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大蔵永常の生涯:江戸時代の実践農学者が説いた農業改革の真髄

こんにちは!今回は、江戸時代の三大農学者の一人であり、「金無し大先生」とも呼ばれた実践農学者、大蔵永常(おおくら ながつね)についてです。

彼は天明の大飢饉を契機に、農業経営の多様化を説き、全国を巡りながら農村改革に尽力しました。田原藩や浜松藩での農業政策にも関与し、生涯で約80冊もの農書を著すなど、現場に根ざした農学の発展に貢献した大蔵永常の生涯を紐解きます。

目次

日田の商家に生まれて

家業と幼少期—商家の環境が与えた影響

大蔵永常(おおくら ながつね)は、1768年(明和5年)に豊後国日田(現在の大分県日田市)で生まれました。日田は江戸時代に幕府の直轄地である天領として栄え、西日本の流通拠点の一つとなっていました。特に、商人たちの活動が活発で、各地の農産物が集まり売買される重要な市場でもありました。

永常の家はこの日田で商いを営んでおり、幼い頃から商売の現場に触れる機会が多くありました。家業の手伝いをする中で、彼は農産物がどのように流通し、利益を生み出すのかを学びました。当時の農産物の売買では、天候や収穫量によって価格が大きく変動し、農民の生活が安定しないことが課題でした。こうした商業の視点から、永常は「農業の発展が経済を支える」という考えを持つようになりました。

また、日田は教育熱心な土地でもあり、寺子屋や私塾が多く存在しました。永常も幼少期から学問に親しみ、特に農業や経済に関する書物を好んで読んだと伝えられています。これが後の農学者としての知識の基盤となり、商人の視点を持ちながらも、より根本的な農業改革の必要性を考えるようになっていきました。

商人の子が農学に惹かれた理由

商人の子として生まれた永常が、なぜ農学へと関心を持つようになったのか。そのきっかけの一つは、当時の農業が抱えていた課題にありました。江戸時代の農村では、米を中心とした農業が主流であり、天候不順や冷害が発生すると飢饉に直結していました。特に、1772年(安永元年)から1783年(天明3年)にかけては、大雨や冷夏が続き、農作物の不作が各地で頻発していました。永常は、こうした不安定な農業の仕組みを改善しなければならないと考えるようになりました。

さらに、永常は商売を通じて農産物の流通の仕組みを知るうちに、農業の発展が経済全体に与える影響の大きさに気づきました。農民が収穫を安定させ、換金作物を増やせば、商業の活性化につながる。逆に農業が停滞すれば、流通する商品が減り、商人も苦しむことになる。彼はこの視点から、「農業の改革は社会全体の発展につながる」と考えたのです。

また、永常は幼少期から読書を好み、農業に関する文献を貪るように読みました。当時の農学書には、単なる農作業の技術指南にとどまらず、農業経営や農村の発展に関する記述もありました。こうした知識を蓄えるうちに、彼は「単に農作業を学ぶのではなく、農業を根本から変えることが必要だ」と考えるようになり、本格的に農学の道へ進む決意を固めたのです。

江戸時代の農村と商業の密接な関係

江戸時代の日本では、農村と商業は切っても切れない関係にありました。幕府は「農本主義」を掲げ、農業を経済の基盤としながらも、都市部では商業が発達し、大阪や江戸などの市場が全国の農産物を集約する役割を果たしていました。特に、日田のような商業都市では、各地から運ばれた米や綿、藍などの農産物が取引され、それを売ることで農民が現金収入を得る仕組みができていました。

しかし、農民の多くは米作に依存しており、不作の年には収入が激減し、借金を抱えることも珍しくありませんでした。永常は、こうした状況を見て、「換金作物を取り入れた多角的な農業経営が必要だ」と考えるようになりました。換金作物とは、市場で売ることを目的に育てる作物であり、綿や菜種、茶、麻などが代表的でした。これらを栽培すれば、農民は米作の不作に左右されることなく収入を確保できると永常は考えたのです。

また、江戸時代後期になると、副業を持つ農民も増え、紙すきや醤油醸造、酒造などを行う者も現れました。こうした動きは農村経済を活性化させ、地域社会の発展につながっていました。永常はこの点にも注目し、農業だけでなく商業の視点を取り入れた農村改革の必要性を説くようになりました。

彼のこうした考えは、後に著した『広益国産考』にも色濃く反映されています。この書では、農民が換金作物を取り入れ、多角的な農業を行うことで、経済的に安定した生活を送ることができると論じています。永常の提唱した農業経営の考え方は、単なる技術革新にとどまらず、農村と商業の関係を深く理解した上での実践的なものでした。

天明の大飢饉がもたらした転機

天明の大飢饉とは?被害の実態と背景

天明の大飢饉は、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて日本各地を襲った大規模な飢饉です。この飢饉の主な原因は、冷害と長雨による稲作の不作でした。特に1783年(天明3年)には、浅間山の大噴火が発生し、大量の火山灰が関東や東北地方に降り積もりました。この影響で日照不足と寒冷化が進み、作物がほとんど実らなかったのです。

この時代の日本では、食糧の大半を米に依存していたため、米の収穫量が減るとすぐに飢餓が発生しました。天明の大飢饉では、特に東北地方で深刻な被害が出ました。津軽藩(現在の青森県)では餓死者が多数発生し、人口の約20%が亡くなったとされています。また、仙台藩(現在の宮城県)でも同様に大勢の人々が餓死し、農村は壊滅的な打撃を受けました。

加えて、江戸時代の経済構造も飢饉を悪化させる要因となりました。米は「年貢」として幕府や藩に納められるため、農民たちは自分たちの食糧を確保する前に米を差し出さなければなりませんでした。不作の年でも年貢は免除されることが少なく、食糧不足に苦しむ農民は次々と餓死していきました。また、米価の高騰によって都市部でも庶民が食糧を手に入れるのが困難になり、一部の地域では打ちこわし(商家を襲撃して食糧を奪う暴動)も発生しました。

このように、天明の大飢饉は単なる天候不順だけでなく、江戸時代の農業と経済の仕組みが抱えていた脆弱性を浮き彫りにする出来事となりました。そして、この悲惨な状況を目の当たりにした大蔵永常は、農業の改革を志す大きな転機を迎えることになります。

惨状を目の当たりにし農業改革を志す

天明の大飢饉が発生した当時、大蔵永常はまだ10代後半から20代前半の青年でした。彼は家業の商売を手伝いながら、各地の経済状況を観察していましたが、この大飢饉による被害を目の当たりにし、衝撃を受けました。

商業の中心地であった日田には、全国から商品が集まり、各地の情報も伝わってきました。永常は、農村が飢饉によって荒廃し、多くの農民が餓死していく現状を知ると、「農業が根本的に変わらなければ、また同じことが繰り返される」と強く感じるようになりました。また、商人としての視点から「米価の高騰によって市場が混乱し、経済全体が不安定になる」という事実にも気づき、農業を安定させることが社会全体の利益につながると考えたのです。

さらに、天明の大飢饉は、多くの農民が米作だけに頼っていたことの危険性を浮き彫りにしました。収穫量が激減すると、それに代わる食料がなく、たちまち飢餓に陥ってしまう。永常は、農民が米以外の作物を栽培し、収入源を多角化することで、飢饉に強い農村を作れるのではないかと考えました。

こうして、彼は単なる商人としてではなく、農学を研究し、農業改革を実践する道を志すようになりました。そして、この決意を胸に、各地の農村を巡り、農民の知恵や伝統技術を学ぶ旅に出ることとなります。

米作依存からの脱却—多角的農業の必要性

天明の大飢饉を通じて、大蔵永常は「米作だけに頼る農業の危険性」を痛感しました。当時の農村では、年貢の支払いのために米作が最優先されており、それ以外の作物を栽培する余裕があまりありませんでした。しかし、飢饉が発生すると、米の収穫が激減し、農民たちは食糧不足に直面してしまいます。これを防ぐためには、米以外の作物を積極的に栽培する「多角的農業」が必要だと永常は考えました。

永常が注目したのは、換金作物の栽培でした。換金作物とは、農民が市場で売ることを目的として育てる作物であり、例えば綿、菜種、麻、茶、甘藷(さつまいも)などが含まれます。特に甘藷は、痩せた土地でも育ちやすく、飢饉時の食料として非常に有用でした。永常は、農村において米以外の作物を増やし、食糧不足を防ぐとともに、換金作物を売ることで農民が安定した収入を得られる仕組みを作ることを提唱しました。

また、彼は『広益国産考』などの著作を通じて、「農業経営」の重要性を説きました。単に作物を育てるだけでなく、どの作物をどれだけ育てれば利益が出るのか、どの作物が市場で求められているのかを考えることが、農民の生活を安定させる鍵になると考えたのです。

このような考えのもと、永常は各地の農村を巡り、農業の実態を調査しながら、より実践的な農業改革の方法を模索していきました。そして、彼の農学研究は、単なる理論ではなく、現場に根ざした実践的なものへと発展していくことになります。

全国を巡る農村調査の旅

各地の農村を訪ね歩いた記録と発見

天明の大飢饉を経験し、農業改革の必要性を痛感した大蔵永常は、実際に農民の生活や農業技術を学ぶために全国各地の農村を巡る旅に出ました。彼が旅を始めたのは20代の頃とされており、特に九州・中国・関西地方を中心に、農村の実態調査を行いました。

この旅の目的は、単に農業技術を学ぶだけではなく、「農民が実際に行っている農業の工夫や課題を把握し、それを体系化すること」にありました。江戸時代にはすでに農学書がいくつか出版されていましたが、それらの多くは机上の理論に偏っており、現場の実態を反映していないものが少なくありませんでした。永常は、農民の声を直接聞き、その土地ならではの工夫や作物の特性を調査することで、より実践的な農業改革の方法を模索しようとしたのです。

彼は各地を巡る中で、地域ごとに異なる土壌や気候条件に適した作物が存在することに気づきました。例えば、肥沃な土地では米作が盛んであったものの、痩せた土地では雑穀や甘藷(さつまいも)の栽培が重要視されていました。また、綿や麻、菜種などの換金作物を取り入れている農村では、米の収穫が少なくても比較的安定した生活を送っていることを確認しました。これらの発見は、後の彼の農業改革論の根幹を成すことになります。

農民の知恵と伝統技術に学ぶ

永常が各地を巡る中で特に感銘を受けたのは、農民たちが長年の経験から生み出した「実践的な農業技術」でした。当時の農業は、地域ごとに独自の工夫がなされており、これらは書物にはあまり記録されていませんでした。永常は、そうした伝統技術を学び、それを広く普及させることで、農業全体の底上げができると考えました。

例えば、九州地方のある農村では、湿地帯でも稲作を可能にするために、水はけの良い畝(うね)を作る独自の方法が編み出されていました。また、関西地方では、限られた農地を最大限に活用するため、二毛作(1年に2種類の作物を栽培する方法)が発展していました。こうした技術を全国に広めれば、収穫量を増やし、農民の生活を改善できると考えたのです。

さらに、害虫被害を防ぐために行われていた工夫にも注目しました。例えば、イナゴの大量発生を抑えるために、特定の植物を植えて天敵を増やす方法や、冬の間に水田を耕して害虫の卵を駆除する方法などがありました。永常は、これらの知識を集めて体系化し、後に『除蝗録(じょこうろく)』としてまとめました。この書は、害虫駆除の実践的な手法を記したものであり、多くの農民たちにとって非常に役立つものとなりました。

換金作物の可能性に気づいた瞬間

全国を巡る中で、永常が特に関心を持ったのが「換金作物」の可能性でした。換金作物とは、農民が市場で売ることを目的として育てる作物のことで、代表的なものには綿、菜種、茶、麻、甘藷などがあります。

永常は、換金作物を導入している農村では、飢饉の際にも比較的安定した生活を送ることができることに気づきました。特に、甘藷(さつまいも)は痩せた土地でも育ちやすく、飢饉時の食糧として非常に有用でした。また、綿や麻は布製品の原料となるため、市場価値が高く、農民が現金収入を得る手段として適していました。

彼が訪れたある農村では、農民たちが米作に頼らず、菜種を栽培して油を搾り、それを売ることで安定した収入を得ていました。この事例を見た永常は、「農業は単なる食料生産だけではなく、経済活動としての側面も持つべきだ」と考えるようになりました。これは、彼が後に提唱する「実践農学」の重要な要素となります。

永常は、換金作物を導入することで農民の生活を向上させるだけでなく、農村全体の経済を活性化させることができると確信しました。そして、この考えをもとに、大阪での著述活動や実践的な農業指導へと進んでいくことになります。

大阪での著述と実践活動

農学書の執筆—「農書の大家」への道

全国の農村を巡り、農業の実態や農民の知恵を学んだ大蔵永常は、そこで得た知識を広めるために農学書の執筆を始めました。彼が拠点としたのは大阪でした。江戸時代、大阪は「天下の台所」と称され、全国各地から農産物や商人が集まる日本最大の商業都市の一つでした。永常は、この大阪の経済圏の中で農業に関する知識を体系化し、書物として広めることを決意したのです。

彼の代表的な著作の一つが『農具便利論(のうぐべんりろん)』です。この書は、農作業を効率化するための農具の改良や、より効果的な農業技術について述べた実践的な内容でした。たとえば、田畑を耕す鍬(くわ)や鋤(すき)に関する改良案や、労働の負担を軽減するための農機具の工夫などが記されています。永常は、農具が進化すれば労働時間が短縮され、その分を別の生産活動に充てることができると考えました。これは、当時の農民にとって画期的な発想でした。

さらに、彼は『除蝗録(じょこうろく)』という書物も著しました。これは、イナゴなどの害虫被害を防ぐための方法をまとめたもので、農村での実体験をもとに書かれた非常に実用的な内容でした。害虫の発生を予測する方法や、農作物を守るための具体的な対策などが詳述されており、全国の農民たちに広く読まれました。

このように、永常の農学書は単なる理論書ではなく、農民たちがすぐに実践できる具体的な知識を提供するものでした。彼の著作は多くの人々に支持され、「農書の大家」としての評価を確立していきました。

苗木商としての挑戦とその影響力

永常は著述活動だけでなく、実際の農業にも携わりました。彼が大阪で取り組んだのが「苗木商(なえぎしょう)」の仕事でした。苗木商とは、農作物の苗木や種子を販売し、農民たちに新しい作物を導入させる役割を担う仕事です。永常は、換金作物の普及を進めるために、自ら苗木を扱い、農民に販売する事業を始めました。

特に力を入れたのが、果樹の苗木でした。当時、日本では果樹栽培はそれほど普及しておらず、農民の間でも一般的ではありませんでした。しかし、果物は市場価値が高く、換金作物としての可能性を秘めていました。永常は、柿や梅、栗などの苗木を育て、それを各地の農村へと広めていきました。これにより、農民たちは新たな収入源を得ることができるようになったのです。

また、彼は甘藷(さつまいも)や綿花の栽培にも注目しました。甘藷は痩せた土地でも育ちやすく、飢饉時の食料として非常に優れていました。綿花は衣類の原料となり、布を織ることで農村の女性たちが現金収入を得る手段となりました。永常はこれらの作物を広めることで、農村の経済を安定させることを目指しました。

この苗木商としての活動は、彼の著作とともに農村改革の一環として位置づけられました。単に農学を理論として学ぶのではなく、実際に作物を育て、それを普及させることで農民たちの生活を向上させようとしたのです。

大阪経済圏が支えた農業発展

大阪は江戸時代、日本最大の商業都市として発展していました。全国各地の米や換金作物が集まり、それが全国へと流通する仕組みが整っていました。この「大阪経済圏」の存在が、永常の農業改革にも大きな影響を与えました。

当時、大阪の商人たちは、単なる売買だけでなく、農業の発展にも深く関与していました。例えば、豪商たちは農村に資金を貸し付け、農具や肥料の購入を支援するなど、農業と商業の結びつきを強めていました。永常は、この大阪経済圏を利用し、自らの農学思想を広める機会を得ました。

彼の著作は大阪の書店で広く販売され、農民や商人たちの間で評判となりました。また、苗木商としての事業も、大阪の市場を活用することで広範囲に展開することができました。農民たちは、大阪の市場で換金作物を売ることで収入を得ることができるようになり、永常の提唱する「多角的農業」の考えが徐々に浸透していきました。

さらに、大阪の学者や商人たちとの交流も、永常にとって重要な要素となりました。彼は大阪で多くの知識人と意見を交わし、新しい農業技術や経済の仕組みについて学びました。この経験が、彼の農業改革の理論をさらに発展させるきっかけとなったのです。

このように、永常の農業改革は、大阪という大都市の商業ネットワークを活用することで大きな影響を与えました。彼の著作や苗木商としての活動は、単なる個人の取り組みではなく、日本の農業全体に変革をもたらす重要な要素となっていったのです。

田原藩での農業改革と渡辺崋山

田原藩仕官—興産方としての使命

大阪での著述活動と実践的な農業支援を続けていた大蔵永常は、その実績が評価され、田原藩(現在の愛知県渥美半島一帯)に仕官することとなりました。1830年代、田原藩では藩主の三宅康友とその後継の三宅康明が、農村改革を進めようとしていました。そこで彼らは、農業経済の専門家として永常を「興産方(こうさんかた)」に任命し、藩の農業振興を託したのです。

興産方とは、農業や産業の発展を目的とする役職であり、単なる農政担当者ではなく、農民の生産性向上を支援し、経済を活性化させる役割を持っていました。田原藩はもともと農地が限られており、天候不順や飢饉の影響を受けやすい地域でした。そのため、米作だけに頼らない農業の多角化が急務となっていました。永常はこの課題に取り組み、藩全体の農業改革に着手することになります。

渡辺崋山との交流と農政への影響

田原藩に仕官した永常は、当時藩の政治顧問的な立場にあった**渡辺崋山(わたなべ かざん)**と交流を持つようになりました。渡辺崋山は、絵画や儒学、西洋学にも通じた知識人であり、農村改革にも強い関心を持っていました。彼は、田原藩の発展のためには「農業を基盤とした経済の自立」が必要だと考えており、永常の実践的な農学思想に共鳴しました。

永常と崋山は、農業技術の向上だけでなく、藩全体の経済基盤を強化するための方策について議論を重ねました。特に、換金作物の導入による農民の生活向上や、効率的な農業経営の確立について意見を交わし、藩の政策にも影響を与えました。崋山はまた、西洋の知識にも明るく、永常の農学思想に新たな視点を加えることにもなりました。

この交流は、永常にとっても大きな刺激となり、彼の農業改革の考えをより体系的なものへと発展させる契機となりました。しかし、この田原藩での改革は、後に「蛮社の獄」という事件によって大きく揺らぐことになります。

田原藩で実施した具体的な農村振興策

永常が田原藩で実施した農業改革の中でも、特に注目すべきなのは以下の三点です。

①換金作物の導入と普及

田原藩の農地は、米作に適した土地が少なく、飢饉の影響を受けやすい状況にありました。そこで永常は、綿・麻・甘藷(さつまいも)・菜種などの換金作物の導入を積極的に推進しました。特に甘藷は、痩せた土地でも育ちやすく、飢饉対策として非常に有効でした。また、綿や麻の栽培を奨励し、これらを織物として加工することで、農民の収入を増やす仕組みを作りました。

②農業技術の改良と指導

永常は、農具の改良にも力を入れました。彼は『農具便利論』で述べたように、鍬(くわ)や鋤(すき)の形状を工夫し、効率よく耕作できるように改良しました。また、農民たちに対し、二毛作(1年に2種類の作物を栽培する方法)や輪作(作物を順番に変えることで土壌を保つ方法)を推奨し、農地の生産力を高める指導を行いました。さらに、害虫対策として『除蝗録』に基づく害虫駆除の方法を広め、収穫量の安定化を図りました。

③農業経営の合理化と市場との連携

永常は、農業は単なる生産活動ではなく、「経済活動」として発展させるべきだと考えていました。そのため、農民たちが育てた作物を藩内外の市場に流通させるための仕組み作りにも尽力しました。特に、大阪市場と連携し、田原藩で生産された換金作物を売るルートを確立しました。これにより、農民たちは現金収入を得やすくなり、生活が安定するようになりました。

このように、永常の農業改革は単なる技術指導にとどまらず、農村全体の経済を活性化させる実践的なものとなりました。しかし、この改革の最中、渡辺崋山が「蛮社の獄」によって捕らえられ、田原藩の農村振興策にも大きな影響が及ぶこととなります。

蛮社の獄と試練の時代

蛮社の獄とは?渡辺崋山との関わり

江戸時代後期、日本は鎖国政策を取っており、西洋との交流は厳しく制限されていました。しかし、19世紀に入ると外国船の来航が増え、開国や西洋技術の導入をめぐる議論が活発になりました。こうした時代背景の中で起きたのが、1839年(天保10年)に発生した「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です。

この事件は、蘭学(オランダを通じて学ばれた西洋学問)を学び、開国や西洋技術の導入を唱えた知識人たちが幕府によって弾圧された出来事でした。田原藩で大蔵永常と交流のあった渡辺崋山も、この事件に巻き込まれることになります。崋山は、西洋の学問に精通し、外国事情にも関心を持っていましたが、これが幕府に危険視され、処罰されることになったのです。

当時、崋山は田原藩の政治顧問的な立場にあり、藩の改革に大きな影響を与えていました。永常とも親しく、農業振興について意見を交わしていました。しかし、幕府は崋山を「異国との交流を求める危険人物」とみなし、彼を捕らえました。最終的に崋山は自刃を命じられ、田原藩の改革は大きな打撃を受けることとなりました。

追放までの経緯とその後の苦難

渡辺崋山の失脚は、田原藩の政治に大きな波紋を広げました。崋山と協力して農業改革を進めていた大蔵永常も、その影響を免れることはできませんでした。幕府の監視が強まり、田原藩内でも改革派に対する圧力が強まる中、永常は田原藩を去らざるを得なくなりました。

それまで、田原藩で換金作物の導入や農業技術の改良を進めてきた永常でしたが、改革が本格的に定着する前にその活動を中断せざるを得なくなったのです。彼は失意のうちに田原を離れ、次の活躍の場を求めて新たな土地へと移ることになります。

しかし、永常にとってこれは大きな試練の時代でした。田原藩仕官という安定した立場を失い、再び農業改革を実践する機会を探さなければならなくなりました。彼の提唱した農業技術や経済改革は、田原藩での取り組みを通じてある程度の成果を上げていましたが、さらなる発展には時間が必要でした。しかし、幕府の政策変更や政治的弾圧によって、その道は閉ざされてしまったのです。

農業改革への情熱を捨てなかった姿勢

田原藩を去った後も、大蔵永常は農業改革への情熱を失いませんでした。彼は、自らが学び、実践してきた農業技術や経済の知識を、他の土地で活かす方法を模索しました。そして、新たな拠点として選んだのが、浜松藩(現在の静岡県)でした。

永常は浜松藩に仕官し、再び興産方として農業改革に取り組む機会を得ます。この浜松藩での再起こそが、彼の農学思想をさらに発展させる重要なステップとなりました。田原藩での経験を活かしつつ、新たな環境のもとで実践農学を推し進めていくことになります。

こうして、大きな試練を乗り越えながらも、永常は農業改革を続ける道を歩み続けました。政治的な弾圧や困難に直面しても、彼の農学に対する信念は揺らぐことがありませんでした。次の舞台である浜松藩では、さらなる農業改革が展開されることとなります。

浜松藩での再起と新たな挑戦

浜松藩仕官—再び興産方として活躍

田原藩を去った大蔵永常は、新たな活動の場を求めて浜松藩(現在の静岡県西部)へと移りました。浜松藩では、当時の藩主が農業改革に積極的であり、永常の知識と経験を高く評価しました。こうして彼は、再び興産方として仕官し、農業の振興に携わることとなったのです。

浜松藩も田原藩と同様に、農業生産の安定が課題でした。米作に適した土地が限られ、特に天候不順や水害による被害が頻発していました。そのため、永常は換金作物の導入と農業技術の改良を柱とする改革に取り組みました。彼はこれまでの経験を活かし、浜松藩の地理や気候に適した農業施策を進めることになります。

また、彼は浜松藩の藩士や農民たちに対して、農業経営の視点を取り入れるよう指導しました。従来の農業は「年貢のための米作」が主流でしたが、彼は「市場に目を向け、収益性を考えた農業」を提唱しました。この考えは後に『広益国産考』にも反映され、全国の農民にとっての指針となっていきます。

農業改革の成果と地域社会への影響

浜松藩での農業改革において、永常が特に力を入れたのは、換金作物の普及でした。彼は、藩内の農地の状況を調査し、各地域ごとに最適な作物を提案しました。

例えば、浜松藩の温暖な気候を活かし、綿花の栽培を奨励しました。綿花は、江戸時代の日本において衣類の原料として非常に重要であり、需要が高かったため、農民にとって安定した収入源となる可能性がありました。また、菜種の栽培も推進し、搾油(菜種油の生産)を産業として確立させようとしました。菜種油は灯火用として広く使われており、大阪市場でも高値で取引されていました。

さらに、永常は土壌改良の技術指導を行いました。当時の農民たちは、土地が痩せるとそのまま放置してしまうことが多く、農地の再生が課題となっていました。永常は、輪作(作物を定期的に変えて土の養分を守る方法)や、堆肥を活用した土壌改良を提唱し、農地の生産力を向上させることを目指しました。これらの技術は、後に日本各地に広まり、近代農業の基礎となりました。

また、永常は、農民だけでなく藩の役人たちにも農業改革の必要性を説きました。これにより、浜松藩の農政は従来の年貢徴収型から、より生産性の向上を重視したものへと変化していきました。こうした政策の転換は、農民の生活を安定させるだけでなく、藩全体の経済基盤を強化することにもつながりました。

晩年の活動と次世代への継承

浜松藩での改革を進める中で、大蔵永常は自身の知識と経験を後世に残すことの重要性を強く認識するようになりました。彼は、農業改革の理念や具体的な方法をまとめた書物を執筆し、次世代の農業者たちに伝えることに尽力しました。

晩年の彼が特に力を入れたのが、『広益国産考(こうえきこくさんこう)』の執筆でした。この書物は、単なる農業技術の解説ではなく、農業経営の視点を取り入れ、農民がどのようにすれば安定した生活を送れるのかを体系的にまとめたものでした。換金作物の活用法や市場との関係、農村経済の発展方法などが詳しく述べられており、永常の集大成ともいえる書物でした。

また、永常は後進の育成にも力を入れました。彼は各地の農民や若手の農政担当者に対して講義を行い、農業改革の思想を広めていきました。特に、換金作物の導入による農村経済の安定や、農業経営の重要性については、彼の思想を受け継いだ者たちが各地で実践していくことになります。

最晩年の彼は、農業改革の成果を見届けながら、静かにその生涯を終えました。しかし、彼が遺した農業技術や経営理念は、江戸時代の農村に大きな影響を与え、後の日本の農業発展の礎となっていったのです。

最後の著作『広益国産考』が残したもの

『広益国産考』の内容と意義を探る

大蔵永常の晩年の集大成ともいえる著作が、『広益国産考(こうえきこくさんこう)』です。この書物は、1844年(天保15年)に完成し、彼が長年にわたって研究・実践してきた農業改革の成果をまとめたものです。当時の農民にとって、単なる農作業の手引き書ではなく、農村経済を活性化させるための実践的な指南書として広く活用されました。

『広益国産考』の大きな特徴は、農業を単なる「食糧生産」として捉えるのではなく、経済活動の一環として考えている点です。永常は、農民が自らの収入を安定させるためには、市場の需要に応じた換金作物を栽培し、それを効率的に流通させることが重要だと説きました。この考え方は、現代でいう「農業経営」の概念に近いものであり、当時の農学書の中では非常に先進的な視点を持っていました。

また、この書では各地の気候や土壌に適した作物の選び方についても詳述されています。例えば、温暖な地域では綿や菜種、寒冷地では蕎麦や大麦など、土地の特性に合わせた農業を推奨し、収穫量の向上と農民の生活安定を図ることを目指しました。さらに、肥料の工夫や害虫駆除の方法、農具の改良など、実践的な農業技術も数多く紹介されており、農民がすぐに活用できる知識が詰め込まれていました。

このように、『広益国産考』は、単なる農業技術書ではなく、農業経営の視点を取り入れた画期的な著作でした。永常が生涯をかけて学び、実践してきた農業改革の思想が詰め込まれたこの書は、当時の農民だけでなく、藩の農政担当者や学者たちにも影響を与えることになります。

換金作物普及がもたらした農民の生活改善

『広益国産考』の中で特に重要視されているのが、換金作物の普及です。永常は、米作だけに頼る農業の限界を早くから認識しており、農民が現金収入を得る手段として換金作物の栽培を推奨しました。

例えば、綿花は衣類の原料として需要が高く、市場価値の高い作物でした。永常は綿花の栽培を奨励し、その収穫物を反物(たんもの)として加工することで、農村経済を強化することを提案しました。また、菜種は搾油することで灯火用の油として使用され、大阪市場などで高値で取引されるため、農民の安定した収入源となりました。

さらに、甘藷(さつまいも)も重要な作物として取り上げられています。甘藷は痩せた土地でも育ちやすく、飢饉時の食料として非常に有効でした。永常は、甘藷の普及を通じて、飢饉に強い農村づくりを目指しました。これらの換金作物の導入によって、農民たちは収入の多角化が可能となり、生活の安定化につながったのです。

また、永常は換金作物の導入だけでなく、その流通や販売についても考察していました。農民が単に作物を育てるだけでなく、それをどのように市場へ流通させ、より高く売るかが重要であると説き、商人との連携を強めることの重要性を指摘しました。この視点は、江戸時代後期の農業政策にも影響を与え、各藩が農業振興策として換金作物の栽培を推進する動きにつながっていきました。

後世に与えた影響と評価

『広益国産考』は、江戸時代の農業書の中でも特に影響力の大きい著作の一つとされています。その実践的な内容は、江戸時代末期の農政に影響を与え、各藩が農業改革を進める際の指針となりました。

明治時代に入ると、日本の農業は近代化の道を歩み始めましたが、その基礎には永常の思想が根付いていました。換金作物の導入や農業経営の概念は、明治政府の農政にも取り入れられ、農業の発展に大きく貢献しました。特に、農業技術の改良や土壌管理の手法は、後の日本の農業教育においても重要な要素となりました。

また、昭和以降になると、永常の業績が再評価され、日本の三大農学者の一人として称えられるようになりました。彼の実践的な農学思想は、現代の持続可能な農業にも通じるものであり、現在でも農業関係者の間で研究されています。

このように、大蔵永常の『広益国産考』は、単なる江戸時代の農学書にとどまらず、日本の農業発展の礎を築いた重要な書物として高く評価されています。彼の思想は時代を超えて受け継がれ、日本の農業を支える大きな遺産となったのです。

大蔵永常を知る書籍・漫画

『筑波常治伝記物語全集 大蔵永常』—子ども向け伝記で学ぶ

大蔵永常の生涯をわかりやすく学ぶのに適しているのが、『筑波常治伝記物語全集 大蔵永常』です。筑波常治(つくばじょうじ)による伝記シリーズの一冊で、子ども向けに書かれた作品ですが、永常の業績や人柄が詳しく描かれており、大人が読んでも学びの多い内容となっています。

この本では、永常の幼少期から全国の農村を巡る旅、そして田原藩や浜松藩での農業改革の取り組みが、具体的なエピソードを交えて語られています。例えば、彼が農民の知恵を学ぶために全国を歩き回り、農作業の工夫を記録していたことや、換金作物の重要性に気づき、農民たちに綿や菜種の栽培を広めたことなどが描かれています。

また、永常は「金無し大先生(かねなしだいせんせい)」という異名を持つほど質素な生活を送っていたことで知られていますが、この書籍ではその姿勢も強調されています。彼は自らの利益を求めるのではなく、常に農民のために行動し、農業の発展に生涯を捧げました。その信念の強さを、子どもにもわかりやすい言葉で伝えているのが本書の魅力です。

『現代に生きる 大蔵永常』—現代社会への応用と考察

より学術的な視点から永常の思想を学びたい人には、『現代に生きる 大蔵永常』がおすすめです。著者の三好信浩(みよしのぶひろ)は、永常の農学思想を現代農業や経済に応用する可能性について詳しく考察しています。

本書の特徴は、江戸時代の農業と現代農業を比較しながら、永常の思想の普遍性を探る点にあります。例えば、彼が提唱した「農業経営」の概念は、現在のアグリビジネス(農業を産業として捉え、利益を生み出す仕組み)に通じるものであり、現代の農業経営者にとっても参考になると述べられています。

また、永常が推奨した換金作物の導入は、現代の農業政策にも影響を与えており、日本の農業が持続可能な形で発展するためには、彼の考えをどのように活かすべきかが議論されています。特に、地域ごとの特産品を活かした農業振興のモデルや、農産物のブランド化による収益向上の戦略など、現代においても通用する視点が多く含まれています。

この本を読むことで、単なる歴史上の偉人としての大蔵永常ではなく、現代の農業や経済にもつながる重要な思想家としての一面を知ることができます。農業関係者だけでなく、経済や地域活性化に関心のある人にもおすすめの一冊です。

九州まんが『農民の生活を高めるために尽力した農学者 大蔵永常』—漫画で偉人の足跡をたどる

活字よりもビジュアルで理解したい人には、九州まんが『農民の生活を高めるために尽力した農学者 大蔵永常』が適しています。この作品は、九州地方の偉人をテーマにした歴史漫画シリーズの一冊で、大蔵永常の生涯と業績がわかりやすく描かれています。

漫画ならではの魅力は、当時の農村の様子や永常の活動が視覚的に理解しやすいことです。例えば、彼が各地の農村を巡りながら農民の苦労を直接目にし、それを解決するために農業技術の改良や換金作物の導入を提案していく過程が、具体的なエピソードとともに描かれています。

また、渡辺崋山や田原藩、浜松藩での農業改革の場面なども詳しく取り上げられており、歴史背景とともに永常の行動の意義を学ぶことができます。彼が書き残した『農具便利論』や『広益国産考』の内容についても解説があり、漫画を通じて彼の農業思想の核心を理解できる構成になっています。

子どもから大人まで楽しめる内容であり、農業や歴史に興味がある人だけでなく、教育現場でも活用できる教材としても優れています。活字の本に抵抗がある人でも、まずは漫画を通じて大蔵永常の足跡をたどることができるでしょう。

まとめ—大蔵永常の農業改革が現代に残したもの

大蔵永常は、江戸時代後期に農業改革を推進し、農民の生活向上に尽力した実践農学者でした。彼は、全国の農村を巡る中で農民の知恵や伝統技術を学び、それを体系化することで農業技術の向上と経済的安定を目指しました。特に換金作物の導入や農業経営の視点を取り入れた『広益国産考』は、当時の農業政策に大きな影響を与え、後の日本の農業発展の礎となりました。

また、彼の農業改革は単なる技術革新にとどまらず、農村の経済基盤を強化することにも貢献しました。田原藩や浜松藩での活動を通じて、地域に適した農業のあり方を示し、持続可能な農業の発展を促しました。その考え方は、現代の農業経営や地域活性化にも通じるものがあります。

彼の業績は、書籍や漫画を通じて今も学ぶことができ、農業の未来を考える上で貴重な知見を提供しています。大蔵永常の思想は、時代を超えて日本の農業と社会に息づいているのです。

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