こんにちは!今回は、日本統治下の朝鮮で山林緑化と民芸保護に尽力した林業技師、浅川巧(あさかわたくみ)についてです。
荒れ果てた山々を緑で蘇らせ、失われゆく陶磁器や民芸に命を吹き込み、さらには現地の人々と同じ目線で生き抜いた彼の姿は、まさに「日韓をつないだ橋」。支配者としてではなく、ひとりの人間として朝鮮と向き合ったその生き様は、今なお日本と韓国の間で語り継がれています。
この記事では、40年という短い生涯の中で、なぜ浅川巧が“韓国の土となった日本人”と敬われるに至ったのか、その足跡をたどります。
浅川巧の原点──家族と自然に育まれた幼少期
八ヶ岳の麓に育まれた少年・巧
浅川巧は、明治24年(1891年)、山梨県北巨摩郡甲村(現在の北杜市高根町)に生まれました。八ヶ岳の麓、南アルプスを望む豊かな自然に囲まれた土地で、巧は山や川、畑といった風景の中に溶け込むようにして育ちました。季節の移ろいを肌で感じながら、草花の名を覚え、鳥の鳴き声に耳を澄ます少年時代は、巧にとって自然が最も身近な教師であり、遊び場でもあったのです。
彼が生まれる半年前に父・如作が亡くなったため、巧は祖父・伝右衛門の庇護を受けて育ちました。祖父は家族を精神的にも実質的にも支える存在であり、厳しさの中にも情のこもった躾を通じて、巧の内面に規律と静かな信念を育んでいきました。そうした環境の中で育った巧は、自然を一方的に「使う」対象としてではなく、共にある存在として尊重する感性を次第に備えていったのです。
物に頼らず、静けさを慈しむ暮らしの中で、彼の目は「見る」から「感じ取る」へと深化していきます。風が草木を揺らす音、空の色の移ろい、湿った土の香り――それら全てが巧にとって、後の人生を形づくる根源的な記憶となったのです。
兄・伯教が示した「知」と「まなざし」
巧にとって最大の影響を与えた人物は、7歳年上の兄・浅川伯教でした。伯教は早くから文学や芸術に秀で、後に陶磁器研究者、美術評論家としても知られる存在です。巧にとって伯教は、ただの兄ではなく、常に先を行く知の導き手であり、世界の見方を教えてくれる存在でした。
伯教の関心は早くからアジア文化、特に朝鮮半島に向けられていました。その根底には、クリスチャンとしての倫理観と、人間の営みを深く見つめる哲学的姿勢がありました。伯教の書棚には、宗教書から社会思想に関する文献まで多様な書物が並び、兄弟の会話は単なる日常会話にとどまらず、世界と人間をめぐる探求にも及んでいたと考えられます。
巧はそうした兄の姿を通して、自らの感性を磨き、学びの方向性を定めていきました。兄の語る異文化への敬意や、弱き者への共感は、巧がやがて朝鮮の地に根を下ろし、民とともに歩もうとする思想の伏線となります。兄弟の間には深い絆と思想的共鳴があり、その関係性は、浅川巧という人間を語るうえで決して外せない核となっているのです。
少年の心に根づいた自然へのまなざし
少年時代の巧は、自然を「観察」するのではなく、「寄り添う」ようにして接していました。彼が特に興味を示したのは植物で、杉や椎の木を育てることにも熱心だったと伝えられています。山道で見つけた草花の生長を日々見守り、森の変化に気づくことに喜びを見出す――そのまなざしは、すでに一人の林業技師の萌芽を秘めていました。
巧が自然を敬い、共に生きようとする感覚を備えていった背景には、祖父や兄を通じて育まれた人間観も大きく影響しています。自然は利用の対象ではなく、人間と対等に在るもの――その思想は、後の緑化活動や朝鮮の山々に命を吹き込む仕事にも通じていきます。
また、家庭にはキリスト教的価値観が流れており、人間の弱さや自然の摂理を受け入れる静かな信仰の気配がありました。信仰そのものが強く前面に出ることはなかったかもしれませんが、「すべてに意味がある」「目に見えぬものを敬う」といった態度は、自然と向き合う巧の姿勢にも通じています。幼き日に育まれた自然へのまなざしは、人生のすべての局面で巧を支え、導く光となっていったのです。
浅川巧、林業技師としての歩みが始まる
山梨県立農林学校で芽生えた職業観
浅川巧が将来の道として林業を選んだ背景には、幼い頃から培った自然へのまなざしと、当時の社会的要請とが交差していました。彼が進学したのは、山梨県立農林学校。ここでは農学と林学の基礎を学ぶ教育が行われており、森林の保護・育成を担う人材育成が目指されていました。
この学校で巧は、植物学、森林経営、測量、造林技術などの専門科目を体系的に学びました。とりわけ山林の調査や管理、植林技術においては実習が重視され、巧自身、座学と現場の往復を通して、自然の複雑さや人の手が入ることの意義と限界に気づいていったと考えられます。学ぶほどに、自然の摂理を「管理」するという人間の立場の曖昧さに対し、謙虚であることの必要性を痛感していきました。
この頃から巧は、木を育てることの背後にある「責任」や、「自然とともにある暮らし」への関心を強めていったようです。自然を利するために制するのではなく、未来へと引き継ぐために関わる――そんな発想が、学生時代の巧の中に芽生えつつありました。
秋田・大館営林署で体得した林業の現場
卒業後、浅川巧は秋田県大館営林署に就職します。東北の厳しい風土に位置するこの地では、ブナやスギの伐採、植林、保全といった実務が日々行われていました。巧はここで約5年間、林業技師としての経験を積み重ねていきます。
山は地域ごとに地質も気候も異なり、同じ方法論が通じるわけではありません。巧は現地の地形や森林の特性を理解しながら、適切な伐採と植林のバランス、再生可能な資源管理のあり方を学んでいきました。また、山に生きる人々――伐採に従事する労働者やその家族、地域の住民たちとの接点も、彼の人間観を大きく広げていきました。
山を切り拓くだけでなく、「再び育てる」ことの意味を現場で実感するなかで、巧は林業を「自然との対話」として捉えるようになります。それは単なる技術職ではなく、山と人との関係を調和させる媒介者としての在り方でした。ここでの経験は、彼にとって単にスキルを磨く場にとどまらず、「山を見る眼」「人間の営みを山に重ねる想像力」を培う時間でもあったのです。
共生の思想へと深まる林業観
秋田での実務を通じて、浅川巧の林業観は「自然との共生」へと結晶していきます。大量伐採によって荒廃する山々を目の当たりにしながら、彼が目指したのは一時的な利益ではなく、持続的で豊かな山林の再生でした。そこには、「木を育てる」ことの背後にある時間の感覚――百年、二百年という長い視野がありました。
巧は、山を生業とする人々の暮らしにも深い共感を寄せていました。木を伐り、植え、山を守る労働の中にある誇りと苦労を見つめ、彼らとともに歩む林業技師であろうと努めていました。人間が自然の一部であるという感覚は、こうした現場での体験を通じて、確かな信念へと変わっていったのです。
こうして形成された「自然との共生」という哲学は、やがて彼が異国の地――朝鮮半島で再び山と向き合う際にも、大きな道標となっていきます。1914年、巧は兄・伯教を追って朝鮮へと渡る決断を下しますが、その背後には、日本で培った林業観と、人と自然を結ぶ仕事への信念が確かに存在していたのです。
浅川巧、兄とともに朝鮮の地へ踏み出す
伯教の導きで向かった朝鮮半島
1914年、浅川巧は兄・伯教の勧めを受け、朝鮮半島へと渡ります。巧が23歳のときでした。兄・伯教はすでに数年前から朝鮮で教師として活動しており、当時の朝鮮文化、とりわけ陶磁器に深い関心を寄せていました。兄弟の間では手紙を通じて頻繁にやり取りがなされており、伯教から伝わる異国の風土と文化に対する思索の片鱗は、巧の内に静かな好奇心を呼び起こしていたに違いありません。
巧が就職したのは、朝鮮総督府農商工部山林課。これは、朝鮮全土の山林資源の調査や管理、林業政策の実施を担う部門でした。しかし彼にとって朝鮮は、単なる赴任地ではありませんでした。見知らぬ土地、見知らぬ言語、異なる宗教観と生活様式――すべてが「違う」世界に身を置くことは、彼にとって驚きであり、挑戦でもありました。
兄と共に暮らし、働く中で、巧は伯教のまなざしを追体験するように朝鮮の風景を見つめ直し始めます。最初は不慣れな土地の空気、言葉の響きに戸惑いながらも、そこに確かに息づく人々の暮らしの温もりに、心を開き始めていったのです。
総督府山林課での第一歩
朝鮮総督府山林課での最初の仕事は、調査と記録でした。各地の山々を巡り、樹種の分布や植生状況を把握し、必要な対策を検討するのが主な任務です。これまで秋田で現場経験を積んできた巧にとって、自然の観察や山林の見極めはお手のものでしたが、ここでは言葉や地理感覚、そして文化の“空気”そのものが違いました。
朝鮮の山には、巧が日本で親しんできたスギやヒノキは少なく、代わりにアカマツやコナラなど、独自の森林景観が広がっていました。山の形も、地層も、そして木々の香りすら微妙に違う。巧はその差異を「異質」とは捉えず、「まだ知らぬもの」として受け止めていきました。驚きと違和感を、排除ではなく理解への入口とする――それが彼の心構えだったのです。
また、現地の役人や林業従事者と接する中で、言語の壁が大きく立ちはだかります。通訳を介してのやりとりは多くの情報を取りこぼし、心の距離を感じさせるものでした。それでも巧は、言葉を学び、習慣に慣れようと地道に努力を重ねていきました。その真摯な姿勢は、早くも周囲の信頼を少しずつ得るきっかけとなっていったのです。
異文化との出会いが心に火をつけた瞬間
浅川巧にとって、朝鮮での生活は常に「出会い」の連続でした。市場のざわめき、仏教寺院の静けさ、道端に咲く草花の名も知らぬ姿――それら一つひとつが、彼の感性に新しい色を加えていきました。とりわけ印象的だったのは、人々の手仕事に宿る美しさでした。素朴な籠、簡素な木製の道具、そして何気ない日用品の中に、彼は「用の中にある美」を感じ取り始めていたのです。
この時期の巧は、まだ陶磁器に強い関心を持っていたわけではありません。しかし、日々の暮らしの中で触れる民の道具、姿勢、表情の中に、「日本とは異なる秩序と感性」が確かに存在していることに心を揺さぶられていました。彼は異文化を「比較」ではなく、「傾聴」しようとしていたのです。
違和感、言葉の壁、孤独感――そうした葛藤のすべてが、やがて「朝鮮の民と共に生きる」という巧の人生の主旋律へと昇華されていきます。このとき芽生えた文化への敬意と関心が、後の陶磁器への傾倒や民芸思想との出会いに繋がっていくのです。浅川巧にとって、朝鮮への渡航は仕事上の転機であると同時に、思想的な旅路のはじまりでもありました。
浅川巧、緑なき山に命を吹き込む挑戦
荒廃した朝鮮の山々への植林活動
朝鮮半島に渡った当時、浅川巧の目に映ったのは、かつて緑に覆われていたはずの山々の荒れ果てた姿でした。乱伐と戦乱、さらには貧困により薪を求めて樹木が切り尽くされた山地は、保水力を失い、表土が流出し、雨が降るたびに洪水や土砂崩れが発生していました。こうした実態は、林業技師である巧にとっては衝撃であり、同時に強烈な使命感を呼び起こすものでした。
彼は朝鮮総督府山林課の一員として、山の調査に取り組む傍ら、積極的な植林計画を提案・実施していきます。彼の方針は一貫して「場に根ざした林業」。すなわち、地形や土壌、気候を慎重に見極めたうえで、その土地に最も適した樹種を選ぶというものでした。単なる見栄えや成長の速さではなく、「未来の山」を見据えた判断を下す――そこに巧の信念がありました。
その一例が、アカマツやケヤキなど、朝鮮在来の樹木を中心とした植林へのこだわりです。外来種による短期的な緑化ではなく、生態系全体の回復を視野に入れた計画に、当時としては先進的な視点が見られます。また、彼は斜面や風向き、日照などの細かな条件にも注意を払い、一本一本の苗木に山の未来を託して植えていったのです。
在来樹種への敬意と保全の実践
浅川巧の林業における特徴の一つが、在来種への深い理解と敬意でした。朝鮮半島に自生する樹木には、その土地に根ざした長い時間と環境との共生の歴史があります。巧はそのことを何より大切に考え、外来種に頼るのではなく、在来種を活かしながら山を再生する方法を模索しました。
たとえば、乾燥地には根張りの強いアカマツを、湿潤地には保水力に優れたシラカシをといった具合に、土地と木との対話を重ねるようにして植林を進めました。また、木が根づいてからの間伐や枝打ち、下草の処理といった「育林」にも心を配り、ただ「植える」だけの林業とは一線を画しています。
この姿勢には、巧の「自然は人が作るものではなく、共に育てるもの」という哲学が色濃く表れていました。在来の自然を活かし、そこに人間の手がそっと添えられる形で再生が進んでいく――それが、彼の考える理想の山の姿だったのです。
巧は植林を単なる政策的業務とせず、自ら現場に足を運び、苗木の状態を一つひとつ確かめながら作業にあたりました。山と向き合い、木と語らうように働く彼の姿は、同僚や地元の人々にも強い印象を残したと伝えられています。
住民と手を取り合う「共の林業」
浅川巧が目指したのは、政府主導の一方的な林業ではありませんでした。彼の林業には常に、そこに暮らす人々との「共」の視点がありました。つまり、山は行政のものでも技術者のものでもなく、そこに暮らす民の生活と切り離せない共有の存在であるという発想です。
彼は植林や育林の作業において、地元住民の協力を積極的に得ました。ただ命令して働かせるのではなく、共に山に登り、木を植え、手を動かすなかで、山と人との関係を再構築していったのです。この協働の姿勢は、時に反発も受けましたが、巧は常に誠意をもって接し、対話を重ねました。
また、住民たちの山に対する知識や感覚を尊重し、農民が古くから用いてきた植生や地形への知見を取り入れることも忘れませんでした。その結果、単なる政策や数値目標に縛られない、持続可能な緑化が少しずつではありますが現実のものとなっていきました。
こうした姿勢の背景には、巧の揺るぎない信念がありました。山は一人の技術者が変えるものではなく、多くの手と心が交わることで初めて「生まれ変わる」ことができる。浅川巧の林業は、まさに「共にある林業」であり、彼自身の人生の根幹を成す実践だったのです。
浅川巧、朝鮮の陶磁器に魅せられて
民芸との出会いがもたらした転機
林業技師として朝鮮の山々に心血を注いでいた浅川巧が、ある日ふと心を奪われたのは、ひとつの白磁の碗でした。粗野でありながら温かく、無名の陶工が手がけたその器には、装飾や技巧を超えた静かな美が宿っていました。これが、巧が朝鮮の陶磁器に魅了された最初の瞬間だったと伝えられています。
当初は生活の中で偶然触れた器たちでしたが、次第に巧はその美しさの背後にある文化や歴史へと関心を深めていきます。それは単なる「収集」ではなく、むしろ「記録し、伝える」行為としての民芸との出会いでした。朝鮮半島の人々が日常のなかで用いてきた器、その一つひとつに込められた労働と美意識に、彼は強く心を動かされたのです。
この「無名の美」こそが、後に民芸運動の思想と共鳴する核となり、巧の人生を林業技師から文化記録者へと静かに拡張させていきます。器を見て終わるのではなく、使われる風景までを想像し、作り手の息づかいに思いを馳せる――その感性の鋭さと謙虚さが、浅川巧の民芸との出会いを決定的なものにしました。
各地を歩き、記録した器と人の暮らし
陶磁器への関心を深めた浅川巧は、朝鮮各地の窯場を訪ね歩くようになります。利川(イチョン)、分院(ブノン)、馬山(マサン)など、伝統的な陶芸が息づいていた土地には、いまなお手づくりの器を焼く陶工たちが残っていました。巧は単に作品を見るだけでなく、窯の構造、技法、土の質、釉薬の配合、さらには陶工の言葉や暮らしぶりまでを克明に記録していきました。
その調査は、いわゆる研究者の「対象化」された眼差しとは異なり、もっと低く、もっと近い視線でなされていました。生活と美が分けられずに存在することを深く理解していた彼は、作り手の話に耳を傾け、技術の継承に懸ける思いに心を寄せました。その一方で、急速な近代化や生活様式の変化により、こうした陶磁文化が失われつつある現状にも強い危機感を覚えていたのです。
巧が現地で記録したノートやスケッチは、単なる資料を超えて、朝鮮の民の暮らしそのものを写し取る記憶の装置でした。器を通して土地を見る。器を通して人間を知る。そうした姿勢の積み重ねが、後に著す『朝鮮陶磁名考』の土台となっていきます。
『朝鮮陶磁名考』に結実した鑑識眼
浅川巧が没後に遺した代表的な著作『朝鮮陶磁名考』は、彼の審美眼と記録精神の結晶です。生涯をかけて見て、触れて、記してきた朝鮮の陶磁器に対する愛情と尊敬が、この一冊に凝縮されています。この書は、当時としては珍しく陶工の名を掘り起こすことに努め、また産地ごとの技術的特徴や器形の変遷を精緻に分析しています。
そこに貫かれているのは、権威や名声に頼らない「真の美」を見出すまなざしです。巧は、見た目の豪華さではなく、器に込められた誠実さ、実用の中にある美しさ、そして文化的背景を見抜く力を重視しました。民芸とは、無名の中にある普遍を見つめる行為であるという彼の思想は、この一冊を通して確かな形をもって語られています。
また、この著作は、日本人による記録でありながら、決して一方的な視線に堕していない点でも高く評価されています。朝鮮の文化を尊重し、陶磁器を「彼らの文化の精髄」として捉える巧の態度は、のちに柳宗悦との出会いへとつながり、民芸運動に思想的な厚みを与えることになります。
『朝鮮陶磁名考』は、学術的価値を持ちながらも、同時にひとりの人間が異文化を理解しようとした誠実な記録でもありました。浅川巧の「見る目」は、この地に生きる人々とその営みへの深い共感から生まれていたのです。
浅川巧と柳宗悦、民芸の心を通わせて
柳宗悦との運命的な出会い
1920年、浅川巧は千葉県我孫子の柳宗悦を訪れました。この訪問が、両者の長く深い思想的交流の始まりとなります。柳は当時、朝鮮の仏教美術や工芸に強い関心を寄せており、何度も朝鮮半島を訪れては、そこで見いだされる「名もなき美」に心を動かされていました。そこに、現地に暮らしながら無名の陶工たちの作品を記録し続けていた浅川巧の存在は、まさに思想的な同志との出会いだったのです。
二人が交わした言葉の中には、「誰が作ったかではなく、どう作られ、どう使われてきたか」にこそ美の本質が宿るという、民芸思想の核心がすでに共有されていました。浅川が日々の生活の中で見出していた朝鮮陶磁器の美しさ――素朴で、実直で、使う人に寄り添うかたち――は、柳が提唱する「無名の美」の具体的な証左となっていたのです。
この出会いを通じて、巧の中で美への感受性が理論と結びつき、「見る者」としての眼差しが一層明確になっていきます。そして柳にとっても、現地に根ざして暮らす巧の観察と記録は、理念に現実的な裏打ちを与える存在でした。
「無名の美」から見つめ直した朝鮮文化
浅川巧と柳宗悦が共有した「無名の美」へのまなざしは、単なる美術的審美を超えて、文化と人間のあり方そのものへの問いかけとなりました。陶工の名を問わず、ただ誠実に、必要に応じて生まれた器たち。そこに宿るのは技巧の誇示ではなく、日常の祈りにも似た美しさでした。
浅川は、朝鮮の民衆が生み出した工芸品の中に、生活と精神が一体となった文化の核を見ていました。そしてそれは、単に記録や鑑賞の対象としてではなく、いかにしてその美意識を守り、次代に伝えていくかという使命へとつながっていきます。柳の思想と呼応するかたちで、巧の記録には次第に「美と生の不可分性」「作り手の心への敬意」がより明確に刻まれるようになりました。
また、こうした姿勢は、当時の日本が朝鮮を植民地支配する中で生まれた歪んだ文化観に対して、明確な異議申し立てともなりました。名声ある者ではなく、民衆の中にこそ宿る価値。巧は、物を記録することで、人間の尊厳をもまた記そうとしていたのです。
朝鮮民族美術館の創設と残された意義
思想的共鳴を具体的な形にしたのが、1924年(大正13年)4月9日に設立された「朝鮮民族美術館」でした。場所は、朝鮮王朝の旧王宮・景福宮の一角にある緝敬堂。設立の中心には柳宗悦、浅川伯教、そして現地調査を支えた浅川巧がいました。この美術館は、朝鮮の民芸品――陶磁器、織物、木工、民具など――を体系的に収集・展示し、その文化的価値を再発見・再評価することを目的としていました。
巧は現地の700ヶ所以上に及ぶ窯跡を調査し、膨大な数の陶器を記録・分類しました。『朝鮮陶磁名考』の緒言に記されたこの実績は、彼の誠実なフィールドワークと民族文化への敬意を端的に物語っています。単に「物」を集めるのではなく、その背後にある作り手の人生、使う人の暮らしに思いを馳せる――そこにこそ巧の美術館活動の真意がありました。
この美術館の設立は、植民地政策とは一線を画す文化運動でもありました。抑圧の中にあっても、民が育んできた文化は美しく、守るべきものであるという信念。柳の思想を実証的に支え、朝鮮の人々の文化的誇りを記録という形で支援した浅川巧の働きは、日本と朝鮮の間にあって、きわめて稀有で、かつ普遍的な価値をもつ行為として評価されています。
巧の思想と実践は、死後もなお、日韓両国の民芸思想を支える柱として息づいています。そして何より、それは「名もなき人々が生み出す美」への誠実な敬意として、いまなお静かに語り継がれているのです。
浅川巧、朝鮮の民とともにあった日常
言葉を学び、生活に溶け込んだ日々
浅川巧は朝鮮での生活を「赴任地の暮らし」とは考えていませんでした。彼にとってそこは、働くだけの場ではなく、ともに生きる人々と日々を重ねる場所でした。その姿勢はまず、言葉に表れています。巧は朝鮮語を積極的に学び、現地の人々とできるだけ通訳を介さずに話そうと努めました。片言ながらも心を込めたその語りかけは、次第に人々との距離を縮めていきます。
市場で交わす何気ないやり取り、村人から教わる方言交じりの言い回し、農作業の合間に耳にする民謡の一節。そうした一つひとつの言葉を、巧は「生活の中にある真実」として大切にしました。山のこと、器のことを語るだけでなく、彼は「人の気持ち」に耳を傾ける語学の使い手だったのです。
彼が暮らしていた集落では、日本人としてではなく、「タクミさん」として親しまれ、子どもたちに名前を呼ばれることもしばしばありました。外来者としてではなく、生活者としての浅川巧がそこにいたこと。それは一朝一夕に築かれたものではなく、言葉を通して交わした無数の「小さな理解」の積み重ねに他なりませんでした。
上下関係を拒んだ、対等なまなざし
当時の朝鮮は、日本による植民地支配のただ中にあり、多くの日本人が現地の人々に対して上から目線の態度をとっていた時代でもありました。しかし浅川巧は、その空気とは一線を画す生き方を選びます。彼は決して「教える者」ではなく、「ともに学ぶ者」として朝鮮の人々と接しました。
林業の現場でも、陶磁器の調査でも、そして日常のあらゆる場面でも、巧は現地の人々の経験や知恵に敬意を払いました。特に印象的なのは、農家の老人が語る山の話に真剣に耳を傾け、「それは教科書よりもずっと深い知識だ」と感嘆したという逸話です。彼にとって、「知る」とは支配することではなく、「敬う」ことだったのです。
この姿勢は、巧の人間観そのものでした。人と人が真に通じ合うには、肩書きや国籍を外したところでの出会いが必要だと、彼は理解していました。そしてそれを実践し続けることで、彼は「植民地の日本人」ではなく、「この地に生きるひとりの隣人」として受け入れられていきます。
朝鮮人に対して頭を下げ、感謝の言葉を口にするその姿は、周囲の日本人から時に奇異の目で見られることもありましたが、巧はその道を決して曲げることはありませんでした。彼にとって「対等であること」は、信念というより、生き方の自然なかたちだったのです。
人々が語り継ぐ、あたたかな交流
浅川巧が亡くなったあとも、彼と暮らしをともにした人々は、彼のことを決して忘れませんでした。年配の住民たちは、彼が子どもに向けて差し出した本、老いた母に持ってきた薬草、寒い冬の日に手渡した毛布――そうした何気ない行為のひとつひとつを、「心の記憶」として大切に語り継ぎました。
彼が関わった村のなかには、彼を偲ぶ碑を建てたところもあります。そこには、日本語ではなくハングルで刻まれた「われらの友・浅川巧」の文字が残されており、単なる技術者や研究者を超えた存在として、住民の心に深く根づいていたことがわかります。
ある女性は、巧が道ばたに座る自分の隣に何のためらいもなく腰を下ろし、一緒におにぎりを食べた日のことを、涙ながらに語ったといいます。彼女にとって、その記憶は「平等に見てもらえた」という感動の象徴でした。
浅川巧の遺したものは、数字でも業績でもありませんでした。日々を共に過ごした人々の中に刻まれた、小さなやさしさの記憶。それこそが、誰よりもこの地に“生きた”彼の証だったのです。
浅川巧の死と、韓国の土となったその後
若くして訪れた静かな別れ
1931年3月24日、浅川巧はソウル市内の病院で静かにその生涯を閉じました。享年四十。死因は心臓病とされ、亡くなる数日前から体調を崩していたと伝えられています。その知らせは、彼と関わりのあった人々に大きな衝撃を与えました。兄・伯教や柳宗悦、共に働いた林業関係者だけでなく、彼を知る多くの朝鮮の人々が、突然の別れを深く惜しみました。
巧の葬儀はソウルで営まれ、その遺体は本人の遺志により、朝鮮の地に埋葬されました。墓所はソウル郊外の忘憂里共同墓地の一角に設けられました。日本人が日本国外の地に自らの眠る場所を選ぶことは、当時としては極めて異例のことでした。そこには、彼が生涯をかけて朝鮮の自然と人々と共にあろうとした誠実な姿勢があったと見るべきでしょう。
その墓標には、伯教の手によって「心の日本人、朝鮮の土となる」との言葉が刻まれました。政治や国境ではなく、人としてこの土地に根を張った人生。その短い生涯を象徴するような一文でした。
韓国に眠る“心の日本人”としての顕彰
巧の死後、その名は一時的に世間から遠ざかりましたが、1950年代以降、韓国国内での再評価が始まります。とりわけ1970年代からは、植林事業や民芸運動に関する研究が進み、巧の遺した記録や業績が徐々に明るみに出るようになりました。彼の墓所には地元住民による花が絶えることなく手向けられ、そこには「異国の地に眠る友人」への尊敬が静かに息づいています。
1990年代以降、日韓の市民交流のなかで、浅川巧の人生は「両国の和解と理解を象徴する存在」としても注目されるようになりました。韓国では、彼の精神を記念した顕彰碑や展示会が開催されることもあり、学校教育の中で紹介されることもあります。ソウルでは、かつての忘憂里墓地が移設された後も、彼の墓は丁重に再整備され、その存在は変わらず敬意をもって扱われています。
その評価は単なる美談ではなく、朝鮮という土地の自然と文化に向き合い、そこに暮らす人々と対等な関係を築こうとした一人の日本人としての生き方に向けられたものです。彼が選んだ生き方と死に場所が、時代と国境を越えて、いまも静かな共感を呼び起こしているのです。
時を越えて評価され続ける功績
浅川巧の功績は、林業技師としての実務にとどまりません。彼は技術者でありながら、同時に記録者であり、思想家であり、生活者でもありました。その多面的な活動は、当時の植民地体制の枠組みに収まらない、極めて独自なものでした。
彼の緑化活動は、単なる山の再生ではなく、人と自然がどう共生できるかという問いを現場で形にしたものであり、陶磁器の記録は一方的な美術鑑賞ではなく、生活と美のつながりを伝える試みでした。その姿勢は、民芸思想の発展に重要な基盤を与えただけでなく、国境や制度を越えて共感を集める力を持っています。
日本では、柳宗悦の民芸運動と並び、浅川巧の名が再評価されるようになりました。特に日韓関係の市民交流や教育現場では、彼の生涯が語られる場面も増えています。2000年代には日本各地で展示や講演会が行われ、巧の歩みが次世代に引き継がれようとしています。
彼の人生には、英雄的な劇性はありません。ただ、誠実に暮らし、静かに人と関わり、真摯に自然と対話し続けた一人の姿があります。その等身大の姿こそが、今を生きる私たちにとっての手がかりとなり得るのではないでしょうか。浅川巧の名は、日韓の歴史において、争いではなく、共に生きる可能性を示した静かな光として、確かに刻まれ続けています。
描かれ続ける浅川巧──書物と映像の中で
小説『白磁の人』に見る巧の人物像
浅川巧の生涯を小説というかたちで描いた作品に、江宮隆之の『白磁の人』があります。1994年に単行本が河出書房新社から刊行され、1997年には文庫版も出版されました。この小説は史実に基づきつつも、巧の内面や思想、朝鮮語の習得、住民との交流、兄伯教や柳宗悦との対話など、実際の資料には記録されていない部分を創作的に描くことで、読者の共感を呼んできました。
『白磁の人』の特色は、巧という人物の精神の輪郭を、具体的な行動ではなく、思考や揺らぎの中から立ち上がらせようとしている点にあります。現実の巧が書き残した記録や日記では触れられない内面の声を、小説ならではの筆致で追体験できる構成となっており、事実の解説以上に「生きた存在」としての彼を感じ取ることができます。
またこの作品は、彼が歩んだ人生の「なぜ」に向き合う物語でもあります。なぜ朝鮮へ渡ったのか、なぜその地で人々と暮らすことを選んだのか。問いへの明確な答えはありませんが、読者それぞれが巧の視点から見つめ、考える余白が残されています。これはまさに、事実の奥に潜む「人間」を描こうとした作品の誠実さのあらわれと言えるでしょう。
映画『道〜白磁の人〜』の感動と影響
2012年6月9日に公開された映画『道〜白磁の人〜』は、小説『白磁の人』を原案として制作されました。浅川巧を演じたのは俳優の吉沢悠で、映像ならではの静けさと説得力をもって、巧の穏やかな生き方が丁寧に描かれました。映画は、巧の生き方を描くと同時に、彼と関わる人々の視点からその存在を見つめ直す構成を採っています。
なかでも印象的なのは、映画オリジナルの登場人物である朝鮮人青年・李青林(イ・チョンリム)の存在です。彼の視線を通して描かれる巧の姿は、必ずしも英雄的ではありません。むしろ日々の小さなやりとりの中ににじむ真摯な姿勢こそが、巧の本質であると伝えています。言葉よりも行動で、理屈よりも信頼で人とつながろうとする巧の姿勢は、映像を通じて深く観客の心に届くものとなっています。
映画では創作による演出や脚色もありますが、それは史実を損なうものではなく、むしろ巧という人物の精神的な輪郭をより鮮やかに浮かび上がらせるための手法として機能しています。この作品は日本だけでなく韓国でも上映され、多くの観客に感動を与えました。浅川巧という人物が、国や時代を越えて受け入れられる普遍性を持っていたことを改めて印象づけた作品です。
児童書『かけはし』が伝える想いの継承
子どもたちに向けて浅川巧の人生を紹介する作品として、2020年に出版された児童書『かけはし 慈しみの人・浅川巧』(中川なをみ・著、新日本出版社)があります。この本は、小学生から中学生までの子どもたちを対象に、浅川巧がどのような思いで朝鮮の人々と接し、どんな人生を歩んだのかを、わかりやすい言葉と挿絵で語っています。
この作品で描かれる浅川巧は、はじめから立派な人間として登場するわけではありません。むしろ、自らも学び、悩みながら、少しずつ現地の人々と心を通わせていく様子が丁寧に描かれており、子どもたちが「自分にも何かができる」と感じられるような構成になっています。対等に接すること、違いを越えて分かち合うことの大切さが、巧の行動を通じて自然と伝えられます。
また、日韓の歴史的背景や植民地という重い文脈を抱えながらも、この本は悲しみや怒りよりも「つながりの可能性」に重きを置いて語られており、学校教育の中でも使いやすい教材として位置づけられています。事実を伝えるだけでなく、その背後にある「どう生きるか」という問いを読者に届ける構成は、まさに浅川巧の生き方そのものを反映しています。
このように、浅川巧の人生はさまざまな表現形式を通じて現代に語り継がれています。史実に基づいた記録と、それを土台にした物語化の試みの両方が、彼という人物の奥行きを豊かにし、多様な世代に伝わる力となっているのです。描かれ続けるその姿は、変わらぬ誠実さとともに、時代を超えて静かに語りかけてきます。
共に生きるというまなざし
浅川巧という人物は、ひとつの肩書きや業績だけでは語り尽くせない多面性を持っていました。林業技師として荒廃した山に命を吹き込み、文化記録者として無名の陶工の技に光を当て、生活者として朝鮮の民と心を通わせたその姿には、一貫して「他者と共に在る」という深い思想が流れていました。彼は声高に理想を語ることなく、日々の行いを通じて信念を示し、それが今なお人々の心に残り続けているのです。時代が変わっても、誰かを敬い、違いを認め、静かに寄り添う姿勢の価値は変わりません。描かれ、語り継がれる浅川巧の人生は、現代に生きる私たちに、隣人とどう向き合うべきかを問いかける確かな手がかりとなるはずです。
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