こんにちは!今回は、江戸時代中期の旗本であり政治家・朱子学者の新井白石(あらいはくせき)についてです。
将軍・徳川家宣に仕え、「正徳の治」と呼ばれる一時代を築いた白石は、貨幣の改鋳、長崎貿易の縮小、生類憐れみの令の廃止など、幕府の根幹に関わる大胆な改革を次々と断行しました。その一方で、浪人として苦悩した若き日々や、西洋人との知的対話に見せた柔軟な知性、そして晩年に著した名作『折たく柴の記』に垣間見える哲学的人生観もまた、彼を魅力的な存在にしています。
学問と政治の狭間で時代を動かした異才・新井白石の生涯を紐解きましょう。
新井白石の誕生と“火の子”と呼ばれた少年時代
江戸柳原に生まれた学びの芽
1657年2月10日、江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」の翌日、避難先の江戸柳原で新井白石は誕生しました。まさに混乱と再生の只中で生まれたこの子は、生涯を通じて変革と知性の火種を宿し続ける存在となっていきます。父・新井正済(まさなり)は、上総久留里藩の藩主・土屋利直に仕える藩士で、役職は目付。家は小禄で、家運は既に傾き始めており、生活は決して豊かではありませんでした。しかしその分、家庭内には清廉な武士道精神と学問を重んじる姿勢が息づいており、質素な暮らしの中にも精神的な緊張感が保たれていました。白石にとって、世の中を生きる上で最も重要な価値は、名誉や財ではなく、内に宿すべき理念と知性であるという感覚が、すでにこの家庭環境の中で芽生えていたと考えられます。
「火の子」と呼ばれた少年の輪郭
新井白石は、幼少のころからきわめて早熟な才覚を示していました。とりわけ記憶力と論理力に優れており、わずか3歳にして父が読む儒学の書を筆で書き写したという逸話が伝わっています。その非凡な姿に、藩主・土屋利直は特別な関心を寄せ、白石の激しい気性と眉間に刻まれた皺の様子から「火の子」と呼ぶようになったとされています。この異名は、彼の中に絶え間なく燃え続けるような知的情熱と反応の鋭さを象徴するものでした。年長者に対してもひるまず議論を挑み、相手の言葉を聞き逃さず正確に捉えて返す姿は、すでに後年の知識人としての萌芽を感じさせるものでした。こうした気質は、彼が自らの学問に対して誠実かつ貪欲であり続ける土台となったのです。
父・正済の教育が鍛えた思考の芯
白石の内なる炎を真っすぐに導いたのは、父・正済による徹底した教育でした。正済は、武士としての責務とともに学問を深く愛し、自らの子にも漢籍の素読をはじめとした厳格な学習課題を与えました。自伝『折たく柴の記』には、「日のうちに行草三千字、夜に一千字を書く」といった日課が記されており、その厳しさと規則正しさがうかがえます。白石はその教育をただ耐えるのではなく、意味を噛み締めながら消化し、自分の言葉として蓄えていきました。父は言葉の背後にある思想や用法にも着目させ、単なる暗記ではなく、「考える学び」の姿勢を重んじたと推察されます。学問は書物の中だけにあるのではなく、日々の呼吸と歩みに根ざすもの。そうした思想の種が、白石の幼い心に確かに植えられていたのです。
新井白石が学問と出会い、父と築いた精神的絆
父の導きと独学の中で出会った儒学の思想
新井白石が儒学に強い関心を抱くようになったのは、父・正済の教育を受けながら独学を進めていた少年期のことでした。白石は幼少期から漢籍に親しみ、父から素読の訓練を受けて育ちますが、学問の方向性を自らの意志で切り拓いていったのは10代に入ってからです。特に17歳のときに出会った中江藤樹の著作『翁問答』は、彼にとって大きな思想的転機となりました。そこに説かれていた「道」の考え方、すなわち人としての在り方をめぐる誠実な問いかけは、白石の内面に深く刻まれます。学問とは知識の羅列ではなく、自己を問い、他者と向き合うための基盤となるべきものであるという理解が、ここに形を取り始めたのです。父の教えと自らの読書体験が交錯する中で、白石は学問を「生きるための技法」として体得していくことになりました。
父・正済の厳格な教育と、自学による鍛錬
白石の知性は、父・正済の厳しい教育方針のもとで着実に磨かれていきました。『折たく柴の記』によれば、彼は「日のうちに行草三千字、夜に一千字を書く」ことを日課とされていました。この訓練は単なる書写にとどまらず、書を通じた精神の鍛錬を意味していました。また、白石は自学の一環として『韻会』『字彙』などの漢語辞典を用い、一字一語の意味を自ら調べ、納得のいくまで理解しようと努めています。このような姿勢からは、父の教育が単に詰め込みを目的としたものでなかったことがうかがえます。具体的な対話の記録は残されていないものの、白石の内面的成長には、父の厳格さと自身の主体的な探求心が共鳴していたことは確かです。言葉の意味をただ覚えるのではなく、その背後にある論理や背景を読み取ろうとする姿勢が、彼の学びを単なる知識の習得ではなく、深い思索へと導いたのです。
日常の中で育まれた実感ある知性
白石の学問は、座学にとどまるものではありませんでした。自伝『折たく柴の記』には、彼が日々の生活の中で出会う事象に対して、深い観察眼を持って接していた様子が記されています。道を歩きながら耳にする人々の会話、街の風景、身近な出来事すべてが、白石にとっては思索のきっかけとなっていました。彼にとって、学問とは書物の中に閉じ込められた抽象ではなく、現実の生活に根ざした「実感の知」でした。そうした感覚が、のちに彼が政策や外交に携わる際においても、一貫して「現実と理」を結びつける態度として表れています。学ぶとは何かを知ることではなく、何を感じ、どう行動するかを自らに問うこと。この思想は、少年時代にすでに白石の中に深く根を張っていたのです。
新井白石が迎えた転機――藩主の死と家の没落
大老・堀田正俊の死と堀田家の混乱
貞享元年(1684年)8月28日、江戸城本丸の廊下で、幕政の中心人物であった大老・堀田正俊が若年寄の稲葉正休により刺殺されるという事件が起きました。この殿中殺害は幕府内に大きな動揺を与え、政治構造の不安定さを露呈する出来事でもありました。新井白石の人生にも、この事件が大きな影を落とします。白石が堀田正俊本人に直接仕えていたかについては諸説ありますが、堀田家に属していたこと、そしてこの事件を契機に家中が混乱し、新井家が浪人生活へと追い込まれていったのは確かです。武家社会において、藩主の失脚や死は、家臣の身分や生活を一気に揺るがすものでした。白石にとっても、それは制度の庇護から突如切り離される体験であり、若き日の生活と価値観に深い裂け目を生むこととなったのです。
家禄の喪失と迫り来る経済的困窮
堀田家の混乱により、新井家は家禄を失い、白石は浪人の身となりました。定収の断たれた生活は、ただちに衣食住すべての不安定化を招き、日々をどうつなぐかという現実的な問題がのしかかります。白石はこの時期、自ら筆を取り、写本の仕事に従事したほか、私塾を開いて漢文や儒学を教えることで生計を立てていました。武士の誇りを捨てず、商人や職人への転身を選ばなかった彼にとって、学問はただの趣味ではなく、生活を支える手段であり、自身の価値を証明する道でもありました。このような状況の中、かつて父のもとで築いた規律ある生活習慣と知的鍛錬が、現実を乗り越える力として生き始めたのです。
誇りと困窮の間でゆれる若き精神
浪人としての生活は、新井白石にとって厳しいものでした。経済的困窮、社会的孤立、不安定な将来——それらはすべて、若き白石の心に問いを突きつけるものでした。それでも彼は、筆一本で生きる道を選び、「人に恥じぬ生き方」を貫こうとします。自身の価値を外部の評価ではなく、内にある信念で支えるという姿勢は、儒学の倫理観と、幼少期から育まれてきた生活哲学に根ざしていました。浪人の立場でありながら、学ぶことをやめず、他者に教えることに努めたその姿には、「どのように生きるか」を自問し続けた若者の気高さがにじんでいます。白石にとってこの時期は、苦しみとともに、自身の核を形づくる鍛錬の時間でもあったのです。
新井白石、浪人として生き抜いた独学の日々
浪人生活で直面した試練と暮らし
堀田家の混乱により浪人となった新井白石は、定まった収入も庇護者も持たない生活へと突入しました。江戸の町で浪人が生き抜くことは容易ではなく、白石も例外ではありませんでした。質素な住まいに身を寄せ、食事もままならない日が続いたと考えられます。にもかかわらず、白石は自らの境遇を嘆くよりも、むしろその現実を学びの場と捉え、日々を積み重ねていきました。生活費を得るため、白石は写本の仕事を請け負い、さらに希望する者に漢文や儒学を教える私塾を開くことで、筆一本による自活を続けました。この時期、学びと生計が不可分であったことが、彼にとって学問をより実践的な「生の技術」へと昇華させる契機となっていきます。
独学で深めた朱子学の世界
白石が浪人生活の中で探求したのは、儒学の中でも朱子学でした。彼は独力で古典を読み解き、精緻な論理と倫理に基づく世界観にのめり込んでいきます。教科書的な学びにとどまらず、自ら『韻会』『字彙』などの辞書を繙き、一語一語の意味を確認しながら、思索を深めていったことが記録されています。白石はこの時期、朱子学における「理」の概念を徹底的に読み込み、物事の背後にある秩序や道理を把握する力を鍛えていきました。独学ゆえの苦労は多くあったものの、それゆえにこそ、誰かに倣うのではなく、自らの中で一貫した論理を組み上げていく姿勢が育まれていったのです。朱子学を通して白石が目指したのは、単なる知識人ではなく、「道理に基づき社会を見つめる眼」を持つ者になることでした。
次第に広がる教養人としての評判
白石の名が徐々に知られるようになったのは、彼の講義や著述に触れた人々の間で、その深い知識と誠実な態度が静かに評判を呼んだからです。私塾での教えは、単なる知識の伝達ではなく、学びの姿勢そのものを示す場でもありました。白石は生徒に対しても、問いの立て方や思考の深め方を重視し、一方的な教示ではなく、共に考える姿勢を貫いたとされます。やがて彼の名は、学者を志す若者の間だけでなく、町人や他藩の武士の間にも広まり、質素な浪人ながら「学者新井」として徐々に知られる存在となっていきました。この静かな評価の積み重ねが、やがて白石に新たな出会いと運命の転機をもたらすことになりますが、それはまだ先の話。この時期の白石は、ただ誠実に書を読み、誠実に人に接することで、知らず知らずのうちに地歩を築いていたのです。
木下順庵との出会いが開いた新井白石の進路
順庵との出会いがもたらした運命の転機
新井白石が木下順庵と出会ったのは、浪人生活のただ中でした。筆一本で生計を立てながらも、学問の道をあきらめなかった白石にとって、この出会いは人生の根本を揺るがす出来事となります。木下順庵は、朱子学を中心に幅広い古典を教授する幕府儒官であり、徳川綱吉に近侍する学者としても知られていました。白石はその名声を聞き、何らかの紹介――阿比留某、西山順孝らの名が伝えられています――を通じて、弟子入りの機会を得たと考えられています。順庵は白石の才能を一目で見抜き、束脩を免除し、弟子というより客分に近い待遇で迎え入れました。この厚遇は、白石がそれまでに培ってきた学識と人格が、順庵に強い印象を与えたことを物語っています。孤独な独学の時代を経て、白石は初めて本格的な「学問の共同体」と出会うことになったのです。
朱子学との真摯な対話と深化
順庵の指導のもと、白石の学問は質的な転換を遂げます。独学によって蓄積された知識は、順庵による講義と読解の鍛錬によって体系的に整理され、「読む」から「論じる」、さらには「適用する」へと深化していきました。特に朱子学における「理」の思想は、白石にとって倫理と秩序を貫く思考の軸となり、性理学の視座から社会や政治を捉える力を獲得していきます。順庵は経書だけでなく、中国古典の史書や漢詩文にも広く触れさせ、白石の思考を広げていきました。学問とは、文字を読むことではなく、背後にある原理を理解し、それを生きた指針とすることである――この順庵の教育方針により、白石は独学では到達しえなかった「学問の骨格」を体得し、自らの思考をより大きな社会構造の中で機能させる方法を掴んでいったのです。
順庵門下で築かれた学者としての確信
木下順庵の私塾には、雨森芳洲や室鳩巣、祇園南海、榊原篁洲など、多くの俊才が集っていました。その中で白石は、互いに議論を重ね、詩文を交わし、思想をぶつけ合う中で、自らの学問の位置づけを見出していきます。順庵は白石の論理力と文章力を高く評価し、加賀藩への推薦をはじめ、特別な信頼を寄せるようになりました。白石もまた、師の期待に応えるべく、ますます学問への集中を深めていきます。このような学問共同体の中で、白石は「教えを受ける者」から「知をもって語る者」へと、意識を変化させていきました。順庵との出会いは、白石にとって単に師を得たという出来事ではありませんでした。それは、「言葉をもって時代と対峙する覚悟」を育てる場であり、のちに政治と思想の両面で歴史に関わっていくための精神的基盤を築いた時間だったのです。
新井白石、徳川家宣に仕え幕政の中枢へ
甲府藩主・綱豊(家宣)との信頼関係
木下順庵門下として頭角を現した新井白石にとって、次の転機は、甲府藩主・徳川綱豊との邂逅でした。綱豊は後の第六代将軍・徳川家宣であり、若き日より学問を尊ぶ気風を持っていました。順庵の推挙を受けて、白石は綱豊の侍講(家庭教師)として仕えることとなり、儒学を教えるだけでなく、政治や道徳についても語り合う関係を築いていきます。白石の誠実かつ理知的な語り口は、綱豊の信頼を得る要因となり、やがて主従の枠を超えた思想的な共鳴へと発展していきました。白石にとってこの出会いは、単なる就職以上の意味を持ちました。それは、自らが信じてきた学問が、政治の世界に影響を与える可能性を帯びはじめた瞬間でもあったのです。
将軍家宣のもとで始まった政治参与
1709年、徳川綱豊が家宣として将軍に就任すると、白石はその信任を背景に幕政への関与を始めます。当初は侍講として留まっていた白石でしたが、家宣の下で重用され、政務に意見を述べる立場へと変わっていきます。その背景には、家宣自身が儒学を通じた統治理念に関心を持っていたことがあり、白石の語る「徳治」の思想に深く共鳴していたと考えられます。白石の助言はしだいに日常の読書指導から政治的判断にも及ぶようになり、儒者としての言葉が現実の政策に影響を与える場面が増えていきました。この段階で白石は、単なる学者ではなく、思想をもって政治に関わる「参与者」としての立場を獲得したのです。
侍講として果たした政策への影響力
新井白石が家宣に与えた影響は、単に思想的な面にとどまりませんでした。侍講という立場は形式上は学問を教える役職ですが、家宣との関係においてはそれを大きく超える意味を持っていました。たとえば、家宣が下す布令や改革案に対して白石が草案を起草する場面もあったとされ、白石の理論が実際の政策に組み込まれていくようになります。また、白石は家宣と政治哲学に関する討議を重ね、善政のあり方について深く意見を交わしていたと伝えられています。このようにして白石は、言葉によって統治を支える「筆の力」を現実の政治へと反映させ、知の実践者としての道を歩み始めました。それは、学問が机上の論理ではなく、人の生と国の秩序にかかわる「働き」になりうることを体現する時間でもあったのです。
新井白石、「正徳の治」で挑んだ改革の真意
貨幣改鋳と財政立て直しの構想
正徳元年(1711年)、徳川家宣の信任を得て幕政に深く関与した新井白石は、幕府の信頼を回復するために貨幣制度の抜本的見直しを断行します。元禄期から宝永期にかけて、幕府は金銀の含有量を下げた貨幣――いわゆる「悪貨」を流通させており、元禄小判の金含有量は56%にまで低下していました。その結果、インフレーションが進行し、物価の上昇が庶民の暮らしを圧迫していたのです。
白石はこれを是正すべく、慶長小判の水準――当初84%、後に流通中の鋳造で86%に達した水準――を目指して「正徳小判」を鋳造しました。その金含有量は84%に設定され、1714年(正徳4年)5月から8月までの4ヶ月間という短期間に限定して発行されました。これは、幕府の誠実さを貨幣の「品位」として可視化する試みであり、白石は儒学者として「信に足る貨幣」が為政者の徳を示すものと捉えていました。
しかし、金の含有量を上げることで貨幣供給量は大きく減少し、経済はデフレーション傾向に陥ります。のちに「正徳デフレ」とも称されるこの現象は、商業の停滞や市井の購買力低下を引き起こし、結果的に白石の政策は一部から批判を受けることとなりました。それでも白石は、民の信頼を得るためには、まず政治が真っ直ぐでなければならないという信念を貫き通したのです。
長崎貿易制限に見た外交観
白石の改革は国内経済にとどまらず、対外貿易政策にも及びました。当時、日本は鎖国体制下にありながら、長崎を通じて清国とオランダとの交易を継続していましたが、この交易によって銀が大量に流出していたことが、幕府の財政にとって深刻な問題となっていました。
正徳5年(1715年)、白石は「海舶互市新例」を制定し、貿易量を制限する方針を打ち出します。この新令では、清国船の来航数を年30隻、オランダ船を年2隻に制限し、さらに輸出入品目や取引額にも上限を設けました。目的は明確で、銀の流出を防ぎ、国内経済の安定を図ることにありました。
しかし白石は、単なる排外主義者ではありませんでした。1711年、オランダ商館長を江戸に召し、将軍家宣との謁見を実現させるとともに、交易の現状と西洋の情報を直接把握する姿勢を見せます。さらに、シドッチというイタリア人宣教師との対話を通じて、キリスト教の教義や西洋の科学知識、地理観に触れ、それを『西洋紀聞』『采覧異言』として整理・記録しました。これらの文献は当初秘蔵され、明治15年(1882年)に初めて公刊されたことからも、白石の探求が単なる一時的関心に留まらない深いものであったことがうかがえます。
白石の外交観は、「知ることを恐れず、知ったうえで距離を取る」という慎重で理知的なものでした。情報の欠如が判断を誤らせることを避けるためにこそ、彼は知の探究を通じて幕府の対外姿勢を整えようとしたのです。
「生類憐れみの令」廃止と対立の背景
五代将軍・徳川綱吉によって出された「生類憐れみの令」は、動物愛護を法制化した画期的な施策である一方、実際には犬の過保護や庶民の生活を圧迫する過剰な執行で批判の的となっていました。白石はこの政策を「徳の形骸化」と見なし、家宣政権下においてその見直しに取り組みます。
1711年から、白石は犬小屋の廃止や取締りの緩和など、段階的な撤廃措置を実施し、「生類憐れみの令」は実質的に骨抜きとなっていきました。ただし、法令の形式的な廃止はその後も継続され、完全に終息するのは、八代将軍・徳川吉宗の治世に入ってからのことでした。
この改革は、白石と旧幕閣との対立を激化させました。とりわけ、綱吉期の財政政策を主導した荻原重秀とは改鋳政策をめぐっても衝突し、1710年には荻原が罷免されるに至っています。白石は間部詮房とともに政務を主導し、幕府の理想像を再構築しようとしました。
白石が目指した「正徳の治」とは、制度の変更ではなく、政治のあり方そのものの刷新でした。貨幣に信を、外交に理を、法律に徳を――そのすべてに共通するのは、「言葉と行動が一致する政治」への希求です。白石は筆をもって政を正し、理念を実行に移すために、学問と権力の接点に立ち続けたのでした。
新井白石、政界から離れて見つめた晩年の世界
家宣・家継の死とともに訪れた失脚
正徳6年(1716年)、将軍・徳川家宣の死に続いて、その子・家継もわずか8歳で病没しました。この短期間に続いた将軍の死は、幕政の中枢にいた新井白石の運命を大きく変える出来事となります。後継に選ばれたのは、紀州藩主・徳川吉宗。彼は、実務と倹約を重視する現実主義的な政治家であり、白石が家宣政権下で推し進めた文治主義的改革路線を大きく転換していきます。
さらに同年、白石とともに政務を支えていた間部詮房が急死します。この死によって、白石は幕府内での政治的後ろ盾を完全に失い、幕政の第一線から身を引かざるを得ない状況に追い込まれました。だが、その後の白石は、引退を単なる終わりとせず、自らの思想と経験を整理する時間へと変えていきます。「筆をもって記し、後の世に問いを残す」ことこそが、白石にとっての第二の生であったのです。
『折たく柴の記』に記した心の内面
政界から退いた白石は、自身の半生を振り返り、『折たく柴の記』という自伝を記します。この書は、自己弁明にとどまらず、為政者としての苦悩と省察を、率直な筆致で描いた記録です。特に彼が主導した貨幣改鋳について、「正しきを為すには時機を選ばねばならぬ」と記した箇所には、自らの理想が時代に受け入れられなかったことへの静かな悔恨がにじんでいます。
書名にある「折たく柴」とは、薪を折るような小事、つまり取るに足らない経験の記録という謙遜の意を含みつつ、未来に残すべき種火としての意味合いも帯びています。白石は、この回顧を通じて、政治とは何か、人が何を支えに生きるべきかを深く問い続けたのです。
晩年の著述と知識人との知的交流
晩年の白石は、著述に精力的に取り組み、数々の重要な著作を残します。『読史余論』では、日本の歴代政権の興亡を分析し、政治の倫理的基盤を探ろうとしました。『西洋紀聞』『采覧異言』では、イタリア人宣教師シドッチとの対話をもとに、西洋の宗教・地理・科学に関する知識を体系的に整理しています。これらの著作は当初秘蔵され、のちに明治15年(1882年)に公刊され、近代日本の知識人にも大きな影響を与えることとなりました。
さらに、白石は北海道や琉球(沖縄)など辺境地域に関する地理・文化を記した『蝦夷志』『南島志』なども手がけ、知の視野を内外に広げています。これらは単なる地誌にとどまらず、国土と文化の多様性をどう理解すべきかという問いを含んでいます。
また、雨森芳洲、河村通顕らとの知的交友を深め、思想を交わしながら、後進の育成にも尽力しました。白石の直接の門弟ではないものの、彼の著作は後世の蘭学者や知識人――たとえば杉田玄白ら――にも高く評価され、思想的影響を与えたと考えられています。
新井白石の晩年は、政治の現場から離れながらも、思想の静謐な深まりと知の蓄積に満ちていました。退場ののちに、なお言葉と記録を通じて問いかけ続けた彼の姿は、まさに「去り際に咲く花」のような余韻と示唆を残しています。
新井白石を描く文献と創作――多角的な人物像
『武人儒学者 新井白石』が示す信念と改革
現代の歴史文化研究において、新井白石の人物像を再構成した一冊として注目されるのが、『武人儒学者 新井白石 ―正徳の治の実態―』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)です。本書では、白石を単なる儒学者としてではなく、武士の矜持を持ちながら政治に取り組んだ「実践家」として描いています。とくに、貨幣改鋳や長崎貿易の制限といった施策の背景には、「徳と秩序」を重んじる政治理念があったことを、具体的な史料に即して明らかにしています。
また、家宣政権下での間部詮房との協働や、荻原重秀との対立構造を丁寧に掘り下げ、白石の政策的立ち位置が「理想に殉じたもの」であったことを評価しています。本書の特徴は、政治家・思想家としての白石を、「行動する知性」として位置づけている点にあります。白石を理解するうえで、「思想の人」にとどまらず「政策を持つ人」として捉える視点が与えられる一冊です。
『新井白石の政治戦略』にみる儒者の洞察
一方、政治思想史の観点から白石を再評価したのが、『新井白石の政治戦略:儒学と史論』(講談社選書メチエ)です。本書では、白石が自らの政治理念をいかにして幕府の現実とすり合わせたかを、朱子学と史学の対話を通じて読み解いています。特に注目されるのは、『読史余論』における歴代政権の分析に表れる「理のある統治」への志向です。著者は、白石の政策判断が単なる理念的応用ではなく、史実に基づいた判断であった点を強調し、「歴史に学ぶ政治」という儒者の視座がどのように形成されていったかを追究しています。
本書はまた、白石の挫折――すなわち「正徳の治」の成果が長続きしなかったこと――に対しても冷静な分析を加えており、「成功よりも失敗の記録にこそ思想の深度が表れる」とする立場から、白石の思考過程そのものに焦点を当てています。理念と現実の交差点で模索し続けた一人の知識人の姿が、ここでは明晰な政治理論として語られています。
小説『新井白石』が描いた人間としての苦悩
学術書とは異なるアプローチで白石像に光を当てたのが、歴史小説『新井白石――幕政改革の鬼』です。この作品は、白石を冷徹な政策家としてではなく、葛藤する一人の人間として描きます。政争の只中で言葉と信念を武器に挑む白石の姿には、現代にも通じる苦悩と孤独が浮かび上がります。特に、間部詮房の死後、政界で孤立する白石の姿には、読者の感情を揺さぶるような静かな焦燥感が描かれており、学問の外側にある人間性へのまなざしが感じられます。
この小説は、史実に即しながらも、想像力によって白石の内面を織り上げる試みであり、「語られていない部分」から人物像を立体化しようとする文学的企てです。政策の精度ではなく、選択の重みとその背後にある感情――そのような視点から、白石という人物を改めて知ることができる一書と言えるでしょう。
理想と現実のはざまで言葉を貫いた人
新井白石の生涯は、学問と政治、理想と現実の間で揺れながらも、自らの信念を貫いた知の軌跡でした。幼少期に芽生えた探究心は、父や師との対話を経て深化し、幕政においては儒学を礎に具体的な政策を実行へと結びつけました。貨幣改鋳や貿易制限に込めた「誠」の政治、そして晩年に記した『折たく柴の記』には、挫折の中でなお思索を続ける姿があります。後世の書物や創作が描く白石像は多様でありながら、一貫して浮かび上がるのは「言葉をもって時代に抗い、未来に語りかけた人物」の姿です。そのまなざしは今も、制度と思想、知と行動の橋渡しを問いかけているようです。
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