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五代目尾上菊五郎の生涯:「江戸演劇の大問屋」と呼ばれ「團菊時代」を築いた江戸歌舞伎の名優

こんにちは!今回は、明治時代を代表する歌舞伎役者、五代目尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう)についてです。

九代目市川團十郎とともに「團菊時代」を築き、江戸歌舞伎の黄金期を支えた名優・五代目菊五郎。徹底した役作りと、世話物における見事な演技力で多くの観客を魅了しました。

その生涯と、歌舞伎界に与えた影響について詳しく見ていきましょう。

目次

市村座の若き座元としての奮闘

名門・市村座に生まれた五代目菊五郎の背景

五代目尾上菊五郎は、江戸三座の一つである市村座の名門・音羽屋に生まれました。市村座は江戸時代から続く格式ある劇場であり、尾上家もまた歌舞伎の名門として知られていました。五代目は天保14年(1843年)、四代目尾上菊五郎の長男として生まれ、幼少期から歌舞伎の世界に身を置いて育ちました。

江戸時代の歌舞伎界では、家柄が重視されると同時に、実力を持たなければ生き残ることができませんでした。五代目は、父の四代目菊五郎が築いた名声を受け継ぐ存在として期待される一方で、その名にふさわしい技量を身につける必要がありました。幼い頃から厳しい稽古を課せられ、舞台での立ち居振る舞いから発声、表情の作り方に至るまで徹底的に鍛えられました。

また、市村座は当時の江戸歌舞伎を代表する劇場の一つであり、興行主としての側面も強く持っていました。そのため、菊五郎が育った環境は、単に役者としての才能を伸ばすだけではなく、経営のノウハウを学ぶ場でもあったのです。

父の急逝と、若き座元が直面した試練

そんな中、嘉永2年(1849年)、五代目がわずか6歳の時に父・四代目尾上菊五郎が急逝しました。四代目は名優としてだけでなく、市村座の経営にも深く関わっていたため、その死は劇場全体に大きな衝撃を与えました。

通常、座元は一定の経験を積んだ役者や興行主が務めるものですが、五代目はまだ幼く、当然ながら劇場の経営を担うことはできませんでした。このため、市村座は一時的に混乱し、経営も不安定になりました。しかし、周囲の支えもあり、五代目は幼少期から「将来の座元」として育てられ、歌舞伎界の中心に立つ存在としての教育を受け続けました。

本格的に座元としての役割を担うようになったのは、五代目が17歳になった万延元年(1860年)のことでした。父の死後、しばらくは他の座員や興行主が経営を支えていましたが、やがて五代目自身が市村座を率いる立場に立たなければならなくなったのです。当時の歌舞伎界は、人気役者が劇場の興行を左右する時代であり、座元としての手腕が劇場の存続を決める重要な要素となっていました。

経営者としての手腕と舞台芸術への情熱

座元となった五代目は、まず経営の立て直しに取り組みました。市村座は江戸三座の一つでありながら、当時は競争が激しく、経営の安定には工夫が必要でした。五代目は、観客のニーズを的確に捉え、新作の上演や人気演目の再演を積極的に行いました。特に、後に盟友となる河竹黙阿弥との共同作業が、市村座の興行に新たな活力をもたらしました。

五代目は、従来の演出にとらわれることなく、新しい舞台芸術の可能性を模索しました。衣装や舞台装置にもこだわり、演技だけでなく視覚的な美しさも追求しました。彼は、市村座を単なる娯楽の場ではなく、芸術の殿堂として確立することを目指し、歌舞伎の革新に挑んだのです。

また、五代目は「世話物」と呼ばれる庶民の生活を描いた演目を得意とし、そのリアルな表現力で観客を魅了しました。彼の演技は、単なる型にはまったものではなく、実際の生活や職人のしぐさを研究し、より自然で説得力のあるものへと昇華されていきました。この姿勢が後に河竹黙阿弥との名作誕生へとつながっていきます。

こうして、若くして座元となった五代目菊五郎は、経営者としての手腕と舞台芸術への情熱を兼ね備えた存在となり、やがて江戸歌舞伎の中心人物へと成長していきました。市村座を存続させるための奮闘は、彼の役者人生の基盤を築く重要な時期であったのです。

14歳の衝撃デビュー ―『鼠小僧』の快挙

初舞台で演じた蜆売り――『鼠小僧』の名場面

五代目尾上菊五郎が初めて舞台に立ったのは、嘉永5年(1852年)、彼がわずか14歳の時でした。江戸時代の歌舞伎界では、名門の家に生まれた子どもは幼少期から舞台に立つことが珍しくありませんでしたが、五代目のデビューは特別なものでした。彼が初舞台で演じたのは、河竹黙阿弥作の『鼠小僧』の蜆売りの役でした。

『鼠小僧』は、実在の義賊・鼠小僧次郎吉をモデルにした人気演目であり、江戸庶民に愛された作品でした。この物語の中で、蜆売りは庶民の一人として登場し、物語の展開に深みを与える役割を担っています。14歳の五代目は、年齢に似つかわしくないほどの堂々とした演技を見せ、観客を驚かせました。

特に注目されたのは、その声と動きでした。蜆売りという庶民的な役柄を演じるにあたり、五代目は実際に町の蜆売りを観察し、その口調や仕草を研究したといわれています。江戸の下町で見かける蜆売りの姿を舞台で再現することで、観客はまるで本物の蜆売りがそこにいるかのように錯覚したほどでした。このリアルな演技こそ、五代目の天性の才能を証明するものとなりました。

観客を魅了した天賦の才と圧倒的な存在感

五代目のデビュー舞台は、江戸の観客に強烈な印象を与えました。当時の歌舞伎界では、若手役者が初舞台を踏むこと自体は珍しくありませんでしたが、その多くは経験を積むための通過儀礼のようなもので、観客も「温かく見守る」ことが一般的でした。しかし、五代目の演技はその枠を超えていました。

彼の演技には、年齢を超えた「色気」と「品」がありました。役者の資質として重要視される「姿の美しさ」「声の張り」「所作の滑らかさ」が際立っており、観客は瞬く間に彼の虜となりました。さらに、観客との駆け引きも心得ており、緩急をつけた演技や間の取り方が絶妙だったといいます。これは、幼少期から舞台裏で学んできた経験と、本人の観察力の賜物でした。

また、五代目は舞台上での「目の演技」に優れていたとも評されます。鼠小僧を演じる大人の役者との対峙の場面では、ただ怯えるのではなく、観客の想像力を掻き立てるような目の動きを見せました。この細かい演技により、批評家たちからも「将来を嘱望される逸材」と称賛されることになったのです。

批評家たちが語る五代目の将来性

五代目のデビューは、当時の批評家や芝居好きの町人たちの間で大きな話題となりました。特に、江戸歌舞伎に精通した書き手たちは、彼の演技に並々ならぬ可能性を見出しました。

当時の劇評には、「まだ14歳にしてこの芸の冴え。いずれ江戸歌舞伎の未来を担うことになるだろう」といった内容のものが残っています。また、ある評者は「この年齢でこれほどの色気と芝居心を持つ者は稀であり、五代目の将来は計り知れない」と書き記しました。

このデビューを機に、五代目は一躍注目を浴びることとなり、市村座の若き看板役者としての道を歩み始めることになりました。彼の演技には、単なる「型」をなぞるだけではない、独自の工夫が見られ、それが後の歌舞伎革新へとつながっていきます。

こうして、五代目の14歳のデビューは、単なる通過点ではなく、江戸の観客に衝撃を与えた歴史的な瞬間となったのです。彼の天賦の才と努力によって、この舞台は伝説となり、五代目の名前は江戸中に知れ渡ることとなりました。

19歳で掴んだ出世作『弁天小僧』

『青砥稿花紅彩画』のあらすじと見どころ

五代目尾上菊五郎が19歳で演じた『弁天小僧』は、河竹黙阿弥作の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』の中の重要な登場人物のひとりです。この作品は、江戸時代の庶民の間で人気のあった白浪物(しらなみもの)と呼ばれる盗賊を題材にした歌舞伎作品のひとつで、1856年(安政3年)に初演されました。

物語の中心となるのは、「白浪五人男」と呼ばれる5人の盗賊たちです。彼らは義賊のような振る舞いを見せながらも、江戸の町を騙し、華麗に悪事を働くことで知られています。その中でも五代目が演じた弁天小僧菊之助は、女性のように美しい容姿を持ち、女装して人を欺く技巧派の盗賊です。作中では、商人に対して娘のふりをして近づき、金をだまし取るものの、最後には正体を明かし、啖呵を切る名場面が存在します。

この作品は、当時の江戸庶民の間で大ヒットし、特に弁天小僧のキャラクターは大きな人気を博しました。五代目菊五郎がこの役を演じることで、その美しさと芝居の巧みさが絶賛され、彼の出世作となったのです。

「知らざぁ言って聞かせやしょう」――名台詞誕生秘話

『青砥稿花紅彩画』の中でも、最も有名なシーンが「稲瀬川勢揃いの場」での弁天小僧の名台詞「知らざぁ言って聞かせやしょう」です。この一節は、今でも歌舞伎の名台詞として語り継がれています。

五代目がこのセリフを初めて発したのは、1862年(文久2年)の公演でした。このセリフは、商人に正体を暴かれた弁天小僧が、それまでの優雅な娘言葉から一転して荒々しい盗賊の口調に変わる瞬間を表しています。それまで女性のように振る舞っていた弁天小僧が、一瞬にして本性を現すこの場面は、観客に強烈なインパクトを与えました。

五代目は、この台詞を言う際の「間(ま)」を非常に重要視していたといわれています。ただ早口で啖呵を切るのではなく、観客が次に何が起こるのかを息をのんで待つような緊張感を作り出し、言葉の一つひとつを丁寧に発していました。この絶妙な間の取り方が、弁天小僧という役をより魅力的なものにしたのです。

また、このシーンでの五代目の表情の変化も見どころでした。柔らかな微笑みを浮かべていたかと思えば、一瞬にして鋭い眼光を放ち、まるで別人のように豹変する演技は、観客を圧倒しました。この巧みな演技によって、五代目は「江戸一番の美しき盗賊」としての地位を確立したのです。

江戸の観客を熱狂させた若き名優の躍進

この『弁天小僧』の公演は大成功を収め、五代目菊五郎は江戸の観客から絶賛されました。それまでにも数々の舞台を経験していたものの、19歳という若さでこれほどの当たり役を得たことは、彼の役者人生において大きな転機となりました。

五代目の演じる弁天小僧は、単なる悪党ではなく、どこか哀愁を帯びたキャラクターとして描かれていました。これには、彼自身の演技の工夫があったといいます。通常、白浪物の盗賊は豪快で荒々しい印象を持つものですが、五代目は弁天小僧に「人を欺くことへの悲哀」や「美しくあることの苦悩」を滲ませることで、単なる悪役ではなく、観客が感情移入できる存在に仕立て上げました。

この演技が評価され、彼は「世話物の名手」としての評価を確立しました。世話物とは、江戸庶民の生活を描いたリアルな作品群のことで、五代目はこれ以降、こうした作品を得意とするようになりました。特に、彼の演技には「生活の匂い」が感じられると評され、単なる様式美だけではなく、江戸の庶民が実際にそこにいるかのようなリアルさがあったのです。

また、この公演の成功により、五代目は市村座だけでなく、他の劇場からも声がかかるようになりました。特に、後にライバル兼盟友となる九代目市川團十郎との競演が期待されるようになり、歌舞伎界の新たなスターとしての道を歩み始めることになったのです。

こうして、19歳の五代目菊五郎は、『弁天小僧』という役を通じて一躍江戸歌舞伎の中心人物となりました。この成功を皮切りに、彼はさらなる高みを目指し、より多くの観客を魅了する役者へと成長していくことになります。

五代目菊五郎襲名への道のり

襲名に向けた努力と重圧との戦い

歌舞伎界において「名跡(みょうせき)」の襲名は、単なる名前の継承ではなく、その名にふさわしい実力と覚悟が求められる重大な節目でした。五代目尾上菊五郎が正式に「菊五郎」の名を襲名したのは1868年(明治元年)、彼が25歳の時でした。この襲名は、江戸時代から続く尾上家の伝統を受け継ぐものであり、大きな期待と重圧が彼にのしかかっていました。

五代目にとって、この襲名は決して順風満帆なものではありませんでした。彼はすでに19歳の時に『弁天小僧』で名声を確立していましたが、ただ一つの成功では名跡を継ぐには不十分とされていました。名優と呼ばれた父・四代目尾上菊五郎の芸を継承するためには、さらに幅広い演技力を身につけ、あらゆる役を演じこなす必要があったのです。

特に、五代目は世話物において抜群の才能を発揮していましたが、歌舞伎のもう一つの大きな柱である時代物の演技では、まだ修行の余地があると指摘されていました。時代物とは、武士や歴史上の人物を描いた荘重な作品群であり、荒事(あらごと)と呼ばれる勇壮な演技が求められるジャンルです。この分野では、市川家が得意とする市川團十郎の「成田屋」の芸風が主流であり、尾上家の「音羽屋」がどこまで対抗できるかが問われていました。

そのため、五代目は自らの演技の幅を広げるべく、時代物にも積極的に挑戦しました。特に、名作『勧進帳』の弁慶役に挑戦した際には、これまでの柔和な印象を脱し、堂々とした立ち回りを見せることで、観客や批評家を驚かせました。このような努力が実を結び、彼はついに尾上家の大名跡である「五代目菊五郎」を襲名することとなったのです。

四代目尾上菊五郎との比較と芸の継承

五代目の襲名が発表された際、多くの人々が彼と父・四代目菊五郎との比較を行いました。四代目は、江戸時代後期において名優と名高く、その芸風は端正で格調高いものでした。一方、五代目はより写実的で、感情を前面に出した演技を得意とする役者でした。

父と異なる演技スタイルを持ちながらも、五代目は四代目の芸を継承しようと努力しました。例えば、四代目が得意とした『義経千本桜』の狐忠信役では、父の演じた型を忠実に守りながらも、自らの解釈を加えて新たな表現を生み出しました。特に、狐の動き一つにしても、実際の狐の動作を研究し、より自然でリアルな動きを取り入れることで、新たな狐忠信像を作り上げたのです。

また、五代目は父が得意とした女形の要素を取り入れることにも意欲的でした。『弁天小僧』のように、美しい容姿を活かした女形に近い役もこなしつつ、立役(男役)としても確固たる地位を築こうとしました。このような柔軟な姿勢は、彼の演技をより魅力的なものにし、江戸から明治へと移り変わる激動の時代においても、観客を惹きつける要因となりました。

歌舞伎界における五代目の確固たる地位

五代目の襲名は、彼の役者人生において大きな転機となりました。彼は名実ともに江戸歌舞伎を代表する役者となり、その名声は全国に広まりました。

特に、明治維新後の歌舞伎界において、彼は新たな時代に即した演劇改革を進める役割を担うようになりました。西洋の演劇が流入する中で、従来の歌舞伎を守りながらも、より多くの観客に受け入れられる工夫を取り入れていったのです。

また、五代目は「團菊時代(だんきくじだい)」と呼ばれる歌舞伎の黄金期を築く中心人物となりました。これは、彼と九代目市川團十郎が互いに競い合いながら名舞台を生み出した時代を指します。五代目の柔らかく写実的な演技と、九代目團十郎の勇壮な荒事の演技は、見事な対比を成し、多くの観客を魅了しました。

さらに、五代目は歌舞伎の新たな演目作りにも関わるようになり、河竹黙阿弥と協力して数々の名作を生み出しました。彼の演技力と創造性が結びつくことで、歌舞伎の可能性がさらに広がったのです。

このようにして、五代目菊五郎は襲名を経て、単なる一役者ではなく、歌舞伎界全体を牽引する存在となりました。彼の名は、江戸歌舞伎の伝統を受け継ぎながらも、新たな時代の歌舞伎を切り開く象徴として刻まれることになったのです。

河竹黙阿弥との運命的な出会い

黙阿弥との初共演―信頼関係の構築

五代目尾上菊五郎の役者人生において、劇作家・河竹黙阿弥との出会いは決定的なものとなりました。河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)は江戸後期から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者で、特に「世話物」の名手として知られていました。彼が生み出した独特の七五調のセリフ回しや、人間味あふれる登場人物の描写は、五代目菊五郎の演技と見事に融合し、数々の名作を生み出すことになります。

二人が初めて本格的にタッグを組んだのは、五代目が19歳で出演した『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』、通称『弁天小僧』の舞台でした。黙阿弥が書いたこの作品は、五代目にとって出世作となり、以後、彼は黙阿弥作品の常連役者となっていきます。特に、黙阿弥が得意とする「白浪物(しらなみもの)」と呼ばれる盗賊を主人公にした作品群では、五代目の粋で色気のある演技が大いに生かされました。

黙阿弥は、五代目が持つ芝居のセンスと観客を惹きつける魅力を見抜き、彼のために当て書きをするようになりました。五代目もまた、黙阿弥の脚本に深く共感し、彼の描く登場人物に命を吹き込むことに全力を注ぎました。こうして、二人の信頼関係は確立され、歌舞伎の歴史に残る名コンビが誕生したのです。

『白浪五人男』『三人吉三廓初買』などの代表作

五代目と黙阿弥の代表作として最も有名なのが、『白浪五人男(しらなみごにんおとこ)』です。この作品は1862年(文久2年)に初演され、江戸の町を騒がせた五人の盗賊たちの生き様を描いたもので、歌舞伎の中でも特に人気のある演目のひとつです。五代目はここで、再び『弁天小僧』として登場し、その美しい女装と鮮やかな啖呵(たんか)が大きな話題となりました。

この作品のクライマックスは「稲瀬川勢揃いの場」と呼ばれるシーンで、五人の盗賊がずらりと並び、それぞれの決めゼリフを放つ場面が圧巻でした。五代目の「知らざぁ言って聞かせやしょう」という名ゼリフはこの場面でも披露され、観客から大喝采を浴びました。彼の演じる弁天小僧は、単なる悪党ではなく、どこか哀愁を帯びたキャラクターとして描かれ、江戸庶民の共感を呼びました。

もう一つの代表作が、1860年(万延元年)に初演された『三人吉三廓初買(さんにんきちざ くるわのはつがい)』です。この作品は、血縁を超えた義兄弟の絆と悲劇を描いたもので、五代目はお坊吉三(ぼうきちざ)という役を演じました。お坊吉三は元僧侶という設定で、七五調の名セリフ「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」で知られています。五代目はこの役でも、彼特有の柔らかく粋な演技を見せ、作品の持つ独特のリズムと情感を見事に表現しました。

世話物を極めた五代目の新たな表現スタイル

五代目菊五郎と河竹黙阿弥のコンビによって、世話物の表現は飛躍的に進化しました。世話物とは、町人や庶民の日常を描いた歌舞伎の一ジャンルで、リアリティのある演技が求められます。五代目は、庶民の仕草や話し方を徹底的に研究し、観客に「本当にそこに生きている人間がいる」と思わせるような演技を追求しました。

特に、彼の演技の特徴として「自然な間(ま)の取り方」が挙げられます。歌舞伎は型(かた)を重視する芸能ですが、五代目はその型にリアルな間を取り入れることで、登場人物により深みを与えました。例えば、『三人吉三』の名場面では、セリフとセリフの間に微妙な「間」を置き、登場人物の感情の揺れを表現しました。このような演技は、それまでの歌舞伎にはなかった新しいスタイルであり、彼の世話物の演技は後進の役者たちに大きな影響を与えました。

また、五代目は実生活における観察力を重視していました。彼は町を歩き、庶民の何気ない仕草や口調を学び、自らの芝居に生かしていたといいます。その結果、彼の演技は単なる作り物ではなく、観客が「どこかで見たことがある」と感じるリアリティを持っていました。

こうして、五代目菊五郎と河竹黙阿弥のコンビは、歌舞伎の世界に新たな風を吹き込みました。五代目は単なる名優にとどまらず、歌舞伎の表現そのものを革新し、次の世代へとつなげる役割を果たしたのです。二人の共同作業によって生み出された作品は、今なお歌舞伎の名作として語り継がれ、五代目の演技は多くの役者たちの手本となっています。

役作りへの徹底したこだわり

古着屋を巡り衣装を研究したエピソード

五代目尾上菊五郎は、役作りにおいて極めて細かいこだわりを持っていたことで知られています。そのこだわりの一つが、衣装に対する研究です。一般的に歌舞伎の衣装は、華やかさや格式を重視して作られることが多いのですが、五代目はそれだけではなく「登場人物が本当に着ていたであろう服」を追求しました。

特に世話物の役では、実際の庶民の服装を知るために、江戸の古着屋を巡り歩いたといわれています。当時の庶民がどのような布地の着物を着ていたのか、どんな擦れや汚れが生じるのかを徹底的に観察し、舞台衣装にもそのリアリティを反映させたのです。例えば、盗賊や町人の役を演じる際には、わざと着物にシワをつけたり、くたびれた質感を出したりすることで、より本物らしい雰囲気を作り出しました。

この衣装へのこだわりは、観客にとっても新鮮なものでした。通常、歌舞伎の衣装は「いかに美しく見せるか」が重視されていましたが、五代目の演じる庶民の役では「いかに生活感を出すか」が重要視されました。結果として、彼の芝居にはこれまでの歌舞伎にはないリアルさが生まれ、多くの観客を魅了することとなりました。

左官職人に弟子入りし、リアリティを追求

五代目の役作りのこだわりは、衣装だけにとどまりません。彼は、演じる役の職業や生活を深く理解するために、実際にその仕事を体験することもありました。特に有名なのが、左官職人の役を演じる際に、本物の左官職人に弟子入りしたというエピソードです。

歌舞伎の舞台では、職業ごとの動作や道具の使い方が細かく決められています。しかし、五代目は「見た目だけ真似るのではなく、本当にその仕事をしているかのように見せることが重要だ」と考えました。そのため、左官職人の仕事を学ぶために、実際の工事現場で修行をし、鏝(こて)の持ち方や塗り方を徹底的に研究したのです。

この経験は、彼の演技に大きな影響を与えました。舞台上で壁を塗る動作一つを取っても、観客が「本物の職人が仕事をしているようだ」と感じるほどのリアリティが生まれたのです。また、この徹底した役作りは、後の世代の役者にも影響を与え、歌舞伎の表現の幅を広げることにもつながりました。

役になりきるための独自の稽古法と演技論

五代目は、「役者はその人物になりきることが最も重要である」という考えを持っていました。そのため、彼は稽古の際に「役の人物として生活する」ことを取り入れていました。例えば、ある公演で浪人の役を演じる際には、しばらくの間、粗末な家に住み、質素な食事を取りながら生活したといわれています。そうすることで、貧しい武士の心情や動作を自然に表現できるようになると考えていたのです。

また、五代目の演技には、観客の心理を巧みに利用する工夫が随所に見られました。彼は「演技は見せるのではなく、感じさせるものだ」と考えており、派手な動きよりも、抑えた演技で観客の想像力をかき立てることを重視しました。例えば、驚いた表情をする際には、大きく目を見開くのではなく、ほんの一瞬だけ目線をずらすことで観客に緊張感を与えるといった細かい技術を使っていました。

このような演技論は、五代目が活躍した明治時代の歌舞伎に新たな風を吹き込みました。伝統的な様式美を重んじつつも、よりリアルで自然な演技を取り入れることで、歌舞伎の新しい表現を生み出したのです。こうした革新が、後の「新派(しんぱ)」と呼ばれる近代演劇の潮流にもつながり、五代目の影響は歌舞伎界を超えて広がっていきました。

こうして、五代目菊五郎は徹底した役作りを通じて、歌舞伎の表現に深みを与えました。彼の研究熱心な姿勢とリアリティを追求する姿勢は、現在の歌舞伎役者たちにも受け継がれています。

團菊時代――歌舞伎黄金期の確立

九代目市川團十郎との競演が生んだ名舞台

五代目尾上菊五郎の名が歴史に刻まれる要因の一つに、「團菊時代(だんきくじだい)」の確立があります。これは、彼と九代目市川團十郎の二人が中心となり、明治時代の歌舞伎を大いに盛り上げた時代を指します。

九代目市川團十郎は、市川家に伝わる「荒事(あらごと)」の演技を極めた名優であり、対する五代目菊五郎は「和事(わごと)」や「世話物(せわもの)」を得意とする役者でした。この対照的な演技スタイルが観客を魅了し、二人が共演する舞台は連日大入りとなりました。

二人の名舞台として特に有名なのが、『勧進帳(かんじんちょう)』です。この作品は、九代目團十郎が弁慶を演じ、五代目菊五郎が源義経を演じるという配役で大成功を収めました。團十郎の力強い立ち回りと、菊五郎の繊細で気品ある義経の演技は、互いの芸を最大限に引き立て合うものでした。この舞台は、まさに團菊時代の象徴ともいえるものとなり、今日に至るまで歌舞伎の名作として語り継がれています。

また、『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』でも、九代目團十郎の助六に対して、五代目菊五郎が揚巻(あげまき)という女形を演じ、見事な掛け合いを披露しました。荒々しく豪快な助六と、華やかで品のある揚巻の対比は、観客を魅了し、團菊コンビの人気を決定的なものとしました。

荒事と和事の対比がもたらした革新

團菊時代の成功の要因の一つは、歌舞伎の二大演技スタイルである「荒事」と「和事」の対比が際立っていたことです。

荒事とは、もともと市川家が得意とする豪快で力強い演技様式で、勧善懲悪の世界観を表現するのに適しています。一方で、和事は、柔和で情感豊かな演技を重視し、主に恋愛劇や人情話で活用される演技様式です。五代目菊五郎は、特に世話物における和事を得意とし、実際の庶民の生活を取り入れた自然な演技を追求しました。

この二人が共演することで、舞台には強烈なコントラストが生まれました。例えば、『勧進帳』では、團十郎の弁慶が舞台狭しと暴れ回る一方で、菊五郎の義経はあくまで冷静沈着な佇まいを崩しません。この対比が作品に深みを与え、観客は二つの異なる演技スタイルを同時に楽しむことができました。

また、五代目菊五郎は、團十郎の「荒事」に影響を受け、自身の演技にも取り入れました。特に、『暫(しばらく)』の鎌倉権五郎の役では、それまでの柔らかな演技スタイルを脱し、堂々とした立ち回りを披露しました。こうした挑戦によって、彼の芸域はさらに広がり、團菊時代の名優としての地位を確立したのです。

観客層の変化と興行の成功に貢献

團菊時代が生まれた明治時代は、日本社会が大きく変革する時期でもありました。江戸時代の封建制度が終わり、西洋文化が流入する中で、歌舞伎もまた新たな観客層を獲得しなければならないという課題に直面していました。

五代目菊五郎と九代目團十郎は、従来の町人文化を支持する江戸の観客に加えて、新たに台頭してきた武士階級や知識人層にも受け入れられるような舞台作りを意識しました。その一環として、彼らは西洋演劇の要素を取り入れ、より写実的な演技を志向するようになりました。

また、興行の面でも工夫が見られました。五代目菊五郎は、演目の選定や舞台演出にも積極的に関与し、新しい試みを取り入れることで歌舞伎の人気を維持しました。特に、河竹黙阿弥との協力によって生まれた『白浪五人男』や『三人吉三』といった作品は、當時の観客の感性に合致し、大きな成功を収めました。

さらに、彼らは巡業公演を積極的に行い、東京だけでなく地方の観客にも歌舞伎の魅力を伝えました。この活動によって、歌舞伎は全国的な人気を獲得し、明治時代を代表する大衆娯楽としての地位を確立しました。

このように、團菊時代は単なる名優の時代ではなく、歌舞伎そのものが大きく発展し、新たな観客層を獲得する重要な転換期でもありました。五代目菊五郎は、その中心に立ち、九代目市川團十郎とともに歌舞伎の黄金期を築き上げたのです。

明治歌舞伎の改革者としての挑戦

「新古演劇十種」の制定とその影響

明治時代に入ると、日本は急速な近代化の波に飲み込まれ、西洋文化が流入する中で伝統芸能の在り方も問われるようになりました。歌舞伎も例外ではなく、旧来の型を守るだけではなく、時代に適応する必要が出てきました。この変革期に、五代目尾上菊五郎は「明治歌舞伎の改革者」として新たな道を切り開く役割を果たしました。その象徴が、彼が主導して制定した「新古演劇十種(しんこえんげきじっしゅ)」です。

「新古演劇十種」は、五代目菊五郎が自ら選定した、特に優れた演目を集めたリストであり、歌舞伎の伝統を守りつつも、新しい時代に適した作品を後世に伝えることを目的としていました。この試みは、歌舞伎界全体に影響を与え、当時の役者たちに「単なる古典の再演ではなく、新たな表現を模索するべきである」という意識を芽生えさせました。

また、この十種には、世話物や時代物の名作だけでなく、新たに書かれた作品も含まれており、五代目の「新しい時代にふさわしい歌舞伎を創造する」という意志が強く反映されています。例えば、彼の盟友である河竹黙阿弥が手掛けた作品は、この十種の中でも特に重視され、五代目の演技とともに歌舞伎の近代化に貢献しました。

明治政府との関係と歌舞伎の近代化への歩み

明治維新後、新政府は西洋化を推進し、日本の伝統文化を時代遅れのものとして扱う傾向が強くなりました。特に歌舞伎は、庶民の娯楽としての側面が強かったため、政府からは「低俗なもの」と見なされ、一時期は廃止の危機にまで追い込まれました。

この状況に対し、五代目菊五郎は歌舞伎の価値を再評価し、新しい形で社会に適応させることに尽力しました。彼は政府要人とも接触し、歌舞伎を単なる娯楽ではなく、「日本の伝統文化として守るべき芸術」として認めてもらうための活動を続けました。

また、西洋演劇の要素を取り入れた新たな演出方法を模索し、舞台装置や照明技術の向上にも力を注ぎました。例えば、明治時代にはガス灯や電気照明が導入され始めましたが、五代目はこれらの技術を積極的に採用し、舞台の視覚効果を高める工夫を行いました。これにより、従来の歌舞伎にはなかったリアリティや臨場感が生まれ、観客にとってより魅力的なものとなりました。

さらに、五代目は、歌舞伎の役者たちに西洋演劇の演技法を学ばせる機会を作るなど、新たな表現を積極的に取り入れる努力をしました。このような試みは、従来の型にとらわれない自由な演技の発展につながり、後の新派(しんぱ)や新劇(しんげき)といった演劇運動にも影響を与えました。

後進への影響と六代目尾上菊五郎への継承

五代目菊五郎の影響は、彼の息子である六代目尾上菊五郎にも強く受け継がれました。六代目は、父が築いた近代歌舞伎の改革精神を受け継ぎ、さらなる発展を目指しました。

特に、六代目は「自然な演技」を重視する演技スタイルを確立し、五代目が開拓したリアリズムの手法をさらに発展させました。これは、明治から大正・昭和へと移り変わる時代の中で、歌舞伎が生き残るための重要な要素となりました。

また、五代目の芸の精神は、六代目だけでなく、多くの後進の役者たちにも大きな影響を与えました。彼の徹底した役作りや、実生活を観察して演技に生かす姿勢は、後の歌舞伎界においても模範とされ、多くの名優たちが彼の手法を参考にしました。

五代目の亡き後も、彼が築いた改革の精神は受け継がれ、歌舞伎は日本の伝統芸能としての地位を確立することができました。彼の挑戦は、単なる一役者の業績にとどまらず、歌舞伎全体の未来を切り開くものだったのです。

書籍・映画に刻まれた五代目の伝説

『尾上菊五郎』(安部豊編)に見る評価と評伝

五代目尾上菊五郎の生涯と芸の軌跡は、多くの書籍に記録され、後世に伝えられています。その中でも、安部豊編の『尾上菊五郎』(好文社、大正8年)は、五代目の演技や人物像を詳しく描いた貴重な資料の一つです。

この書籍では、五代目の演技スタイルが「自然でありながらも、観客の心を揺さぶるもの」であったと評されています。特に、彼の世話物の演技に対する分析が詳しく記されており、当時の観客が彼の芝居をどのように受け止めたかがよく分かります。例えば、『弁天小僧』における「知らざぁ言って聞かせやしょう」の場面では、単なる啖呵ではなく、キャラクターの心情を巧みに表現した点が評価されています。

また、この書籍には、五代目が生涯にわたって芸の探求を続けた姿勢が記されています。彼は、ただ型を踏襲するのではなく、役ごとに異なるアプローチを試み、時には新しい演技技法を取り入れることもありました。この革新性こそが、彼を単なる名優ではなく、「近代歌舞伎の礎を築いた人物」として評価される理由となっています。

六代目菊五郎が語る五代目の芸と精神――『藝』より

五代目の芸と精神は、息子である六代目尾上菊五郎にも受け継がれました。六代目自身も名優として名を馳せましたが、彼は常に父・五代目の影響を強く受けていたと語っています。その証拠に、六代目の著書『藝』(改造社、昭和22年)には、父の演技や人物についての回想が詳細に記されています。

六代目は、「父の芝居は常に生きていた」と述べ、五代目の演技が単なる様式美ではなく、観客の心に訴えかける力を持っていたことを強調しています。特に印象的なのは、五代目の役作りの姿勢についての記述です。六代目によれば、五代目は役ごとに異なる生活を送り、演じる人物の心理を深く理解しようとしていたとのこと。たとえば、浪人の役を演じる際には、実際に質素な生活を送り、あえて困窮した状態を体験することで、役に没入していたと語られています。

また、『藝』の中では、五代目の「間」の使い方についても言及されています。六代目は、「父の間は計算されたものではなく、その場の空気を感じ取って生まれるものだった」と述べており、彼の演技が型にはまらず、常に新鮮だったことを強調しています。この点は、六代目自身の演技スタイルにも大きな影響を与え、彼もまた「自然な演技」を重視する役者として知られるようになりました。

映画『鏡獅子』に映し出された五代目の美学

五代目菊五郎の芸は、舞台だけでなく映像作品にも影響を与えました。その代表例が、昭和10年(1935年)に公開された映画『鏡獅子』です。監督は名匠・小津安二郎であり、この作品は六代目菊五郎が主演を務めましたが、その演技の中には、五代目から受け継いだ美学が色濃く反映されています。

『鏡獅子』は、歌舞伎の舞踊劇を映像作品として残したもので、六代目が演じる獅子の舞は、まさに五代目の芸の集大成とも言えるものでした。五代目は、舞踊においても「動きの流れ」を重視し、一つひとつの所作を意味のあるものにすることにこだわっていました。六代目は、この父の哲学を忠実に継承し、映画の中でそれを見事に体現したのです。

特に注目すべきは、獅子が毛を振る場面の動きです。五代目は、この場面をただの派手な演出としてではなく、「獅子の内面の感情が爆発する瞬間」として捉えていました。六代目もまた、この解釈を受け継ぎ、舞踊の中に心理描写を組み込むことを意識しました。こうした表現の工夫は、舞台と映画の枠を超えて、五代目の芸が後世に影響を与え続けたことを示しています。

また、この映画の公開によって、歌舞伎が映像としても記録されることの重要性が認識されるようになりました。五代目自身は映画の時代を直接経験していませんが、彼が築いた芸のスタイルが映像作品に生かされたことで、歌舞伎の新たな可能性が広がったのです。

まとめ

五代目尾上菊五郎は、江戸から明治へと移り変わる激動の時代において、歌舞伎の発展と革新に大きく貢献した名優でした。市村座の座元として若くして興行を支えながらも、『弁天小僧』などの当たり役を得て名声を確立し、九代目市川團十郎との「團菊時代」を築くことで、歌舞伎の黄金期を牽引しました。

また、河竹黙阿弥との名コンビにより世話物の演技を極め、衣装や動作のリアリティを追求するなど、役作りにも徹底的にこだわりました。さらに、「新古演劇十種」の制定や明治政府との交渉を通じて、歌舞伎の近代化にも尽力しました。

彼の芸は、六代目菊五郎や後進の役者たちに受け継がれ、映画や書籍を通じて今なお語り継がれています。五代目菊五郎は、単なる名優にとどまらず、歌舞伎の未来を切り開いた改革者として、その名を歴史に刻みました。

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