こんにちは!今回は、明治時代の法学者・教育者、梅謙次郎(うめけんじろう)についてです。
日本民法と商法の起草に深く関わり、近代法の骨格を形づくったことで知られています。法政大学の初代総理としては、実学重視の法学教育を推進し、次世代の法曹を育てました。
さらに、フランスで法学博士号を取得した国際派の知識人として、韓国の法整備にも尽力するなど、その活動は日本の枠を超えて広がっていました。そんな梅謙次郎の生涯と業績を紹介します。
梅謙次郎の生い立ちと松江での才覚
藩校で磨かれた卓越した学力
梅謙次郎は、1855年(安政2年)に出雲国松江(現在の島根県松江市)で、松江藩士・梅謙吉の長男として誕生しました。幕末の動乱と明治維新をまたぐ時代に育った彼は、早くから学問の才を見せ、藩の学校である文武場に入学すると、その非凡さが際立ち始めます。儒学を中心に据えたこの学び舎では、『論語』や『孟子』といった古典の素読と解釈が重視されていましたが、梅は年齢に比して極めて高い読解力と記憶力を発揮しました。授業で一度扱われた章句を翌日には空で再現し、その意味を自分なりの言葉で論じる姿に、教師たちは驚嘆したと伝えられています。こうした深い理解力と表現力は、書物に囲まれた生活と、一問一答の応用を日常とする訓練の積み重ねから生まれたものでした。
松江藩士の家に育った知の環境
謙次郎の成長を語るうえで、彼が生まれ育った家の環境を外すことはできません。父・謙吉は松江藩に仕える実直な役人であり、儒学に深い関心を持ち、家には数百冊の漢籍が整然と並んでいました。こうした空間の中で、謙次郎はまだ幼いうちから書物に親しみ、分からぬ箇所があると父に問い、自分で解釈を試みるという習慣が自然と形成されていきます。また、家を訪れる客人もまた学識豊かな士族たちであり、その談笑の内容は少年の好奇心を大いに刺激しました。家庭そのものが、書物と対話を通じて知を育む「もう一つの学び舎」となっていたのです。なぜ彼が幼少期から抽象的思考を自然に身につけていたのか。それはこうした生活空間と、知を尊ぶ空気のなかに身を置いていたからに他なりません。
幼少期から「神童」と呼ばれた逸材
ある冬の日、文武場で開かれた対面式の問答会において、わずか十歳に満たない梅謙次郎が長老の学者たちを前に即興で孔子の思想を語ったことがありました。彼の口から滑らかに出たのは、『中庸』の一節に自らの解釈を交えた論旨で、その構成の確かさと語彙の選択に、一同が静まり返ったといいます。以後、彼は「松江の神童」と称されるようになり、藩内でも特別な存在として注目されるようになりました。しかしそれは決して派手な言動によるものではなく、言葉の一つひとつに裏打ちされた「思索の深さ」が評価されたものでした。表層的な模倣や暗記とは異なる、内面から湧き出るような理解。それが周囲の人々の心に、静かな衝撃と持続的な印象を残したのです。
梅謙次郎、東京で開花する語学と法学の才能
東京外国語学校での驚異の首席卒業
松江で「神童」と呼ばれた少年は、やがて新政府の首都・東京へと向かいます。1872年、17歳になった梅謙次郎は、語学の才能を見込まれて東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学しました。当時この学校は、国際化を急ぐ明治政府にとって不可欠な人材を育成する場であり、多言語教育と翻訳技術の習得が重視されていました。梅はここでフランス語を専攻し、その習得スピードは群を抜いていました。彼は単語帳ではなく、フランス語の新聞や法律文書を通じて語彙と文法を体得していくという独自の学習法を採用し、学内では“模範学生”と称される存在となります。わずか数年で首席卒業を果たすその背景には、言語そのものへの知的好奇心と、異文化を媒介として日本の進路を探ろうとする真摯な動機があったのです。
フランス語を通じて法学の世界へ
フランス語を学ぶうちに、梅謙次郎の関心は言語そのものから、その言語で書かれた思想や制度へと広がっていきます。とりわけ彼の興味を引いたのは、ナポレオン民法典や人権宣言など、法と社会の構造を根本から考察する文献群でした。言語を媒介として法に触れた経験は、彼の中で新たな知的展望を開く契機となりました。「なぜ人は法を守るのか」「法がなければ社会はどうなるのか」といった問いが、彼の中で具体的な制度や歴史と結びついていくのです。また、語学の習熟によって原典を直接読むことができたことは、解釈の自由と責任を同時に与えるものでした。知識の伝聞ではなく、言葉そのものに触れることによって得た理解は、のちの彼の法学的立場──とりわけ実定法への強い信頼──の礎ともなりました。
司法省法学校との運命的出会い
東京外国語学校を首席で卒業した後、梅謙次郎が次に進んだのが司法省法学校でした。1874年に創設されたこの学校は、近代法制度を担う人材を短期間で育てるため、フランスから招聘された法学者ジョルジュ・アペールらを中心に運営されていました。授業はすべてフランス語で行われ、ナポレオン法典やローマ法の講義が翻訳抜きで進められるという、非常に高い言語能力と法的理解を求められる環境でしたが、梅はそのどちらにも秀でた存在でした。彼は授業中にアペールの指摘に即応し、逆に独自の解釈を問うこともあったといいます。同期には後に法政大学を共に創設する本野一郎や、政治家として名を馳せる原敬などもおり、彼らとの出会いは梅にとって法と政治の現場を意識するきっかけとなったのです。若き法学徒の眼は、既に海の向こうを見据えていました。
梅謙次郎、フランス留学と欧州法学との出会い
司法省法学校から文部省派遣でリヨンへ
1884年、司法省法学校を首席で卒業した梅謙次郎は、文部省の国費留学生に選ばれました。当時24歳。明治政府はフランス民法の体系を本格的に取り入れるため、実務と理論に通じた若き法学者を欧州へ送り出していました。梅は1886年に渡欧し、マルセイユを経てリヨン大学法学部に入学します。講義はすべてフランス語で行われ、民法典の解釈、契約法、ローマ法の伝統などが中心テーマでしたが、彼は既に司法省法学校での実践的訓練と語学力を備えており、講義内容に的確に対応できたと伝えられます。講義中にはフランス人学生とも積極的に議論を交わし、法学の枠を超えた思索を深めるきっかけを得たともいわれています。日本から遠く離れたこの都市で、法をめぐる思考の地平が広がっていったのです。
『和解論』とフランス法学界での評価
リヨン大学での学びを集大成する形で、梅謙次郎は1889年に法学博士号を取得します。博士論文『和解論(De la transaction)』は、当事者間の合意による紛争解決手段「和解」の法的意義と機能を、ローマ法とフランス民法典の比較を通じて分析したものです。訴訟による一方的な裁定ではなく、対話と妥協による社会的秩序の構築を重視する姿勢がこの論文には込められており、そこには単なる制度解説を超えた梅の法思想がうかがえます。この論文は現地で高く評価され、リヨン市からヴェルメイユ賞碑を授与されただけでなく、同市の公費によって出版されました。法典の枠を超えた柔軟な視点は、今日においてもフランス法学界で引用される稀有な日本人論文として知られています。
欧州での知的交流と視野の拡張
留学中の梅謙次郎は、リヨン大学のみならず、欧州各地に足を運びながら現地の法制度や社会思想に広く接していきました。ドイツ・ベルリン大学でも一定期間学び、形式論理よりも社会的機能を重視するドイツ法学の空気を肌で感じ取ったとされます。また、フランス各地で在仏日本人学生とのネットワークを築き、パリでは原敬や本野一郎らと頻繁に交流。日本の未来と法の役割について熱く語り合う時間を重ねました。彼が労働法や女性の権利など当時の新しい法領域にも関心を持つようになったのは、こうした議論や欧州社会の現実からの影響と考えられます。制度を学ぶだけでなく、その背景にある社会構造や価値観に目を向けた経験は、彼の法学における「観る力」を深めたのです。
帰国後の挑戦と法政大学の創設
東京帝国大学での教育者としての功績
1889年にフランスから帰国した梅謙次郎は、間もなく東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)の教壇に立ちました。当時、大学教育はまだ制度整備の途上にあり、近代法の概念を学生にどう伝えるかは大きな課題でした。梅は黒板に法典の条文を書くのではなく、判例や社会事例を用いながら、法が現実とどう結びついているのかを問う授業を展開しました。例えば、土地所有権に関する講義では、単なる条文解釈にとどまらず、都市と農村における慣習法の違いを取り上げ、「一つの法が万人にどう通用するのか」を学生に考えさせたといいます。梅の講義は常に満席で、立ち見の学生が出るほどの人気を博しました。彼の教育の核には、欧州で培った「法を文化として捉える」視点があり、学生たちに法学を生きた知識として刻み込んでいったのです。
レオン・デュリーとの協働による法政大学設立
1899年、梅謙次郎はフランス法学者レオン・デュリーとともに法政大学(当時は「東京法学院」)の創設に携わります。デュリーとは司法省法学校以来の旧知であり、理念の根底には「市民社会のための実践的法学教育」がありました。梅は副総理として教育方針の設計に深く関わり、大学設立の根幹を成すカリキュラムを構築しました。彼は、法を学ぶことは単なる資格取得ではなく、公共への責任を担う人間を育てることであると考えていました。そのため、講義科目には商法・民法のみならず、比較法、外国法文献講読、政治思想史などを取り入れ、多角的な法学の地平を提示しました。また、授業ではフランスでの教育経験を生かし、ディスカッション形式を導入するなど、当時としては革新的な試みも行われました。形式にとらわれず、学びを開かれたものにする──その姿勢が法政大学の原点を形づくったのです。
中国人留学生にも及んだ思想的影響力
法政大学は創設当初から多くの中国人留学生を受け入れていました。日清戦争後、中国でも近代法の導入が急務とされる中、日本の法学教育、とりわけ梅謙次郎の授業は高い評価を得ていたのです。彼の講義には清国留学生が数多く参加し、通訳を介して学びを深める者もいました。彼は留学生に対しても日本人学生と分け隔てなく接し、課題や論述の水準も同一に保ちました。その中で特に注目されたのは、「和解」や「契約自由」に関する講義で、これは彼の博士論文の知見をもとに展開されたものでした。こうした教育は、単なる法技術の伝授ではなく、法をめぐる思索と社会における責任という視座を留学生に伝えるものであり、後に中国法制の近代化に関わる人物たちにも少なからぬ影響を与えたとされます。異文化への開かれた姿勢と誠実な対話──そこにもまた、彼の教育の本質が息づいていました。
民法典論争と梅謙次郎の信念
即時施行を訴えた法整備への姿勢
1890年前後、日本初の近代民法典の施行をめぐって論争が巻き起こりました。主にフランス法を基礎とするボアソナード草案に対し、「即時施行派(断行派)」と「延期修正派(延期派)」が鋭く対立したのです。梅謙次郎はこの時期、即時施行派の中心人物として活発に論陣を張りました。彼の立場は明快でした──「公布済みの法を実施せず棚上げにすることは、国家の信用を著しく損なう」。この姿勢は単なる技術論ではなく、法を社会の先導者とみなす、きわめて戦略的な構えに支えられていました。1892年には東京法学社で講演を行い、民法が示す新たな市民関係のモデルを具体例で解説し、「法は未来をつくる道具である」と語ったと記録されています。彼の言葉には、制度を恐れず、まず一歩を踏み出すことの意義がこめられていたのです。
穂積陳重・富井政章らとの理論的連携
民法典の即時施行を唱えた梅と、延期修正を主張した穂積陳重・富井政章は、立場こそ異なれど、制度の整合性と日本社会への適合を真剣に模索する知的共同体でした。三人はともに司法省法学校出身であり、民法調査会の起草委員として、法典草案の修正作業にあたりました。梅はここで、「慣習は尊重されるべきだが、慣習に支配されてはならない」という理念を貫き、社会の動的変化に対する法の先導力を強調しました。一方、穂積・富井は、拙速な施行による混乱を懸念し、条文整備と運用実務の乖離を是正するための改正を提案しました。両者の議論は単なる技術的対立ではなく、「法とは何か」という根源的問いを背景にしたものであり、近代日本法制の骨格を築いた思想的土壌でもありました。立場を越えて交わされた彼らの協議には、今日に至るまで通用する柔軟な構想力が宿っていたのです。
『民法要義』に見る現代民法への貢献
1898年、新たに修正を加えた明治民法が正式に施行されると、梅謙次郎は直ちに『民法要義』を刊行しました。この書物は、全体構成・条文の趣旨・比較法的視点をわかりやすく解説した体系書であり、単なる学術書にとどまらず、市民法教育の入門書としても画期的な位置を占めます。特に「契約自由の原則」をめぐる章では、フランス民法・ローマ法・日本の商慣習を比較しつつ、抽象原理と具体的運用を往復する筆致が見られ、読者に実感として法の働きを伝える構成となっていました。また、実務家にも有用な判例の引用や、将来の解釈可能性まで含んだ注釈が施されており、後続の民法研究と教育に大きな影響を与えました。『民法要義』は現在に至るまで、日本民法学における基礎文献として読み継がれています。その背景には、制度と社会をつなぐ梅の透徹した眼差しがあったのです。
韓国法整備への貢献と東アジアへのまなざし
韓国統監府法律顧問としての軌跡
1906年、梅謙次郎は韓国統監府の法律顧問に任命され、韓国の近代法整備に直接関与することになります。これは、日韓併合へと至る前段階において、朝鮮半島の法制度を整備し、日本法と調和させる意図を持つものでした。梅が任に就いた当時の京城(現・ソウル)は、西洋近代法と伝統的慣習法が混在する法的過渡期にあり、梅には「法の言語を通じて秩序を再構築する」という重責が課されました。彼は現地の判事・検事と定期的に意見交換を行い、土地所有制度、契約法、刑事訴訟手続きなどを中心に調査を実施。その成果をもとに法令の翻訳・起草を進めました。重要なのは、彼が一方的な制度導入ではなく、現地の実情と社会感情を慎重に観察し、実務的に機能する法制度を構想しようとした姿勢にあります。法とは移植ではなく、育成の過程である──そうした意識が彼の仕事の底流にあったのです。
伊藤博文との連携による法政策の具現化
梅謙次郎の韓国法整備の背景には、当時統監府を率いていた伊藤博文との緊密な関係があります。二人は司法省法学校時代からの知己であり、共にフランス法の導入を経験した知的同士でもありました。伊藤は朝鮮の近代化を政治的課題とし、その一環として法制度の整備を重視していましたが、制度設計を現場で実行するには、理論と現実を橋渡しできる人材が不可欠でした。梅はその要請に応え、各種法令の審査・助言にあたりながら、統監府が発行する官報や行政布告にも寄稿するなど、多面的な活動を展開しました。特に1907年以降に公布された民事訴訟関連の布令には、梅の論理的かつ簡明な法制技術が随所に見られます。伊藤との会談では、「法とは統治の手段ではなく、民の信を得るための根拠である」と語ったとされ、その言葉には、権力と正義のはざまで法が果たすべき役割への深い認識が滲んでいます。
現地法曹界から寄せられた評価とその遺産
梅謙次郎の法整備は、韓国の法曹界にも静かな影響を残しました。彼が制度設計に携わった裁判所法や刑事訴訟手続きは、実務においても高い運用性を示し、現地の法官たちからも「整然として無理のない制度」と評されることがありました。また、法令の条文だけでなく、それを適用するための訓令や判例集の整備にも心を砕き、判決文の言い回しに至るまで丁寧な指導を行ったと伝えられています。さらに彼は、若手法曹への教育的助言も惜しまず、韓国人法律家の育成にも力を注いだとされています。1908年には京城地方法院で行われた法学講義で、「法律とは人を裁くためでなく、導くためにある」と述べた記録も残っており、その語り口は通訳を通じても説得力を持って受け止められたといいます。彼の仕事は、単なる植民地行政の一環ではなく、東アジアにおける法の言語をめぐる静かな対話の試みでもあったのです。
梅謙次郎の晩年と遺された功績
韓国での急逝と国内での衝撃的反響
1910年(明治43年)8月25日、梅謙次郎は韓国・京城(現在のソウル)において腸チフスにより急逝しました。享年50歳。日本の近代民法成立に尽力し、韓国統監府法律顧問として現地法整備に取り組んでいた矢先の訃報は、日本の法曹界と教育界に深い衝撃を与えました。東京・大阪をはじめとする主要新聞各紙は、「法学界の巨星墜つ」といった見出しでその死を報じ、短くも濃密な生涯が改めて注目されました。特に彼が創設に関わった和仏法律学校(のちの法政大学)では、追悼式が厳かに行われ、教職員や学生たちが彼の教えに触れた日々を回顧したと伝えられています。講義録を手に追悼の辞を述べる教員、沈黙のなかに立ち尽くす学生たち──その光景は記録には残されていませんが、法の世界に深い問いを投げかけた人物の死にふさわしい余韻が、そこには確かに流れていたはずです。
後進たちによる功績の継承と発展
梅謙次郎の死後、その業績と理念は弟子や後進たちによりさまざまな形で継承されていきました。法政大学では講義録や草稿をまとめた出版活動が行われ、「梅謙次郎記念講座」などの記念事業も企画されました。東京帝国大学や司法省でも、彼の民法解釈を参照しながら法理論の再構築が進められ、判例形成や立法審議にもその思考が息づいていきました。特に「法は社会構造の変化に応答するものである」という彼の基本姿勢は、戦後の民法改正期にも重要な参照点となりました。また、中国や朝鮮からの留学生の中には、梅の講義を母国語に翻訳して仲間に共有した者もおり、彼の思想は国境を越えた形で東アジアの法教育にも浸透していきました。梅が残したのは文章だけではなく、法を「人と社会の関係の中で考える」という視点そのものであり、それは次の世代の思索の出発点となりました。
民商法に生き続ける思想とその再評価
戦後、高度経済成長とともに社会構造が激変する中、梅謙次郎の法思想は再び脚光を浴びることになります。とりわけ1950年代後半から60年代にかけて復刻された『民法要義』は、実務と理論を橋渡しする教科書として広く用いられ、法学部教育の根幹に据えられました。簡潔ながら制度の全体像を掴ませるその構成は、形式美よりも実用性を重視した明治法学の到達点とされ、今日においても参考文献として多くの講義で取り上げられています。また、商法分野においても、彼が草案において掲げた「契約の柔軟性と秩序の調和」という視点が、企業社会の拡大に応じた法制設計に先駆的だったと評価されています。判例集や学術論文の中で彼の論理が引用されるたび、現代の法学者たちはそこに、制度と人間の関係を見つめ続けたひとつの視線を再発見するのです。彼の思想は静かに、だが確かに、生き続けています。
梅謙次郎を描いた記録と研究の現在
岡孝『梅謙次郎 日本民法の父』の読みどころ
2023年に法政大学出版局から刊行された岡孝著『梅謙次郎 日本民法の父』は、近年における梅研究の集大成とも言える一冊です。本書の特筆すべき点は、単なる年譜的伝記にとどまらず、彼の思想形成過程と、それが制度や教育にどう具体化されたかを精緻にたどっている点にあります。たとえば、司法省法学校時代の講義ノートや、リヨン大学での博士論文執筆過程に関する一次資料の発掘と分析は、既存の研究に新たな深みを与えています。また、民法典論争期における彼の言動についても、従来の「断行派の雄」という単純な位置づけではなく、「理念と現実のはざまで、なお推進を選んだ実務家」として描かれており、法学的業績のみに留まらない「選択の主体」としての人物像が立ち上がります。冷静な筆致のなかに、時折覗く著者の敬意が、本書の読後感に深みを与えているのも見逃せない特徴です。
東川徳治『博士梅謙次郎』が描く人間像
1997年に大空社から復刻された東川徳治著『博士梅謙次郎』は、初版が戦前に刊行されたこともあり、梅謙次郎の人物像を「道徳的模範」として描く傾向が強く見られます。特に注目すべきは、彼の生徒たちや同僚の証言を通して浮かび上がる「教え方」と「人への接し方」の描写です。授業では冷静沈着な語り口ながら、学生の理解を常に確認しながら進め、時に私的な相談にも耳を傾けたというエピソードは、教育者としての側面をより立体的に浮かび上がらせます。また、韓国統監府での勤務中に見せた慎重かつ穏健な態度、異文化との摩擦を和らげようとする努力についても、記録に基づきつつ丁寧に言及されています。全体としてはやや理想化された描写ではあるものの、「人物の気配」を残す貴重な資料であり、読む者に時代の空気とともに、梅の佇まいを想像させる書です。
『追悼記念論文集』に見る同時代人の証言
1909年に刊行された『梅謙次郎博士追悼記念論文集』は、彼の没後間もなく、同時代を生きた法学者・教育者・政治家たちがその功績と人柄を記録した貴重な一次資料です。この論文集の特徴は、梅の専門的業績だけでなく、その語り口、沈黙、表情、議論の間合いといった、文章では捉えがたい側面までを各筆者が丹念に描いている点にあります。穂積陳重は寄稿の中で、梅を「最も現実に忠実な理想主義者」と評し、制度改革における現実的妥協の重要性を最も理解していた人物だったと述べています。一方、富井政章は、梅が法政大学で行っていた比較法の講義について、「制度を超えて、人間に通じるものを教えていた」と記し、学問の本質を掘り下げる姿勢を称賛しています。この記録集は、梅謙次郎という人物を、業績と人間性の両面から照射する「記憶の結晶体」として、今日でも研究者に読み継がれています。
法を超えて、人を見つめた思索の軌跡
梅謙次郎の生涯は、制度設計者としての厳密さと、教育者としての温かさが交錯する稀有な軌道を描きました。松江の神童は、東京で語学と法学を究め、フランスで法の精神と出会い、帰国後には教育と立法に身を投じ、韓国では異文化との対話に挑みました。その歩みは常に、「法を社会に根づかせ、人を導くものにするには何が必要か」という問いに貫かれていました。彼の思想は、時代の変化の中でも色褪せることなく、今日もなお法学や教育の場で静かに息づいています。制度の裏側にある人間の関係に目を凝らし、目の前の一条文の向こうに社会の姿を見通すそのまなざしは、今なお多くの学徒にとって羅針盤となり続けています。
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