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ボリス・エリツィンの生涯:ソ連解体を導き、プーチンへ引き継いだロシア初代大統領

こんにちは!今回は、ロシア連邦初代大統領、ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンについてです。

ソ連共産党のエリートから転落しながらも、1991年の8月クーデターで国民の支持を受けて英雄となり、ロシアをソ連から独立させた男。資本主義改革を推進するも、経済混乱やチェチェン紛争で批判を浴びました。

最後はプーチンへ権力を引き継ぎ、歴史の舞台を去ったエリツィン。その劇的な生涯を振り返ります。

目次

ウラルの農村から党エリートへの道

ソ連田舎暮らしと家族の物語

ボリス・エリツィンは、1931年2月1日にソビエト連邦のウラル地方、スヴェルドロフスク州のブトカ村で生まれました。彼の家族は農民の出身で、祖父は「クラーク(富農)」として弾圧を受けた過去を持っていました。父のニコライ・エリツィンは建設労働者として働いていましたが、スターリンの大粛清の波に巻き込まれ、1934年に「反ソ活動」の疑いで逮捕されました。その後、労働キャンプで服役し、家族は厳しい生活を強いられました。

母のクラヴディアは裁縫師として家計を支えながら、エリツィンを育てました。彼の幼少期は戦争と貧困の影響を強く受けており、家族はソ連政府の厳しい統制のもとで、最低限の配給で生活していました。第二次世界大戦中は、ドイツとの戦闘が激化し、国内の物資も不足していたため、農村部の生活はさらに困難を極めました。

そんな中、エリツィンは幼い頃から負けん気の強い性格を持ち、勉強にもスポーツにも意欲的に取り組んでいました。特に体力面では優れた才能を発揮し、バレーボールでは学校の代表チームのキャプテンを務めるほどでした。しかし、この後に起こる手榴弾事故が、彼の人生の方向を大きく変えることになります。

手榴弾事故と軍務、指を失った少年の決断

エリツィンの人生において、大きな転機となったのが手榴弾事故でした。彼が十代の頃、友人たちと共に廃棄された軍用の手榴弾を見つけました。当時のソ連では戦争の遺物が地方に多く残されており、子どもたちが興味本位で触れることも珍しくありませんでした。エリツィンもまた好奇心からその手榴弾をいじり、ピンを抜いたところで爆発が起こりました。この事故により、彼は左手の親指と人差し指を失ってしまいました。

この出来事は、彼の将来に大きな影響を与えました。ソ連では若者に兵役が義務付けられていましたが、エリツィンは身体的な障害を理由に軍務を免除されることになりました。戦後のソ連では軍隊経験がキャリア形成の上で重要な要素とされていましたが、エリツィンは軍人の道を断念せざるを得ませんでした。そのため、彼は別の分野で活躍する道を模索し、結果として建築技師への道を選びました。

また、この事故を機に彼の性格はさらに負けず嫌いになり、「どんな困難も乗り越えられる」という強い信念を持つようになりました。指を失ったことで一部の作業が困難になったにもかかわらず、彼は周囲の助けを借りずに全てのことを自力でこなそうとしました。この頑固で粘り強い姿勢は、後の政治家としてのエリツィンのリーダーシップにも反映されることになります。

建築技師から共産党幹部へ、エリツィンの昇進

1950年、エリツィンはスヴェルドロフスク工科大学(現ウラル連邦大学)に入学し、建築工学を学びました。彼は優秀な学生として知られ、1955年に大学を卒業すると、すぐにスヴェルドロフスク州の建設会社で技師として働き始めました。当時のソ連では、建築やインフラ整備は国家の発展にとって重要な分野であり、若手技術者は高く評価されることが多かったのです。

エリツィンは持ち前の勤勉さとリーダーシップで頭角を現し、わずか数年のうちに建設部門の管理職へと昇進しました。その後、1961年にソ連共産党に入党し、党の建設部門で活躍するようになります。彼の実務能力と決断力が評価され、共産党内でも急速に昇進を遂げていきました。

1976年にはスヴェルドロフスク州第一書記に就任し、事実上の州知事となりました。この時期、彼は都市の発展に力を入れ、特に工業地帯の近代化を推進しました。また、1977年にはスターリン時代の象徴的な建物の一つであった「イパチェフ館」の取り壊しを決断しました。この建物は、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世とその家族が処刑された場所として知られていましたが、ソ連政府にとっては「帝政時代の象徴」として扱いに困る存在でした。エリツィンは政府の意向を汲み取り、建物の撤去を実行しました。

また、エリツィンは州の改革にも積極的に取り組み、行政の効率化や公共事業の拡大に力を入れました。これらの功績が評価され、彼は共産党内で「有能な実務家」として注目を集めるようになりました。

こうして、ウラル地方の田舎で育ったエリツィンは、共産党のエリート層へと上り詰めていきました。しかし、彼の政治キャリアはここで終わらず、後のゴルバチョフとの対立、そしてソ連崩壊へと続く波乱の道を歩むことになります。

ゴルバチョフとの対立:改革派の分裂

ペレストロイカの波に乗るエリツィン

1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、大胆な改革政策「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」を推進しました。この新たな路線は、長年の官僚主義と経済の停滞に苦しんでいたソ連にとって画期的なものでした。ゴルバチョフは若手改革派の登用を進める中で、実務経験が豊富で決断力のあるエリツィンに目をつけ、1985年にモスクワの共産党第一書記へと抜擢しました。これは、ソ連の首都であるモスクワの行政を取り仕切る重要なポストであり、エリツィンにとっても党内での飛躍のチャンスでした。

エリツィンはこの役職に就くと、モスクワの行政改革を積極的に推し進めました。彼は官僚機構のスリム化や腐敗の一掃を掲げ、無駄な役職の削減を進めました。また、市民の不満が高まっていた物資不足の問題にも取り組み、配給制度の改善を試みました。特に、ソ連の大都市では食料や生活必需品の流通が滞りがちでしたが、エリツィンは地方の生産者と直接交渉し、供給ルートの確保に努めました。

しかし、彼の強引な改革姿勢は、保守派の官僚たちから反発を招くことになりました。特に、長年築かれてきた共産党内の特権構造にメスを入れたことが、多くの敵を生む要因となりました。党幹部たちは特権的な生活を送っており、彼らの特別な供給ルートが確保されていましたが、エリツィンはこれを「腐敗の温床」として攻撃しました。彼の改革方針は市民から支持されたものの、党内の上層部との摩擦を深めていきました。

モスクワ市第一書記としての挑戦と壁

エリツィンは党の官僚制度を批判しながら、モスクワ市内の改革を進めていましたが、次第にゴルバチョフとの対立が深まっていきました。ゴルバチョフ自身も改革派でしたが、彼のアプローチは漸進的なものであり、党の体制を根本から変えることには慎重でした。一方のエリツィンは、より急進的な改革を求め、共産党の既得権益に真っ向から挑みました。

1987年10月、エリツィンはソ連共産党中央委員会総会で、ゴルバチョフと党の指導部を公然と批判しました。彼は「改革は遅すぎる」「共産党幹部の特権を廃止すべきだ」と強く主張し、党の保守派を敵に回しました。この発言は、ソ連共産党の歴史の中でも異例のものであり、大きな波紋を呼びました。

この挑発的な発言の直後、エリツィンはモスクワ市第一書記の職を解任され、政治的に追い詰められました。表向きの理由は「健康上の問題」とされましたが、実際には党の保守派とゴルバチョフの意向によるものでした。これにより、彼は党中央委員会の閑職に追いやられ、政界の表舞台から姿を消すことになりました。

急進派としての解任、その影響と反発

解任されたエリツィンは、一時的に政治的に孤立しましたが、市民の間では彼の改革姿勢が評価されていました。1989年、ソ連で初めて複数候補による選挙が導入されると、彼はモスクワ選挙区から立候補し、約90%という圧倒的な支持を得てソ連人民代議員大会の議員に選出されました。これは、共産党の公式候補を大差で破ったものであり、エリツィンの人気の高さを示す出来事でした。

この勝利により、彼は再び政治の中心に返り咲き、党内外での影響力を強めました。彼はソ連の改革をさらに加速させるべきだと主張し、1990年にはロシア共和国(ソ連の構成共和国の一つ)の最高会議議長に選出されました。このポストは、ロシア共和国の事実上のトップの役職であり、エリツィンはソ連全体ではなくロシア共和国の指導者としての立場を固めていきました。

1990年にはソ連共産党を離党し、ソ連崩壊への道を歩み始めます。彼は「ロシアの主権」を強調し、ソ連の中央政府からの独立を模索しました。この姿勢は、ゴルバチョフの掲げる「ソ連の維持」とは相反するものであり、両者の対立は決定的なものとなりました。

エリツィンの急進的な改革姿勢は、共産党の保守派からは危険視されていましたが、市民の間では「改革の象徴」としての支持を集めていました。彼はソ連共産党の体制そのものに対して疑問を投げかけ、1991年のクーデター未遂事件へとつながる道を歩むことになります。

1991年クーデター:タンクの上の指導者

8月クーデター勃発、ソ連保守派の最後の抵抗

1991年8月19日、ソ連の保守派によるクーデターが勃発しました。このクーデターは、ソ連の解体を阻止し、ゴルバチョフの改革を逆転させることを目的としていました。主導したのは、ソ連政府内の保守派官僚や軍、KGB(国家保安委員会)などの勢力で構成された「国家非常事態委員会」でした。彼らはゴルバチョフが進める「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」に強く反発し、ソ連を従来の中央集権型の体制に戻そうと考えていました。

クーデターの直接のきっかけは、8月20日に予定されていた「新連邦条約」の調印でした。この条約は、ソ連をより緩やかな連邦国家に再編し、各共和国の自治権を強化するものでした。しかし、保守派はこの動きを「ソ連崩壊の第一歩」と捉え、阻止するためにクーデターを決行したのです。

8月19日早朝、ゴルバチョフは休暇先のクリミア半島のフォロスで軟禁され、モスクワでは戦車が街に展開されました。国家非常事態委員会は「ゴルバチョフ大統領の健康悪化」を理由に、一時的に政権を掌握したと発表しました。これにより、ソ連全土に戒厳令が布かれ、メディアの統制も始まりました。

しかし、このクーデターに対して、ロシア共和国の大統領であるボリス・エリツィンが真っ向から反対の立場を取りました。彼はただちにモスクワ市民に団結を呼びかけ、クーデターの阻止に動き始めました。

民衆を鼓舞した伝説のタンク演説

クーデター勢力が軍を動員してモスクワの重要拠点を占拠する中、エリツィンはロシア共和国の議事堂「ホワイトハウス」に向かいました。そこにはすでに数千人の市民が集まり、クーデターに抗議するデモが始まっていました。

8月19日の午後、エリツィンはホワイトハウスの前に配置されていた戦車の上に登り、歴史的な演説を行いました。彼はマイクを握りしめ、「このクーデターは違法であり、ソ連の未来を破壊するものだ!」と力強く訴え、市民と軍の兵士たちに対し、クーデター勢力に協力しないよう呼びかけました。

この演説は、テレビやラジオを通じて全国に放送され、モスクワ市民の間に「民主主義を守らなければならない」という意識を広めました。さらに、エリツィンはソ連軍の兵士たちにも「市民に銃を向けるな」と訴え、多くの兵士がクーデター側から離脱する要因となりました。

エリツィンのこの行動は、彼を一躍「民主主義の英雄」として世界中に知らしめることになりました。戦車の上で演説を行う彼の姿は、ソ連崩壊を象徴する歴史的な瞬間として語り継がれています。

クーデター失敗、ゴルバチョフの権威失墜

エリツィンの指導のもと、モスクワ市民の抵抗は日に日に強まりました。さらに、軍内部でもクーデターへの支持が揺らぎ始め、8月21日にはクーデター勢力の指導者たちが次々と逮捕されました。その結果、クーデターはわずか3日間で失敗に終わりました。

このクーデターの失敗は、ゴルバチョフの政治的立場を決定的に弱めることになりました。彼はクリミアからモスクワに戻ったものの、もはや国民の信頼を回復することはできませんでした。一方で、クーデターを阻止したエリツィンの評価は急上昇し、彼は「ソ連を救った男」として絶大な支持を得ることになりました。

クーデターの失敗を受け、ソ連各地で独立を求める動きが加速しました。ロシア共和国をはじめとする各共和国は次々とソ連からの独立を宣言し、エリツィンはロシアのリーダーとしての地位を確立していきました。

こうして、1991年8月のクーデターはソ連崩壊の引き金となり、エリツィンは新たなロシアの指導者として歴史の表舞台に立つことになったのです。

ソ連解体とロシア連邦初代大統領就任

ベロヴェーシ合意、ソ連消滅の決定的瞬間

1991年8月のクーデター失敗後、ソ連の支配体制は急速に崩壊し始めました。エリツィンは、ゴルバチョフと異なり、ソ連を維持しようとするのではなく、ロシア共和国の独立を強く推し進める立場を取りました。彼はロシア共和国の大統領として、自らの権限を拡大し、ロシアをソ連の枠組みから切り離そうとしました。

1991年12月8日、エリツィンはベラルーシのベロヴェーシの森にある政府施設で、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長と会談しました。この秘密会談は、ソ連の今後を決定する歴史的な瞬間となりました。

会談の結果、3カ国の指導者たちは「ソビエト連邦の消滅」と「独立国家共同体(CIS)の創設」に合意しました。この「ベロヴェーシ合意」によって、1922年に設立されたソ連は正式に消滅することが決まりました。合意文には、「ソ連はもはや国家として存在しない」と明記されており、これにより69年続いたソ連の歴史に終止符が打たれることになりました。

この決定はゴルバチョフには事前に伝えられておらず、彼は事実上、自らが統治する国家が崩壊することを知らされる立場となりました。12月25日、ゴルバチョフは大統領を辞任し、クレムリンの上空に翻っていた赤いソ連国旗は降ろされ、代わりにロシア連邦の三色旗が掲げられました。これにより、正式にソ連は消滅し、エリツィンは新生ロシアの指導者としての地位を確立しました。

独立国家共同体(CIS)設立の裏側

ベロヴェーシ合意によりソ連は消滅しましたが、旧ソ連諸国との関係を維持するために、新たに「独立国家共同体(CIS)」が設立されました。CISは、エリツィンが主導した枠組みであり、ソ連崩壊後の混乱を抑えつつ、旧ソ連の国々が経済的・政治的に協力できるようにすることを目的としていました。

12月21日、カザフスタンのアルマトイでCIS設立会議が開かれ、ロシア、ウクライナ、ベラルーシに加えて、カザフスタン、アルメニア、アゼルバイジャン、モルドバ、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの計11カ国がCISへの加盟を決定しました。ただし、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)はこの枠組みに参加せず、西側諸国との関係を深める道を選びました。

CISの設立により、ロシアは旧ソ連圏での影響力を維持しようとしましたが、実際には各国の主権意識が強く、CISはあくまで緩やかな協力体制にとどまりました。とはいえ、ソ連崩壊後の混乱をある程度抑え、経済的なつながりを維持するための最低限の枠組みとしては機能しました。

ロシア新時代の幕開け、大統領エリツィン

1991年12月、正式にロシア連邦が誕生し、エリツィンはその初代大統領となりました。彼は市場経済の導入、政治の民主化、旧ソ連時代の体制の清算など、大胆な改革に着手しました。特に、経済改革として「ショック療法」と呼ばれる急激な市場経済への移行を進めましたが、これが後に深刻な混乱を招くことになります。

また、エリツィンは政治体制の民主化を進める中で、共産党の影響力を排除しようとしました。1993年には、旧ソ連時代から続いていた最高会議(旧ソ連の議会)と対立し、武力衝突に発展しました。彼は軍を動員し、モスクワの最高会議ビル(ホワイトハウス)を砲撃させ、議会側を制圧しました。この出来事は「1993年ロシア憲政危機」として知られ、エリツィンの強権的な側面を示す出来事となりました。

さらに、エリツィンは外交面でも西側諸国との関係強化を図り、特にアメリカとの協調路線を打ち出しました。彼は、冷戦終結後のロシアを「西側のパートナー」として位置づけ、1993年にはアメリカのクリントン大統領と会談し、軍縮や経済支援について協議しました。これにより、ロシアは西側諸国からの経済援助を受けることができましたが、一方で国内のナショナリストや旧共産党勢力からは「ロシアの弱体化を招いた」と批判されることになりました。

こうして、エリツィンの指導のもと、ロシアは新たな国家としての歩みを始めました。しかし、彼の進める急激な市場経済改革は国民生活を混乱させ、「ショック療法」と呼ばれる経済政策が大きな波紋を広げることになります。

ショック療法:急速な市場経済への転換

経済自由化と民営化、混乱の始まり

ソ連崩壊後、ロシアは計画経済から市場経済への急激な移行を迫られました。エリツィンは、市場経済を一気に導入する「ショック療法」を採用し、短期間でロシア経済を資本主義化することを決断しました。この政策は、ソ連時代の計画経済の非効率性を克服し、自由市場を活性化することを目的としていました。

エリツィンの経済改革の中心人物となったのが、エゴール・ガイダルでした。彼は急進的な改革派の経済学者であり、エリツィンのもとでロシアの初代首相代理を務めました。ガイダルは「価格の自由化」「国営企業の民営化」「政府の財政赤字削減」を主要な政策として掲げました。

1992年1月2日、ロシア政府は価格統制を一斉に撤廃し、市場の需給に応じて物価を決定する制度を導入しました。しかし、この改革は予想以上の混乱を引き起こしました。価格の自由化により、物価がわずか数カ月で3~4倍に跳ね上がる超インフレが発生し、国民の生活は急激に悪化しました。

また、通貨ルーブルの価値は急落し、多くのロシア人が貯蓄を失いました。ソ連時代に銀行に預けていた貯金が一瞬にして紙くず同然となり、多くの高齢者や労働者が生活に困窮しました。物価高騰の影響で基本的な生活必需品すら手に入らない状況が続き、ロシア国内には強い不満が広がりました。

オリガルヒ台頭、拡大する経済格差

ショック療法の中で、もう一つ大きな問題となったのが「ロシア民営化」です。エリツィンは国営企業を民間に売却することで、経済の活性化を図ろうとしました。しかし、この民営化は公正に行われたわけではなく、特定の企業家や政府関係者が莫大な利益を得る仕組みとなってしまいました。

この時期、ロシアでは「バウチャー方式」と呼ばれる民営化手法が導入されました。これは、国民一人ひとりに国営企業の株式を購入できる「バウチャー(引換券)」を配布し、自由に売買できるようにする仕組みでした。しかし、経済の混乱により多くの市民はバウチャーを安値で手放してしまい、それを富裕層や政界の有力者が買い集めることになりました。

こうして、一部の実業家たちが石油、天然ガス、金属産業などの旧ソ連時代の国有資産を格安で手に入れ、「オリガルヒ(新興財閥)」として急成長しました。代表的なオリガルヒにはロマン・アブラモヴィッチやミハイル・ホドルコフスキーなどがいました。彼らは政府と密接な関係を築きながら、ロシア経済の主要部門を支配するようになりました。

しかし、その一方で貧困層は増加し、中産階級は壊滅的な打撃を受けました。1990年代のロシアでは、貧富の格差が急激に拡大し、多くの人々が極度の生活苦に陥りました。特に、年金生活者や地方の労働者は食糧を買うことすら困難な状況となり、ホームレスや犯罪の増加につながりました。

インフレと生活苦、国民の不満爆発

ショック療法の影響で、ロシア経済は混乱を極めました。1992年のインフレ率は**約2500%**に達し、給与は物価の上昇に追いつかず、国民の実質所得は大幅に減少しました。地方では政府からの給料や年金の支払いが滞ることもあり、公務員や軍人が数カ月間無給で働くケースも発生しました。

エリツィンの経済政策に対する不満は、1993年に頂点に達しました。1993年10月、経済の悪化と政治対立が背景となり、ロシア議会(最高会議)との間で深刻な対立が発生しました。議会側はエリツィンの政策を「国民を苦しめるもの」として強く批判し、大統領権限の制限を試みました。

これに対し、エリツィンは憲法を無視して議会を解散しようとしましたが、議会側はそれを拒否し、武装蜂起に発展しました。ついに、1993年10月3日、エリツィンは軍を動員し、モスクワの議会議事堂(ホワイトハウス)を戦車で砲撃するという衝撃的な行動に出ました。これは、ロシアの現代史上最大の政治危機とされ、死者は約150人に達しました。

エリツィンはこの武力鎮圧により、強引に権力を維持しましたが、国民の間では「民主主義を守るために独裁的な手法を取る矛盾」が議論されました。また、エリツィンの強権的な対応に対し、支持率は大きく低下しました。

さらに、1998年にはロシア経済が深刻な通貨危機に陥り、ルーブルは大暴落し、ロシア政府は一部の債務をデフォルト(債務不履行)する事態に追い込まれました。これにより、国民のエリツィン政権への不満はさらに高まり、彼の求心力は急速に低下していきました。

第一次チェチェン戦争、誤算と泥沼化

1991年のソ連崩壊後、ロシア連邦内では民族主義の高まりにより、各地で分離独立の動きが活発化しました。その中でも最も深刻な問題となったのが、北カフカス地方のチェチェン共和国でした。チェチェンは19世紀からロシア帝国との戦争を繰り返してきた地域であり、ソ連時代にも強制移住政策の対象となるなど、ロシア政府に対する強い不信感を抱いていました。

1991年、ソ連の崩壊と同時に、チェチェンの独立派指導者ジョハル・ドゥダエフが「チェチェン・イチケリア共和国」の独立を宣言しました。しかし、ロシア政府はこれを認めず、チェチェンは事実上の独立状態に入りました。その後、チェチェン国内では無政府状態が続き、武装勢力や犯罪組織が台頭し、ロシア国内にも影響を及ぼすようになりました。

エリツィンは当初、チェチェン問題を政治的な対話で解決しようとしましたが、チェチェン側が独立の意思を曲げなかったため、1994年12月、ロシア軍を投入して武力鎮圧を図る決断を下しました。こうして第一次チェチェン戦争(1994年~1996年)が勃発しました。

しかし、この戦争はエリツィンの大きな誤算となりました。ロシア軍は圧倒的な戦力を持っていましたが、チェチェンのゲリラ戦術に苦しみ、戦争は泥沼化していきました。特に1995年のグロズヌイ攻略戦では、ロシア軍が大規模な空爆と砲撃を行いましたが、チェチェン武装勢力の激しい抵抗を受け、多くの犠牲者を出しました。ロシア軍の損害は甚大で、数千人の兵士が戦死し、士気は大きく低下しました。

ロシア軍の苦戦、国内の反戦世論

チェチェン戦争はロシア国内にも大きな衝撃を与えました。当初、エリツィンは「数週間で戦争は終結する」と強気の姿勢を見せていましたが、戦況は悪化し、ロシア軍の被害が増えるにつれて国民の間で反戦の声が高まっていきました。特に、戦場で命を落とした若い兵士たちの遺体がロシア本土に運ばれる映像がテレビで流れると、「この戦争に何の意味があるのか?」という疑問が噴出しました。

さらに、1995年6月にはチェチェン武装勢力による大規模な人質事件(ブジョンノフスク病院占拠事件)が発生しました。シャミル・バサエフ率いるチェチェン戦士たちは、ロシア南部のブジョンノフスクの病院を占拠し、1000人以上の人質を取ってロシア軍の撤退を要求しました。ロシア政府は武力での解決を試みましたが失敗し、結局、バサエフは多くの人質を連れたまま逃亡しました。この事件はエリツィン政権の対応の甘さを露呈し、国民の不信感を増幅させました。

エリツィンは軍事的な勝利を収めることができず、戦争の長期化は1996年の大統領選挙にも悪影響を及ぼすことが懸念されました。特に、エリツィンの健康問題も重なり、彼の支持率は急落しました。

停戦と和平交渉、それでも続く混迷

戦争の泥沼化により、エリツィンはついに和平交渉を開始することを決断しました。1996年8月、ロシア政府とチェチェン独立派はハサヴユルト協定を締結し、ロシア軍のチェチェン撤退と停戦が決定されました。この結果、チェチェンは事実上の独立状態を維持し、ロシアは戦争に敗北したも同然の状況となりました。

この戦争はエリツィンの政権にとって大きな打撃となりました。彼は「強い指導者」としてのイメージを掲げていましたが、チェチェン紛争を終結させることができず、ロシアの国際的な評価も低下しました。また、軍の士気は大きく低下し、ロシア政府の指導力にも疑問符がつくことになりました。

第一次チェチェン戦争は、形式的には終結しましたが、チェチェン国内の混乱は続きました。1999年にはチェチェン武装勢力がロシア国内でテロ攻撃を繰り返し、ロシア政府は再び軍事行動を開始することになります。これが第二次チェチェン戦争(1999年~2009年)へとつながり、新たな指導者ウラジーミル・プーチンの台頭を促す結果となるのです。

財界との結びつきと再選への道

1996年大統領選、窮地からの逆転劇

1996年のロシア大統領選挙は、ボリス・エリツィンにとって政治生命を左右する最大の試練でした。1991年にソ連崩壊後の初代ロシア大統領として選ばれたものの、ショック療法による経済の混乱やチェチェン戦争の失敗によって、彼の支持率はわずか5%にまで落ち込んでいました。国民の間にはエリツィンへの失望が広がり、共産党のゲンナジー・ジュガーノフが有力な対抗馬として浮上しました。

当時のロシアでは、市場経済への移行に伴い、経済格差が急速に拡大していました。1990年代前半の民営化を通じて、一部の財界人(オリガルヒ)が莫大な富を蓄えた一方で、多くの国民は貧困に苦しんでいました。エリツィンが再選を果たせなければ、共産党が政権を奪還し、市場経済の進行が逆戻りする可能性がありました。この状況を受けて、ロシアの財界はエリツィン支持に回ることを決断しました。

選挙戦が本格化するにつれ、エリツィン陣営は全国規模のキャンペーンを展開しました。テレビや新聞を使った大規模な広告戦略が実施され、特にテレビ局はエリツィン寄りの報道を強めました。また、各地を精力的に訪問し、若者向けのイベントに参加するなど、国民との距離を縮める努力を続けました。さらに、国民の不満を和らげるため、年金未払いの解消や公務員の給与支払いを加速させました。

その結果、エリツィンの支持率は徐々に回復し、6月16日に行われた第一回投票では、ジュガーノフを抑えて1位となりました。決選投票では、改革派や中道派の支持を取り込み、7月3日の最終投票で54.4%の得票率を獲得し、辛くも再選を果たしました。

メディア戦略と金融エリートの影響力

エリツィンの再選において、財界との結びつきは決定的な役割を果たしました。特に影響力を持っていたのが、ロシア最大の民間銀行「オネクシム銀行」のウラジーミル・ポターニンや、「ロゴヴァズ・グループ」のボリス・ベレゾフスキーといったオリガルヒたちでした。彼らはエリツィンの選挙キャンペーンに多額の資金を提供し、広告やメディアを通じて国民の意識を操作しました。

1996年の選挙では、テレビ局がエリツィン支持を全面的に打ち出し、対立候補であるジュガーノフのネガティブキャンペーンを積極的に展開しました。ニュース番組では、「共産党が政権を取れば、ロシアは再び暗黒時代に戻る」といった内容が繰り返し放送され、国民の不安を煽りました。また、エリツィンの演説や活動を前向きに報じることで、彼のイメージを回復させる戦略が取られました。

さらに、選挙戦の裏では、銀行を通じた国家財政の動きも活発になりました。オリガルヒたちは政府に対し、選挙戦資金としての融資を提供し、その見返りとして民営化プロセスで有利な条件を得ることを狙いました。この時期に進められた「担保付き民営化」により、石油、ガス、鉱業といった国家の重要資産が財界の手に渡り、オリガルヒの影響力はさらに拡大しました。

再選後の健康悪化、混乱する政権運営

再選を果たしたエリツィンでしたが、1996年の選挙期間中から健康状態の悪化が指摘されていました。実際、彼は選挙直後の11月に心臓バイパス手術を受けることになり、大統領としての活動に大きな支障をきたしました。これにより、政権内部ではエリツィンの不在を埋める形で側近や財界の影響力が強まり、権力の空白が生まれることになりました。

また、1998年にはロシア経済が危機に陥り、通貨ルーブルの価値が暴落しました。政府は外貨建ての国債の支払いを停止し、一部の銀行が倒産するなど、ロシア経済は再び混乱に陥りました。この金融危機により、多くの国民が貯蓄を失い、社会不安が高まりました。

こうした状況の中で、エリツィンの指導力はますます低下し、1999年には政治の混乱が極限に達しました。エリツィンはこの危機を乗り切るために、政府の人事を頻繁に入れ替え、1年間で3人もの首相を交代させるという異例の事態が続きました。そして、最終的に彼が後継者として選んだのが、当時まだ無名だったウラジーミル・プーチンでした。

プーチンへの権力移譲と静かな退場

1999年、突然の辞任とプーチン指名

1999年のロシアは、経済危機と政治的混乱が極限に達していました。エリツィンは相次ぐ首相交代を繰り返し、1年間でエフゲニー・プリマコフ、セルゲイ・ステパーシンと2人の首相を更迭しました。こうした迷走の末、1999年8月に新たな首相として抜擢されたのがウラジーミル・プーチンでした。

当時のプーチンは、連邦保安庁(FSB)の長官を務めた経験があり、治安維持に強い姿勢を示す人物として評価されていました。エリツィンは、プーチンの冷静で実務的な態度を高く評価し、後継者として指名することを決断しました。特に、1999年8月に発生した第二次チェチェン戦争では、プーチンが強硬姿勢を取り、ロシア軍を即座に投入する決断を下しました。これにより、彼の支持率は急上昇し、国民の間では「強いリーダー」としてのイメージが形成されていきました。

1999年12月31日、大晦日。エリツィンは突然の辞任を発表しました。国営テレビを通じて放送されたスピーチの中で、彼は「私は疲れた。私は去る時が来た」と語り、ロシア大統領の座を正式にプーチンへ引き継ぎました。これにより、プーチンは暫定大統領に就任し、2000年3月に行われた大統領選挙で正式に当選しました。

「私は疲れた」静かなる引退の真相

エリツィンの突然の辞任は、ロシア国内外に衝撃を与えました。彼の辞任の背景には、健康の悪化、経済の混乱、そして政治的な圧力があったとされています。彼は1996年の大統領選挙後に心臓バイパス手術を受けており、以降も頻繁に体調を崩していました。晩年には公の場に出る機会が減り、政権運営の実務も次第に側近たちに任せるようになっていました。

また、エリツィン政権の腐敗問題も辞任の一因とされています。特に、政府高官やオリガルヒとの癒着が深刻化し、汚職スキャンダルが頻発していました。エリツィン一族もその渦中にあり、一部の報道では、辞任と引き換えに「司法免責」をプーチンから確約されたとも言われています。事実、エリツィン辞任後の2000年に、プーチンは「エリツィンとその家族を訴追しない」という大統領令を発令しました。

このように、エリツィンの辞任は彼自身の意思だけではなく、政治的な取引の一環であった可能性が指摘されています。それでも、彼はソ連崩壊後のロシアを率いた歴史的な指導者として、最後は静かに権力の座を降りました。

晩年の生活とエリツィンセンターの設立

政界を引退したエリツィンは、公の場に姿を現すことがほとんどなくなりました。彼はモスクワ郊外で静かな生活を送り、家族とともに余生を過ごしました。時折、旧友と会ったり、読書をしたりする姿が報じられましたが、政治的な発言をすることはほとんどありませんでした。

2007年4月23日、エリツィンはモスクワ市内の病院で心不全により76歳で死去しました。ロシア政府は国葬を執り行い、彼の葬儀には多くの国内外の指導者が参列しました。彼はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬され、その墓石にはロシア国旗を模した巨大なモニュメントが建てられました。

2015年には、彼の功績を称えるために「エリツィンセンター」がロシア・エカテリンブルクに設立されました。この施設は、彼の生涯や政策を振り返る展示を行う博物館であり、ロシアの民主化運動やソ連崩壊の歴史を学ぶ場として運営されています。しかし、現代ロシアではエリツィンの評価は賛否が分かれており、特にプーチン政権下ではエリツィン時代の「混乱と貧困」を批判する声も少なくありません。

エリツィンを描いた書物・芸術作品

『資本主義ロシア』(1994年、岩波新書):改革の軌跡を分析

エリツィンの政策やロシアの市場経済化を分析した書籍の中でも、1994年に出版された『資本主義ロシア』(岩波新書)は、特に重要な一冊とされています。本書は、エリツィン政権下で実施された経済改革、いわゆる「ショック療法」の影響を詳細に分析し、その成功と失敗を評価しています。

著者は、ロシア経済に詳しい専門家であり、エリツィンの急進的な市場経済への移行がどのようにして進められたのか、またその結果として社会にどのような影響を与えたのかを多角的に検証しています。特に、1990年代のロシアにおける経済格差の拡大や、オリガルヒと呼ばれる新興財閥の台頭について詳しく述べられており、エリツィン時代の政策がロシア社会に与えた長期的な影響を理解する上で貴重な資料となっています。

また、本書ではエリツィンの政治手法や、ゴルバチョフとの対立、1991年のクーデター時の対応、1996年の大統領選挙における財界との関係など、彼の政治的キャリアについても詳細に論じられています。特に、1993年の議会砲撃事件についての分析は、エリツィンがどのようにして権力を維持し続けたのかを理解する上で重要なポイントとなっています。

エリツィンセンター(博物館・図書館):遺産と評価の交差点

2015年にロシア・エカテリンブルクに開館した「エリツィンセンター」は、エリツィンの生涯と業績を振り返るための博物館・図書館です。この施設は、エリツィンが生まれ育ったウラル地方に建設され、彼の政治的キャリアやロシアの民主化への貢献を称える展示が行われています。

館内には、エリツィンの私物や公務で使用した資料、当時の新聞記事、映像記録などが展示されており、訪問者は彼の人生を時系列でたどることができます。特に、1991年のタンクの上での演説や、1993年の議会襲撃事件に関する展示は、多くの来場者の注目を集めています。また、エリツィンの政策の影響を受けた市民の証言や、彼の時代のロシア社会を振り返るコーナーも設けられています。

しかし、エリツィンセンターの存在はロシア国内で賛否が分かれています。プーチン政権下では、エリツィン時代の「混乱と経済危機」が強調されることが多く、エリツィンを批判的に見る向きもあります。そのため、エリツィンセンターは単なる記念館ではなく、ロシア現代史の評価をめぐる議論の場としての役割も果たしているのです。

ウラジーミル・ソコヴニンの肖像画:ロシア美術に刻まれた指導者

ロシアの著名な画家ウラジーミル・ソコヴニンは、エリツィンの肖像画を手がけたことで知られています。ソコヴニンはソビエト時代から活躍していた画家であり、エリツィンの政治的キャリアに関心を持ち、彼のリーダーシップを象徴する肖像画を描きました。

特に有名な作品は、エリツィンがタンクの上で演説を行う姿を描いた絵画です。この作品では、モスクワのホワイトハウス前でクーデターに立ち向かうエリツィンの姿が力強く描かれており、彼がソ連崩壊の象徴的な指導者であったことを印象付けています。また、彼の特徴的な表情や、毅然とした立ち姿がリアルに表現されており、エリツィンのカリスマ性を伝える作品となっています。

エリツィンの肖像画は、ロシア国内だけでなく、海外でも展示される機会がありました。特に、彼の政治的評価が分かれる現代ロシアにおいて、ソコヴニンの作品は「エリツィンという人物をどう捉えるべきか?」という議論を呼び起こすものとなっています。

まとめ

ボリス・エリツィンは、ソ連崩壊という歴史的転換点に立ち、新生ロシアの初代大統領として国を導いた指導者でした。彼は1991年のクーデターを阻止し、ソ連解体の決定的瞬間を演出しました。しかし、彼の急進的な改革、特にショック療法はロシア経済に混乱をもたらし、一部の財界人を富ませる一方で、国民の生活を苦しめました。

さらに、チェチェン紛争や1993年の議会襲撃事件により、民主化の象徴だった彼のイメージは次第に強権的なものへと変化していきました。1999年にウラジーミル・プーチンへ政権を移譲し、政界を去りましたが、その評価は今なお議論が続いています。

エリツィンの時代はロシアにとって激動の時代でした。彼の功績と失敗を知ることは、現代ロシアの成り立ちを理解する上で重要です。混乱の中で新たな国を築こうとした彼の軌跡は、ロシア史において決して忘れられることはないでしょう。

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