こんにちは!今回は、平安時代前期の第53代天皇、淳和天皇(じゅんなてんのう)についてです。
兄・嵯峨天皇から政権を引き継ぎ、律令体制の立て直しに尽力した淳和天皇は、政治・財政・文化の各分野において着実な改革を進めた実務派の天皇でした。勘解由使の再建、良吏の登用、勅旨田の設置による皇室財政の強化、そして『令義解』や『経国集』などの編纂事業により、平安文化の基礎を築きます。
譲位後も政界に影響を与え続け、最期には薄葬と散骨を遺言するなど、その生き方は時代の理想を体現するものでした。今回は目立つ存在ではなかったからこそ見落とされがちな、淳和天皇の生涯について紹介します。
淳和天皇の幼少期に育まれた温和な気質
桓武天皇と藤原旅子の間に誕生
淳和天皇(じゅんなてんのう)は、786年(延暦5年)、桓武天皇と藤原旅子(たびこ)の間に皇子として誕生しました。父・桓武天皇は、長岡京から平安京への遷都を決断し、中央集権の再建に尽力した帝王です。彼の治世はしばしば改革と統制の緊張に満ち、朝廷全体に引き締まった空気が漂っていました。一方、母の藤原旅子については記録が少ないものの、藤原氏の女性として宮中に仕えていたことから、当時の宮廷女性に求められた礼儀や教養を備えた人物であったと考えられます。
このような時代の変化と宮廷文化の重圧の中、淳和は皇子の一人として日々を過ごしていました。兄たちが早くから政治の中心に関わる一方で、彼は静かに宮廷の空気を吸い込み、内面を育む時間を過ごしていたとみられます。華やかな舞台の傍らで、自らの役割を見極めるような視線を持ち始めたのは、この時期からだったのかもしれません。
兄弟の中での立場と人柄の形成
淳和天皇には、平城天皇と嵯峨天皇という二人の異母兄がいました。いずれも桓武天皇の皇子で、早くから皇太子に立てられたり、即位を果たしたりと、帝位に近い存在でした。それに対して淳和は、兄たちに比べて後の順序で生まれたこともあり、当初から皇位継承の可能性は低い位置にありました。この立場は、宮廷という競争と選別の場において、自然と控えめなふるまいや冷静な視点を身につけさせたと考えられます。
兄たちが政治的な期待を背負って動く一方で、淳和はむしろその動きを見守る立場にありました。後に嵯峨天皇との間に厚い信頼関係が築かれることを思えば、彼のそうした姿勢は早くから周囲に理解され、評価されていた可能性もあります。権力を争うよりも、対話と調和を大切にする資質は、兄たちとの関係の中で自然と磨かれていったのでしょう。
幼少期に育まれた温厚な性格
記録に残る淳和天皇の治世や行動には、温和で落ち着いた性格がしばしば読み取れます。このような資質は、幼少期から既にその兆しがあったと考えられます。幼くして多くを語ることなく、しかし人の話にはよく耳を傾ける姿勢が、宮廷の人々に印象を残したのではないでしょうか。
宮廷では、学問・礼儀・芸術への素養が重んじられ、皇子たちは厳しい教えを受けて育ちました。そうした中でも、淳和は力で人を制するのではなく、品位と理解をもって周囲と接する態度を身につけていったようです。時に控えめに見えるその振る舞いが、逆に深い敬意を集めることもあったはずです。幼い頃から他者の心に寄り添い、声高に語らぬ中に自らを映す――そのような静かな感性が、後に皇位を託される信頼へとつながっていきました。
青年期の淳和天皇が築いた教養と人脈
若き日の学問と人脈
幼少期に静かな内面を育んだ淳和天皇(当時は大伴親王)は、青年期に入ると、その穏やかな資質を基盤にさらに教養を深めていきました。当時の皇子にとって、漢籍や儒教、和歌や礼儀作法などを学ぶことは不可欠であり、大伴親王も例外ではありませんでした。とりわけ漢詩や歴史に対する関心が強かったと考えられ、のちに文化政策に関心を持つ基礎はこの時期に培われたと言えます。
この頃、彼は宮廷内の文人たちとの交流を通じて、言葉の力や文学の奥行きを学び始めました。嵯峨天皇が愛した詩文の世界にも親しみ、知識や言葉を介して心を通わせる人々の輪が、少しずつ広がっていきます。藤原氏の一族や、後に重臣となる清原夏野らとの接点も、この青年期に芽生えたと見られます。特定の派閥に属することなく、誠実さと柔らかな態度で関係を築いていく姿勢が、彼を信頼できる人物として周囲に印象づけていきました。
元服と官職への登用
成人を迎えた大伴親王は、儀式に則って元服を行い、皇子としての正式な地位を与えられます。元服とは、少年が成人し、社会的に認められる第一歩を踏み出す儀式であり、当時の宮廷社会では重要な節目でした。この後、彼は順次、位階を進めながら官職にも登用されていきます。たとえば、式部卿(学問・文芸を司る官職)など、文事に関わる立場を経験したとされ、それが彼の文学的素養をさらに高める機会となりました。
このような任官は、彼の学識や人となりが評価されていた証でもあります。同時に、彼は出過ぎた野心を見せることなく、与えられた職務を着実にこなす姿勢を保っていました。そうした態度が、政治的駆け引きの多い宮廷内で、逆に目立つ美徳として評価されたのです。彼の行動は決して派手ではありませんが、その静かで確かな歩みが、やがて大きな信頼を得る布石となっていきます。
兄・嵯峨天皇との親交の芽生え
青年期の大伴親王にとって、もう一つの重要な出来事は、兄・嵯峨天皇との関係の深化でした。嵯峨天皇は平安時代初期を代表する文化人でもあり、詩文や書において卓越した才能を示していました。そのような兄と親しく言葉を交わす機会を重ねる中で、彼の思考や審美眼に触れ、大伴親王自身も精神的に深い影響を受けていきます。
兄弟でありながら、共に知識や言葉を重んじる姿勢を持つ者同士としてのつながりは、形式的なものを超えた親密さを生んだと考えられます。嵯峨天皇が後に大伴親王を強く信任するようになる背景には、この時期からの積み重ねが確かに存在していました。彼らは互いに多くを語らずとも、言葉の節に含まれる思想や感性を読み取り合える関係だったのかもしれません。青年期という柔軟な時期に育まれたこの信頼が、後の歴史を静かに動かしていく土台となりました。
薬子の変を契機に進んだ皇太弟への道
薬子の変の背景と経緯
810年(弘仁元年)、平安時代初期の朝廷を大きく揺るがす政変が起こりました。世に「薬子の変(くすこのへん)」と呼ばれるこの事件は、前帝である平城上皇が政務への復帰を図ったことに端を発します。平城上皇は、前の年に病を理由に退位し、弟の嵯峨天皇に譲位していましたが、健康が回復するにつれ、再び政務を執る意思を示すようになります。
この動きに呼応したのが、かつて平城天皇の寵愛を受けた藤原薬子とその兄・仲成(なかなり)です。薬子は宮中で絶大な影響力を持ち、復権を企てる上皇を支える要となりました。彼らは平安京から再び平城京への遷都を強行しようとし、官僚や軍の掌握を試みました。こうした行動は、現体制を動揺させ、宮廷内に緊迫した空気を生み出します。しかし嵯峨天皇は即座に対応し、軍勢を動員して上皇側の動きを封じ、薬子は服毒、仲成は処刑され、事件は終息しました。この政変は単なる権力争いにとどまらず、「安定を誰に託すべきか」が問われる機会となったのです。
平城上皇の復権運動と嵯峨天皇の決断
政変が本格化する中、平城上皇は自ら平城京へ向かい、そこからの政治再建を目指しました。中央からの統制が揺らぎかけたそのとき、嵯峨天皇は冷静に宮中の機構を再整備し、蔵人所を新設するなどして迅速な意思伝達体制を築き、混乱を封じ込めます。こうした決断力と実行力は、天皇の威信を高める一方で、朝廷内の「次の安定の軸」への関心をも呼び起こしました。
嵯峨天皇がその目を向けたのが、大伴親王(後の淳和天皇)です。兄弟の中でも常に冷静で温厚、特定の派閥に与せず誠実な姿勢を貫いていた親王は、こうした非常時にこそ求められる存在でした。兄弟としての血縁に加え、青年期から築いてきた信頼関係も、嵯峨天皇の決断を後押ししたと考えられます。激動のなかで、静かに信頼を集めていた大伴親王が次の一手として浮上するのは、必然の流れだったとも言えるでしょう。
嵯峨天皇の信任と皇太弟への抜擢
政変から間もない811年(弘仁2年)、嵯峨天皇は大伴親王を皇太弟に任じました。これは極めて異例な人事でした。通常、皇太子には天皇の直系子孫が選ばれるのが慣例である中、弟を後継と定める決断には、政治的安定と人柄への信頼が色濃く反映されています。しかも、先に皇太子に立てられていた高岳親王が薬子の変を契機に廃され、その後任としての任命であったことからも、嵯峨天皇の強い意志がうかがえます。
大伴親王は、政争の渦中に自らを投じることなく、内に学識と礼節を養い、周囲と調和を保つ姿勢を貫いてきました。その落ち着いた佇まいは、貴族たちの間にも安心感をもたらし、嵯峨天皇の決断を広く支持させる要因ともなりました。大きな混乱の後には、静かな信頼が何より求められます。薬子の変という一大政変を通じて、大伴親王の名は、未来を託すに足る存在として、朝廷内に確かな重みを持ち始めていたのです。
淳和天皇の即位に込められた兄弟の信頼
譲位の政治的背景
823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は皇太弟である大伴親王に譲位し、淳和天皇として即位させました。これは兄から弟への譲位という、平安時代でも異例の決定でした。当時の天皇制では、譲位は多くの場合、天皇の子に対して行われていました。嵯峨天皇には複数の皇子がいたにもかかわらず、その誰にも継承させなかったのは、兄弟間の深い信頼があったことの証左とも言えるでしょう。
薬子の変という混乱を乗り越え、政局がようやく安定を見せたこの時期、嵯峨天皇は、自らが築いた秩序を穏やかに維持してくれる人物として淳和天皇を選びました。華やかさではなく、誠実さと調和に価値を見出した判断は、権力というよりも責任を託す選択でした。形式的な継承ではなく、「任せられる者に託す」という意志がにじむ譲位でした。
即位の儀式と新天皇の印象
同年4月、平安京にて即位の儀が執り行われました。淳和天皇の即位式は、派手さを抑えた中にも格式が保たれたもので、当時の朝廷内では落ち着いた評価を受けていたとされます。彼は即位に際して、特別な改革や高らかな言葉を掲げることはせず、むしろ既存の秩序を丁寧に受け継ぐ姿勢を示しました。この態度は、嵯峨天皇が譲位に際して意図した「政の継続性と平穏」をそのまま体現したものでもありました。
貴族や官人たちの間では、彼の温厚な人柄と、これまで見せてきた誠実な振る舞いに対する期待が静かに広がっていたと考えられます。新しい天皇として大きく何かを変えるよりも、「変えないこと」によって安定を保つ──その慎重で落ち着いた第一歩が、彼の治世の色を端的に示していました。
兄弟協調体制の始まり
即位後も、淳和天皇と嵯峨上皇(太上天皇)の関係は極めて良好でした。嵯峨上皇は院政のような形式を取らず、政治の実権を新帝に完全に委ねる姿勢を見せ、淳和天皇もその信頼に応えるように、慎み深く政務に当たりました。両者は政治理念や文化的関心を共有しており、意見の対立ではなく、互いに補い合う関係として機能していたのです。
このような協調体制は、当時の貴族社会にも安心感をもたらしました。政変の余波がまだ尾を引く時期にあって、「兄が退き、弟が治める」という構図は、外から見れば一種の異例でありながらも、内側からは極めて自然に受け入れられたのです。兄弟の信頼が築いたこの体制は、表に出すことなく政の安定を支える力となり、静かに平安の礎を固めていきました。
淳和天皇が目指した律令政治の立て直し
勘解由使の再設置とその意義
淳和天皇の治世は、派手な改革よりも、律令制度の本来の姿を丁寧に立て直すことに力が注がれました。その象徴とも言えるのが、勘解由使(かげゆし)の再設置です。勘解由使は、本来、国司が任期を終えて都へ戻る際に、その政務の是非を監査する役職でしたが、平安初期には形骸化し、事実上機能していない時期が続いていました。
淳和天皇はこれを再び制度として息を吹き返させます。なぜそれが重要だったのか。それは、中央から遠く離れた地方での不正や怠慢を正すためには、律令制の根幹である「官人の責任」を徹底する必要があったからです。勘解由使の復活は、地方行政の監視を強め、規律の再構築を意味するものでした。目立たない改革でありながら、それが中央政府の信頼回復につながった点に、淳和天皇の着実な政治姿勢が表れています。
良吏登用と地方統治の刷新
律令政治の再建は制度だけでは成り立ちません。淳和天皇が重視したのは、「人」の刷新でもありました。つまり、実直で能力のある地方官を積極的に登用することで、制度の実効性を確保しようとしたのです。任官の際には、家柄よりも職務への忠実さや清廉さが重要視されるようになり、地方の安定にもつながっていきました。
この方針は、嵯峨朝の文人官僚たちが進めた理念を受け継ぎつつも、より実務に根ざしたものでした。地方に赴く官人たちは、自身の行いが都での評価につながることを自覚し、各地の政務に励んだと考えられます。実績が語られることの少ない淳和天皇の治世ですが、このように静かに制度と運用の両面から立て直しが進んでいたことは、確かな歩みといえるでしょう。
勅旨田による財政強化と勧農政策
もうひとつ、淳和天皇の治世における重要な施策は、勅旨田(ちょくしでん)の設置による財政基盤の整備でした。勅旨田とは、天皇の命により開墾された直轄地であり、その収益は宮廷の財政を支えるものとなります。律令制下では国営農地が基本でしたが、土地制度の緩みとともに、財源確保が大きな課題となっていたのです。
この勅旨田の整備は、国家としての農業推進、いわば「勧農政策」としての側面も持っていました。地方の農民にも恩恵が及ぶような体制を構築し、収穫の安定と納税の円滑化を目指す──そうした政策意図がうかがえます。華々しい成果が記録に残るわけではありませんが、淳和天皇のこうした一つ一つの政策が、律令制の寿命を静かに延ばし、後の時代へと橋渡しをしたのです。
声高に語られることは少なくとも、その歩みの一つ一つが、時間とともに静かに効力を現す──淳和天皇の改革は、まさにそのような性格を帯びていました。
淳和天皇と平安文化の静かな繁栄
『令義解』の編纂と法令注釈の整備
律令政治の再建を目指した淳和天皇は、その根幹をなす法体系の明確化にも着目しました。その中心的成果が、『令義解(りょうのぎげ)』の編纂です。これは、律令の中でも重要な「養老令」に対する公定注釈書であり、826年(天長3年)、淳和天皇の命によって編纂が始まり、833年(天長10年)に完成しました。律令の条文を明文化し、解釈の統一を図るこの作業は、単に制度の補強というだけでなく、政治と学問が交わる地点に生まれた知的営為でした。
編纂に携わったのは清原夏野をはじめとする学識豊かな官人たちで、彼らは『令釈』など過去の注釈書や中国法制を参照しながら、一文ごとに注釈を重ねました。条文を解釈することは、時代の精神を読み解くことにも通じます。そのような作業に政権が公的に関わったことは、制度の裏側にある思想や理念を重視していた淳和天皇の姿勢を物語っています。法と学問を結びつけるこの事業は、後世にも深い影響を残しました。
『経国集』をはじめとする文芸振興
827年(天長4年)、淳和天皇の命により、日本で初めての勅撰漢詩文集『経国集(けいこくしゅう)』が編まれました。書名は魏の文帝の「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」に由来し、政治と文学が深く結びついていた当時の理念を反映しています。そこには、天皇自身の詩をはじめ、宮廷に集う文人官僚たちの詩文が収録されており、自然への賛美、政務への思い、人生の機微など、多彩な主題が詠まれています。
淳和天皇は詩文への理解が深く、単に命を下す立場にとどまらず、実際に自らも詩を詠み、文芸活動に参与しました。彼にとって詩は、政治と心の中間にある言葉の営みであり、権力ではなく感性によって人の心を動かす手段だったのかもしれません。こうした文化振興は、政務の枠を超えて、平安前期の宮廷文化に静かな気品をもたらしました。
空海との文化的関心と文人との交わり
この時代を象徴するもう一人の文化人に、空海(くうかい)がいます。真言密教を広める宗教者であると同時に、詩文に優れた知識人でもあった空海の作品8首が、『経国集』に収録されています。淳和天皇と空海の間に直接の詩文のやり取りがあったことを示す明確な記録は多くありませんが、両者が同時代に詩を通じて共鳴していたことは間違いありません。淳和天皇の崩御に際し、空海が弔文を捧げたことも、その敬意と文化的な共感の深さを示しています。
また、清原夏野や藤原吉野といった文化的素養に富んだ官人たちが、淳和天皇の周囲を固めていました。清原夏野は『令義解』の編纂総裁として制度と学問を橋渡しし、藤原吉野は側近として政務だけでなく、文化的な場面でも淳和天皇を支えた人物でした。淳和天皇の文化政策は、このような多才な人々との静かな協働によって成立していたのです。
声高な改革ではなく、言葉と節度の中に文化を築く──その姿勢は、今も平安文化の礎の一つとして静かに残されています。
譲位後の淳和天皇が過ごした淳和院での歳月
恒貞親王への皇位継承と政治的影響
833年(天長10年)、淳和天皇は皇位を甥にあたる恒貞親王へ譲り、自らは上皇として「淳和院」と称される御所で静養する身となりました。恒貞親王は嵯峨天皇の皇子であり、淳和にとっては姉・高志内親王を通じた近親者でした。実子を継がせなかった淳和の選択は、血統の直系性よりも政局の安定と兄・嵯峨上皇との協調体制を重視した姿勢の表れとされています。
この継承は一時的に平穏を保ちましたが、両上皇の死後、842年(承和9年)に藤原良房が主導した政変「承和の変」が勃発し、恒貞親王は廃太子とされます。これは淳和の意志が否定されたというより、彼の崩御後に発生した政治情勢の変化によるものでした。なお、淳和上皇は譲位後、政治への介入を一切行わず、当時まだ制度化されていなかった「院政」の先駆的な例として、権力を持たない上皇の理想像を示しました。静かに身を引きながら、政治の緊張を緩める存在として、その後の朝廷に深い影響を残します。
清原夏野・藤原吉野ら側近との交流
淳和院での生活において、淳和上皇を支えたのが、治世期からの側近たちでした。とりわけ清原夏野は、『令義解』の編纂責任者としてだけでなく、引退後も上皇の知的交流の相手として信頼を保ち続けます。また、藤原吉野もその教養と政務能力によって、淳和の身近な存在として仕えました。彼らの存在は、政治から離れても淳和が孤立せず、文雅を中心とした穏やかな時間を保ち得たことを物語っています。
清原夏野は儒教的素養に富み、法と学問の橋渡し役として上皇との交流を続けました。一方、藤原吉野は文筆にも優れ、詩文や故事をめぐる談話が淳和院で交わされていた可能性もあります。政治の表舞台を離れたこの御所が、知と礼節が交差する場であったことは、平安前期の宮廷文化の奥行きを示すひとつの断面と言えるでしょう。
日々の生活と宗教的関心
譲位後の淳和上皇の生活ぶりについて、具体的な逸話は多く伝わってはいませんが、『続日本後紀』などには「車駕を控え質素に過ごした」との記述が見られます。この表現から、上皇は公式の場への出仕を控え、つつましい日常を送っていたことがうかがえます。散歩や庭園での静かなひとときといった後世の描写は、こうした史料に基づくイメージとして定着したものと考えられます。
また、晩年の上皇が仏教に関心を抱いていた可能性は高いとされます。空海は淳和上皇の崩御に際し、丁重な弔文を奉じており、その内容には深い敬意と哀悼の情がにじんでいます。最澄や空海の教えが都で広まりを見せていた時期と重なることからも、上皇が宗教思想や精神修養に心を向けていた可能性は十分に考えられます。
権力を離れたあとの人生を、誰にも強いることなく、誰とも競うことなく、静かに歩んだ淳和上皇。その佇まいこそが、時代にひとつの「品格」を刻み込んだといえるのではないでしょうか。
静けさのなかに残る品格の記憶
淳和天皇の生涯は、決して声高なものではありませんでした。幼い頃に培われた温和な気質は、政治の場にあっても穏やかな人間関係と制度の整備へと向けられ、争いよりも安定を選びました。文化面では『令義解』や『経国集』に象徴されるように、静かに深める姿勢が際立ちます。譲位後も権力に固執せず、側近たちと過ごす日々のなかに人間としての誠実さを保ち続けました。最期の薄葬・散骨にいたるまで、その生き方は一貫しています。喧噪を避け、誇示を退け、淡々と時を重ねたその姿には、現代にも通じる美意識がにじんでいます。語りすぎず、飾りすぎず、それでも確かに印象を残す存在――それが淳和天皇という人物だったのかもしれません。
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