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池田勇人の生涯:高度経済成長を実現した所得倍増の立役者

こんにちは!今回は、戦後日本の首相として高度経済成長を牽引した政治家、池田勇人(いけだはやと)についてです。

「所得倍増計画」で国民の生活を大きく変え、日本を“経済大国”へと押し上げた立役者──その裏には、失言、病との闘い、そして吉田茂らとの濃密な人間関係がありました。官僚から総理へ、池田勇人がどのようにして日本の未来を描いたのか、その生涯を紐解きます。

目次

広島・竹原の町で育った池田勇人の少年時代

瀬戸内の港町に生まれた商家の末子として

池田勇人は1899年(明治32年)、広島県豊田郡吉名村、現在の竹原市で生まれました。瀬戸内海に面したこの地は、古くから塩田産業で栄えた町であり、内海の交易路として多くの商船が往来していました。池田家は「沖屋」の屋号を持つ商家で、町の経済活動の中核に関わる家の一つとして知られていました。勇人は7人兄姉の末子として、にぎやかな家庭の中で育ちました。

当時の竹原は、商人や知識人が行き交い、閉ざされた地方都市とは異なる開放的な空気を持っていたと言われます。海とともに生きる町の風土は、日々の生活に自然と外の世界への関心を育てる要素を含んでいました。家業の商いに伴って流通する物資や情報に接する中で、勇人もまた、人や物が動くことの意味を幼いながらに感じ取っていたことでしょう。

勉学に励んだ少年と家庭の学びの空気

池田家では子どもたちの教育に熱心で、学問を重んじる姿勢が自然と根づいていました。勇人は地元の小学校を経て旧制中学校に進学し、優秀な成績を収めながら高等教育への道を切り拓いていきます。竹原という町には、読書や詩歌をたしなむ文化が日常の中に息づいており、地域の青年たちが集う学びの場も点在していました。そうした風土の中で、池田少年は学ぶことの面白さに早くから目覚めていたと考えられます。

家庭には、商家ならではの実務的な知識と共に、世の中の動きや社会の仕組みを語り合う機会もあったと見られます。とくに、家業を通じて得られる市況や取引の話題は、幼い勇人にとって現実世界への入り口となり、のちの経済政策への関心にもつながる一端を成していたのかもしれません。

外の世界を意識させた戦争と時代の変化

池田勇人が10代を迎える頃、世界は第一次世界大戦という激動の時代を迎えます。新聞の紙面には欧州列強の戦況が連日取り上げられ、日本国内でも政情と国際関係に関する関心が高まりつつありました。竹原のような地方都市にも、そうした動きは少なからず影響を及ぼしていました。

商業都市としての竹原には、経済の動きに敏感な商人や教育者が多く、時勢について語り合う風土がありました。池田少年もまた、身の回りの大人たちの話に耳を傾けながら、国家と経済の関係、政治の役割といったものに思いを巡らせていったと考えられます。世界の変動を受けて育まれたまなざしが、のちに彼を政治の舞台へと導く原点となったのです。

京都帝国大学で学び官僚として歩み始めた池田勇人

京大法学部で磨かれた視野と知的関心

池田勇人は、忠海中学校、第五高等学校を経て、京都帝国大学法学部に進学し、1924年(大正13年)3月に卒業しました。当時の京大法学部は、東京帝国大学とは異なり、より自由闊達で社会問題への意識が高い学風で知られており、学生たちは理論と現実を架橋する学問に触れていました。こうした教育環境の中で、池田は法学のみならず、経済制度や財政に関する分野にも関心を寄せていたと考えられます。

学内では、志を同じくする仲間たちと時事問題を論じ合いながら、自らの思考を深めていく機会が多くあったとされます。後の政治・官界を担う人材も多く輩出されたこの環境で、池田は知識を鍛えられると同時に、「公」に奉仕する精神を形成していったと見られます。こうした経験は、彼が後に目指す国家官僚としての道を自然に照らしていきました。

高等文官試験を突破し、大蔵省での第一歩

卒業後の池田は、当時の最難関試験のひとつであった高等文官試験(行政科)に合格し、1925年に大蔵省に入省しました。この試験は法学部卒業生の中でもごく限られた者しか通過できない狭き門であり、その合格は、国家中枢の政策形成を担うエリートとして認められる証でもありました。

池田の配属は主税局で、税制に関する調査や立案業務を中心に、財政行政に直接関わる道を歩み始めます。大正末期から昭和初期にかけての日本は、財政の逼迫と軍事費の拡大という課題に直面しており、若手官僚であっても時勢の中で重要な判断を求められることが少なくありませんでした。池田も、制度と向き合いながら実務を通して、国家運営の複雑さを体感していったのです。

制度の中にこそ改革の芽を見る

大蔵省の中でも、池田は実直な仕事ぶりと実務に即した着実な判断力で、徐々に注目されるようになります。とくに税務の分野では、数字の背後にある社会構造や経済の流れを読む力が求められており、池田はその点で頭角を現し始めていました。報告書や政策提案においても、理論と実務のバランスを備えた内容が評価され、上司たちの信頼を得るようになります。

当時の日本では、軍備拡張の影響によって国家財政が圧迫される一方、税収構造の再編も急務とされていました。池田はこうした時代の課題に直面する現場で、制度を現実に即して見つめる視点を磨き、のちに「財政の池田」と称される政策家としての基礎をこの時期に築いていったと考えられます。静かに、しかし確かな歩みで、彼の官僚人生は始まっていたのです。

財政官僚としての活躍と池田勇人が乗り越えた結核との闘病生活

戦時経済を支えた官僚としての責務

池田勇人は大蔵省主税局に籍を置き、昭和初期から戦時体制下にかけて、日本の財政政策の中枢で活躍していきます。当時の日本は、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと突き進む中で、国家総動員体制のもと財政・税制の抜本的再編を迫られていました。池田は、戦費調達のための増税や物資統制、資金動員の仕組みづくりに関与し、戦時経済に適応する新たな制度設計に取り組みます。

特に彼が関与したとされるのが、所得税・法人税制度の強化や戦時貯蓄奨励策の展開です。これらは国民の生活に直接影響するものであり、官僚にとっては社会全体を動かす高度な判断が求められる分野でした。池田は、ただ徴税を厳しくするのではなく、国民の納得を得る工夫や、制度の持続可能性に配慮した調整を模索し続けたと伝えられています。

結核による長期療養と、静かなる復帰の決意

そんな折、池田は重度の結核に罹患します。1930年代後半、まだ特効薬のないこの病は命にかかわる深刻な疾患であり、長期間の療養生活を余儀なくされました。体力を奪われ、第一線から離れざるを得ない期間は、池田にとって静かな試練の時期でもありました。しかし彼は、闘病の中でも財政に関する資料を読み続け、思索を深めることで自らを鍛え直していきます。

復職後、再び大蔵省での任務に就いた池田は、かつて以上に構造的な視野をもって政策に取り組むようになります。療養生活を経たことで、単なる即効性や一時的な対策ではなく、長期的に国家財政を持続させる制度設計の重要性に一層の確信を抱くようになったのです。この時期を境に、彼の政策スタンスはより実証的かつ長期志向へと深化していきました。

「財政の池田」と称された実務家としての信頼

戦中から戦後にかけて、池田はその政策立案能力と調整力で頭角を現していきます。大蔵省内でも、数字に強く、かつ制度の設計と運用のバランスを取れる存在として、確固たる信頼を得るようになります。その働きぶりは、同僚や政治家たちから「財政の池田」と称されるほどで、彼の判断が政策の方向性を左右する場面も増えていきました。

とくに彼が注力したのは、敗戦後の財政の立て直しに必要な基盤づくりでした。復員兵への支給や物価統制、通貨の安定など、戦後混乱の中で財政を立て直す任務に奔走し、池田は経済政策の現場でなくてはならない存在となっていきます。この時期の積み重ねが、のちの通産大臣、そして首相としての仕事へとつながる原点となりました。静かに、そして粘り強く制度を動かしてきた池田の姿勢は、戦後日本の経済基盤の陰に確かに息づいていたのです。

戦後の政治に飛び込んだ池田勇人と吉田茂との師弟関係

政界入りの決意と戦後日本の荒野

終戦直後、日本は焼け野原と化し、社会制度も経済体制も根底からの再建が求められる状況にありました。池田勇人はこの混乱の中で、大蔵省を辞して政界入りを決意します。1949年(昭和24年)、彼は広島2区から出馬し、衆議院議員に初当選します。戦後の混乱期にあっても、池田の背後には財政官僚として培った実績と、経済を見据える明確なビジョンがありました。

当初の池田は、官僚出身議員として比較的地味な存在でしたが、鋭い財政分析と、理論に基づいた演説により、徐々に注目を集めていきます。民間企業の復興、税制改革、通貨の安定といった喫緊の課題に対して、現場で得た知識と政策構想力を武器に、着実に議員としての立場を固めていきました。

吉田茂との出会いと「吉田学校」での薫陶

池田の政治的人生を語る上で、吉田茂との出会いは避けて通れません。戦後日本を代表する保守政治家であった吉田は、国際的視野と現実主義を備えた指導者として、占領下の政治を主導していました。池田はこの吉田の考えに強く共鳴し、早くからその側近として行動をともにするようになります。

吉田は池田に対して、政治の手法だけでなく、国際関係の見方や対米関係の重要性、政治的な言葉の使い方に至るまで、徹底した教育を施しました。この非公式の学び舎は、後に「吉田学校」と称され、多くの政治家を輩出する礎となっていきます。池田もその中心的な一人として、師の教えを実践しながら、独自の政治的スタンスを形成していきました。

宏池会の設立と、官僚政治家としての自立

1957年、池田は自らの派閥である宏池会を立ち上げます。この派閥は、吉田の政治理念を引き継ぎつつ、より実務志向・政策重視の政治を志向する集団として出発しました。吉田門下生の中でも、池田は「理論と数字で語る」スタイルを貫き、派閥の運営においても安易な人気取りに走らず、あくまで政策の実行力を重視しました。

宏池会は、その後の自民党内における穏健保守の代表格として、池田の後継者である大平正芳や宮沢喜一を輩出する母体となり、政策重視の流れを作る重要な基盤となっていきます。官僚として制度を支えてきた池田が、政治家として制度を動かす側に回ったこと――それは、単なる転身ではなく、彼自身の使命感に根ざした挑戦だったといえるでしょう。吉田の教えを胸に抱きながら、池田は自らの政治哲学を築き上げていったのです。

通商産業大臣として経済再建に取り組んだ池田勇人

通産省の中枢で描かれた復興計画の設計図

1952年(昭和27年)、日本が主権を回復して間もない時期、池田勇人は通商産業大臣に就任します。当時の日本経済は、戦後の混乱を抜け出しつつあるものの、依然として復興途上にありました。工業生産は戦前の水準に戻りきらず、輸出力の低下やインフラの老朽化が重くのしかかっていました。そうした状況下で、池田が主導したのが、経済再建に向けた包括的な産業政策の立案でした。

通産省はこの時期、経済成長のエンジンとしての役割を強く期待されており、池田は各種産業界と密接に連携しながら、中長期的な成長戦略を策定していきます。とりわけ、鉄鋼、造船、自動車などの基幹産業への重点的な投資支援と、金融機関との協調を通じた設備投資の促進は、池田の着眼点を示す代表的な施策でした。彼は、単なる景気刺激ではなく、持続可能な成長構造の整備にこだわり抜いたのです。

輸出産業支援とインフラ整備の地道な実践

池田の経済政策の柱のひとつが、輸出産業の振興でした。戦後の日本にとって、外貨獲得は国家的な最優先課題であり、池田は通商政策と産業支援策を有機的に結びつけ、国際競争力の強化に努めました。輸出企業には低利融資や税制優遇といった支援策を講じ、国際見本市への出展支援などソフト面の施策にも積極的に取り組みました。

また、産業活動を支える電力や輸送インフラの整備にも注力し、ダム建設や鉄道網の拡充など、大規模公共事業の展開を後押ししました。これにより、民間企業の活動は地域を越えて広がり、全国的な経済活性化へとつながっていきました。池田は、机上の理論にとどまらず、現場に即した政策実行に徹し、現実の経済成長を着実に後押しする力を発揮しました。

世界と向き合う経済外交の視点

池田が通産大臣として特筆すべきもう一つの面が、国際社会における日本経済の再定位でした。1950年代初頭、日本はまだアジア諸国との関係再構築の途上にあり、欧米との貿易関係でも不利な条件を強いられる場面が少なくありませんでした。池田は、こうした国際環境の中で、積極的な通商外交を展開し、日本企業の国際市場へのアクセスを拡大させていきます。

特に注目すべきは、アメリカとの経済交渉において、関税や輸出制限に関する調整を担い、対米依存を乗り越える第一歩を示した点です。また、新興アジア諸国との経済協力にも意欲的で、戦争の記憶を超えて未来志向の経済関係を築こうとする姿勢が見られました。こうした姿勢は、後に池田が唱える「所得倍増計画」にも通じる視野の広さを予感させるものであり、日本経済が世界とつながる重要な転機を準備していたのです。

「麦発言」をきっかけに姿勢を改めた池田勇人の政治的成長

発言の真意と社会の受け止め方

1950年12月、池田勇人は大蔵大臣として参議院予算委員会に出席し、「私は所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則にそったほうへ持って行きたい」と発言しました。これは、当時深刻化していた米価高騰と物価政策に関する議論の中で述べられたもので、米と麦の価格差を前提とした合理的な提案でした。

しかし、報道機関はこの発言の要旨を「貧乏人は麦を食え」という見出しで報じ、社会に強い反発を引き起こしました。国民の多くが戦後の厳しい生活の中にあった時期だけに、「冷たいエリートの論理」として受け取られ、政治家としての池田に対する批判が急速に広がります。この件により、池田は事実上、大蔵大臣を辞任するに至りました。

国民との接点を模索したその後の言動

この一件を機に、池田勇人の政治的言動には変化が見られるようになります。数字や制度を軸に政策を語ってきた姿勢はそのままに、次第に国民の感情や理解を意識した表現が目立つようになっていきました。公式の演説や国会答弁においても、政策の目的や意図をより丁寧に説明する姿勢が見られ、形式よりも共感を重視する語り口へと変わっていきます。

その変化の背景には、麦発言によって痛感した「言葉の影響力」があったと考えられます。かつての池田は、政策の正しさがあれば伝わるという信念を強く持っていましたが、国民の視点に立った発信の必要性を徐々に認識していったのです。これにより、池田は実務官僚的な冷静さに加え、政治家としての「対話力」を備えていくようになります。

「寛容と忍耐」が象徴する新たな政治スタイル

池田勇人が首相に就任した1960年、その年に掲げた政治理念が「寛容と忍耐」でした。この言葉は、安保闘争を経て揺らいでいた社会に向け、対立ではなく協調を通じて安定と成長を目指すというメッセージとして打ち出されたものです。政策形成においても、急進的な改革よりも、広く国民の支持を得ながら着実に進めるという姿勢が明確に現れていました。

「寛容と忍耐」は、池田が戦後政治の中で培ってきた経験と、自らが直面した批判の教訓が交錯して生まれた理念とも言えます。麦発言そのものが直接のきっかけだったかは明言できないものの、かつての言葉が示したギャップを埋めるように、池田は「国民の声を聞く政治」を体現するリーダーへと変化していきました。その姿勢は、後の所得倍増計画における政策広報や、支持拡大戦略にもはっきりと表れていくのです。

首相として国の成長を託された池田勇人と所得倍増計画の実現

激動の中で託されたリーダーシップ

1960年7月、池田勇人は内閣総理大臣に就任します。前任の岸信介が日米安保条約の改定をめぐり退陣に追い込まれた直後であり、国内は学生運動や労働争議が活発化するなど、社会の緊張が高まっていました。このような状況の中で、池田が掲げたのが、経済成長を通じて国民生活の安定を目指す「所得倍増計画」でした。

この計画は、10年間で国民の所得を2倍にするという大胆な目標を掲げたものであり、従来の政権が掲げた抽象的スローガンとは一線を画すものでした。池田は、経済を通じて国民の不満を吸収し、社会の安定と発展を両立させるという、極めて実利的な政治方針を打ち出したのです。政局より政策、理念より実行――池田が首相として貫いた姿勢の根幹は、ここにありました。

数字で導く国家戦略とその実行力

所得倍増計画の中核には、年平均7.2%の経済成長率を実現し、個人消費と企業投資を拡大させるという明確な数値目標が据えられていました。これを実現するために池田内閣が打ち出したのが、公共投資の拡大、貿易自由化、税制改革、金融の機能強化といった一連の構造政策です。

また、製造業を中心とする輸出産業への支援を強化し、国際市場での競争力を高めるとともに、インフラ整備を通じた国内需要の創出にも力を注ぎました。とくに注目されたのは、各省庁の枠を越えた調整能力で、池田は閣僚間の対立を巧みに抑えながら、実行性の高いプランへと落とし込んでいきます。この現実的な制度設計と実施力の高さこそが、「池田内閣」の真骨頂でした。

側近たちとのチームワークと政策実現の推進体制

池田の強みは、政策の立案だけではなく、それを実現するための組織的体制づくりにありました。彼は、大平正芳、宮沢喜一、前尾繁三郎といった優れた政策スタッフを重用し、各分野の専門家を要所に配置することで、迅速かつ柔軟な意思決定を可能にしていきます。

これらの側近たちは、池田の考えを理解し、時に補足しながら現場への実装を進める役割を担っていました。首相自身が一から十まで指示するのではなく、信頼するブレーンたちにある程度の裁量を委ねる姿勢も、組織としての機能性を高める一因となりました。

結果として、所得倍増計画は当初の目標を上回る成果をあげ、1960年代の高度経済成長の礎を築くこととなります。国民生活は目に見えて向上し、家電製品の普及、都市の拡張、新幹線や高速道路といったインフラの整備が進み、日本は経済大国への階段を駆け上がっていきました。この政策とリーダーシップの融合こそ、池田勇人が首相として残した最大の功績だったといえるでしょう。

池田勇人の晩年と日本に遺された経済成長の足跡

東京オリンピックに重ねられた復興の証

1964年、東京で開催された夏季オリンピックは、日本が戦後の焦土から立ち上がり、国際社会の中で再び存在感を示す象徴的な出来事でした。アジアで初となるこの大会は、日本の経済力と組織力を世界に示す舞台となり、国民にとっては復興の道程を振り返るきっかけともなりました。

東海道新幹線の開通、首都高速道路や通信インフラの整備は、オリンピックの開催に合わせて完了が急がれたものでしたが、それらのプロジェクトの本質は、戦後の都市基盤整備と経済成長を支える国家的要請に応じたものでした。池田勇人は、これらのインフラ整備を強力に後押しし、官民連携による国力の可視化を推進しました。テレビ中継を通じて世界に映し出された東京の姿は、国民にとっても新たな自信と誇りをもたらす光景となったのです。

公表なき病と静かな決断

一方で、池田勇人はこの時期、喉頭がんを患っていました。1964年9月、国立がんセンターに「慢性喉頭炎の治療と検査」として入院しますが、当時の慣習により病名は公表されず、本人にも病状は伏せられていました。その後、東京オリンピック開会式を見届けた直後の10月、池田は首相辞任を表明します。辞任理由として語られたのは「健康上の理由」のみ。詳細を語らず、静かに職を退いた池田の姿には、混乱を避け、政策の継続を優先する配慮がにじんでいました。

この決断は、ただの退陣ではなく、政治の節度を示す行為としても評価されています。池田は、後継への道筋を乱さぬようにし、次代に責任を託すことの大切さを、自らの去り際で体現したとも言えるでしょう。

成長モデルを遺した「政策家」の到達点

池田勇人が築いたものは、数字に表れる成長率だけではありませんでした。所得倍増計画をはじめとする政策群は、制度設計と運用、国民の理解と支持の獲得、そして官僚機構との協調という三位一体の実務体系として日本に根づいていきます。経済だけでなく、政治の手法そのものを変えた池田の影響は、戦後政治の転換点として今も語り継がれています。

池田は1965年8月13日、満65歳でその生涯を閉じます。後継の佐藤栄作内閣は、池田の政策路線を継承し、高度経済成長はさらに推進されました。また、彼が設立した宏池会は、実務重視・穏健保守の流れを引き継ぎ、のちの大平正芳、宮沢喜一らを輩出していきます。池田が遺したのは、ただの成果ではなく、成長を持続可能にするための「型」でした。日本が経済大国として成熟していく過程において、その礎には池田勇人の構想と実行が深く根づいていたのです。

書籍や漫画から浮かび上がる池田勇人の人物像

政策家としての輪郭を精緻に描いた藤井信幸の視点

藤井信幸の著作『所得倍増でいくんだ』は、池田勇人の政治的軌跡を丹念に辿りながら、特にその政策形成能力と実行力に焦点を当てています。学術的な視点から構成されたこの評伝では、池田の言葉や行動、背景となる政治経済の動向を重層的に捉え、政策家としての池田の変遷を「言葉」と「数字」によって浮き彫りにしています。

とりわけ注目されるのは、池田がどのように官僚的実務感覚と政治的説得力を融合させていったのかという過程の描写です。単なる政治手腕の紹介にとどまらず、戦後日本の再建と成長を制度的にどう支えたかという問いに応える構成となっており、池田の政策家像を理解する上での出発点となる資料といえるでしょう。

人間ドラマとしての政治家を描く伊藤昌哉の筆致

伊藤昌哉による『池田勇人とその時代』は、池田の人生を政治的ドラマとして描いた評伝です。官僚から政治家へ、失言や病気といった試練を経て、首相としての頂点を迎えるまでの道のりが、緻密な取材と筆致によって再構成されています。ここでの池田は、冷静な制度設計者というよりも、欲望・苦悩・責任といった人間的感情を内に抱えた「等身大のリーダー」として描かれています。

伊藤は池田を「剛直さと柔軟さを併せ持つ人物」と評し、政敵との応酬、側近との対話、国民との関係性など、政治の現場に息づく人間模様の中で池田という人物を浮かび上がらせています。この視点は、池田の冷徹なイメージを覆し、感情と信念のバランスを保ち続けた人物像として新たな輪郭を与えています。

舞台裏を語る証言としての塩口喜乙『聞書 池田勇人』

塩口喜乙による『聞書 池田勇人』は、池田と関わりのあった関係者の証言をもとに構成されたドキュメンタリー的作品です。この書は、政策の現場、党内のやり取り、国会運営など、実務の舞台裏を具体的に描き出すことに重点が置かれています。池田本人の言葉や思考のプロセスが、証言の中から浮かび上がる構成となっており、机上の人物像では捉えきれない、リアルな輪郭をもたらしています。

中でも興味深いのは、池田が部下にどのような言葉をかけ、決断の直前にどのような表情を見せたかといったディテールです。政策家であると同時に、組織のリーダーとして人を動かす術を持っていた池田の側面が、証言を通じて生々しく伝わってきます。読み手は、歴史の表舞台の裏で繰り広げられた判断の重さを、池田の肉声に近い距離で追体験することができるのです。

劇画で甦る信念とカリスマ――『疾風の勇人』

大和田秀樹による漫画作品『疾風の勇人』は、池田勇人の政治家としての活躍をダイナミックに描いたエンターテインメント作品です。高度経済成長期の日本を舞台に、池田が次々と難題に挑む姿を、テンポのよい展開と大胆な演出で描写しています。フィクションの要素も交えながら、戦後日本の行く末を託された一人の政治家の内面と行動が、読者の目に鮮烈な印象を残します。

この作品では、池田はしばしば「異端の改革者」として描かれ、保守政治の中で常に新しい風を起こす存在として登場します。人間的な弱さも含めて描かれる一方、リーダーとしての決断力や信念が際立つ表現は、歴史的事実に基づいたドラマ性を巧みに演出しており、特に若い世代にとっては「池田勇人」という存在への導入としても有効です。

池田勇人という政治家が遺したもの

竹原の港町に生まれた一人の少年が、やがて国家の経済成長を託される総理大臣へと歩んだ道は、決して平坦ではありませんでした。官僚として制度に挑み、政治家として言葉に責任を持ち、そして首相として国民の生活向上を真剣に考え抜いた池田勇人。その歩みは、現実の厳しさと理想のバランスを見極め、時に反発を受けながらも、自らの信念を曲げずに貫いたものでした。所得倍増計画に象徴される政策群は、単なる経済政策ではなく、未来に希望を託す国家ビジョンそのものであり、日本が「経済大国」として認められる礎を築いたのです。そして今も、彼の理念は、政策というかたちで私たちの暮らしの中に息づいています。池田勇人――その名は、政治の本質と責任を問い続けた一つの軌跡として、決して色褪せることはありません。

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