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雨森芳洲の生涯:江戸時代に言葉と誠で日朝友好を築いた儒学者

こんにちは!今回は、江戸時代中期の儒学者で外交実務家、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)についてです。

“互いに欺かず、争わず、誠をもって交わるべし”──現代にも通じるこの理念を掲げ、朝鮮通信使との対話を重ねた芳洲は、国境を越えて信頼を築いた真の国際人でした。

語学、思想、交渉術……すべてにおいて一流を極め、88年の生涯を「誠」の一字に捧げた芳洲の軌跡をたどってみましょう。

目次

雨森芳洲の少年時代に芽生えた詩と学問への情熱

近江国雨森村に生まれた少年

1668年(寛文8年)、江戸時代前期の近江国伊香郡雨森村――現在の滋賀県長浜市高月町雨森――に、雨森芳洲は生を受けました。この地域は琵琶湖の北部に位置し、古くから「近江」の名のもとに歌枕や文化の地として知られた土地です。京や奈良に近く、学問や詩歌の交流も行われていたこの風土は、文化的素養の形成に少なからぬ影響を与えていたと考えられます。そうした環境の中で育った芳洲が、幼少より言葉の響きや自然の情景に感応し、詩や学問に関心を寄せていったことは、のちに9歳で自ら漢詩を詠んだ事実からもうかがえるところです。直接の記録が残るわけではないものの、季節の変化や風物詩に敏感な感性が、幼い彼の思考に柔らかな彩りを加えていたことは想像に難くありません。

医師の家に育ち、書物に囲まれて学ぶ

芳洲の家は代々医業を営んでおり、父・清納(または正之と伝える史料もあり)は村で医師として暮らしていました。当時の医師は診療の技能だけでなく、儒学や漢方の知識、さらには倫理観も求められる教養人とされており、芳洲の家には医書や漢籍が揃えられていたと考えられます。芳洲は5歳のころから父のもとで漢詩や漢文の手ほどきを受け、早くから文字や表現の規律、思想に触れる機会を得ていました。9歳で漢詩を自作したことは、こうした家庭環境の中での自然な発展と見ることができます。また、医師として人と向き合う父の背を見て育ったことは、彼にとって「学問は人のためにある」という思いを芽生えさせる契機にもなったでしょう。学びとは孤立した営みではなく、誰かの痛みや問いに応えるための手段である――そんな意識が、この頃から彼の中に根づいていったと推察されます。

詩に親しみ、言葉と心の関係に目覚める

芳洲の家庭では、教育の一環として詩や漢文を声に出して読むことが奨励されていた可能性があります。江戸時代の知識人家庭においては、詩文を通じて子の情操を育て、言葉の意味を深く味わわせる習慣が一般的に見られました。芳洲もまた、漢詩を詠むことで自然や感情を表現し、言葉の力に目覚めていったと考えられます。詩作は、単なる知識の集積ではなく、自身の感じたことを他者に伝える術として彼の中に息づいていきました。のちに彼が異文化との対話においても、言語を越えた誠実なやり取りを重視した背景には、こうした言葉と心の結びつきへの深い理解があったと見ることができるでしょう。幼少期に培ったこの感受性は、知識人としてだけでなく、人と人を結ぶ存在としての彼の原点でもありました。

父の死をきっかけに江戸で学問の道へ進んだ雨森芳洲

17歳で迎えた父の死と進路の決断

1683年(天和3年)、雨森芳洲が17歳のとき、父・清納が亡くなりました。幼少より漢詩や漢文を教えてくれた父は、芳洲にとって単なる家族以上の存在でした。医師として地域に尽くしてきたその姿から、芳洲は「学ぶこと」と「人に尽くすこと」の関係を日常の中で感じ取っていたと考えられます。父の死は、芳洲にとって人生の大きな岐路でした。家業である医学を継ぐ道もありましたが、彼はあえて儒学の道を選び、より広い視野で人間や社会と向き合おうとする決意を固めました。その選択の背景には、単なる知識の継承ではなく、「なぜ学ぶのか」という問いに応えようとする内的な動機があったのでしょう。父の死という大きな節目が、彼の思索をより深いものへと押し出したのです。

江戸行きを決意し、未知の知の世界へ

芳洲が江戸に向かったのは1685年(貞享2年)のことでした。当時の江戸は、学問の都として多くの知識人が集い、朱子学を中心とした思想の実践が盛んに行われていた場所です。若き芳洲にとって、それは未知の世界への飛び込みでもありました。村から江戸への道のりは、物理的にも心理的にも容易なものではなく、当時の交通事情や身分の壁を考慮すれば、その決断には大きな覚悟が必要だったと推察されます。旅に出るということは、ただ地理を越えることではなく、自らの殻を破る行為でもありました。彼が目指したのは、木下順庵という一流の朱子学者の門下。父の死後、「学問で人に尽くす」ことへの願いを、新たな形で叶えようとする第一歩だったのです。

木下順庵に師事し、学問の本質を知る

江戸に到着した芳洲は、朱子学の大家・木下順庵の門を叩きます。順庵は将軍徳川綱吉の侍講を務めた儒学者であり、道徳と現実を結びつけた実践的な学問を説いていました。芳洲は彼のもとで厳格な学問修行に励み、「木門五先生」と称されるほどの優秀な門弟の一人となります。順庵は、知識を蓄えるだけでなく、それを「世の中にどう役立てるか」という視点で指導を行いました。芳洲はこの思想に深く共鳴し、「知をもって人を理解し、言葉をもって人とつながる」という姿勢を自らの信条として育てていきます。この時期に得た学問観は、後年の誠信外交の理念や、朝鮮通信使との誠実な対話にも色濃く反映されていくことになります。彼にとっての学問は、世界と向き合うための実践であり、内と外を結ぶための橋だったのです。

木下順庵に師事し、思想を深めた雨森芳洲の学問時代

木下門下での学問修行と評価

1685年(貞享2年)、雨森芳洲は18歳の時に江戸へ上り、朱子学の権威・木下順庵に入門します。順庵が主宰する雉塾には、全国から俊秀な青年たちが集まり、連日、経書の講読、詩文の制作、学問討論が行われる厳しい環境でした。朱子学においては、書物を読むことのみならず、「理」と「情」、「知」と「行」の一致が重視され、実生活に根ざした学びが求められました。芳洲はその中で、幼い頃から親しんだ詩文の技量と、論理の筋を通す力によって次第に頭角を現します。学問への姿勢は真摯そのものであり、やがて「木門五先生」として、室鳩巣・新井白石・祇園南海・榊原篁洲と並び称されるようになります。順庵からも「後進の領袖」と評されたことは、彼が単なる秀才ではなく、学問を通じて他者を導く力を備えていた証といえるでしょう。

新井白石との交差と思想の分岐

順庵門下にあって、芳洲より11歳年上の新井白石は、将来、幕政を担うことになるほどの才を早くから発揮していました。二人は同じ塾に学びながらも、その関心と思想の方向は大きく異なっていきます。白石は、政治と制度設計を重んじ、幕府の権威と国家の安定を学問の軸に据えました。一方、芳洲は学問を通じて「人を知る」こと、異なる文化や言語に生きる人々と誠実に交わることの意義を深く探求します。この違いは、のちに両者が朝鮮通信使や外交政策をめぐって立場を異にする原因ともなりました。白石は実利と秩序を優先し、芳洲は信と理解の架け橋を模索しました。同じ師のもとに学びながら、それぞれの人格が交差し、別々の道へと進んでいく様は、順庵の教育が一律の教義ではなく、弟子たちの個性に応じた思索の広がりを促していた証といえるでしょう。

芳洲が学問に見出した世界

順庵の教えが芳洲にもたらしたものは、経書の知識や詩文の技術だけではありませんでした。「学問とは、人と関わるための準備である」――この実践的な精神が、彼の思想の根幹を成していきます。芳洲は塾中でも、異なる出身地の門弟や庶民の言葉遣い、地方の風俗などに関心を示し、他者の暮らしの中に知の糸口を見いだす態度を大切にしていました。このような姿勢は、のちに彼が中国語や朝鮮語の習得に努め、異国の使節と心を通わせる外交の基礎となります。彼にとって学問とは、内に閉ざされた体系ではなく、外と交わり続ける力でした。順庵のもとで磨かれた言葉と眼差しは、芳洲を一人の知識人にとどめず、「誠」をもって国境を越える対話を可能にする思想家として育てたのです。

対馬藩士として外交の現場に立った雨森芳洲

若き日に対馬藩に仕官した背景

1689年(元禄2年)、22歳の雨森芳洲は、江戸での学問修行を経て、朝鮮外交の最前線を担う対馬藩に仕官します。登用の背景には、朱子学の師・木下順庵からの推薦がありました。順庵は芳洲の誠実な人柄、詩文の才能、語学への関心を高く評価しており、彼を実務に生かす人物として推挙したのです。対馬藩は朝鮮との国交を唯一担う藩であり、その役割は単なる地方統治を超えた外交の要所でした。藩主・宗義真は、芳洲のような文治的素養を持つ人材を必要としており、その期待に応えるかたちで彼を迎え入れました。江戸の知的空間で磨いた知を、国際実務の場で試す――芳洲の人生は、ここから大きく転回していきます。仕官は、ただの就職ではなく、思想を形にするための舞台への第一歩だったのです。

外交実務の現場での挑戦

対馬藩には「朝鮮方」と呼ばれる専門機関が設けられており、芳洲はこの部署において実務の中核を担っていきます。朝鮮王朝との交渉では、儀礼の形式、国書の文言、通訳の質など、どれをとっても一つの失言が政治的摩擦に発展しかねない緊張感が常に伴っていました。芳洲は、順庵門下で養った論理的思考と、詩文に通じた繊細な感性を活かし、文書作成から実際の交渉、朝鮮語通訳に至るまで、極めて高度な役割をこなしました。単に日本側の立場を伝えるだけでなく、朝鮮側の文化的背景や言葉の含意を読み解き、誤解の芽を未然に摘むことも彼の仕事でした。このような実務を通して、芳洲は学問を「生かす知」として実践し、理想と現実の接点を築いていったのです。

藩主・宗義真との厚い信頼関係

芳洲が仕官してから間もなく、藩主・宗義真は彼の能力を認め、重要な外交案件を任せるようになります。とくに朝鮮通信使の応接に際しては、芳洲が中心となって交渉方針を立案し、国書の起草や対応文書の精査にも深く関わりました。1711年(正徳元年)や1719年(享保4年)の通信使来訪では、彼の準備と調整が藩の外交対応を円滑にし、日朝間の信頼関係維持に大きく寄与したとされています。宗義真が芳洲に示した信頼は、単なる官僚的な評価を超えて、人格に対する厚い敬意に基づくものでした。芳洲の誠実な態度と、相手を知ろうとする姿勢が、宗義真との関係を確かなものにしたのです。地方の一藩士でありながら、国際関係に関わる中心的な役割を果たす――その背景には、家臣としての忠誠と、一人の人間としての深い信頼がありました。

語学と実地研修を通じて異文化理解を深めた雨森芳洲

朝鮮語・中国語の習得とその背景

対馬藩に仕官した芳洲が本格的に朝鮮語と中国語の習得に取り組み始めたのは、外交実務の中で言葉の重要性を痛感したことがきっかけでした。形式だけ整えても、言葉の裏にある心が伝わらなければ信頼は築けない――その思いが、彼を語学修得へと駆り立てました。特に朝鮮語は、通信使との応対や書簡解釈において不可欠であり、芳洲は対馬藩の「朝鮮方」に所属しながら、藩内の専門通詞たちと共に発音、文法、語彙を徹底的に学んでいきました。また、中国語についても、朱子学の原典に親しんでいた下地を生かしつつ、日常会話にも通用する口語や慣用表現の習得に努めています。彼は言語を「情報伝達の道具」としてではなく、「心を交わす手段」として捉えていました。だからこそ、文法や語彙だけではなく、文化的な背景、表情や礼儀の意味まで含めた“全体としての言葉”を学ぼうとしたのです。

釜山での滞在と異文化体験

芳洲が現地・朝鮮での生活を初めて体験したのは、通信使との調整や通訳任務の一環で、釜山の倭館に滞在した時でした。倭館とは、日本からの通訳官や商人が居住・活動する拠点で、朝鮮王朝の監視のもと、制限付きで運営されていた特殊な空間です。芳洲はこの地で、朝鮮の人々の言葉、生活、礼節に直接触れる日々を過ごしました。たとえば、ある冬の日、現地の学者と詩を通じた即興のやりとりを交わし、互いの国風や季節感の違いを感じ合ったといいます。彼にとってこのような体験は、書物では得られない実感を伴った学びとなりました。朝鮮語を使って笑い合い、時には誤解を通して理解を深める。その過程で、芳洲は「異文化は乗り越えるものではなく、共に在るものだ」という考えを徐々に深めていきました。異なる習慣を前にしても臆せず、相手の世界を尊重する姿勢こそが、彼の真骨頂だったのです。

通信使応接と申維翰との協力関係

芳洲の異文化理解における大きな転機は、朝鮮通信使製述官・申維翰との出会いでした。申は儒学に通じ、文筆にも優れた知識人であり、芳洲と同様に「誠信」を重んじる人物でした。1711年、芳洲が通信使応接の実務責任者となった際、両者は多くの協議と対話を重ねることになります。形式的な挨拶を超えて、日中の礼儀観念の違いや、文書の表現の解釈についても意見を交わし、調整を重ねました。ある場面では、国書に用いる表現をめぐり緊張が高まったものの、芳洲が相手の立場を尊重した表現案を出したことで、申が納得し、難局を収めたといいます。言葉の壁を越えて築かれた信頼は、国境を越える友情にもなり得る――この経験を通じて、芳洲は異文化理解が単なる知識の習得ではなく、「共に歩むための意志」であることを体得していきます。申との対話は、まさにその象徴でした。

朝鮮通信使との対話から見える雨森芳洲の実務力と人間力

通信使応接の全体像と準備の裏側

朝鮮通信使は、国家間の親交を象徴する儀礼使節であり、その応接には極めて高度な準備と調整が求められました。雨森芳洲が中心的に関わった1711年(正徳元年)と1719年(享保4年)の使節団応接では、数百人にのぼる随行員を迎える体制づくりから、宿泊地、儀礼の次第、贈答品の選定に至るまで、多岐にわたる準備が進められました。とりわけ重視されたのが、国書とそれを伝える儀式の形式です。一語一句の表現が外交的立場を左右するため、芳洲は幕府と対馬藩の間を奔走し、双方の意向を調整しました。彼は内容の整合性だけでなく、相手国の文化や礼儀に対する理解をもとに、摩擦の芽を事前に摘む工夫を重ねました。準備とは、単なる段取りではなく、信頼の土台を築く行為――芳洲の準備には、そうした哲学が貫かれていました。

トラブル回避と信頼構築の工夫

通信使との実務では、予期せぬ誤解や文化の違いからくる摩擦がたびたび発生しました。たとえば1711年の応接では、江戸での将軍拝謁時に用いる国書の言い回しをめぐって、朝鮮側が「上下関係の誤認」を危惧し、使節団の対応が一時停止する事態に発展しました。この局面で芳洲は、対馬藩の意向と朝鮮側の感情の両方を踏まえ、文言を再調整する提案を即座に行いました。単に形式を修正するのではなく、「相手にどう伝わるか」という視点をもって、言葉を再構築する姿勢が、朝鮮側の信頼を呼び戻したのです。さらに、贈答品の交換や宴席での対応など、非公式な場においても、芳洲は常に相手の立場に立ち、丁寧な応接を心がけました。彼の真摯な姿勢は、使節団の中でも高く評価され、日本側への理解を深める契機となっていきました。

文化と政治を橋渡しする誠実な交渉姿勢

芳洲の交渉姿勢が際立っていたのは、言葉を超えて文化の違いをつなぐ「誠実さ」にありました。儀式の場面でも、彼は一方的な形式の押しつけではなく、「互いの価値観を尊重するための表現」を模索しました。たとえば、朝鮮側が提示した詩文に対し、日本側の文人が意図を汲み取れず困惑した場面では、芳洲が間に立ち、双方の美意識を翻訳するように言葉を選び、緊張を解いたという逸話があります。こうした対応は、知識だけでなく、相手を思いやる感覚と、言葉を生きたものとして使う力の表れでした。彼が重んじたのは、勝ち負けや優劣ではなく、「いかにして互いを理解するか」という姿勢でした。儀礼の裏にある人と人との関係性を見失わなかった芳洲の交渉は、形式主義に陥ることなく、本質的な信頼の構築へとつながっていったのです。

「誠信外交」の理念を説いた雨森芳洲の著作と教育活動

誠信外交とは何か、その核心

雨森芳洲が唱えた「誠信外交」とは、簡潔に言えば「誠実を尽くし、信義を守る」ことを外交の根幹とする考えです。彼は、形式や儀礼にとらわれず、相手の文化や思考に敬意を払い、率直な対話によって信頼を築くことを何よりも重視しました。この姿勢は、戦略や権謀術数がしばしば求められた当時の外交観から見れば、極めて革新的なものでした。とくに朝鮮との関係においては、相互に「異国」と見なす前提を越え、人間と人間として交わる姿勢を持つこと自体が稀有でした。芳洲は「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」という理念を説き、国境を超えた共存の可能性を模索しました。それは単なる理想論ではなく、幾多の交渉を経験し、対立の火種を丁寧に収めてきた実践の中から生まれた思想だったのです。

『交隣提醒』を通じた思想の発信

この「誠信」の理念を理論として結実させた著作が、1728年(享保13年)に著された『交隣提醒(こうりんていせい)』です。本書は、対馬藩内の外交実務者や後進の通訳官たちに向けて書かれた、外交の心得を説く手引書であり、実務と思想が融合した稀有な文献です。芳洲はその中で、「我を正して人を責めず、己の言葉を慎みて、誤を避くべし」と記し、交渉の場においては自己を律することの重要性を強調しています。また、「隣と交わりを深くせんと欲せば、信をもってこれを導くべし」とも述べ、信義が国家間の継続的な友好の鍵であると説いています。このような視座は、儒学の基本理念を外交という実践に応用した独自の成果であり、単なる技術論を超えた「人格としての外交官像」を提示していたといえるでしょう。『交隣提醒』は、芳洲の知識と経験、そして信念が結晶した作品でした。

語学教育と通訳育成の未来志向

芳洲はまた、自らが実務を通じて得た語学や異文化理解の重要性を、後進に伝える教育活動にも注力しました。対馬藩では通訳官の育成が外交の根幹を支えており、芳洲は『交隣提醒』を通じて語学習得の姿勢や、言葉の裏にある文化的含意への配慮を指導の柱としました。彼は、単に言葉を訳すのではなく、「心を移す」通訳であるべきだと説いています。たとえば、朝鮮語の敬語表現一つとっても、その背後にある礼の文化や社会的文脈を理解することが求められるという指摘は、今日の異文化コミュニケーション教育にも通じる視点です。芳洲が目指したのは、「言葉の技術者」ではなく、「文化の橋渡し人」を育てることでした。現場で磨いた知恵を惜しみなく共有し、次代の人材に託す――そこにもまた、彼の「誠信」の精神が息づいていました。

雨森芳洲を描く作品群 ― 国際人の姿を現代に問う

『元禄享保の国際人』が描く芳洲像

上垣外憲一による『雨森芳洲 元禄享保の国際人』(講談社学術文庫)は、芳洲を近世日本における稀有な外交実務家として位置づけ、その生涯を外交史の枠組みの中で丹念に描いています。本書の特筆すべき点は、江戸幕府の対外政策の変遷や、朝鮮通信使との往還が持つ政治的意味を丁寧に解きほぐしながら、その中で芳洲が果たした役割の実際を追っている点にあります。とりわけ、通信使をめぐる儀礼交渉の細部において、芳洲が「形式に実を通わせる」という矛盾と向き合っていた姿が浮かび上がります。筆者は、芳洲を「制度と信念の間で葛藤しつつ、誠実に歩んだ実務者」として描きます。その姿は、時に非効率でさえあったが、結果として平和的共存を成し遂げた人物像として、現代の国際関係にも問いを投げかけてきます。

『玄徳潤』との交流に見る思想の実践

信原修の『雨森芳洲と玄徳潤 朝鮮通信使に息づく「誠信の交わり」』(明石書店)は、芳洲と申維翰(=玄徳潤)との間に交わされた書簡や詩文の分析を通じて、国家を超えた思想的交流の実像に迫る一冊です。ここで描かれる芳洲像は、官吏ではなく、詩を詠み、信を語る思想の実践者です。申維翰との交流は、単なる外交文書のやりとりではなく、互いの言葉を尊び、礼を尽くし、心を交わす営みとして記録されます。特に注目されるのは、両者が儒学の共有価値観を基盤に、政治的文脈を超えて対話を成立させようとしていた点です。そこには「相手を知ろうとする意志」があり、その意志こそが「誠信」を形にする力であることを本書は繰り返し強調しています。芳洲の外交観が、実際の関係構築を通じていかに機能していたかを知る上で、極めて重要な視座を与えてくれる一冊です。

「互に欺かず争わず…」が語る文化的信条

上田正昭『雨森芳洲 互に欺かず争わず真実を以て交り候』(ミネルヴァ書房)は、芳洲を思想家・文化人として読み直すための視座を提供する書です。タイトルに掲げられた「互に欺かず、争わず、真実を以て交り候」という言葉は、芳洲が外交信条として記したものですが、本書ではこれを単なるモットーとしてではなく、一種の人間観として掘り下げます。上田は、芳洲が語学・外交・教育を通じて一貫して追い求めたのは、「共にある文化」の構築だったと指摘します。つまり、相互に尊重し合うという文化的態度が、芳洲の中では政治や制度を超える倫理として機能していたというのです。その思想は時代を超えて響き続け、現代における他者理解や対話の在り方にも問いを投げかけています。本書は、芳洲を未来に橋をかける思想家として描いている点で、他の作品とは一線を画しています。

雨森芳洲という人物が遺したもの

雨森芳洲の生涯は、言葉を通じて人と人、国と国をつなごうとした試みの連続でした。近江の医家に生まれ、詩と学問に親しんだ少年は、父の死をきっかけに江戸へと旅立ち、木下順庵の薫陶を受けて思想を深めていきます。やがて対馬藩に仕官し、朝鮮語・中国語を学び、外交の最前線で「誠信外交」を体現していく――その道のりには、常に相手を理解しようとする姿勢と、形式にとらわれない誠実さがありました。芳洲が遺した言葉や著作、そして彼を描く数々の作品は、現代においてもなお、他者とどう向き合うべきかという根源的な問いを私たちに投げかけてきます。欺かず、争わず、真実をもって交わる――その精神は、今も時代を超えて、生き続けています。

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