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河本大作とは何者か?張作霖を爆殺した関東軍の参謀から戦犯死までの波乱の生涯

こんにちは!今回は、昭和初期の関東軍参謀として知られ、張作霖爆殺事件を仕掛けたことで歴史に名を刻んだ日本陸軍軍人、河本大作(かわもとだいさく)についてです。

謎多き事件の中心にいた男は、軍人から経済人、そして戦犯として波乱の運命をたどりました。日本と満洲、中国との関係が揺れ動いた時代に、彼が果たした役割とは何だったのか——。その数奇な生涯に迫ります。

目次

河本大作の原点:幼少期と家族に刻まれた軍人の気質

河本家の出自と兵庫の風土

河本大作は1883年、兵庫県印南郡(現在の加古郡周辺)に生まれました。河本家は明治以前、播磨国の下級武士の家系であり、代々勤勉と忠義を重んじる気風を持っていました。明治維新以降、士族はその特権を失い、多くが没落しましたが、河本家ではその境遇を逆手にとり、子に「生き残るためには知と規律が必要」と教えていたといいます。父親は教育熱心で、儒学や日本の歴史を幼い大作に繰り返し説き聞かせ、国を支える人間たる気構えを叩き込んでいました。

また、兵庫の風土も彼の人格形成に深く関わっていました。明治期の兵庫は近代化と伝統が交錯する土地であり、西洋の知識が港町・神戸を通じて流入する一方、内陸部では依然として農村共同体と旧武士道が息づいていました。多様な価値観がせめぎ合う中で、河本少年は「何を正しいと信じるか」を常に問われる環境にありました。こうした地理的・文化的背景が、後の軍人・河本大作の信念と決断力の基礎を築いたのです。

学問と規律に包まれた少年時代

幼少期の河本大作は非常に内向的ながらも、ひとたび机に向かうと集中力を発揮する少年でした。彼は地元の寺子屋に始まり、後に小学校、そして高等小学校へと進学しました。周囲の教師たちは口をそろえて「まじめで、口数は少ないが芯の強い子だった」と評しています。特に歴史や地理、漢文といった科目で頭角を現し、文章の読解力にも優れていたといいます。

学校生活では厳格な規律が守られており、遅刻や無断欠席はもとより、服装や礼儀についても徹底されていました。大作はそうした中でも常に模範生として振る舞い、「正しい行いを貫くことが人の道である」という信念を早くから持っていたようです。また、地元の剣道場にも通っており、武道を通じて精神と身体の鍛錬にも励みました。

彼は次第に「知と武」を兼ね備えた存在になることに憧れを抱くようになります。学問だけでなく、自らを律する姿勢、他者と共に行動する協調性も磨いていきました。この頃の経験が、後に彼が軍隊で多くの部下を率いる際のリーダーシップに大きく貢献したのは間違いありません。学びと規律の中で育まれた精神は、河本大作にとって生涯の指針となるものでした。

「国を守る」志が芽生えた瞬間

河本大作が軍人を志すようになったきっかけは、13歳のときに起きた日清戦争(1894年)の報道でした。当時、日本国内では清国との戦争を国民的な関心事として報道しており、新聞には戦地で活躍する日本兵の姿や戦果が大きく掲載されていました。若き河本はそうした記事を熱心に読み、「国を背負って戦う者たち」の姿に心を打たれたのです。

また、地元で開かれた戦勝記念式典に参加した際、退役軍人が「国を守ることは家族と未来を守ること」と語った演説を聞き、深い感銘を受けたとされています。この言葉は彼の心に強く刻まれ、それからというもの、「軍人になる」という志を胸に秘めながら勉学と武道に励むようになりました。

彼は自らの志を家族に話すことは少なかったものの、勉学の成績を維持し、生活態度を厳格に保つ姿から、周囲の人々も「大作は士官になるつもりだろう」と気づいていたといいます。士族出身である家の背景や、地域社会で求められる価値観が、彼の志を後押ししたことは疑いようもありません。やがて彼は、全国から精鋭が集まる陸軍士官学校への進学を目指すことになります。

河本大作、士官学校から戦場へ:若き軍人の始まり

成績優秀だった士官学校時代と同期との関係

河本大作は1901年(明治34年)、東京にある陸軍士官学校に入学しました。これは全国でも限られた成績優秀者しか入れないエリート教育機関であり、入校時からその厳格さで知られていました。大作は入校当初からまじめな性格と実直な態度で周囲の信頼を集め、特に戦術学や軍事史の授業で高い評価を得ていました。当時の成績表には「冷静沈着にして分析力に富む」と記され、軍人としての資質が早くも評価されていたことがわかります。

彼は同期の中でも特に石原莞爾、小磯国昭といった後の軍中枢を担う人物たちと親しく交わり、互いに切磋琢磨していました。石原とは特に戦略論をめぐって夜遅くまで議論を交わしたという記録も残っており、知的刺激に満ちた学園生活を送っていた様子がうかがえます。一方で、戦術一辺倒ではなく、軍人の倫理や統率論にも強い関心を持っていたことが、後に彼が参謀として抜擢される素地となっていきました。

大作にとって士官学校は、ただの通過点ではなく、「軍人として、どう生きるべきか」を学ぶ重要な時期だったのです。

日露戦争で初陣を飾る若き将校の姿

1904年(明治37年)、河本大作は士官学校を卒業し、陸軍少尉として任官します。そしてその年、日露戦争が勃発。わずか20歳そこそこの彼は、第10師団に配属され、満洲戦線へと派遣されました。これが彼にとって初の実戦経験であり、過酷な戦場がいかに現実の戦争と理論とを乖離させるかを、身をもって知る機会となりました。

彼が参加した奉天会戦では、ロシア帝国軍の精鋭との激戦の中、冷静な指揮で部下を撤退させつつも敵前線を探るという任務にあたり、上官から高く評価されました。この時、前線で負傷した上官に代わって中隊の指揮を一時的にとったという逸話もあり、「若いが判断が的確」と戦地報告に記されたとされています。こうした経験は、彼の「戦地では一瞬の判断が生死を分ける」という戦術観を形成し、参謀としての資質をより深める契機となりました。

日露戦争を経て彼は、単なる実行部隊の将校ではなく、情報分析や状況判断に長けた存在として注目を集めるようになります。若き河本にとって、この戦争は「学んだことを試す場」であると同時に、「生き残ることの意味」を深く問い直す時間でもありました。

戦地で培った戦術眼と世界観

日露戦争での実戦経験は、河本大作に戦術家としての視点と、国際情勢を俯瞰する目を育てました。戦場でロシア兵と対峙する中で、彼は単に敵を排除するのではなく、「なぜ彼らはこの地にいるのか」「戦争とは何を解決するための手段なのか」といった問いを持つようになります。特にロシア帝国の鉄道を中心とした戦略構想に強く感銘を受け、日本もまたインフラと軍事を結びつけた戦略が必要だと考えるようになりました。

この頃から、彼は満洲という地に強い関心を持ち始めます。戦後、満洲に残されたロシアの施設や鉄道網を視察する機会を得た際、軍事的価値と経済的可能性を併せ持つこの地に、日本の将来がかかっていると確信したのです。この経験が、後の満洲政策に対する深い関与や、満鉄理事としての活動にもつながっていきます。

また、戦地では張作霖配下の兵と遭遇する場面もあり、当時は敵味方という意識しかなかったものの、後年に張作霖やその子・張学良と深く関わることになるとは、当時の彼には想像もできなかったことでしょう。戦場での経験は河本にとって、単なる戦歴の一ページではなく、思想と戦略の原点となる貴重な財産となったのです。

張作霖爆殺事件と河本大作:関東軍参謀の知られざる決断

異例の抜擢で関東軍参謀に昇進

日露戦争後、河本大作はさまざまな部隊で実務経験を重ね、特に情報分析や地形戦術に優れた将校として上層部の信頼を得ていきました。1919年には陸軍大学校を卒業し、精鋭の中の精鋭とされる参謀資格を得ると、その後まもなく関東軍へと配属されます。当時、関東軍は日本の満洲権益を守る最前線であり、ここへの配属は軍内部でも特別な意味を持っていました。河本のように実戦経験と戦略眼を併せ持つ人物が抜擢されたことは、彼に対する期待の高さを示しています。

1920年代に入ると、満洲における日本の利権をめぐって国際的な緊張が高まり、関東軍は単なる防衛部隊ではなく、政治的・外交的圧力にも関与するようになります。その中で、河本は参謀という立場から現地の軍閥情勢を分析し、特に張作霖と日本の複雑な関係に注目していました。張作霖は日本と利害を共有する面がある一方で、列強との交渉を通じて独自の地位を築こうとしており、河本にとっては警戒すべき存在でもありました。

このような情勢下で、河本の参謀としての任務は単なる戦術立案を超え、地域全体の勢力バランスを左右する「戦略的判断」を求められるものでした。

爆殺事件の全貌と河本の深い関与

1928年6月4日、満洲の奉天郊外で起きた「張作霖爆殺事件」は、関東軍の一部による列車爆破工作により、中国軍閥の首領・張作霖が爆死した事件です。これは表向きには偶発的な事故とされましたが、後年の証言や研究によって、関東軍参謀であった河本大作がこの作戦の中心にいたことが明らかとなりました。彼が「奉天郊外の爆破地点を選定し、時刻と列車の進路を計算して作戦を実行させた」とされる証言も複数存在しています。

当時、日本政府は中国の不安定な情勢を背景に、満洲への影響力を強めようとしていました。しかし、外交的手段には限界があり、現場の軍人たちは「行動によって状況を変える」必要を感じていたのです。河本は張作霖が列強と手を組んで満洲から日本を排除しようとしていると確信し、「このままでは満洲を失う」と強い危機感を抱いていたといいます。彼にとって爆殺は、自衛と地域安定のための「戦略的な先制攻撃」であったのです。

この作戦は上層部の正式な命令ではなく、関東軍内部の独断で行われたため、事件発覚後は日本政府もその対応に苦慮しましたが、関東軍内ではむしろ「河本はよくやった」とする声が強かったとも伝えられています。

国際社会を揺るがせた一撃の代償

張作霖爆殺事件は、河本大作にとって「戦略的勝利」だったかもしれませんが、その波紋は国際社会全体に広がりました。張作霖は日本との関係が深い一方で、中国国内では列強と渡り合う現実的な指導者として一定の評価を受けており、その死は中国の政治バランスを大きく崩しました。特に、息子である張学良が父の死に激怒し、反日姿勢を明確にしたことで、日中関係は急速に悪化します。

また、アメリカやイギリスをはじめとする列強諸国も、鉄道爆破という行為を「国際秩序への挑戦」と受け止め、満洲における日本の立場は一気に孤立を深めました。国際連盟においても日本への批判が強まり、河本の行動は「軍人による外交の逸脱」として問題視されるようになります。日本国内では、当初は事件を隠蔽しようとする動きがあったものの、内部告発や外国メディアの報道によって、やがて河本の関与は否定できないものとなっていきました。

この事件は、満洲事変や日中戦争への連鎖の起点とも位置づけられており、「軍部が国家を動かし始めた最初の一撃」として、歴史的な転換点となりました。河本自身は事件について口を閉ざし続けましたが、その沈黙がかえって事件の闇を深くし、今なお評価の分かれる人物像を形づくっています。

河本大作の転落と沈黙:停職処分と予備役編入の真相

軍内処分の背景にあった政治的駆け引き

1928年の張作霖爆殺事件は、関東軍による独断行動でありながら、結果的に日本政府を国際的窮地に追い込みました。事件の直後、日本政府は公式には「関与を否定」しつつも、関東軍内部での調査を進めました。しかしその過程で、河本大作の関与がほぼ確実視されるに至り、1930年、彼は陸軍省から停職処分を受け、予備役に編入されます。

一見すると規律違反に対する当然の処分のように見えますが、実際には軍部内外で複雑な政治的駆け引きがありました。当時、陸軍内では河本を「満洲の危機を食い止めた英雄」とする評価も根強く、また彼の行動は石原莞爾や白川義則といった高級将官たちの思想とも合致していたため、内部では処分に慎重な声もありました。一方で、外務省や内閣は国際社会への説明責任から「何らかの制裁は不可避」としており、結局、軍紀を維持するための象徴的な処分として、河本の停職と予備役編入が決定されたのです。

この処分はあくまで軍の体面を保つための「落とし所」であり、裏では河本が再登用される余地も残されていたという指摘もあります。

沈黙を貫いた河本と浮上する諸説

停職処分を受けた河本大作は、その後一切のメディア取材や公的発言を拒否し、事件について語ることを徹底して避けました。この沈黙は、彼が軍人としての規律を守り、「命令なき任務の責任は、あくまで自らが背負うべきもの」と考えていたからだとされています。また、部下や上官を巻き込まないために、真相を語らなかったという見方もあります。

しかし、彼の沈黙が逆にさまざまな憶測を呼びました。一部では、大川周明や石原莞爾といった右翼思想家・戦略家が事件の背景にいたのではないか、あるいは河本が単独で決断を下したのではなく、関東軍全体の合意によるものだったのではないかという説も浮上しました。とりわけ、白川義則司令官が事件を事前に知っていたとする証言は、河本一人に全責任を負わせた処分の正当性を疑問視する声を強めました。

また、当時の中国軍閥との関係や、張学良との裏交渉があった可能性も指摘されており、河本の沈黙が「意図的な防衛線」だったとも解釈されています。沈黙は金とされた時代においても、彼の徹底した無言は異例であり、軍人としての矜持と同時に、深い葛藤の現れでもあったのです。

予備役生活の静けさと次なる舞台への布石

河本大作は予備役編入後、表舞台から姿を消します。軍の公式任務から離れた彼は、一時的に東京に戻り、静かな生活を送りました。しかし、その沈黙と静けさは、やがて次なる活動の準備期間でもありました。1930年代初頭、日本の満洲権益拡大が再び活発化する中で、河本の持つ現地情勢の知識と人脈は、政財界にとって非常に貴重な資源だったのです。

彼はやがて南満洲鉄道株式会社(満鉄)に顧問として関与するようになり、軍事的視点からの経済政策への助言を行うようになります。また、過去に接触のあった軍閥・閻錫山との縁を通じて、中国の炭鉱開発事業にも関与する道を模索していきます。軍人としての道を絶たれたものの、満洲という土地に対する関心と戦略的意志は失われていなかったのです。

この時期、彼が関与したとされる会合には、大川周明や元軍人たちが顔をそろえており、いわば「軍政から経済へ」という形で影響力を維持していた様子がうかがえます。予備役生活の静けさは、次の章で語られる実業家・河本大作への転身の布石であり、彼の生涯におけるもう一つの大きな転機となる時期でした。

実業家・河本大作:満鉄と炭鉱で魅せた経済手腕

満鉄理事としての辣腕と改革実績

軍籍を離れた河本大作が次に活躍の場としたのが、南満洲鉄道株式会社、通称「満鉄」でした。1932年頃、彼は軍の推薦を受けて満鉄の理事に就任します。これは単なる形式的な再就職ではなく、満洲での経験と軍事的知識をもとにした、経済と軍事の連携を意識した配置でした。満鉄は当時、日本の大陸政策の中核をなす国家的企業であり、鉄道網の整備だけでなく、産業や情報工作、教育事業までを手掛ける一大組織でした。

河本は就任後、まずは鉄道の輸送効率の見直しに着手し、軍需輸送の迅速化と輸送路の多重化を推進しました。また、軍人出身者としての視点を生かし、鉄道沿線地域における治安維持のための自衛措置や、駅ごとの情報集積の仕組みを整備したといわれています。こうした改革により、満鉄はより軍との連携を強化し、「戦争に耐える鉄道網」としての体制を築いていきました。

彼の施策の中で特筆すべきは、満鉄調査部との連携による地域分析でした。地域経済や人口動態を詳細に調査し、満洲経済の中枢を担う戦略拠点を整備したのです。こうした合理的かつ実利的な判断は、「満鉄の実務家」としての河本大作の評価を高め、軍政から経済へと活躍の場を移しながらも、その影響力を継続させていく礎となりました。

炭鉱事業における統率力と経済戦略

満鉄での実績を重ねた河本大作は、やがてさらに重要な産業分野である炭鉱開発へと関与を広げていきます。特に彼が主導したのが、満洲北部および山西省の炭鉱開発プロジェクトでした。これらの地域には豊富な石炭資源が眠っており、当時の日本にとっては軍需・産業両面で極めて重要なエネルギー源でした。

炭鉱事業では、かつての軍での指揮経験が大いに活かされました。河本は数千人規模の労働者と技術者を管理する立場に立ち、安全性と効率性を重視した労働体制を導入します。また、閻錫山との人脈を活かし、山西省の政権と連携しながら開発権の取得や輸送インフラの整備を進めたことで、政治と経済の両面にまたがる複雑な交渉を成功させました。

一方で、現地の中国人労働者の待遇改善や教育機関の設立にも関心を示し、労働争議の予防にも取り組みました。これは「資源を取るだけでなく、地域と共に発展する」という理念を反映したものであり、単なる搾取型の植民地経営とは一線を画すものでした。結果として、彼の統率のもと、炭鉱は安定的に稼働し、満洲経済の根幹を支える存在となっていきました。

軍人から実業家へ――変貌と継続する影響力

河本大作の人生は、軍人から実業家へと大きく転換を遂げましたが、その根底には一貫して「国家の利益に資する」という使命感が貫かれていました。彼が満鉄や炭鉱事業で発揮した手腕は、単なるビジネスマンとしての才覚というより、軍人として培った計画性・実行力・統率力が土台となっていました。軍事と経済を連動させる視点は、彼のような元軍人でなければ成し得ないものであり、それがまさに満洲政策の中枢に必要とされた理由でもあります。

また、彼は経済人としての顔を持ちながら、依然として関東軍内部との連絡を維持しており、石原莞爾や小磯国昭らとの私的な会談を重ねていた記録も残っています。これにより、彼の発言や意見が再び軍の戦略に影響を与える場面もあり、「退いた軍人でありながら現役以上に影響力を持つ存在」として周囲に認識されていました。

その影響力は、満洲の内政・経済・治安すべてに及び、日本の大陸政策の基盤づくりにおいて、河本の存在は欠かせないものとなっていきました。かつての参謀が経済戦略家へと変貌しつつも、「国家のために働く」という一点においては、彼の生き方は変わることがなかったのです。

河本大作、戦後の中国に残る:残留の理由と戦犯指定

敗戦後も中国にとどまった背景とは

1945年、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたことで第二次世界大戦は終結しました。その混乱の中で、多くの日本人が満洲や中国本土からの引き揚げを急ぐなか、河本大作は中国に残るという異例の選択をしました。この判断は、軍人でも実業家でもない、戦後の新たな局面での彼の立場を象徴するものでした。

彼がとどまったのは、単に帰国の機会を逸したからではありません。満洲や山西省の炭鉱事業において、現地の中国人労働者や関係者との結びつきが強く、彼自身が「日本人としての責任」を感じていたという証言もあります。特に、山西省の軍閥指導者・閻錫山との信頼関係は深く、戦後の混乱を収めるために日本人技術者や管理者の残留が求められる場面で、河本がその調整役を果たしていた可能性も指摘されています。

また、終戦後の一時期、彼は中華民国政府に協力する形で満洲の施設整理に関与したとの説もあり、「侵略者」としてではなく、「地域再建の協力者」として一定の評価を受けていたともいわれています。日本政府からの帰国命令に従わなかった背景には、軍人時代から抱き続けていた“現地責任主義”の信念があったと考えられます。

戦犯としての取調べと弁明の過程

戦後の河本大作には、厳しい運命が待っていました。1946年以降、中国共産党による支配が拡大する中、かつての日本軍や満鉄関係者は「戦争犯罪人」として次々と逮捕・拘束されていきます。河本もその一人であり、1947年に太原で拘束され、いわゆる「戦犯」として取調べを受けることになりました。

中国側は彼を「張作霖爆殺事件の首謀者」「対中侵略政策の中心人物」と位置づけ、厳しい尋問を重ねました。取調べの記録によれば、河本は事件への直接的な関与については明言を避けつつも、当時の関東軍における参謀の責任と役割について詳細に説明し、「軍の方針に従った」と語ったとされます。この姿勢は、責任逃れとも、軍人としての一貫した沈黙とも受け取れるもので、取り調べ官の間でも評価が分かれたと伝えられています。

また、彼の供述の中には、大川周明や石原莞爾などとの思想的な繋がりや、当時の日本軍内部の派閥抗争についての言及も含まれており、取り調べ当局はその証言を情報源としても重視していたようです。中国側は彼を東京裁判のような国際的な場に出すことはせず、国内での「人民裁判」で裁くことを選びましたが、結局は実刑に至らず、長期間の拘留によって事実上の刑罰とされました。

波乱の戦後アジアと河本の立場

戦後のアジア情勢は、国境の再編と政権交代が続く激動の時代でした。中国大陸では国共内戦が激化し、日本との協力関係にあった国民党は劣勢に追い込まれていきます。そのなかで、かつて閻錫山や張学良と親交のあった河本大作は、「過去の侵略の象徴」として厳しい視線を浴びる存在となりました。

特に張学良に関しては、父・張作霖を爆殺された事実が中国国内で改めて語られるようになり、河本の名は「日本軍国主義の顔」として象徴化されていきました。一方で、彼の実業面での貢献や、戦後の混乱期に現地住民の安全維持に尽力したという評価も一部にはあり、その立場は単純な「戦犯」ではなく、善悪が混在する複雑なものでした。

日本政府は戦後、現地に残された邦人の帰国支援を進めていましたが、河本のように明確な戦犯疑惑がある者については積極的に救済せず、彼の帰国は実現しませんでした。そのため、河本は中国という異国の地で、軍人としての過去と、実業家としての成果、そして戦犯という烙印の狭間で、波乱の戦後を生きることになったのです。

河本大作の最期:太原戦犯管理所での晩年

収容所での証言と人々との関わり

河本大作は戦後、中国当局により「重要戦犯」として太原戦犯管理所に収容されました。ここは山西省太原市に設けられた旧日本軍将校や関係者を収容する施設であり、思想改造や再教育の場としても機能していました。河本はその中で最年長クラスの被収容者であり、他の収容者から「元関東軍参謀」として一目置かれる存在でした。

管理所内では、戦犯たちによる証言記録や生活史の作成が行われており、河本も自身の満洲での活動や張作霖爆殺事件について、一部の証言を残しています。ただし、核心的な内容については相変わらず多くを語らず、部下や関係者をかばうような態度を取り続けたといわれています。彼のこの姿勢は、同じ収容者たちの間でも「軍人としての一貫した態度」として尊敬を集めました。

また、河本は収容所内で若い被収容者たちに対し、戦術論や歴史について語る機会を持っていたとされ、彼の知識と教養は学ぶ者にとって貴重なものでした。中国人職員との関係も比較的穏やかで、彼の冷静で礼儀正しい態度は、敵対心を和らげる要因になっていたともいわれています。晩年の河本は、戦争の総括を胸の内に秘めながら、静かにその責任を受け止めようとしていたのかもしれません。

病と老いに向き合う日々の記録

1950年代に入ると、河本大作の健康状態は次第に悪化していきました。収容所の生活は質素であり、医療体制も十分ではなかったため、高齢の彼にとっては身体的にも精神的にも過酷な環境でした。記録によると、彼は慢性的な呼吸器疾患と腎臓の不調を抱え、時折寝込むことも多かったとされます。

しかし、彼はそうした中でも規則正しい生活を崩さず、毎朝決まった時間に起床し、整頓された部屋で読書や記録の整理をしていたといいます。また、病床に伏している時でも、若い収容者が見舞いに訪れると静かに言葉をかけ、時には自らの過去の過ちや教訓を語ったと伝えられています。その語り口は激しさではなく、あくまで静かで、聞く者に考えさせるものだったといいます。

この時期には、日本からの支援物資や手紙もほとんど届かず、孤立無援の中での生活が続いていました。彼にとって、自らの選択や行動を他人に語ることよりも、「沈黙の中で責任を引き受けること」こそが軍人としての最後の務めだったのかもしれません。日々の生活に向き合いながら、河本は静かにその最期の時を迎えようとしていました。

死とともに葬られた遺体と記憶

河本大作は、1955年に太原戦犯管理所で亡くなりました。享年72。死亡時の詳細な記録は残されていませんが、病気による自然死とされており、最期の時は看守と数人の収容仲間に見守られながら、静かに息を引き取ったといわれています。遺体は現地で火葬され、遺骨は日本に送られることなく、現地で埋葬されたとされています。

彼の死は、当時の日本では大きな報道とはならず、戦後の混乱期に埋もれたまま、忘れ去られていく形となりました。家族や親族のもとに詳しい情報が届いたのは、しばらく経ってからであり、その時点でも詳細は伏せられていたといいます。張作霖爆殺事件という歴史の大事件に関わりながら、その最期はまるで「歴史の裏側に消えた男」のような静けさを伴っていました。

一方、中国側では、彼の死後も「日本軍の責任者の一人」として名前が記録に残され続けました。その一生は、軍人としての栄光、国家に尽くした誇り、そして国際的非難の中での孤独な晩年という、相反する要素を内包しており、誰もが簡単に善悪を断じられない複雑な存在として、歴史にその名を刻んでいます。河本大作の遺体とともに、その多くの記憶や真実も、静かに土の中へと葬られていったのです。

河本大作をどう語るか:評価をめぐる日中の視点

国内評価:愛国者か暴走軍人か

河本大作に対する日本国内での評価は、戦前・戦中・戦後で大きく変化してきました。戦前、特に満洲事変前後には、彼は「先見の明を持った軍人」「国策を切り拓いた実行者」として一定の称賛を受けました。爆殺事件こそ公には語られませんでしたが、軍部や政財界の一部では、張作霖の排除が満洲安定の契機になったと評価されていたのです。実際、当時の一部の軍人や政治家の中には「河本が動かなければ日本は機を逸していた」と述べる者もいました。

しかし、敗戦後の視点からは、河本の行動は「軍の逸脱を象徴する危険な前例」として再評価されます。とりわけ戦後の民主化と国際協調の流れの中で、彼のように独断専行で外交をゆがめた行為は強く批判されるようになりました。また、「事件の全責任を自ら背負い、沈黙を貫いた姿勢」に対しても、「真実の解明を阻んだ」とする見方がある一方で、「最後まで部下や国を守ろうとした忠義の軍人」とする声も根強く存在します。

このように、河本大作の国内評価は、視点の置き方によって真逆の見方が生まれる人物であり、日本近代史の中でも特に複雑な立ち位置にある人物の一人と言えるでしょう。

中国と世界の視点から見た河本大作

中国における河本大作の評価は、非常に厳しいものです。特に張作霖爆殺事件の首謀者として、その名は長く「侵略の象徴」として語り継がれてきました。中国の歴史教育や出版物では、河本はしばしば「関東軍の陰謀を具現化した男」として描かれ、張作霖の死がもたらした中国の混乱と、それに続く日中戦争の遠因を作った人物とされています。

また、張作霖の息子である張学良が長く「抗日民族英雄」として称えられてきたことから、父の命を奪った河本の存在は、その対比として一層ネガティブに描かれる傾向がありました。一方で近年、一部の中国の学者や歴史研究者の間では、河本の行動を「日本国内の政治と軍の分裂を象徴する事例」として、より冷静に分析しようとする動きも出てきています。

国際的には、河本の名前は東京裁判などの場には現れなかったこともあり、知名度は限られていますが、専門的な軍事史・外交史の文脈では、関東軍の暴走を象徴する存在として研究対象となることが増えています。アジア太平洋戦争の源流をたどる上で、彼の果たした役割は、決して小さなものではないのです。

現代における歴史的再評価とその意義

21世紀に入り、河本大作という人物への評価は、かつてよりも冷静かつ多角的な視点から見直されつつあります。日本国内では、軍人としての功罪だけでなく、実業家としての活動や、晩年の中国での振る舞いにも注目が集まり、「単なる好戦的軍人」では説明できない多面性が議論されています。満鉄や炭鉱開発を通じた現地社会との関わりは、今日の国際関係論や地域協力論の文脈でも考察の対象になっています。

また、沈黙を貫いた彼の姿勢に対して、「情報公開の重要性」や「個人の責任の所在」を問う研究も進んでいます。張作霖爆殺という事件が、いかにして日本の軍部主導体制を加速させ、やがて戦争へとつながっていったのか。その過程を理解する上で、河本の決断や行動を正確に知ることは不可欠です。

中国でも、戦争責任の追及一辺倒ではなく、「なぜ彼はその行動を取ったのか」という動機に注目する歴史教育や論文が現れ始めています。つまり、河本大作は今や「善か悪か」ではなく、「何をもたらした人物か」として評価される段階に来ているのです。このような再評価の動きは、歴史を一面的にとらえない成熟した視点の広がりを示すものであり、日中両国の歴史認識の架け橋としての意義をも持っています。

河本大作を描いたメディアたち:実像と虚像のはざまで

書籍『張作霖を殺した男の実像』が描く真相

河本大作の実像に迫る書籍として注目されたのが、2000年代初頭に刊行された『張作霖を殺した男の実像』です。この本は、関東軍の内部資料や河本自身の軍歴、さらに当時の外交文書や満鉄関係者の証言をもとに、爆殺事件の全体像を描き出しています。著者はジャーナリズム出身の歴史研究家であり、「事件の背後に何があったのか」を多角的な視点から追いかけています。

本書の特徴は、河本大作を単なる“狂信的軍人”として扱わず、彼がどのような情報を持ち、どういう判断のもとで行動したのかを掘り下げている点にあります。特に、爆殺の決断が瞬間的な激情によるものではなく、長期にわたる現地情報の蓄積と、それをもとにした冷静な戦略判断であった可能性を示唆する内容は、読者に強い印象を与えました。

また、同書では張学良や石原莞爾ら関係者の視点も取り上げられており、事件の複雑な背景と、河本個人の役割の重さが浮き彫りにされています。この一冊は、河本を一面的に断罪するのではなく、彼の行動を歴史の文脈の中で理解しようとする姿勢を示した貴重な資料であり、今日における歴史再評価の先駆けとも言える存在です。

自伝『私が張作霖を殺した』に見る主観と反響

河本大作が晩年、自らの手で記したとされる自伝的記録『私が張作霖を殺した』は、長らく存在が疑問視されてきましたが、近年になってその写本の一部が発見されたと報じられました。この文書は正式に出版されたものではなく、関係者や研究者の間で私的に回覧されていたものであり、その信憑性や執筆時期については今も議論が分かれています。

文書の中では、張作霖爆殺について「自らの決断で実行に至った」と明記されており、作戦の目的や経緯、関東軍内の空気感などが詳細に語られています。ただし、この告白は極めて主観的であり、あくまで河本自身の視点から書かれているため、事実との乖離も指摘されています。たとえば、上官の了承があったことを匂わせる一方で、具体的な名前や命令の文言には一切触れていない点などは、批判的に読む必要があります。

それでもこの文書が与えた衝撃は大きく、「沈黙を貫いた男」が語ったとされる最後の言葉として、メディアでも大きく取り上げられました。これにより、河本の動機や心理状態に対する関心が再燃し、彼を「自己犠牲的な実行者」と捉える見方も強まりました。自伝は虚と実が入り混じる資料ではありますが、河本という人物を知る手がかりとして、今後も研究の対象となり続けるでしょう。

漫画『虹色のトロツキー』が映す虚構とリアルの交差

河本大作の名は、意外にもフィクションの世界でも描かれています。特に1980年代から90年代にかけて連載された漫画『虹色のトロツキー』(作:安彦良和)は、架空のスパイ物語を通して、満洲を舞台にした歴史的背景をリアルに描き出した作品であり、作中には関東軍参謀としての河本が実名で登場します。

この作品では、彼は冷静沈着かつ非情な策士として描かれ、張作霖爆殺の首謀者としての側面が強調されています。フィクションである以上、史実とは異なる描写も多いのですが、当時の関東軍の思考様式や、河本のような人物が置かれていた葛藤や使命感を物語として再現した点は評価されています。作者は実際に関係資料を丹念に調べており、史実に基づいた描写を作品に織り込む手法をとっていました。

読者の中には、漫画を通して初めて河本大作という人物を知ったという声も多く、その影響力は侮れません。事実と創作が入り混じるこの作品は、歴史教育の入り口としても機能し、若い世代に戦前日本と満洲の歴史を伝える媒体となっています。ただし、あくまでエンターテインメントとしての枠を超えないよう、史実との線引きを意識する必要はあるでしょう。

河本大作の足跡をたどって見えるもの

河本大作の生涯は、明治から昭和という激動の時代を背景に、軍人、参謀、そして実業家として数々の局面を駆け抜けた複雑なものでした。張作霖爆殺事件に象徴されるように、彼の行動は時に国家戦略を変え、日中関係の行方を左右しました。戦後は戦犯として中国に留まり、沈黙のうちにその生涯を閉じた河本の姿には、功罪の評価が今なお交錯しています。実像と虚像の狭間にある彼の足跡をたどることは、近代日本の歩みと東アジアの歴史を見つめ直す契機となるでしょう。その存在は、現代における国家と個人、戦争と責任を考えるうえで、避けて通れない問いを私たちに投げかけています。

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