こんにちは!今回は、沖縄出身の民俗学者・言語学者、伊波普猷(いはふゆう)についてです。
「沖縄学の父」と呼ばれた彼は、誰も見向きもしなかった沖縄の古謡や歴史、民俗文化に光を当て、沖縄の誇りを学問として打ち立てたパイオニアでした。
「浦添が首里よりも先に都だった!」「琉球ことばはただの方言ではない!」といった当時の常識を覆す研究を連発し、沖縄差別や琉球処分に抗しながら、知の力で郷土を守ろうとした生涯は、まさに知識による革命。
今回は、伊波普猷の激動の人生と、その後の沖縄文化・学問に与えた計り知れない影響をたどっていきます。
沖縄士族の家に生まれた伊波普猷、激動の時代を生きる
那覇西村に生まれた周縁士族の誇り
1876年、伊波普猷は那覇西村(現在の那覇市西町付近)で生まれました。彼の家系は那覇士族であり、王府中枢を担った首里士族とは異なりやや周縁的な立場ではありましたが、地域社会における知識階級としての誇りと教養を確かに備えていました。西村は那覇の中でも士族町のひとつとして位置づけられ、琉球王国時代の文化や制度が根強く残る土地であったと考えられます。伊波家では、日常的に漢籍を読むことが奨励され、琉球語での会話が普通に交わされていたとされます。普猷は、こうした環境の中で文字や言葉に親しみ、家族や地域の記憶としての「琉球」を肌で感じながら育ちました。幼少期のこの体験が、彼の言語感覚や歴史への関心に結びついていったことは想像に難くありません。
教育熱心な家庭と琉球処分が残した爪痕
伊波家は教育に対する強い志を持ち、父母は子どもたちに書物や詩文を通じて知性と品格を培うことを望んでいました。普猷が育った家庭には、漢詩文や儒教的価値観が日常的に息づいており、知識を重んじる気風が自然と醸成されていました。その一方で、彼が3歳のときに起きた「琉球処分」は、家族と地域社会に深い爪痕を残します。1879年、明治政府は琉球王国を廃し、沖縄県を新設します。これにより、かつて王府に仕えた士族階級は、禄を失い急速に社会的・経済的地位を失っていきました。士族の特権はもはや過去のものとなり、伊波家もその激変の波に巻き込まれたと推察されます。家庭内で伝統を守ろうとする一方、学校や官の世界では日本化が急速に進み、「近代化」という名のもとに価値観の刷新が迫られる。こうした二重構造の中で、普猷は早くもその矛盾と向き合うことを余儀なくされました。
揺れる価値観と「沖縄人」としての自覚
1880年代から1890年代にかけて、沖縄の学校教育は急速に本土化され、「日本人」としての自覚と行動が強く求められるようになっていきました。言語面でも、標準語の使用が奨励され、琉球語は「方言」とされて教育の場から排除されていきます。明治末期、1900年代初頭には、標準語励行の一環として「方言札」が導入される学校も現れ始め、児童の言語生活にも大きな影響を与えるようになります。こうした教育方針と、家庭で継承されていた琉球的価値観との乖離は、普猷の心に深い疑問と葛藤を生じさせました。彼は、周囲の多くが日本的価値観に同調していくなかで、あえてその流れに呑まれず、沖縄人としての自分自身を問い続けました。この「何者であるか」を問う意識は、やがて彼の研究へと繋がり、沖縄文化の再解釈という知的営為へと結実していきます。普猷の歩みは、沖縄という周縁から生まれた問いを、普遍的な思想へと昇華しようとした格闘の連続だったのです。
差別と葛藤の中で育つ伊波普猷、退学事件が残したもの
沖縄県立中学校での優等生時代
那覇尋常小学校を卒業した伊波普猷は、県内最高の教育機関である沖縄県立中学校(現・首里高等学校)へ進学しました。彼の学力は群を抜いており、入学直後から優等生として知られる存在になります。とくに国語や漢文の分野における表現力や解釈力は傑出しており、教師たちの間でも高い期待を集めていました。読書好きで、文章に鋭い感受性を示した普猷は、早くもその才覚を周囲に印象づけていたのです。しかし、表面的な成績とは裏腹に、当時の学校教育の内部には、本土出身の教員による沖縄人への差別的態度や制度的不平等が根を張っていました。本土から押し寄せる価値観と、沖縄固有の文化とのあいだで、生徒たちは日々目に見えない緊張に晒されていました。普猷もまた、こうした歪んだ環境の中で、静かに疑問を抱き始めていたのです。
ストライキ運動と退学処分の衝撃
1895年、普猷が19歳のとき、沖縄県立中学校では異例の事態が起こります。校長の差別的発言や不透明な教員人事に抗議して、伊波を含む多数の生徒が主導するかたちで、全校規模のストライキが決行されました。この行動は、ただの生徒の不満を超えたものであり、教育機関における差別構造への明確な抗議であったといえます。学校側はこの騒動を重く受け止め、伊波普猷を含む数名の生徒に退学処分を下しました。名目上は「寄宿舎の規律違反」とされましたが、実際にはストライキの首謀者としての処分であったことは、多くの記録から明らかです。この出来事は、将来を嘱望されていた若者に対する過酷な断絶であり、沖縄社会全体にも波紋を広げました。普猷自身にとっても、制度の不条理に対する実体験は決定的な意味を持ちます。「自分たちはなぜ対等に扱われないのか」という問いは、彼の精神に深く刻み込まれ、この後の思想形成の土台となっていきました。
田島利三郎との出会いと再会
普猷の精神的成長において、国語教師・田島利三郎との出会いは重要な転機でした。田島は新潟出身で、沖縄県尋常中学校に赴任していた際、知的好奇心にあふれる普猷の才能を見抜き、丁寧に指導しました。表面的な学力よりも、思考力と批判精神を重んじる田島の教育は、当時の画一的な教育方針とは一線を画しており、普猷に深い影響を与えました。田島は1894年に沖縄を離れましたが、退学後に普猷が上京した際、ふたりは東京で再会を果たします。その後の普猷は、田島の助言を受けながら学問的指針を明確にしていき、やがて「沖縄人とは何か」を問う思想へと向かいます。田島の国語教育法や精神の自由を尊重する態度は、伊波ののちの言語学的アプローチや『おもろさうし』研究にも深く反映されることとなります。形式的な進学ルートを逸脱してもなお、学問への道をあきらめずに前へ進んだ普猷にとって、この出会いは単なる師弟関係を超えた思想的覚醒の契機となったのです。
伊波普猷、本土での挑戦と東京帝大での飛翔
憧れと覚悟を胸に上京する
沖縄県立中学校での退学事件の後、伊波普猷は地元にとどまりながら学びを続けていました。しかし、その内には、沖縄の枠にとどまらず日本全体の中で沖縄を見つめ直す必要があるという意識が芽生えていました。1900年ごろ、彼は神戸・京都を経て上京を果たします。本土に渡った普猷が最初に感じたのは、急速に近代化が進む都市の喧騒と、沖縄との文化的な断絶でした。習慣、言葉、態度のひとつひとつに現れる「本土的価値観」は、沖縄で育った普猷にとって異質であると同時に、強烈な知的刺激となりました。上京後には、恩師・田島利三郎と再会し、精神的・実際的な支援を受けながら、自身の学問の方向性を固めていきます。本土の知に触れるなかで、彼のなかに眠っていた沖縄的感性と、日本的知識体系との緊張関係が意識されるようになり、それが彼の探究心をさらに深めていきました。
東京帝国大学での学問探求と自立
1903年、伊波普猷は東京帝国大学文科大学に入学し、言語学(当時は国語学)を専攻します。ここで彼は、日本語の文法や音韻の体系を基礎から学ぶとともに、自らの出自である琉球語との比較に関心を深めていきました。音韻論・文法論といった当時の最先端の言語理論を吸収しながら、普猷は琉球語を単なる方言としてではなく、独立した言語体系として捉える視座を持ち始めます。この学問的立場は、後年の『おもろさうし』研究や比較言語学的アプローチに直結するものです。また、大学での授業にとどまらず、膨大な読書と独自の思索を重ねることで、普猷は自分自身の研究軸を徐々に確立していきました。表層的な知識の模倣ではなく、沖縄の文化と言語を深く掘り下げる内在的な視点が、帝大時代に芽吹いていたのです。
柳田国男や河上肇らとの思想的接点
東京帝大での在学中、普猷が柳田国男や河上肇と直接的に深く交流していた記録はありませんが、彼らの著作や思想から受けた影響は大きなものでした。柳田国男は、のちに「もうひとつの日本」として沖縄文化を評価する視点を提唱する民俗学者として知られますが、その先駆的なまなざしは、普猷にとって共鳴すべき思想的刺激となっていました。一方、河上肇は社会思想家・経済学者として、社会構造の不平等に鋭敏な批評精神をもって活動しており、1911年の沖縄訪問時には伊波と親交を深めています。在学中においても、こうした本土知識人の言論や活動は、普猷の内面に強いインパクトを与え、「沖縄人として学問するとはどういうことか」という問いを深化させる契機となったのです。本格的な交流は卒業後に本格化しますが、この時期に受けた思想的刺激は、彼の学問形成期を支える重要な要素でした。
伊波普猷、「浦添考」に込めた沖縄史への問い
研究者としての第一歩「浦添考」
1905年、東京帝国大学在学中の伊波普猷は、最初の本格的な歴史論考『浦添考』を発表します。この研究は、首里以前の琉球王国の都が浦添に存在していたという仮説を、地理・言語・伝承・文献を横断する形で論証したものであり、当時としては画期的な視点を提示するものでした。特に、「浦添」という地名を「うらおそい(浦々を支配する地)」と解釈した語源論や、舜天王統の拠点としての浦添の歴史的意義の再評価は、従来の王朝中心史観とは異なる自律的な沖縄史の構築を目指すものでした。これにより、沖縄人が自らの手で歴史を問い直すという姿勢が、学問の実践として明確に示されました。『浦添考』は、伊波の学問的出発点であると同時に、後の「沖縄学」の原点とも言える位置を占めています。
那覇・浦添・首里から見る歴史の奥行き
『浦添考』の中で伊波は、那覇・浦添・首里という沖縄本島南部の地理的連関に注目し、それぞれの地域が果たしてきた歴史的役割の変遷を精緻に読み解いています。とくに浦添については、舜天から英祖王統の時代まで王都としての機能を担い、その後、察度王統の出現とともに政治の中心が首里に移るという動態を、文献資料と伝承に基づいて論証しています。さらに、那覇の港湾都市としての発展も含め、地政学的な観点を導入した視点は、当時の沖縄歴史研究において極めて革新的でした。彼は『おもろさうし』や『遺老説伝』などの古文書を文献批判の手法で分析しつつ、口承伝承の声にも耳を傾け、複数の時間層をもつ歴史像を描き出しました。その方法論は、近代歴史学の枠組みと、民族的直感とを融合させたものであり、のちの浦添グスクの発掘調査(1982年開始)において、伊波の見解が考古学的に裏付けられることになります。
沖縄人としての誇りと学問の使命
『浦添考』は、伊波普猷が「沖縄人自身が沖縄の歴史を語る」という学問的姿勢を明確に打ち出した最初の成果でした。従来、沖縄の歴史は外部のまなざし、あるいは王朝の正統性を中心に語られてきましたが、伊波はそれを相対化し、地名、地理、民俗といった複数の視点から沖縄史を再構築しようとしました。この姿勢は、琉球処分後に揺らぐ沖縄人の自尊心を支える知的基盤となり、のちの図書館活動や啓蒙運動にもつながっていきます。『浦添考』が果たした意義は、単なる学術的貢献にとどまらず、沖縄に生きる人々の精神に「過去を自らのものとして引き受ける」ための武器を与えたという点にあります。それはまさに、学問を通じて誇りを再構築するという、伊波の思想の出発点でもあったのです。
図書館長・伊波普猷が描いた沖縄の知の未来
沖縄県立図書館設立への奔走
1910年8月1日、沖縄県立沖縄図書館が開館し、伊波普猷はその初代館長に就任しました。この就任に先立ち、伊波は奈良県立図書館をはじめとする関西の先進的な図書館を視察し、特に京都図書館長・湯浅半月から助言を得ながら、沖縄の実情に即した図書館の設計構想を練り上げていきました。当時の沖縄社会は、琉球処分後の同化政策により文化的アイデンティティの喪失が進み、知識へのアクセスや教育機会にも大きな格差が存在していました。そうした中で、伊波は図書館を「沖縄人が自らの文化と歴史を再発見する場」と位置づけ、単なる蔵書施設にとどまらない「文化の中枢」として設立に臨みました。この公共施設を拠点に、彼は沖縄における知の再構築を試みたのです。
住民への教育・啓発を広げる仕組み
館長としての伊波普猷は、図書館を住民一人ひとりに開かれた場所とすることを目指しました。特に力を入れたのが子どもたちへの読書普及活動で、自らの自宅を開放して「子ども会」を主催し、読み聞かせやストーリーテリングを行うなど、草の根レベルでの啓蒙活動に心血を注ぎました。さらに、『琉球新報』や機関誌『沖縄図書館報』を通じて、専門的な知識をわかりやすい言葉で発信し、学問を一般市民のものとして還元する努力を続けました。伊波は「学ぶとは自らを知ること」であると考え、教育の本質を制度の外にまで拡張しようとしました。講義や執筆だけでなく、日々の活動を通じて知識の垣根を取り払おうとしたその姿勢には、形式よりも精神を重んじる彼らしい一貫性が表れていました。
文化の砦としての図書館づくり
伊波普猷が構想した図書館は、書物を保管する倉庫ではなく、沖縄の文化的記憶を守り、未来へと伝えるための「文化の砦」でした。蔵書の収集方針にも彼の哲学が息づいており、日本本土の文献に偏ることなく、『おもろさうし』や『喜安日記』、三線音楽の譜本『屋嘉比工工四』といった琉球王国時代の貴重な資料を積極的に収集しました。これらは現在、「伊波普猷文庫」として琉球大学図書館に所蔵され、沖縄研究の基礎資源として高く評価されています。彼はかつて「図書館は沖縄の心である。図書館は全てに開かれている」と語っており、その言葉は今なお、沖縄県の図書館政策に引用され続けています。伊波にとって図書館とは、記録を通じて人々の誇りと知恵を繋ぎ直す場であり、それを支える精神の構造そのものでした。
『おもろさうし』に挑んだ伊波普猷の深層
琉球の精神を刻む『おもろさうし』とは
伊波普猷が生涯をかけて取り組んだ代表的研究のひとつに、『おもろさうし』の解読と研究があります。『おもろさうし』は16〜17世紀の琉球王国において編纂された歌謡集で、王国儀礼の場や祭祀、政治儀式の中で詠われた「おもろ(オモロ)」と呼ばれる叙唱詩が、全22巻にわたり記録されています。この古文献は、言語的にも意味的にも極めて難解で、単なる歌謡を超えた琉球の精神世界や信仰、社会秩序を内包しているとされます。伊波は、この文献の特異性に早くから着目し、「おもろ」の中に、沖縄人の無意識的な歴史記憶や集団的感性が息づいていると考えました。単なる懐古ではなく、『おもろさうし』を通して、文字以前の世界から続く「沖縄的思考」の核心に迫ろうとするその姿勢は、明らかに時代を先駆けるものでした。
言語学・民俗学を横断する研究視点
『おもろさうし』の研究にあたって、伊波普猷は従来の文献読解にとどまらず、言語学と民俗学の手法を組み合わせるという革新的なアプローチを取りました。彼は、琉球語の音韻構造や語彙変遷を詳細に分析することで、「おもろ」が詠まれた当時の音や語感を可能な限り再現しようと試みます。同時に、そこに含まれる地名・植物・神名・方位などの語句を民間信仰や儀礼の文脈に引き寄せながら、詩の背後にある生活感覚や自然観を浮かび上がらせました。こうした横断的視点は、後年の日本民俗学や文化人類学とも通じる先駆的なものであり、伊波の方法論は柳田国男や折口信夫の研究にも通じる影響を与えることになります。文字と生活、言語と信仰が溶け合う地点にこそ、彼は沖縄文化の核心があると確信していたのです。
「おもろ」の中に見た沖縄の魂
伊波普猷にとって『おもろさうし』とは、単に古文献の一つではなく、沖縄という共同体の精神的源泉を探る鍵でした。そこに詠われる語りは、歴史の勝者ではなく、土地に生きる人々の記憶や願いを響かせるものであり、彼はそれを「沖縄人の魂の声」として受け止めていました。たとえば、自然を神と等価に捉えるような記述、土地の霊性を宿すような表現は、近代合理主義とはまったく異なる思考回路を示しています。伊波はそうした表現の中に、近代によって見過ごされがちな価値の体系を見出し、それを学問によって再解釈することで、「忘れられた時間」を再び現在に呼び戻そうとしたのです。その営みは、単なる研究の域を超え、「沖縄であることとは何か」を問う哲学的探求でもありました。伊波の筆は、詩を解読する手段であると同時に、文化の深層を掘り起こす鏡でもあったのです。
東京で研究を続けた伊波普猷、柳田国男らとの共鳴
故郷を離れても沖縄を思う日々
図書館長としての任期を終えた伊波普猷は、1920年代に再び東京を拠点に移し、以後の人生を学問研究に専念することになります。彼の生活は、東京の下町にある質素な住宅を拠点に、大学や図書館に通いながら書物と向き合う日々でした。沖縄からは遠く離れた場所に身を置きながらも、普猷の思考の中心には常に「沖縄」があり続けました。那覇や首里の地名が記された古文書、琉球語で書かれた詩、記録されることのなかった庶民の生活——そうしたものへの関心は衰えることなく、彼の研究ノートには琉球語の語彙や民俗に関する膨大なメモが綴られていきました。物理的には本土にありながら、精神の深部では沖縄という場と絶えず対話を続けていたのです。この時期、彼の研究はより抽象度を高めながらも、根底には変わらぬ原風景が息づいていました。
柳田国男・折口信夫との交流と理論の深化
東京での研究生活の中で、伊波普猷は柳田国男や折口信夫といった当時の民俗学・国文学の先駆者たちと学問的な交流を深めていきました。柳田とは1921年の沖縄訪問をきっかけに本格的な親交が始まり、以後、沖縄文化をめぐる議論や文献の紹介など、知的なやり取りが継続されました。柳田は、伊波の視点に「もうひとつの日本」という民俗学的まなざしを重ね合わせ、そこに本土の周縁文化を再発見する可能性を見出していました。一方、折口信夫とは、『おもろさうし』や琉歌をめぐる議論を通じて、詩的言語の起源や民俗の象徴性に関する共通の問題意識を持ちました。折口が「まれびと」や「霊的時間」に注目したように、伊波もまた、沖縄の詩歌に流れる時間感覚や信仰構造に鋭く反応していました。こうした学問的対話は、伊波にとって知識の交換以上に、沖縄という固有の文化的基盤を他者の理論を通じて照射し直す契機となっていたのです。
「日琉同祖論」の探究と思想的葛藤
晩年の伊波普猷が深く取り組んだテーマの一つに、「日琉同祖論」があります。これは日本人と琉球人が共通の祖先を持つという仮説であり、言語・神話・風習の比較を通じてその根拠を探るものです。伊波は、琉球語の語彙体系や発音構造、日本神話とのモチーフの共通性に注目し、両者の深い文化的接続を論じました。ただし、彼のこの主張は、単なる文化融合論ではなく、「同化」や「従属」を正当化するものでもありませんでした。むしろ、同根であるがゆえに琉球文化は独自の発展を遂げたという視点が重視されていました。伊波にとって「日琉同祖論」は、民族的優劣を語るのではなく、共通の起源を通じて異なる現在を尊重するための思想的枠組みだったのです。しかし、この立場は本土の知識人や政策当局との間に時に緊張を生み、普猷自身も理論と現実のあいだで揺れ動くことがありました。学問を通して沖縄の尊厳を証明しようとする彼の姿勢は、時代の波の中で孤立することもあったのです。
最晩年の伊波普猷、沖縄を想いながら逝く
戦中の沖縄に寄せる危機意識
戦争の影が沖縄にも迫るなか、伊波普猷の関心はますます故郷へと向けられていきました。1945年4月、彼は『東京新聞』に「決戦場・沖縄本島」と題した文章を寄せ、「墳墓の地に勇戦する琉球人に対し、私は大きな期待を抱く」と記しました。この表現は、当時の本土向け報道における戦意高揚の一環として解釈されることもありますが、一方でその裏には、沖縄という文化共同体の消滅に対する深い危機感が秘められていたと考えられます。普猷は、表舞台では国家的要請に応じながらも、私的な研究やノートにおいては、沖縄の記憶をなんとか「書きとどめる」ことに心血を注いでいました。『おもろさうし』や『沖縄歴史物語』の執筆を続けながら、彼は沖縄が文字通り「消える」ことを恐れていたのです。記録することは、最前線から遠く離れた東京の静かな闘いでもありました。
東京での孤独と学問への執念
戦火のただなかにあった東京で、伊波普猷の暮らしは困窮を極めました。空襲に怯え、食料や生活物資もままならないなか、それでも彼は筆を置くことはありませんでした。妻・冬子の支えを受けながら、彼は『沖縄歴史物語』を完成させ、琉球語の語彙整理や民俗研究にも取り組み続けます。その根底には、「今書いておかねば沖縄が消えてしまう」という切実な思いがありました。彼の思索は、もはや学問の枠を超え、「忘れられること」そのものとの闘いに変わっていたのです。資料の収集と整理、未発表原稿の校正、そして語りの中に埋もれた沖縄の精神を掘り起こす作業は、老いの進行と反比例するかのように執念を増していきました。孤独と焦燥のなか、それでも普猷は静かに、しかし確かに言葉を刻み続けていたのです。
魂はなお沖縄に——その最期と遺志
1947年8月13日、伊波普猷は東京・杉並にある比嘉春潮宅にて、静かに息を引き取りました。享年71。戦後の混乱のさなか、故郷に帰ることは叶わず、遺骨は一時的に東京に留め置かれることになります。しかし、彼の遺志とその学問的功績は沖縄の人々の記憶に深く刻まれていました。1959年、遺骨は浦添城跡に移され、1961年には顕彰碑が建立されます。さらに、彼の膨大な原稿や蔵書は「伊波普猷文庫」として琉球大学に受け継がれ、のちに『伊波普猷全集』(平凡社)として刊行されることになります。伊波の死は、ひとつの時代の終焉であると同時に、沖縄学という新たな地平の幕開けでもありました。彼が生涯問い続けた「沖縄とは何か」という声は、いまもなお、読み手に問いかけ続けています。肉体は東京に没しても、その魂は確かに、沖縄という記憶の大地に留まり続けているのです。
書物から読み解く伊波普猷、その人物と思想
入門書から知る「沖縄学の父」の全体像
伊波普猷という人物に初めて触れる読者にとって、もっとも親しみやすいのが『新訂版「沖縄学」の父・伊波普猷』(清水書院)です。この一冊は、彼の生涯を平易な文体でたどりながら、その思想の骨格を描き出しており、高校生から社会人まで幅広い層に向けた入門書として高い評価を受けています。伊波が歩んだ時代背景、沖縄差別と同化政策への違和感、そして学問を通じて沖縄の誇りを再発見しようとした軌跡が、簡潔かつ丁寧にまとめられています。とりわけ注目すべきは、「研究者である前に沖縄人であろうとした姿勢」が明確に示されている点であり、知識よりも「まなざし」に焦点を当てた描写が、彼の独特な学問態度を理解する手助けとなります。形式にとらわれない自由な探究と、その根底にある倫理感――それこそが、「沖縄学の父」と呼ばれる所以なのです。
評伝・思想研究から見える葛藤と信念
より深く伊波普猷を知ろうとするなら、『伊波普猷 人と思想』(外間守善編)や『沖縄の淵 伊波普猷とその時代』(鹿野政直)が欠かせません。これらの評伝は、単に伝記的事実を追うのではなく、彼の学問と思想がいかに形成され、いかに時代と衝突しながら成熟していったかを多角的に描いています。外間は言語学的分析を軸にしつつ、伊波がいかに琉球語を「記述すべき体系」として捉え直したかに光を当て、鹿野は戦時下における沈黙と葛藤を社会思想史の視点から読み解いています。そこに浮かび上がるのは、「日琉同祖論」の先に立って、民族的アイデンティティのあり方を問う思索者としての伊波の姿です。知識人としての孤独、制度との齟齬、それでもなお沖縄に寄せ続けたまなざし――評伝は、そうした内的闘争の記録としても読むことができます。
『素顔の伊波普猷』に映る人間的魅力
学者としての伊波普猷ではなく、ひとりの人間としての彼に触れられるのが、比嘉美津子の『素顔の伊波普猷』です。この書は、研究書というよりも随筆的な筆致で綴られており、家族や友人、教え子たちの証言を通して、伊波のやわらかい一面、気難しさ、ユーモア、そして沖縄への深い愛情が描かれます。東京の寒さをぼやきながらも沖縄の風を語る声、子どもたちに読み聞かせをする優しい眼差し、書物に向かうときの静かな情熱――そうした細やかな描写のなかに、学問と生活を分かつことのなかった伊波の実像が立ち上がってきます。どれほど論理的で厳格であっても、その根底にあったのは、人間としての感性の鋭さと、言葉を通じて他者とつながろうとする誠実さでした。『素顔の伊波普猷』は、学問の光の裏にある、陰翳に満ちた人間性を照らし出す貴重な一冊です。
伊波普猷の問いは、今も沖縄に生きている
伊波普猷の生涯は、学問によって沖縄の声を掬い上げようとした静かな闘いでした。士族の家に生まれ、差別と矛盾にさらされながらも、自らのアイデンティティを深く見つめ続けた彼は、「沖縄とは何か」という問いを一貫して探求しました。『浦添考』や『おもろさうし』を通して歴史と精神の根を掘り起こし、図書館活動では知の扉を社会に開きました。東京にあっても心は常に沖縄にあり、死後もその思想は琉球大学に受け継がれ、今も沖縄学の礎となっています。言葉、記録、対話――彼が信じた方法は、沖縄が自らを語る力となり、世代を超えて響き続けています。伊波普猷の問いは終わることなく、今を生きる私たちに静かに語りかけているのです。
コメント