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    薬師恵日とは何をした人?「珍しき国なり」と叫び、遣唐使の扉を開いた医師の生涯

    こんにちは!今回は、飛鳥時代の日本が「世界」へと扉を開いた瞬間に立ち会った重要人物、薬師恵日(くすしのえにち)についてです。

    小野妹子と共に海を渡り、隋の滅亡と唐の建国という歴史的大転換を現地で目撃。帰国後には「唐は素晴らしい国だ」と報告して日本の外交方針を決定づけ、晩年まで実務の最前線に立ち続けた男。 彼は医師としての冷静な観察眼と、粘り強い交渉力を武器に、激動の東アジア外交を生き抜きました。

    教科書では数行で語られることが多いこの人物ですが、彼がいなければ日本の「遣唐使」は始まらなかったかもしれません。知られざる“実務外交官”薬師恵日の、波乱と情熱に満ちた生涯をひも解きます。

    目次

    渡来系氏族の末裔として医術を修めた薬師恵日の原点

    百済を経て渡来した祖先徳来の記憶と一族の誇り

    薬師恵日のルーツをたどると、日本の古代史を彩る「渡来人」たちの姿が浮かび上がってきます。彼の家系はもともと高句麗に起源を持つとされ、5代前の祖先である徳来(とこらい)の代に、百済を経由して日本(倭国)へと渡ってきたと伝えられています。

    当時の日本において、渡来系氏族は単なる移民ではありませんでした。彼らは先進的な技術や知識をもたらす「テクノクラート(技術官僚)」としての側面を強く持ち、大和政権の中で不可欠な役割を担っていたのです。徳来の一族もまた、大陸由来の知識を代々受け継ぎ、難波(現在の大阪)周辺を拠点として日本社会に深く根付いていました。

    「恵日」という名前からも分かるように、彼は幼い頃から仏教や大陸文化の薫陶を受けて育ちました。彼にとって海の外の世界は、恐ろしい異界であると同時に、祖先たちが歩んできた道であり、自身のアイデンティティの一部でもあったのでしょう。こうした「外への視線」を持つ出自が、後の彼の人生を大きく決定づけることになります。

    飛鳥の都で学んだ最先端の医術と教養

    薬師恵日という呼び名は、彼が「薬師(くすし)」、すなわち医師であったことに由来します。古代において医術とは、単に病を治す技術にとどまりません。薬草の知識、身体の陰陽バランスを見る思想、そして仏教的な慈悲の精神が渾然一体となった、当時最高峰の「知の体系」でした。

    飛鳥の都では、大陸から伝わった最新の医学書や本草学(薬学)が学ばれており、恵日もそうした環境の中で研鑽を積みました。彼が身につけたのは、漢文を読み解く高いリテラシーと論理的な思考力、そして人の命や健康を管理する実務能力です。これらは、医師としてだけでなく、外交官や行政官としても極めて有用なスキルセットでした。

    「医は仁術」と言いますが、恵日の場合、「医は外交の武器」でもありました。言葉の通じにくい異国の地において、人の身体を治す技術は、最も直接的かつ強力に信頼関係を築く手段となり得たからです。彼が頭角を現した背景には、この「医術」という確かな専門性があったことは間違いありません。

    なぜ若き薬師恵日が留学生という大任に選ばれたのか

    608年、推古天皇の朝廷は、小野妹子を大使とする遣隋使の派遣を決定します。この派遣は日本初の本格的な隋への外交使節団であり、単なる挨拶ではなく、隋の進んだシステムを本格的に輸入しようとする国家プロジェクトでした。

    この栄えある、しかし危険極まりない留学生の一人として、薬師恵日は選ばれます。彼の生年については明確な史料が残されていませんが、608年時点で医術の専門家として既に認識されていたと考えられます。もちろん、渡来系の血筋による語学力は選抜の大きな理由でしょう。しかしそれ以上に、彼が「医師」であったことが決定的だったのではないでしょうか。

    当時の隋は、世界最先端の医学知識を持っていました。健康管理や防疫は国家の基盤であり、日本としてもそのノウハウは喉から手が出るほど欲しいものでした。また、長期間の過酷な留学生活において、仲間の健康を守ることができる医師の存在は不可欠です。恵日は、自身の学びのためだけでなく、留学生チーム全体の「守り刀」として、その資質を見込まれたのかもしれません。こうして彼は、歴史の表舞台へと一歩を踏み出すことになります。

    小野妹子と共に海を渡り遣隋使留学生となった薬師恵日

    608年に高向玄理や南淵請安らと共に海を渡る決意

    推古16年(608年)、難波の津から遣隋使船が出航しました。船上の薬師恵日の胸には、期待と不安が入り混じっていたことでしょう。彼と共に海を渡ったのは、後に大化の改新の頭脳となる高向玄理、日本の思想界に大きな影響を与える南淵請安、そして僧旻(当時は日文と呼ばれていた若き僧)といった、そうそうたるメンバーでした。彼らは後に、日本の運命を変える「留学生・学問僧」として歴史に名を残すことになります。

    彼らを引率するのは、大使の小野妹子です。妹子は推古15年(607年)の派遣時に、隋の皇帝・煬帝から「無礼だ」と評価されながらも、隋の使者・裴世清を伴って帰国していました。そして推古16年、再び隋への派遣が決まり、今回は恵日たち留学生を携えての出発となったのです。このタフな外交官である妹子の背中を見ながら、恵日たちは「国を背負う」ということの重みを肌で感じていたはずです。

    当時の航海は命がけでした。東シナ海の荒波は容赦なく木造船を揺らし、難破のリスクは常に隣り合わせです。恵日は医師として、船酔いや伝染病に苦しむ仲間がいれば介抱し、無事の到着を祈ったことでしょう。この極限状態の共有が、後に続く彼らの強固な絆の原点となりました。

    大帝国隋の威容と初めて触れた異文化の衝撃

    苦難の末に大陸の土を踏んだ恵日たちを待っていたのは、想像を絶する光景でした。当時の隋は、大運河を建設し、周辺諸国を従える強大な帝国でした。首都・大興城(長安)や東都・洛陽の整然とした都市計画、空を突くような巨大な建築物、行き交う多種多様な民族の人々。飛鳥の都しか知らない若者たちにとって、それはまるで別世界の光景だったに違いありません。

    「これが、律令(法律)によって統治される国なのか」

    恵日は、建物の大きさ以上に、その背後にある「社会システム」の巨大さに圧倒されたはずです。市場の管理、官僚の登用制度(科挙の始まり)、戸籍による民衆の把握。日本が目指すべき「国のかたち」が、そこには完成形として存在していました。

    特に医師である恵日にとって、隋の医療体制は驚異的だったでしょう。隋では医療もまた国家機関の一部として組織化され、医学書の編纂が急速に進められていました。彼は隋の先進的な医学体制を目の当たりにし、自分の未熟さを痛感すると同時に、吸収すべき知識の山を前にして、武者震いにも似た興奮を覚えたのではないでしょうか。

    留学生として長安で直面した厳しい現実と学びの日々

    小野妹子が帰国した後、恵日たち留学生は現地に取り残されます。ここからが本当の試練の始まりでした。当時の長安での生活は、決して優雅な留学ライフではありません。言葉の壁、文化の違い、そして何より「蛮夷(野蛮な国)」の人間として見下される視線に耐えなければなりませんでした。

    恵日は高向玄理や南淵請安らと共に、必死に勉学に励んだとされます。彼らは単に書物を読むだけでなく、現地の知識人や官僚とも交流し、生きた情報を収集しました。恵日は医学や薬学を中心に学びつつ、隋の社会がどのように運営されているかを、医師らしい観察眼で見つめていました。

    また、共に学んだ仲間には、倭漢福因や恵斉、恵光、霊雲といった人物もいました。彼らは互いに励まし合い、現地での学びを共有しながら、「日本をどのように変えるべきか」について思索を深めたと考えられます。後の大化の改新で彼らが中心的な役割を果たすことを考えると、この長安での共同生活が、彼らの「国家改革ビジョン」の形成に決定的な影響を与えたことは間違いないでしょう。しかし、その隋の繁栄も、長くは続きませんでした。

    隋の滅亡と唐王朝の誕生を現地で目撃した薬師恵日の体験

    長安の激動と王朝交代の戦乱をどう生き抜いたか

    恵日たちが渡航してから約10年が経った618年、強大に見えた隋帝国は崩壊の危機を迎えます。皇帝・煬帝による過度な遠征や土木工事は民衆の疲弊を招き、各地で反乱が勃発しました。そしてこの年、ついに煬帝は殺害され、隋は滅亡します。代わって長安を制圧し、新王朝「唐」を建てたのが李淵でした。李淵は高祖として初代皇帝となり、その次男・李世民(後の太宗)は唐建国の有力な推進者として実力を示し始めます。

    留学生である恵日たちは、まさにこの「王朝交代(易姓革命)」の渦中にいました。長安の街も戦火や政変の緊張に包まれたはずです。平和な日本から来た彼らにとって、昨日までの支配者が殺され、新しい支配者が生まれるという暴力的な現実は、衝撃以外の何物でもなかったでしょう。

    「国とは、こうも脆いものなのか」

    恵日は、強力な権力も民心を失えば一瞬で崩れ去るという現実を目の当たりにしました。この時、身の危険を感じて逃げ出しても不思議ではありませんでしたが、彼らは留まりました。むしろ、この混乱期こそが、国家が生まれ変わるプロセスを観察する絶好の機会だと捉えたのかもしれません。

    倭漢福因ら留学生仲間と語り合った新しい大国の姿

    隋から唐へ。看板が変わっただけではありませんでした。新興の唐王朝は、隋の制度の良い部分を引き継ぎつつ、より洗練された法体系(律令)と、寛容な統治姿勢を打ち出していきました。

    恵日は、共に長安に残った倭漢福因や高向玄理らと、この変化について議論を重ねたと考えられます。「隋の失敗はどこにあったのか」「唐の新しい強さは何なのか」。彼らは、単なる医学や儒教の知識だけでなく、「失敗した国家」と「成功しようとする国家」の両方を見ることで、より実践的な政治感覚を養っていきました。

    特に恵日にとって興味深かったのは、唐が医術や学問をどのように保護・統制するかという点だったでしょう。隋から唐への転換期にあって、医学教育や医学知識の体系化が国家の重要事業として位置づけられていたのです。恵日は、国が安定するためには、武力だけでなく、民の命を守る医療や福祉のシステムが不可欠であることを学んだのです。

    医術の習得だけにとどまらない国家制度への深い洞察

    15年近い滞在を経て、薬師恵日は単なる医師の枠を超えた「知日派の知識人」へと成長していました。彼は唐の朝廷内で、律令制度の運用実態、税制、外交儀礼などを詳細に観察しました。

    例えば、唐の外交儀礼は非常に厳格で、周辺諸国との序列を明確にします。朝貢を行う国は、決められた作法に従い、唐の皇帝に敬意を示さなければなりません。恵日は、日本が将来、唐と対等に付き合うためには、日本自身が「法式の整った文明国」として振る舞わなければならないと痛感したはずです。

    「ただ仏像やお経を持ち帰るだけでは足りない。この『国家を統治する仕組み』そのものを持ち帰らねばならない」。そう確信した恵日は、いよいよ帰国の途につく準備を始めます。彼の手荷物には、薬草や医学書と共に、日本の未来を変えるための「青写真」が詰め込まれていたのです。

    「珍しき国なり」の報告で日本の針路を変えた薬師恵日

    623年の帰国直後に推古天皇へ行った重大な奏上

    推古31年(623年)、薬師恵日は共に長安で学んだ倭漢福因と共に、新羅の使節船に便乗する形でついに日本へ帰国します。15年ぶりの故郷。しかし、感傷に浸る間もなく、彼には果たさなければならない重大な任務がありました。それは、朝廷への情勢報告です。

    当時の日本は、隋が滅んだことは知っていても、新しくできた「唐」がどのような国なのか、正確な情報を持っていませんでした。「唐と国交を開くべきか、それとも距離を置くべきか」。この判断を誤れば、日本の安全保障は根底から覆ります。

    推古天皇の朝廷に対して、恵日は唐の国情について詳細な報告を行いました。『日本書紀』には、その時の恵日らの言葉として次のような趣旨が記録されています。 「大唐国は、法式備わり定まれり。珍しき国なり。常に通うべし」 (唐という国は、法律や制度が完備された素晴らしい国です。類まれな良い国です。常に使節を送って国交を結ぶべきです)

    「珍しき国」という言葉には、単に「珍しい」という意味だけでなく、当時の用法として「優れている」「賞賛に値する」というニュアンスが強く込められています。

    遣隋使から遣唐使へ外交方針を転換させた言葉の重み

    恵日のこの報告こそが、日本が「遣隋使」の時代を終え、「遣唐使」の時代へと舵を切る決定打となりました。もし恵日が「唐は戦乱続きで危険です」とか「隋より劣る野蛮な国です」と報告していたら、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。

    彼の言葉に説得力があったのは、彼が15年間現地で生活し、隋の滅亡と唐の興隆の両方を見てきた「生き証人」だったからです。さらに、医師としての冷静な観察眼も信頼された要因でしょう。彼は感情論ではなく、「法式(システム)が整っている」という客観的な事実をもって、唐との国交継続を訴えたのです。

    この提言は直ちに受け入れられ、朝廷内で検討が始まります。しかし、その後の推古天皇の崩御や皇位継承をめぐる混乱もあり、正式な派遣までには数年の準備期間を要することになりました。

    犬上御田鍬の補佐役として第1回遣唐使に挑む

    恵日の報告から約7年を経た630年(舒明天皇2年)、新しく即位した舒明天皇のもとで、ついに第1回遣唐使が派遣されることになります。大使に任命されたのは犬上御田鍬。そして副使には、他ならぬ薬師恵日が選ばれました。

    通常、一度長期留学から帰国した人物が、すぐにまた危険な航海に出ることは稀です。しかし、唐の事情に精通し、言葉も堪能な恵日の存在は、初の公式使節団にとって不可欠でした。犬上御田鍬は立派な貴族でしたが、現地の地理や作法を知り尽くしているのは恵日です。恵日は副使という肩書き以上の「実質的なガイド役兼交渉官」として、再び海を渡ることになったのです。

    ここには、もはや「学生」としての顔はありませんでした。日本の国益を背負い、大国・唐と渡り合う「外交官・薬師恵日」の姿があったのです。

    唐の太宗への謁見と留学生たちの帰国支援

    世界帝国唐の皇帝・李世民との対面という歴史的瞬間

    630年に出発した犬上御田鍬と薬師恵日の一行は、無事に唐の都・長安に到着します。当時の唐は、名君とされる太宗(李世民)の治世下で、「貞観の治」と呼ばれる黄金時代を迎えようとしていました。

    恵日たちは太宗に謁見を果たします。かつて留学生として仰ぎ見た宮殿の奥で、今度は日本国の正式な代表として皇帝の前に立ったのです。中国側の記録である『旧唐書』にも、日本(倭国)からの使者が来朝したことが記されており、この第1回遣唐使の訪問は、東アジアの国際外交史においても意義ある出来事として認識されました。

    この謁見の場において、恵日の存在は大きかったはずです。皇帝への拝礼の作法、言葉のニュアンス、贈答品の渡し方。これらすべてにおいて、恵日の過去の経験が活かされました。彼は大使の犬上御田鍬を完璧にサポートし、第1回遣唐使の外交任務を成功へと導いたのです。

    632年の帰国と長期滞在者たちを連れ帰る任務

    外交儀礼を終えた恵日たちは、632年(舒明天皇4年)、帰国の途につきます。この時、彼らにはもう一つの重要な任務がありました。それは、かつて自分と共に渡り、まだ唐に残っている留学生や学問僧たちを連れ帰ることです。

    その中には、霊雲(れいうん)や旻(みん)、勝鳥養(かつとりのかい)らがいました。彼らは608年の派遣からおよそ24年もの歳月を唐で過ごし、隋から唐への激動を肌で感じながら、日本以上に深い大陸の学識を身につけていました。恵日は、長きにわたり異国で研鑽を積んだ彼らを無事に船に乗せ、日本へ送り届ける手配をしたのです。

    彼らが持ち帰ろうとしていたのは、最新の仏教教義や易経、そして唐の統治システムに関する膨大な知識でした。恵日は自分自身の知識だけでなく、こうした優秀な頭脳を日本へ還流させる「パイプ役」として、極めて重要な役割を果たしました。

    知識の還流と帰国後の恵日の影響力

    無事に帰国を果たした恵日と、彼が連れ帰った霊雲や旻らは、その後の日本に計り知れない影響を与えました。彼らが唐からもたらした知識は、単なる教養にとどまらず、国家を運営するための実務的なノウハウそのものでした。

    帰国後、恵日と彼が連れ帰った学識者たちは、朝廷内で重要な相談役としての地位を築きます。彼らが持ち帰った「唐の統治システム」に関する知識は、その後の日本の国家体制の改革に向けた検討材料として活用されていきました。直接的に政治の表舞台で剣を振るうことはなくとも、彼らがもたらした「新しい国の青写真」が、中大兄皇子ら飛鳥の若き改革者たちを刺激し始めていたのです。

    こうして恵日は、外交官としての任務を全うし、次世代へのバトンを渡す準備を整えていきました。しかし、彼の実務家としての人生は、まだ終わりではありませんでした。

    老骨に鞭打ち再び海を渡った白雉の遣唐使と薬師恵日の晩年

    大化の改新後の新政府における薬師恵日の地位

    632年の帰国直後、日本外交は一つの躓きを経験します。恵日らと共に来日した唐の使者・高表仁(こうひょうじん)が、儀礼をめぐって日本側と対立し、天皇に会わずに帰国するという事件(高表仁事件)が起きたのです。この時、唐の礼儀作法を知る恵日は現場での調整に奔走したと考えられますが、結果として日唐関係は一時的に冷却化しました。

    しかし、こうした外交トラブルがあったからこそ、恵日のような実務家の評価が下がることはありませんでした。むしろ、唐との微妙な距離感を保ちながら国づくりを進めるうえで、彼の存在感は増していきます。645年に「大化の改新」が始まると、新政府の中枢には、かつて恵日と共に長安で学んだ盟友たちの姿がありました。

    国博士(くにのはかせ)となった高向玄理や僧旻らは、唐の制度をモデルに新しい国づくりを主導します。恵日自身も、その実績に対して朝廷から厚い信頼を得ていたと考えられます。彼のような渡来系の知識人が、新政府で重要な役割を担い続けた事実は、大化の改新がいかに「大陸の知識と実務」を重視していたかを如実に物語っています。

    654年に盟友高向玄理や河辺麻呂と挑んだ最後の旅

    白雉5年(654年)、第3次遣唐使が派遣されることになります。大使には河辺麻呂(かわべのまろ)が任命されましたが、副使には、すでにかなりの高齢となっていたはずの薬師恵日と、同じく老境にあった高向玄理の名がありました。

    通常であれば引退して余生を過ごすべき年齢です。しかし、朝廷は彼らを解放しませんでした。あるいは、彼ら自身が「自分たちが築いた外交ルートを、次世代に確実に引き継ぎたい」と志願したのかもしれません。若き日に共に夢を語り、隋の滅亡を目撃した恵日と玄理が、人生の最晩年において再び同じ船に乗り込む。この人事には、単なる実務以上のドラマチックな因縁を感じざるを得ません。

    彼らを乗せた船には、判官として参加した**置始大伯(おきそめのおおはく)**ら、次世代の官人たちの姿もありました。恵日は経験豊富な副使として、これら若い世代に波濤の越え方や唐での振る舞いを教え諭していたのではないでしょうか。それは、かつて自分が小野妹子の背中を見て学んだことの、最後の継承作業でもありました。

    史料が語らない薬師恵日の最期と一族に残したレガシー

    一行は無事に唐の長安に到着し、唐の皇帝・高宗への謁見を果たします。しかし、この旅は悲しい結末を迎えました。盟友・高向玄理は、長安の地で病に罹り、そのまま異国で客死してしまったのです。608年の渡航から実に46年、かつて青春を過ごした隋唐の地で、玄理の人生は幕を閉じることになりました。

    では、薬師恵日はどうなったのでしょうか。実は、彼の最期については史料に明確な記述が残されていません。高向玄理と共に長安で客死したのか、あるいは無事に帰国して日本で生涯を終えたのか、後代の歴史家による推測の域を出ないのが実情です。

    しかし、いずれにせよ、この654年の遣唐使が、彼が歴史の表舞台に姿を見せた最後の輝きとなったことは確実です。彼が命がけで切り開いた遣唐使の道は、その後200年以上も続きます。また、彼が伝えた医術や薬学の知識は、日本における医療制度の礎となり、その子孫である難波氏へと受け継がれていきました。薬師恵日という個人の肉体は滅びましたが、彼が「珍しき国」から持ち帰ったシステムと精神は、確実に日本の骨格として根付いていったのです。

    薬師恵日をもっと知るための本・資料ガイド

    ここまで、薬師恵日の生涯を追ってきましたが、彼の生きた時代や役割をより深く、あるいは違った角度から味わうための作品をいくつか紹介します。史実の重みを噛みしめたい方にも、物語として楽しみたい方にもおすすめできるラインナップです。

    東野治之『遣唐使』が解き明かす渡海の実像と留学生の過酷な運命

    まず手に取っていただきたいのが、東野治之氏による岩波新書の『遣唐使』(2007年刊行)です。この本は、ロマンチックに語られがちな遣唐使の実像を、丹念な史料検証に基づいて冷静かつ詳細に解き明かした、この分野の決定版ともいえる著作です。

    記事の中で、恵日が何度も海を渡ったことに触れましたが、本書を読むとその「渡海」がいかに無謀で過酷なプロジェクトだったかが、具体的なデータや航路の分析から生々しく伝わってきます。また、恵日のような留学生たちが現地でどのような生活を送り、経済的にどう工面していたのかといった、生活感のある記述も豊富です。

    恵日個人への言及はもちろん、彼を取り巻く外交システム全体を理解するのに最適です。「実務家」としての恵日の苦労をよりリアルに想像したい方にとって、この本は格好の手引きとなるでしょう。

    歴史書『日本書紀』が伝える薬師恵日の肉声と珍しき国なりという奏上

    次に紹介するのは、日本の正史である『日本書紀』です。「古典は難しそう」と敬遠されるかもしれませんが、現代語訳版(講談社学術文庫の宇治谷孟訳『日本書紀(下)』など)であれば、小説のようにスムーズに読み進めることができます。

    特に注目してほしいのは、推古天皇31年(623年)の記事にある、恵日の帰国報告のシーンです。「大唐国は法式備わり定まれり。珍しき国なり」という、彼の人生最大のハイライトとなる言葉が、どのような文脈で語られたのかを原文(または訳文)で確認するのは、歴史好きにとってたまらない体験となるはずです。

    小野妹子や高向玄理といった関連人物の動きも詳細に記されており、恵日が彼らとどう関わり、歴史の歯車を回していったかが一次史料から読み取れます。彼らの息遣いを直接感じたいなら、やはり原典に当たるのが一番の近道です。

    漫画『天上の虹』に描かれた飛鳥の人々の息吹と時代背景

    最後に、少し柔らかい入り口として、里中満智子氏の長編漫画『天上の虹』(文庫版全11巻)を挙げます。持統天皇を主人公にした作品ですが、文庫版の第1巻から第5巻あたりにかけて、その前段となる推古朝の終わりから大化の改新に至る時代背景も丁寧に描かれています。

    この作品の魅力は、教科書では無機質な名前だけの存在になりがちな人物たちに、豊かな感情と生活を与えている点です。薬師恵日が主役というわけではありませんが、彼が生きた飛鳥時代の空気感、渡来系の人々の立場、そして彼らが仕えた推古天皇や中大兄皇子といった権力者たちの人間ドラマが鮮やかに視覚化されています。

    「恵日が見ていたのは、こういう色彩の風景だったのか」とイメージを膨らませるのに、これほど適したテキストはありません。歴史の大きな流れを掴んだうえで、もう一度恵日の生涯を振り返ると、彼の孤独や情熱がよりいっそう胸に迫ってくることでしょう。

    知られざる外交のプロとして時代をつないだ薬師恵日の足跡

    医師として人の命を見つめ、外交官として国の命運を見つめた薬師恵日。その生涯は、まさに「知の架け橋」と呼ぶにふさわしいものでした。

    彼は、小野妹子という先達に導かれて海を渡り、隋の滅亡と唐の建国という世界史的な激動を肌で感じました。そして帰国後、その経験を「珍しき国なり」という端的な言葉に凝縮して伝え、日本を新しい時代へと押し出しました。晩年に至るまで、老体をなげうって日唐の往来を支え続けたその姿からは、名誉や地位よりも「国を良くしたい」という実務家としての強烈な使命感が伝わってきます。

    現代の私たちもまた、激しく変化する国際情勢の中に生きています。情報の真偽を見極め、異なる文化と対話し、自国の進むべき道を模索する。薬師恵日が1300年前に直面し、乗り越えていった課題は、形を変えて今も私たちの目の前にあります。

    歴史の教科書では数行で語られるだけの人物かもしれません。しかし、その数行の背後には、荒波を越え、異文化に飛び込み、未来を切り開こうとした一人の男の熱いドラマがありました。彼の足跡を知った今、遣唐使という歴史用語が、少しだけ体温を持った物語として感じられるのではないでしょうか。

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