こんにちは!今回は、明治から昭和初期に活躍した女子教育家・評論家、巌本善治(いわもと よしはる)についてです。
「女子に学問は不要」とされた時代に、彼はあえて女性に学問と自由を求める声を上げ、『女学雑誌』の創刊や明治女学校の改革を通じて、近代日本に「自立する女性像」を打ち立てました。
さらに勝海舟の言葉を記録した『海舟座談』の編者として、また森鴎外と論争を繰り広げた知識人としても知られ、思想と教育を武器に時代を変えた異色のパイオニア――巌本善治の波瀾万丈の生涯を追います。
巌本善治の出発点をたどる
幕末の混乱を生きた幼年期とその記憶
巌本善治は1863年、但馬国出石藩、現在の兵庫県豊岡市出石町に生まれました。誕生の年は文久3年、世は幕末の緊張が頂点に達しつつある時代でした。出石藩は小藩ながらも他藩と同様に財政の逼迫に苦しみ、藩政は不安定さを増していました。士族としての家に生まれた善治は、政治や制度の意味を知らずとも、周囲の大人たちの言葉やふるまいを通じて、何か大きなものが揺らいでいるという空気を感じ取っていた可能性があります。
善治の父・井上長忠は彼が5歳頃に亡くなっており、この早すぎる死は家庭に大きな影響を及ぼしました。経済的にも精神的にも一家を支える柱を失ったことで、家の暮らし向きや空気は一変したはずです。そうした中で育った幼少期の体験は、後年、社会の矛盾に敏感に反応し、教育や家庭の在り方に強い関心を抱く素地を与えたと考えられます。時代の裂け目に生を受けた善治にとって、その記憶は未来への問題意識として育っていったのでしょう。
養子として歩み出す、新たな家族の中で
実父を失った後、善治は母の実家である巌本家に引き取られ、母方の叔父にあたる巌本篤三(文献によっては範治または琴城とも)を養父として新たな生活を始めました。篤三は儒学に精通し、学問と規律を重んじる人物で、家風も厳しく、教育に強い関心を持っていたと伝えられています。この家庭環境は、善治にとって単なる「再出発」ではなく、価値観や倫理観が大きく変容する契機となりました。
篤三の影響は、善治の人格形成にとどまらず、その後の教育思想にも色濃く反映されていきます。とりわけ「学問の尊重」と「道徳の実践」という二つの柱は、彼が後年にわたり繰り返し語ったテーマでもあります。血縁に基づく関係ではなく、知と信念に導かれて形成された家族関係は、善治にとって人と人の結びつきに新しい意味を与えるものとなったことでしょう。
養子縁組は形式的な制度にとどまらず、思想的・文化的継承の場でもありました。巌本家での生活は、善治にとって「知の継承」の始まりであり、家庭という小宇宙の中で大きな知的土台が築かれていったのです。
地方士族の子として刻まれた出発点
出石藩という地方小藩に属する士族の家に生まれた巌本善治は、明治維新という激変の時代に、武士という身分の終焉を幼いながらも目の当たりにしました。武士としての誇りと責任感は家の中に確かに息づいていましたが、それはすでに揺らぎつつある過去の遺産であり、新しい時代の波がその価値を飲み込もうとしていました。
地方士族に特有の閉鎖的な共同体意識や、人とのつながりを重んじる風土の中で、善治は「名に頼る」のではなく「実を成す」ことの重みを学んでいったと考えられます。たとえ名門の家に生まれても、それに安住することなく、自らの行動と知性で道を切り開かなければならない——そんな倫理観が、知らず知らずのうちに彼の中に育まれていったのでしょう。
また、このような地方社会での生活は、後年彼が唱える「家庭を社会の基礎とする教育観」にも通じます。家族や地域のつながりが個人の人格形成に深く影響するという信念は、こうした幼少期の経験から芽生えたものだったのかもしれません。巌本善治という人物の根っこには、地方士族という特殊な出自が、思想の水脈となって脈々と流れていたのです。
幼少期の巌本善治と思想の芽生え
儒教の教えと家庭で培われた倫理観
巌本善治の幼少期は、儒教を基盤とした教育の中で過ごされました。養父・巌本篤三(範治/琴城)は儒学者として知られ、家庭においても礼儀作法や孝、長幼の序といった倫理的規範を厳格に教えていました。善治は、幼くして『論語』や『孟子』といった漢籍に触れ、文字の読み書きを超えて「人としてどう生きるべきか」を学び始めます。これらの教えは単なる知識の習得ではなく、日常生活のあらゆる場面に反映される「実践としての学問」でした。
このような家庭方針は、当時の士族家庭に共通する教育観を背景に持ちつつも、篤三の人格と方針によってより厳格かつ知的な空気を伴っていたと考えられます。善治の内面には、こうした「徳を重んじる学び」の中で、自己を律し、他者と共に生きるための素地が自然と築かれていきました。その後の教育者としての姿勢にも、この初期の倫理観が色濃く反映されていきます。
養父の私塾で磨かれた思考と自律
巌本家では、篤三が主宰する私塾での学びが、善治の成長に決定的な役割を果たしました。ここでは早朝からの素読、漢文の暗唱、書道、算術などが日課とされ、日々の学びには精神的緊張感が漂っていました。善治は、篤三の目の届く場所で学問に励みながら、知識だけではなく態度や姿勢も養っていったのです。
この私塾教育は、善治にとって他者との競争の場であると同時に、自己を省みる内省の場でもありました。学ぶことは単なる受け身の行為ではなく、自ら思考し、理解し、体得するプロセスだと、幼くして知ることになります。家庭という限られた空間にありながら、彼の中では既に「教育とは人格を形づくる営みである」という確信が芽生えていたのかもしれません。
篤三の教育方針は、精神の独立と倫理的自律を軸とするものでした。善治がのちに語る「教育の本質は、徳を育て、個人の自立を支えることにある」という思想は、こうした幼少期の厳格な学びと深く結びついています。
神戸で広がる視野と異文化との出会い
巌本善治が神戸に出て学ぶようになったのは、10代前半の頃とされています。当時の神戸は開港後まもない国際都市として急成長を遂げており、外国人居留地には英語を話す人々が行き交い、西洋の建築や文化が日常にあふれていました。善治がここで初めて英語を学び、西洋の書物や教師に触れたことは、彼にとって未知の世界への扉が開かれる瞬間だったに違いありません。
英語教育を通じて彼が接したのは、言語の構造だけでなく、その背景にある個人主義や論理的思考、自由な精神です。儒教的な集団重視の倫理観とは異なるこれらの価値観は、幼いながらも彼の思考に鮮烈な印象を残しました。特に「言葉を通して世界と出会う」ことの意味を実感した経験は、後年の言論活動や教育実践において、極めて重要な原体験となったと考えられます。
神戸での生活は、善治にとって単なる語学学習の場ではなく、価値観の揺れ動く接点だったのです。家庭で培われた道徳と、都市で触れた多様性との間で、彼の思想の幅と深みは、着実に広がりはじめていました。
青年期の巌本善治と信仰・思想の形成
津田仙のもとで触れた知と農の融合
巌本善治が青年期に出会った人物の中でも、津田仙との接触は特筆すべき転機となりました。津田仙は、明治初期の農業改良運動の先駆者であり、西洋農学と教育の融合を試みた人物です。善治はこの津田のもとで、東京・麻布に設けられた学農社での活動に関与し、農作業と学問を両立させるという新しい教育のあり方に触れました。
学農社では、土に触れ、体を動かしながら知識を実践に結びつける教育が行われており、そこには従来の書斎中心の学びとは異なる、体験に根ざした思考の枠組みが存在していました。善治にとって、これは「知」と「労」が分かちがたく結びつく場であり、人間の全体を育てる教育という理念に出会う場でもありました。
また、津田仙はクリスチャンであり、教育の根底にキリスト教的博愛と奉仕の精神を据えていました。善治はこの姿勢に感銘を受け、教育とは単に知識を授けるのではなく、社会と他者のために生きる力を育てるものだという理解を深めていきます。この学びが、後の彼の教育実践や女性教育への情熱につながっていくのです。
キリスト教入信と自由民権運動の接点
巌本善治がキリスト教に入信したのは、津田仙の影響が強く作用した青年期でした。洗礼を受けたことで彼は、個人の内面と社会との関係を深く見つめる視座を手に入れます。キリスト教の中に見出したのは、貧者へのまなざし、弱者への共感、そして自我に対する倫理的責任でした。これは儒教で培った秩序と徳の感覚とは別種の、より普遍的な人間観といえます。
この時期、彼の関心は自由民権運動へも向かっていきます。制度や権威に頼らず、言論と教育によって社会を変革する思想に惹かれていったのです。キリスト教の精神と自由民権思想は、巌本にとって互いに矛盾せず、むしろ互いを補完し合うものでした。個人の内なる自由と、社会の外に向けた変革志向。この二つを持ち合わせた思想的骨格は、彼が後年に築く女性教育の土台を支えることになります。
自由民権の理念に共鳴しながらも、巌本は急進的な政治運動に加わることはありませんでした。その代わり、言論と教育を手段とする「穏健だが確信的な改革者」としての道を選びます。この姿勢は、彼の著作や実践活動の随所に見てとれるものです。
東京で築かれた志士たちとの知的交流
上京後の巌本善治は、教育者・言論人としての道を模索するなかで、多くの思想家たちと交わりを持つようになります。なかでも内村鑑三や田中正造といった人物たちとの出会いは、彼の視野を広げる重要な契機となりました。内村とはキリスト教を媒介とした精神的共鳴があり、田中とは社会正義と民衆のための政治という観点で、同時代を共有する価値観を持っていたとされています。
これらの人物との知的交流は、巌本に「思想は行動に結びついてこそ意味がある」という認識を与えます。東京という都市の中で交差する多様な知、信仰、政治思想——それらは彼にとって単なる刺激ではなく、自らの理念を磨くための鏡であり、試金石でした。
この時期の巌本は、教育・宗教・政治を区分せず、人間を育て、社会を変える力として三者を重ね合わせて考えていました。思索の深まりと人間関係の広がりが彼の内面に新たな層を加え、後の言論活動や教育理念の礎となっていったのです。青年期におけるこの知的冒険こそが、巌本善治という存在に深みを与えたのでした。
巌本善治が手がけた『女学雑誌』の舞台裏
女性教育誌の創刊と時代の要請
1885年7月20日、日本初の本格的女性教育誌『女学雑誌』が創刊されました。創刊当初の編集人は近藤賢三でしたが、翌1886年に近藤が急逝した後、巌本善治が編集人を引き継ぎ、以後長年にわたりその運営を主導しました。巌本は創刊時から深く関与しており、この雑誌を通じて女性の地位向上と知性啓発を目指す明確な理念を打ち出していきます。
当時の女性教育は「良妻賢母」の理想像に強く縛られており、知的自立や社会的役割について語る場はほとんど存在しませんでした。『女学雑誌』はその枠組みに対する異議申し立てとして登場し、女性に必要なのは従順さではなく、知識と判断力であるというメッセージを発信し続けました。創刊号からはっきりと「女性の幸福増進」「国民教育の一翼としての女子教育」などの理念が掲げられています。
創刊にあたっては、社会的抵抗や出版・流通面での困難も少なくありませんでした。特に、「女性が公に語る」こと自体に違和感を抱く空気が根強く、誌面内容にも慎重な配慮が求められたと言われています。それでも巌本は、女性の言葉が社会を変える可能性を信じ、あくまでも実直に編集を進めていきました。
「家庭の中の市民」という理念の提唱
『女学雑誌』が提示した最も革新的な思想のひとつが、「家庭の中の市民」という概念です。巌本善治は、女性が公的領域に出るか否かにかかわらず、家庭という場を通じて市民的責任を果たし得る存在であると位置づけました。つまり、母親や妻であることは、私的な役割にとどまらず、社会を支える知性と倫理を育てる行為だという視点です。
誌面では、女性の教養、家庭教育、生活倫理が繰り返し取り上げられ、「知性ある女性こそが、未来の社会の土台を築く」といった趣旨の記事が連載されました。この思想は、西洋の「ドメスティック・シティズンシップ」とも通じるものでありつつ、日本の社会構造と文化に即した独自の展開を見せました。
巌本にとって、家庭とは道徳的主体を形成する教育の原点であり、家庭に閉じこもる女性ではなく、家庭を起点にして世界と接続する女性こそが、近代市民社会に必要とされる存在だと考えられていたのです。
若松賤子との協働が生んだ誌面の多様性
『女学雑誌』の編集において、巌本善治の妻であり協働者でもあった若松賤子の役割は欠かせません。彼女は英語力と文学的素養を活かし、数多くの翻訳や評論、創作を手がけました。特に『小公子』の翻訳は当時の読者に強い感銘を与え、誌面に温かくも品格ある世界観をもたらしました。
巌本は、編集方針において女性たちの自発性を尊重する姿勢を貫いており、誌面には文学作品から社会批評、教育論、時には廃娼運動などの社会問題まで、幅広い主題が盛り込まれました。巌本がすべてを主導するのではなく、あえて舞台を整え、女性たちが自らの言葉で語る空間を築く——この編集姿勢が雑誌の精神を特徴づけています。
『女学雑誌』は、巌本善治個人の思想を反映する場であると同時に、女性たちが声を持ち、思索と表現の主体となることを促す「共鳴の場」でした。誌面の中で交わされる対話は、誌外の社会に向けた問いかけでもあり、巌本と賤子による言論空間の創出は、近代女性メディアの先駆的実践として、今もなお評価され続けています。
教育者・巌本善治の実践と改革
校長として導いた改革と理念の実現
巌本善治が明治女学校の校長に就任したのは、1892年(明治25年)のことでした。それ以前の1887年にはすでに教頭として学校運営に携わっており、その段階から教育理念の浸透に尽力していました。当時、女子教育の主流は「良妻賢母」を育成することにあり、家事や礼儀作法が中心の内容でした。そうした教育観に対して、巌本が打ち出したのは「人格の完成」をめざす包括的な教育です。
巌本は、女性もまた市民として社会に貢献しうる存在であるという前提のもと、知識だけでなく倫理観や社会的責任を育む教育を目指しました。特定の宗派に偏らない倫理教育を重視し、生徒の内面と精神の成長に重点を置いた点は、当時としては異例のことでした。
また、巌本は現場主義を貫き、校長室にこもるのではなく、生徒や教職員と日常的に言葉を交わしながら、理念の共有と教育実践の一体化を図っていきました。彼の教育観は単なる理論ではなく、現場で具体的に息づくものであり、教室でのやり取りや学校行事にもその姿勢が反映されていたのです。
西洋型カリキュラムがもたらした衝撃と変化
明治女学校のカリキュラムは、巌本善治の教育観のもとで大きな転換を遂げました。英語、倫理、理科、地理といった教科が重視され、文学や音楽、体操などの情操教育も積極的に取り入れられました。特に、自然科学や英語を女性に教えるという教育方針は、当時の一般的な高等女学校が裁縫や家政を重視していた状況から見れば、非常に先進的なものでした。
このカリキュラムの背景には、西洋教育思想の導入があります。巌本は「論理性」「個人の尊厳」「自律」といった概念を、単なる模倣ではなく日本社会に根差す形で翻案し、教育の中に溶け込ませていきました。生徒たちは知識を「与えられる」存在ではなく、自ら思考し、選択し、発信する主体として育てられたのです。
また、授業では議論や対話が奨励され、教師と生徒の関係も水平的で、自由な空気が流れていました。このような教育環境は、巌本の思想が現場に深く根づいていたことを示しており、彼の教育改革が単なる制度の整備ではなく、文化と精神の変革を伴っていたことを物語っています。
社会へ羽ばたいた卒業生たちと女性教師の誕生
巌本善治の教育が実を結んだ最大の証は、明治女学校から巣立っていった数多くの卒業生たちにあります。彼女たちは教職、文学、ジャーナリズム、翻訳、慈善活動など、さまざまな分野で活躍しました。たとえば、羽仁もと子は婦人之友社および自由学園の創設者として、日本の女子教育と家庭教育に大きな足跡を残しました。相馬黒光は実業家として女性の経済的自立の可能性を示し、野上弥生子は文学者として、女性の知性と感性を世に問い続けました。
これらの卒業生の多くは、自らも教育者として次世代を育てる立場に立ちました。女性教師として教壇に立つ彼女たちは、巌本が掲げた教育理念を継承し、より多くの女性たちに「学ぶことの意味」と「生きる力」を伝えていきます。教室から社会へ、理念は確かに広がっていったのです。
巌本の教育は、特定の理想像を押し付けるものではなく、女性一人ひとりが自らの能力と志を見出し、それを社会の中で実現していくための土台を築くことを目指していました。その精神は、明治女学校という小さな校舎から、やがて近代日本全体に広がる思想の潮流となっていったのです。
巌本善治が関わった思想界の議論と対立
森鴎外との翻訳文学論争に見る文学観の違い
明治30年代、巌本善治は文壇の重鎮・森鴎外と「翻訳文学」のあり方を巡って対立しました。この論争は単なる翻訳技法の違いにとどまらず、文学が社会に果たす役割をどう捉えるかという、根本的な思想の衝突でした。巌本は翻訳において、読者が内容を理解しやすくすることを第一とし、平易な表現や意訳を積極的に用いる立場をとっていました。彼にとって翻訳とは、知を社会に開く手段であり、文学を通じた啓蒙であったのです。
一方の森鴎外は、原文の芸術性や文体の忠実な再現にこだわり、翻訳を一種の文学創作として位置づけていました。この姿勢は、文学を高尚な美の領域として扱う立場に立脚しており、巌本の「啓蒙の道具」としての翻訳とは根本的に相容れないものでした。
この論争の背景には、明治という急速に近代化が進む時代における、「文学とは何か」「知識とは誰のためのものか」という問いが横たわっています。巌本は教育者・言論人としての立場から、言葉が届く相手を常に意識していました。対して鴎外は、文学の純粋性や形式美を擁護する立場を取ったのです。両者の論争は、文学の公共性と芸術性の緊張関係を示す、明治思想史の一断面でした。
北村透谷との恋愛観論争が社会に投げた問い
巌本善治がもう一人、激しい思想的対立を経験したのが、評論家・詩人の北村透谷です。論点となったのは「恋愛観」でした。巌本は『女学雑誌』を通じて、「家庭における倫理的結合としての恋愛」を重視し、恋愛が秩序と責任を伴うべき社会的制度であると考えていました。これに対し、北村透谷は「内面的自由としての恋愛」を主張し、個人の感情の純粋な表現としての恋愛を擁護しました。
両者の違いは、恋愛を社会制度に組み込むか、個人の内面の問題として尊重するか、という根源的な思想差にあります。巌本は女性教育の文脈において、安易な恋愛観が若者を混乱させるとして、倫理と理性によって感情を制御するべきだと論じました。一方、透谷は近代的自我の確立には感情の自由が不可欠だとし、巌本の見解を「制度に魂を売る発想」として批判しました。
この論争は単なる個人間の意見対立を超え、恋愛というテーマを通じて、近代日本における個人と社会の関係、感情と制度の葛藤という問題を浮かび上がらせました。思想とは、時に生活そのものの形を問うものでもある。巌本と透谷の議論は、まさにそのことを明治社会に投げかけたのです。
論争の余波と思想界に刻んだ存在感
森鴎外、北村透谷との論争を通じて、巌本善治は単なる教育者や編集者ではなく、一人の思想家としての存在感を明確に示しました。彼が一貫して重視していたのは、「思想は伝わってこそ意味がある」という姿勢でした。そのために平易さを選び、社会性に配慮し、読者に語りかける言葉を選び抜いたのです。
このような姿勢は、必ずしも同時代の知識人すべてから評価されたわけではありません。むしろ、理念のために妥協する姿勢と見なされ、批判を受けることも少なくありませんでした。しかし、それでも巌本が守り抜いたのは、「言葉は道具であると同時に人を育てる環境である」という信念でした。
明治という転換期にあって、巌本善治は思想界の主流から外れることなく、かといって迎合することもなく、つねに社会と教育の接点で言葉を研ぎ澄ませてきました。論争はその副産物であり、彼の思想の輪郭を浮き彫りにする場でもありました。思想がぶつかり合うことで初めて見えるものがある――巌本はそれを信じ、語ることを恐れなかったのです。
教育界を離れた巌本善治の晩年
移民政策や通信事業に込めた新たな挑戦
巌本善治が教育界を離れてから取り組んだのは、意外にも実務的な分野での活動でした。明治末から大正期にかけて、日本国内の社会構造は大きく変動しており、巌本はその変化の中で、移民政策や通信事業といった分野に関心を向けていきます。特に注目すべきは、アメリカなどへの日本人移民問題に関する活動です。教育者として「人を育てること」に注力してきた彼が、今度は「育った人が生きる場」としての社会のあり方に着目したといえるでしょう。
彼は、移民が単なる労働力として扱われるのではなく、人格と文化を持った市民として受け入れられるべきだという信念のもとで、移民政策の改善を訴えました。この姿勢には、彼の教育観と共通する「人間尊重」の思想が貫かれており、海外に渡る日本人へのまなざしにも、深い教育的関心がにじんでいます。
また、巌本は民間通信事業にも関与し、知識や情報の伝達が社会を動かすことを強く意識していました。教育を通じて個を育てることと、情報を通じて社会を耕すこと——この二つの営みを彼は連続したものと捉えていたのかもしれません。
東京廃娼会など社会改革運動への深い関与
晩年の巌本善治は、東京廃娼会をはじめとする社会改革運動にも積極的に関わっています。廃娼運動とは、国家制度としての公娼制に反対し、女性の尊厳と自由を求める運動であり、女性たちの人権回復を目指す草の根的な活動でもありました。巌本は、この運動に教育者としてではなく、一市民として参加し、言論による支援と組織活動への協力を惜しみませんでした。
巌本が重視したのは、制度を変えることだけでなく、制度の背後にある社会意識を変えることでした。彼は、売買春という現象の根底には、教育の欠如と経済的不均衡があると見抜き、これらを根本から問い直すことが不可欠だと訴えます。この視点は、かつて『女学雑誌』で論じた「女性の市民性」への問題意識とも通じており、彼の活動が一貫して「人が社会の中でどう生きるか」を問うものであったことを示しています。
また、この運動の中で巌本は、教育や出版では届かなかった層への働きかけを意識していたとも考えられます。声を持たない人々の代弁者として、あるいは自立の支援者として、彼は行動の場を広げていったのです。
戦時下での思想的沈黙に秘められた葛藤
1930年代から40年代にかけて、日本社会は急速に戦時体制へと移行し、個人の思想や言論が厳しく制限される時代を迎えます。かつて活発な言論活動と社会改革に取り組んできた巌本善治も、この時期には公的な発言をほとんど行わず、事実上の沈黙を保ちました。彼がなぜこのような沈黙を選んだのか、明確な証言は残されていませんが、そこには深い葛藤があったと推察されます。
一つには、教育と言論による社会改革が通じない空気の中で、理念を語ることの無力さを痛感していたのかもしれません。また、国家体制への抵抗が厳罰を伴う時代に、理念を守りながらも、むやみに反抗せず「沈黙することで何を守れるか」を模索していた可能性もあります。
巌本の沈黙は、単なる消極ではなく、「語らないことで残す」という選択だったのかもしれません。明治という言葉の力が社会を動かした時代に生きた彼が、最後に選んだのは、語るべき言葉を慎重に封じるという、ある種の知的抵抗だったのではないでしょうか。彼の晩年には、時代に抗う静かな意志が、確かに宿っていたのです。
巌本善治の死とその後の評価
死後の評価と再評価をめぐる時代の変遷
1942年(昭和17年)10月6日、巌本善治は静かにこの世を去りました。すでに教育界・言論界の第一線からは退き、戦時体制下で言論活動の自由も大きく制限されていたこの時期、彼の死は社会的な大きな注目を集めることはありませんでした。新聞等での報道も限られ、戦時下の動乱に彼の名はかき消されていったかのようでした。
しかし、戦後の日本が家制度や戦時イデオロギーからの転換を模索する中で、巌本の思想は再び評価の対象となっていきます。特に1970年代以降、女性史や教育史の研究が進むと、『女学雑誌』に見られる女性の自立性・社会性の主張や、「家庭の中の市民」という教育理念が、近代における女性の言論空間形成の先駆的事例として再発見されました。
この再評価は、彼の思想や実践が一過性の改革にとどまらず、制度と市民社会の接点を常に見つめ続けた長期的な構想に基づいていたことを示しています。巌本の死は、時代の終わりではなく、思想の問い直しを促す出発点として記憶されていくのです。
津田梅子や羽仁もと子への思想的影響
巌本善治の教育思想は、同時代および次世代の女性教育者にも少なからぬ影響を与えました。津田梅子とは、彼女が創設した女子英学塾(現・津田塾大学)での課外講義を通じて接点があり、両者の教育理念には「知と徳の両立」や「女性の市民性」といった共通点が見出されます。直接的な師弟関係ではありませんが、教育思想における影響関係は研究により指摘されています。
一方、羽仁もと子との関係はより明確です。彼女は明治女学校の卒業生であり、巌本のもとで直接教育を受けた経験があります。その後、羽仁は『婦人之友』を創刊し、自由学園を設立しましたが、「生活即教育」「家庭即社会」といった理念は、巌本が説いた「家庭の中の市民」論と深く響き合うものです。羽仁自身も巌本からの影響を認めており、教育論・女性論の連続性が見て取れます。
巌本の思想は、このようにして次世代の教育実践者たちの中で再構成され、それぞれの時代に応じて新たな形で展開されていきました。
戦後女子教育へと受け継がれた理念の灯
戦後、日本の女子教育は家制度的な制約から脱し、民主主義的な教育理念のもとで大きく変革を遂げました。その中で、巌本善治が唱えていた「女性も社会的責任を担う主体であるべきだ」という理念は、新しい教育政策や社会運動の中で改めて注目されるようになります。
特に1970年代以降のフェミニズム運動や女性学の研究において、『女学雑誌』は「女性の言論空間の源流」として位置づけられ、巌本自身もその先駆者の一人として認識されていきました。彼が誌面で描いた「語る女性」「思考する市民」としての女性像は、戦後の女性たちが自らの声を社会に届けるための理論的な出発点ともなりました。
巌本の教育理念は、単なる制度改革ではなく、個人の生き方そのものにかかわる根源的な問いを含んでいます。だからこそ、彼の思想は時代を超えて再読され続け、今日でも教育や言論に携わる人々にとっての思索の手がかりとなっているのです。黙して語らずとも、巌本善治の思想は、静かに、しかし確実に受け継がれています。
現代から読み解く巌本善治の意義
『明治女学校の研究』に映る教育思想の再発見
21世紀に入り、巌本善治の活動は再び学術的関心の的となっています。なかでも注目すべきは、近年の女性教育史・思想史の領域で進展している『明治女学校の研究』における再検証です。これらの研究は、従来の巌本理解を、教育実践者や編集者という枠にとどめず、社会思想家としての側面にまで広げようとする試みであり、明治期における知の公共性や、ジェンダー秩序の変動に対する応答として彼の実践を読み直しています。
とくに「家庭の中の市民」論に見られる家庭空間の再定義は、現代の教育思想研究においても再評価されています。それは、家族という私的領域を「教育の現場」「政治的形成の場」として位置づけるものであり、家庭を社会的機能の一部として捉える視点の先駆であったと考えられます。近年の研究者たちは、明治女学校を単なる女子学校ではなく、教育と社会改革の交差点として捉え、巌本の思想がいかに制度と理念の間をつないでいたかを明らかにしています。
このような再発見は、彼の理念が時代の表層に埋もれていたのではなく、むしろ現代の課題を照らし出す視座を内包していたことを示しています。教育はどこで行われ、誰が担うべきなのか――巌本の問いかけは、今なお色褪せることがありません。
作田啓一が語る近代思想史における位置づけ
社会学者・作田啓一は、日本近代の思想地図を描き出す際に、巌本善治の存在に着目しました。作田の論考によれば、巌本は「近代的自我の成立と、それを支える社会制度の構想を両立させようとした希有な思想家」として位置づけられています。つまり、個人の自立と社会的連帯を同時に成立させようとする巌本の立場は、自由民権運動や宗教的啓蒙の単独的思想とは異なる、複合的な理念であったとされています。
作田はまた、巌本の思想が「言葉の公共性」に根ざしていた点にも注目しています。彼にとって教育や雑誌編集とは、個の感性を育てる営みであると同時に、社会全体の感受性を刷新する行為でもあったのです。この見立ては、巌本を単なる教育者としてではなく、「思想の編成者」「感性の構築者」として捉える可能性を開きました。
今日、作田の視点は、巌本研究において重要な枠組みの一つとなっており、近代日本の思想史における位置づけを再検討する文脈で、巌本の存在が再び語られ始めています。
『小公子』翻訳に宿る啓蒙思想と家庭像
巌本善治と若松賤子夫妻の思想的連関は、単に家庭内の協力にとどまらず、言論と教育を通じた共同の理念表現でもありました。その象徴的な成果が、若松賤子による『小公子』の翻訳です。この作品は、単なる児童文学の紹介ではなく、巌本夫妻が理想とする「家庭」「教育」「倫理」が凝縮された実践的テキストとして今日再評価されています。
『小公子』に描かれる主人公は、教養と誠実さを備えた家庭に育てられ、やがて社会的責任を担う人物へと成長していきます。この物語構造は、「家庭の中で市民を育てる」という巌本の教育理念と重なり、明治期の啓蒙文学が果たした思想的機能を改めて浮き彫りにします。また、賤子の翻訳は、原作の表現を生かしつつも、日本の家庭環境に合うように細部が調整されており、その背景には巌本との共同的な思想構築があったと見られています。
現代の研究では、この翻訳作品が、文学という手法を通じて家庭倫理を広めた試みであった点が特に注目されています。巌本と賤子の協働は、家庭を中心とした文化創造の実践であり、それは今なお「言葉で世界を変える」ことの可能性を示しています。
巌本善治の軌跡が語るもの
巌本善治の人生は、幕末の士族家庭に生まれた一人の少年が、近代日本の教育と思想の形成に深く関与するまでの軌跡をたどるものです。家庭という原点から出発し、神戸での異文化体験や青年期の知識人との出会いを経て、彼は言論と教育を通じた社会改革を目指しました。『女学雑誌』や明治女学校を通じて女性の知性と自立を促し、同時代の思想家たちとの対話や対立を通じて、その理念を洗練させていきました。晩年の沈黙の中にあっても、その思想は静かに次世代へと受け継がれ、戦後の教育や女性運動の中で再び姿を現します。いま、巌本の思想を現代から見直すことで、私たちは「教育とは何か」「言葉はどこまで社会を変えうるか」という問いに新たな視点を得ることができるのです。
コメント