MENU

志賀重昂の生涯:思想家・旅行家・地理学者としての足跡

こんにちは!今回は、明治・大正期の日本で地理学と思想の両輪を回し続けた異色の知識人、志賀重昂(しがしげたか)についてです。

風景を「見る」ものから「考える」ものへと昇華させた名著『日本風景論』の著者として、そして日本の国粋保存主義を唱えた言論人として、志賀は時代に深く刻まれる足跡を残しました。

風景、思想、政治、そして冒険の旅まで——多才すぎる彼の生涯をひも解いていきましょう。

目次

日本風景美を語った男・志賀重昂、その原点は三河岡崎にあり

三河国岡崎康生町に生まれて

志賀重昂は1863年11月15日(文久3年)、三河国岡崎康生町、現在の愛知県岡崎市で生まれました。彼の家は岡崎藩に仕える武士の家柄で、父・志賀重職は藩士であるとともに、藩校で儒学を教える学者でもありました。儒学を重んじる家庭に育った志賀は、幼い頃から漢籍に囲まれた環境で育ち、自然と書物に親しむようになりました。家の書庫には中国古典や歴史書が多く揃えられ、それが彼の知的好奇心を刺激し、後の思想形成や文筆活動に大きな影響を与えることになります。岡崎はまた、徳川家康の生誕地として知られる歴史ある城下町で、町中には伝統文化と美しい自然が共存していました。そうした風土に育まれた少年は、やがて風景をただ眺めるだけではなく、「語る」人へと成長していくのです。志賀がのちに『日本風景論』を著し、日本の自然美と精神文化の関係を論じた背景には、この岡崎での原風景の記憶が確かに息づいていました。

学問に親しみ、風土に学んだ少年時代

志賀重昂の少年期は、儒学者の家庭にふさわしく、学問と道徳の教養に満ちたものでした。幼少期から漢籍に親しみ、儒教の教えを通じて、道徳的規律と自然への敬意を学んでいきました。書物を読むだけでなく、岡崎の風景にも強い関心を持っていた志賀は、山や川、農村の暮らしに目を向け、地理や自然現象に対する理解を深めていきます。こうした日々の観察と読書を通じて、志賀は「日本人とはどういう存在か」「日本の自然と文化にはどのような意味があるのか」といった問いを早くから抱くようになったと考えられます。明治維新という社会の大変革期に育った彼にとって、学問は単なる知識の獲得ではなく、激動する時代を理解し、乗り越えるための手段でした。地理という学問を通じて風景に宿る文化や精神性を見出そうとする彼の姿勢は、この少年期にすでに芽生えていたのです。後に志賀が、風土と文化のつながりを重視した地理学を展開していく原点が、まさにこの時代にあったと言えるでしょう。

維新動乱の時代が刻んだ記憶

志賀重昂が生まれた1863年は、幕末の動乱が激しさを増していた時期でした。岡崎藩は徳川家に連なる譜代藩であり、尊王攘夷や開国をめぐる争いの余波が藩内にも及んでいました。幼い志賀は、町や家庭の空気を通じて、時代の揺らぎを肌で感じ取っていたと考えられます。父・志賀重職は幕末に脱藩し、幕臣の榎本武揚のもとに身を投じるという行動をとっており、新時代への適応と信念を模索する人物でした。この父の姿は、少年志賀にとって大きな影響を与えたことでしょう。1871年の廃藩置県によって藩士の身分が消滅し、旧武士階級は新たな社会に生き方を見出さねばならなくなります。そうした時代の混乱と再構築の中で育った志賀は、伝統とは何か、近代化において何を守るべきかという問題意識を自然と抱くようになります。この精神的経験が、後の政教社設立や国粋保存主義の思想へとつながっていくのです。志賀にとって維新動乱は単なる歴史ではなく、自らの思想の源流として常に心の中にあり続けた記憶でした。

「Boys, be ambitious!」の地で育んだ志賀重昂の思想と友情

札幌農学校で出会った知と信仰

1877年、志賀重昂は14歳で上京し、学問を積んだのち、1879年に北海道の札幌農学校に入学しました。札幌農学校は、北海道開拓の中核機関として設立され、アメリカ人宣教師ウィリアム・S・クラークが初代教頭を務めたことで知られています。彼の残した「Boys, be ambitious!(少年よ、大志を抱け)」という言葉は、当時の若者たちの心を強く揺さぶりました。志賀もその精神に深く共鳴したひとりでした。農学校では、近代的な農学・自然科学を学びながら、同時にキリスト教的道徳や自由思想にも触れることになります。この環境の中で、信仰と知識、個人の倫理と社会の在り方について真剣に考えるようになったのです。ここで培った「自然を通じて真理を探究する」という視点は、後年の地理学的なアプローチや、日本の自然美を論じる際の理論的な背景となっていきました。札幌農学校での学びは、単なる学問の習得にとどまらず、彼の思想の骨格を形作る大きな転機だったのです。

志を共にした同窓生たち――宮部金吾と新渡戸稲造

志賀重昂が札幌農学校で学んだ第4期には、後に植物学者として名を馳せる宮部金吾が同級生として在籍していました。宮部は北海道の植物相に深い関心を持ち、後に北海道帝国大学で教鞭をとるなど、日本植物学の草創期を支えた研究者です。志賀とはともに自然への探究心を持ち、地形や植生を観察しながら語り合ったことが記録として残されています。地理と植物という分野の違いはあっても、自然を科学的かつ文化的に捉えようとする姿勢には共通点があり、両者は札幌農学校の学風の中で互いに刺激を受け合ったと言えるでしょう。

また、志賀の少し後輩にあたる新渡戸稲造も、札幌農学校出身の傑出した人物として特筆されます。新渡戸は後に国際連盟の事務次長となり、教育者・国際人として世界的に活躍しましたが、その思想の原点には札幌農学校で培った道徳観と国際理解への志向がありました。志賀と新渡戸が在学中に深く交流していた記録は多くは残されていませんが、両者が自然科学と倫理観、そして「国家とは何か」という共通の問いに立ち向かった点は重なります。札幌農学校という知の共同体は、志賀重昂にとって単なる学び舎ではなく、同時代を生きる同志との出会いの場でもあったのです。彼が後に思想家として歩む際、ここで得た人間関係と学問的刺激は大きな支えとなっていました。

思想家・文筆家としての原点

札幌農学校を卒業した後、志賀重昂は東京で新聞記者や翻訳者としての職に就きつつ、徐々に文筆活動を本格化させていきます。1880年代には、自然科学に基づいた観察力と、札幌で培った倫理観・思想を融合させた文章を多数発表するようになります。彼の筆は、単なる報告や評論にとどまらず、「自然と国家」「風景と国民性」など、独自の視点を持って世の中の本質に迫ろうとするものでした。この時期、同じく札幌農学校出身で志賀と親交のあった人物たち――杉浦重剛、井上円了、内村鑑三らも、それぞれの分野で発言力を持ち始めており、志賀は彼らの思想的な刺激を受けながら、自らの立ち位置を模索していきます。また、彼が明治日本における自然観や国民意識のあり方に対し、批評的な視線を持ち始めたのもこの時期でした。文筆家としての活動の中で「思想を広めることの力と責任」を実感するようになった志賀は、やがて国民の意識に訴えることを主眼とする言論活動へと進んでいきます。札幌での学びと友情が、彼にとって思想家としての原点を築いたことは間違いありません。

志賀重昂、冒険の旅へ――南洋探訪が開いた地理学者のまなざし

海軍練習艦「筑波」に乗り込んだ志賀の南洋航路

1886年(明治19年)、志賀重昂は海軍練習艦「筑波」に便乗する形で、約10か月にわたる南洋巡航の旅へと出発しました。この航海は、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、フィジー、サモア、ハワイ、カロリン諸島(現在のミクロネシア連邦の一部)などを巡る壮大なルートで、当時としては極めて貴重な海外経験となりました。この旅の背景には、欧米列強が太平洋に勢力を拡大する中で、日本が海外の実情を把握し、国際的な視野を持つ必要性が高まっていたことがあります。志賀は札幌農学校で自然科学的観察法を学び、自然や社会を「現場で見ること」の重要性を体得しており、まさにその姿勢を実践に移すかたちでの南洋探訪でした。同時に、帰国後に志賀が唱えることになる国粋保存主義の思想――すなわち、欧化一辺倒の近代化に警鐘を鳴らし、日本の伝統と独自性を重視する思想――の萌芽も、この航海中に形を取り始めていたと見られています。

異文化を見つめた知的なまなざし

志賀重昂はこの航海を通じて、各地の自然環境、先住民の生活、欧米列強による植民地支配の実態を多角的に観察しました。彼が訪れた地域では、それぞれに異なる風土と社会構造がありましたが、志賀はそれを単なる異国趣味や表層的な文明批評ではなく、地理学者としての視点で捉えています。例えば、フィジーやサモアでの先住民社会では、自然環境との共存関係に深い関心を寄せ、そこに風土に根ざした文化のあり方を見出しました。また、オーストラリアやハワイでは、英国やアメリカによる植民地統治の手法と、その影響を受ける現地社会の変容にも注目しています。志賀は旅を通して、「文明の優劣」を競うような価値観ではなく、「風土に適応した文化の尊重」という視点を獲得していきました。この観察眼こそが、のちの『日本風景論』において、日本の自然と文化の固有性を論じる基盤となっていったのです。

『南洋時事』が記録した世界の実相

1887年(明治20年)、志賀重昂はこの南洋探訪の成果をまとめた『南洋時事』を刊行します。この書物は単なる旅行記の体裁を超え、地理、気候、動植物、現地の社会構造、宗教、言語、植民地行政まで幅広く記述した、当時の日本では画期的な地理的・文明的報告書でした。志賀は、科学的な観察に裏打ちされた筆致で現地の様子を詳細に記録しながら、一方で「日本人としてこの世界をどう理解すべきか」「西洋列強の支配にどう向き合うべきか」といった思想的問いも盛り込んでいます。この著作は、日本人の国際理解を深める先駆けとして高く評価され、地理学者としての志賀の名を確立するきっかけとなりました。また、この経験と著作は、のちに刊行される『世界山水図説』や『日本風景論』の基礎ともなり、「世界を旅し、風景を記述する」という彼の思想的実践の出発点として、重要な意味を持っています。『南洋時事』は、地理という学問を通じて世界と日本をつなごうとした、志賀重昂の「知の冒険」の記録なのです。

ご確認のうえ、ご希望があればさらなる修正も承ります。問題がなければ、次章「『日本とは何か』を問うた志賀重昂、政教社と国粋保存主義の旗手へ」へ進みます。

「日本とは何か」を問うた志賀重昂、政教社と国粋保存主義の旗手へ

三宅雪嶺との出会いがすべてを変えた

南洋からの帰国後、志賀重昂の運命を大きく変えたのが、思想家・評論家である三宅雪嶺との出会いでした。1888年、東京に戻っていた志賀は、同じく文明批評に関心を持っていた雪嶺と知り合います。雪嶺は当時、『日本人』という雑誌を創刊しようとしており、近代日本における精神的支柱を求めて活動していました。志賀はその思想に強く共鳴し、同年、三宅雪嶺、杉浦重剛、井上円了らとともに「政教社」を設立します。

政教社は、宗教・倫理・教育・政治の調和を目指し、日本人がいかにして自国の精神と伝統を保ちつつ近代化すべきかを問いかける思想集団でした。西洋の思想や制度を無批判に受け入れる風潮に異を唱え、日本の風土と歴史に根ざした文明観を提示しようという志が共有されていたのです。志賀はここで、地理学的観察や南洋での体験、さらには『南洋時事』で培った国際的視野を踏まえ、自らの文化観・風景観を思想として展開する場を得ます。三宅雪嶺との出会いは、単なる共鳴にとどまらず、志賀にとって自身の知見と理念を社会に届ける「舞台装置」となり、以後の言論活動の土台を築く決定的な契機となったのでした。

『日本人』創刊と世論への挑戦

政教社は設立と同年の1888年4月に機関誌『日本人』を創刊しました。これは、当時の急激な欧化主義に対抗し、日本固有の文化と精神性を世に問う思想的メディアであり、志賀重昂もその編集や執筆に積極的に関与しました。誌面では「日本的精神の尊重」「西洋思想の批判的受容」「国民道徳の再構築」などが主要なテーマとして取り上げられ、当時の知識層や青年層の間で大きな注目を集めました。志賀はその中で、「欧米一辺倒ではなく、日本には独自の文明がある」と繰り返し主張し、これが共感とともに批判も呼びました。とりわけ、当時流行していた社会進化論的な近代観とは一線を画す彼の立場は、論争の的ともなりました。とはいえ、志賀は自然や風土、風景の中に文化と精神を見出す独自の視点を持ち込み、従来の文明論とは異なる次元で「日本とは何か」という問いを社会に投げかけ続けたのです。

論争の中心に立った国粋思想

政教社の中心的な思想となった「国粋保存主義」は、志賀重昂の名とともに記憶される理念です。この思想は、西洋文明を否定するのではなく、その受容にあたって日本固有の文化・風土・精神を踏まえた主体的な近代化を目指すものでした。志賀はこの立場から、「国を愛するとは、その自然や風俗、言葉や精神を深く知り、それを未来に受け継ぐ努力をすることである」と主張しています。これは彼が地理学的探究や風景論で展開してきた思想とも深く結びついており、文化とは風土に根ざすべきだという理念に支えられていました。政教社内では思想の多様性も見られ、内村鑑三とは宗教観と国家観をめぐって、井上円了とは哲学的アプローチの違いをめぐって、それぞれ激しい思想的応酬が行われました。こうした論争の中で、志賀は常に「日本のかたち」を問い続け、単なる懐古的保守ではない、「思考する保守」の立場を貫いたといえるでしょう。

志賀重昂の代表作『日本風景論』が導いた風景観の革命

執筆の動機と作品構造の妙

1894年、志賀重昂はその代表作となる『日本風景論』を刊行しました。この著作が生まれた背景には、急速な近代化と西洋化が進む日本社会において、「日本の自然や風景が持つ本来の価値を見失いつつあるのではないか」という危機感がありました。西洋の都市景観が美の基準となりつつある中で、志賀は、日本の山や川、里山の景色こそが、気候や文化、精神性と密接に結びついた「国民の風景」だと主張しました。作品の構成は地理学的記述を基盤にしつつ、随所に文学的描写が挿入される独特なスタイルをとっています。たとえば、ある地方の風土を紹介する際には、その地に伝わる伝承や詩歌を引用し、単なる科学的説明ではなく、「感じる風景」として読者に届けました。こうした構成によって、『日本風景論』は学問書でありながら文学作品としての魅力も併せ持ち、広く読者を獲得することに成功したのです。

自然を科学と文学で語るという革新

『日本風景論』の革新性は、風景を科学と文学の両面から捉えようとした点にあります。志賀は札幌農学校で培った地理学的知見をもとに、地形、気候、植生といった自然の要素を正確に分析しました。一方で、その自然の中に人間の生活や文化がどのように根づき、共に呼吸してきたのかを描き出すため、文筆家としての感性も最大限に活かしました。たとえば、富士山を語る章では、火山としての構造や成層の成り立ちに加え、古来より和歌や浮世絵に詠まれた象徴性、信仰の対象としての姿を丁寧に描写しています。このアプローチによって、読者は自然を「見る」だけでなく、「感じ、考える」対象として再認識させられるのです。当時の学術界では、自然科学と人文学の間に明確な線引きがありましたが、志賀はそれを越え、風景というテーマを通して分野横断的な記述を実現しました。この点が、彼を単なる地理学者ではなく、思想家としても評価する大きな理由となっています。

日本人の風景観を変えた力

『日本風景論』は発表されるや否や、知識層を中心に大きな反響を呼び、当時の風景観や自然観に一石を投じました。それまで多くの人々にとって、風景とは詩歌や絵画に描かれる理想的な自然に過ぎず、身近な山や川が美として捉えられることは少なかったのです。しかし志賀は、各地の風景に宿る歴史や暮らしの記憶に目を向け、「風景とは文化の結晶である」と語りました。彼の筆にかかれば、名もなき村の棚田でさえ、美的かつ思想的価値を帯びる存在となりました。読者たちは、日本列島の風土がいかに多様であり、かつそれが日本人の精神性にどう影響を与えてきたかを新たな視点で認識するようになります。またこの著作は、のちの観光思想や地域文化論にも大きな影響を与え、日本山岳会や地理教育の場でも教科書的に扱われるようになりました。『日本風景論』は単なる名著ではなく、日本人の「自然を見る目」そのものを変える転機となったのです。

政界・官界でも存在感!志賀重昂が果たした実務家としての顔

農商務省・外務省での実務に挑んだ地理学者

志賀重昂は、思想家・文筆家としての活動にとどまらず、国家の実務においても一時的にではありますが重要な役割を果たしました。1897年(明治30年)、第2次松方内閣のもとで農商務省山林局長に任命され、同省において産業振興や山林行政に携わることになります。志賀は各地を巡り、地形や森林資源の現状を実地に観察し、それらをふまえた山林保護政策の必要性を訴えました。この姿勢は、札幌農学校で培った自然観察力と地理学的知見を行政の現場に応用しようとする、まさに「学問と実務の融合」の試みでした。

翌1898年(明治31年)には、第1次大隈内閣の下で外務省の勅任参事官(参与官)に就任します。この役職では、外交文書の作成や、南鳥島の日本領確認に関する東京府帰属の公示など、国家主権に関わる領土問題にも関与しました。海外経験を通じて培った国際的視点を外交実務に活かす機会でもありましたが、いずれの官職も在任は4か月前後と短期に終わっています。それでも、彼が国家の仕組みに対して外から批評するだけでなく、内側からも改革に取り組もうとした姿勢は注目に値します。

衆議院議員としての言論活動と政策提言

志賀重昂は、1902年(明治35年)と1903年(明治36年)の2度にわたり、衆議院議員に当選しています。議員時代の志賀は、教育政策や文化行政に深い関心を寄せ、特に地理教育の重要性を繰り返し訴えました。彼は、日本の風土を理解し、国土に対する誇りを育む教育が国家の礎であると考えており、その信念は議会演説や政策提言にも反映されています。

また、彼は日露戦争後の外交方針にも意見を述べ、戦勝による国威高揚だけでなく、慎重な国際関係の構築を主張しました。急速に進む工業化や西洋化の中で、日本的精神や文化の価値を再評価しようとする彼の立場は、時に「時代遅れ」と見なされることもありましたが、それでも志賀は一貫して「精神と風土に根ざした国家像」の構築を訴え続けました。議会における彼の発言は、思想家としての知見を反映したものであり、政治家としても独自の存在感を放っていたのです。

理想と現実の間で揺れた知識人の選択

とはいえ、志賀重昂の官界・政界におけるキャリアは、決して長期にわたるものではありませんでした。農商務省・外務省での在任はいずれもわずか4か月前後、衆議院議員としても短期間で議席を離れています。その背景には、理想と現実のギャップへの苦悩や、官僚機構との摩擦があったと考えられます。官僚制度の論理と、志賀が掲げる文化的・精神的理念の折り合いは難しく、彼自身もまた「理念は理解されにくい」と感じることが多かったようです。

それでも彼は、行政や政治の場で学んだ経験を、後の著作や教育活動に活かしました。地理教育の整備や自然観の再評価といった提言は、後年の日本思想界において「実務と理念の両立」を考える際の先駆的事例として再評価されています。時代に迎合せず、知識人としての使命を貫いた志賀重昂の姿勢は、たとえ表舞台から早く退いたとしても、その思想的影響を長く残すこととなったのです。

世界を歩き、書き、伝えた志賀重昂――地理啓蒙の先駆者

地球を巡った壮大な旅の記録

志賀重昂の地理学者としての本領が最も発揮されたのが、1890年代から1900年代初頭にかけて行われた世界各地への長期旅行です。彼はアジアだけでなく、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸にも足を延ばし、総じて地球一周に及ぶような壮大な旅を経験しました。この旅の目的は単なる観光や探検ではなく、「自らの眼で世界の風土と文化を観察し、それを日本人に伝えること」にありました。たとえば、アフリカ北部ではイスラム文化圏の都市生活と農耕の融合に関心を持ち、またアメリカ合衆国では都市の発展と自然保護のあり方を比較対象として記録しています。こうした旅の記録は、志賀が持つ「風景と人間の相互関係」に対する深い関心の表れでした。彼にとって地理とは単なる地図や統計ではなく、人々の暮らしが息づく「生きた空間」であり、それを理解するには実際に足を運び、現地の空気を吸い、会話を交わすことが不可欠だと考えていたのです。

『世界山水図説』に込めた地理教育の夢

志賀重昂の世界旅行の成果は、1911年に刊行された『世界山水図説』という大作に結実しました。この作品は、地球上の主だった地形、気候、風景、文化を豊富な挿絵とともに紹介するもので、学術的価値と教育的意義を兼ね備えた、当時としては画期的な地理書でした。志賀はこの著作で、欧米の地理学に依存するのではなく、日本人の感性に合った方法で世界を理解しようと試みました。図説には、単に地名や位置を記すだけでなく、その土地の風習や人々の表情、自然の佇まいなど、風景が持つ「意味」に重点が置かれています。また、文章も硬直した説明ではなく、旅の体験を踏まえた柔らかくも情熱的な筆致で書かれており、読者に「世界を知ることの面白さ」を伝えています。『世界山水図説』は地理教育の教材としても重宝され、学校教育の場に地理への関心を広める大きな役割を果たしました。志賀はこの書を通じて、日本人が世界に目を向ける第一歩となる「教養としての地理」を啓蒙しようとしたのです。

風景と知をつなぐ活動の広がり

『日本風景論』と『世界山水図説』という二つの著作に代表されるように、志賀重昂の地理活動は、風景を「知」と「文化」の両面から理解することを目指したものでした。彼の活動は書物の中だけにとどまらず、講演や教育活動としても広がっていきます。各地の学校や知識人サークルで行った講演では、旅の体験談に加え、風景を通じて国民精神を育む重要性を繰り返し説いています。また、明治後期には日本山岳会をはじめとする登山や自然観察の団体とも連携し、実際に人々が自然に触れながら学ぶ地理啓蒙の実践を支援しました。彼と親交のあった登山家・小島烏水や木暮理太郎、高頭式、さらにはイギリス人宣教師W.ウェストンらとの交流も、地理学と山岳文化を結びつける土壌を作る助けとなりました。志賀にとって、風景は単なる視覚的対象ではなく、そこに思想を映し出し、文化を伝える「鏡」でした。彼の地理学は、その鏡の中に日本人の自画像を描き出そうとする営みでもあったのです。

登山文化の礎を築いた志賀重昂、日本山岳会と最後の思想

日本山岳会の創設と理念

1905年(明治38年)10月14日、日本における本格的な登山団体として「山岳会(のちの日本山岳会)」が設立されました。この創設には、登山家・文筆家である小島烏水をはじめ、高頭仁兵衛(式)、武田久吉、河田黙、梅澤親光、高野鷹蔵、城数馬といった7名が発起人として名を連ねています。志賀重昂はこの時、発起人としては名を連ねていませんが、日本山岳会の理念においては深い思想的影響を与えた人物として知られ、設立当初から名誉会員として迎えられています。

志賀は1894年に刊行した『日本風景論』の中で、「登山の気風を作興すべし」と述べ、登山を単なる余暇や鍛錬として捉えるのではなく、自然と人間、風土と精神をつなぐ文化的実践と位置づけていました。この思想は日本山岳会の根幹に取り入れられ、「山に登ることを通して、日本の自然を深く理解し、国土への愛着を育む」という理念として結実していきます。また、英国人宣教師で登山家でもあったウォルター・ウェストンの活動も、会の設立に向けた大きな刺激となっており、国際的な視点の導入にもつながりました。志賀の思想は、創設メンバーたちの思想的土台として、今なお日本の登山文化に深く息づいています。

晩年の研究に宿った思想の深化

晩年の志賀重昂は、政界や官界からは距離を置きつつも、学問と啓発活動に精力的に取り組みました。とりわけ地理学、風土論、民族学といった分野において、全国各地を訪ね歩きながら、日本の自然や風景、地域文化の在り方を観察・記録しています。山村の暮らしや沿岸の民俗、季節の移ろいに見られる精神文化など、「土地に根ざした日本人の生き方」に焦点を当てた随筆や講演も数多く行われました。

また、若い世代への啓発にも熱心で、自然観察会への参加や学校での講演、講師派遣などを通じて、自然を通して人間の在り方を考える教育の必要性を訴え続けました。彼の発言には一貫して、「自然とは人間にとって教えであり、自己を見つめ直す鏡である」という思想が込められており、それは札幌農学校以来の精神と実地観察の融合を晩年まで貫いたものでもありました。日本山岳会の理念にも通じるその思想は、「登山=文化」の視点を社会に浸透させていく礎となりました。

静かな別れと、残されたもの

志賀重昂は1927年(昭和2年)、64歳でこの世を去りました。晩年まで執筆や講演活動を続けていた彼の最期は、静かであった一方、多くの知識人や地理教育関係者、自然愛好家たちに惜しまれました。彼の死後、親族であり編纂者でもあった志賀富士男によって、多くの遺稿や未発表原稿が整理され、出版・保存が進められます。これにより、志賀の思想は文字として長く伝えられ、後世に影響を与える基盤となりました。

日本山岳会では、名誉会員としての志賀の功績を顕彰する動きが続き、登山と風景文化における「思想的創始者」としての立場が今なお語り継がれています。自然と人間のつながりを真摯に見つめ続けた彼のまなざしは、登山という実践を通じて社会に文化的問いを投げかけるものでもありました。志賀重昂が生涯をかけて探求した「風土と精神の関係」は、今も多くの山岳愛好家や自然研究者にとって、大きな思想的支柱であり続けています。

書物で読み解く志賀重昂――思想・風景・旅を貫いた筆の軌跡

『日本風景論』とその後の影響力

志賀重昂の代表作『日本風景論』は、1894年の刊行以降、単なる地理書や紀行文の枠を超えて、日本近代思想史における重要な一冊として評価されてきました。明治維新後、西洋的な美意識や都市景観が賞賛される風潮の中で、志賀はあえて日本の在来風景――山河、田園、季節の移ろいに宿る文化的・精神的価値――を見直そうと試みました。その観点は当時として極めて先進的であり、後の日本の自然保護思想や風景論にも大きな影響を与えました。たとえば、昭和期の国立公園政策において、志賀の論が理念的な指針となったことは、研究者の間でも広く認められています。また、彼の風景観は、井上円了や内村鑑三といった同時代の思想家たちの自然認識とも共鳴し、知識層における風景論争の火付け役ともなりました。現在においても『日本風景論』は、風土と文化の関係を考える上での古典として、しばしば再読される存在です。

『南洋時事』『世界山水図説』の知的探検

志賀重昂の著作の中で、『日本風景論』と並び重要視されているのが、『南洋時事』と『世界山水図説』です。『南洋時事』は、彼が1886年から87年にかけて南洋諸島を訪れた際の体験をまとめたもので、地理的な報告にとどまらず、現地の生活、宗教、政治制度まで幅広く記録しています。この書は、南洋という地域が持つ独自の文化的多様性を、日本人の視点から捉え直す意図が込められており、単なる旅行記ではなく、国際理解の先駆的作品として位置づけられています。一方、『世界山水図説』は1911年に刊行された図説形式の地理啓蒙書で、志賀が世界各地を旅して得た知見を、読者に伝えることを目的としています。この書では、美しい挿絵とともに地理的事実が紹介され、風景と生活、文化を一体のものとして理解させる構成が高く評価されました。いずれの著作も、志賀の観察力、叙述力、そして思想家としての視点が結実した「旅する知」の体現といえるでしょう。

旅行記でも思想書でもある著作群

志賀重昂の著作群は、旅行記、地理学、思想書といったジャンルの境界を軽やかに横断しています。彼の記述には、常に現地を実際に訪れ、肌で感じたリアリティがありながら、単なる感想記では終わりません。そこには「風景を通じて社会を語る」という明確な思想的視点が貫かれています。たとえば、『南洋時事』では、南洋の自然や風俗を紹介するだけでなく、日本人がそれらをどう受け止め、どのように文化的交流を進めるべきかといった提言が随所に見られます。また『世界山水図説』では、子どもたちに地理を楽しく学ばせるための工夫が凝らされており、教育者としての顔ものぞかせています。志賀の筆は、自然の美しさを描写することに留まらず、その背後にある社会的背景や文化的意味を読者に問いかけるものです。こうした姿勢は、同時代の内村鑑三の道徳的言説、井上円了の哲学的論述、三宅雪嶺の文明批評とも通じるものであり、彼が明治思想の一角をなす存在であることを示しています。志賀の著作は、読む者に世界の広さと、日本の深さを同時に気づかせる、まさに思想と旅を繋ぐ書物群なのです。

志賀重昂という思想家の軌跡から見えるもの

志賀重昂は、明治という激動の時代にあって、常に「日本とは何か」「風景とは何を語るのか」を問い続けた希有な知識人でした。岡崎の武士の家に生まれ、札幌農学校で学問と信仰の洗礼を受け、南洋や世界各地を巡りながら見聞を深め、政界・官界でも実務に関与した彼の生涯は、多面的でありながら一貫した信念に貫かれています。『日本風景論』をはじめとする著作群は、単なる地理書や旅行記ではなく、風景に宿る精神性を描き出した思想の結晶でした。日本山岳会の設立や地理教育への尽力により、彼のまなざしは今も生き続けています。志賀重昂の人生は、旅と学び、言葉と思想を武器に「日本人の在り方」を探求した、深い知的探求の旅だったのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次