こんにちは!今回は、史上初の暗殺された天皇として知られる安康天皇(あんこうてんのう)についてです。允恭天皇の子として誕生し、皇位継承争いや讒言事件に翻弄されながら即位した安康天皇。
しかし、その在位は短く、7歳の眉輪王によって暗殺されるという衝撃的な最期を迎えました。激動の古代日本の宮廷史と外交の舞台で活躍した安康天皇の足跡を振り返ります。
安康天皇の誕生と家系
允恭天皇と忍坂大中姫の間に生まれた皇子
安康天皇は、5世紀中頃、允恭天皇と皇后・忍坂大中姫の間に誕生しました。允恭天皇42年、すなわち西暦453年頃に即位していることから、その生年もこの時期に近いと推定されます。父である允恭天皇は、在位中は目立った戦や政変を避け、穏健な政を進めたと伝えられる人物です。母の忍坂大中姫は、応神天皇の孫であり、稚野毛二派皇子と百師木伊呂弁の間に生まれました。その血統は、王統のなかでも格別の正統性を持ち、皇后としての地位を確固たるものとしていました。
安康天皇は、そのような由緒ある系譜のもとに生を受けながら、成長過程や若年期の具体的な逸話は『日本書紀』『古事記』にもほとんど記されていません。ただ、彼が皇族として静かに育てられたことは、兄・木梨軽皇子が早くから太子に立てられ、公的な立場に立っていたことと対比されます。安康の存在は、権力の表舞台から一歩距離をおいた位置にありましたが、それがかえって政治の安定を求める豪族たちにとっては、安心できる中立的な選択肢として映っていたのかもしれません。
皇子時代の安康天皇:静かな評価と影の存在
皇子時代の安康天皇に関する詳細な記録は少ないものの、彼の歩んだ道筋には当時の王権継承における微妙な均衡が映し出されています。兄の木梨軽皇子は、允恭天皇の第一皇子として太子に立てられ、将来の天皇としての地位を確実なものとしていました。その一方で、第二皇子である安康は表立った政治的活動を避けていたと見られ、宮廷内での地位は控えめなものであったと考えられます。
しかし、この“静けさ”が彼にとっては重要な資質となりました。兄の政治的地位が、後に私的なスキャンダルによって大きく揺らぐことになると、その対照的な存在として安康が注目され始めます。表に出る者が背負う業と、裏に控える者の安定感。そのコントラストが、次第に王位継承の流れを変えていくのです。なぜ安康が選ばれたのか――その問いに対するひとつの答えは、派手な手腕よりも、確実な血筋と穏やかな姿勢が、乱れかけた朝廷に求められていたからだと考えられます。
兄弟たちとの関係性:木梨軽皇子・雄略天皇の間で
安康天皇は、兄・木梨軽皇子と弟・雄略天皇という二人の個性に挟まれた位置にありました。木梨軽皇子は、妹・軽大娘皇女との関係が明らかになると、その風聞が朝廷に衝撃を与え、太子の地位を追われることになります。この出来事は王権の正統性に直結する問題として、朝廷の中でも大きな動揺を生みました。そして、弟の雄略(後の第21代天皇)は、大泊瀬幼武尊の名で知られ、後年の伝承には武断的な言動が多く描かれています。
こうした兄弟たちの逸脱や強権的な気質とは対照的に、安康は“目立たぬ者”として残りました。しかしそれは、無為無策を意味するのではありません。強い光に焼かれぬよう、その陰に身を置く術を知っていたとも言えるでしょう。木梨軽皇子が信用を失い、雄略がまだ若年であったとされるなかで、安康に託されたのは「血統の正統性」と「穏健な印象」でした。安康天皇がその後即位を果たす背景には、まさにこの兄弟の対比の構図が深く影を落としているのです。
安康天皇を巡る皇位争い
木梨軽皇子の愛憎劇と政治スキャンダル
允恭天皇の晩年、朝廷内で最も有力な皇位継承者として位置づけられていたのが、第一皇子・木梨軽皇子でした。容姿端麗で立ち居振る舞いにも優れ、皇太子としての評判は高く、将来の王としての期待を一身に集めていたとされています。しかし、その前途に突如として影を落としたのが、妹・軽大娘皇女との近親関係です。これは『日本書紀』にも明記されたスキャンダルであり、王統の神聖性を保つべき皇太子の行動としては致命的なものでした。
兄妹婚がある種の政治的手段として用いられることもあった時代においても、この件は一線を越えたものと受け止められ、朝廷内は大きく動揺しました。倫理観の問題に加え、木梨軽皇子のこの行動が「私情を政治に持ち込む危うさ」を象徴していると受け取られたことも、群臣たちの支持を失う要因となったと考えられます。さらに、この問題を契機に、それまで抑えられていた反対勢力が一斉に動き出した可能性もあります。
やがて木梨軽皇子は太子の地位を剥奪され、伊予国へ流罪とされました。太子が失脚したことで、皇位継承の座は一気に不透明となり、朝廷内には権力の空白が生まれます。このとき、人々の視線はこれまで控えめだった第二皇子・安康へと移りました。そこには、清廉さと血統、そして兄のような危険な香りのなさが、次の王としての資質を感じさせたのでしょう。混乱の中でこそ、人々は穏やかさと静けさに未来を託したのです。
豪族たちの支持を得た安康天皇の擁立
木梨軽皇子の失脚後、朝廷内で次の王を巡る動きは急速に進みます。ここで主導権を握ったのは、大和政権の中核を担う豪族たちでした。彼らはただ王族の血筋を見るのではなく、王を通じて自らの地位や勢力を保持・拡大できるかを常に計算していました。安康皇子は、目立った政治的発言や軍事的実績こそなかったものの、允恭天皇と忍坂大中姫という強固な血統に加え、物腰柔らかく温和な印象を持っていたとされ、政治的安定を志す豪族たちにとって魅力的な選択肢となっていきます。
特に、物部氏や葛城氏といった有力豪族の系譜を引く人物たちが安康支持に傾いていったことで、その動きは確実なものになりました。たとえば物部大前宿禰や葛城襲津彦の孫・玉田宿禰といった人物がその後の政務に関与していることからも、政略的な協力体制が早くから築かれていた可能性が見て取れます。彼らにとって必要なのは「語らずして導ける王」、すなわち自らの思惑を遮らずに政権を運営できる存在でした。
安康天皇の擁立は、まさにそうした期待に応えるものでした。政治の実力者たちにとって彼は“器”であり、“象徴”でありながらも、決して軽んじられることのない芯を持っていた。王位は争って得るものではなく、望まれて託されるものである。その空気を察した安康は、表に出ず、しかし着実に支持を積み重ね、ついに即位への道を開いていきます。力で奪うのではなく、静かに集まった信任が、王座への扉を押し開いたのです。
揺れる皇位継承と政権中枢の不安定さ
安康天皇の即位は、木梨軽皇子の失脚を受けての“次善の選択”としてなされたものでしたが、その後の政権基盤が盤石だったわけではありません。政敵が直接的に排除されたわけではなく、また朝廷内の多くの勢力は、王に忠誠を誓うというよりも、それぞれの利害に基づいて協力しているに過ぎなかったためです。とりわけ、大草香皇子とその子・眉輪王の存在は、後に大きな火種となります。豪族たちもまた、長期的な忠誠というよりは、即時的な安定と利益を求めて動いていました。
また、安康天皇自身がどのような意志で政を行おうとしていたのか、具体的な政策や行動については記録が少なく、むしろ群臣たちによる共同統治的な空気が支配していたとも考えられます。これは、ひとつの「王を中心とした合議体制」が機能していた証でもありますが、裏を返せば、王の権威が決定的でなかったことも意味します。こうした中で、次第に政権中枢には小さな亀裂が入り始めるのです。
それでも安康天皇が即位できた背景には、「誰が最もふさわしいか」ではなく、「誰なら政局を崩さずに済むか」という現実的な判断がありました。政治とはときに理想ではなく妥協で動くもの。そのことを示した皇位継承劇は、古代の王権をただ血で継ぐだけではなく、時代の空気と勢力の均衡によって選ばれるものであることを、静かに物語っていたのです。
安康天皇の即位と石上穴穂宮
石上穴穂宮の立地と軍事的・宗教的背景
安康天皇が即位後の王宮としたのが、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)でした。伝承地としては現在の奈良県天理市田町・田部、あるいは橿原市石原田町が候補とされ、いずれも石上神宮の至近に位置します。石上神宮は物部氏の祖神を祀り、神武天皇の伝承に関わる布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を奉納するなど、古代日本の軍事信仰と深く結びついた聖域でした。こうした地に宮を構えた選択は、単に地形の利便性ではなく、王権の背後に神威と武力の正統性を重ねる意図があったと解釈されます。
物部氏の勢力圏にありながら、その地を王宮としたことは、物部大前宿禰のような有力氏族と王権との連携を象徴するものでもあります。彼は安康天皇擁立の過程に関与した人物として『日本書紀』にも登場し、王権と豪族の共同体制の要石として機能しました。王宮の立地は政治的な決定であると同時に、神と武を背に持つ新しい統治様式の体現でもあったのです。
宮の構造と王権の象徴性
「穴穂」の名には、明確な語義は伝えられていませんが、「穴」は隠れた聖地、「穂」は実りや繁栄を象徴するという解釈がなされることがあります。実際、石上神宮周辺は丘陵地帯に囲まれ、地形としても防御的な特徴を備えており、天然の要害として選ばれた可能性は否定できません。さらに、神域と王宮が至近にあるという点は、王権の神聖性を日常的に可視化する設計であったとも考えられます。
王がただ政を司るだけでなく、神の隣に在るという構造は、古代日本において極めて重みを持ちます。宮がどのような建築様式であったかは記録に残されていませんが、石上という地名に付随する信仰と物語性によって、その空間には「王が座すこと自体が権威の発露となる」静かな力が満ちていたと捉えることができます。こうした空間は、威圧ではなく存在感で支配する王権のあり方を象徴していたのです。
朝廷儀礼と政務の重なり
石上穴穂宮では、政務と祭祀が密接に結びついていたと考えられます。物部大前宿禰や葛城氏の系譜を引く玉田宿禰といった群臣が政治運営に関与しており、政の場と神への奉仕の場が日々交差していたことがうかがえます。朝廷における儀礼も、単なる形式ではなく、王と臣下との秩序を示す重要な儀式として機能していました。特に拝礼の儀、供物の奉納、使節の受け入れなどは、石上神宮と宮の近接性を活かし、神前における政治を演出する要素となっていたと推測されます。
政務の実態について詳細な政策記録は残されていませんが、木梨軽皇子の廃太子に際して群臣が協議している場面が記録されていることから、安康政権下でも合議的な政治運営が行われていた可能性は高いとされています。王が一方的に命令を下すのではなく、群臣との合議を通して統治を図る。その姿勢は、王自身が語らずとも、自らの場と行動で政治の意思を表すという、当時の王権の一つの形を示しています。
石上穴穂宮は、武と神、秩序と空間が交差する場所でした。そこには言葉ではなく、存在そのものが語る政治がありました。静かでありながら揺るがない、そうした王権のあり方が、この宮に刻まれていたのです。
安康天皇と王族の悲劇:大草香皇子事件から皇后擁立まで
根使主の虚言と大草香皇子の粛清
安康天皇の即位から間もない時期、朝廷内の空気を一変させる事件が起こりました。それは、仁徳天皇の皇子であり、安康天皇の叔父にあたる大草香皇子の粛清です。大草香皇子は日向髪長媛を母に持ち、その血統の正統性と穏やかな人柄から、王統内でも信望を集める存在でした。安康天皇にとっても、信頼すべき王族の一人と見なされていたはずでしたが、その関係が突如として崩れ去ります。
事の発端は、坂本臣の祖である根使主の報告でした。彼は、大草香皇子が安康天皇からの縁談を断ったと虚偽の報告を行い、あろうことかその結納品である押木珠縵を自らのものとしてしまいました。この行為は単なる盗用ではなく、皇命を拒否したという政治的非礼として重く捉えられました。根使主の進言を信じた安康天皇は、大草香皇子のもとへ兵を派遣し、最終的にこれを討伐させる決断を下します。
この粛清は、王族内の信頼を大きく損なう転機となりました。安康天皇が事実の確認を経ずに行動した背景には、王権の維持を最優先せざるを得ない状況と、豪族たちの力学が交錯する政権の不安定さがあったと考えられます。沈黙の中に潜む政治的選択は、ときに最も鋭い刃となって王族を断ち切る。そのことをまざまざと示した事件でした。
中蒂姫を皇后とした政略と再編
大草香皇子の死から間もなく、安康天皇はその未亡人である中蒂姫(長田大娘皇女)を皇后として迎え入れました。この決断は、情よりも戦略が優先された政治的選択と見る向きがあります。中蒂姫は仁徳天皇の孫にあたり、皇統に連なる高貴な血筋を有していました。安康天皇にとっては、彼女との婚姻を通じて大草香皇子の血統を王政の中に取り込み、内部対立を封じる狙いがあったと推察されます。
皇后擁立という公的な選択には、王族内の秩序回復という意図だけでなく、粛清された一門の遺志を断ち切らずに包摂するという、緻密な力の均衡感覚が働いていたと考えられます。中蒂姫にとっても、かつての夫を討った天皇のもとに身を寄せることは、心の葛藤を伴う決断だったことでしょう。しかし同時に、彼女自身が皇后としての役割を引き受けることによって、眉輪王の将来を守るための道を開こうとしていたとも言えます。
政略結婚としての側面を持ちながらも、この婚姻が王政に果たした影響は小さくありませんでした。王と皇后の結びつきは、過去の悲劇の火種を鎮め、未来へのつながりを紡ぐ装置として機能したのです。安康天皇の宮廷には、静かに折り重なる和解と緊張の層が存在し、そこに中蒂姫の佇まいが、ひとつの均衡点を与えていました。
育てられる眉輪王と揺れる王権の輪郭
中蒂姫が安康天皇の皇后となったことで、彼女の子・眉輪王もまた宮廷に迎え入れられました。眉輪王は大草香皇子の遺児であり、仁徳天皇の孫という高い血統を持つ人物です。安康天皇はこの王子を後宮で育て、自らの庇護下に置きました。この育成には、母である中蒂姫の要望だけでなく、王族としての未来を見据えた判断が込められていたと見ることができます。
眉輪王の存在は、王政にとって新たな可能性と不安の両面を帯びていました。安康天皇が正式な後継者を指名する前段階において、眉輪王が将来を担う王子のひとりとして期待されていた可能性も否定できません。しかし同時に、彼の血統が大草香皇子に由来するという事実は、王宮に不穏な緊張を生む素地にもなっていました。
王族の中で育つ眉輪王にとって、父を討った天皇のもとで過ごす日々は、ただの庇護ではなかったはずです。沈黙の中に育まれた記憶、母の背中に宿る悲しみ、そして王宮という場が内包する複雑な力学。それら全てが、眉輪王の成長に静かに影を落としていたに違いありません。育成という行為は、未来を育む一方で、過去の火種をも内包する。その二重性が、この時代の王政の輪郭を、より一層ぼやけさせる結果となったのです。
安康天皇の対外政策と「倭の五王」
「倭の五王」の一人とされる安康天皇の比定
5世紀の東アジアにおいて、「倭の五王」と呼ばれる五人の王が中国南朝・宋に朝貢し、爵位を得たという記録が『宋書』倭国伝に記されています。そこには「讃・珍・済・興・武」と順に名が登場し、それぞれが中国王朝から倭国王としての承認を受け、東アジアにおける国際秩序の中に自身の存在を位置づけようとしたことが記されています。
このうち、「興」という王が、安康天皇に比定されるのが現在の通説です。「興」は462年に宋に使者を送り、安東将軍・倭国王に任じられました。安康天皇の在位期間(453~456年頃)とは若干のずれがあるものの、記紀との整合性を見たとき、「興=安康天皇」とする説がもっとも広く受け入れられています。即位から数年の短い期間であっても、対外政策においては活発な動きを見せていたことがうかがえます。
安康天皇が「興」として朝貢した背景には、王権の対外的正統性を得る意図があったと考えられます。これは国内における王権基盤の補強という内政的意図と、他国との均衡を意識した外交的戦略の両面を持っていたと見ることができます。
『宋書』が伝える倭国の外交戦略
『宋書』倭国伝によると、倭王「興」は安東将軍・倭国王の称号を求めて宋に使節を送り、その要請は受理されました。これは、単なる形式的な外交ではなく、国際秩序のなかで「位」を持つことで、王としての正統性を外から裏付ける行為でした。当時の中国では、官爵を授与することで朝貢国の地位を調整しており、倭の王たちはこれを巧みに利用して王権の権威づけを行っていたのです。
安康天皇(=興)による外交もまた、この流れの中にありました。内政の安定を築く過程で、東アジアの秩序における「承認」を得ることは、王政の基礎を確かなものにするために重要でした。また、朝貢に付随して送られた使節団には、文物や技術の交流があったと考えられており、王権の文化的側面にも影響を与えていたと考えられます。
なお、「安東大将軍」の称号を受けたのは後代の倭王「武」、すなわち雄略天皇に該当する王であり、安康天皇の外交においては「安東将軍」にとどまります。それでもこれは、中国王朝から見た「東方秩序」のなかで、倭が一国として認知されていた確かな証左でした。
倭国の国際的立場と東アジアの情勢
安康天皇が在位していた時代、東アジアは南北朝の中国と、三国分立状態の朝鮮半島によって構成されていました。倭国はその中で、しばしば百済・新羅・高句麗といった国家と複雑な関係を結びました。『広開土王碑』や『日本書紀』には、5世紀の倭が新羅への介入を繰り返したことが記されており、軍事・外交の両面で半島に影響力を及ぼしていたことが示唆されています。
ただし、安康天皇自身の時代における具体的な半島政策の記録は乏しく、百済との明確な同盟関係や新羅への攻撃については、雄略天皇以降の記録とされるものが多くを占めています。それでも安康の外交活動が、後の倭王「武」へとつながる流れの一環にあったとするならば、その足跡は東アジアの歴史に確かに刻まれていたといえるでしょう。
こうした国際的な振る舞いの中で、倭国はただの周縁の島国ではなく、諸外国と対等な関係を築こうとする存在として自らを位置づけていました。安康天皇の短い治世における宋への朝貢は、その意志の現れであり、時代の潮流に自ら身を投じた倭王の静かな証言でもあります。
安康天皇の最期と眉輪王による暗殺
石上穴穂宮で起きた王殺しの一部始終
安康天皇の生涯は、王としての穏やかな治世とは裏腹に、突如として訪れた暗殺によって幕を閉じます。その舞台となったのは、奈良県天理市にあった石上穴穂宮。事件が発生したのは夜ではなく、昼間の神事の最中、天皇が潔斎のために昼寝をしていたときのことでした。静寂と儀式の緊張が交錯する中、その均衡は一人の王子の行動によって破られました。
加害者は、かつて粛清された大草香皇子の遺児・眉輪王。わずか7歳の少年が、自らの手で安康天皇を刺殺したのです。この行動は、事前に練られた計画というよりは、長く抑え込まれていた怒りと悲しみが突発的に噴き出したものであったと考えられます。王が神事のために穢れを祓う時、宮廷の奥に潜む感情は、何よりも深い穢れとしてその場を覆ったのです。
この王殺しは、王権の神聖性を土台から揺るがす一撃であり、ただの事件ではなく国家構造を震撼させる転換点となりました。
眉輪王の動機と中蒂姫の関与の是非
眉輪王がまだ幼くして王を刺した背景には、父を安康天皇に誅殺されたという事実があります。中蒂姫と共に宮中で育てられるという境遇は、表向きには庇護の形をとっていましたが、王子の心には復讐の念が根深く残っていたとされます。王宮という日常のなかで、静かに蓄積されたその思いが、ついにある瞬間に臨界を超えた――それがこの悲劇の核心です。
一方、眉輪王の母である中蒂姫の関与については、史料にはその痕跡がなく、また事件後に処罰を受けた記録もありません。このことから、彼女が計画に関与していたとは考えにくく、むしろ事件の直前まで、自らの子が王に手をかけるとは想像していなかった可能性の方が高いでしょう。
安康天皇を皇后として支え、眉輪王を王子として育ててきた中蒂姫にとって、この事件は愛情と忠誠の両軸を引き裂かれるような出来事であり、その衝撃は深く、重いものであったはずです。
王の死がもたらした政治的空白とその後
この暗殺事件により、王位は突如として空席となり、朝廷は動揺に包まれます。安康天皇には明確な後継者がいなかったため、政権中枢は一時的に麻痺状態に陥りました。豪族間では警戒と不信が交錯し、次なる権力の行方をめぐる水面下の駆け引きが活発化します。
この混乱を鎮めたのが、安康天皇の弟であり、大泊瀬幼武尊――後の雄略天皇です。彼は事件直後から行動を開始し、眉輪王をはじめとする複数の皇族を排除。力によって政敵を封じ、王権の再構築を進めていきました。安康天皇の死が引き金となり、皇族の間には粛清の嵐が吹き荒れ、雄略政権は中央集権的な性格を強めていくことになります。
石上穴穂宮で起こったこの王殺しは、単なる悲劇にとどまらず、日本古代政治における王権の脆弱性と、再生のための強制的手段の象徴となりました。王は殺され、王政は再編され、歴史は静かに次のページをめくったのです。
安康天皇の死後と歴史的評価
わずかな在位期間とその政治的総括
安康天皇の在位期間は、允恭天皇42年12月14日(西暦453年頃)から安康天皇3年8月9日(456年)までの約3年とされています。この短い治世の中で、王政の安定を模索する動きと、王族間の深刻な対立の両方が交錯していました。特に、大草香皇子の粛清やその遺児・眉輪王の養育、中蒂姫の皇后擁立など、王族の内部構造が政権運営に密接に結びついていたことが『日本書紀』からも読み取れます。
外交面では、「倭王興」として中国南朝・宋に遣使し、安東将軍・倭国王の称号を授けられたとする記録が『宋書』に残されています。この外交活動が継続的であったかは不明ですが、国際的な秩序のなかで倭国が一定の存在感を持っていたことは事実です。
安康天皇の政治が穏健であったとする見方もありますが、実際には王族間の粛清と暗殺という激しい事件を含んでおり、「調和と沈黙」という評価は一面的な見方に過ぎないかもしれません。ただし、安康政権が一定の豪族支持を得ながら運営されていたことは、彼の即位経緯や政務に関与した人物の顔ぶれから推察されます。
雄略天皇へのスムーズな権力移行はなぜ可能だったのか
安康天皇が暗殺されたのち、朝廷は一時的な混乱に見舞われたものの、比較的短期間で弟・大泊瀬幼武尊(雄略天皇)への権力移行が実現しました。この移行が大規模な争乱を伴わずに進んだ背景には、豪族層を含む一定の合意形成がすでに安康政権下で成立していた可能性が指摘されます。
とはいえ、これは制度的な王位継承システムが存在していたことを意味するものではありません。むしろ、安康天皇の治世における合議的な要素や、複数勢力間のバランスの上に成り立っていた政権運営が、政権移行時の混乱を限定的に抑える効果をもたらしたと見るのが妥当です。
その後、雄略天皇は王族や政敵の排除を断行し、集権的な統治体制を築いていきます。こうした強権化は、安康朝で表面化した内部不安定を逆照射する結果とも言えるでしょう。
記紀と中国史書における評価の違いとその背景
『日本書紀』や『古事記』における安康天皇の描写は非常に簡潔であり、王政の詳細な実績よりも、王族内の事件――特に暗殺の悲劇に焦点が置かれています。政策や制度に関する記述は乏しく、治世の全体像を掴むことは難しいとされています。
一方、『宋書』倭国伝では、「倭王興」として遣使が記録され、中国王朝からの公式な認知を受けたことが確認されています。ここには、記紀が内向きの正統性の語りを志向しているのに対し、中国史書が国際秩序の記録として倭を捉えていたという編纂方針の違いが表れています。
つまり、安康天皇という存在は、国内史のなかでは事件の被害者として記録される一方で、外交史のなかでは静かに国際関係を築いた王として現れます。その評価は記録の形式によって分かれつつも、確かに5世紀の歴史の中で、王としての痕跡を刻み込んでいるのです。
語られざる王の影と響き
安康天皇は、わずか3年という短い在位期間の中で、王族間の軋轢と外交関係の双方に翻弄された存在でした。父・允恭天皇の穏健な統治を継ぎながら、粛清と擁立、そして眉輪王の養育といった人間関係の絡まりの中に在り続けました。神事の最中に暗殺されるという劇的な最期は、王権の不安定さと信頼の崩壊を象徴する事件でもありました。しかし一方で、『宋書』に倭王「興」として記された外交記録は、安康天皇が国際的な承認を得ていた王であったことを示しています。記紀の静かな描写と中国史書の公的記録、その両面のあいだに揺れる安康の姿は、語られすぎることなく、それでいて確かに時代の中に刻まれています。
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