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大塚久雄の生涯と「大塚史学」─近代資本主義を読み解く日本経済史研究の巨星

こんにちは!今回は、日本を代表する経済史学者、大塚久雄(おおつか ひさお)についてです。

マックス・ウェーバーとカール・マルクスという二大思想家の理論を架橋し、「近代とは何か」「資本主義はいかに生まれたか」を根源から問い直した大塚は、日本の歴史学と民主主義思想に大きな影響を与えました。

片足を失いながらも研究に生涯を捧げたその壮絶な生き様と、世界に誇る知の遺産をひもといていきます。

目次

京都に育った大塚久雄が初めて出会った知と社会の不安

文化の薫る家庭と古都が育んだ複眼的な視点

1907年(明治40年)、大塚久雄(おおつかひさお)は古都・京都でその生涯の第一歩を踏み出しました。彼の父は、京都府庁に勤める地方役人。公務員と聞くと堅いイメージを抱くかもしれませんが、家では謡曲(ようきょく)を口ずさみ、仕舞(しまい)を舞うという、豊かな文化的一面を持つ人物でした。仕事で見せる公的な顔と、家庭で見せる私的な顔。その二つの顔を持つ父の姿は、少年久雄にとって、人間や社会は一つの側面だけでは決して捉えきれない、奥深いものであることを無言のうちに教えていたのかもしれません。そして、彼が育った京都という街そのものが、生きた歴史の教科書でした。幾多の戦乱や繁栄を見てきた寺社仏閣、人々の暮らしが染み込んだ町家の連なり。彼は日々の生活の中で、過去と現在が共存する空気を感じ取っていました。なぜ、この場所にこのような建物があるのか。この祭りはいつから続いているのか。そうした日常の風景に潜む「なぜ?」が、彼の知的な好奇心をかき立てていきました。後に彼が確立する、社会の構造を複眼的に捉えようとする学問の姿勢。その原点には、文化の薫る家庭環境と、歴史が息づく古都で育まれた、物事を多角的に見るしなやかな感性があったと考えられるでしょう。

読書と論理への関心が育んだ知の土壌

大塚久雄の少年時代、その知的好奇心を満たしてくれたのは、何よりも本の世界でした。特に歴史小説や偉人たちの伝記に心を奪われ、ページの中に広がる過去の時代を旅していました。しかし、彼の関心は単に物語を追うだけにとどまりません。なぜ、その人物は成功し、あるいは失敗したのか。その決断の裏には、どのような社会的な事情が隠されているのか。彼は、物語の行間から歴史を動かす「法則」のようなものを見つけ出そうとしていた節があります。こうした物事の背後にある仕組みや筋道を探求する姿勢は、論理的な思考への関心へと自然に繋がっていきました。複雑で混沌(こんとん)として見える歴史上の出来事を、感情論で片付けるのではなく、その構造から冷静に分析したい。そんな彼の知的な欲求は、後の経済史研究、特に社会のシステムを理論的に解明しようとする彼の研究スタイルを強く予感させます。読書を通じて培われた人間社会への深い洞察力と、物事の因果関係を突き詰めようとする論理的な探究心。この二つが合わさった時、単なる歴史好きの少年ではない、「社会科学者・大塚久雄」のユニークな知の土壌が、静かに、しかし着実に形作られていったのです。

社会不安の時代が生んだ歴史への問い

大塚久雄が多感な青春期を送った1920年代の日本は、決して穏やかな時代ではありませんでした。第一次世界大戦後の不況に加え、1923年には関東大震災が発生し、社会全体が大きな不安に覆われていました。彼が通っていた京都府立第一中学校の自由な雰囲気の中にあっても、時代のきな臭い空気は感じ取れたはずです。そして決定的だったのが、1925年に制定された治安維持法(ちあんいじほう)でした。これは、国家のあり方に異を唱える思想を、法律によって厳しく取り締まろうとするものです。なぜ、国家は個人の思想にまで介入しようとするのか。なぜ、自由な言論が封じられなければならないのか。こうした社会の動きは、彼の目に異様なものとして映ったことでしょう。彼が抱いた「社会の息苦しさ」への違和感は、こうした具体的な出来事を目の当たりにすることで、より切実で根源的な問いへと深化していきました。目の前で起きている社会の変化の根っこには、一体何があるのか。それを解明するには、現在の表面的な現象を追うだけでは不十分だ。歴史を遡り、社会の構造そのものを問わなければならない。この強い問題意識こそが、彼を経済史の研究へと向かわせた真の原動力でした。社会不安の時代が、一人の青年に、生涯を捧げることになる壮大な「問い」を与えたのです。

東京帝大で学びを深めた大塚久雄が辿った知の入口

経済学との出会いが切り開いた思索の道

少年時代に抱いた「社会はなぜ、このように動いているのか?」という根源的な問い。その答えを求めて、大塚久雄は日本の最高学府である東京帝国大学(現在の東京大学)の門を叩きます。彼が進んだのは、法学部ではなく経済学部でした。なぜか。それは、彼が知りたかったのが、社会のルールである「法律」そのものよりも、その法律を生み出すもっと根本的な「社会の構造」だったからに他なりません。当時の経済学は、単にお金の流れを計算するだけではなく、社会がどのように成り立ち、変化していくのかを解き明かすための、いわば最強の「分析ツール」でした。彼にとって経済学との出会いは、漠然としていた社会への疑問に、具体的なメスを入れる方法を手に入れた瞬間だったのです。それまでバラバラに見えていた歴史上の出来事や社会問題が、「生産」「分配」「消費」といった経済学の視点を通すことで、互いに繋がり始めます。まるで、霧が晴れていくように世界の見通しが良くなっていく。その知的な興奮は、彼の探究心をますます燃え上がらせました。この学問を選んだことで、彼の問いは「日本の社会」という枠を超え、「近代的な社会は、いかにして成立するのか」という、より普遍的で壮大なテーマへと育っていくことになります。

恩師たちとの交流が導いた学問の方向

大学という場所は、ただ講義を受けるだけの場所ではありません。知の巨人である教授たちと直接対話し、その思考に触れることができる貴重な空間です。大塚久雄もまた、経済学部の恩師たちとの出会いによって、自身の進むべき道を少しずつ見出していきました。当時の東京帝大経済学部には、多彩な専門を持つ教授陣が顔を揃えていました。彼は、特定の思想に染まることなく、様々な学説を吸収しようと努めます。それは、少年時代に京都で培われた、物事を多角的に捉えようとする姿勢の現れでもあったでしょう。恩師たちとの議論を通じて、彼は書物から学ぶだけでは得られない、学問への「作法」を身につけていきます。それは、いかにして信頼できる史料を見つけ出すか、いかにして論理的な矛盾なく自らの主張を組み立てるか、といった研究者としての基礎体力でした。この時期の彼は、まだ「大塚史学」という独自の旗を掲げるには至っていません。むしろ、偉大な先人たちが築き上げた知の海を自由に泳ぎ回りながら、自分が生涯をかけて取り組むべき問いは何か、どの航路を進むべきかを見定めようとしていたのです。この知的彷徨(ほうこう)の時期こそが、後の独創的な研究を生み出すための、重要な準備期間となったのです。

西洋思想への関心が拡張した世界観

日本の社会構造への疑問から始まった大塚久雄の探究は、やがてその目を西洋へと向けさせます。近代日本のあり方を理解するためには、その手本となった西洋近代社会そのものを知らなければならない。そう考えた彼は、西洋の経済史や社会思想の書物を貪るように読みふけりました。そしてこの時期、彼の学問的人生を決定づける、運命的な出会いを果たします。それが、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの思想でした。特にヴェーバーが、宗教的な倫理観、つまり人々の「心」が資本主義という経済システムを生み出したと論じた著作は、彼に衝撃を与えました。経済は、単なる物質的な生産活動だけで動いているのではない。その根底には、人々の精神や文化が深く関わっている。このヴェーバーの視点は、少年時代に父の姿や京都の文化から感じ取っていた「人間の営みの奥深さ」と、彼の中で見事に結びついたのです。また、同時期に触れたカール・マルクスの思想も、社会の構造を階級という視点から鋭く分析する力を彼に与えました。ヴェーバーとマルクス。この二人の巨人の思想に触れたことで、彼の世界観は一気に拡張します。彼の問いは、もはや日本一国にとどまらず、世界史的な視野で近代の成り立ちを問う、壮大なスケールを獲得したのです。

戦中に片足を失いながらも書き続けた大塚久雄の強さ

不運な事故が招いた身体の危機

東京帝国大学で知の探求に邁進(まいしん)していた大塚久雄に、予期せぬ不運が襲いかかったのは、太平洋戦争開戦の年でもある1941年(昭和16年)のことでした。バス乗車中に起きた些細な事故で、彼は左膝に怪我を負います。当初は、誰もがすぐ治るものと考えていたでしょう。しかし、この怪我をきっかけに、彼の人生は暗転します。治療のために訪れた大学病院で、検査のために打たれた一本の注射が、事態を最悪の方向へと導きました。注射した箇所から細菌が入り込み、傷は化膿。感染は瞬く間に広がり、やがて骨までをも侵す深刻な壊疽(えそ)へと発展してしまったのです。近代医療の拠点であるはずの大学病院で起きた、信じがたい事態でした。ここから、出口の見えない長い闘病生活が始まります。そして1943年1月、度重なる治療の甲斐なく、彼は36歳を目前にして左脚を大腿部から切断するという、あまりにも過酷な決断を迫られます。研究者として、これからまさに世界へ羽ばたこうとしていた知性の翼が、不運な事故とそれに続く医療の過程で、無残にもへし折られようとしていました。

ベッドの上が砦となった執筆活動

左脚を失って以降も、大塚久雄の戦いは終わりませんでした。生涯で実に11回もの大手術を経験するなど、彼の人生は病との絶え間ない闘いの連続となります。その主戦場は、病院のベッドの上でした。しかし、彼は決して運命に屈しませんでした。身体の自由が奪われれば奪われるほど、彼の精神はかえって自由な翼を広げ、知性の探求へと没頭していったのです。肉体を苛む激しい痛みと、いつ終わるとも知れない治療への不安。その中で、彼はなぜペンを握り続けたのでしょうか。それは、思考し、執筆することこそが、彼が自身の尊厳を保ち、生きる意味を確かめるための唯一の方法だったからに他なりません。ベッドの上は、彼にとって苦痛の場であると同時に、外部の喧騒や時代の狂気から自らを守り、思索を深めるための「砦(とりで)」でもありました。肉体的な敗北を、精神の力で乗り越えようとするかのようなその姿は、凄絶ですらあります。彼の不屈の魂は、万年筆を通じて原稿用紙へと注ぎ込まれ、後の学問的業績の礎となっていったのです。

代表作『近代欧州経済史序説』が生まれるまで

この壮絶な闘病生活の渦中で、一冊の画期的な書物が産声を上げます。1944年(昭和19年)、戦況が絶望的になる中で刊行された、彼の初期の主著『近代欧州経済史序説』です。日本全体が「精神論」を振りかざし、合理的な思考を失って破滅への道を突き進んでいた時代。その中で、彼はなぜ、遠いヨーロッパの近代社会が、いかにして合理的な精神と経済システムを築き上げていったのかを論じたのでしょうか。それは、彼の学問が単なる過去の分析ではなく、常に「今、ここ」にある危機への応答だったからです。彼は、歴史の中に近代社会が成立するための普遍的な条件を探し出すことで、道を誤った自国の未来を照らし出そうと試みたのです。この著作は、彼の個人的な苦難の記録であると同時に、時代の苦難に対する一個の知識人としての知的抵抗でもありました。左脚を失うという個人的悲劇と、国家が破滅に向かうという時代的悲劇。その二重の絶望の淵から生まれたこの一冊は、だからこそ、読む者の魂を揺さぶる力強い輝きを放っています。そしてこの著作こそが、戦後「大塚史学」として花開く、輝かしい序説となったのです。

法政大学で教えながら後進を育てた大塚久雄の姿

法政大学で始まった教育者としての歩み

左脚を失うという壮絶な試練の中、時代の闇に抗うようにして『近代欧州経済史序説』を書き上げた大塚久雄。終戦を迎え、日本が焼け跡の中から新たな道を模索し始めた1946年(昭和21年)、彼はその知性を社会に、そして未来を担う若者たちに還元するため、新たな一歩を踏み出します。その舞台となったのが、法政大学でした。義足を着けて教壇に立つことは、彼にとって決して容易なことではなかったはずです。しかし、彼は自らの学問を通じて、戦後の日本を担う新しい世代の精神を育むことに、強い使命感を見出していました。彼にとって講義とは、単に知識を一方的に伝える場ではありませんでした。歴史上の事実を暗記させるのではなく、なぜそのような出来事が起きたのか、その構造を根本から問い直し、学生一人ひとりに「自分の頭で考える」ことを徹底して求めたのです。その問いかけるような講義スタイルは、戦争中の画一的な教育に慣れていた学生たちにとって、まさに衝撃的な体験でした。大塚の周りには、知的な刺激に飢えた若者たちが、自然と集まるようになっていきました。

若手研究者と築いた知的な共同体

大塚久雄の魅力は、その学識の深さだけではありませんでした。彼の学問への真摯な情熱と、若者に向ける温かい眼差しは、多くの才能ある学生を惹きつけ、やがて彼の周りには一つの「学派」とも呼べるような、活気あふれる知的な共同体が形成されていきます。その中心メンバーには、後に高名な研究者となる安藤英治(あんどうえいじ)や岡田与好(おかだよしよし)といった若者たちの姿がありました。彼らは、大学の研究室だけにとどまらず、しばしば大塚の自宅に集まり、夜が更けるまで読書会を開きました。そこは、師と弟子という堅苦しい関係ではなく、一冊の書物を囲んで、誰もが対等な立場で意見を戦わせる真理探究の場でした。大塚は、自らの解釈を押し付けることは決してせず、若者たちの自由な発想に辛抱強く耳を傾け、彼らが自力で答えに辿り着くのをじっと待っていました。それは、彼自身がかつて恩師たちとの交流の中で学んだ、学問の最も大切な作法でもあったのです。この親密で熱気に満ちた共同体から、のちの日本の歴史学や社会科学を担う、数多くの優れた才能が巣立っていきました。

教育と研究の両立が育んだ信頼と尊敬

大塚久雄が多くの若者から深い尊敬を集めた理由は、彼が単に優しいだけの教育者ではなかったからです。彼は、学生たちに厳しく思考を鍛えさせる一方で、自身もまた、第一線の研究者として常に思索の最前線を走り続けていました。彼の講義で語られる内容は、決して使い古された知識の焼き直しではありません。今まさに彼自身が格闘している、生きた研究の成果が、そのままの熱量で学生たちにぶつけられたのです。その学問的な緊張感は、教室の隅々にまで張り詰め、学生たちに知的な興奮と真剣な挑戦を促しました。教育に情熱を注ぎながら、自身の研究を少しも疎かにしない。その背中は、若き研究者の卵たちにとって、何より雄弁な手本となりました。「先生もまた、学び続けている」。その事実が、彼に対する揺るぎない信頼の礎(いしずえ)を築いたのです。彼の厳しさの奥には、学問へのどこまでも誠実な姿勢と、次代を担う者たちへの深い愛情がありました。その人間的な魅力と学問的な厳格さの同居こそが、大塚久雄を単なる教授ではなく、多くの人々にとっての「師」たらしめた理由だったのです。

東京帝大で英国経済史を追求し続けた研究者・大塚久雄

東京帝大での本格的な研究活動

法政大学で多くの後進を育て、教育者として確かな足跡を刻んだ大塚久雄は、1947年(昭和22年)、ついに自らの母校である東京大学に教授として迎えられます。それは、彼にとって単なる凱旋(がいせん)ではありませんでした。戦後の混乱期を乗り越え、安定した研究基盤を得て、自らの学問体系を本格的に構築するための、新たなスタートラインに立ったことを意味していました。東大教授という立場は、彼に国内最高の研究環境と、全国から集まる優秀な若手研究者との議論の機会を与えました。彼の研究室は、さながら知的格闘技の道場のような熱気に満ちていたと言われます。彼の研究の主戦場は、一貫して「英国経済史」でした。なぜ、日本の近代化を問う彼が、これほどまでに遠いイギリスの歴史にこだわったのでしょうか。それは、彼がイギリスを、世界で最初に近代的な市民社会と資本主義を自生的に生み出した「典型」だと考えていたからです。この典型を徹底的に解剖し、その構造を明らかにすることなしに、日本の特殊な近代化の本質は見えてこない。彼はそう確信していました。

英国経済史における理論構築の深化

東京大学の研究室で、大塚久雄の思索はさらにその深さを増していきます。彼の知的探究の羅針盤となったのは、学生時代に出会った二人の巨人、マックス・ヴェーバーとカール・マルクスでした。彼は、この二人の思想を単に受け入れるのではなく、むしろ彼らと対話し、乗り越えようと試みます。マルクスが社会の土台として重視した「生産様式」という経済構造の分析。そして、ヴェーバーが近代の原動力として見出した「プロテスタンティズムの倫理」という人間の精神。大塚は、この両者の視点を統合し、止揚(しよう)することを目指したのです。その格闘の中から生まれたのが、「大塚史学」の核心ともいえる理論でした。彼は、中世末期のイギリスに登場した独立自営農民(ヨーマン)と呼ばれる人々に着目します。彼らが持つ、勤勉で合理的な生活態度こそが、近代的な人間類型(ホモ・エコノミクス)の原型であり、その精神が土壌となって、イギリスの資本主義は内側から生まれてきたのだ、と論じたのです。これは、経済の構造と人間の精神が、歴史の中でいかにして結びつくのかを解き明かした、独創的な理論でした。

近代化の構造という視座への探究心

大塚久雄にとって、英国経済史の研究は、それ自体が最終目的ではありませんでした。彼の視線は、常にその先にありました。イギリスという「典型」を解明することは、彼にとって、世界の様々な国が経験した「近代化」という現象を比較分析するための、普遍的な「ものさし」を手に入れる作業だったのです。なぜ、ある国では市民社会が順調に育ち、別の国では権威主義的な体制が生まれるのか。なぜ、ある国では自生的な資本主義が発展し、別の国では上からの移植に留まるのか。彼は、英国史の研究を通じて得た知見を武器に、こうした壮大な問いに挑もうとしました。そして、その最終的な関心は、やはり自国・日本の近代化の歩みにありました。ヨーロッパの「典型」と比べることで初めて、日本の近代がどのような道を辿り、どのような課題を抱えているのかが、客観的に浮かび上がってくると考えたのです。彼の英国経済史への情熱は、遠い過去へのノスタルジアではなく、未来へ向かうための確かな足場を築こうとする、強靭な探究心に支えられていました。彼の研究は、常に世界史的な構造の中に、日本の現在地を位置づけようとする、壮大な試みだったのです。

戦後の混乱期に理論としての大塚史学を築き上げた軌跡

戦後復興とともに再開された講義と研究

前の章で見たように、東京大学の研究室で英国経済史の研究を深化させていた大塚久雄。その知的な営みは、戦後の社会状況と響き合うことで、予想もしなかったほどの大きな影響力を持つことになります。敗戦によって、それまでの価値観が根底から覆された日本。誰もが「日本の民主化」という大きな課題を前に、進むべき道を見失っていました。そんな中、大塚の講義は、歴史を通じて日本の未来を考えようとする学生や知識人にとって、まさに羅針盤のような役割を果たしました。彼の語る西洋近代史は、単なる過去の物語ではありませんでした。それは、日本の民主主義をいかにして確かなものにするか、という切実な問いに対する、歴史からの答えを探す旅でもあったのです。焼け跡の残るキャンパスで、彼の言葉に耳を傾けた若者たちは、封建的な社会から近代的な市民社会へといかに移行すべきか、その具体的な道筋を学んでいました。彼の学問は、象牙の塔にこもるのではなく、戦後日本の再建という、時代の中心的な課題に真正面から向き合っていたのです。

「大塚史学」と呼ばれる理論の骨格が生まれる

やがて、その独創的な歴史理論は、畏敬(いけい)の念を込めて「大塚史学」と呼ばれるようになります。では、その理論の骨格とは、一体どのようなものだったのでしょうか。非常にシンプルに言えば、それは「共同体」からの「人間の解放」の物語でした。大塚は、封建的な社会を、人々が血縁や地縁といった古いしがらみ(共同体)に固く縛られている状態だと捉えました。そこでは「個人」という意識は希薄で、人々は共同体のルールに従って生きることを強いられます。これに対し、近代社会とは、人々がそうした共同体の束縛から解放され、一人ひとりが自立した「近代的市民」として、自由で合理的な判断を下せる社会だと考えました。そして、この「近代的市民」の誕生こそが、真の民主主義と資本主義を発展させるための絶対的な条件なのだと主張したのです。この理論は、戦後の日本に衝撃を与えました。なぜなら、多くの人々が、日本の敗戦の原因を、まさにこの前近代的な共同体性、つまり「個」よりも「ムラ」の空気を優先する精神風土にこそあると感じていたからです。「大塚史学」は、日本の課題を歴史的に解明し、乗り越えるための力強い理論的武器を、人々に与えたのです。

『共同体の基礎理論』に込められた社会への問い

「大塚史学」の思想が、最も凝縮された形で示されているのが、1955年(昭和30年)に刊行された主著『共同体の基礎理論』です。この本は、単なる歴史学の専門書という枠をはるかに超え、戦後日本社会全体に対する鋭い問題提起の書となりました。彼はこの中で、日本社会の様々な場面、例えば会社組織や農村、さらには家族の中にさえ、個人の自立を妨げる前近代的な「共同体」の論理が、根強く残っていることを指摘します。そして、この見えざる共同体の圧力が、日本の民主主義の成熟を阻んでいるのではないか、と警鐘を鳴らしたのです。それは、戦後復興から高度経済成長へと向かう日本社会への、痛烈な自己批判の要求でもありました。私たちは本当に「個人」として自立できているだろうか。私たちの社会は、真に近代的な市民社会と呼べるのだろうか。この『共同体の基礎理論』に込められた問いは、刊行から半世紀以上が過ぎた現代の私たちにも、重く響いてきます。それは、大塚の学問が、過去を分析するだけに留まらず、常に未来を問い続ける力を持っていたことの、何よりの証左と言えるでしょう。

晩年も学問の公共性を問い続けた大塚久雄の信念

「大塚史学」への賛否と学界内での議論

戦後日本の知識人たちに絶大な影響を与えた「大塚史学」。しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるのが世の常です。彼の理論は、学界に大きな刺激を与えると同時に、激しい賛否両論の渦を巻き起こしました。批判の矢は、様々な方向から放たれます。例えば、日本の歴史を専門とする研究者たちからは、「イギリスの歴史を『典型』として絶対視し、日本の歴史が持つ独自の発展を無視しているのではないか」という鋭い問いが投げかけられました。また、西洋史の研究者からも、「マックス・ヴェーバーの理論を、あまりに自分の理論に都合よく解釈しているのではないか」といった批判が寄せられました。これらの批判は、単なる揚げ足取りではありません。大塚史学という巨大な山に挑むことで、自らの学問的な立場を明確にしようとする、真剣な知的営為でした。彼の理論がいかに独創的で、無視できない存在であったか。その激しい論争こそが、何よりも雄弁に物語っています。学問の世界は、一つの絶対的な真理があるのではなく、こうした異なる意見のぶつかり合いの中から、より豊かな知見を生み出していくのです。

批判に誠実に向き合った知的姿勢

激しい批判の嵐に晒されたとき、その人物の真価が問われます。大塚久雄は、自分に向けられた批判から目を背けたり、感情的に反論したりすることはありませんでした。むしろ、彼は一つひとつの批判に真摯(しんし)に耳を傾け、その論理を丁寧に見極め、自らの理論をもう一度見つめ直すための貴重な機会として捉えたのです。彼は、論争相手に対して常に敬意を払い、人格攻撃に陥ることなく、あくまで学問的な論点に絞って応答しようと努めました。その姿は、自らの理論を絶対視しない、開かれた知性の持ち主であることを示していました。この誠実な姿勢は、彼の教え子たちにも大きな影響を与えます。彼の薫陶(くんとう)を受けた近藤和彦(こんどうかずひこ)や、法政大学時代からの弟子である安藤英治(あんどうえいじ)、岡田与好(おかだともよし)といった次世代の研究者たちは、師である大塚の理論を無批判に継承するのではなく、師への批判をも乗り越える形で、自らの研究を発展させていきました。大塚が育てたかったのは、従順な弟子ではなく、自らの力で真理を探究できる、自立した研究者だったのです。その知的誠実さこそが、「大塚学派」を単なる信者の集団ではない、創造的な学問共同体へと高めていきました。

学問の役割を見つめ直した人生の終盤

数々の論争を経験した晩年の大塚久雄は、改めて「学問の公共性」というテーマについて深く思索するようになります。学問とは、決して研究室の中に閉じこもっているものではなく、社会という開かれた広場で、多くの人々の目に晒され、吟味され、議論されることによって初めて、その価値を持つ。彼はそう考えるようになりました。自らが打ち立てた「大塚史学」でさえも、永遠不変の真理などではなく、歴史の発展とともに乗り越えられていくべき一つの仮説に過ぎない。そのように語る彼の姿には、自らの業績に対する驕(おご)りは微塵も感じられません。むしろ、自らの理論が批判され、乗り越えられていくことこそが、学問の発展の証であると、喜んでいるかのようでした。学問は、誰か一人の天才によって完成されるものではなく、多くの人々が参加する対話のプロセスそのものである。その信念は、彼の生涯を貫くものでした。人生の終盤に至ってもなお、学問とは何か、その社会的な役割とは何かを問い続けた彼の姿は、一人の研究者として、また教育者としての、揺るぎない信念の輝きを放っています。

社会と後進に遺した大塚久雄の知的遺産

文化勲章を通じて評価された社会的貢献

学問の世界で激しい論争を繰り広げながらも、常に誠実な姿勢を貫き、自らの学問の社会的役割を問い続けた大塚久雄。その生涯にわたる真摯な歩みは、1992年(平成4年)、文化勲章の授与という形で、社会からの最高の栄誉をもって報いられました。この受章は、単に一人の歴史学者の業績が評価された、というだけにはとどまりません。それは、彼の打ち立てた「大塚史学」が、戦後日本の社会科学全体に与えた計り知れない影響と、その根底にあった民主主義への強いメッセージ性が、学界の垣根を越えて公に認められた瞬間でもありました。不運な事故で左脚を失うという筆舌に尽くしがたい逆境を乗り越え、ひたすらに学問の道を歩み続けた彼の人生そのものが、多くの人々に静かな、しかし深い感動を与えました。文化勲章は、彼の学問的業績だけでなく、その不屈の精神と、人間としての生き方そのものに贈られた、敬意の証だったのかもしれません。

福島大学文庫の設立と教育的意義

大塚久雄が後世に遺したものは、その思想だけではありません。彼の死後、長年にわたって集められた約6千冊の図書と多くの雑誌からなる蔵書は、遺族の意志によって福島大学に寄贈され、現在「大塚久雄文庫」として大切に保存・公開されています。なぜ、彼の母校である東京大学ではなく、地方の国立大学である福島大学だったのでしょうか。そこには、学問とは一部のエリートが独占するものではなく、広く社会に開かれ、志あるすべての若者のために役立てられるべきだ、という彼の「学問の公共性」に対する生前の信念が、色濃く反映されているように思えます。文庫に収められた書物には、彼が熟読し、思索を重ねた跡である無数の書き込みが残されています。それは、彼が先人たちの知性といかに対話し、格闘したかを生々しく伝える「知的格闘の記録」です。この文庫は、単なる本の集合体ではありません。それは、後進の研究者たちが、大塚久雄という偉大な知性の思考の軌跡を追体験できる、貴重な学びの場なのです。彼の肉体は滅んでも、その教育者としての魂は、この文庫を通じて静かに、そして力強く生き続けています。

著作に刻まれた思想と教育者としての姿

そして何よりも、大塚久雄の最大の知的遺産は、その生涯をかけて紡ぎ出された数々の著作群です。全13巻からなる『大塚久雄著作集』には、彼が格闘した学問の全貌が、余すところなく刻み込まれています。そこには、若き日の苦難の中から生まれた『近代欧州経済史序説』の情熱も、戦後社会に鋭く問いを投げかけた『共同体の基礎理論』の思索も、すべてが収められています。また、『社会科学の方法 ヴェーバーとマルクス』のような著作を読めば、彼がいかにして二人の巨人の思想と対決し、自らの理論を築き上げていったのか、その思考のプロセスを追体験することができます。さらに、『大塚久雄の人と学問』のような講演録や講義録は、彼がどのような言葉で、どのような情熱をもって学生たちに語りかけたのか、その教育者としての生きた姿を今に伝えてくれます。彼の遺した言葉は、決して色褪せることのない、古典としての輝きを放っています。それは、ただの知識ではなく、私たちがどう生き、社会とどう向き合うべきかを問い続ける、温かい血の通ったメッセージとして、今も私たちの心に響いてくるのです。

逆境を越え、日本の進むべき道を問い続けた思索者

ここまで見てきたように、歴史家・大塚久雄の生涯は、日本の「近代」とは何か、その本質を問い続けた思索の軌跡でした。文化豊かな京都で育まれた感性、戦中に左脚を失うという壮絶な試練、そして学問への不屈の情熱。その全てが、彼の理論に深い人間的な厚みを与えています。

彼の学問「大塚史学」は、単なる過去の分析ではありません。それは、封建的な共同体から解放された「自立した個人」こそが真の近代社会を築くと説き、戦後日本の進むべき道を照らそうとする、未来への提言でした。

激しい論争にも誠実に向き合う研究者としての厳格さと、若き才能を育んだ教育者としての温かさ。その両方を兼ね備えた彼の生き方は、社会といかに向き合い、困難の中でどう思考し続けるべきか、という根源的な問いを、今なお私たちに投げかけているのです。

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