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青木昆陽の生涯:甘藷先生と呼ばれ、飢饉を救った男の物語

こんにちは!今回は、江戸時代中期に活躍した儒学者・蘭学者であり、サツマイモの普及によって「甘藷先生」と称された青木昆陽(あおきこんよう)についてです。

飢饉の時代に救荒作物としてサツマイモを広め、多くの命を救った昆陽は、同時に日本における蘭学の先駆者としても後世に多大な影響を与えました。そんな彼の知られざる努力と人間味あふれる生涯についてまとめます。

目次

サツマイモの父・青木昆陽、学問に目覚めた少年時代

江戸・日本橋に生まれた町人の子に芽生えた知への情熱

青木昆陽は、1698年(元禄11年)、江戸・日本橋の魚問屋に生まれました。通称は文蔵といい、当時の町人家庭としては珍しく、幼い頃から書物に強い関心を持っていました。家業である魚問屋を継ぐことが当然とされていたものの、文蔵の心を動かしたのは商いの世界ではなく、学問という広大な知の世界でした。周囲の大人たちは早くから彼の読書熱に驚いていたと伝えられています。町内の寺子屋で読み書きを習い始めた彼は、そのうちに借りた本を一晩で読み終えて返しに行くほどの勢いで、知識を吸収していきました。日々の手伝いをこなしながらも、書物の中にこそ自分の生きる道があると感じ始めた文蔵の姿には、すでに後の学者としての萌芽が見られます。町人の子でありながら、学問という新しい可能性を模索し始めたその早熟な知性は、やがて大きな転機を迎えることになります。

読書に没頭し、学問の道を切り開いた少年期

青木昆陽の少年時代は、まさに読書に没頭する日々でした。手元にある限られた本だけで満足せず、町の貸本屋や知人から書物を借りては読みふけり、時には夜通し本を開くこともありました。彼の関心は、物語や娯楽だけにとどまらず、歴史、政治、倫理、医術といった実用的な知識にも及びました。なぜこのような制度があるのか、どうして人は争うのか、といった根源的な問いを自らに投げかけ、思索する習慣がこの頃から芽生えていたのです。学問に対する姿勢は極めて真剣で、書き写しや要約なども自ら行い、知識を自分のものにする努力を惜しみませんでした。周囲では、家業に役立たない知識ばかり追い求める文蔵に対し、懐疑的な声もありましたが、彼は自らの信じる道を歩み続けました。この時期に培われた自学自習の習慣は、後に蘭学や農政の研究を進める上での大きな支えとなっていきます。

京都への遊学と、一流の師との出会い

学問への渇望が日増しに強まっていく中で、文蔵は22歳のとき、ついに大きな決断を下します。より本格的な学びを求め、江戸から遠く離れた京都へと遊学の旅に出たのです。当時、京都は全国から学者が集まる「学問の都」として知られており、彼の目的は、江戸時代の代表的な儒学者である伊藤東涯に学ぶことでした。伊藤東涯は、伊藤仁斎の子であり、古義学を継承・発展させた名門の学者で、全国から多くの門弟が集まっていました。文蔵はこの門を叩き、弟子入りを許されます。京都では、儒学だけでなく、本草学(薬学)や天文学、地理学など多方面の知識を学びました。学問の自由な雰囲気と、多様な思想に触れる環境は、彼の視野を大きく広げ、学者としての基礎を築くうえで極めて重要な経験となりました。この時期の努力と成果が、のちに彼が幕府に登用され、サツマイモの普及に尽力する下地となるのです。

儒学と出会い、才能を開花──青木昆陽と伊藤東涯の師弟関係

京都・古義堂への入門──若き昆陽が選んだ学問修行の道

享保4年(1719年)、22歳になった青木昆陽は、江戸から京都へと旅立ちます。彼の目的は、当時の名門儒学塾である「古義堂」への入門でした。この塾は、儒学者・伊藤仁斎の子である伊藤東涯が主宰しており、父の学問を受け継ぎ、四書五経を中心とした古典の読み直しを重視する「古義学」の流れをくむ学び舎でした。町人の家に生まれた昆陽にとって、名門塾への入門は大きな挑戦でしたが、学問への情熱がそれを後押ししました。全国から高い志を持つ若者たちが集う中、東涯は昆陽の素直で熱心な姿勢を評価し、門弟として迎え入れました。入門後の昆陽は、基礎である素読を徹底的に学び、東涯の講義を一言一句逃さぬように記録し、理解しようと努力を重ねました。この出会いが、後の彼の学問的人格を形成する原点となっていきます。

古義堂での日々──厳格な教えと知の鍛錬

古義堂での学問生活は厳しいものでした。青木昆陽は毎日、朝から晩まで読書、筆写、素読、討論といった訓練に励みました。伊藤東涯は、単なる記憶や知識の習得ではなく、学問を社会に活かすという「実学」の理念を重視しており、昆陽はその影響を深く受けます。この実学の精神は、のちに彼が飢饉対策としてサツマイモの普及を提案する行動にもつながっていきました。また、古典の読解と並行して、東涯の指導のもとで本草学にも触れるようになり、薬草や農産物に関する知識も学んでいきます。こうした幅広い学びは、儒学にとどまらない多角的な視点を昆陽に養わせました。書物の中だけでなく、人々の暮らしや自然に根ざした学問への関心は、まさにこの時期に育まれたものだったのです。

師のもとで培った信念──思想の核として生き続けた学び

古義堂での数年にわたる修行を経て、昆陽は江戸へと戻る決意をします。経済的には決して恵まれた立場ではなかった昆陽を、東涯が精神的・学問的に支えたというエピソードも伝わっています。学費の免除や生活支援といった記録は確定的ではないものの、東涯が優秀な門弟に対して積極的な支援を行っていたことは事実であり、昆陽もその恩恵を受けた可能性があります。京都で得た学びと師との交流は、彼の人生を通じて思想的な支柱となりました。東涯から学んだ「人のために学問をする」という考え方は、後年、昆陽が蘭学や農政に力を注ぎ、幕府の政策に関与する際にも常に意識されていたとされています。伊藤東涯との出会いは、単なる一時の学びではなく、生涯を通じて昆陽を導く灯となったのです。

人生の転機──喪失と再出発を経験した青木昆陽

両親の死がもたらした深い喪失感

京都・古義堂での学問修行を終えた青木昆陽は、江戸に戻り、再び家族とともに暮らす日々を送っていました。しかし、享保11年(1726年)、父親が亡くなり、さらにその3年後には母親も他界しました。両親の相次ぐ死は、昆陽にとって大きな転機となります。彼は父の死後3年、母の死後さらに3年、合計6年間にわたり喪に服し、寺参り以外の外出を控え、粗食で慎ましく生活したと伝えられています。この間、日常生活の多くを静かな読書と思索に費やしました。特に母親が昆陽の学問への志を応援していたという話も広く伝えられていますが、これについては後世の伝記的解釈の要素が強いとされています。いずれにせよ、両親を失ったことが、昆陽に人生の意味や自らの生き方を深く問い直させたのは間違いありません。この喪失体験は、彼の学問に対する姿勢にも一層の真剣さをもたらすことになったのです。

家業と学問のはざまで葛藤する日々

両親の死によって、青木昆陽は魚問屋の家業を継ぐか、学問を続けるかという重大な選択を迫られました。家業を継ぐことは町人の子として当然と見なされる時代背景があり、彼も一時期は家業を手伝いながら生活していたと伝えられています。しかし、京都での修行を経て心に宿った「学問に生きたい」という強い志は、簡単に抑え込めるものではありませんでした。魚を扱う商売の合間にも、昆陽は書物を手放さず、夜遅くまで学問に没頭したといいます。家業に身を入れながらも心は常に学問にあり、次第に自らの進むべき道を見出していきました。そうした葛藤の中で、昆陽は単なる自己満足の学問ではなく、社会に役立つ実践的な学びこそが自分の使命だと考えるようになります。この意識が、後年の寺子屋設立やサツマイモ普及活動に結びついていく基盤となりました。

再び学問へと戻る決意の裏側

家業と学問のはざまで揺れ動き続けた青木昆陽は、最終的に魚問屋を継ぐ道を捨て、学問一筋で生きる決断を下しました。この選択は、町人の身分であった昆陽にとって、生活の保障を手放す大きな賭けでもありました。彼は生計を立てるために江戸で寺子屋を開き、子どもたちに読み書きや儒学を教える活動を始めます。この寺子屋は、昆陽にとって単なる収入源ではなく、自らの知識を社会に還元する場でもありました。教える中で庶民の暮らしや考え方に直に触れることができた経験は、後の彼の実践的な学問活動に大きな影響を与えました。学問は書物の中に閉じこもるものではなく、現実社会に生かしてこそ意味がある──この信念を胸に、昆陽は学者としての新たな一歩を踏み出したのです。この再出発の決意が、やがて江戸幕府に登用され、民を救う知識人として歴史に名を刻む原動力となっていきました。

江戸の名奉行・大岡忠相が見出した異才、青木昆陽

学識を評価され町奉行所へ出仕

寺子屋を開きながら学問に励んでいた青木昆陽に、転機が訪れたのは享保18年(1733年、35歳頃)でした。彼の学識の高さと、実践的な知識を重んじる姿勢が評判となり、町奉行所の目に留まることになります。当時、江戸町奉行所では、町の政治や治安だけでなく、民衆生活を支えるための知識人を求めていました。とくに昆陽が尊敬してやまなかった儒学を基盤としつつ、実用的な知識にも通じていることが評価されたのです。享保年間、町奉行所与力の加藤枝直の推挙もあり、昆陽は町奉行所に出仕することとなりました。町人出身でありながら、官に仕えるという道は当時として異例でしたが、昆陽はその期待に応え、地道に民政に関わる資料の整理や実務に携わるようになります。これが、後に彼が幕政の中で重要な役割を果たしていく最初の一歩となりました。

大岡越前との出会いが運命を変える

青木昆陽の才能に早くから目を付けたのが、町奉行として名高い大岡忠相、通称大岡越前でした。大岡忠相は、享保の改革を進める徳川吉宗の信任厚い人物で、民衆に寄り添った政治を行うことで知られていました。大岡は、単なる学問だけでなく、それを実社会に役立てる力を持った人材を求めており、青木昆陽の存在に強い関心を抱きます。大岡は昆陽の博学ぶりと誠実な人柄を高く評価し、さまざまな政策立案や実務に関わらせるようになります。この頃、江戸では度重なる飢饉や経済の停滞が社会問題となっており、知識と実践の両方に通じた人物が求められていたのです。大岡忠相との出会いは、昆陽にとって単なる職務以上の意味を持ちました。のちに彼がサツマイモ普及という国家的プロジェクトに乗り出す際にも、この信頼関係が大きな後ろ盾となったのです。

幕府の一員として活躍し始めた理由

町奉行所での勤務を経て、青木昆陽は幕府の直轄組織である勘定吟味役支配調役にも登用されるようになります。これは、財政・農政・民政といった幅広い分野に関わる重要な役職であり、昆陽が単なる町人出身の学者ではなく、実務家としても高く評価されていたことを示しています。当時の江戸幕府は、享保の改革を進める徳川吉宗のもと、飢饉対策や農業振興に力を入れており、昆陽のような実践知識を持つ人物が強く求められていました。大岡忠相や加藤枝直の支援を受けながら、昆陽は民の暮らしを支える政策に関与していきます。特に農業政策の立案において、彼の本草学の知識は大いに役立ちました。民衆に寄り添い、知をもって救う──そんな使命感が、昆陽の官僚としての活動を支えていたのです。この頃から、彼は単なる学者ではなく、民のために働く官人として本格的に歩み出すことになります。

飢饉を前に動いた知識人──青木昆陽、サツマイモで民を救う

凶作と飢えに苦しむ江戸の現実

18世紀前半、日本列島は天候不順と自然災害に悩まされていました。とりわけ享保17年(1732年)に発生した「享保の大飢饉」は、冷害、長雨、さらにはウンカという害虫の大発生によって、西日本を中心に甚大な被害をもたらしました。全国で米の収穫量が激減し、米価は急騰、都市部では打ちこわしが発生するなど、社会不安が広がりました。このとき、死者数は1万2,000人にのぼったともいわれています。江戸も例外ではなく、庶民や下級武士たちが飢えに苦しみ、生活の維持が困難になっていました。町奉行所に勤務していた青木昆陽は、こうした惨状を間近で見聞きし、深い危機感を抱きます。民を飢えから救うためには、米に代わる救荒作物を探さなければならない――昆陽は、学問を実践に生かすべきだという信念のもと、動き出す決意を固めたのです。

救いの作物・サツマイモとの運命的な出会い

青木昆陽が注目したのは、当時薩摩藩で栽培されていたサツマイモでした。サツマイモはもともと中南米原産の作物で、16〜17世紀に琉球(現在の沖縄)を経て日本に伝わり、薩摩で広まったとされています。この作物は、痩せた土地でも育ち、比較的短期間で収穫できるうえ、栄養価も高く、飢饉対策に適していました。昆陽は書物や薩摩藩の情報をもとに、サツマイモの特性について研究を重ね、その可能性を確信します。そこで彼は、幕府に対してサツマイモの栽培普及を提案することを決意しました。当時、薩摩藩ではサツマイモの苗の藩外持ち出しに制限を設けていましたが、昆陽は幕府を通じて交渉を進め、苗を取り寄せる手配に尽力します。こうして彼は、救荒作物としてサツマイモを広めるための第一歩を踏み出しました。

薩摩から芋を取り寄せた執念と行動力

青木昆陽の行動は、単なる提言にとどまりませんでした。彼は自ら動き、幕府の命令を得て薩摩藩と交渉し、種芋の取り寄せに尽力しました。史料上では、昆陽自身が薩摩に赴いたわけではないものの、その交渉や準備において強いリーダーシップを発揮したことが伝えられています。取り寄せたサツマイモは、江戸の小石川薬園(現在の小石川植物園)をはじめ、下総馬加村(現在の千葉市幕張)や上総不動堂村(現在の九十九里町)などで試験栽培されることになりました。最初の試作ではうまくいかないこともありましたが、徐々に栽培技術が確立され、関東地方での普及が進みます。この成功によって、サツマイモは日本各地で救荒作物として重用されるようになりました。青木昆陽は、その功績により「甘藷先生」と称えられ、民を飢えから救った知識人として広く尊敬を集めることになったのです。

『蕃薯考』が広めた革命──青木昆陽、栽培と理論の両輪

“芋博士”が書き残した名著『蕃薯考』

享保20年(1735年)、青木昆陽はサツマイモに関する知識と経験を集大成した著作『蕃薯考(ばんしょこう)』を完成させました。この書物は、日本で初めてサツマイモについて体系的にまとめた専門書であり、その意義は非常に大きいものです。『蕃薯考』では、サツマイモの来歴を中国や薩摩藩の事例から解説し、さらに自らの観察や試験栽培の結果に基づいて、土壌の選び方、植え付け方法、栽培の注意点、収穫や保存の技術などを具体的に記しています。特に、痩せた土地でも育つ強靭さや、飢饉時に人命を救う作物としての社会的意義について強く訴えました。この書が刊行されたことで、サツマイモに関する知識は幕府関係者や各地の農民たちにも広まり、普及の下地が整えられました。青木昆陽は、この功績により「芋博士」あるいは「甘藷先生」と称えられるようになり、後世までその名を残すこととなったのです。

幕張と九十九里に挑んだ──試作地での奮闘

幕府の命により、青木昆陽はサツマイモの試作栽培を、江戸小石川薬園(現在の小石川植物園)、下総馬加村(現在の千葉市花見川区幕張町)、上総不動堂村(現在の九十九里町)で行いました。とりわけ幕張(馬加村)では、土壌の条件と農民たちの協力がかみ合い、サツマイモの栽培に顕著な成功を収めることができました。一方、九十九里の不動堂村では、砂地という特殊な環境がサツマイモには適していたものの、試作は幕張ほど順調には進まなかったとされています。しかし、昆陽自身が現地に赴き、農民たちに直接栽培方法を指導したことが伝えられており、地道な普及活動が実を結び始めました。当初は新しい作物に対して警戒する声もありましたが、サツマイモの収穫の安定性、保存性の高さが次第に認められ、農民たちの信頼を得ていきました。この努力が、サツマイモを関東地方の救荒作物として定着させる大きな力となったのです。

関東全域に広がった食糧革命の波

馬加村での試作成功をきっかけに、サツマイモ栽培は関東各地へと急速に広がっていきました。幕府は飢饉対策の一環として、代官所を通じてサツマイモ栽培を農民に奨励し、その結果、救荒作物としてのサツマイモは一時的な存在を超えて、日常生活に深く根付くようになりました。都市部では、焼き芋として販売される文化も生まれ、庶民の間で広く親しまれるようになっていきます。青木昆陽の活動は、単なる学問的提言にとどまらず、飢えに苦しむ人々の暮らしを根本から支える社会的変革をもたらしました。サツマイモの普及による影響は極めて大きく、日本の食文化や農業政策に長期的な影響を与えたのです。この功績により、彼が担った役割は「食糧革命」と称されても決して過言ではありませんでした。

蘭学の扉を開いた男──青木昆陽のもうひとつの顔

オランダ語を独学した異色の学者

青木昆陽といえば、サツマイモ普及の功績で知られる一方、蘭学の先駆者としてもその名を残しています。18世紀の日本は、鎖国政策のもとで外国との交流が大きく制限されていましたが、唯一例外とされたのがオランダとの通商でした。長崎・出島に出入りするオランダ商館を通じて、ヨーロッパの科学・医学・天文学などの知識が限られた形で日本に伝えられていたのです。青木昆陽は、この「オランダ語」に強い関心を抱き、誰に学ぶでもなく、独力で学習を始めたと伝えられています。当初はオランダ語の辞書も文法書も乏しく、昆陽は現地に伝わったオランダ語の書物や文書を何度も読み返し、推測と試行錯誤を繰り返しながらその体系を理解していきました。その地道な取り組みは、やがて後進たちの道を切り拓く大きな礎となっていきます。

辞書・翻訳で後進に道をつける

青木昆陽は、自らの語学学習の成果を「自分だけの知識」で終わらせることはありませんでした。彼はオランダ語の単語や文法をまとめた資料を編纂し、当時ほとんど存在しなかった蘭和対訳の参考資料を作成しようと努めます。昆陽は特に、オランダ語で書かれた薬学書や自然科学に関する文献の解読を試み、そこに記された知識を日本語で理解できるように翻訳・要約する作業にも取り組みました。これにより、西洋の医学・科学に触れたいと願う若い学者たちが、少しずつオランダ語にアクセスできるようになっていきます。彼のこうした活動は、まだ「蘭学」という言葉すら一般に知られていなかった時代に、実質的にその基盤を作ったと言ってよいでしょう。のちに本格的な蘭学の流れを築いていく前野良沢や杉田玄白らにとっても、昆陽の試みは重要な先駆けとなりました。

前野良沢や杉田玄白につながる知のリレー

青木昆陽の蘭学への取り組みは、直接的な指導や教育という形ではなかったものの、彼の翻訳努力やオランダ語研究は、後の蘭学発展の下地を作るうえで極めて大きな意味を持ちました。たとえば、杉田玄白や前野良沢が取り組んだ『解体新書』(1774年)の翻訳は、ヨーロッパの医学書の原文を読み解く必要がありましたが、その際に昆陽が残した語彙や訳語の整理が参照されたとする説もあります。また、蘭学者・野呂元丈や中川淳庵といった後進たちも、昆陽の存在に刺激を受けたと伝えられています。青木昆陽の蘭学は、独学という限界の中で試行錯誤を重ねたものではありますが、それゆえに実学的で、後世の蘭学に実用性と柔軟性をもたらしました。民を飢えから救った知識人としてだけでなく、西洋の知を日本に伝えた先駆者としての青木昆陽像も、また大きな意義を持つものだったのです。

「甘藷先生」として生き抜いた晩年の青木昆陽

書物奉行としての仕事と信念

晩年の青木昆陽は、学者・実務家としての多彩な経歴を評価され、幕府において「書物奉行」という役職を務めました。書物奉行とは、幕府に提出される文書や記録、書籍類の監修・整理を担う役職で、非常に高度な教養と信頼が求められる地位です。昆陽はこの職務においても誠実さと几帳面さを発揮し、多くの官僚から信頼を集めていました。また、自身の学問的信念を貫き、どのような文書であっても事実確認や語句の正確性に細心の注意を払ったといわれています。さらにこの頃、彼は弟子たちの育成にも力を入れており、自宅で開いた私塾では、儒学や本草学に関心を持つ若者たちに、惜しみなく自身の知識と経験を伝えていました。現場を重視する実学者として、そして人を育てる教育者として、昆陽は自らの最期まで学問に真摯に向き合い続けたのです。

目黒に眠る“芋博士”の墓と逸話

青木昆陽の晩年は穏やかで、江戸の地で静かに日々を過ごしていたとされています。没したのは宝暦13年(1763年)、66歳のときでした。遺体は、現在の東京都目黒区にある目黒不動尊(瀧泉寺)の境内に葬られています。墓碑には「甘藷先生墓」と刻まれており、これは昆陽がサツマイモの普及に尽力したことを後世の人々が深く敬意をもって称えた証です。この墓所には「昆陽甘藷試作地跡」の石碑も建てられ、今日でも多くの人々が訪れています。特に秋になると周囲にはサツマイモの苗が植えられ、彼の業績をしのぶ風景が広がります。また、「昆陽が好んでサツマイモを食べた」や「墓の下にはサツマイモが埋まっている」といった逸話も残っており、これらは学者としてだけでなく、庶民に親しまれた存在であったことを物語っています。

現代に語り継がれる尊称「甘藷先生」

青木昆陽が「甘藷先生(かんしょせんせい)」と呼ばれるようになったのは、生前からではなく、死後にその業績が広く認識されてからのことでした。飢饉に備え、サツマイモの栽培と普及に尽力したその行動は、やがて多くの人々の命を救い、社会に安定をもたらすものであったことが、時代を経て高く評価されたのです。「甘藷」という言葉自体が、サツマイモの異称として用いられ、当時の公的文書や農政資料にも登場しており、昆陽の影響が制度的にも反映されていたことがうかがえます。現代でも、小学校の教科書や歴史学習の教材でその名を見ることができ、各地には昆陽を記念する碑や施設が残されています。単なる学問人ではなく、社会に貢献した実学の体現者──青木昆陽は、「甘藷先生」という尊称とともに、今なお人々の記憶に息づいているのです。

本・映像・まんがで知る、青木昆陽という人物像

著作に込めた思想と信念を読み解く

青木昆陽の人物像を深く知るうえで欠かせないのが、彼自身が遺した著作の数々です。なかでも代表的なのが、1735年に著された『蕃薯考』で、これは単なる農業技術書ではなく、当時の社会問題に対する強い使命感と実践的な知性を感じさせる作品です。飢饉にあえぐ庶民の現実を前にして、何ができるかを真剣に考えた結果がこの一冊に凝縮されており、「学問は人を救うものでなければならない」という昆陽の思想がにじみ出ています。また、『和蘭文訳考』などの語学的な資料も、彼の知的好奇心と学問の幅広さを示す貴重な資料です。これらの著作を通じて、儒学者としての倫理観、実学者としての問題解決志向、そして語学者としての探究心が立体的に伝わってきます。書物を通じて出会う青木昆陽は、時代に深く根ざしながらも、現代に通じる問題意識を持った人物であることがよくわかります。

ドキュメンタリーで描かれるその生き様

青木昆陽の生涯や業績は、テレビ番組や歴史ドキュメンタリーなどでもたびたび取り上げられています。特にNHKの「その時歴史が動いた」や「知恵泉」といった番組では、江戸時代の飢饉や農政改革をテーマに、彼の活動が紹介されることがありました。映像を通じて見る昆陽の姿は、単なる学問の人ではなく、現場に足を運び、人々の声に耳を傾け、行動する実践者として描かれています。また、彼が提言したサツマイモ栽培の現場や、実際の試作地として知られる幕張や九十九里などのロケ映像を交えながら、その地道な努力と行動力が映像で再現されることで、歴史の中にいた一人の人間としての実感がより強く伝わってきます。ドキュメンタリーを通じて青木昆陽に出会ったという人も多く、映像媒体は現代における彼の再評価に大きな役割を果たしています。

まんがやドラマが伝える庶民派学者の魅力

青木昆陽は、まんがや歴史ドラマといった娯楽作品の中でも、しばしば「庶民に寄り添う学者」として登場します。児童向けの学習まんがでは、飢えに苦しむ民衆を前にしてサツマイモの試作に奔走する姿や、寺子屋で子どもたちに読み書きを教える姿が、生き生きと描かれています。こうしたまんがは、単なる伝記的知識の伝達にとどまらず、「知識とは人のために使うもの」という彼の価値観を、若い読者に自然に伝える手段となっています。また、大河ドラマや時代劇の中で青木昆陽が登場することもあり、徳川吉宗や大岡忠相といった人物と並んで、江戸時代の改革の一翼を担った人物として紹介されることもあります。こうした描写を通じて、青木昆陽は学問の世界だけに生きた人物ではなく、人々の暮らしに寄り添い、行動した学者として、多くの人の心に残る存在となっているのです。

民を思い、学びを行動に変えた青木昆陽の生涯

青木昆陽は、江戸時代中期という困難な時代にあって、学問を単なる知識の習得にとどめず、「人のために生かす」という信念を貫いた人物でした。儒学を学び、町人としての身分を超えて幕府に登用され、そして飢饉の中で多くの命を救うためにサツマイモの普及に奔走しました。また、蘭学の先駆者として西洋の知識に触れ、それを後進に伝える道も切り拓いています。昆陽の姿は、現代においても「学ぶこと」と「社会に貢献すること」の意義を私たちに教えてくれます。時代を越えて語り継がれる「甘藷先生」の名には、知と行動を結びつけた真の学者の姿が宿っているのです。

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