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足利義視の生涯:応仁の乱を呼び込んだ「将軍になれなかった男」

こんにちは!今回は、応仁の乱の勃発に深く関わった武将、足利義視(あしかが よしみ)についてです。

僧から還俗して将軍候補となった義視は、兄・足利義政の子・義尚との家督争いをきっかけに挙兵。東軍の大将として戦に臨むも、後に敵である西軍へと転じ、戦局を大きく揺るがしました。義視の動きがなければ、応仁の乱はここまで大規模な戦にはならなかった――とも言われるほどです。

天下を巻き込む乱を引き起こしながらも、権力には執着せず、最終的には再び出家して静かに人生を終えた義視。その数奇で波瀾に満ちた生涯をたどります。

目次

幼少期に宿命を背負う足利義視

足利義教の子として生まれた義視

足利義視が生まれたのは1439年(永享11年)、将軍足利義教の十男としてのことでした。義教はその権威を背景に強硬な政治を進め、「万人恐怖」と称されるほどの支配を行っていましたが、1441年、赤松満祐の手により嘉吉の乱で暗殺されます。義視の誕生はそのわずか2年前のことで、政治的混乱の予兆がすでに生まれつつある時代でした。将軍家の男子であることは名誉であると同時に、血筋ゆえに動乱に巻き込まれる宿命を背負うことでもありました。兄たちが健在だった当初は義視が将軍職に就く可能性は低いと見なされていましたが、その立場は後の時代の政変の中で思いがけず浮上していくことになります。

相次ぐ将軍家の不幸と義政の登場

義視の兄・足利義勝は、父・義教の死後に将軍に迎えられましたが、1449年にわずか10歳で病没。わずかな期間で将軍家に空白が生じ、幼い義政が第8代将軍として就任します。このとき、義政は義視よりわずかに年上の8歳。将軍家の後継者が短命であったことは、義視にとっても無関係ではありませんでした。自身がまだ幼く政治の表舞台に立つ年齢ではなかったものの、兄の死が一族の将来構図を大きく揺るがしたことで、義視もまた潜在的な後継者として幕府内外で意識される存在となっていきます。本人の意思を超えて運命の列に並ばされる形となったのです。

幼年で出家し「義尋」として育つ

義視は4歳で出家し、天台宗の寺院である浄土寺門跡を継いで「義尋(ぎじん)」と号します。室町時代において、将軍家の男子が出家することは珍しいことではありませんでした。これは政争の火種を減らすための方策であり、血統を維持しつつ権力の集中を避ける意図も含まれていました。義視の場合も、兄たちが家督を担う中で、仏門に入ることが自然な選択とされました。宗教者として静かに成長していく義尋には、いまだ「将軍候補」としての役割が課されていたわけではありません。しかし、将軍家に生まれたこと自体が政治的な意味を持ち、義尋の人生は思いがけぬ局面を迎えることになります。後の還俗は、その運命を大きく転換させる出来事となるのです。

僧から俗世へ戻る足利義視

義政に後継ぎがおらず還俗を求められる

将軍足利義政が成人して政務を執るようになると、政局は一定の安定を見せましたが、一つの懸念がありました。将軍に子がなかったのです。室町幕府にとって後継者の不在は、そのまま権力構造の揺らぎを意味しました。このような状況の中、注目されたのが天台宗の門跡であった義政の弟、義尋でした。出家して義尋と号していた義視は、父・義教の血を引く正統な男子であり、還俗すれば将軍後継者として最もふさわしいと見なされました。1464年、義視は25歳で仏門を離れ、還俗します。還俗の要請は義政自身からのものであり、義視にとっては自らの信仰を断ち切る決断でもありました。だが、それ以上に一族の行く末を左右する使命感が、彼を政治の表舞台へと引き戻したと考えられます。

将軍後継者としての正式な認定と新たな立場

義視が還俗すると、義政はこれを正式に後継者として認定し、義視は幕府内で「今出川殿」と呼ばれ、将軍の名代として位置づけられるようになります。この決定には、管領・細川勝元をはじめとする有力守護の支援もあり、義政に子がいない限り、幕府の継承問題にひとまずの解決を与えるものでした。当時の幕府内では、義視を擁立することで政局が安定するとの期待が広がったと考えられます。義視自身も、宗教者として育んだ思慮深さを政治の場で活かしつつ、将軍家の威信を背負う者としてふるまいました。しかし、彼の登場がもたらしたのは単なる安定ではなく、新たな対立の幕開けでもありました。この選択が、のちの応仁の乱を引き寄せる火種となっていくのです。

義視の周囲でうごめく幕府内の勢力

義視が後継者としての立場を得ると、幕府内部では新たな緊張が高まります。特に動きを見せたのが、政所執事・伊勢貞親でした。貞親は義政の側近であり、また義政の正室・日野富子とも密接な関係にありました。彼は義政の政務を補佐する中で義視の台頭に警戒感を抱くようになり、実際に義視の暗殺を画策したとされる事件も伝えられています。この対立構造に、管領・細川勝元と山名宗全という二大守護がそれぞれ義視派・義尚派として加わることで、政治は一気に不穏なものへと傾いていきます。義視の還俗は、将軍家の後継問題という枠を超え、幕府の権力バランスを大きく揺るがす要因となったのです。本人が望まずとも、その存在はすでに「争いの核」となっていました。

義尚の誕生で始まる家督争い

日野富子の出産による情勢の変化

1465年、将軍足利義政と正室・日野富子との間に、待望の男児が誕生します。後の第9代将軍・足利義尚です。この誕生は、将軍家の継承問題に決定的な転機をもたらしました。義政の子が生まれたことで、それまで事実上の後継者とされていた義視の立場は一気に不安定となります。とりわけ、義尚の母・日野富子は息子を将軍に据える意志を強く抱いており、夫・義政の決断を待たずに周囲の勢力と連携を図るようになります。政治の中枢では、義尚派と義視派の間で緊張が高まり、幕府の内部は次第に亀裂を見せ始めます。義尚の誕生が、祝福とともに幕府に火種をもたらすという皮肉な現実が、ここから始まるのです。

義政の態度が生む将軍後継の混迷

義視にとって、決定的だったのは義政のあいまいな態度でした。義政は、義尚の誕生後も義視を正式に退けることなく、後継の指名を先送りする姿勢を続けます。この優柔不断な態度が、政局に混乱をもたらす最大の要因となりました。義政は義視に対し、依然として「弟としての信頼」を口にしながら、実際には義尚の擁立に向けた動きも容認していきます。その曖昧さが、義政の側近たちを分裂させ、幕府内における対立を深刻化させました。義視自身は将軍家の血を引く後継候補として、義務を果たすべく冷静な姿勢を見せていましたが、義政の態度によって立場を徐々に追い詰められていきます。この混沌が後の大乱の温床となっていきました。

伊勢貞親らによる政略と義視の孤立

義視の立場をさらに困難にしたのが、義政側近の伊勢貞親による動きでした。貞親は義尚の乳父としてその後見的立場を強めるとともに、義尚擁立を明確に支持。義政・日野富子との関係も深く、義視を排除することで幕府内の権力を義尚側に集めようと動きます。このような中、義視は政治的に孤立を深めていきます。勝元をはじめとする守護大名の一部は義視支持を続けていましたが、義政の信頼が薄れていく中で、義視は幕府内の実権から遠ざけられていきました。義政・富子夫妻の「実子」に対して、「弟」としての義視は不利な立場にあり、やがて命の危険すら感じるようになります。この圧力の中で、義視は重大な決断を迫られていくのです。

応仁の乱と足利義視の選択

細川勝元と挙兵し東軍の中枢を担う

1467年、応仁の乱が勃発しました。その引き金となったのは、将軍継嗣問題と有力守護大名たちの対立です。義視は、管領・細川勝元と連携し、東軍の名目上の総大将として擁立されました。勝元が義視を後継者として支えた背景には、義政に実子がいなかった時期に交わされた約束があります。義視は、自らの正統性を掲げて武力に訴えるという選択を余儀なくされました。将軍・義政は、表向きは中立を装ったものの、実際には東軍を官軍として扱っており、幕府の権威を義視側が握っているという形が作られていきました。義視は戦略の実務を担う立場にはなかったものの、東軍の精神的支柱として、その存在は政治的に大きな意味を持っていたのです。

義尚派との衝突と京都での戦局

戦いはやがて京都市街にまで拡大し、応仁の乱は単なる守護大名の争いを超えて市街戦へと転化していきます。特に上御霊神社の戦いや相国寺周辺での戦闘は激しさを極めました。義視は戦略を直接指揮する立場ではありませんでしたが、その存在は東軍の正当性を象徴するものであり、西軍との対立構造を明確にする役割を果たしました。一方で、義尚はまだ幼く、実際の指導は日野富子や山名宗全が担っていました。両陣営の争いは市民生活を直撃し、京都の街は焼け落ち、多くの民衆が飢餓や疫病に苦しむこととなります。義視の登場は、当初「幕府の安定」を期待されてのものだったはずですが、いつしか戦乱の中心に取り込まれ、苦渋の選択を迫られる立場へと追い込まれていきました。

勝元と対立し山名宗全の西軍へ移る

応仁の乱が長期化する中で、義視と細川勝元の関係に亀裂が生じ始めます。1468年、勝元が義政との和睦を模索し、義視に対して出家を勧めたことがその引き金となりました。義政の政治的立場を尊重するためとはいえ、これは義視にとって「政治からの退場」を意味するものであり、彼の正統性を否定する動きとも取れるものでした。孤立を深めた義視は、比叡山に身を寄せたのち、西軍へと身を転じます。山名宗全を中心とする西軍は、義視を「新将軍」として擁立し、独自に御内書や官位授与を行う「西幕府」体制を整えていきました。義視の転身は、単なる裏切りではなく、自らの立場と正当性を守るための計算された戦略的行動でした。敵との同盟すらも視野に入れながら、自身が「消される」ことを避け、将軍家の血筋を守るための選択だったのです。

流浪の果てに希望を見出す足利義視

都落ちし伊勢から美濃へと逃れる

西軍に加わった義視でしたが、戦況は次第に膠着し、京都での立場も不安定なものとなっていきます。山名宗全の死後、西軍内部の結束は揺らぎ、義視に与えられていた「新将軍」としての象徴的地位も次第に形骸化していきました。情勢の変化のなか、義視は身の安全を案じて都を離れ、伊勢へと逃れます。京都の権力闘争から遠ざかるこの決断は、彼にとって敗北の表れであると同時に、激動から距離を取って己の道を見直す機会でもありました。伊勢ではかつての名門・北畠家を頼り、のちに美濃へ移って土岐成頼の庇護を受けることになります。義視の姿は、かつての幕府中枢の将軍候補という面影から遠く離れ、諸国をさすらう一人の流人へと変貌していきます。

北畠教具・土岐成頼の庇護を受ける日々

伊勢では北畠教具、そして美濃では土岐成頼という地方の実力者たちが義視を庇護しました。これは、義視がかつての将軍家の血統者として、地方においても一定の政治的価値を持っていたことを示しています。北畠家は南朝以来の名門であり、義視に敬意をもって接し、身の安全と暮らしを保障しました。一方の土岐成頼も、室町幕府における美濃守護という立場から義視を支援することで、自らの立場を強化しようとしていたと見られます。義視はこの両家の好意により、長らく安定した隠棲生活を送ることになりますが、そこには政争から距離を置いたからこそ生まれる内省の日々もありました。義視はここで、自身の人生を振り返りつつ、新たな可能性に向き合っていくのです。

義材(のちの義稙)誕生と父としての決意

この隠棲の中で、義視にとって大きな転機となったのが、息子・義材(後の第10代将軍・義稙)の誕生でした。母は日野富子の妹・日野良子とされ、将軍家と日野家の血を引く義材は、義視にとって「過去と未来を繋ぐ存在」としての希望となっていきます。かつて自らが期待され、やがて追われた立場を、今度は息子が継ごうとしている。そのことに義視は強く心を動かされ、政治的野心というよりも、父としての覚悟を新たにします。自らは再び将軍を目指すことはなく、義材を支え、次の世代に道を譲るという選択が、彼の生き方を変えていきました。政争に翻弄され続けた義視にとって、義材の誕生は、ようやく手にした未来への接点であり、長い流浪の果てに見出した確かな希望だったのです。

再び京都へ戻り政治の表舞台に立つ

義政・日野富子と和解し帰京を果たす

長い流浪の末、義視は1480年代に入り、京都への帰還を果たします。この動きの背景には、将軍足利義政との和解がありました。かつて将軍継承をめぐって争い、義政の意志に反して西軍に加わった義視でしたが、年月を経て両者の関係は次第に緩和されていきます。日野富子との関係も、義材の母が彼女の妹であるという縁が、接点を作る一因となったと考えられます。義政・富子夫妻にとって、義材を将軍として押し上げることが最優先課題となる中で、その父である義視を迎え入れることは、幕府の正統性を支える政治的判断でもありました。こうして義視は、再び京都の地に立ち、過去とは異なるかたちで政治の渦中へと戻ってくるのです。

政界復帰と義材後見人としての政治参加

義視の帰京後、室町幕府の実権はすでに義政から義尚、そして義材へと移りつつありました。義視はかつて自らが目指した将軍職には手を伸ばさず、義材を補佐する後見人としての役割に徹します。この決断は、将軍家の名誉を守りながらも、表舞台で主導権を握ることを避けた義視の現実的な政治判断の表れでした。彼の政治活動は、過去のような表面的な権威を振りかざすのではなく、義材を支える実務的な立場から行われました。義視の存在は、義材の将軍就任に正統性を与えるとともに、幕府内の権力構造を安定させる一因ともなります。かつての若き日、理想と血統に押し出されて闘争に巻き込まれた義視は、このときようやく、穏やかで実りある政治的影響力を手にしたのでした。

再度の出家と静かな幕引き

晩年の義視は、再び仏門に戻ります。政務からは距離を置き、名を義尋と改め、静かに余生を過ごしました。再度の出家は、単なる隠退ではなく、激動の時代を生き抜いた者としての選択でもありました。彼はかつて、父義教の遺児として生まれ、還俗し、応仁の乱の中心に立ち、敗れ、そして父となり、再び政界へ戻るという稀有な生涯を送った人物です。再出家はその人生の終着点として、象徴的な重みを持ちました。将軍にはなれなかった義視ですが、その歩みはむしろ、血統と名誉に翻弄されながらも最終的に己の意志で生きる姿勢を示したものとして、多くの示唆を残しています。義視は、自らの人生を歴史に委ねるかたちで、1491年、静かに世を去りました。

足利義視の死とその後の評価

波乱の人生を閉じた1491年の最期

足利義視は、1491年(延徳3年)1月7日、数奇な生涯に幕を下ろしました。父・義教の遺児として生まれ、天台宗の門跡から還俗、将軍後継として一時は政権中枢に迫りながらも、応仁の乱という歴史的大乱に翻弄された義視。晩年には再び仏門に入り、通玄寺で「道存」と号して静かに過ごしました。「義尋」の名も引き続き用いられたことから、彼の内面には一貫した精神性が貫かれていたとも考えられます。その最期は、権力闘争から距離を取り、人生を静かに見つめ直した者の姿として、象徴的な意味を持ちました。義視の死は、応仁の乱後の復興と再編を模索する室町幕府にとって、一つの時代が終わったことを示す節目でもあったのです。

将軍になれなかった男の重み

義視は、将軍職に就く機会を得ながらも、ついにその座に上がることはありませんでした。これは単なる失脚ではなく、彼自身の立場と時代背景が交錯した結果でした。将軍家の血を引きながらも、彼が最終的に選んだのは息子・義材を支える「大御所」としての道でした。義視は「准三宮」として尊称され、実質的には後見人として幕政に深く関わり、幕府の秩序維持に寄与しました。将軍職にこだわらず、自らの経験を後進に委ねる姿勢は、激動の時代における一種の柔軟性と現実主義の象徴といえます。政治的敗者として語られることの多い義視ですが、その存在はむしろ、「継承」と「支援」の役割を果たした幕府の安定装置であり、その重みは単なる地位に還元できるものではありません。

義材(義稙)の将軍就任とその後の変容

義視の息子・足利義材(のちの義稙)は、1490年、義政の死去に伴い第10代将軍に就任します。この就任は、義視の長年にわたる後見と支援があって初めて実現したもので、幕府における血統の正統性を再確認させる出来事でもありました。しかし、義視が翌1491年に亡くなると、義材の政権は急速に不安定化します。義視という後ろ盾を失ったことで、義材は幕府内での影響力を保ちきれず、1493年には明応の政変によって将軍職を追われることになります。この一連の流れは、義視の存在がいかに室町幕府のバランスに貢献していたかを物語っています。彼の死は、単なる個人の終焉ではなく、幕府という体制にとっても重要な支柱を失う出来事だったのです。

歴史に描かれた足利義視

大河ドラマ『花の乱』での描写(演:佐野史郎)

1994年放送のNHK大河ドラマ『花の乱』では、足利義視は佐野史郎の手によって演じられました。この作品では、応仁の乱前夜からの将軍家継承争いが主要なテーマとして展開され、義視は弟でありながら兄・義政と複雑な政治的対立を繰り広げる存在として登場します。僧侶から還俗し、政争の渦中に引き戻されていく義視の姿は、冷静な知性と情熱の両面を持つ人物として描かれており、出家者としての品格と政治家としての覚悟を併せ持つ表現が印象的です。義尚の誕生による立場の動揺、細川勝元・山名宗全との関係に揺れる義視の心理は、史実に基づいた演出として深みを与え、時代に翻弄される者の葛藤を鮮やかに表現しています。

映画『室町無頼』に見る応仁の乱と義視像

映画『室町無頼』では、応仁の乱を背景とする荒廃した京都と乱世の空気が生々しく描かれます。この作品において足利義視は、将軍家の血を引く存在として登場しますが、中心人物というよりも、時代の矛盾を体現する象徴的なキャラクターとして描かれています。彼の「還俗」「挙兵」「敗走」といった史実に沿った経歴をなぞりながらも、物語の中では「ならなかった将軍」としての孤独と葛藤が特に強調されています。映画的表現を通じて、理想と現実の狭間で揺れる人間的な内面が浮かび上がり、教科書的な歴史像では捉えきれない、義視の複雑な人物像が丁寧に造形されているのです。

歴史学と小説で浮かび上がる人物像(桜井英治、石田晴男ほか)

学術的観点からの義視像もまた、近年再評価の機運にあります。桜井英治は『日本の歴史12 室町人の精神』の中で、義視を「宗教的価値観と政治的実利の間で揺れ動いた人物」と位置づけ、室町期の精神構造を映す鏡のような存在として論じています。また石田晴男は『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』で、義視の行動を応仁の乱の一因としつつ、彼自身が意図せず導火線となったことに注目し、彼の責任と無垢の両面を指摘しています。こうした歴史学的分析により、義視は単なる敗者ではなく、「苦悩と再生を繰り返す人物」として再評価されつつあります。政治的動因と内面の葛藤が交差する義視の姿は、時代を象徴する存在として、今も多くの読者・研究者に問いかけを残しているのです。

足利義視という存在が残した問い

足利義視は、将軍家の血筋に生まれながらも、その座を得ることなく、歴史の大乱を生き抜いた人物でした。僧としての静寂と、還俗後の政争の激流、その両極を往来しながら、義視は時に旗印となり、時に追われる身として彷徨いました。しかし、その歩みは単なる敗者の軌跡ではありません。父となり、子を後継に据え、自らは後見に徹するという選択の中に、義視独自の政治観と倫理が息づいています。歴史の中で「ならなかった将軍」として語られる義視の姿は、実は「ならなかったことで語られるべき」人物でもあるのです。彼が時代に残した問いは、権力を持たぬ者の品格、そして選択の重さとは何かという普遍的なテーマへとつながっていきます。

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