今回は、江戸時代中期に活躍した儒学者であり、サツマイモの研究で有名な青木昆陽についてです。彼の生涯を通じて、学問と実践の両面で社会に大きな影響を与えました。そんな青木昆陽の生涯についてまとめます。
青木昆陽とは誰か?
青木昆陽は、江戸時代中期に活躍した儒学者であり蘭学者です。1698年、江戸の魚問屋の子として生まれ、幼少期から学問に強い関心を示しました。後に飢饉対策としてサツマイモの栽培を普及させたことから「甘藷先生」としても知られています。
昆陽は儒学を学び、徳川吉宗の信頼を得て各地の古文書を探査しました。彼の功績は、学問だけでなく実践的な農業技術の普及にも及び、江戸時代の社会に大きな影響を与えました。
江戸の魚問屋の子としての生い立ち
青木昆陽は1698年、江戸の魚問屋の子として生まれました。幼い頃から読書や学問に強い興味を持ち、近所の寺子屋で基礎教育を受けました。父親の影響で商売にも触れましたが、昆陽は商売よりも学問に魅了されていきます。
10代の頃から江戸の学者や知識人との交流を始め、次第に学問の道を歩む決意を固めました。彼の生い立ちは、その後の学問と実践に基づく生涯に大きな影響を与えています。
京都留学と儒学の学び
22歳のとき、青木昆陽は京都に留学し、そこで儒学者の伊藤東涯に師事しました。京都では、古典文学や漢学の知識を深め、儒学の基礎を固めました。伊藤東涯は、厳格な指導とともに昆陽に深い思想的影響を与え、儒学者としての基盤を築く手助けをしました。この期間の学びは、後に昆陽が江戸時代の学者として大成するための重要な基盤となりました。
伊藤東涯との出会いとその影響
京都での留学中、青木昆陽は著名な儒学者伊藤東涯に出会いました。東涯は昆陽の才能を見抜き、彼に多くの教えを授けました。この出会いは、昆陽の学問的な方向性を決定づけただけでなく、彼の人格形成にも大きな影響を与えました。
東涯の指導のもと、昆陽は儒学の教えを深く理解し、それを実践することで、将来的に多くの人々に影響を与えることとなります。
将軍徳川吉宗への仕官
1733年、青木昆陽は町奉行の推挙を受け、将軍徳川吉宗に仕官しました。吉宗は昆陽の学識を高く評価し、彼を各地の古文書探査に従事させました。この任務を通じて、昆陽は多くの歴史的資料を収集し、後の研究や執筆活動に役立てました。吉宗との関係は昆陽にとって重要な転機となり、彼の名声を高めるきっかけとなりました。
古文書探査とその意義
将軍徳川吉宗に仕官した青木昆陽は、古文書探査の任務を受けました。この任務では、全国各地の古文書を収集し、保存・研究することが目的でした。あるとき、昆陽は信州松本に赴き、地元の寺院に眠る古文書の数々を調査しました。この中には、戦国時代に書かれた貴重な古文書が含まれており、その一部は後に江戸幕府の政策決定に利用されました。
昆陽はこの探査を通じて、江戸時代の文化や歴史に関する貴重な資料を集め、その内容を学問的に整理しました。この探査活動は、彼の学問的評価を高めるとともに、後世の歴史研究にも大きな貢献をしました。
『蕃藷考』の執筆とサツマイモの栽培奨励
1735年、青木昆陽は『蕃藷考』を著し、飢饉対策としてサツマイモ(当時は「甘藷」と呼ばれました)の栽培を奨励しました。この書物では、サツマイモの栽培方法やその栄養価について詳しく述べられています。
昆陽は自らも江戸や千葉でサツマイモの試作を行い、その成果を広めました。この活動により、昆陽は「甘藷先生」として知られるようになり、多くの農民に感謝されました。
江戸や千葉でのサツマイモ試作とその成果
青木昆陽は、『蕃藷考』の執筆後、江戸や千葉でサツマイモの試作を行いました。特に小石川や幕張、九十九里などで実際に栽培を行い、その成績を観察しました。これにより、サツマイモが日本の気候や土壌に適していることを証明し、その普及を促進しました。
この試作の成功により、飢饉時の食糧不足を解消する手段として、サツマイモが広く受け入れられるようになりました。
晩年の活動と「甘藷先生之墓」
晩年、青木昆陽は学問だけでなく、実践的な農業技術の普及にも尽力しました。1767年には御書物奉行に就任し、さらなる学術活動に従事しました。
彼はまた、自らの功績を後世に伝えるために「甘藷先生之墓」を建立しました。この墓碑は、彼が生前に自ら設計し、自身の手で刻んだものです。昆陽は、サツマイモの普及が多くの人々の命を救ったことを誇りに思い、その功績を後世に伝えることを意図していました。
「甘藷先生之墓」は、現在も東京の小石川に位置し、多くの訪問者が彼の偉業を称えに訪れます。この墓碑には、昆陽が執筆した『蕃藷考』やその他の著作の引用が刻まれており、彼の学問的貢献と実践的な成果を讃えています。
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