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阿倍仲麻呂の生涯:科挙に合格し、唐の朝廷で輝いた異国の秀才

こんにちは!今回は、奈良時代の遣唐留学生で唐の高官にまで登りつめた伝説の才人、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)についてです。

日本人として史上初めて中国・唐の官僚登用試験「科挙」に合格(または推挙)し、玄宗皇帝の側近として華やかな宮廷に仕えた彼は、東アジアを股にかけた“国際人”の先駆けでした。帰国の夢叶わぬまま異国に没したその生涯には、望郷の和歌と壮大なロマンが息づいています。

そんな仲麻呂の数奇な運命と活躍を、たっぷりとご紹介します!

目次

阿倍仲麻呂の生い立ちと名門阿倍氏の背景

名門・阿倍氏に生まれた才子

阿倍仲麻呂は、7世紀末から8世紀初頭にかけての日本に生まれた才人であり、名門・阿倍氏の一員としてその人生をスタートさせました。阿倍氏は大和時代から続く歴史を持ち、天皇家との関わりも深く、律令制が整備される中で要職に多くの一族を送り込んできた由緒ある氏族です。このような背景から、仲麻呂には生まれながらにして国家的な使命と国際的な視野が求められていました。彼は早くから書や儒学に親しみ、詩文の才能を示したと伝えられています。家庭内には学問を尊ぶ風があり、自然と高い教養と倫理観を身につけることができたのです。

律令国家の黎明期と仲麻呂の幼年時代

仲麻呂の幼少期は、日本が律令国家としての体制を整備しようとしていた変革の時代と重なります。大宝律令の制定や中央集権的な政治制度の導入により、知識人の育成が急務となっていた中、仲麻呂は国家が必要とする「新しい知」を担う若者として育成されました。幼いころから宮廷に出入りする機会を持ち、実際の政治や外交の空気を感じながら成長したことは、後の彼の広範な視野に直結していきます。また、儒教経典や中国の歴史書に親しむ日々は、後に唐の科挙を受ける基礎素養となりました。形式だけではない、実質的な国家像を体感として理解していた点で、彼は同世代の中でも一歩抜きん出た存在だったといえるでしょう。

吉備真備・玄昉との若き日の交流

仲麻呂の人格と学問が大きく飛躍した背景には、吉備真備と玄昉という二人の存在が欠かせません。彼らは仲麻呂と同世代であり、いずれも優秀な学徒として知られていました。三人は共に若い頃、同じ学び舎に身を置き、互いの才能を刺激し合いながら切磋琢磨する関係にありました。吉備真備は暦法や数学に明るく、玄昉は仏教哲学に通じており、それぞれが異なる分野において深い造詣を持っていました。仲麻呂は彼らとの議論や詩文の応酬を通して、単なる書物の知識以上に、思想を咀嚼し、自らの言葉で表現する力を育てていきました。この若き日の交わりが、やがて長安での再会に結実し、彼らの友情は異国の地で新たな意味を持つことになります。

阿倍仲麻呂が遣唐使として旅立つまで

遣唐使に選ばれた背景と資質

奈良時代初期、日本は唐の制度や文化を取り入れるべく、国家規模での人的交流に力を入れていました。その中心的な役割を果たしていたのが、外交使節である遣唐使と、それに随行する留学生です。阿倍仲麻呂が留学生に選ばれたのは、まさにこの国家的方針のなかで、将来の知識人として高く評価されていたからに他なりません。学問への熱意と能力、そして若くして身につけた教養が、選抜の決め手となったと考えられます。

阿倍氏の一員としての背景も大きな意味を持ちました。有力氏族に生まれ、幼少期から経典や詩文に親しむ環境にあった仲麻呂は、早くから儒教の思想に通じ、論理的思考や語学能力を磨いていました。当時の選抜基準には、学力だけでなく、礼儀作法や国際的な対応力も含まれており、仲麻呂はそのすべてにおいて優れた素養を持っていたと推測されます。遣唐使への参加は、単なる学問の旅ではなく、異文化と向き合い、将来的には国家の制度づくりに資するという、重い使命を背負った旅立ちでもありました。

留学生として船出する若者たち

718年、仲麻呂は第9次遣唐使の一行として、同じく優秀な学僧・玄昉、そして学才に富んだ吉備真備らと共に唐へと旅立ちました。当時の航海は極めて過酷であり、船は九州から出帆し、暴風や漂流の危険と常に隣り合わせでした。遣唐使船の乗員たちは、異国の地に到達できる保証のない不安を抱えながらも、それぞれの志を胸に船出していきました。

仲麻呂たちの船旅に関する詳細な記録は多く残されていませんが、文献や当時の他の遣唐使の例をもとにすれば、彼らが航海中も語学の習得や経典の読解、国制に関する議論を重ねていた可能性は高いとされます。また、仲麻呂にとってこの旅は、単に知識を得るためだけでなく、自身の立場や価値観を根本から問い直すような転機であったことは想像に難くありません。大海原を越えて未知の世界に向かう過程で、青年たちは国家を超えた広がりの中に自らの可能性を見出していったのです。

長安に触れて:入唐直後の生活

長安に到着した仲麻呂たちを迎えたのは、華やかで壮大な文明の光景でした。世界中から商人、官吏、学者が集まる国際都市・長安は、律令国家として成長しつつあった日本にとって、まさに文化と制度の理想形を体現する場所でした。そこで仲麻呂は、太学に入って本格的な学問に取り組むことになります。儒教の経典、歴史、礼法など幅広い知識が求められる中、彼は着実にその地位を築いていきました。

言葉の壁を越え、唐の人々と自然に交流できるようになるには、語学力とともに文化への深い理解が必要でした。仲麻呂はそれを詩や議論を通じて習得していきます。彼の書いた詩文が人々の目にとまり、やがて文人たちとの交流へと発展していったのは、この頃から始まったと考えられます。唐の礼楽と制度、思想にじかに触れることで、仲麻呂の知識はもはや「日本人としての模倣」ではなく、「唐という世界の一部としての習熟」へと質を変えていったのです。

阿倍仲麻呂の学問的成功と政界での活躍

太学での卓越した学問への姿勢

阿倍仲麻呂は、唐の国家最高学府・太学において、徹底した儒教教育を受けました。太学では「五経(詩経・書経・礼記・易経・春秋)」を中心とする経典の暗唱・解釈が重視され、将来の官僚に必要な素養として法律や礼法、文章作法なども併せて学ばれました。仲麻呂はこの環境の中で、学才を発揮し、唐の学生たちと肩を並べて学問を深めていきます。

異郷の地で語学や思想に取り組むには、並外れた努力と適応力が必要でした。仲麻呂は日本の律令国家と唐の制度を比較しながら、儒教の核心にある「仁」の精神を実践的に捉える視点を培っていったと考えられます。彼の学びは、単に知識の蓄積にとどまらず、多民族が共存する唐の社会構造を内側から理解する契機ともなりました。この時期に養われた知性と視野が、やがて政界での活躍を支える柱となっていきます。

異邦人が挑んだ科挙という試練

阿倍仲麻呂が唐の官僚に登用された背景には、極めて厳格な選抜制度・科挙への挑戦がありました。科挙は、経典の解釈、政策論、詩文の創作能力を試す中国随一の難関試験であり、合格率は1%未満とも言われています。外国人には言語や文化の障壁が加わるため、その困難さは計り知れません。

仲麻呂はこの科挙に合格したとされ、これは日本人として初の快挙でした(学術的には「推挙による登用」の説もありますが、合格説が通説となっています)。詩賦や論策を通じて、彼は単なる語学力だけでなく、唐の政治・文化に対する深い理解と独自の視点を示しました。その才能は試験官や官界の注目を集め、日本から来た留学生が中国の中枢に参画するという前例を築くことになります。

この成功は、日本にとっても大きな意味を持ちました。律令国家形成の参考とすべく唐に学ぶ中、仲麻呂の存在は「唐の制度を知る者」として、将来の帰国と政策参画が期待される重要な橋渡し役でもあったのです。

玄宗皇帝との信頼と政治的昇進

仲麻呂が唐の政界で異例の出世を遂げた背景には、詩才と学識を通じて築かれた玄宗皇帝との信頼関係がありました。玄宗は詩文に深い関心を持つ文化的皇帝として知られ、仲麻呂の詩はその感性に響くものでした。『全唐詩』に収録された仲麻呂の詩は、その文才が広く評価されていたことを示す証といえます。

731年、仲麻呂は「左補闕(さほけつ)」に任命されました。この職は、皇帝に対し率直に諫言することが求められる上奏官で、従七品上という格式ながらも朝廷内で重視される役職でした。その後、彼は752年に「秘書監」に昇進します。秘書監は文書や記録を扱う機関の長官であり、皇帝の機密を管理する高度な信任を必要とする地位です。従三品という高位は、外国出身者には極めて異例でした。

仲麻呂の昇進は、単なる人事ではなく、彼が唐の制度と文化を内在化し、実務と倫理の両面で真に信頼される存在であったことを物語ります。国境を越えて実力を認められたその姿は、まさに知と人格の融合がもたらす結実でした。

阿倍仲麻呂と唐の詩人たちとの文化的交流

文人たちと過ごす文化サロンの日々

阿倍仲麻呂の人生のもう一つの核心は、唐の詩人たちとの豊かな文化的交流にあります。政務に携わる傍ら、彼は文人・詩人たちの集う文宴に参加し、詩作や討論に加わっていました。当時、詩は単なる表現手段ではなく、知識人たちが教養と品格を競い合う「精神の舞台」でもありました。こうした場で仲麻呂は、日本から来た「外国人官僚」ではなく、「詩を解し詩を成す対等の仲間」として受け入れられていったのです。

文人たちが集まるのは、宮中の宴席に限らず、郊外の風雅な庭園や寺院の一角など、多様な空間でした。そこでは時事への思索を詩に託し、歴史や自然を題材にしながら、政治や哲学の思想を交差させていました。仲麻呂が身を置いたのは、そうした“言葉の交錯”を楽しむ知の場。彼は詩文の中に日本的な風景や感性を織り込み、異文化間の視点が詩に新たな深みを与える存在として、重んじられていきました。

李白・王維・杜甫との詩的交遊録

特に仲麻呂と深い関わりを持った詩人として知られるのが、李白・王維、そして間接的な関係が記録に残る杜甫です。李白とは宴席での詩の唱和や即興詩作を通じて親交を結び、彼の奔放な詩風に共鳴しながらも、日本的な感性をぶつけ合う刺激的な交流を重ねていました。王維とは、詩と書と画を融合させた“静”の美学を共有し、自然と内省のテーマを深く語り合う関係にあったとされます。

杜甫に関しては直接の交遊は定かではありませんが、仲麻呂の名は彼の詩にも登場し、当時すでに詩壇において一目置かれる存在であったことがうかがえます。また、儲光羲や包佶といった詩人たちとも交流があり、これらの関係を通じて仲麻呂の詩が『全唐詩』に収録されるに至ったのです。

彼の詩は、中国の詩的伝統に沿いながらも、日本人としての視座から世界を詠む独自のもの。その異質さこそが、唐の詩壇において新たな刺激となり、詩人たちとの対話に厚みをもたらしていたのです。

儒と詩を結ぶ国際的ネットワーク

唐代において、詩は単なる文学ではなく、儒教思想や官僚倫理と深く結びついた存在でした。政治の理想、自然への礼賛、友情の表現――それらすべてが詩という形式で語られ、書簡や議論と並ぶ知の言語となっていました。仲麻呂はその世界に外国人として入り込み、やがて「唐の中の知識人」として認められていきます。

彼の詩は、『儀礼』や『礼記』といった儒教典籍の語彙を織り込みつつも、異国の風を感じさせる言葉遣いが特徴であり、それが唐の文人たちに新鮮な印象を与えました。詩は言語の違いを超えた「心の共通言語」として機能し、仲麻呂を媒介として、唐と倭(日本)の文化的対話が静かに交わされていたのです。

このような詩的ネットワークは、単なる個人の趣味にとどまらず、儒と詩を通じた思想の国際交流そのものでした。仲麻呂の存在は、国境や言語の違いを超えて、人が言葉でつながる可能性を体現した、唐詩の歴史における重要な交点だったのです。

帰国を夢見た阿倍仲麻呂とその挫折

帰国命令と50代での準備

752年(天平勝宝4年)、第12次遣唐使として藤原清河らが長安に到着した際、阿倍仲麻呂は唐からの正式な帰国許可を得ました。このとき仲麻呂は50代半ばを迎えており、日本の朝廷にとっても、唐の制度と実務を熟知する人材としての帰国が強く期待されていました。留学生として唐に渡ってからすでに三十数年。その帰還は、まさに国家の未来に直結するものと捉えられていたのです。

帰国の準備を進めるなかで、仲麻呂は長年を過ごした唐の地と別れを告げるべく、詩人たちと惜別の場を設けました。とりわけ王維は、仲麻呂に向けた送別詩を残しており、二人の文学的な友情が深いものであったことを物語ります。仲麻呂自身も、これまでの年月を振り返り、異国で築いた人間関係、政治的責務、そして文化的充実を心に刻みながら、再び東の海を渡る決意を固めていたことでしょう。

遭難という悲劇とその背景事情

しかし運命は、仲麻呂に厳しい試練を課します。彼が乗船した遣唐使第1船は、福建の港から出帆後まもなく暴風に見舞われ、進路を大きく外れて南方へ漂流しました。船は南シナ海をさまよった末、安南(現在のベトナム北部、現地ではハティン省やゲアン省周辺とされる)に漂着します。この海難によって、仲麻呂の帰国は叶わぬ夢となったのです。

その後、仲麻呂は現地で唐の官吏に保護され、数年の滞在を経て755年には再び長安へ戻りました。この遭難体験は、彼の精神に深い影響を与えたと考えられます。異国で生涯を終えることへの覚悟、そして故郷への思慕――それらの思いが、彼の後年の詩にしばしば表出するようになります。「東の空を仰ぐ」その言葉は、ただの郷愁ではなく、一度は手が届きかけた日本という理想への、静かな対話でもあったのです。

再任の現実と断念せざるをえなかった帰国

漂着から3年後、仲麻呂が長安へ戻った時、唐はすでに安禄山の乱という大動乱の渦中にありました。こうした情勢の中で、彼は760年頃、安南都護(当初は鎮南都護)に任命され、南方辺境の統治を任されることになります。安南都護府は、現在のベトナム・ハノイ(タンロン遺跡)に設置されており、当時の唐においても重要な拠点でした。

仲麻呂はこの地でおよそ6年間、治安維持や行政指導を担い、唐の官僚として重責を全うしました。外国人でありながら従三品にまで昇進した彼の経歴は、唐でも極めて異例であり、晩年に至るまでその存在は尊重されていたといえます。日本への帰国は、もはや叶わぬ夢となったとはいえ、唐に生き、唐のために尽くすという生き方の中に、仲麻呂は新たな「使命の帰着点」を見出していたのかもしれません。

770年、阿倍仲麻呂は唐の首都・長安で没します。異国の土でその生涯を終えた彼は、しかしその詩と行跡を通じて、日中の時空を越えた対話を後世に残しました。帰れなかったという事実が、かえって彼の生を濃密に刻み、永く語り継がれる理由のひとつとなったのです。

阿倍仲麻呂の晩年と安南都護としての務め

安南都護として赴いた南方任地

760年ごろ、阿倍仲麻呂は唐の安南都護に任命され、現在のベトナム北部へと赴任しました。安南都護とは、唐王朝が南方辺境を統治するために設置した軍政機関の長であり、特に治安維持・反乱抑止・税制監督・現地首長との外交など、多岐にわたる任務を担う重要職でした。都護府は、近年の発掘調査から、現在のハノイにあたるタンロン遺跡に存在していたことが確認されています。

当時、唐は安禄山の乱の影響により政情が不安定で、中央政府の統制が地方にまで及びにくくなっていました。そうした中で、安南という遠隔地の秩序を保つには、現地事情に通じた信頼ある人材が不可欠だったのです。唐王朝が仲麻呂に白羽の矢を立てた背景には、彼の忠誠心と行政手腕、そして異文化を理解しながら柔軟に対応できる人物であることへの評価があったと考えられます。

「唐人」としての生涯と働きぶり

仲麻呂はこの任地で、異民族との交渉、税務制度の再編、農地開発の指導など、唐の統治原理を地域に定着させるべく尽力しました。安南は唐にとって貴重な農産地であると同時に、インドシナ交易の拠点でもあり、外交・経済・軍事が交錯する難しい地域でした。その統治は、単なる官僚ではなく、人間性と政治的洞察力の両方が求められる任務だったのです。

仲麻呂は、異民族と唐人との間に立ち、時には和解を促し、時には中央との調整役を果たすなど、その長年の経験を生かした柔軟な施政を行ったと見られます。外国出身でありながら従三品という高位に就いていることが、それを裏づけています。周囲からは「唐人」として受け入れられた一方で、彼自身の中には日本人としての根を深く残していたことでしょう。この二重性こそが、彼の統治に深みを与えたともいえます。

異国で迎えた73歳の終焉とその後

770年、阿倍仲麻呂は唐の都・長安にて73歳の生涯を閉じました。安南での任務を終えた後、再び中央に戻ったと考えられており、その死は唐の高官としての立場で迎えたものでした。帰国の夢は遂に叶うことはなかったものの、唐において最後まで重責を担い続けたその姿には、深い尊敬の念が寄せられています。

異郷に骨を埋めた彼の人生は、しばしば「帰れなかった日本人」として語られがちですが、むしろ仲麻呂自身は「唐に生き切った日本人」としての意識を持っていたのではないでしょうか。政治家として、学者として、そして詩人として、多くのものを唐に遺しながら、その精神は国を越えて今も日中の間に静かに息づいています。

仲麻呂が歩んだ道のりは、ただの外交使節としてではなく、一人の人間が異文化の中で自己を完成させていった過程でもありました。その終焉には、国家を超えて人と人がつながる希望と、失われなかった誇りが静かに宿っているのです。

阿倍仲麻呂の和歌と日中交流に残した足跡

百人一首に残る名歌「天の原」の背景

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」

この一首は、阿倍仲麻呂の名を後世に知らしめた和歌であり、百人一首の中でも特に情感深い作品として知られています。中国・長安での生活の中、月を仰ぎ見た時に、故郷・奈良の三笠山にのぼる月と重ねて詠まれたとされるこの歌には、帰国叶わぬ宿命を受け入れながらも、日本を想う強い情念が込められています。

この歌が詠まれた正確な時期には諸説ありますが、一般には帰国を試みた後、再び唐に留まることとなった頃、つまり755年以降と見られています。異国に暮らしながらも、月という普遍的な自然を介して日本とのつながりを保とうとするその姿勢は、ただの郷愁ではなく、文化的想像力の高まりとも言えるでしょう。月の光が、地理も時代も越えて、彼の心と日本を結びつけていたのです。

日中で続く顕彰と史跡の保存

仲麻呂の足跡は、現代の日中双方で顕彰されています。奈良の春日大社近くには、彼の和歌を刻んだ石碑が立てられており、日本における「国際人・阿倍仲麻呂」としての評価が再認識される契機となっています。また、長安(現在の西安)では、彼の墓碑が整備され、日中友好の象徴としての役割を果たしています。

さらに、ベトナム・ハノイ郊外のタンロン遺跡では、仲麻呂が安南都護として滞在した時期の唐代遺構が発掘されており、現地でも歴史的に注目される存在です。こうした史跡は、単なる記念ではなく、「異国の地で職務を全うした日本人」としての姿を、目に見える形で現代に伝えています。各地の顕彰は、それぞれの地域の視点から彼の人生を見つめ直すことを促し、日中間の歴史的つながりを改めて確認する手がかりとなっています。

文化交流の象徴としての再評価

現代において、阿倍仲麻呂は「初の国際的知識人」として、日本と中国を結ぶ文化交流の象徴的存在として再評価されています。その詩と生涯は、外交官や留学生、研究者など、現代の国際人たちにとって一つの理想像として映ることでしょう。唐の制度に通じながら、和歌という日本独自の表現で自己を保ち続けた彼の姿には、「国を超えた知の体現者」としての真価がにじみ出ています。

近年では、仲麻呂の人生を通して、日中両国が過去の交流の積層をどのように理解し、未来へ生かしていくかが問われています。単なる過去の人物ではなく、「つなぐ人」としての存在。そのあり方は、国境を越えて共感と対話を生む可能性を秘めています。阿倍仲麻呂の名は、詩として、碑として、そして思想として、いまも静かに時代をまたいで語り継がれているのです。

阿倍仲麻呂を題材とした作品とその人物像

『阿倍仲麻呂』『崔知致と安倍仲麻呂』に見る史実へのまなざし

森公章の『阿倍仲麻呂』は、史料をもとにその生涯を丹念に辿りながら、唐という巨大帝国の中で異文化を受容し、なお自己を見失わずに生きた人物像を描いています。政治制度・外交環境・文化的背景の三層から仲麻呂の行動を解釈し、詩人や官僚としての彼を、当時の日本と中国の制度的接点の中で位置づけている点が特徴的です。

川本芳昭の『崔知致と安倍仲麻呂』は、阿倍仲麻呂と中国側官僚である崔知致の関連を通して、唐朝の官僚制や登用制度、特に科挙に関する新たな解釈を提示する学術的な論考です。特に、仲麻呂が科挙合格者ではなく推挙による登用であった可能性について論じられており、唐代制度史の観点からその特異な経歴に光を当てています。物語的描写よりも制度的分析に重きを置いた構成であり、人物の内面表現よりは史料の読み直しに主眼が置かれている点に学術的な慎重さが感じられます。

『天の月船』『ふりさけ見れば』に描かれる小説的再構成

粂田和夫の『天の月船―小説・阿倍仲麻呂伝』は、仲麻呂の数奇な人生を詩と友情、そして歴史の奔流の中で描き出す長編小説です。物語は、李白・王維といった詩人たちとの交流を情感豊かに再構成しながら、詩を媒介にして異文化を渡り歩く仲麻呂の内的な成長を追います。特に、異国で交わされる詩文のやりとりを通して、詩が国境を越える「共通言語」として描かれている点が印象的です。

一方、安部龍太郎『ふりさけ見れば』では、和歌「天の原」を物語の軸に据え、唐から故郷を想う仲麻呂の視線が、過去と現在、個人と国家、現実と幻想をつなぐテーマとして浮かび上がります。帰国を果たせぬまま唐に生きた男の孤独と気高さが、抑制された筆致で綴られており、現代人にも通じる「理想を抱きながら異郷に生きる者」の普遍性が強調されています。詩と歴史が交差するこの作品は、文学的再解釈の中でもひときわ静かな光を放っています。

『愛怨』『長安の月 寧楽の月』に映し出された現代的共感

舞台芸術においても阿倍仲麻呂の物語は新たな形で語られています。瀬戸内寂聴原作・三木稔作曲のオペラ『愛怨』では、仲麻呂が唐で経験した友情・別離・官界での葛藤が、音楽と演劇を通してドラマティックに展開されます。言葉ではなく音で心情を伝えるという表現形式によって、異文化の中で生きる者の内的な震えが観客の胸に響きます。

また、松田鉄也『長安の月 寧楽の月―仲麻呂帰らず』は、舞台演出を通じて「帰らなかった」人生を肯定的に再解釈しています。長安と奈良、二つの月を象徴として用いながら、地理的距離を精神的な橋として描く構成は、観る者に時空を超えた共鳴を促します。文化の違いを乗り越えて「共に生きる」という価値が、舞台上で静かに提示されるその演出は、現代的な共感と連帯の可能性を強く示唆しています。

こうした作品群は、阿倍仲麻呂という人物を「歴史の証人」としてではなく、「異文化を翻訳する実践者」として描き直しています。語られ方の変化そのものが、彼の存在がいかに多層的で、いかに今の時代とも共鳴しうるかを物語っているのです。

異国に咲いた一輪の才

阿倍仲麻呂の生涯は、日本と唐という二つの文明のあいだで知と心を往来させ続けた、稀有な旅でした。名門の家に生まれ、志を抱いて海を渡り、異国で学び、官僚として登用され、詩人としても名を残したその姿は、単なる留学生や外交使節の枠を超えた「国際的知識人」の原像といえるでしょう。帰国を夢見ながら果たせず、それでも唐の地で自らの役割を誠実に全うし、異国に骨を埋めた彼の人生は、現代の我々にとっても大きな示唆を含んでいます。言葉と文化を通じて他者とつながる可能性、そしてそれを一生をかけて実践した人間の深み。その姿は、今も「天の原」の歌とともに、日中の空を静かに照らし続けています。

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