MENU

佐々木八郎の生涯:講義と研究で『平家物語』に命を吹き込んだ国文学者

こんにちは!今回は、日本中世文学の名作『平家物語』に生涯をかけ、その語りの魅力と文学的深層を徹底的に掘り下げた国文学者、佐々木八郎(ささきはちろう)についてです。

テキストの諸本比較、語り物としての研究、さらには自らの声で「語り」を実演するなど、まさに“歩く『平家物語』”とも言える存在だった佐々木。早稲田大学の教授として多くの後進を育て、学問と教育の両面で大きな影響を与えました。

この記事では、彼の研究の核心から学界でのリーダーシップ、そして後世に残した遺産まで、その知られざる生涯をたっぷりとご紹介します!

目次

佐々木八郎の原風景──新潟の自然と学びの芽生え

雪国・新潟で育まれた自然への眼差し

佐々木八郎は1898年(明治31年)9月10日、新潟県の中越地方に生まれました。日本海側特有の厳しい冬に覆われるこの土地では、一年の半分が雪とともにあります。少年時代の佐々木は、そうした自然環境の中で、静かな観察力と豊かな感受性を育てていきました。雪が降り積もる屋外での遊びは限られ、室内で過ごす時間が長くなる冬季には、家族の語りや祖父母の昔話に耳を傾ける時間が日常となりました。こうした語りを通して彼は、物語というものが「ただ読むもの」ではなく「誰かが語り、誰かが聴く」営みであることを、体感的に学んでいきました。また、春の雪解けとともに訪れる草花や農作業の風景も、彼にとっては季節のリズムを肌で感じる貴重な学びの機会でした。農村の暮らしのなかで、人々の言葉や自然の変化に寄り添いながら育ったこの経験が、後に彼が中世文学、特に語り物としての『平家物語』に惹かれていく土台となったのです。

読書と出会った初等教育の時間

佐々木八郎が本格的に読書の楽しさを知ったのは、地元の尋常小学校に通っていた明治末から大正初期にかけての時期でした。新潟の豪雪地帯では冬に屋外活動が制限され、必然的に屋内で過ごす時間が多くなります。その中で、学校に置かれた図書や、教師の私蔵する書物に触れることが、佐々木にとってかけがえのない楽しみとなりました。当時の教科書には、古典の抜粋や物語、近代の文人による平易な文章などが含まれており、それらを繰り返し音読し、記憶することで、彼の言葉に対する興味と感受性はさらに高まっていきました。特に印象深かったのは、戦記物語や偉人伝の類で、人間の運命や決断、悲哀が描かれる作品に心を動かされたと言います。また、担任の教師が古文の一節を解説しながら読み聞かせてくれる時間は、彼にとって「物語を聴く」ことの魅力を再確認する場でもありました。こうした初等教育での読書体験が、物語の背後にある人間ドラマや語りの構造に関心を持つ契機となり、後の中世文学研究へとつながっていく大きな布石となりました。

地方から東京へ、学問に目覚めた青年期

佐々木八郎が東京に出て、早稲田大学高等師範部国語漢文学科に入学したのは、1910年代半ばのことです。地方出身の若者が東京で学ぶには、経済的な負担と精神的な覚悟が必要でしたが、佐々木は学問への強い情熱を抱き、進学を果たしました。在学中、彼は当時の国文学界の重鎮である松井簡治や高野辰之の指導を受け、国語学・国文学の基礎を徹底的に学びました。中でも、若き研究者だった五十嵐力の『平家物語』研究に出会ったことは、佐々木にとって大きな転機となります。それまで一読者として親しんでいた『平家』が、学問の対象となり得ること、そしてその背後に多層的な語りの構造があることを知ったことで、彼の研究者としての意識が芽生え始めたのです。また、学生仲間との読書会や写本の筆写にも積極的に参加し、実地の学びを重ねました。こうした活動の中で、彼は語りの中に人間の心理や歴史的背景が凝縮されていることに気づき、文学を通して社会や文化を読み解くという視点を身につけていきます。1919年に卒業した時点で、すでに彼のなかには『平家物語』を主軸とする中世文学の研究者としての基盤が、確かに築かれていたのです。

佐々木八郎、早稲田大学での研鑽と『平家物語』との邂逅

高等師範部での知的刺激と学びの環境

佐々木八郎が早稲田大学高等師範部国語漢文学科に入学したのは、1910年代半ば、まさに大正デモクラシーの気風が高まりつつある時代でした。当時の早稲田大学は、自由主義的な学風と現実主義的な教育方針を特色とし、多様な思想・学問が共存する知の拠点として知られていました。高等師範部は特に、将来の中等教育を担う人材を育成する場として設けられており、文学や言語にとどまらず、教育学・心理学・倫理学などの幅広い講義が用意されていました。佐々木は、日々の講義や文献講読に真剣に取り組む一方で、校外の図書館にも通い、古典の写本や注釈書に触れる機会を自ら作っていました。さらに、学生同士で自主的に行われていた読書会や輪読会にも積極的に参加し、仲間との議論を通して自らの読みを深めていきました。こうした多方面からの知的刺激が、佐々木にとって文学研究の土台を築く強固な基盤となり、後に展開する『平家物語』研究の姿勢や方法論にも通底することとなります。

恩師の影響と中世文学の魅力に開眼

早稲田大学在学中、佐々木八郎にとって決定的だったのは、指導教授であった松井簡治、高野辰之の存在、そして若き研究者として台頭していた五十嵐力の研究との出会いでした。松井簡治は、万葉集や記紀を中心とした文献批判の厳密な方法で知られ、高野辰之は民謡や伝承に文学的価値を見出す先駆的な研究を展開していました。佐々木は彼らの講義や指導を通して、文献学の方法と民衆文化への洞察の両方に触れることになります。そして、五十嵐力による『平家物語』研究、とりわけ異本比較を通じて物語の形成過程に迫る試みに出会ったことで、佐々木は語り物文学への深い関心を抱くようになりました。中世文学の持つ宗教的・社会的背景、語りの技法、そしてその中に描かれる人間像の多層性が、彼の知的好奇心を強く刺激しました。「なぜ人は物語を語り、聴き続けるのか」「語りの形式は、何を伝えようとしているのか」といった根源的な問いが、彼の中に芽生え始めたのはこの時期です。文学を感覚的に味わう段階から、歴史的・構造的に読み解く段階へと、佐々木の学問は明確に転換していきました。

『平家物語』との運命的な出会い

佐々木八郎が『平家物語』と本格的に向き合い始めたのは、在学中に取り組んだ卒業論文の準備がきっかけでした。五十嵐力の論文に刺激を受け、彼は異本ごとの構成や表現の違いに注目し、特に四部本や覚一本の違いを比較する作業を始めました。最初は単なる語句の違いに過ぎないと感じられたものが、読み進めるうちに、語り手の視点や物語の方向性を左右する本質的な差であることに気づきます。たとえば、源義経の描かれ方や壇ノ浦の戦いの叙述には、伝える側の意図や時代の価値観が色濃く反映されており、物語が固定された一つの形ではなく、語り継がれる過程で変容していく「生きた文学」であることを強く感じたのです。この体験は、佐々木にとって単なる研究テーマの発見ではなく、「語りの文学」としての『平家物語』と自らの人生を重ね合わせるような、運命的な邂逅であったと言えるでしょう。1919年の卒業時点で、すでに彼の中では、『平家物語』を通して語りと文学、歴史と記憶に迫ろうとする研究者としての姿勢が、明確に形をとっていました。

教壇に立つ佐々木八郎──教育現場で育んだ研究の芽

和歌山・早稲田中学での教育実践と工夫

早稲田大学高等師範部を1919年に卒業した佐々木八郎は、まず和歌山県の旧制中学校に赴任し、教員としての第一歩を踏み出しました。これは当時、地方での教職経験が教師としての研鑽に不可欠とされていた時代背景によるもので、佐々木もその例に漏れず、初任地である和歌山で数年間を過ごすことになります。和歌山では、教科書を中心とした授業にとどまらず、古典文学をどうすれば生徒に身近に感じさせられるか、日々試行錯誤を重ねていました。彼は授業において、生徒が音読する声の抑揚や、リズムに注目し、「語り」の感覚を重視した授業構成を心がけていたと言われています。『徒然草』や『方丈記』の章段を単に暗記させるのではなく、それを「物語」としてどう伝え、どう聴かせるかを重視するという姿勢は、のちに彼が語り物文学を研究するうえでの出発点となりました。初任地での経験は、教育者としての基礎を形成しただけでなく、研究者としての直観を育てる重要な時間でもあったのです。

授業に活かされた『平家物語』と教育改革

1930年代に入り、佐々木は早稲田大学の附属校である早稲田中学(現・早稲田実業学校高等部)に着任します。ここでは、自身が学んだ早稲田の自由で創造的な教育精神を活かしつつ、国語教育における革新的な実践に取り組むこととなりました。彼が特に力を入れたのが、『平家物語』を授業に導入する方法の工夫でした。当時の国語教育では、古典は敬遠されがちな存在でしたが、佐々木はこれを「語り物」として捉え、声に出して読むことで、生徒が内容を体感的に理解できるような指導法を展開しました。また、登場人物の視点に立って物語を書き換えるという創作的課題を導入することで、歴史的背景と人物の心理を結びつけて考える力を育てました。さらに、異なる版本を比較させる授業も試みられ、佐々木は生徒たちに「語りの多様性」を自ら発見させることを意図しました。こうした教育実践は、従来の一方通行的な古典教育を超えるものであり、同僚教師の間でも注目を集め、教育雑誌への寄稿なども行うようになります。教育現場での試行錯誤が、彼の中で確かな研究的関心へとつながっていったのです。

教室から始まった研究者としての第一歩

授業のために教材として『平家物語』を読むうちに、佐々木八郎は、物語の構成や語り方に関する細かな違いに強く関心を持つようになります。授業準備の一環として複数の版本を照らし合わせていた彼は、教科書に掲載される覚一本と、図書館で見つけた異本とのあいだに、登場人物の描写や出来事の順序、言葉遣いの違いがあることに気づきました。その違いは単なる写し間違いなどではなく、語り手や書き手の意図、さらには当時の社会や文化的背景を反映したものだと直感します。こうした気づきが契機となり、彼は本格的に『平家物語』の異本研究に取り組むようになり、和装本を自ら筆写しながら語句の異同や語りのリズムを丹念に記録していきました。1940年代初頭には、自らの分析をもとに論文草稿をまとめ始め、後年の研究成果へとつながる基盤を築き上げます。この時期の研究活動は、決して大学の研究室から生まれたものではなく、「教室」という実践の場から出発したものであり、教育と研究が分かちがたく結びついていた佐々木の学問スタイルを象徴しています。

佐々木八郎、早稲田大学教授としての研究と育成

教授就任と中世文学研究の深化

1929年、佐々木八郎は早稲田大学高等師範部(後の教育学部)教授に就任しました。和歌山中学や早稲田中学での教育実践を経て、30歳という若さでの教授就任は、当時の国文学界でも異例の早さでした。この就任以降、彼は『平家物語』を中心とする中世文学の講義を本格的に担当し、教育と研究の両立に全力を注いでいきます。佐々木の講義は、写本の異同や語彙の解釈にとどまらず、語りの背景にある歴史的状況や思想的文脈を読み解くものとして、学生から高く評価されました。1930年代には、恩師・松井簡治や高野辰之の私蔵する『平家物語』の諸本を実見し、それぞれの構成や語り口の違いに着目する中で、諸本の比較という新しい研究方法を独自に確立していきます。1938年には、その研究成果の一部をもとに『平家物語講説』を三省堂より出版し、文献批判と語りの融合を試みた先駆的な一書として学界に大きな反響をもたらしました。佐々木の『平家物語』研究は、この時期を境に教育と研究を相互に高め合う新しい学問のスタイルへと進化していったのです。

後進の育成と学会での積極的な交流

佐々木八郎は、講義やゼミを通じて数多くの学生を育成しました。彼の教育は厳格でありながら温かく、学生の発見や仮説に真摯に耳を傾け、議論を重ねながら思考を深める姿勢を大切にしていました。とくに写本を使った実証的な研究指導には定評があり、当時の大学図書館や古書店で手に入る版本・写本を自らの手で比較・精査することを学生に促しました。また、研究室では語り物を実際に音読させ、語り手のリズムや呼吸を体感させるという独自の指導も行われていました。彼が育てた教え子たちの中には、後に中世文学・語り物研究で独自の業績を挙げる者も多く、佐々木の研究精神は確実に継承されています。学外では、五十嵐力、赤松俊秀、玉井幸助らと学会で親交を深め、国文学と歴史学、芸能史を横断する学際的研究の可能性を探りました。また、1949年から1951年にかけて早稲田大学常任理事を務めたほか、1950年代以降は教育学部長、図書館長として大学運営にも関与し、研究者としてだけでなく教育制度全体の整備にも力を注ぎました。

語り物芸能との融合をめざした新たな探究

佐々木八郎の研究の特徴のひとつは、語り物文学を文字だけでなく、「声」の芸術として捉え直した点にあります。1940年代には自ら謡曲の稽古に励み、『芸道の構成』(1942年)を発表するなど、文学と芸能の実践的接続を模索する研究姿勢を強めていきました。この著作は、後に『芸能』『芸道』と改題されながら版を重ね、彼の語り物研究における代表的著作となっていきます。佐々木はまた、平曲など実際の語り物芸能にも関心を寄せ、演者としての感覚を踏まえた視点から、『平家物語』の語り構造を再評価しました。語り物が持つ音韻、リズム、身体性に注目し、言葉が聴かれる現場においてどのように意味を帯びていくかという考察は、単なる文献学の枠を超えたものであり、当時の研究者の中でも特異な存在でした。このようなアプローチは、1947年の『語り物の系譜』で体系化され、その後も佐々木の研究は語り芸術としての中世文学を再定義するものとして、多方面から注目され続けました。語り物を「読む」ことから「聴く」ことへ転換するその姿勢は、日本の文学研究において新しい地平を切り拓いたといえるでしょう。

佐々木八郎の『平家物語』研究、深化への歩み

多様な諸本を比較・分析する方法論

佐々木八郎が『平家物語』の研究において確立した最大の方法論的貢献は、写本ごとの構造や語句の違いを厳密に比較・分析するという「諸本比較」のアプローチです。1930年代以降、彼は松井簡治や高野辰之の私蔵文庫をはじめとする諸家の所蔵本を実見し、そのなかで覚一本、延慶本、源平盛衰記、四部本など、平家物語の異なる版本が持つ構造的特徴に注目するようになります。従来の研究では、物語の内容や文学的価値に焦点が当てられがちでしたが、佐々木はそれぞれの本文の成り立ちや語彙の配置、章段構成の違いから語り手の意図や社会背景の違いを導き出そうとしました。彼にとって、『平家物語』は「一つの物語」ではなく、時代や場面によって再構成されてきた「語りの連鎖」であり、そこに語り手と聴衆の関係性や地域的・文化的差異が反映されていると考えたのです。この実証的なアプローチは、単なるテキスト比較にとどまらず、「語られる文学」としての性質を明らかにするものであり、その後の語り物文学研究の方向性に深い影響を与えることになります。

語り手の視点から読み解く物語の構造

佐々木八郎が『平家物語』を読み解くうえで重視したもう一つの柱が、「語り手の視点」に基づく物語構造の分析です。語り物文学は、文字に記されたものとして読むだけではその本質が掴めない――そうした問題意識から、彼は「誰が」「どのように」「何を語るのか」という視点に立ち、物語そのものよりも語りの構造に焦点を当てました。とくに琵琶法師によって語られてきた平家物語において、語り手の声の調子、語る場所、聴衆との関係といった要素が、内容や構成に与える影響を分析の対象としたのです。このアプローチは、従来の文献学的分析や史実との照合を主眼とした研究とは一線を画すもので、文学における音声性・身体性・情動といった要素の重要性を浮かび上がらせました。こうした視点から佐々木は、語り物を「読む」のではなく「聴く」ものとして再評価し、語り手の選択が物語の意味や印象を大きく左右するという、多層的な構造の存在を明らかにしていきました。この方法論は、後年の芸能研究や語りの理論においても先駆的なものとされており、佐々木が提示した語り手中心の視点は、今なお重要な研究基盤となっています。

『平家物語の研究』へと至る知の結晶

こうした長年の研究成果は、1948年に刊行された大著『平家物語の研究』(上・中・下巻、早稲田大学出版部)として結実しました。この著作は、佐々木が1930年代から蓄積してきた諸本比較、語りの構造分析、歴史的背景の検討を体系的に整理したもので、まさにその学問人生の一大到達点といえる内容です。彼は本書のなかで、各章段ごとに主要諸本の異同を精緻に比較し、語りの意図と構成の背景にある思想を読み解こうとしました。特に注目されたのは、「壇ノ浦合戦」や「祇園精舎」など有名章段の語り方の違いから、文学がどのように聴衆の期待や社会的価値観に応じて変化してきたかを論じた点です。本書は刊行直後から学界に衝撃を与え、1949年にはこの業績により早稲田大学から文学博士号が授与されました。また、その後も増補改訂が重ねられ、1967年には『平家物語の研究 増補版』として再刊され、語り物研究の基本文献として現在に至るまで読み継がれています。この著作を通じて、佐々木は『平家物語』を「読む」だけでなく、「語られ、聴かれ、変容してきた文学」として位置づけ、文学研究の枠組みそのものに新しい視点をもたらしました。

戦後を生きた佐々木八郎──再出発と博士号の獲得

敗戦後も揺るがぬ研究への情熱

1945年の敗戦は、日本社会全体に深刻な影響を及ぼしました。大学もまた例外ではなく、教育制度の見直し、学術資料の散逸、教員の再任用審査など、混乱の只中にありました。こうした中で、佐々木八郎は一切の環境の変化に左右されることなく、自らの研究姿勢を貫きました。戦時中から続けていた『平家物語』諸本の比較研究や語り物の構造分析を継続するだけでなく、新たな学問体系の構築を見据えて講義資料や研究ノートの整理に取り組んでいました。自宅に保管していた写本の複写、注釈、語句索引などの研究メモは、戦火を免れ、戦後の研究再開に大きく役立つことになります。また、戦後は語り物文学の持つ倫理観や歴史観が再評価されるようになり、『平家物語』に描かれる「栄枯盛衰」や「無常」の思想は、混乱の時代に生きる人々の心にも響くものとなりました。佐々木はそうした時代背景をも踏まえながら、語り物が語られ続ける理由、そして文学の中に宿る「人間の記憶」を解き明かすための研究に没頭していきました。

文学博士号授与と研究者としての地位確立

佐々木八郎の長年の研究が一つの大きな節目を迎えたのは、1948年から翌年にかけてのことでした。1948年、彼は大著『平家物語の研究』(上・中・下巻、早稲田大学出版部)を刊行します。この著作は、諸本比較、語り構造の分析、宗教思想と物語展開の関係性など、彼の知的営為を網羅的に示した成果であり、研究者としての集大成とも言えるものでした。そして1949年、この業績により早稲田大学から文学博士号を授与されます。これは、当時の私学においてはきわめて先駆的な出来事であり、国文学界でも大きな話題を呼びました。博士号授与によって、佐々木は名実ともに中世文学研究の第一人者としての地位を確立し、その後の教育・研究体制にも大きな影響を及ぼすこととなります。さらに同年には、私立大学としては初となる早稲田大学教育学部の創設に関わり、教育と研究の両立を図る新たな高等教育のあり方を制度面からも支えていきました。彼は常任理事(1949〜1951年)として大学の運営にも携わり、戦後の混乱期にあって知の再建に尽力したのです。

『平家物語講説』『評講』が放った学界への衝撃

博士号取得後の1950年代から60年代にかけて、佐々木八郎は自らの研究成果を教育・出版を通じて広く社会に還元していく姿勢を明確に打ち出しました。その象徴的な成果が、『平家物語講説 増訂版』(1950年、早稲田大学出版部)、そして『平家物語評講』(1963年、明治書院)という二冊の講義録です。これらは、実際に大学で行われた講義を基に構成されており、平家物語の章段ごとの物語展開や人物描写に対する詳細な解説が特徴です。たとえば、巻第七の「能登殿最期」では、教経の死にざまを単なる英雄的行動としてではなく、「語り手が人間の矜持と哀切をどのように演出しているか」を丁寧に解き明かし、語り物の叙述に対する深い洞察を示しました。これらの講義録は、国文学の専門家だけでなく、教育現場や一般読者にも広く受け入れられ、古典の新しい読み方を提示する文献として評価されました。また、これらの著作は後年の中世文学教育においても副読本として多く活用され、佐々木の教育的手法と研究的視点が融合した重要な資料となっています。研究成果を「講義」という形で社会に開いたこれらの書籍は、戦後日本の文学教育の水準を大きく押し上げたと言えるでしょう。

学界と教育界を導いた佐々木八郎のリーダーシップ

教育学部創設への尽力とその理念

戦後の教育制度改革が進められる中、佐々木八郎は私学として初の教育学部設立を担う中心人物の一人となりました。1949年、早稲田大学教育学部の創設に深く関与した佐々木は、単に教員養成を目的とする学部ではなく、「学としての教育学」を追究する場としての教育学部の構想を描いていました。彼は、国語教育を中心に据えながらも、それを支えるべき基礎学問としての文学、歴史、哲学の重視を主張し、学際的かつ理論と実践の往還が可能なカリキュラムの設計に尽力しました。これは、戦前に自身が高等師範部で学んだ経験、そして和歌山や早稲田中学での教育実践に裏打ちされた現場感覚に基づく理念でもありました。教育とは、単なる知識伝達ではなく、社会と人間をつなぐ営みであるという佐々木の信念は、教育学部の教育理念として明確に根づいていきました。のちに教育学部長も務めた彼は、教員の配置、教育実習制度の整備、教育理論と教材開発の融合など、多角的な改革を主導し、学内外から高く評価されました。

図書館長として蔵書・研究基盤の整備

1950年代から60年代にかけて、佐々木八郎は早稲田大学図書館長として、学術資料の整備と研究基盤の強化にも尽力しました。とくに彼が重視したのは、中世文学、とりわけ語り物に関する古典籍や写本類の充実でした。戦前から私的に収集していた平家物語関係資料の目録化や、稀覯本の整理分類など、図書館の蔵書管理体制を学術研究に耐えうる形に再構築するために、自ら現場に足を運んで指導を行いました。また、学生・研究者が自由に資料にアクセスできるような開架式の閲覧体制を提案するなど、利用者目線の改革にも努めました。これらの取り組みによって、早稲田大学図書館は国文学研究の一大拠点として国内外から注目される存在となり、後の「佐々木八郎文庫」の形成にもつながっていきます。研究者は良質な資料と出会うことで初めて真の探究が可能になる――そう語っていた佐々木の言葉は、学問の「環境」を整えることの大切さを体現していたと言えるでしょう。

国語審議会委員としての社会的貢献

佐々木八郎の活動は学内にとどまらず、国の言語政策にも及びました。1950年代後半から1960年代にかけて、彼は文部省(現・文部科学省)の国語審議会の委員として、国語教育や表記法の整備、常用漢字表の策定などに関わりました。とりわけ注目されたのは、学校教育における古典の位置づけに関する議論において、佐々木が一貫して「原文で読む」ことの意義を主張した点です。当時、現代語訳や要約による指導が推奨されつつあった中で、彼は「語られたことばの音、そのリズムや余韻の中にこそ文学の核心がある」と述べ、古典を生きた日本語として伝える教育の必要性を強調しました。また、仮名遣いや送り仮名の統一に関しても、文献の伝統と現代日本語とのバランスをとる視点から意見を述べ、実際の教育現場で混乱が生じないような指針づくりに尽力しました。こうした姿勢は、文学研究者としての専門性と、社会教育に対する責任感の両立を体現しており、佐々木八郎が単なる学者にとどまらず、公共的知識人としても活動していたことを如実に物語っています。

晩年の佐々木八郎と未来へ残した知の遺産

名誉教授としての静かな晩年と研究活動

1969年、70歳で早稲田大学を定年退職した佐々木八郎は、名誉教授の称号を授けられました。以後、大学の第一線からは退いたものの、研究への情熱は生涯変わることなく、静かに、しかし精力的に学問活動を続けました。晩年の彼は、自宅の書斎で過去の講義ノートや研究資料の整理に取り組む一方で、新たな原稿の執筆にも励みました。1973年には『徒然草の味わい方』(明治書院)を、1974年には『平家物語の達成』(同)を刊行し、中世文学に対する読みの深化を示しました。これらの著作は、単なる解釈の提示ではなく、語り物文学の「伝承」と「受容」に焦点を当てたものであり、聴く者・読む者の視点から文学を再評価するという、晩年の彼の新しい知的展開を示しています。また、学会への寄稿や後進の指導も継続しており、若い研究者との書簡を通じて助言を与えるなど、研究者としての責任を全うし続けました。1980年9月8日、82歳でこの世を去るまで、彼の思索と筆は止まることがなかったのです。

昭和女子大学への資料寄贈と教育支援

晩年の佐々木八郎は、自らの研究資料や蔵書の散逸を防ぎ、後世の研究者に活用してもらうことを強く望んでいました。その思いを受け継いだのが、昭和女子大学図書館でした。佐々木は自らの蔵書、写本、講義ノート、未発表原稿、書簡など約5,000点におよぶ資料を同館に寄贈し、それは「佐々木八郎文庫」として体系的に保存・公開されることとなります。特に『平家物語』関係の写本資料や注釈書、語り物芸能に関する書籍は、中世文学研究における貴重な基礎資料とされ、研究者の利用も多く、図書館内での活用も活発です。1990年代には『昭和女子大学図書館蔵佐々木八郎文庫目録』が刊行され、資料の所在と構成が明らかにされました。佐々木が寄贈先として昭和女子大学を選んだ背景には、当時としてはまだ十分に整備されていなかった女子高等教育への支援意識もあり、教育の機会を次世代へと広げる志が込められていました。この文庫は現在も、学生・研究者が直接手に取り、学問と向き合う場として機能しています。

佐々木八郎の学問が後世に与えた影響

佐々木八郎の研究と教育の成果は、彼の死後も日本の国文学研究と国語教育の両面で受け継がれています。とりわけ、『平家物語』を「語りの文学」として再定義し、語り手や聴衆といった周縁的要素を中心に据える彼の視点は、現代の中世文学研究における方法論として確固たる地位を築いています。『平家物語の研究』や『評講』『講説』といった著作は、今もなお多くの大学や研究者にとって基礎文献であり続け、初学者にとっては中世文学の入り口として、多くの示唆を与えています。また、佐々木が育てた多くの教え子たちが、教育現場や学会で活躍し、彼の理念と方法を継承しています。さらに、「文学は語られ、聴かれ、記憶されるものだ」という彼の哲学は、デジタル時代における「語り直し」や「再演出」といった問題意識にも通じており、その学問的意義はいまなお進化を続けていると言えるでしょう。研究者、教育者、制度設計者として、日本の学術界に多面的な足跡を残した佐々木八郎の知的遺産は、今後も多くの探究者たちの中で生き続けていくに違いありません。

著書に見る佐々木八郎の思想と研究スタイル

『平家物語の研究』に込められた方法論と視座

佐々木八郎の学問的頂点を示す著作として、1948年に刊行された『平家物語の研究』(上・中・下巻、早稲田大学出版部)は、彼の思索と実証を凝縮した一書です。この大作では、彼が1930年代から収集・調査してきた諸本の比較分析を軸に、語りの形式、歴史的文脈、思想的背景にいたるまで多角的に『平家物語』を読み解いています。覚一本・延慶本・四部本などの異本を横断的に照合し、構成の違いが語り手の視点や意図、さらには語られた場の文化的背景に深く関わることを明らかにしました。たとえば、同じ壇ノ浦の戦いを扱っていても、語りのリズムや人物描写の細部が変わることで、聴き手が受け取る物語の印象は大きく異なることに着目しています。また、文学を文字だけでなく「語りとして生きてきた文化」として捉えようとする視点は、佐々木の方法論における核であり、その斬新さは当時の学界に大きな衝撃を与えました。1949年、この研究によって早稲田大学より文学博士の学位を授与されたことは、その意義の大きさを物語っています。文献学と語りの身体性を結びつけた本書は、今もなお語り物文学研究の礎として位置づけられています。

講義録『講説』『評講』が伝える熱意と解釈

佐々木八郎の学問が真に生きた場は、大学の教室でした。その熱気と精緻な分析を記録した講義録として、『平家物語講説 増訂版』(1950年、早稲田大学出版部)と『平家物語評講』(1963年、明治書院)の二冊が特に重要です。これらは、彼が長年にわたり行ってきた講義内容をもとに書き下ろされたもので、章段ごとの構造分析と人物像の描写を中心に、物語が持つ多層的な意味を学生たちに伝えようとした試みが反映されています。語り物を「読む」のではなく「聴く」ことから始めるべきだという佐々木の信念は、講義録の随所にあらわれており、登場人物の心理を語り手の視点から考察する手法や、節の抑揚に注目した分析は、読者に文学の躍動を感じさせます。たとえば、「忠度都落」の章では、忠度の無念や美意識を、語りの間と調子から読み解き、その背景にある文化的教養を浮かび上がらせています。こうした実践的解釈は、専門家だけでなく、国語教育に携わる教員や一般の読者にも開かれており、古典を「生きた言葉」として伝える佐々木の教育者としての熱意が端的に表れています。

佐々木文庫が物語る学問の軌跡と継承

佐々木八郎の学問的遺産は、書籍や論文だけでなく、自らの蔵書と資料群のなかにも色濃く刻まれています。彼の没後、昭和女子大学に寄贈された「佐々木八郎文庫」は、約5,000点に及ぶ写本、注釈書、研究ノート、講義資料、書簡などを収蔵しており、1990年代には『昭和女子大学図書館蔵佐々木八郎文庫目録』として編纂・刊行されました。この文庫は、単なる資料の集積ではなく、佐々木の研究過程そのものを辿ることができる「知の軌跡」としても機能しています。語句の意味を書き込んだ余白、諸本を比較する際の検討メモ、学生の質問に答えた記録など、彼の学問がいかにして深まり、どのように他者と共有されてきたのかが克明に伝わってきます。また、これらの資料は現代の研究者や大学院生にとっても貴重な一次資料であり、文庫を訪れることで佐々木の学問と直接対話することが可能になります。彼は、学問は私的な知識ではなく、「共有され、継承される文化の一部である」という信念を持ち、その思想を実際の資料整理と公開において体現したのです。佐々木文庫は、まさにその精神を象徴する存在であり、未来の文学研究を照らす灯火であり続けています。

佐々木八郎の歩みが照らす、学問と教育の未来

佐々木八郎の生涯は、研究者・教育者・大学運営者としての多面的な活動を通じて、日本の文学研究と教育制度に深い影響を与えたものでした。雪国・新潟の自然の中で育まれた感性は、語り物文学への鋭い洞察につながり、早稲田大学では『平家物語』を核とした独自の研究方法を確立。教育の現場での実践を通じて、理論と現場を結ぶ学問の形を体現しました。戦後の混乱期にも研究を継続し、博士号取得後は教育学部の創設や図書館整備、国語審議会での社会的貢献など、幅広い領域でリーダーシップを発揮。晩年には自らの資料を後世に託し、未来の学問を支える基盤を築きました。語りを重視した彼の視点は、現代においてもなお新鮮な問いを投げかけ続けています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次