こんにちは!今回は、奈良時代の優れた官人であり、二度の遣唐使として活躍した大伴古麻呂(おおとものこまろ)
についてです。彼は、唐の朝廷での外交交渉を成功させ、日本の国際的地位を向上させました。また、鑑真和上を日本に招請することに成功し、日本の仏教史にも大きな影響を与えました。
しかし、彼の生涯は決して順風満帆ではなく、最期は藤原仲麻呂の専横に反発し、橘奈良麻呂の乱に加担して非業の死を遂げます。そんな波乱に満ちた大伴古麻呂の生涯を詳しく見ていきましょう!
名門・大伴氏に生まれて
大伴氏の歴史とその影響力
大伴氏は、日本の古代豪族の中でも特に長い歴史を持つ名門であり、主に軍事を司る一族として知られています。その起源は神武天皇の東征にまで遡るとされ、『日本書紀』や『古事記』には、大伴氏の祖先が天皇家の武門の守護者として活躍したことが記されています。
奈良時代以前、大伴氏は物部氏、佐伯氏などと並ぶ武門の筆頭として朝廷に仕え、ヤマト政権の軍事力を支える存在でした。特に飛鳥時代には、大伴金村(おおとものかなむら)が大連(おおむらじ)として朝廷の中心にありました。しかし、6世紀後半の大伴氏は勢力を失い、一時期政界から後退します。奈良時代になると、大伴旅人やその息子・大伴家持が政治や文化の面で再び影響力を持つようになり、『万葉集』にも多くの詩が収められています。
このような名門の家に生まれた大伴古麻呂は、幼いころから政治や軍事だけでなく、漢詩や唐文化についても学ぶ機会に恵まれていました。大伴氏は藤原氏のような貴族官僚ではなく、実務官僚や武人としての役割が強かったため、古麻呂もまた実践的な知識を身に付けることが求められたのです。
古麻呂の幼少期と家系のつながり
大伴古麻呂の生年については明確な記録が残っていませんが、8世紀初頭、すなわち奈良時代前期に生まれたと推定されています。彼の父についての詳細な記録は見当たりませんが、大伴旅人が叔父であったことから、大伴氏の中でも高位の家系に属していたと考えられます。
古麻呂の幼少期は、貴族として漢詩や歴史、儒学を学ぶと同時に、大伴氏の伝統である軍事の訓練も受ける環境にありました。当時の貴族の子弟は、一定の年齢になると中央の官人としての教育を受けるために都へ上ることが多く、古麻呂もまた幼い頃から宮廷の政治を間近で見て育ちました。
また、大伴氏は当時、外交面でも重要な役割を果たしていました。古麻呂の時代は、遣唐使が盛んに派遣され、日本が唐の制度や文化を積極的に吸収しようとしていた時代でした。そのため、幼少期の古麻呂も自然と中国文化に触れる機会が多く、唐との交流を深めることができる立場にありました。
叔父・大伴旅人との関係と学び
大伴古麻呂の成長において、叔父・大伴旅人の影響は計り知れないものでした。大伴旅人(665年頃~731年)は、奈良時代を代表する貴族・文人の一人であり、『万葉集』にも多くの漢詩を残した人物です。彼は遣唐使として唐に渡った経験を持ち、その後、九州の太宰府の長官(大宰帥)を務めました。
古麻呂は、若い頃に旅人のもとで学び、特に中国文化や詩文の素養を身につけました。当時の大宰府は、外交と軍事の要衝であり、新羅や唐との交渉を担う重要な拠点でした。旅人はこの地で、多くの文化人と交流を持ち、漢詩の文化を広めました。古麻呂もまた、旅人のもとで唐の政治や外交について学び、のちに遣唐副使として唐へ渡る際の基礎を築いたのです。
また、旅人は当時の朝廷における藤原氏の台頭に対して慎重な立場を取り、貴族間の勢力争いに深く関与していました。この政治的な対立構造を間近で見ていた古麻呂は、藤原仲麻呂との対立へと繋がる政治的な思想を形成するようになっていきます。
大伴氏は、武門の家柄でありながら文化的な側面も持つ特異な一族でした。古麻呂は叔父の影響を受けながら、単なる軍人や行政官としてだけでなく、外交官としての資質を磨くこととなり、後の遣唐副使としての活躍へとつながっていくのです。
治部少丞として仕えた日々
役職「治部少丞」とは?
奈良時代の官僚制度は、7世紀後半の天武天皇と持統天皇の治世において整備され、8世紀初頭の大宝律令(701年制定)によって完成しました。この律令制度に基づき、中央政府には「八省」が設置され、そのうちの一つが「治部省(じぶしょう)」でした。
治部省の役割は、外交、戸籍、仏教・宗教関連の管理を担うことでした。つまり、国家の対外関係の窓口として、遣唐使や新羅使の対応を行い、また国内では戸籍制度を管理し、氏族ごとの地位や職務を決定する役割を果たしていました。さらに、治部省は僧侶や寺院の監督も担当し、仏教政策の調整にも関与しました。
この治部省の中で「治部少丞(じぶのしょうじょう)」は、四等官の一つに位置付けられる役職でした。律令制の四等官は、上から順に「長官(かみ)」「次官(すけ)」「判官(じょう)」「主典(さかん)」と分かれ、少丞はそのうち「判官」にあたる中級官僚職でした。官僚としての階級は決して高くはないものの、外交・行政に関する実務を担い、政治の中枢に関わる役職でした。
大伴古麻呂が治部少丞に任命された正確な時期は不明ですが、8世紀中頃、すなわち天平勝宝(749~757年)前後であったと推定されます。この時期は、聖武天皇の治世が終わり、孝謙天皇(のちの称徳天皇)が即位する政治的な転換点でした。新羅との関係が悪化しつつある中で、遣唐使の派遣も続いており、治部省の役割は非常に重要なものとなっていました。
大伴旅人のもとでの学問と経験
大伴古麻呂がこの役職に就くまでには、叔父・大伴旅人の影響が大きかったと考えられます。大伴旅人は遣唐使として唐に渡った経験を持ち、帰国後は大宰府の長官(大宰帥)として九州の防衛と外交の管理を任されました。
古麻呂は若い頃から大伴旅人のもとで学び、漢詩や儒学、唐の制度に関する知識を深めました。奈良時代の官人として成功するためには、単に武勇に優れているだけではなく、中国の政治制度を理解し、外交交渉を行う能力が求められました。そのため、旅人の影響を受けた古麻呂もまた、若くして治部省の職務に就き、対外関係に携わることになったのです。
当時、唐は開元(713~741年)の治世を経て、玄宗皇帝のもとで繁栄を迎えていました。しかし、日本にとっての最大の外交課題は新羅との関係でした。7世紀後半、白村江の戦い(663年)で日本が唐・新羅連合軍に敗れて以降、日本は新羅と対立関係にありました。遣唐使は単に唐との文化交流を目的とするものではなく、しばしば新羅との関係改善のための交渉の場ともなっていました。
古麻呂が治部少丞として行った業務の一つに、新羅との交渉があります。当時の記録には、天平勝宝6年(754年)に新羅使節が日本を訪れたことが記されています。この交渉では、新羅との国境問題や貿易関係について話し合われましたが、日本側の立場は強硬であり、交渉は難航しました。古麻呂はこの場において、治部省の一員として交渉の準備や通訳の手配などを行っていた可能性が高いです。
奈良時代の官人としての第一歩
治部少丞の役割を果たしながら、古麻呂は徐々に官僚としての経験を積んでいきました。奈良時代の官僚制度は、藤原氏を筆頭とする貴族層が独占していましたが、大伴氏のような武門の家柄も実務官僚として重要な役割を担っていました。
この時期、日本は唐との外交を重視しており、遣唐使の派遣が続いていました。天平勝宝2年(750年)には、藤原清河を遣唐大使とする遣唐使が派遣され、その副使として大伴古麻呂が選ばれることになります。これは彼の官僚としての実務能力が評価された結果であり、治部少丞としての経験が買われたものと考えられます。
また、この時期に古麻呂は、大伴稲公(おおとものいなきみ)という同僚と親しくなりました。大伴稲公もまた、大伴氏の一族であり、のちに遣唐使として活躍することになります。二人は共に実務官僚として働きながら、次第に中央政界での立場を確立していきました。
治部少丞の職務を通じて、古麻呂は外交の実務を学び、唐との交渉に携わる準備を整えていきました。そしてこの経験が、後の遣唐副使としての活躍へとつながっていくのです。
第一回遣唐使の使命
初の遣唐使としての任務と背景
大伴古麻呂が遣唐使として派遣されることになったのは、天平勝宝2年(750年)のことでした。この時、日本は唐との関係をさらに強化し、政治的・文化的な交流を深めることを目的として遣唐使を派遣しました。この遣唐使の大使(最高責任者)には藤原清河(ふじわらのきよかわ)が任命され、副使として大伴古麻呂が選ばれました。
そもそも遣唐使は、日本が唐の先進的な制度や文化を学ぶために送った外交使節団であり、7世紀から9世紀にかけて断続的に派遣されました。しかし、その背景には単なる文化交流だけではなく、国際関係の緊張や政治的な目的も含まれていました。特にこの時期、日本と新羅の関係は悪化しており、新羅との対立を抱える中で、唐との関係を強化することが急務とされていました。
さらに、唐の国際的な影響力はこの時期に絶頂を迎えており、日本が独立国家として唐との外交関係を築くことは、国内外での地位を確立する上で極めて重要でした。そのため、この遣唐使の派遣には、単なる文化的な学びだけでなく、日本の国際的な立場を示すという意味合いもありました。
唐での外交交渉と得た知識
天平勝宝3年(751年)、遣唐使船は長安(現在の西安)を目指して航海を開始しました。当時の遣唐使の航路は非常に過酷であり、航海中に遭難することも珍しくありませんでした。実際、それ以前の遣唐使の中には、唐に到着できなかった者や、帰国できなかった者も多くいました。しかし、この時の遣唐使船は比較的順調に航行し、無事に唐へ到着しました。
唐の皇帝・玄宗(在位:712~756年)はこの遣唐使の到来を歓迎し、日本との関係を重視しました。大伴古麻呂は副使として、藤原清河とともに唐の高官と交渉を行い、正式な国書を提出しました。唐の朝廷では、日本が独立した国家として自ら使節を送ってくることに一定の評価をしており、友好関係の維持を確認することができました。
この訪問では、唐の官僚制度や儒教の政治思想、仏教文化について学ぶ機会もありました。特に長安は当時、世界最大級の国際都市であり、多様な民族や宗教が共存する場所でした。古麻呂は、この都市の政治体制や都市運営の仕組みを観察し、帰国後に日本の行政制度に活かすことを考えていたはずです。
また、この時の遣唐使団には、学問僧や技術者も同行しており、彼らは仏教経典や医術、建築技術などを持ち帰る役割を果たしました。古麻呂は彼らと協力しながら、唐の先進的な文化や技術を学び、日本に伝えることに尽力しました。
日本に持ち帰った文化と影響
大伴古麻呂たち遣唐使一行は、滞在期間を経て帰国の準備を始めましたが、帰路もまた過酷なものでした。当時の遣唐使の航路は、往路よりも帰路の方が危険とされており、海難事故や漂流のリスクが高かったのです。しかし、幸運にもこの遣唐使団は無事に帰国し、日本に貴重な知識や文化を持ち帰ることができました。
古麻呂が持ち帰ったものの一つに、唐の行政制度に関する知識がありました。奈良時代の日本は、唐の律令制度を手本とした国家体制を整えていましたが、実際の運用面では多くの課題を抱えていました。唐で学んだ官僚制度の実際の運営方法や、地方行政の仕組みなどは、日本の政治改革の参考とされました。
また、遣唐使の成果の一つとして、仏教文化の発展が挙げられます。この時の遣唐使団は、多くの仏教経典を持ち帰りました。特に、仏教の戒律を厳格に学ぶ動きが日本国内でも強まるようになり、のちの鑑真(がんじん)の来日へとつながる重要な契機となりました。
さらに、唐で発展していた詩文の文化も日本に伝わりました。大伴古麻呂自身、叔父の大伴旅人の影響を受けて漢詩に親しんでいたため、唐の宮廷文化を学び、日本の文人たちに影響を与えました。この時代の日本の漢詩文化の発展には、遣唐使の果たした役割が大きかったのです。
この第一回の遣唐使派遣を通じて、大伴古麻呂は国際的な視野を広げ、日本の政治や文化の発展に貢献しました。彼の外交官としての経験は、のちの遣唐副使としてのさらなる活躍へとつながっていきます。
左少弁から遣唐副使へ
官僚としての昇進とその評価
遣唐使の副使としての任務を果たした後、大伴古麻呂はその手腕を高く評価され、奈良時代の官僚として着実に昇進を遂げていきました。天平勝宝年間(749~757年)、彼は「左少弁(さしょうべん)」の官職に就きます。少弁は、中央行政を統括する「弁官(べんかん)」の中級職であり、国政を担う重要な役職でした。
弁官は「左弁官」と「右弁官」に分かれ、それぞれ太政官(だじょうかん)に属して行政を監督する役割を持っていました。左少弁はその中でも左弁官に属し、左大臣や中納言のもとで法令の施行や政策の調整を担当しました。古麻呂はこの職を通じて、国内の行政を直接運営する立場となり、国家の中枢に深く関与するようになりました。
この時期、日本の政治は藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の権勢が強まる中で、大きな変化を遂げていました。藤原仲麻呂は、孝謙天皇(のちの称徳天皇)の信任を得て、実質的な政権を握るようになり、自らを「恵美押勝(えみのおしかつ)」と名乗るほどの権力を振るっていました。しかし、藤原氏の専横に対しては反発もあり、古麻呂もまた、武門の名家である大伴氏の一員として、藤原仲麻呂の勢力拡大に危機感を抱いていたと考えられます。
こうした中、古麻呂は左少弁として行政実務をこなしつつ、再び遣唐使としての使命を担うことになります。唐との関係強化が国家の課題となる中で、彼の外交経験が再び必要とされたのです。
第二回遣唐使の役割と意義
天平宝字3年(759年)、日本政府は新たな遣唐使を派遣することを決定しました。この遣唐使の大使には藤原清河が再び任命され、副使には大伴古麻呂が選ばれました。前回の遣唐使での実績を買われ、より高い立場で外交を担うことになったのです。
この時期、日本と唐の関係は依然として良好でしたが、新羅との緊張が続いていました。新羅は白村江の戦い(663年)以降、日本との対立が続いており、日本としては唐との友好を維持し、新羅に対する外交的な圧力を強める狙いがありました。さらに、この時期の唐は安史の乱(755~763年)という大規模な内乱に直面しており、日本に対して積極的な外交関係を求める余裕がなくなりつつありました。
遣唐使の目的は、単なる文化交流だけでなく、日本の国際的な地位を確立することにもありました。日本は、唐の先進的な制度を学びながらも、自国の独立性を保ち、国際社会における存在感を示そうとしていたのです。古麻呂は、この遣唐使において、副使として交渉の中心的役割を果たすことになります。
遣唐副使としての使命と活躍
天平宝字4年(760年)、遣唐使の船団は日本を出発しました。航海の途中、暴風に見舞われることもありましたが、古麻呂らの船団はなんとか唐の領土へ到達しました。彼らはまず揚州(現在の江蘇省南京市周辺)に到着し、そこから長安を目指しました。
長安では、唐の皇帝・粛宗(しゅくそう、在位:756~762年)の宮廷に迎えられました。安史の乱によって唐の政情は不安定でしたが、日本との外交関係は引き続き重視されており、遣唐使一行は礼をもって迎えられました。
古麻呂は副使として、藤原清河とともに唐の高官と交渉を行いました。主な議題は、日本と唐の友好関係の確認、新羅に対する唐の立場の確認、そして日本への留学僧や技術者の派遣などでした。特に、新羅との関係については、日本側は唐に対して新羅を牽制するよう求めましたが、唐側は安史の乱の影響で余裕がなく、具体的な支援は得られませんでした。
しかし、古麻呂たちは唐の先進的な文化や技術を日本へ持ち帰ることに成功しました。特に、儒学や仏教に関する最新の知識を学び、律令制度の運営に関する情報を得ることができました。また、唐の宮廷文化や都市計画などの観察も行い、日本の国政に活かすための資料を持ち帰ることになりました。
帰国の際、古麻呂たちは唐の船を利用して航海しましたが、日本への帰還は決して容易ではありませんでした。当時の航海は常に危険と隣り合わせであり、途中で漂流したり遭難する例も少なくありませんでした。しかし、彼らの船団はなんとか日本に戻ることができ、持ち帰った知識や文化が日本の発展に大きく寄与しました。
この第二回遣唐使の経験を通じて、大伴古麻呂は外交官としての地位をさらに確立しました。彼の外交手腕は、のちの唐朝廷での交渉や政治的活動においても重要な役割を果たすことになります。
唐朝廷での外交戦と勝利
唐と日本の関係とその変遷
大伴古麻呂が遣唐副使として唐に派遣された8世紀中頃、日本と唐の関係は新たな局面を迎えていました。白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた日本は、長らく唐との関係修復を図りながらも、新羅との対立が続いていました。しかし、8世紀に入ると、唐は国内問題に直面するようになり、日本との関係が次第に変化していきました。
特に、日本が遣唐使を通じて学ぼうとした唐の政治制度や文化は、開元・天宝の時代(713~756年)に最も発展を遂げました。しかし、755年に発生した安史の乱(755~763年)により、唐は国力を大きく消耗し、周辺諸国との関係も変化を余儀なくされました。この乱の影響で、唐はそれまでの強硬な対外政策を維持することが困難になり、日本を含む周辺国との関係に柔軟な対応を求めるようになりました。
そのような状況の中で派遣された大伴古麻呂たちの遣唐使は、単なる文化交流だけではなく、日本の国際的地位を確立するための重要な外交交渉の役割を担っていました。
新羅との激しい席次争い
遣唐使の外交活動の中で、最も注目すべき出来事の一つが、唐の朝廷での「席次争い」でした。席次争いとは、朝貢国として唐の宮廷で公式に迎えられる際に、どの国が上座に座るかをめぐる激しい政治的駆け引きのことを指します。当時の東アジアにおいて、国際的な序列は非常に重要であり、単なる儀礼上の問題ではなく、その国の外交的地位や影響力を示すものでした。
日本と新羅は長年にわたって敵対関係にあり、新羅は白村江の戦い以降、朝鮮半島の覇権を確立し、唐との強い結びつきを維持していました。そのため、新羅は唐の宮廷において日本よりも上位の席次を得ようとしました。一方、日本側もまた、対等以上の立場を確保するために全力を尽くしました。
天平宝字4年(760年)、唐の宮廷で正式な朝賀の儀式が行われた際、大伴古麻呂は日本代表として、新羅の使節と席次を巡って激しい交渉を繰り広げました。唐の宮廷では、新羅は日本よりも古くから朝貢関係を持ち、また唐と軍事同盟を結んでいたため、新羅の優位を認める声が多かったと言われています。
しかし、大伴古麻呂はこの場で、日本の独立性と伝統を強く主張し、新羅と対等以上の地位を求めました。彼は、過去の遣唐使が唐との正式な外交関係を築いてきたことを証拠として示し、日本が決して新羅の下に位置する国ではないことを強調しました。また、日本は唐の文化を積極的に取り入れながらも、独自の律令制度や政治体系を確立しており、一方的に新羅より劣る存在ではないことを論理的に説きました。
この議論は唐の朝廷内でも大きな議題となり、最終的には、唐側が日本と新羅の双方を一定の敬意をもって扱う形で折衷案を提示しました。すなわち、両国が対等の立場で扱われることになり、新羅の単独優位を許さない形で決着しました。これは、大伴古麻呂の交渉能力の高さが示された瞬間でもありました。
唐の朝廷での交渉成功と影響
この席次争いにおける日本の成功は、日本の外交史において重要な意味を持ちました。唐の宮廷において日本が独立した外交主体として認識されたことは、後の国際関係にも大きな影響を与えました。
また、この交渉の結果、日本は唐からの留学僧や学者の派遣を認めさせることにも成功しました。特に、仏教文化の交流が促進されることになり、日本の仏教界の発展に寄与しました。この後の時代、鑑真和上の来日にもつながる動きが生まれたのは、大伴古麻呂たちの外交交渉の成功が一因となっています。
さらに、唐の律令制度に関する最新の情報を得ることができ、日本国内の政治制度の改善にも貢献しました。特に、地方行政の統治方法や官僚制度の改革に関する知識が持ち帰られ、日本の政治体制の発展に影響を与えました。
帰国後、大伴古麻呂はこの外交成果を朝廷に報告し、日本の国際的地位を守るために尽力しました。しかし、彼の政治的な立場は、国内での権力闘争に巻き込まれていくことになります。
このように、大伴古麻呂は唐の朝廷での席次争いという難題に直面しながらも、冷静な交渉と論理的な主張によって、日本の独立性を守ることに成功しました。彼の外交手腕は、日本の歴史において特筆すべきものであり、後の遣唐使たちにも大きな影響を与えました。
鑑真和上との運命の出会い
鑑真和上との交流と交渉
大伴古麻呂が遣唐副使として唐に渡った時期、日本の仏教界では大きな課題を抱えていました。それは、正式な授戒制度が確立されていなかったことです。当時、日本では僧侶になるための厳格な戒律を授かる制度が整備されておらず、僧侶の資格が曖昧なまま信仰が広まっていました。そのため、日本の仏教界では、正式な授戒制度を確立するために唐から高僧を招くことが強く望まれていました。
この動きの中心にいたのが、日本の僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)でした。彼らは唐に渡り、戒律の専門家である高僧・鑑真(がんじん)に、日本へ来て授戒制度を確立してほしいと懇願しました。鑑真は当初、弟子たちに意見を求めましたが、誰も日本行きを希望する者はいませんでした。そこで、鑑真自身が日本へ渡る決意を固めたのです。
しかし、日本への渡航は容易ではありませんでした。当時の航海は危険が多く、また唐の朝廷も勝手な海外渡航を禁止していました。こうした困難の中で、大伴古麻呂は遣唐使としての立場を活かし、鑑真の渡航計画を支援する立場にありました。彼は唐の宮廷との交渉を進める傍ら、日本の使節団が安全に帰国できるよう手配し、その中に鑑真を乗せる計画も進めていたと考えられます。
なぜ密航が必要だったのか?
鑑真は日本へ渡る決意を固めたものの、その計画は唐の朝廷にとって大きな問題でした。唐は、自国の優れた知識や文化が流出することを防ぐため、僧侶の海外渡航を厳しく制限していました。また、鑑真ほどの高僧が外国へ渡ることは、唐の仏教界にとっても大きな損失と見なされていたのです。
そのため、鑑真の渡航計画は何度も阻止され、彼自身も官憲に追われる立場となりました。最終的に、日本側の支援を受けながら密航を試みるしかない状況に追い込まれました。
大伴古麻呂は、鑑真の渡航計画を知りながらも、表立って協力することはできませんでした。しかし、遣唐使としての立場を利用し、日本側の僧侶や留学生たちと連携しながら、鑑真が密かに船に乗れるように手配したと考えられます。遣唐使の帰国は国家事業であり、その船団の中に紛れ込むことができれば、鑑真の日本行きは現実のものとなる可能性が高かったのです。
成功の要因と鑑真来日後の影響
天平勝宝6年(754年)、幾度もの失敗と困難を乗り越え、ついに鑑真は日本への渡航に成功しました。この時、彼はすでに失明していましたが、日本に到着するとすぐに活動を開始し、仏教の発展に大きく貢献しました。
鑑真の来日は、日本の仏教界にとって画期的な出来事でした。彼は東大寺に戒壇(かいだん)を設け、正式な授戒制度を確立しました。これにより、日本の僧侶たちは正式な戒律を持つことができるようになり、日本仏教の制度化が大きく進展しました。
大伴古麻呂の直接的な関与がどこまであったかは明確な記録が残されていませんが、彼が遣唐使として唐と日本をつなぐ立場にあったこと、また鑑真の渡航と同時期に日本へ戻ったことから、彼の支援があった可能性は極めて高いと考えられます。
古麻呂自身は、帰国後、国内の政争に巻き込まれ、藤原仲麻呂との対立により失脚することとなりました。しかし、彼が関わった遣唐使の活動や鑑真の来日は、日本の仏教や政治に長く影響を与えました。大伴古麻呂の外交官としての功績は、単なる国交の維持だけでなく、日本の文化や宗教の発展にも貢献していたのです。
藤原仲麻呂政権との対立
藤原仲麻呂の専横と政争の背景
奈良時代中期、朝廷の権力構造は大きく変化していました。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、孝謙天皇(のちの称徳天皇)の信任を受け、天平勝宝9年(757年)に「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、太政大臣に就任しました。これは、それまでの左大臣や右大臣の地位を超えるものであり、仲麻呂が事実上の最高権力者となったことを意味しています。
仲麻呂は、自らの政権を安定させるため、強力な中央集権化を推し進めました。その一環として、「紫微中台(しびちゅうだい)」という独自の軍事組織を設立し、従来、朝廷の軍事を担っていた武門の貴族を排除しようとしました。これは、武門の名家である大伴氏にとって重大な脅威となり、大伴古麻呂もまた、この動きに強い危機感を抱いていたと考えられます。
古麻呂が反発した理由とその影響
大伴古麻呂は、遣唐使として長年にわたり唐で学び、日本の官僚制度や軍事体制に関する見識を深めていました。その経験から、藤原仲麻呂の専横政治に対し、強い危機感を持っていたと考えられます。特に、仲麻呂が進める藤原氏による軍事支配は、大伴氏の役割を完全に奪うものであり、古麻呂にとって受け入れがたいものでした。
また、仲麻呂は政敵の排除にも積極的でした。彼は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)を失脚させ、その子である橘奈良麻呂をも政治の中枢から遠ざけました。大伴古麻呂もまた、かつて遣唐使として大きな功績を挙げたものの、仲麻呂の台頭により、次第に政治の主流から外されていきました。
大伴氏は、もともと軍事貴族として朝廷に仕えてきた一族であり、その立場が脅かされることは、一族全体の存続にも関わる問題でした。こうした背景から、古麻呂は仲麻呂政権に対する反発を強め、同じく仲麻呂に不満を抱いていた貴族たちと連携を深めるようになりました。
政治的立場の変化と動乱の時代
仲麻呂の権力が強まるにつれ、大伴古麻呂の立場はますます危うくなっていきました。彼は、藤原氏の独裁に反発する勢力の一員として、朝廷内で密かに反仲麻呂の動きを支援していたと考えられます。その中には、橘奈良麻呂や文室珍努(ふんやのちんど)といった有力貴族も含まれており、彼らは仲麻呂打倒の計画を進めていました。
しかし、仲麻呂は自らに対する反発の高まりを察知しており、政敵の監視を強化していました。密偵を使い、朝廷内での不穏な動きを探る一方、政敵を次々に粛清していきました。その結果、大伴古麻呂や橘奈良麻呂の動きも次第に仲麻呂の知るところとなり、彼らの計画は決定的な危機を迎えることになります。
天平宝字8年(764年)、ついに反仲麻呂勢力は行動を起こしますが、計画は事前に発覚し、仲麻呂は速やかに反乱を鎮圧しました。これにより、大伴古麻呂も逮捕され、政治の表舞台から姿を消すことになりました。
橘奈良麻呂の乱と最期
橘奈良麻呂の乱とは何か?
天平宝字8年(764年)、奈良の都で「橘奈良麻呂の乱」が発生しました。この反乱は、絶大な権力を握る藤原仲麻呂(恵美押勝)の独裁政治に対する朝廷内の反発が爆発した事件です。藤原氏の専横によって排除されていた貴族たちが、武力を用いた政変を試みました。
この乱の中心となったのは、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)です。彼の父・橘諸兄(もろえ)はかつて左大臣として朝廷の中枢にいましたが、藤原仲麻呂の台頭によって失脚しました。奈良麻呂は父の復権と、藤原氏の専横を阻止することを目的に、密かに仲間を集め、クーデターを計画しました。
奈良麻呂の計画では、まず仲麻呂の勢力を急襲して排除し、その後、孝謙上皇(のちの称徳天皇)を擁立して仲麻呂の支配体制を完全に覆すことを目指していました。反仲麻呂派の貴族や官僚、さらには武門の名家である大伴氏や佐伯氏の武士たちが加わり、一定の軍事力も確保されていたといわれます。
この計画には、大伴古麻呂も深く関与していました。彼は、大伴氏の存続と朝廷における武門の立場を守るため、また長年の政敵である藤原仲麻呂を倒すため、奈良麻呂の側に立ったと考えられます。
古麻呂の乱における役割と決断
大伴古麻呂は、乱の準備段階において、主に軍事的な役割を担っていたと考えられます。大伴氏は代々、朝廷の軍事を支えてきた家柄であり、古麻呂自身もまた、外交官としての顔だけでなく、武人としての素養も持ち合わせていました。
乱の計画では、大伴氏の兵力を活用し、まず藤原仲麻呂の邸宅を襲撃し、仲麻呂を捕らえるか討ち取ることが想定されていました。その後、藤原仲麻呂の私兵である「紫微中台(しびちゅうだい)」の部隊を制圧し、政権を掌握することを目指していました。しかし、この計画は周到に準備されていたわけではなく、機密保持が難しい状況にあったといわれます。
一方、藤原仲麻呂は朝廷内の不穏な動きを警戒し、密偵を使って反乱勢力の動向を監視していました。そして、計画が進むにつれて情報が漏れ、仲麻呂の側近たちは反乱の兆候を察知しました。大伴古麻呂もまた、この動きを知っていた可能性がありますが、計画を断念する選択肢はなかったと考えられます。
反乱計画の発覚と鎮圧
乱が決行される直前、藤原仲麻呂は密告によって計画の全貌を知りました。仲麻呂は即座に行動を起こし、自らの私兵を動員して、反乱に関与した貴族や武人たちを次々と拘束しました。
大伴古麻呂も、この時点で捕らえられたと考えられます。奈良麻呂の邸宅に対する急襲が行われ、彼の同志たちは抵抗する間もなく拘束されました。奈良麻呂は捕縛された後、藤原仲麻呂の命令で厳しい尋問を受けました。拷問によって乱の首謀者や関与した貴族の名前を白状するよう迫られましたが、奈良麻呂は最後まで口を割らなかったと伝えられています。最終的に、彼は獄中で衰弱し、死亡しました。
一方、大伴古麻呂は、奈良麻呂ほどの過酷な拷問は受けなかったものの、反乱に関与した罪で裁かれました。藤原仲麻呂は、自らの政権の正統性を維持するため、反乱の関係者に厳しい処罰を下しました。多くの反乱参加者が処刑された中で、古麻呂は流罪に処され、都から遠ざけられることとなりました。
反乱失敗と悲劇的な結末
大伴古麻呂が流罪となった後の詳細は記録に残されていませんが、当時の流刑は過酷であり、遠流(おんる)に処された者の多くは、劣悪な環境の中で命を落としました。古麻呂もまた、流刑先で病死したか、現地の政治的な混乱の中で命を落とした可能性が高いと考えられます。
皮肉にも、藤原仲麻呂自身もこの乱の鎮圧からわずか数ヶ月後の天平宝字8年(764年)に、孝謙上皇の命令によって討たれることとなりました(藤原仲麻呂の乱)。もし大伴古麻呂が生き延びていれば、彼は藤原仲麻呂失脚後の朝廷で再び影響力を持つ機会を得たかもしれません。しかし、彼はすでに流罪となり、政治の世界から完全に姿を消していました。
この反乱の失敗によって、大伴氏の勢力は大きく衰退し、奈良時代の終盤には藤原氏の権力がさらに強固なものとなっていきました。大伴古麻呂の人生は、外交官としての輝かしい活躍と、国内政治の権力闘争の中での挫折という、二つの側面を持つものとなりました。
彼の遣唐使としての功績は後の日本に大きな影響を与えましたが、国内政治では藤原氏の専横に抗うことができず、非業の死を遂げました。
歴史に刻まれた大伴古麻呂
『続日本紀』に見る古麻呂の記録
大伴古麻呂の生涯と業績は、日本最古の勅撰史書である『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記録されています。『続日本紀』は奈良時代の国家的な歴史書であり、文武天皇の治世(697年)から桓武天皇の即位(791年)までの約90年間を記したものです。この中には、大伴古麻呂の官僚としての歩みや、遣唐使としての功績、そして最期の流罪に至るまでの記録が残されています。
特に、天平勝宝年間(749~757年)の遣唐使派遣に関する記述では、大伴古麻呂が遣唐副使として活躍し、唐の皇帝と交渉を行ったことが確認できます。また、遣唐使からの帰国後、彼が官僚として昇進し、左少弁(さしょうべん)として太政官の中枢で政治に関与したことも記されています。
しかし、『続日本紀』の記述は、政治的に敗れた者に対して必ずしも公平ではありません。橘奈良麻呂の乱に関与したとされる大伴古麻呂についても、乱の首謀者の一人として記されていますが、彼の主張や政治的立場についての詳細な言及はほとんどありません。これは、藤原氏が政権を握る中で編纂されたため、敗者である古麻呂の評価が抑えられた可能性が高いと考えられます。
『鑑眞和上東征傳』に描かれた姿
大伴古麻呂は、日本の仏教史にも重要な足跡を残しました。唐の高僧・鑑真(がんじん)が日本に渡る際、古麻呂はその渡航を支援した人物の一人であったとされています。その記録は、鎌倉時代に成立した『鑑眞和上東征傳(がんじんわじょうとうせいでん)』にも描かれています。
鑑真は、日本に正式な戒律を伝えるため、何度も渡航を試みましたが、ことごとく失敗し、最終的に日本にたどり着いたのは天平勝宝6年(754年)のことでした。鑑真の渡航には、多くの日本人が関与していましたが、大伴古麻呂もその一人であり、遣唐使の一員として、彼の渡航計画を陰ながら支援していたと考えられます。
当時、日本の仏教界は正式な戒律を持たず、僧侶の資格が曖昧な状態でした。古麻呂は、唐の仏教制度を知る遣唐使として、正式な戒律を導入する必要性を理解していたと考えられます。そのため、鑑真の招聘に賛同し、彼の渡航を後押しした可能性が高いです。
他の史書に残る古麻呂の足跡
大伴古麻呂の名は、『続日本紀』や『鑑眞和上東征傳』のほかにも、一部の史書に記されています。しかし、彼の生涯について詳細に記録した書物は少なく、特に藤原仲麻呂との対立や流罪に関する記述は、藤原氏の影響を受けた編纂の中で抑えられた可能性があります。
一方、古麻呂の外交官としての実績は、後の遣唐使にも影響を与えたと考えられます。彼が唐の皇帝と交渉し、日本の国際的地位を確立したことは、後の藤原清河や吉備真備らが遣唐使として活動する際の重要な前例となりました。また、彼が唐で学び、日本に持ち帰った知識は、奈良時代の政治や文化に大きな影響を与えたと考えられます。
歴史に名を残した人物の多くは、時の権力者によって評価が変わります。大伴古麻呂の場合も例外ではありません。遣唐使としての功績は讃えられる一方で、国内政治においては敗者として記録され、その評価は低く抑えられました。しかし、彼の存在は、奈良時代の外交史と政治史を語る上で、決して欠かすことのできない重要なものです。
まとめ
大伴古麻呂は、奈良時代における外交官として、日本と唐の関係を深めた重要な人物でした。遣唐副使として二度にわたり唐を訪れ、唐の皇帝と交渉を行い、日本の国際的な地位を確立しました。彼が持ち帰った知識や文化は、日本の政治・宗教・学問の発展に大きく貢献し、特に仏教の戒律制度の確立においても重要な役割を果たしました。
しかし、国内政治においては藤原仲麻呂の独裁に抗い、橘奈良麻呂の乱に関与したことで失脚し、流罪となりました。武門の名家・大伴氏としての誇りを持ち、朝廷の軍事的伝統を守ろうとした彼の姿勢は、時代の権力構造の変化の中で敗北を余儀なくされました。
古麻呂の生涯は、外交の成功と国内政治の挫折という対照的な側面を持ちます。彼の功績は歴史の中で埋もれがちですが、日本の国際関係や文化交流の発展に果たした役割は決して小さなものではありません。
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