こんにちは!今回は、室町時代の臨済宗の僧侶、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)についてです。
春屋妙葩は、日本全国の禅宗寺院をまとめあげ、政治・文化・外交の中心で活躍した、まさに“室町の知の司令塔”とも言える存在です。出版事業「五山版」を通じて多くの学問を広め、将軍・足利義満のもとで国家の宗教政策を担いました。
知られざる中世日本の頭脳・春屋妙葩の生涯を紹介します。
甲斐に生まれた春屋妙葩と夢窓疎石との出会い
甲斐国に生まれた春屋妙葩の出自と育ち
春屋妙葩(しゅんおく・みょうは)は、鎌倉時代末期の応長元年(1311)、甲斐国に生まれました。彼の俗姓や具体的な家系について確実な記録は残されていませんが、のちに高位の禅僧として中央に進出した経歴や、夢窓疎石の甥という立場をふまえると、地方有力層の家庭に育った可能性が高いと見られています。甲斐国は、当時の文化や政治の中心からは離れた地であったものの、学問や仏教への関心を湛えた風土を持っていました。
妙葩は、そうした地域的背景のなかで、自然や書物、そして人との関わりを通じて感性を深めていったと考えられます。特に幼少期から言葉に表しがたい問いに向き合う性質を持ち、それがのちの禅僧としての思索の深さにつながっていったことは想像に難くありません。都ではないからこそ育まれた、視野と感受性があったとするのは妥当な推測です。
七歳で叔父・夢窓疎石のもとに入り、禅の世界へ
春屋妙葩にとっての転機は、わずか七歳の頃に訪れます。この年、彼は母方の叔父であり、すでに当代屈指の禅僧として知られていた夢窓疎石(むそう・そせき)のもとに侍童として入門します。夢窓疎石は、のちに天龍寺を開山し、北朝・南朝の皇族からも深く帰依された高僧であり、その教えを最も近くで受けることは、若き妙葩にとって仏道の入り口として、極めて大きな意味を持ちました。
叔父と甥という血縁だけでなく、師と弟子という関係がこのとき始まります。疎石のそばでの日常は、教えを聞くよりもまず、背中を見て学ぶものでした。作法、呼吸、間の取り方といった非言語の感覚が、妙葩の内に静かに浸透していきます。厳しさのなかに宿る慈悲の気配を、妙葩は言葉でなく体験として身につけていったのでしょう。この頃の経験が、後に彼が多くの弟子を導くときに見せた柔和さと的確さの源となります。
十五歳で出家、仏道に向けた静かな決意
正中2年(1325)、妙葩は十五歳で出家を果たします。この年齢は当時の出家年齢としてはやや早く、本人の内面的成熟と、夢窓疎石の指導の成果を感じさせるものです。師のもとでの生活は単なる仏教の知識習得にとどまらず、日々の動作のひとつひとつに意味を見出すような、禅的生活の実践でした。出家とは、自らの問いを生涯かけて生きることを選んだ証であり、その決意は若さの勢いではなく、深く根ざした意志からのものであったと見られます。
彼が選んだ道は、自己の完成ではなく、問いの継続でした。出家後、妙葩は本格的な修行へと歩を進めていきますが、その原点には、幼い頃から身のまわりに対して「なぜ?」と問う心と、それに丁寧に向き合おうとする静かな姿勢があったのです。これこそが後に多くの人に影響を与える彼の魅力の核となっていきます。未熟でありながらも、芽吹くものを秘めたその姿に、やがて時代が耳を傾けることになるのです。
春屋妙葩の修行と形成期の経験
15歳で出家、京都・東福寺での厳しい修行生活
正中2年(1325)、15歳で出家した春屋妙葩は、師であり叔父でもある夢窓疎石の導きで、京都の東福寺にて修行生活を始めました。妙葩が仕えたのは、夢窓と同門であった元翁本元(げんのう・ほんげん)という禅僧で、彼のもとで「湯薬侍者」として師の身の回りの世話をしながら修行に励みました。湯薬侍者とは、住持の世話を通して禅的生活を体得する役職であり、書物の読み方、茶や香の扱い、坐禅の呼吸と姿勢といった日常のすべてが修行の対象でした。
当時の東福寺は、臨済宗の一大拠点であり、数多の修行僧が集っていました。妙葩もその一人として、夜明け前からの坐禅や掃除、経典の写経や法話の記録など、多忙で律儀な日課をこなしていきます。飾り気のない学びの日々は、時に空腹や寒さと隣り合わせでしたが、そうした状況の中でこそ、彼の中に「外から与えられる教え」ではなく、「自らの中から育てる理解」の芽が育っていったのです。
鎌倉・浄智寺での学びがもたらした内的深化
嘉暦2年(1327)、夢窓疎石が鎌倉に移ると、妙葩もこれに従って関東へ移住します。そこで彼は、鎌倉・浄智寺の住持であった竺仙梵僊(じくせん・ぼんせん)の門下に入り、より一層の修行に打ち込みました。竺仙は高峰顕日に師事し、夢窓疎石とも並び称される名僧であり、指導は厳格でありながらも深く、修行者に対して徹底した内面の掘り下げを求める人物でした。
この時期、妙葩は単なる坐禅や講義にとどまらず、「梵唄(仏教儀礼で用いる詠唱)」や「印刷事業」にも関心を深めていきます。とりわけ中国から伝わった印刷技術を用いた経典の出版は、のちの「五山版」へとつながる文化活動の先駆けともなり、妙葩の実践的関心の広がりを象徴するものでした。浄智寺の静けさの中で、彼は単なる宗教的完成ではなく、「知の伝播」へと意識を開いていったのです。
夢窓派の俊英として注目される存在に
京都と鎌倉という二つの禅都を経て、妙葩は次第に夢窓派の俊英として注目を集めるようになります。彼の語録には、若き日々の厳しさや、その中で掴み取った静かな確信がにじんでおり、形式に頼らず、言葉と沈黙の間に真理を見出そうとする姿勢がありました。同門の無極志玄や竜湫周沢らと共に、妙葩は新しい世代の中核となる人物として、宗門内でその存在を意識されるようになります。
とはいえ、この時点で妙葩が公式に後継者としての地位を得ていたわけではありません。あくまで「将来を嘱望される若き修行者」という立ち位置にありました。しかし、決して自己を誇ることなく、ただ一つひとつの問いと丁寧に向き合うその姿勢は、周囲に静かな影響を与えていきました。未完成でありながらも、既に一つの「風」を纏い始めていた妙葩――それがこの時期の彼の輪郭でした。
夢窓疎石の後継としての春屋妙葩
法嗣としての認定と夢窓疎石の教えの継承
春屋妙葩が夢窓疎石の法統を継ぐ人物として公に認められたのは、貞和元年(1345)のことでした。この年、疎石から「春屋」の道号を授かり、師の教えを深く理解した証として「悟得者」とされました。これは単なる儀礼ではなく、夢窓が自らの精神を託すに足る弟子と認めた証であり、妙葩が教義の再現者ではなく、その本質を新たな時代へと橋渡しできる存在であったことを意味します。
観応2年(1351)、夢窓疎石が没すると、春屋妙葩は法兄・竜湫周沢と共に夢窓派の中心となります。彼は、夢窓の遺芳をとどめるべく『西山夜話』や年譜を編纂し、その思想の体系化に取り組みました。疎石の教えを忠実に守りつつ、妙葩自身の経験や観点を加味することで、宗門における禅の精神的指標を明確化していったのです。単に後を継ぐだけではなく、疎石の教えを「時代と響かせる言葉」に変えていくという、新たな創造がここに始まっていました。
天龍寺再興と宗門における地位の確立
夢窓没後、春屋妙葩は天龍寺の寺務を代行する立場となり、延文3年(1358)に同寺が火災で焼失した際には、義堂周信と協力してその再建に尽力します。天龍寺は足利尊氏が夢窓疎石を開山に迎えて創建した寺であり、朝廷と幕府双方の精神的支柱ともいうべき存在でした。妙葩はその中心に立ち、復興事業を進める中で多くの人材を育成し、宗門の組織運営においても高い手腕を発揮しました。
この間、妙葩は住持として天龍寺に再度迎えられるなど、宗門内における名実ともに重鎮としての地位を固めていきます。その教化は、理屈を超えて聞く者の内面を揺さぶるものであり、形式を超えて心を導く力があったと伝えられています。弟子たちは単に仏教を学ぶのではなく、妙葩の言葉を通じて「自分が何者であるか」を問い続けるよう促されました。
南禅寺復帰と後円融天皇との深い結びつき
康暦元年(1379)、春屋妙葩は南禅寺の住持に再任され、同時に幕府より僧録司に任命されます。南禅寺は五山制度の中でも「五山之上」という別格の地位を与えられており、ここでの住持職は単なる寺務以上に、全国の禅宗を統括する象徴的な意味を持っていました。妙葩は、そこにおいて教学・儀礼・人事すべてにおいてバランスの取れた運営を行い、宗派の安定と発展に貢献します。
この時期、彼の活動は宗教を超え、宮廷との交流にも及びました。康暦元年、後円融天皇より「智覚普明国師」の号を賜り、内裏道場において天皇から直接衣を授かるという名誉を得ます。この授号は、単なる形式ではなく、妙葩の禅風が皇室の精神文化に深く響いたことの証左でした。また『雲門一曲』などには、妙葩と天皇との詩文を通じた交流の記録も残されており、そこには単なる信仰を超えた知の共振がうかがえます。
春屋妙葩は、こうして夢窓疎石の「継承者」にとどまらず、自己の言葉と実践で禅の理想を体現し、「時代の声」を受け止める指導者として宗門の頂点に立っていきました。彼の語る言葉には、ただの説教ではない、生きた気配がありました。それは耳に残るよりも、心に深く沈み、時を経ても色あせることのない強さを宿していたのです。
春屋妙葩が築いた出版文化と五山版の展開
天龍寺・臨川寺を拠点に推進した出版事業
春屋妙葩の文化的業績の中でも、五山版の出版事業における役割は特筆に値します。五山版とは、京都・鎌倉の五山寺院を中心に禅僧たちが刊行した木版本の総称で、主に禅籍、漢籍、仏典が刊行されました。その多くは宋元の版本を覆刻したものであり、印刷文化の中核を担う存在でした。妙葩はこの伝統を踏まえつつ、天龍寺や臨川寺を拠点として出版活動を本格化させます。
彼のもとで刊行された代表的な書目には、『夢窓国師語録』『五家正宗贊』『宗鏡録』などがあり、いずれも禅宗内部だけでなく、広く知識階層に影響を与えました。春屋妙葩は単なる監修者ではなく、刊行書の選定、編集方針、技術面にまで深く関与し、書物を「知の媒体」としていかに機能させるかを強く意識していました。
印刷技術と編集観に支えられた知の拡張
妙葩の出版活動の背景には、鎌倉時代に浄智寺で師事した竺仙梵僊から学んだ印刷技術や梵唄の素養がありました。彼は書物の内容だけでなく、体裁、紙質、刻工の技術水準にも高い関心を寄せ、刊行物に対する美意識と実用性の両立を追求しました。宋元の印刷文化の影響に加え、兪良甫や陳孟栄といった渡来の刻工たちによる精緻な技術が、五山版の完成度を飛躍的に高めたのです。
五山版に収められた書籍は、仏教典籍や禅僧の語録・詩文のみならず、『論語』『大学章句』などの儒学書、さらには歴史書・医学書にまで及びました。これにより、仏教の枠を越えて中国古典や実学の知識が日本国内に浸透し、公家や武士階層の教養形成にも寄与することとなりました。知のネットワークは、寺院を中心に社会の各層へと静かに、しかし確実に拡がっていったのです。
禅僧から文化人へ――新たな知の担い手として
春屋妙葩が推進した出版事業は、宗教的布教の枠を超え、「書物による知の布施(ふせ)」という新たな禅僧の役割を打ち出すものでした。五山僧は単に修行者としてではなく、詩文・儒学・芸術といった多分野に通じる文化の担い手として位置づけられるようになり、水墨画などの芸術領域にも波及的な影響を与えることになります。
妙葩の編集に関与した詩文集『雲門一曲』には、後円融天皇との詩歌や思想的交流が記されており、単なる文学的興趣を超えて、政治と宗教、感性と知性が交差する精神空間が浮かび上がります。このようにして、春屋妙葩は出版を通して時代と対話し、思想を凝縮した「文字の風景」を後世に残していきました。
五山版という一見無言の存在が、実は語りかけてくる書物群であると気づかせてくれる――その背後には、春屋妙葩という静かなる編集者のまなざしがありました。彼の残した言葉と紙面は、まさに時代を超えて読まれる「生きた教え」として、いまなお私たちに問いかけ続けています。
足利義満と春屋妙葩の政教協働
僧録司任命の背景と宗門統制の意義
康暦元年(1379)、春屋妙葩は南禅寺の住持に再任されると同時に、足利義満より禅宗全体を統括する「僧録司」に任命されました。この役職は、臨済宗における寺院人事・教学統制・僧録制度の整備を目的として新設されたもので、妙葩はその初代を務めることになります。その制度的背景には、足利尊氏が建武3年(1336)に設置した「禅律方」があり、僧録司はその後継制度として、より組織化された形で整備されました。
この任命によって妙葩は、全国の臨済宗寺院における住持任免や教学秩序の調整、五山・十刹制度の運用において中核的な役割を担うことになります。五山制度は、朝廷・幕府の宗教政策と深く結びついたものであり、僧録司は宗教行政の実務を統括する一種の官職と化していました。妙葩の登用は、彼の宗門内での評価だけでなく、政治的信頼の証でもあり、彼は宗教と国家の架け橋としてその手腕を発揮していくことになります。
相国寺創建と制度の中での機能
足利義満が創建した相国寺においても、春屋妙葩の影響は決定的でした。義満は自らの菩提寺として相国寺を計画し、開山に夢窓疎石を勧請するとともに、その教線を継ぐ妙葩を第二世住持に据えました。開山勧請と実際の運営を分けたこの構造は、義満の宗教政策の特徴をよく表しており、妙葩は教義的基盤を保証しつつ、寺院行政の実務を担う位置に立ちました。
相国寺はのちに五山制度の中で五山第二位とされ、南禅寺(五山別格)に次ぐ地位を占めることになります。この格式の高さは、単に寺格の問題だけでなく、義満の権力象徴としての寺院運営における妙葩の協働の象徴でもありました。妙葩は相国寺において、教学の整備とともに住職人事や学僧育成に尽力し、宗門の質的充実を支える役割を果たしました。
政治との連携と外交的視野の拡がり
春屋妙葩は、義満の治世下で宗教と政治の接点に立ち続けた人物でした。義満による幕府体制の強化、朝廷との融和政策、そして日明貿易の展開といった一連の動きにおいて、妙葩とその弟子たちが精神的支柱や知的助言者として機能したことは、複数の史料に記されています。特に『雲門一曲』には、妙葩の弟子たちが外交文書作成や詩文の応対に従事した記録があり、宗教的素養が政治の言語に変換されていったことを示しています。
義満の外交政策において、春屋妙葩自身が「日本国王」称号の正統性を支えたという直接的証拠はありませんが、宗門の統率者としてその政策基盤に精神的正当性を与えていたことは確かです。また、後円融天皇から「智覚普明国師」の号を授かり、内裏道場での活動も行っていた妙葩は、宮廷・幕府双方と連携しつつ、調停者としての役割も果たしていました。
春屋妙葩は、華やかな舞台の中心に立つことは少なかったものの、制度の根幹を支える冷静な眼差しと、静かな言葉の力をもって、時代の節目における「縁の結節点」となった人物でした。官僧としての春屋は、宗教の枠を超え、国家と精神文化を結ぶ回路そのものだったのです。
晩年の春屋妙葩と理想とした禅のかたち
相国寺第二世としての実践的禅風
春屋妙葩は、足利義満の菩提寺として創建された相国寺において、第二世住持を務めました。開山には師である夢窓疎石を勧請しつつ、寺の実質的な立ち上げを担ったのは妙葩自身であり、事実上の開山的役割を果たしたといえます。彼はここで教学体制の整備に関わる一方、より重視したのは日々の修行と参禅でした。
相国寺物語には「朝夕参禅弁道にはげんだ」と記されており、妙葩の禅風が理論より実践に根ざしていたことがうかがえます。五山版の出版事業に取り組み、梵唄文化の発展にも尽くした妙葩は、知識や儀式に偏らず、日常そのものに仏道を見出す姿勢を終生貫いていました。彼の禅は、語ることで伝えるのではなく、黙して歩み続けることによって周囲に影響を及ぼすものであり、そのあり方は次第に「教化者」から「在ること自体が教え」となる存在へと変化していきます。
鹿王院での隠棲と静寂のなかの深化
康暦元年(1379)、足利義満によって建立された鹿王院に移った春屋妙葩は、ここで最晩年を過ごしました。都の喧騒から離れたこの地で、彼は嘉慶2年(1388)に示寂するまで、坐禅と自然の中での沈黙の生活を送りました。庭の草木、移り変わる季節の音色、澄んだ空気の感触――そうした何気ない日常が、そのまま彼にとっての仏教実践であり、悟りの道でした。
『鹿王院遺訓』にも見られるように、妙葩はこの地で語りすぎることを避け、むしろ無言の教えの力を信じていたと考えられます。教義を語る代わりに、彼の佇まいそのものが問いを投げかけ、見る者の内面に働きかけたのです。こうした生のあり方は、彼が理想とした「禅」のかたちそのものであり、決して派手ではないが、静かに深く、周囲に染み入るような在り方でした。
楚石梵琦の賛と明兆の筆による精神の肖像
春屋妙葩の頂相(肖像画)は、晩年の精神的成熟を象徴する遺品のひとつです。現在、鹿王院に伝わるこの頂相には、元代の禅僧・楚石梵琦(そせき・ぼんき)の賛が添えられています。楚石梵琦は1370年に没しており、春屋妙葩との直接の面識はありませんが、この賛は妙葩の弟子・昌繕(しょうぜん)が元に赴き、肖像を持参して賛を求めたものであるとされています。
賛文には、妙葩の修行と禅風への深い共鳴がにじんでおり、東アジアを越えて精神的対話が交わされたことを物語ります。このような間接的な交感が、当時の国際的禅ネットワークの成熟を示す一例でもあります。
また、この肖像を描いたのは、当代随一の絵師・明兆(吉山明兆)であり、その筆致は妙葩の静謐な気配と内面的な奥行きを見事に表現しています。淡い墨の濃淡と柔らかな線の中に、語らずとも伝わる存在感が漂い、まさに「姿は語らず、魂は語る」という禅の理想が体現されています。
こうして春屋妙葩は、自らの晩年を、語らぬ教えと共鳴の中に封じ込めました。その沈黙の中には、喧噪では辿りつけない深さがあり、それを感じ取った者たちが、さらに言葉を超えた問いを受け取っていく――そんな連鎖が、今もなお禅の空気の中に息づいているのです。
春屋妙葩の最期とその教えの継承
鹿王院での示寂と禅僧としての最期
嘉慶2年(1388)8月12日、春屋妙葩は京都・鹿王院にて示寂しました。享年78歳。足利義満がそのために創建した鹿王院は、晩年の春屋が静かに過ごした地であり、夢窓疎石の法統を継ぎながら、禅の理想を追求し続けた空間でもありました。
臨終の様子について、「坐禅を崩さず、衣の襞にも乱れなかった」といった描写は、禅僧伝に頻出する典型的なスタイルであり、直接的な一次資料には基づいていません。ただし、示寂の2日前には自筆で遺偈を記しており、その筆致は老境の穏やかな気迫を伝えるものです。この事実は、春屋が最晩年まで禅僧としての在り方を全うしていたことを裏付けています。彼の死は、夢窓派の一つの時代の終わりを象徴し、宗門における重要な転換点ともなりました。
教えを受け継いだ弟子たちと五山文学への影響
春屋妙葩の教えは、弟子たちによって着実に受け継がれました。道隠は師の語録や詩文の整理に尽力し、宗教的教えを言語化する営みに関わりました。とりわけ昌繕の動きは注目に値します。彼は師の頂相を携えて明に渡り、楚石梵琦に賛を依頼しました。この賛を受けた頂相は鹿王院に伝わり、春屋の思想が国を超えて共鳴を呼んだ証ともなっています。
さらに、義堂周信や絶海中津といった五山文学の詩僧たちとも、春屋の教えは思想的に連なっています。詩文を通じて表現された宗教性、静寂と理知の融合は、彼らの作品にも影響を及ぼしました。こうした流れは、禅が仏教的修行のみならず、日本文化における文芸・思想の基盤として根付いていく契機ともなりました。
再評価と現代における学術的意義
春屋妙葩の業績と思想は、近代以降、改めて光を当てられるようになりました。原田正俊『春屋妙葩と夢窓派の展開』、村井章介「春屋妙葩と外交」などの研究によって、政治・外交・文化の複合的な立場から春屋を見直す試みが進められています。玉村竹二『五山禅僧伝記集成』に収録された伝記的考察も、春屋を禅僧像の代表例として再確認する上で重要な資料とされています。
彼の語録や書簡は、宗教的資料としてのみならず、政治史・文化史・文学史の観点からも研究されており、五山文化や禅の知的遺産を再構築する鍵ともなっています。春屋妙葩の生涯は、その没後も教えが新たな問いを生み続ける源であり、時間を超えて今もなお読み直されるべき存在となっています。
資料に映る春屋妙葩の実像
宗教制度の改革者としての視座―『春屋妙葩と夢窓派の展開』が示す系譜
原田正俊による『春屋妙葩と夢窓派の展開』(『中世仏教の再編と禅宗』所収)では、春屋妙葩が夢窓疎石の法統を正統に受け継ぎつつも、それを単なる継承にとどめず、新たな時代に対応する宗教制度へと転化した存在として描かれています。天龍寺や相国寺といった五山の中心寺院を再興し、さらに僧録司制度を整備することで、臨済宗の組織的基盤を強固なものとしました。こうした実績は、『相国寺物語』や『五山禅僧伝記集成』などの一次史料からも裏付けられ、春屋が制度設計と実務運営の双方に卓越した人物であったことが明らかになります。
同時に彼は、文化的側面においても重要な役割を果たしました。五山版の刊行事業を通じて、禅籍や漢籍、詩文といった知的資源を広く流通させ、五山文化の根幹を支えたのです。このように、原田の評価が強調する「夢窓の思想を現実に適応させる能力」は、宗教者としての柔軟性と、知の担い手としての自覚を兼ね備えた春屋の姿に合致します。
政治と外交における思想的支柱―「春屋妙葩と外交」が映す間接的影響力
村井章介の論考「春屋妙葩と外交」では、春屋の政治的・外交的影響力に焦点が当てられています。直接の外交文書作成には携わっていないものの、彼の弟子である昌繕や道隠が、日明貿易に関わる外交文書の作成や、使節団の思想的支援に携わったことが『雲門一曲』などの史料に記されています。これは、春屋の思想的な影響が、弟子たちを介して国際的な舞台に及んでいたことを物語っています。
春屋自身が担ったのは、外交実務ではなく、その背後にある精神的支柱としての役割でした。義満の深い帰依を受け、後円融天皇から国師号を賜るなど、宗教者として国家と文化の両輪に関わる人物としての信頼を得ていた点は明確です。このように、政治との関係はあくまで「直接の関与」ではなく、「思想を通じた間接的支援」であったという点を、村井の研究は明確に示しています。
文化の記録者としての評価―『五山禅僧伝記集成』に見る春屋の筆跡
玉村竹二が編纂した『五山禅僧伝記集成』において、春屋妙葩は「五山文化の要」として明確に位置づけられています。夢窓疎石、義堂周信、絶海中津らと並ぶ存在として、宗教・文化の両面での影響力が高く評価されています。なかでも注目されるのは、「記録すること」への意識です。
彼の手による『智覚普明国師語録』『西山夜話』『雲門一曲』といった著作群は、単なる思想の伝達手段ではなく、内面の探求や自然への感応を含む多層的な表現として捉えられています。とりわけ詩文においては、教義の解説を超えて、人間の揺らぎや静けさをたたえる感覚がにじみ出ており、それが後の五山文学に与えた影響は計り知れません。
このように、春屋妙葩という人物は、制度の構築者として、また文化の記録者として、さらには政治と宗教の橋渡し役として、多面的な活動を展開した存在でした。その姿は、文献を通じて静かに、しかし確かに、現代に伝えられています。
春屋妙葩という存在が遺したもの
春屋妙葩の生涯をたどることは、ただ一人の禅僧の歩みを追う以上の意味を持ちます。制度を整え、文化を支え、精神を言葉に刻んだその在り方は、時代の要請に応えながらも、決して迎合せず、静かに自己を確立した軌跡でした。夢窓疎石の法統を受け継ぎつつ、それを時代に適応させ、五山文化という知の体系を築き上げた春屋。彼が残した語録や詩文、弟子たちを通じて継承された思想は、今日なお、宗教・文学・歴史を横断して読み直され続けています。静謐のうちに動く者こそが、時代を動かすということ。その証が、春屋妙葩という存在だったのです。
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