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大久保利通の生涯:明治日本の礎を築いた冷徹な改革者

こんにちは!今回は、薩摩藩出身の下級武士から明治国家の礎を築いた政治家、大久保利通(おおくぼとしみち)についてです。

江戸を戦火から救い、日本全国の藩をバッサリ廃止し、税制を変え、工場を建て、警察をつくり、さらにヨーロッパ視察で「近代国家とは何か」を学んで帰国——。

明治維新のその先を描き、実行した男・大久保利通の生涯を、詳しく紹介します。

目次

若き日の大久保利通と薩摩の学び舎

薩摩藩下級武士としての誕生と家柄

大久保利通(おおくぼとしみち)は、1830年(文政13年)、薩摩国鹿児島城下の高麗町(こうらいちょう)で、薩摩藩士・大久保利世(としよ)の長男として誕生しました。彼の家格は「御小姓与(おこしょうぐみ)」という、藩内では下級に位置づけられる身分でした。当時の薩摩藩は厳格な身分社会であり、個人の能力よりも家柄が重視される風潮が強く、下級武士の立身出世は極めて困難な道でした。しかし、大久保が20歳を迎えた嘉永3年(1850年)、彼の人生を大きく揺るがす事件が起こります。藩の後継者争いに端を発した「お由羅騒動(おゆらそうどう)」と呼ばれる政争に父・利世が連座し、喜界島(きかいじま)への流罪に処されたのです。この影響で大久保自身も記録所書役助という役職を解任され、一家は突如として収入の道を絶たれ、極度の貧困に陥りました。この理不尽な経験と生活の困窮は、若き大久保の心に、旧来の身分制度や藩のあり方に対する強い疑問を抱かせ、それを自らの手で変革しなくてはならないという意志を育んだと考えられます。この逆境こそが、後の冷徹な現実主義者と評される彼の、巨大なエネルギーの源泉となったのです。

郷中教育が育んだ知と武の精神

大久保利通の人格形成を語る上で欠かせないのが、薩摩藩に古くから伝わる「郷中(ごじゅう)教育」という独特な青少年教育システムです。これは、同じ町内の武士の子弟がひとつの共同体を作り、年長者である「二才(にせ)」が年少者である「稚児(ちご)」を指導する形で、学問や武術、そして武士としての規範を学ぶというものでした。現代の学校教育とは異なり、地域社会全体で若者を育てるこの仕組みの中で、大久保は多感な時期を過ごします。郷中教育の最大の特徴に、「詮議(せんぎ)」と名付けられた討論会があります。若者たちは、歴史上の出来事や藩の政策といった実践的なテーマについて、それぞれの意見をぶつけ合い、論理的に相手を説得する技術を磨きました。大久保は、この詮議を通じて、物事の本質を冷静に見抜き、緻密な論理を組み立てて相手を論破する能力を養っていきました。後の政治家として、政府の重要会議で反対派を次々と説き伏せた彼の弁論術の原点は、まさにここにあったのです。同時に、薩摩藩独自の剣術である「示現流(じげんりゅう)」をはじめとした武芸の鍛錬も厳しく行われ、いかなる困難にも屈しない強靭な精神力と身体が鍛え上げられました。知性と武勇、この両面を徹底的に鍛える郷中教育が、大久保利通という非凡な人物を育んだ土壌となりました。

西郷隆盛との絆と志の芽生え

日本の歴史を大きく動かした盟友として知られる西郷隆盛(さいごうたかもり)と大久保利通。二人の出会いもまた、彼らが少年時代を過ごした郷中でした。家も近く、同じ郷中で育った二人は生涯にわたる親友となりますが、その性格は対照的でした。情に厚く、誰からも慕われるリーダータイプの西郷に対し、大久保は常に冷静で、物事を深く思索する理論家タイプ。この異なる個性が、互いを補い合い、強い信頼関係で結びつけました。そんな二人の運命を劇的に変えたのが、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の存在です。名君として知られる斉彬は、身分にとらわれず有望な若者を積極的に登用しました。西郷と大久保もその才能を見出され、斉彬の側で政治の中枢に関わる機会を得ます。ここで二人は初めて、薩摩藩という枠組みを超え、「日本という国をどう導くべきか」という壮大な国家観に触れ、共通の志を抱くようになります。しかし1858年(安政5年)、彼らが強く敬愛した斉彬が急死。絶望した西郷は殉死を考えますが、それを「友の死を無駄にするな」と涙ながらに引き止めたのが大久保でした。この悲劇を乗り越え、斉彬の遺志を継ぐことを誓い合った二人の絆は、単なる友情から、国家の変革を共に目指す「盟友」としての強固な結束へと昇華したのです。

大久保利通と精忠組、薩摩藩の改革を目指して

志士たちの結集・精忠組の台頭

敬愛する藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の急死は、彼の遺志を継ぐ若者たちを、より急進的な行動へと駆り立てました。嘉永・安政年間(1850年代)、斉彬の思想に影響を受けた若手藩士たちが集う読書会が母体となり、やがて「精忠組(せいちゅうぐみ)」と呼ばれる政治結社へと発展していきます。これは大久保利通や西郷隆盛(さいごうたかもり)、有村俊斎(ありむらしゅんさい)といった主要メンバーを含む、広範な志士たちのネットワークでした。彼らは当初、尊王攘夷(そんのうじょうい)の理想に燃え、時には幕府要人の暗殺や、藩の意向を無視して京都へ武力で進出しようとする「突出計画」を企てるなど、極めて過激な側面を持っていました。この動きは、藩の秩序を重んじる指導者層からは危険視されます。しかし、この熱量と行動力こそが、停滞していた薩摩藩に新たな変化をもたらす原動力となったこともまた事実です。精忠組は、単なる勉強会ではなく、来るべき変革の時代に備える、燃えるような情熱を秘めた行動集団だったのです。

藩主・島津久光との共闘と対立

精忠組の急進的な動きが藩内で問題視される中、薩摩藩に新たな権力者が登場します。亡き斉彬の異母弟であり、藩主・忠義(ただよし)の父である島津久光(しまづひさみつ)です。国父(こくふ)として実権を握った久光は、兄の遺志を継ぎ中央政界へ進出する野心を持っていましたが、そのためにはまず、藩内の過激派を抑制し、藩論を統一する必要がありました。ここで久光は、大久保利通の冷静な分析力と調整能力に注目します。久光は大久保を側近として抜擢し、精忠組の過激な行動に歯止めをかける役割を期待したのです。1862年、久光は数千名規模の兵を率いて京都へ上り、幕政改革を主導しようとします。この時、先行して京に入っていた精忠組の過激派が暴発寸前となりますが、久光の命を受けた藩士によって粛清されるという事件が起こりました。これが「寺田屋騒動(てらだやそうどう)」です。この事件は、久光という現実主義的な権力者と、大久保という冷徹な実務家が、理想に燃える過激派を抑え、藩を一つの方向に導こうとする、複雑な力学を象徴しています。

公武合体か尊王攘夷か、揺れる時代の選択

当時の日本は、「尊王攘夷」の理想を叫ぶ急進派と、「公武合体(こうぶがったい)」、つまり朝廷(公)と幕府(武)の協調で国難を乗り切ろうとする現実派が激しく対立していました。島津久光が推進したのは、後者の公武合体路線です。彼は朝廷と幕府の橋渡し役を自任し、公卿の岩倉具視(いわくらともみ)らとも連携しながら、政治の中心で影響力を行使しようとしました。大久保は、この久光の路線に忠実に従い、京都や江戸で交渉役として奔走します。しかし、彼は幕府の無力さや、諸藩の思惑が渦巻く政治の現実を目の当たりにする中で、尊王攘夷という理想論の危うさと、公武合体という妥協案の限界を同時に痛感していきます。どちらの立場も、崩壊しつつある旧来の体制を前提とした弥縫策(びほうさく)に過ぎないのではないか。大久保の視線は、その先にある「日本という国家の根本的な作り変え」、すなわち武力による幕府の打倒と、それに代わる新たな統一国家の建設へと、静かに、しかし確実に向かい始めていました。この経験が、彼を冷徹なリアリストへと、さらに大きく成長させたのです。

大久保利通が導いた薩長同盟と外交の舞台裏

長州藩との接近と連携の布石

公武合体路線の限界を悟り、武力による幕府打倒へと舵を切り始めた大久保利通。しかし、その実現にはあまりにも大きな壁が立ちはだかっていました。それは、単独の藩の力では、強大な徳川幕府を到底覆すことができないという現実です。強力なパートナーが必要不可欠でした。そして、その候補として浮上したのが、皮肉にも最大の宿敵であった長州藩でした。当時の薩摩藩と長州藩の関係は、「犬猿の仲」という言葉でも生ぬるいほど険悪でした。1864年の「禁門の変(きんもんのへん)」では、京に攻め上った長州藩を、薩摩藩が会津藩と協力して打ち破り、京都から追放。続く幕府による「第一次長州征討」でも薩摩藩は幕府側に立つなど、両藩の遺恨は決定的となっていました。しかし、大久保は個人的な感情や過去の因縁に囚われる男ではありません。彼は、過激ながらも徹底した倒幕思想を持つ長州藩こそ、目的を同じくする唯一のパートナーであると冷静に分析します。この困難な課題に対し、長州藩側にも同じ考えを持つ人物がいました。後の「維新の三傑」の一人、木戸孝允(きどたかよし)、当時は桂小五郎(かつらこごろう)と名乗っていた彼です。両藩の若きリーダーたちは、国家の未来という大局のために、過去の怨恨を乗り越える必要性を感じ始めていたのです。

坂本龍馬との交差点と影の交渉術

固く閉ざされた薩摩と長州の扉をこじ開けるために、歴史の舞台に現れたのが、土佐藩出身の浪士・坂本龍馬(さかもとりょうま)です。彼は特定の藩に縛られない自由な立場と、類まれな行動力で両藩の間を奔走しました。龍馬は、幕府に追われ武器の輸入ルートを絶たれていた長州藩に対し、「薩摩藩名義で最新の武器や軍艦を購入する」という具体的なメリットを提示。一方、薩摩藩には、倒幕の先鋭となる長州藩と組むことの戦略的重要性を説きました。この龍馬の仲介により、交渉のテーブルが整えられます。しかし、この歴史的な同盟締結の裏には、大久保利通による周到な「影の交渉術」がありました。彼は、感情的になりがちな藩内の反対派を粘り強く説得し、交渉の「表の顔」として西郷隆盛を京都へ送り込むための藩内調整に奔走。さらに、長州側の代表である木戸孝允との間で、同盟の具体的な条件を詰めるための水面下での折衝を続けました。もし坂本龍馬が両藩を結びつける「触媒」だったとすれば、大久保は、同盟という化学反応を成功させるために、温度や圧力を完璧に管理した、冷静沈着な「実験責任者」だったと言えるでしょう。

理想より現実を貫いた大久保の交渉力

坂本龍馬の奔走と、大久保による緻密な根回しの末、ついに歴史が動きます。1866年1月21日(慶応2年)、京都の薩摩藩邸の一室で、西郷隆盛と木戸孝允が対面。坂本龍馬の立ち会いのもと、六カ条からなる「薩長同盟(さっちょうどうめい)」が密かに結ばれました。この同盟は、単に「幕府と戦う際には協力する」という軍事協定に留まるものではありませんでした。その条文には、一方が幕府と戦うことになった場合、もう一方が必ず支援すること、そしてもし幕府を倒した暁には、朝廷のもとで日本の政治を行うことなど、戦後の国家構想までが含まれていたとされます。これこそ、大久保が描いていた青写真でした。彼にとって倒幕はゴールではなく、あくまで新しい統一国家を建設するための第一段階。そのためには、薩摩の「武力」と、長州の進歩的な「思想」、そして多くの「人材」を融合させることが不可欠だと考えていたのです。藩同士のプライドや過去の血の清算といった感情論を一切排除し、「日本」という国家全体の利益を最優先する。この冷徹なまでの現実主義と、目的達成のためにいかなる手段も講じるという大久保の交渉力こそが、この奇跡的な同盟を成立させ、日本を新たな時代へと導く原動力となったのです。

鳥羽・伏見の戦いで見せた大久保利通の戦略眼

武力倒幕への道と政略の融合

薩長同盟の成立後、倒幕への圧力が高まる中、事態は意外な方向へ動きます。1867年11月9日、15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、自らの判断で統治権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」を断行。これにより、武力衝突を避け、徳川家が新政権下でも実質的な権力を維持する道が開かれたかに見えました。しかし、大久保利通や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らは、これを徳川家による権力延命策と見抜き、決して許しませんでした。彼らは先手を打ち、1868年1月3日(旧暦12月9日)、クーデターを敢行。天皇を中心とする新政府の樹立を高らかに宣言する「王政復古の大号令」を発します。さらに同日の夜には小御所会議(こごしょかいぎ)を開き、慶喜に対して官職と領地の返上(辞官納地)という、極めて厳しい処分を一方的に決定しました。これは旧幕府勢力を意図的に挑発し、武力衝突を誘発することで、彼らを「朝敵」として完全に無力化しようという、後戻りのできない決断でした。この強硬策の実現に向け、大久保が中心的な役割を果たしたことは間違いありません。

鳥羽・伏見の戦いにおける指導と決断

新政府側の挑発に対し、旧幕府軍はついに憤激。1868年1月27日(旧暦1月3日)、「君側の奸(くんそくのかん)である薩摩藩を討つ」として京都へ進軍し、戊辰(ぼしん)戦争の火蓋を切る「鳥羽・伏見の戦い」が勃発しました。兵力では旧幕府軍が圧倒的に優勢でした。この危機的状況を打開するため、大久保は岩倉具視らと連携して朝廷工作を進め、決定的な一手を打ちます。それは、天皇の軍であることを示す「錦の御旗(にしきのみはた)」と、征討大将軍の証である「節刀(せっとう)」を新政府軍に授けさせることでした。この錦の御旗が戦場に翻った瞬間、戦いの大義は完全に新政府軍のものとなり、彼らは「官軍」に、対する旧幕府軍は朝廷に刃向かう「賊軍」へと立場が逆転します。この効果は絶大で、日和見していた諸藩は官軍支持を表明し、兵士の士気は劇的に向上、戦況は一変しました。大久保自身は前線には立ちませんでしたが、大阪の拠点にあって戦況を冷静に分析し、後方支援を指揮するとともに、この錦の御旗の準備といった決定的な政治工作において、岩倉らとともに中心的な役割を果たしたのです。

江戸無血開城、西郷との絶妙な連携

鳥羽・伏見での勝利後、官軍は徳川幕府の本拠地・江戸へ向けて進軍します。江戸が戦火に包まれるか否か、その運命は、官軍を率いる西郷隆盛と、旧幕府の責任者であった勝海舟(かつかいしゅう)の交渉に委ねられました。この時、京都にいた大久保は、新政府内で徳川家への過度な強硬論を抑え、内乱の長期化や諸外国の介入を避けるべく、政治的な環境整備に尽力していたと考えられます。新政府としての方針は示しつつも、最終的な現場での判断は、最高指揮官である西郷に委ねられていました。西郷は、勝との会談を通じて江戸市民を戦禍に巻き込むことの愚を悟り、大局的な見地に立って、新政府軍による江戸城総攻撃の中止を独断で決意します。京都で国家の将来を見据えて政策の骨格を練る大久保と、その方針を汲み取りながらも、現場の現実を踏まえて大胆な決断を下す西郷。直接的な指示命令がなくとも、二人の目指す方向性が一致していたからこそ、この「江戸無血開城」という奇跡的な成果が生まれたのです。それぞれの持ち場での最善の判断が、結果的に日本を未曽有の危機から救いました。

中央集権国家への道を切り開いた大久保利通

版籍奉還の調整役としての手腕

戊辰戦争が終結し、徳川幕府が倒れても、日本はまだ一つのまとまった国家ではありませんでした。全国には260以上もの「藩」が存在し、それぞれが土地(版)と人民(籍)を私有する、いわば小さな独立国家の寄せ集めの状態だったのです。これでは欧米列強と対等に渡り合える強力な近代国家は望めないと、大久保利通や木戸孝允(きどたかよし)といった新政府の指導者たちは強い危機感を抱いていました。そこで彼らが改革の第一歩として仕掛けたのが、1869年(明治2年)の「版籍奉還(はんせきほうかん)」です。これは、全国の藩主に土地と人民を形式的に天皇へ「お返し」させるという政策でした。しかし、これは極めて巧妙な戦略で、返上後も旧藩主は「知藩事(ちはんじ)」として引き続き領地の統治を任され、給与も保証されました。なぜ、このような一見すると不徹底な方法をとったのか。それは、数百年続いてきた封建体制を急進的に解体すれば、全国で武力反乱が起きかねないと予測したからです。大久保は、まず薩摩・長州・土佐・肥前の有力4藩の藩主を説得して自主的に版籍を奉還させ、世論の模範としました。そして、その流れに乗じて他の藩にも追随を促すという、周到なシナリオを描いたのです。力ずくではなく、外堀を埋めて既成事実化していく。その見事な調整能力に、彼の真骨頂が表れています。

廃藩置県を断行した鉄の意志

版籍奉還は旧体制解体の第一歩にはなりましたが、知藩事となった旧藩主が依然として藩政を握り続けるため、新政府の命令が全国隅々まで行き届かず、税の徴収も藩ごとにバラバラという限界がありました。この中途半端な状態を打破し、真の中央集権国家を創るために、大久保らが次に打った手こそ、日本史上でも類を見ない大改革「廃藩置県(はいはんちけん)」です。これは、全国すべての「藩」を完全に廃止し、代わりに中央政府が派遣する「県令(けんれい)」や「知事」が統治する「県」を設置するという、まさに革命的な政策でした。これは諸大名の既得権益を根こそぎ奪うものであり、大規模な武力抵抗を招きかねない、極めて危険な賭けでした。しかし、大久保の決意は固まっていました。「今この改革を断行しなければ、日本に未来はない」。その鉄の意志は、盟友である西郷隆盛や木戸孝允も共有していました。特に、薩摩・長州・土佐の三藩から集められた、名目上1万人規模の「御親兵(ごしんぺい)」の存在は、改革に反対しようとする勢力を沈黙させる絶大な軍事的圧力となりました。この圧倒的な武力を背景に、大久保は最後の仕上げに取り掛かります。

旧大名たちとの駆け引きと政略的包囲網

大久保は、ただ軍事力で脅すだけの粗暴な政治家ではありませんでした。彼は、抵抗が予想される旧大名たちに対し、「アメとムチ」を巧みに使い分けることで、政略的な包囲網を築き上げました。まず「アメ」として、知藩事の職を失う旧藩主たちに対し、それまでの収入を元にした多額の家禄(給与)を保証し、さらに各藩が抱えていた莫大な負債も新政府が引き継ぐことを約束しました。そして彼らを東京に移住させることで、地方での政治的影響力を削ぐと同時に、旧支配者としてのプライドと生活の安定を保障したのです。その上で、決定的な「ムチ」が振るわれます。1871年(明治4年)8月29日(旧暦7月14日)、大久保は在京の主要な知藩事たちを皇居に呼び出し、天皇の御前で、一方的に廃藩置県の詔(みことのり)を読み上げさせました。御親兵が厳重に警備する中、天皇から直接告げられた改革に、もはや誰も反対することはできません。これは、反論の余地を一切与えない、完璧に計算され尽くした政治的演出でした。この廃藩置県の断行により、日本は初めて名実ともに中央政府が全国を直接統治する「中央集権国家」となり、全国統一の税制や徴兵制を敷くための盤石な基礎が築かれたのです。

欧州視察を経て変貌する大久保利通の国家構想

岩倉使節団と欧州の視察目的

廃藩置県という国内最大の大改革を成し遂げ、中央集権国家という「器」を創り上げた大久保利通。しかし、その器にどのような「魂」を吹き込み、いかにして欧米列強と渡り合える国を創るのか、その具体的な設計図はまだ白紙の状態でした。その答えを求めて、明治政府は前代未聞のプロジェクトを敢行します。それが、1871年12月から1873年9月まで、およそ1年9ヶ月間にわたり欧米12カ国を巡った「岩倉使節団」です。この使節団の異例さは、そのメンバー構成にありました。特命全権大使の岩倉具視(いわくらともみ)を筆頭に、副使として大久保自身と木戸孝允(きどたかよし)、そして理事官には若き伊藤博文(いとうひろぶみ)など、政府の首脳陣がごっそりと国を空けたのです。表向きの目的は、幕末に結ばされた不平等条約の改正に向けた予備交渉でしたが、大久保たちが真に重視していたのは、欧米各国の進んだ政治・経済・軍事・文化のすべてをその目で確かめ、日本の近代化における具体的な手本を探すことでした。近代国家の「お手本」を丸ごと視察しに行くという、壮大な旅が始まったのです。

諸制度と産業モデルからの学び

ちょんまげを結ったままの使節団一行が最初に訪れたアメリカでは、広大な国土を貫く鉄道網や、活気に満ちた資本主義社会に圧倒されます。続くイギリスでは、空を覆う工場の煙突や、世界経済を支配する金融システム、そして議会制民主主義の先進性に目を見張りました。彼らは、欧米の強大さの源泉が、優れた産業力とそれを支える社会制度にあることを痛感します。とりわけ大久保に強烈な印象を与えたのが、当時、急速に国力を伸長させていたプロイセン(後のドイツ帝国)でした。1873年3月、ベルリンで鉄血宰相ビスマルクと会見した際には、国際社会の現実は理想論ではなく、国力こそがすべてを決定するという冷徹な現実主義に触れ、大きな衝撃を受けました。その経験から、君主のもとに強力な官僚組織と軍隊が国家を指導し、上からの改革で近代化を推し進めるドイツの国家モデルこそ、まだ国民国家として未熟な日本が倣うべき道であると確信するに至ったと考えられます。

帰国後の文明開化政策へと結実

1873年9月に帰国した大久保利通の頭の中には、日本の進むべき道が明確なビジョンとして描かれていました。それは、イギリスの経済発展を参考に産業を育て国を豊かにし(富国)、ドイツの国家体制をモデルに強力な軍隊を組織する(強兵)という、「富国強兵」の国家方針です。この構想は、帰国後の彼の政策に即座に反映されます。帰国後の1873年11月、大久保は新設された内務省の初代内務卿(ないむきょう)に就任。絶大な権限を持つこの役職を拠点に、警察制度を整備して国内の治安を固める一方、国家主導で近代産業を育成する「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策を強力に推進し始めます。官営の富岡製糸場(とみおかせいしじょう)に代表される模範工場の建設、全国への鉄道・電信網の敷設、近代的な金融制度の導入など、欧米で目の当たりにしたものを、日本の土壌に次々と移植していったのです。大久保にとって「文明開化」とは、単に西洋の文化を真似る流行ではなく、欧米列強の植民地となることを避け、国家の独立を維持するための、壮大かつ緻密な国家改造プロジェクトそのものだったのです。

内務卿・大久保利通の近代化プロジェクト

地租改正で支えた国家の財政基盤

欧米視察から帰国し、内務卿として絶大な権力を手にした大久保利通。彼が「富国強兵」という壮大な国家目標を実現するために、まず乗り出したのは、国家の根幹である財政基盤を盤石にすることでした。そのための大改革が、1873年(明治6年)に始まった「地租改正(ちそかいせい)」です。これは、江戸時代から続く年貢制度を根本から覆すものでした。これまでの税は、その年の収穫高に応じて米で納める仕組みだったため、豊作・凶作によって税収が大きく変動し、政府の財政は常に不安定でした。そこで大久保らが導入した新制度は、①全国の土地を測量して所有者を法的に確定し、「地券(ちけん)」を発行する、②土地の価値である「地価」を定める、③その地価の3%を、所有者が「現金」で納める、という画期的なものでした。この改革の最大の狙いは、天候に左右されず、毎年決まった額の税金を現金で確保することにありました。これにより、政府は初めて近代的な国家予算を計画的に編成できるようになり、軍備の増強や産業の育成といった巨大プロジェクトに、安定的かつ継続的に資金を投入する道が開かれたのです。

殖産興業による産業国家への道筋

安定した財源を確保した大久保が、次に国力を増強するためのエンジンとして全力で推進したのが、「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策です。これは、欧米諸国のように、農業だけでなく工業の力で国を豊かにしようという、国家主導の産業育成プロジェクトでした。その目的は、外国から工業製品をただ買うだけでなく、自国の力で優れた製品を生み出し、いずれはそれを輸出して外貨を稼ぐ産業国家へと日本を変貌させることにありました。その手本を示すため、政府は全国に「官営模範工場」を設立します。特に、フランスの最新技術と設備を導入した群馬県の「富岡製糸場」は、当時日本の最大の輸出品であった生糸の品質向上と大量生産を実現し、国際競争力を飛躍的に高めました。大久保は他にも、造船所やセメント、ガラス工場などを次々と建設し、民間企業が育つための土壌を整えていきました。また、ヨーロッパの技術を学ぶために多くの「お雇い外国人」を高い給料で招き、その知識を広めるための博覧会を開催するなど、技術革新にも力を注ぎました。すべては、欧米に頼らず自立できる産業国家への道筋をつけるためでした。

警察制度整備による治安維持と統治構想

大久保は、地租改正や殖産興業といった急進的な改革が、社会に大きな変化と摩擦をもたらし、人々の不満や抵抗を生むことを冷静に予測していました。そこで彼は、社会の安定を維持し、改革を円滑に進めるための強力な装置として、近代的な「警察制度」の創設を最重要課題の一つと位置付けます。彼は、自らと同じく岩倉使節団の一員としてヨーロッパの警察を視察した元薩摩藩士・川路利良(かわじとしよし)を初代の大警視(現在の警視総監に相当)に抜擢。フランスの制度を手本とした、中央集権的で強力な警察組織を全国に整備していきました。これは、武士が刀で治安を守っていた時代から、法に基づいて国家が国民の安全を管理する時代への大きな転換点でした。しかし大久保にとって警察とは、単に犯罪を取り締まる組織ではありません。それは、廃藩置県で解体された「藩」に代わり、新政府の意思を国民一人ひとりにまで浸透させ、徴税や徴兵といった国家の命令を確実に実行させるための、最も重要な統治ツールでもあったのです。財政、産業、そして治安。この三つの柱を同時に打ち立て、有機的に連携させることこそ、大久保が描いた近代国家建設の全体像でした。

暗殺された大久保利通と揺れる維新後の評価

紀尾井坂の変に至る背景と犯行グループ

内務卿として日本の近代化を強力に推し進める大久保利通。しかし、その急進的な改革は、旧時代の価値観の中に生きてきた人々の激しい反発を呼び、彼の周囲には濃い憎悪の影が渦巻いていました。特にその憎悪を決定的なものにしたのが、1877年(明治10年)に勃発した日本最後にして最大の内戦「西南戦争」です。かつての盟友・西郷隆盛をリーダーとする士族たちの反乱を、大久保は国家の指導者として、非情な決断で鎮圧しました。これにより、多くの薩摩士族から彼は「郷友を裏切り、西郷を死に追いやった冷血漢」と見なされるようになります。そして運命の日、1878年(明治11年)5月14日の朝が訪れます。いつものように皇居へ向かう馬車が、東京・麹町紀尾井町の清水谷(しみずだに)付近に差し掛かった時、6人の男たちが襲撃しました。犯人は、石川県の旧加賀藩士族・島田一郎ら5名と、島根県の旧浜田藩士族1名。彼らは大久保を馬車から引きずり出し、16箇所もの深い刀傷を負わせました。彼らの懐には、大久保を断罪する5カ条の罪状を列挙した「斬奸状(ざんかんじょう)」が忍ばせてありました。近代国家の礎を築いた巨人は、この「紀尾井坂の変」で非業の死を遂げたのです。

士族層の不満と近代化の摩擦

なぜ、士族たちはこれほどまでに大久保を憎んだのでしょうか。その根底には、明治維新によって彼らが誇りも生活も、その存在意義すらも奪われたことへの、深い絶望と怒りがありました。江戸時代、武士は支配階級として特権を享受していましたが、新政府が進める改革は、その特権を次々と解体していきました。国民皆兵を目指す「徴兵令」は、武士の軍事的優位性を奪い、武士の魂である刀の携帯を禁じた「廃刀令」は、彼らのプライドをズタズタにしました。さらに決定的だったのが、世襲で保証されていた給料(家禄)を一方的に打ち切る「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」です。これにより、多くが特別な生産手段を持たない士族たちは、瞬く間に経済的困窮へと突き落とされました。大久保が進める「富国強兵」や「殖産興業」は、新しい時代の恩恵を受ける者を生み出す一方で、旧時代の価値観から抜け出せない多くの士族を、時代遅れの「不要な存在」として切り捨てる結果となったのです。大久保利通の暗殺という悲劇は、輝かしい明治維新の光の裏で、近代化の摩擦によって生じた「影」の部分が、最も過激な形で噴出した事件でした。

「日本のビスマルク」としての歴史的評価

そのあまりに劇的な死の後、大久保利通の評価は大きく二つに分かれました。一つは、島田らが斬奸状で訴えたように、議会を開かず民意を軽んじ、政敵を容赦なく排除して独裁的に改革を推し進めた「冷酷な権力者」という評価です。西南戦争で西郷隆盛を見殺しにしたというイメージも、この評価に拍車をかけました。しかし、時代が下り、彼が遺した政策の成果が明らかになるにつれて、その評価は大きく変わっていきます。欧米列強による植民地化の危機が迫る中、国内の混乱を鎮め、強力なリーダーシップで国家の統一を成し遂げ、近代国家としての礎をわずか10年で築き上げた「偉大な建設者」としての側面が、正当に評価されるようになったのです。その卓越した国家構想と、目的のためには非情な手段も厭わない現実主義的な政治手法は、まさしくドイツ帝国を武力と外交で統一した鉄血宰相になぞらえられ、「日本のビスマルク」と称されるようになりました。彼の死は、維新の理想と現実の間に生まれた深い溝を象徴すると同時に、彼という国家最大の推進力を失った明治政府が、新たな困難の時代へと突入していくことの予兆でもあったのです。

作品に見る大久保利通の多面像

瀧井一博『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』に描かれる行政の天才

大久保利通を「冷徹な権力者」というイメージから解き放ち、近代日本を設計した稀代の行政官僚として再評価したのが、瀧井一博氏の『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』です。この本で描かれる大久保は、情念や私情に流されることなく、常に国家全体の利益を最優先する冷静なリアリストです。特に注目されるのは、彼の「制度設計能力」。廃藩置県や地租改正といった大事業を、いかに周到な準備と緻密な計算のもとに実行したか、そのプロセスが詳細に解き明かされています。また、岩倉使節団で得た知見を、帰国後いかにして内務省という強力な行政機関の設立や、殖産興業政策へと結びつけていったか。その手腕は、まさに国家という巨大な機械を動かすエンジニアのようです。この著作を読むと、大久保利通という人物が、単なる政治家ではなく、法律、経済、外交、さらには情報戦略までを駆使して「知」を結びつけ、近代国家という壮大なシステムを構築しようとした「国家経営者」であったことがよくわかります。感情的な評価を排し、彼の「仕事」そのものに焦点を当てたい人には、必読の一冊と言えるでしょう。

海音寺潮五郎『西郷と大久保』に見る友情と対立の人間劇

明治維新の歴史を、壮大な人間ドラマとして味わいたいなら、文豪・海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)の『西郷と大久保』は外せません。この小説の魅力は、何と言っても西郷隆盛と大久保利通という、二人の英雄の関係性を軸に物語が進む点にあります。同じ薩摩に生まれ、同じ志を抱いて維新を成し遂げた二人が、なぜ最後には袂を分かち、敵味方として戦わなければならなかったのか。その謎に、二人の性格や人間性の違いから迫っていきます。作品の中で、西郷は情に厚く、理想を追い求める革命家として描かれる一方、大久保は常に現実を見据え、国家の理性を優先する冷徹な政治家として対置されます。しかし、本作は単に「情の西郷、理の大久保」という単純な二元論に留まりません。国家のためにあえて憎まれ役を引き受け、盟友・西郷を切り捨てる決断を下さねばならなかった大久保の苦悩や孤独にも、深く光を当てています。彼の冷徹さの裏に隠された、人間的な葛藤や悲しみを感じ取りたい読者にとって、この作品は、史実の奥にある登場人物たちの息遣いを伝えてくれる、最高の歴史物語となるはずです。

ミネルヴァ書房『大久保利通 近代国家の建設につくした政治家』の制度論的視点

歴史上の人物を、より専門的かつ客観的な視点から分析したいと考える知的好奇心の強い読者には、ミネルヴァ書房の日本評伝選シリーズの一冊、『大久保利通 近代国家の建設につくした政治家』がおすすめです。この本は、大久保を単なる政治家や英雄としてではなく、近代国家日本の「法制度」や「官僚機構」を創り上げたシステムビルダーとして捉え直す点に特徴があります。例えば、彼が初代内務卿として整備した警察制度や地方行政の仕組みが、その後の日本の統治システムにどれほど大きな影響を与えたか。また、地租改正や殖産興業といった経済政策が、いかにして法的な裏付けのもとに進められたかなど、彼の仕事を制度論的な観点から深く掘り下げています。感情的なエピソードやドラマ性を排し、一次史料に基づいて彼の政策立案の過程や、その政治思想の根源を丹念に追っていくスタイルは、まさに研究書ならでは。大久保利通の行動の背景にある、彼の法思想や国家統治のビジョンといった、より本質的な部分に関心があるならば、この一冊は多くの知的な発見をもたらしてくれるでしょう。

『西郷隆盛・木戸孝允―維新の三傑論』が描く三傑の中の「現実主義者」

大久保利通という人物を単独で見るのではなく、明治維新という大きな動きの中で相対的に捉えたい場合、「維新の三傑」というフレームワークは非常に有効です。その三傑、すなわち西郷隆盛、木戸孝允、そして大久保利通の関係性と役割分担を論じた『西郷隆盛・木戸孝允―維新の三傑論』のような書籍は、大久保の立ち位置をより明確にしてくれます。一般的に、この三人の役割は、「革命の実行者・西郷」「理想の構想者・木戸」「国家の建設者・大久保」と対比されます。情熱とカリスマで旧体制を「破壊」する役割を西郷が担い、進歩的な思想で新しい国家の青写真を「構想」する役割を木戸が担ったとすれば、大久保の役割は、その青写真を現実の土地の上に、一つひとつレンガを積み上げるように「建設」していくことでした。理想を語るだけでなく、それを実現するための泥臭い実務や、時には非情な決断も厭わない。この本などを通して三傑を比較すると、大久保利通の持つ、突出した「現実主義者」としての一面がより一層際立って見えてきます。

映画『海辺の映画館-キネマの玉手箱』における象徴的存在としての登場

大久保利通の描き方は、歴史小説や学術書に限りません。2020年に公開された大林宣彦(おおばやしのぶひこ)監督の遺作『海辺の映画館-キネマの玉手箱』では、彼は非常に象徴的な存在として登場します。この映画は、現代の若者がスクリーンの向こうの戊辰戦争の時代にタイムスリップするという幻想的な物語ですが、その中で大久保は、近代化を推し進める国家の論理そのものとして描かれます。主人公たちが、戦争で犠牲になる人々の命を救おうと奔走するのに対し、大久保は「国家の未来のためには、個人の犠牲もやむを得ない」という冷徹な態度を崩しません。これは、近代化や富国強兵という大義名分のもとで、多くの民衆の暮らしや命が翻弄されていった歴史の事実を、大久保という一人の人物に託して表現していると言えるでしょう。歴史上の人物としてリアルに描くというよりは、近代日本が抱えた「光と影」の葛藤を体現するアイコンとして登場させる手法は、映像作品ならではのユニークなアプローチであり、私たちに新たな視点を与えてくれます。

映画『天外者』で浮かび上がる近代国家構想の片翼

2020年に公開され大きな話題を呼んだ映画『天外者(てんがらもん)』は、薩摩藩出身の実業家・五代友厚(ごだいともあつ)の生涯を描いた作品ですが、この中で大久保利通は、主人公を支える重要な盟友として登場します。本作における大久保は、冷徹な権力者というよりも、同じ未来を見据える改革者の一人として描かれているのが特徴です。五代が民間の立場から日本の経済発展を推し進めようとするのに対し、大久保は政府の立場から、そのための制度やインフラを整備していく。二人はそれぞれ異なるアプローチを取りながらも、「日本を豊かな国にする」という共通の目標に向かって走る、いわば車の両輪のような存在として描かれています。特に、大久保が五代の斬新な発想や行動力に期待し、その活動を陰ながら支援する姿は、彼が単なる独裁者ではなく、優れた才能を見抜いて活用する度量を持った人物であったことを示唆しています。主人公である五代の輝きを一層引き立てる、「もう一人の改革者」としての大久保の存在感は、彼の多面性を知る上で非常に興味深い視点を提供してくれます。

近代日本の礎を築いた「光と影」

大久保利通という人物は、しばしば「冷酷な独裁者」か、あるいは「偉大な建設者」かという二元論で語られます。

下級武士から身を起こし、薩長同盟の締結から廃藩置県の断行、そして殖産興業の推進に至るまで、彼はまさしくゼロから近代日本の礎を築き上げました。その卓越した国家構想と実行力は「日本のビスマルク」と称されるにふさわしいものです。しかし、そのあまりに急進的な改革は多くの摩擦と犠牲を生み、最後は志半ばで暗殺されるという悲劇的な結末を迎えました。

大久保利通の生涯は、近代化が持つ輝かしい「光」と、その裏に潜む深い「影」そのものを体現しています。彼を単純な善悪の物差しで測ることはできず、その評価は今なお多面的です。歴史を深く知るとは、こうした人物の功罪を多角的に捉え、その複雑さを理解することにあると言えるでしょう。

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