしまったといいます。しかし、彼の真価はそれだけにとどまりません。彼は記憶した知識を鵜呑みにせず、常に「なぜそうなるのか?」と物事の本質を深く探究する知的な探求心の持ち主でした。弘道館が教える朱子学(しゅしがく)は、絶対的な秩序や決められた解釈を重んじる学問です。そのため、あらゆることに根本的な疑問を投げかける大隈の姿勢は、伝統的な学風とは相容れないものでした。身体的な強さではなく、この知的な闘争心こそが、旧弊を打破し、新しい日本の設計者となる改革者・大隈重信の真の力の源泉だったのです。
藩校退学が転機に!青年・大隈重信の思想覚醒
師の怒りを買い藩校を追われた日
前回、藩校・弘道館(こうどうかん)で、大隈重信の知的な探求心が古い学問の枠に収まらなくなった、という話をしましたね。その知的な闘争心は、ついに具体的な行動となって爆発します。彼は、形骸化した朱子学(しゅしがく)の教育に飽き足らず、仲間たちと「義祭同盟(ぎさいどうめい)」というグループを結成。教育改革を訴える活動を始めました。彼らの主張は、単なる反抗ではありません。「なぜ実社会で役立たない古典の暗記ばかりなのか?」「もっと実践的な学問を教えるべきだ」という、学びの本質を問う真摯な問題提起でした。しかし、この行動は、伝統と秩序を重んじる藩校の教師たちの逆鱗(げきりん)に触れます。結果として1855年、18歳だった大隈は、藩校から退学処分という重い罰を受けることになりました。彼にとって大きな挫折だったに違いありません。しかし、この出来事こそが、彼の運命を大きく変える転機となります。閉ざされた藩校の門の代わりに、彼の前には、より広く、未知なる世界へと通じる扉が開かれようとしていたのです。
儒学を捨て、蘭学・英語へとのめり込む
藩校を追われた大隈ですが、彼の学びへの情熱は消えるどころか、むしろ新たな方向へと燃え上がりました。彼は、これまで絶対とされてきた儒学に見切りをつけ、佐賀藩が設けていた蘭学寮(らんがくりょう)に活路を見出します。蘭学とは、オランダ語を通じて西洋の進んだ科学技術や文化を学ぶ学問です。なぜ彼は蘭学を選んだのでしょうか。それは、ペリーの黒船来航(1853年)に象徴されるように、外国の脅威が現実のものとなる中で、もはや古い学問では国を守れないという危機感が彼の中に芽生えていたからです。蘭学寮で、彼は貪るようにオランダ語を習得し、西洋の知識を吸収していきました。さらに彼の知的好奇心は留まることを知らず、長崎で出会った、オランダ出身でアメリカから派遣された宣教師グイド・フルベッキのもとで、本格的に英語を学び始めます。儒学という一つの価値観から解放された彼は、蘭学、そして英語という新しい窓を通じて、世界という広大な海へと思考の船を漕ぎ出していったのです。
西洋書物に魅せられた知的探求の毎日
蘭学と英語という強力なツールを手に入れた大隈の日常は、西洋の書物に没頭する知的探求の日々へと変わりました。彼が特に夢中になったのは、アメリカの憲法や国際法に関する書物でした。そこには、身分制度のない平等な社会の仕組みや、国家同士がルールに基づいて交渉する、という彼の知らなかった世界が広がっていました。彼は、ただ本を読んで知識を得るだけではありません。かつての「義祭同盟」のように、志を同じくする仲間たちと夜を徹して議論を交わし、西洋の思想を日本の現実にどう応用できるかを考え続けました。この時期の学びは、単なる学問のための学問ではありませんでした。それは、来るべき新しい日本の国家像を、自分の頭で一から設計していくための、壮大な知的シミュレーションだったのです。後に彼が明治政府の中心で、鉄道建設の推進や「円」という通貨制度の確立に大きく貢献できたのは、この青年期の知的な探求によって、未来を具体的に構想する力が養われていたからに他なりません。
長崎で世界を知った大隈重信、国際人の胎動
宣教師たちとの対話と学びの日々
前回、大隈が蘭学と英語の世界に足を踏み入れた話をしました。彼の学びは、国際都市・長崎で、さらに熱を帯びていきます。その中心にあったのが、アメリカから派遣された宣教師グイド・フルベッキとの出会いでした。大隈は、フルベッキが英語や西洋の学問を教える塾に通い、知的な探求心をおおいに満たしていきます。そこでは、チャニング・ウィリアムズといった他の宣教師たちとも交流し、活発な議論を交わしたことでしょう。彼の学びへの情熱は凄まじく、フルベッキのもとで教材として使われた『アメリカ合衆国憲法』の原文を非常に熱心に読み解いていたと伝えられています。これは単なる語学学習ではありません。書物を通じて、西洋の思想そのものを自らの血肉にしようとする試みでした。彼らとの対話や学びを通じて、大隈は書物だけでは得られない、西洋人の精神性や世界の「今」を吸収し、真の国際人としての素養を身につけていったのです。
異文化に触れたことで芽生えた開明思想
宣教師たちとの知的な対話は、大隈の思想に決定的な変化をもたらしました。これが、彼の代名詞ともなる「開明思想」の芽生えです。例えば、彼が学んだアメリカ合衆国憲法には、「すべての人間は平等につくられ」という理念が謳われています。これは、生まれや家柄で人の価値が決まる日本の封建的な身分制度とは、根本的に異なる価値観でした。なぜ、人は生まれによって差別されねばならないのか。この根源的な問いは、やがて旧態依然とした社会構造そのものへの批判的な視点へと発展していきます。また、宣教師たちから学ぶ西洋の合理的な思考法は、彼に迷信や古い慣習に囚われず、物事を客観的な事実に基づいて判断する姿勢を植え付けました。この「開明思想」とは、単に西洋を模倣することではありません。異文化という鏡に自国を映すことで、日本の長所と短所を冷静に見極め、より良い未来のために変革すべき点を見つけ出そうとする、知的で前向きな態度のことだったのです。
英語力が開いた「外交」という新たな関心
『アメリカ合衆国憲法』の原文を読み解くほどの英語力を身につけたことで、大隈の関心は新たな地平へと広がっていきます。それが「外交」という分野でした。彼は、フルベッキらとの対話を通じて、欧米の国々が互いに条約を結び、国際的なルールに基づいて関係を築いているという世界の現実を学びます。当時の日本は、外国の圧力の前に、個別の藩や幕府がバラバラに対応している状態でした。これからの日本が世界と渡り合っていくためには、国全体として統一された意思を持ち、国際法という共通言語を駆使して交渉しなければならない。大隈は、そう痛感したに違いありません。この気づきは、彼の視野を、佐賀藩という一地方の問題から、日本という国家が世界の中でどう生きるべきか、という壮大なテーマへと一気に押し上げました。この時点ではまだ一介の書生でしたが、彼の胸の内では、英語力という武器を手に、日本の未来を国際舞台で切り拓きたいという熱い思いが静かに燃え始めていたのです。
明治政府のキーマンへと躍進した大隈重信
新政府に抜擢、外交で頭角を現す
長崎で培われた大隈の国際感覚と知識は、新しい国づくりを担う人材を探していた明治新政府の有力者たちの目に留まります。特に、長州藩出身の木戸孝允や井上馨といった人物にその才能を見出され、彼は中央政界へと招かれました。1868年、徴士参与・外国事務局判事という役職に就いた彼を待っていたのは、いきなりの大仕事でした。当時、政府が長崎のキリシタンを弾圧した「浦上四番崩れ」をめぐり、日本は諸外国から厳しい非難を浴びていました。この難交渉の担当者に、大隈は伊藤博文と共に抜擢されます。相手は、歴戦の外交官である英国公使ハリー・パークス。大隈は臆することなく、長崎で学んだ国際法の知識を駆使し、「信教の自由は各国の内政問題である」と日本の主権を主張、論理的に渡り合いました。この堂々とした姿勢は、政府部内でも高く評価され、彼は若き外交官として鮮烈なデビューを飾ったのです。
32歳で参議に、国家改造の最前線へ
外交の舞台で見せた卓越した手腕などが評価され、大隈の政府内での地位は急速に上昇していきます。そして1870年(明治3年)、彼は32歳(数え歳33)で「参議(さんぎ)」に就任しました。参議とは、太政官制における最高議決機関の一員であり、事実上、国家の政策決定を担うトップリーダーの一人です。長崎で日本の未来を憂いていた一青年が、中央政界に登場してからわずか2年余りで、国政の中枢を担う存在へと駆け上がったのです。この抜擢は、新しい日本を創るためには、身分や家柄ではなく、彼のような実力とビジョンを持つ人材こそが必要だという時代の要請の表れでした。ここから大隈は、一外交官としてではなく、国家全体の設計に携わる改革者として、本格的にその能力を発揮していくことになります。彼の目の前には、日本のあらゆる制度をゼロから作り変えるという、壮大で困難な仕事が広がっていました。
大蔵卿として財政改革を断行
参議として国家の大きな方向性を定めつつ、大隈が特にその情熱と能力を注ぎ込んだのが、財政分野の改革でした。彼は大蔵大輔(次官)、そして大蔵卿(大臣)として、発足したばかりで財政基盤が極めて脆弱だった明治政府の金庫番を任されます。なぜ彼がこの重責を担ったのでしょうか。それは、彼が外交経験を通じて、強い国家を作るためには、何よりもまず安定した財政が不可欠だと痛感していたからです。外国と対等な関係を築くにも、国内の産業を興すにも、その土台にはお金の問題が横たわっていました。彼は、複雑に入り組んでいた旧来の税制や貨幣制度に大ナタを振るい、近代的な国家財政の基礎を築くことに尽力します。この時期の彼の働きは、まさに日本の「内なるインフラ」を整備する仕事でした。外交で培った国際的な視野を、国内の制度設計に活かす。この独自の立ち位置こそが、大隈重信を明治政府にとって不可欠なキーマンたらしめたのです。
日本の近代化に奔走する政治家・大隈重信
鉄道・貨幣制度改革に見た先見の明
大蔵卿として財政のトップに立った大隈が、まず取り組んだのが、日本の未来を形作る二つの大事業でした。一つが「鉄道建設」です。当時、日本にはまだ本格的な鉄道はなく、「陸蒸気(おかじょうき)」などと呼ばれ、多くの人々にとっては未知の乗り物でした。当然、莫大な建設費がかかることから政府内でも反対意見が渦巻きます。しかし大隈は、人やモノの移動を劇的に速める鉄道こそが、国を一つにまとめ、産業を発展させる大動脈になると確信していました。彼は反対派を説得し、英国から借款(しゃっかん)を得るなどして、見事に日本初の鉄道(新橋-横浜間)を開業させます。もう一つが「円の制定」です。江戸時代まで、日本のお金は藩ごとにバラバラで、非常に不便でした。大隈はこれを「円・銭・厘」を単位とする新しい通貨制度に統一します。なぜこの通貨制度だったのでしょうか。それは、彼が欧米の通貨が採用していた十進法に注目し、これが計算しやすく合理的だと考えたからです。この合理的な通貨制度の確立は、日本の経済活動を飛躍的に発展させました。これらは単なるインフラ整備ではありません。日本の100年先を見据えた、彼の驚くべき先見の明の表れだったのです。
立憲改進党を旗揚げ、憲政への道を探る
経済の土台づくりと並行して、大隈の関心は、国の政治のあり方そのものへと向かっていきました。彼は、政府が一部の権力者だけで物事を決めるのではなく、国民の代表者による議会を通じて運営されるべきだと考えていました。これは、彼が学んだイギリス流の議会制民主主義の理想です。この考えは、やがて政府内で対立を生む原因ともなりますが、彼の信念は揺らぎませんでした。1881年に政府を去った後、彼はその理想を実現するための新たな挑戦を始めます。翌1882年、彼は「立憲改進党」という政党を結成したのです。なぜ政党が必要だったのでしょうか。それは、同じ志を持つ仲間と力を合わせ、国民に政策を直接訴え、選挙を通じて正々堂々と政権獲得を目指す、という近代的な政治を実現するためでした。当時、板垣退助が率いる自由党が急進的な改革を訴えたのに対し、大隈の立憲改進党は知識人や実業家などを支持基盤とし、穏健な進歩を掲げました。これは、彼の現実主義的な政治家としての一面を示しています。
不平等条約改正への問題意識と試み
大隈の視野は、常に「世界の中の日本」という大きなスケールで物事を捉えていました。彼が政治家として生涯をかけて取り組んだテーマの一つが、「不平等条約の改正」です。幕末に欧米諸国と結んだ条約は、日本に治外法権(外国人の犯罪を日本の法律で裁けない)を認めさせ、関税自主権(輸入品にかける税金を自由に決められない)を奪うなど、国家の主権を著しく侵害する不平等なものでした。大隈は、この状況が日本の経済的な発展を妨げ、国際社会における日本の地位を不当に低めていると強く問題視していました。彼は、この屈辱的な条約を改正するためには、まず日本が欧米諸国の信頼を得られるような近代国家にならなければならない、と考えていました。国内の法律や制度を整備し、産業を育成すること。彼が進めた鉄道建設や貨幣制度の改革といった国内の近代化は、すべてがこの不平等条約改正という大きな目標に繋がる、長期的な布石だったのです。彼の改革は、常に世界と対峙する日本の未来を見据えていました。
爆弾事件と挫折を越えた大隈重信の不屈の精神
明治14年の政変と政界からの退場
大隈はイギリス流の議会政治を理想としていました。その理想の追求が、彼に最初の大きな政治的挫折をもたらします。1881年(明治14年)、大隈は、早期に憲法を制定し国会を開くべきだ、という急進的な意見書を政府に提出しました。しかし、これは伊藤博文ら薩摩・長州藩出身の政府首脳たちとの深刻な路線対立を招きます。ちょうどその頃、北海道開拓使の官有財産を安価で払い下げようとした事件に対する世論の批判が激化しており、その混乱の責任を負わされる形で、大隈は政府から追放されてしまいました。これが「明治十四年の政変」です。これは、彼の国づくりに関する思想と、薩長を中心とする藩閥勢力との激しい権力闘争の末の出来事でした。輝かしいキャリアを歩んできた彼にとって、これは権力の中枢からの完全な「退場」を意味する、手痛い敗北だったのです。
来島恒喜の爆弾で右脚を失うも前進
政変から数年後、大隈はその能力を買われ、外務大臣として政界に復帰します。彼が取り組んだのは、長年の懸案であった不平等条約の改正交渉でした。しかし、この愛国的な試みが、彼をさらなる悲劇へと導きます。1889年(明治22年)、大隈がまとめた条約改正案の中に、外国人判事を日本の裁判所に任命するという内容が含まれていました。これが国内の一部の国粋主義者たちから「弱腰外交」と激しく非難されます。そして10月18日、外務省からの帰宅途中、彼の乗る馬車に向かって、来島恒喜(くるしまつねき)という青年が爆弾を投げつけました。爆発により大隈は瀕死の重傷を負い、一命はとりとめたものの、右脚を大腿(だいたい)の下部から切断するという、あまりにも大きな代償を払うことになります。この事件により、条約改正交渉は頓挫し、彼は再び外務大臣の職を辞することに。政治的な挫折と、取り返しのつかない身体的ダメージという二重の絶望が彼を襲いました。
怨まず前を向く、政治家としての矜持
右脚を失い、政治生命も絶たれかねない。そんな絶望的な状況でこそ、大隈重信という人間の真の強さが示されます。彼は、自分を襲った犯人について、一切の恨み言を口にしませんでした。それどころか、見舞いに来た人々に対し「彼の行為は誤っているが、国を思う気持ちは同じだ」と語ったと伝えられています。そして、自らの負傷を「これしきのことで国の大事をやめるわけにはいかぬ」と断じ、少しも動揺を見せなかったのです。なぜ、彼はこれほどまでに強くあれたのでしょうか。その精神性は、私的な恨みや怒りを超越し、常に公(おおやけ)のために尽くすという、強い信念に支えられていたからに他なりません。彼のこの泰然自若とした態度は、いかなる逆境にも屈しない政治家としての矜持(きょうじ)そのものでした。この事件は、彼から右脚を奪いましたが、同時に、彼の人間的な大きさと不屈の精神を、世に知らしめる結果ともなったのです。
教育と政党政治で新たな地平を拓いた大隈重信
東京専門学校(早稲田大学)創設の理念
明治十四年の政変で政府を追われた大隈ですが、彼は決して下野して隠居するような人物ではありませんでした。彼は、権力闘争に敗れた直後の1882年、その有り余るエネルギーを未来への投資に向けます。それが「東京専門学校」、現在の早稲田大学の創設です。なぜ彼は学校を創ったのでしょうか。そこには、自らの苦い経験に裏打ちされた強い理念がありました。彼は、政府の言いなりになる官僚を育てるのではなく、権力から独立した自由な精神を持つ人材、すなわち「模範国民の造就」を掲げました。これを「学問の独立」と呼び、政治が学問に介入することを強く戒めたのです。また、学問は書斎だけの高尚なものではなく、実社会で活用してこそ意味があるという「学問の活用」も重視しました。この壮大な構想を実現するため、彼の右腕として小野梓(おのあずさ)や高田早苗(たかださなえ)といった若き俊才たちが集まり、理想の学校づくりに奔走しました。これは、藩閥政府の外から、教育を通じて日本を変えようとする、大隈の新たな挑戦の始まりでした。
隈板内閣の誕生と政党内閣の先駆けに
教育事業に心血を注ぐ一方、大隈は政党政治家としての活動も続けていました。そして1898年(明治31年)、日本の憲政史に名を刻む大きな出来事が起こります。薩長藩閥中心の政治に対抗するため、大隈が率いる進歩党と、ライバルであった板垣退助が率いる自由党が、なんと合同して一つの政党「憲政党(けんせいとう)」を結成したのです。そして、この憲政党を基盤として、日本で初めての本格的な政党内閣が誕生しました。首相に大隈、内務大臣に板垣が就いたことから、この内閣は二人の名前を取って「隈板(わいはん)内閣」と呼ばれます。長らく政治を牛耳ってきた藩閥勢力以外の者たちが、初めて政権を担った瞬間でした。残念ながら、この隈板内閣は内部の対立からわずか4ヶ月で崩壊してしまいます。しかし、藩閥以外の勢力でも政権を担えることを証明し、本格的な政党内閣への道を切り拓いたその歴史的意義は、非常に大きいものでした。
報知新聞などを通じて世論と向き合う政治手法
大隈重信が他の政治家と一線を画していた点の一つに、世論の重要性を早くから認識し、メディアを積極的に活用したことが挙げられます。彼は、自らが創設した立憲改進党の機関紙として、また自身の政治思想を発信する媒体として「報知新聞」の経営に深く関わりました。当時の政治は、一部の有力者が密室で物事を決めるのが当たり前でした。しかし大隈は、自らの政策や考えを新聞を通じて広く国民に訴え、その支持を背景に政治を進めようとしたのです。これは、国民が政治の主役であるべきだ、という彼のデモクラティックな信念の表れでした。彼は、演説会なども積極的に行い、国民と直接対話することを重視しました。政治は政府だけのものではない。国民一人ひとりが国のあり方を考え、政治に参加することが重要だ。教育によって自立した国民を育て(東京専門学校)、その受け皿となる政治組織を作り(憲政党)、メディアを通じて国民と政治を繋ぐ(報知新聞)。この三つは、大隈が描いた近代市民社会の設計図そのものだったのです。
大隈重信、再び宰相へ ~激動の晩年と人生観~
第2次大隈内閣と世界大戦期の外交手腕
隈板内閣が倒れてから16年後の1914年(大正3年)、政界の混乱と藩閥政府への国民の不満が頂点に達する中、大隈重信は76歳にして再び内閣総理大臣の座に就きます。国民的な人気を背景とした、まさに待望論の中での登板でした。しかし、彼を待ち受けていたのは、就任直後に勃発した第一次世界大戦という、未曾有の世界的な動乱でした。大隈内閣は、日英同盟を基に対ドイツに宣戦布告。ヨーロッパでの戦争に世界の目が向いている隙に、中国大陸における日本の権益を拡大しようとします。その象徴が、中国に対して要求した「対華21カ条要求」です。これは、中国の主権を大きく侵害する内容を含んでいたため、後世、厳しい批判に晒されることになります。しかし、帝国主義が渦巻く当時の国際情勢の中で、国益を最大化しようと試みた、彼の外交家としての一面でもありました。激動の時代に、老いてなお国家の先頭に立ち、困難な舵取りに挑んだのです。
教育における先進性と未来へのまなざし
政治の現実的な側面で辣腕を振るう一方、大隈の視野は、常に社会の未来、とりわけ次世代の育成に向けられていました。その先進性を象徴するのが、彼が創設した東京専門学校(早稲田大学)における女子教育への取り組みです。当時の日本では、女性が高等教育を受ける機会は極めて限られていました。しかし、早稲田大学は創立当初から、正規の学生ではありませんでしたが、女子聴講生を全国の私立大学に先駆けて受け入れていたのです。なぜ彼は、女性に教育の門戸を開いたのでしょうか。それは、彼の根底に、性別や身分にかかわらず、誰もがその能力を最大限に発揮できる社会こそが、国を豊かにし、発展させるという確固たる信念があったからです。彼の言う「模範国民の造就」という理念は、決して男性だけを対象としたものではありませんでした。日本の未来を見据えた時、そこには常に、知的に自立した女性たちの姿も含まれていたのです。
「人生125歳説」に託された未来への思い
晩年の大隈重信を最も象徴するのが、彼が好んで語った「人生125歳説」というユニークな人生観でしょう。これは、「生理学の研究によれば、人間の寿命は本来125歳まであるはずだ。だから90歳や100歳で亡くなるのは早死に(夭折)だ」という、なんとも豪快な持論です。右脚を失う大怪我を負い、幾度となく政争に敗れても、彼は決して未来への希望を失いませんでした。この「人生125歳説」は、そんな彼の尽きることのない生命力、そして未来への限りない楽観主義の表れでした。「まだまだやりたいことがある」「世の中はもっと面白くなる」。その言葉の裏には、そんな声が聞こえてくるようです。科学的な根拠がどうであれ、この言葉は、常に前を向き、学び、行動し続けた彼の生き様そのものを物語っています。国民から「大隈さん」と親しみを込めて呼ばれた巨人は、その生涯の最後まで、未来への希望と尽きることのない情熱に満ちあふれていたのです。
書物と映像から浮かび上がるもう一人の大隈重信
自ら綴った『大隈重信自叙伝』の真実
大隈重信という人物を最もダイレクトに感じたいなら、まずは彼自身の言葉に触れるのが一番でしょう。そのための最高の入り口が、大隈本人の談話や演説などを早稲田大学が編纂した『大隈重信自叙伝』です。彼が直接ペンを取って執筆したわけではありませんが、この本を開けば、まるで目の前で大隈本人が、豪快な身振り手振りを交えて語りかけてくるかのような、生き生きとした体験ができます。彼の楽天的な性格やユーモアのセンス、そして時には「自分の手柄」をちょっぴり強調するような人間臭さまで、赤裸々に伝わってきます。もちろん、これは彼自身の視点から語られた物語ですから、歴史的な事実としては、客観的な史料と照らし合わせる必要があります。しかし、彼が自身の人生の出来事を「どう捉えていたか」、その喜びや怒り、そして信念を知る上で、これ以上の資料はありません。大隈重信という役者が、自ら人生という舞台を解説してくれる、そんな贅沢な一冊です。
映画『巨人 大隈重信』に見る時代の重み
文字だけでなく、映像で大隈重信の人生のダイナミズムに触れたいと考えるなら、1963年(昭和38年)に制作された映画『巨人 大隈重信』は外せません。この映画が作られたのは、日本が戦後の高度経済成長の真っ只中にあった時代です。人々が、未来への希望と共に、力強いリーダーシップを求めていた空気が、作品全体から感じられます。映画は、歴史を忠実に再現するドキュメンタリーとは異なり、彼の生涯のハイライト、特に藩閥勢力との対立や爆弾事件といったドラマチックな場面を、迫力ある演出で描き出しています。俳優の熱演も相まって、私たちは大隈の不屈の精神や人間的な魅力を、より感情的に受け取ることができます。この映画を見ることは、単に大隈重信の生涯を知るだけでなく、1960年代という時代が、明治の「巨人」にどんな理想の姿を託そうとしていたのかを読み解く、興味深いタイムトラベルにもなるのです。歴史とは、常に後の時代から見つめられ、再解釈されるもの。その一つの形が、ここにあります。
動画『甦える大隈重信』が照らす現代的意義
もし、大隈重信が現代に生きていたら、私たちに何を語りかけるでしょうか。そんな夢のような問いに、最新技術で一つの答えを示してくれるのが、早稲田大学が制作した動画『甦える大隈重信』です。この作品では、AIやCG技術を駆使して、大隈の姿と声を現代に「復活」させ、彼が自らの理念や未来への思いを語るという、驚くべき試みが行われています。彼が語るのは、100年以上前に掲げた「学問の独立」や、多様性を受け入れる社会の重要性といった、現代の私たちがまさに直面している課題ばかりです。この動画の面白さは、歴史上の人物を、ただの「過去の人」として博物館に飾るのではなく、今を生きる私たちと同じ地平に立ち、未来を共に考えるパートナーとして捉え直している点にあります。歴史を学ぶことは、古い事実を暗記することではありません。過去との対話を通じて、現在をより良く生きるための知恵を見つけ出すことなのだと、この先進的な映像作品は静かに、しかし力強く教えてくれるでしょう。
『大隈重信(上・下)「巨人」が夢見たもの』に見る国家構想と理想
英雄としての物語や、本人の語りだけでなく、歴史家による緻密な分析から大隈重信の実像に迫りたいと考えるなら、歴史学者・伊藤之雄氏による評伝『大隈重信(上・下)「巨人」が夢見たもの』は必読書です。この本は、膨大な一次史料を丹念に読み解き、大隈の政策や行動の背後にあった、一貫した国家構想を明らかにしようと試みています。例えば、彼の外交政策や財政改革が、単なるその場しのぎの対応ではなく、どのような長期的ビジョンに基づいて立案されたのか。また、福澤諭吉や渋沢栄一といった同時代の知識人や実業家たちと、どのような思想的交流を持ち、互いに影響を与え合ったのか。そうした点を、客観的な事実を積み重ねることで丁寧に描き出しています。本書を読むことで、私たちは、ともすれば豪快なエピソードに隠れがちな、政策立案者としての冷静で緻密な大隈の姿を知ることができます。情熱的な理想家であると同時に、冷徹な現実主義者でもあった「巨人」の、複雑で奥深い内面を探るための、最高の案内書と言えるでしょう。
『大隈重信と早稲田大学[改訂版]』が描く教育者の信念と実践
大隈重信の生涯を語る上で、政治家としての顔と並んで、いや、それ以上に重要なのが「教育者」としての顔です。その側面に徹底的に焦点を当て、深く掘り下げたのが、渡邉義浩氏による『大隈重信と早稲田大学[改訂版]』です。この本は、「なぜ大隈は、あれほどまでに教育に情熱を注いだのか」という根源的な問いに答えてくれます。本書を読めば、「学問の独立」や「模範国民の造就」といった建学の理念が、単なるお題目ではなく、実際の大学運営の中で、いかにして具体化されていったかがよく分かります。もちろん、その道は平坦ではありませんでした。資金難や政治的圧力、教員間の対立など、理想と現実の狭間で大隈が直面した数々の苦悩も、本書は余すところなく描いています。政治家として政府を創り、教育者として未来を創る。その二つの大事業に生涯を捧げた大隈の、教育にかける熱い思いと、その思想が現代にまでどう受け継がれているのかを知るための、またとない一冊です。
敵将に見た未来図 ~大隈重信が評価した小栗忠順の構想~
妻が結んだ奇しき縁
最後に1つ、大隈重信の人生を語る上で、非常に興味深い人物がいます。それは、幕末の動乱の中で新政府軍に処刑された旧幕府の勘定奉行、小栗忠順です。二人は、かたや新政府の重鎮、かたや旧幕府の幹部という、まさに敵同士でした。しかし、この二人には意外な繋がりがあったのです。実は、大隈の妻・綾子と、小栗の妻・道子は従姉妹同士という、極めて近い縁戚関係にありました。この血縁があったからこそ、大隈は他の誰よりも小栗という人物の人となりや、彼が抱いていた壮大な国家構想について、深く知る機会があったのかもしれません。幕府内部にいながら、誰よりも日本の近代化を急ぎ、世界レベルの国家建設を夢見た小栗。その姿は、同じく日本の未来を憂い、改革に奔走していた大隈の目に、敵味方という立場を超えて、特別な存在として映っていたのではないでしょうか。
横須賀で見た「小栗の夢」
大隈が小栗への評価を決定的にしたのが、明治維新の後、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)を視察した時のことでした。ここは、小栗が幕臣時代に日本の将来のため、一大工業地帯を築こうと計画した場所です。目の前に広がる壮大なドック、整然と並ぶ最新の機械設備。そのすべてが、すでに処刑された小栗の構想から生まれていたという事実に、大隈は雷に打たれたような衝撃を受けます。そして、同行していた政府の役人たちに、有名な「明治の事業は小栗の模倣にすぎぬ」という言葉を語ったのです。なぜ彼は、新政府の功績をまるで否定するかのような発言をしたのでしょうか。それは、自分が今まさに国家の最優先課題として取り組んでいる殖産興業や富国強兵の、完璧な青写真がそこにあったからです。優れた計画やビジョンは、敵味方という立場に関係なく評価するべきだという、彼の合理性と公平無私な精神が、この言葉を言わしめたのです。
恩讐を越えて、遺族を守り抜いた義侠心
大隈の小栗に対する評価は、単なる言葉や尊敬の念に留まりませんでした。それは、具体的な行動となって示されます。小栗の死後、妻の道子と、会津へ落ち延びる苦難の道中で生まれた娘の国子は、極めて苦しい生活を強いられていました。そして、妻・道子が病で亡くなると、天涯孤独となった娘の国子を、大隈と綾子夫人は自らの邸宅に引き取り、我が子同然に養育したのです。なぜ、彼は「逆賊」とされた男の遺児を、そこまでして守ったのでしょうか。それは、妻・綾子が幼い頃に小栗家に世話になったという恩義に加え、敵味方という立場を超え、日本のために尽くした小栗忠順という傑出した人物の血を、ここで絶やしてはならないという強い義侠心があったからに他なりません。さらには国子のために婿を探し、小栗家を再興させることにまで尽力しました。このエピソードは、彼が冷徹な政治家であるだけでなく、深い人間愛と情義を重んじる人物であったことの、何よりの証しと言えるでしょう。
未来を創り続けた不屈の楽天家
ひ弱で心優しい佐賀の少年が、いかにして明治の「巨人」と呼ばれるに至ったか。この記事では、大隈重信の波乱に満ちた生涯を追ってきました。彼の真骨頂は、鉄道建設や大学創設といった輝かしい業績だけにあるのではありません。政変で権力を失い、爆弾で右脚を奪われるという絶望的な逆境に立たされながらも、決して未来への希望を失わなかった不屈の精神と楽天性こそ、彼の強さの源泉でした。政治家、教育者、そして常に国民と共に歩もうとした改革者。その多岐にわたる活動の根底には、「世の中はもっと良くなる」という揺るぎない信念がありました。「人生125歳説」に象徴される彼の尽きない情熱は、変化の激しい現代を生きる私たちに、学び続け、挑戦し続けることの価値を力強く教えてくれるのではないでしょうか。
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