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神尾春央とは?享保の改革を支えた“苛斂誅求”の勘定奉行の生涯

こんにちは! 今回は、江戸時代中期に活躍した勘定奉行、神尾春央(かんお はるひで)についてです。

享保の改革を支え、幕府の財政再建に尽力した一方で、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と言われるほど苛烈な徴税政策を推し進めた人物としても知られています。

農民からは強く憎まれたものの、幕府にとっては改革の功労者だった神尾春央の生涯を詳しく見ていきましょう。

目次

下嶋家に生まれ、神尾家の養子となる

名門旗本の家に生まれた少年時代

神尾春央(かんお はるひで)は、1685年(貞享2年)に江戸で生まれました。彼の生家である下嶋家は、幕府に仕える旗本の家柄であり、祖父や父も幕府の財政に関わる職務を担っていました。そのため、春央も幼少期から経済や財政に関する知識を学ぶ環境にありました。

特に、母方の祖父である稲葉重勝は、かつて幕府の勘定方(財務を司る役職)に関わった人物であり、春央は幼いころから祖父の話を通じて幕府財政の実情や問題点について知る機会が多かったとされています。父の下嶋重恒もまた財政に通じており、家の中では日々、幕府の収支や年貢徴収の方法、財政管理の難しさについて議論が交わされていました。

このような環境の中で育った春央は、早くから計算能力や財政に関する知識を身につけ、わずか十歳のころには家の帳簿管理を任されるほどの才覚を示していたと伝えられています。さらに、彼は『算用大全』や『万民宝訓』といった当時の財政・経済書を読みこなし、独自に財政理論を構築するほどの秀才でした。

神尾家の養子となった意外な経緯

春央が神尾家の養子となったのは、1700年(元禄13年)のことでした。当時、神尾家は代々勘定所に関わる旗本の家柄でしたが、後継者に恵まれず、財政の専門家を養子として迎える必要がありました。一方で、下嶋家も幕府財政に関与する家柄であり、春央の財政的才能はすでに一部の官僚の間で評判になっていました。

神尾家の当主である神尾春政は、春央の能力を高く評価し、自ら幕府に働きかけて養子縁組を実現させたといわれています。なぜ神尾家が彼を選んだのか。その理由は、すでに若年ながら幕府財政の仕組みに通じ、優れた計算能力を持っていたこと、そして将来的に勘定奉行として幕府の財政改革に貢献できる逸材と見なされたからでした。

しかし、この養子縁組は春央にとっても大きな決断でした。なぜなら、彼は本来なら下嶋家の跡を継ぐ立場にあったからです。しかし、彼の才覚を理解していた父の下嶋重恒は、「幕府の財政を支える大任を果たすべきだ」として、春央の養子入りを後押ししたと言われています。こうして、十五歳の春央は神尾家の跡取りとなり、正式に幕府財政を担う家の一員として歩み始めました。

幼少期から見せた驚くべき才能

春央の並外れた才能は、養子縁組が決まる以前から周囲を驚かせていました。例えば、十三歳のとき、父の仕事を手伝っていた際に、当時の幕府の年貢収入に関する資料を見て、収支バランスの問題点を指摘したという逸話があります。

このとき、彼は「幕府の財政は農民からの年貢に大きく依存しているが、徴税制度が一貫しておらず、地域ごとに不公平が生じている。このままでは財政難に陥る」と父に進言しました。これに驚いた父は、その意見を同僚の幕府官僚にも伝え、後に春央の名前が財政担当者の間で広く知られるようになりました。

また、十四歳のころには、実際に江戸の米市場の動向を観察し、年貢米の流通における問題点を詳細に分析した記録が残っています。当時の米市場では、大商人による投機が横行し、年貢米の価格が安定しない問題が生じていました。春央は、幕府が市場に一定の規制を加え、米価の変動を抑えるべきだと提言しましたが、当時はまだ若すぎるため、その意見が正式に採用されることはありませんでした。しかし、このエピソードは、彼がすでに財政改革の必要性を理解し、独自の視点を持っていたことを示すものとして後に語り継がれました。

春央のこうした才能は、幕府の財政に深く関与する立場となる未来を予感させるものであり、神尾家の養子となったのも、このような非凡な才覚が評価されたからこそでした。

経済官僚としての歩み

幕府財政の未来を憂いた若き才人

神尾春央が本格的に幕府財政に関わり始めたのは、1705年(宝永2年)、二十歳のときでした。神尾家の養子となったことで、彼は幕府の財政を担う官僚としての道を歩むことが確定していました。当時の幕府財政は、戦国時代の混乱を経て一応の安定を見せていたものの、浪費が多く、長期的な視点での改革が求められていました。特に、五代将軍徳川綱吉の治世では「生類憐みの令」による支出増大や、貨幣改鋳によるインフレの影響が問題視されていました。

春央は、まず幕府の勘定所(財務を司る部署)に配属されました。ここで彼は、膨大な収支データを分析しながら、幕府財政の現状を詳細に把握していきました。若くして高い計算能力と分析力を示したことで、上司や同僚からも一目置かれる存在となりました。彼は、当時の財政問題について独自に調査を行い、特に「年貢徴収の効率化」と「幕府の支出削減」が急務であると考えました。

1707年(宝永4年)、彼は勘定組頭の堀江荒四郎芳極と共に、江戸城で財政問題についての意見を求められる機会を得ました。この場で春央は、幕府財政の現状を鋭く指摘し、将来的な改革の必要性を訴えました。彼の意見はその場では直ちに採用されることはありませんでしたが、後の改革の布石となるものだったのです。

勘定所での活躍—評価を高めた実績とは?

勘定所での業務の中で、春央は特に年貢収入の管理と財政支出の見直しに力を注ぎました。1711年(正徳元年)、彼は江戸周辺の村々に派遣され、実際の徴税の現場を視察する機会を得ました。そこで目の当たりにしたのは、地方の徴税制度が不統一で、収入にばらつきがあるという現実でした。例えば、同じ石高の村であっても、年貢率が異なることがあり、一部の村では年貢の未納が続いているにもかかわらず、幕府の監査が行き届いていないという問題がありました。

彼はこの不均衡を是正するために、年貢の徴収基準を統一する案を提出しました。これは、後に彼が導入する「有毛検見取法」に繋がる考え方の基礎となったものです。さらに、1713年(正徳3年)には、幕府の出納記録を詳細に調査し、無駄な支出を洗い出す業務にも携わりました。その結果、幕府が浪費していた予算の一部を削減することに成功し、彼の手腕が高く評価されることになりました。

卓越した財政管理能力が生んだ信頼

春央が幕府内で信頼を得る決定的なきっかけとなったのは、1716年(享保元年)、徳川吉宗が八代将軍に就任したときでした。吉宗は、幕府の財政改革を最優先課題とし、「享保の改革」を推進しようとしていました。その際、財政に明るい官僚を求めた吉宗の側近が目をつけたのが、若き神尾春央でした。

当時、幕府は深刻な財政難に陥っており、特に米価の安定と年貢収入の増加が急務でした。吉宗は、財政改革のために松平乗邑を老中として抜擢し、彼のもとで財政再建を進める計画を立てました。このとき、松平乗邑と親交のあった春央は、財政改革の実務を担う人物として重用されることになりました。

1717年(享保2年)、春央は勘定吟味役に昇進し、幕府の予算編成を担当することになりました。彼は、幕府の収支バランスを保つために、支出削減と増税の両面からアプローチを試みました。その一環として、江戸の町奉行所とも連携し、幕府の浪費を抑えるための支出規制を提案しました。これにより、無駄な出費が削減され、財政再建の第一歩が踏み出されました。

また、彼は年貢収入の増加策として、新たな徴税制度の導入を模索しました。このときに彼が提案したのが、「有毛検見取法」と呼ばれる新しい年貢算定法でした。これは、農民が実際に収穫した量を基に課税する制度で、従来の固定税率よりも幕府にとって有利な方式でした。彼の提案は、将来的な年貢収入の増加に繋がるものとして注目され、吉宗の財政改革の一環として取り入れられることになりました。

こうした実績を積み重ねた春央は、次第に幕府内での信頼を確立していきました。そして、彼の財政手腕が本格的に試されることになるのが、次の「勘定奉行」への昇進でした。

勘定奉行への昇進とその影響

財政改革の旗手として抜擢された理由

神尾春央が勘定奉行に任命されたのは、1722年(享保7年)のことでした。享保の改革が本格化する中で、幕府財政の立て直しが急務となり、財政管理の手腕に優れた人物が求められていました。そこで、若くして財政の専門家として名を馳せていた春央が、徳川吉宗の信頼を受けて勘定奉行に抜擢されたのです。

当時の幕府財政は、度重なる大名への貸し付けや公費の増大により、深刻な赤字を抱えていました。特に、幕府の収入の大部分を占める年貢の徴収に問題がありました。各地の農村では、実際の収穫量と異なる年貢算定が行われ、幕府にとって不利な状況が生まれていました。こうした問題を解決するため、春央は勘定奉行に就任するとすぐに、新たな年貢徴収制度の改革に着手しました。

また、彼の抜擢には、松平乗邑の強い推薦も影響を与えていました。松平乗邑は、享保の改革の中心人物として吉宗を支えた老中であり、神尾春央とは以前から勘定所で共に財政再建に取り組んできた間柄でした。松平は、春央の卓越した分析力と計算能力を高く評価し、財政改革を推進するためには彼のような実務能力の高い官僚が必要であると吉宗に進言しました。こうして、幕府財政の要となる勘定奉行という重職に、37歳の春央が就任することになったのです。

徳川吉宗が神尾春央に託したものとは?

徳川吉宗が享保の改革を進めるにあたり、最も重視していたのが「倹約」と「財政の安定」でした。吉宗は、将軍に就任した当初から幕府の支出を削減するため、武家や公家に対して節約を求める倹約令を発令していました。しかし、支出の削減だけでは根本的な財政問題の解決には至らず、さらなる収入の確保が不可欠でした。そこで、彼は勘定奉行となった春央に対し、幕府の財政基盤を強化する具体的な政策の立案と実施を命じました。

吉宗が特に春央に託したのは、年貢収入の増加と幕府の財政管理体制の強化でした。年貢収入の増加については、春央がすでに提案していた「有毛検見取法」を本格的に導入し、より正確な年貢算定を行うことで幕府の収入を増やすことが期待されていました。さらに、幕府内の出納管理を厳格化し、収支の透明化を図ることで、財政の安定を目指しました。

また、吉宗は、これまでの財政運営において見過ごされていた「隠田(かくしだ)」の摘発強化も春央に命じました。隠田とは、農民や寺社が幕府に申告せずに密かに耕作していた土地のことであり、これが多数存在していることが幕府の財政を圧迫する要因となっていました。春央は、この隠田を徹底的に洗い出し、新たな収入源として活用する政策を進めることになったのです。

享保の改革における影の立役者

享保の改革は、財政再建を目的とした吉宗の一大改革でしたが、その実務を担ったのが神尾春央でした。彼は勘定奉行として、幕府の財政を根本から見直し、徴税制度の改革を推し進めました。

その中でも、特に重要な成果として挙げられるのが、1723年(享保8年)に本格導入された「有毛検見取法」です。この制度は、農民が実際に収穫した穀物の量を基に年貢を決定する方式であり、それまでの固定税率に比べて幕府側にとって有利な制度でした。これにより、年貢の徴収額が増加し、幕府の収入は着実に改善されていきました。

また、彼は隠田摘発の徹底を図るため、各地に監察官を派遣し、厳しい監視体制を敷きました。1724年(享保9年)には、関東一円で大規模な隠田調査を実施し、多くの未申告の耕作地を発見しました。これにより、新たに幕府の財政に組み込まれる収入が生まれ、財政の安定化に寄与することとなりました。

しかし、こうした政策は農民にとっては負担増となり、不満が高まる要因にもなりました。特に、増税政策の影響を直接受けた地方の農民たちは、次第に幕府に対する反発を強めていきました。このような影の部分があったものの、春央の政策によって享保期の幕府財政は大きく改善され、吉宗の改革は一定の成功を収めることとなりました。

こうして、神尾春央は勘定奉行として幕府財政の中心的役割を担い、享保の改革の実現に向けて尽力しました。しかし、その後のさらなる徴税強化が、やがて農民の不満を爆発させる要因となっていきます。

年貢増徴政策の推進者として

有毛検見取法導入—年貢徴収の新たなルール

神尾春央が勘定奉行として財政改革を推し進める中で、最も大きな影響を与えた政策の一つが「有毛検見取法」の導入でした。これは、1723年(享保8年)に正式に採用された新しい年貢徴収制度であり、農民の実際の収穫量を調査し、それに応じて年貢を課す方式です。従来の年貢制度は、一定の税率を固定して徴収する「定免法」が一般的でしたが、この制度では農民の収穫状況に関わらず一定の年貢を納める必要がありました。そのため、凶作の年でも負担が重く、一方で豊作の年でも幕府の収入は増えませんでした。

有毛検見取法は、この問題を解決するために導入されました。毎年の収穫量に基づいて課税することで、幕府の収入を最大化することを目的としていました。検見取の方法としては、幕府の役人が各村に派遣され、田畑の収穫量を現地で直接調査するというものでした。この方式により、幕府は豊作時には増収を確保し、凶作時には減税することで農民の負担を軽減できると考えられていました。

しかし、実際には役人による調査が恣意的に行われることが多く、農民にとっては重い負担となりました。特に、幕府の財政難を補うために、検見取の際に過大な収穫見積もりが行われることがあり、結果として年貢の負担が増してしまうこともありました。神尾春央は、この制度の導入によって財政の安定化を図りましたが、農民たちにとっては新たな苦しみを生むことにもなったのです。

隠田摘発の徹底強化—逃れられぬ監視網

享保期の財政改革において、神尾春央が特に力を入れたのが「隠田(かくしだ)」の摘発でした。隠田とは、本来幕府に申告すべき耕作地を農民や寺社が密かに耕し、年貢を逃れていた土地のことを指します。幕府にとっては、隠田の存在が財政を圧迫する大きな要因の一つであり、その取り締まりは急務でした。

1724年(享保9年)、神尾春央は隠田の実態を徹底的に調査するよう命じ、全国規模での監査を実施しました。各地の村役人には、隠田の申告を義務づけるよう指示し、これに違反した者には厳しい罰則を科す方針を打ち出しました。さらに、幕府の目が届かない地域では、密告制度を活用し、農民同士に監視させることで隠田の摘発を強化しました。

この取り組みの結果、1725年(享保10年)までに関東・近畿地方を中心に数万石もの隠田が発見され、幕府の財政に新たな収入源が加わることになりました。しかし、この政策は農民たちにとっては大きな圧迫となり、生活を脅かすものでした。特に、年貢を逃れるために密かに開墾した土地を頼りに生活していた貧しい農民にとって、隠田摘発は死活問題となりました。こうした農民の不満は徐々に蓄積され、後の一揆の火種となっていったのです。

史上最高の収税高を達成した手腕

神尾春央の主導した年貢増徴政策は、幕府の財政に大きな成果をもたらしました。特に、有毛検見取法と隠田摘発の組み合わせにより、享保年間の幕府の年貢収入はそれ以前と比較して飛躍的に増加しました。1726年(享保11年)には、幕府の年貢収入が過去最高となる400万石に達し、財政の立て直しが進んでいることが数字の上でも明らかになりました。

しかし、こうした成功の裏には、農民たちの負担の増大がありました。増税政策が続く中で、農村部では疲弊する農民が増え、生活が成り立たなくなる者も多く出ました。特に、年貢の厳格化により、飢饉の際の備えが不足し、農民の生活がより脆弱になるという問題も生じました。

また、幕府内部でも、過度な徴税が長期的に見て農業生産を衰退させるのではないかとの懸念が広がり始めました。老中の松平乗邑との間でも、財政収入を重視する春央の方針と、農村の安定を重視する松平の考えとで意見が対立することが増えていきました。この対立は後の政局にも影響を与え、春央の立場にも徐々に影を落とすことになります。

こうして、神尾春央の手腕によって幕府の収税高は大幅に増加し、享保の改革の財政的基盤が築かれました。しかし、その一方で、農民たちの不満もまた大きく膨らんでいきました。次の章では、春央の政策がどのように農民一揆へとつながっていったのか、その具体的な経緯を見ていきます。

中国地方での徹底的な徴税政策

農民を苦しめた苛烈な徴税の実態とは?

神尾春央が勘定奉行として全国の徴税制度を改革する中で、特に厳格な徴税政策が実施されたのが中国地方でした。この地域は、瀬戸内海の交易を利用した商業経済が発達し、一部の藩では裕福な農民層も存在していました。しかし、幕府の財政再建のために課せられた年貢増徴策は、こうした地域に対しても容赦なく適用されました。

1726年(享保11年)、幕府は中国地方の年貢徴収体制を強化するため、春央の指示のもとで大規模な収穫調査を実施しました。この調査は、有毛検見取法の徹底を目的としており、村ごとに幕府の役人が派遣され、収穫量を詳細に調査しました。しかし、この調査の過程で、実際の収穫量よりも過大に評価される事例が多発し、結果として農民の負担はさらに増大することになりました。

また、中国地方は山間部が多く、灌漑設備の整っていない地域では収穫が不安定でした。しかし、幕府の年貢徴収は一律の基準で行われたため、収穫の少ない村でも高い年貢を課せられることがありました。特に岡山藩や広島藩では、年貢の未納が発生すると厳しい取り立てが行われ、家財の差し押さえや追放処分を受ける農民が続出しました。

この苛烈な徴税政策は、次第に農民の反発を生むことになり、各地で不満が蓄積されていきました。やがて、この状況が大規模な農民一揆へと発展していくことになります。

効率的な徴税システムを確立した改革者

一方で、神尾春央の財政政策は、幕府の徴税システムの効率化という点では確実に成果を上げていました。彼は、年貢の徴収漏れを防ぐために、村々の帳簿管理を厳格化し、二重帳簿を用いた監査制度を導入しました。これにより、村役人が意図的に年貢額を少なく申告することを防ぎ、より正確な収税を実現しました。

また、徴税の過程での不正を防ぐため、幕府の役人による定期的な巡察を義務づけました。春央は、年貢の徴収が厳しすぎれば農民の生活が困窮し、結果的に幕府の長期的な収入も減少すると考えていました。そのため、一部の地域では「年貢の分割払い」を認めるなど、柔軟な徴税制度も取り入れました。

しかし、こうした制度改革が実際に農民の負担軽減につながったかというと、必ずしもそうではありませんでした。幕府の監査が厳しくなるにつれ、農民はより正確な年貢を支払わざるを得なくなり、負担は増える一方でした。また、春央の改革はあくまで「幕府の利益を最大化する」ことを目的としていたため、農民の生活向上にはほとんど寄与しませんでした。

地方行政と幕府—緊迫した駆け引きの舞台裏

中国地方での徴税政策をめぐっては、幕府と地方行政の間で激しい駆け引きが行われていました。多くの藩では、幕府の徴税方針に対して強い反発があり、藩主たちは独自の政策を維持しようとしました。例えば、岡山藩では、幕府の年貢増徴に対して「独自の減免措置」を講じようとしましたが、幕府からの圧力によって断念せざるを得ませんでした。

さらに、幕府の財政政策を遂行する現地の代官たちの間でも意見が分かれました。春央の方針を忠実に実行する代官もいれば、農民の不満を抑えるために緩やかな徴税を行う者もいました。この対立は、やがて幕府内部でも意見の分裂を招き、老中の松平乗邑と神尾春央の間でも意見の食い違いが表面化することになりました。

こうした地方行政と幕府の間の軋轢は、最終的に農民の生活に直接的な影響を及ぼしました。幕府の厳格な徴税方針に対抗する術を持たなかった農民たちは、次第に一揆という形で不満を爆発させていくことになります。次の章では、こうした徴税政策が引き金となった農民一揆と、それに対する幕府の対応について詳しく見ていきます。

農民一揆との対峙と幕府の対応

摂津・河内延享2年一揆—怒れる農民たちの決起

神尾春央が推し進めた年貢増徴政策と隠田摘発の強化は、全国の農村に大きな影響を及ぼしました。特に負担が重かったのは、比較的肥沃な土地を持ちながらも、幕府の年貢基準の厳格化によって重税を課せられた地域でした。こうした不満が最も大規模な形で噴出したのが、1745年(延享2年)に起きた「摂津・河内延享2年一揆」でした。

この一揆は、大坂周辺の摂津国・河内国で発生し、最終的には1万人以上の農民が参加する大規模なものとなりました。一揆の発端は、前年の1744年(延享元年)に幕府が発令した新たな年貢率の引き上げでした。幕府は、前年の豊作を理由に年貢の増額を決定しましたが、これに対し農民たちは「豊作だったのは一部の地域に過ぎず、全体としては増税に耐えられない」として強く反発しました。さらに、隠田摘発によって新たに課税対象とされた農民たちが「これまでの生活が成り立たなくなる」と訴え、一揆の準備が進められました。

1745年6月、一揆の指導者たちは、摂津・河内の各村から農民を集め、大坂城下で直訴を試みました。しかし、幕府の役人たちはこれを受理せず、逆に一揆の扇動者を取り締まる方針を示しました。これに激怒した農民たちは、庄屋や代官所を襲撃し、年貢の記録を焼き払うなどの行動に出ました。一部の村では、役人を追放し「年貢減免」を掲げた自治的な運動も展開されました。

幕府の厳格な鎮圧策と神尾春央の決断

この事態に対し、幕府はすぐに鎮圧のための手を打ちました。勘定奉行として一揆の発端を作ったともいえる神尾春央は、迅速な対応を求められました。彼は、幕府の方針として「一揆の拡大を防ぐためには、早急に厳しく処罰することが必要」と判断し、大坂城代に命じて討伐隊を編成させました。

幕府はまず、一揆の指導者を捕縛することを優先しました。大坂城下や摂津・河内の村々に密偵を送り込み、誰が主導しているのかを調査させました。その結果、十数名の農民リーダーが特定され、彼らはすぐに捕らえられました。そして、見せしめとして数名が斬首刑に処され、残りの者も重い刑罰を科されました。

さらに、幕府は「一揆参加者の村々には特別年貢を課す」という厳罰を決定しました。これにより、すでに困窮していた農村にさらなる負担がかかることになりました。一部の村では、幕府の報復を恐れた庄屋や名主が農民に対し「二度と一揆には参加しないように」と誓約させる事例も見られました。こうした徹底的な弾圧により、一揆の動きは数ヶ月以内に鎮静化しました。

しかし、この強硬策には幕府内でも異論がありました。老中の松平乗邑は「一揆は農民の苦境の結果であり、むしろ税制を見直すべきではないか」と主張しましたが、春央は「年貢の取り立てを緩めれば幕府の財政は立ち行かなくなる」として、あくまで厳格な徴税政策を維持する立場を取りました。この意見の対立は、後に春央の政治的立場を不安定にする要因となっていきます。

農民の恨みを買った政策、その真相

摂津・河内延享2年一揆の鎮圧後も、農民の不満は根強く残りました。一揆の直接の参加者は処罰されたものの、それ以外の多くの農民も依然として生活に苦しんでいました。特に、幕府の厳格な徴税政策は続き、農民たちの間では「このままでは次の飢饉に耐えられない」という危機感が高まっていきました。

また、一揆が起こった背景には、単なる増税政策だけでなく、幕府の徴税システムの変化も影響していました。かつての年貢徴収は、村ごとに負担を分散し、庄屋や名主がある程度の裁量を持つことができました。しかし、春央の改革によって、徴税の透明性が向上した反面、農民の実情を考慮する余地がなくなりました。このため、過去であれば免除されたはずの状況でも年貢が徴収されるようになり、農民の反発が増大したのです。

加えて、一揆の鎮圧後、幕府は農村の監視体制をさらに強化しました。密告制度が奨励され、農民同士が監視し合う状況が生まれました。これにより、農民の不満が表立って爆発することは少なくなりましたが、幕府に対する不信感は根強く残りました。こうした状況は、後の時代におけるさらなる一揆や反乱の温床となっていきました。

神尾春央の政策は、幕府の財政を立て直すうえで一定の成果を上げたものの、農民の生活を圧迫し、多くの恨みを買う結果となりました。そして、この厳格な徴税政策に対する批判が次第に高まり、彼の影響力にも陰りが見え始めます。

権力の絶頂と影響力の低下

松平乗邑との蜜月から対立へ—何があったのか?

神尾春央が勘定奉行として幕府の財政を掌握し、権力の絶頂を迎えたのは、享保の改革が本格的に進んでいた1720年代後半から1730年代前半にかけてのことでした。この時期、彼は老中である松平乗邑と緊密に協力し、幕府の財政基盤を固めるための諸政策を次々と実行しました。特に、有毛検見取法の導入や隠田摘発の強化など、春央の主導する改革は、幕府の財政を大きく改善する成果を上げていました。

しかし、次第に二人の間には意見の対立が生じるようになりました。その原因の一つは、農村社会の安定をめぐる考え方の違いでした。松平乗邑は、財政の安定と同時に農民の負担を軽減し、長期的に農村経済を持続可能なものにすることを重視していました。一方、春央は短期間での財政改善を最優先とし、年貢の増徴や厳格な徴税政策を推し進めていました。この方針の違いが、次第に二人の関係に亀裂を生むことになったのです。

特に、摂津・河内延享2年一揆(1745年)に対する幕府の対応をめぐって、両者の意見は大きく対立しました。松平乗邑は、「一揆は農民の生活苦が原因であり、税制の見直しが必要だ」と主張しましたが、春央は「増税を緩めれば財政再建が頓挫する」として、あくまで厳格な徴税を維持する立場を崩しませんでした。この対立は幕閣内にも波及し、次第に春央は孤立を深めていくことになりました。

強まる徴税政策への批判と求められる変化

享保の改革が進むにつれて、春央の主導する財政政策に対する批判が増していきました。確かに、彼の施策によって幕府の財政は一時的に改善されましたが、その裏で農民の負担は過酷なものとなり、各地で不満が高まりつつありました。特に、隠田摘発の強化や年貢の厳格化は、地方の農村社会に深刻な影響を与えていました。

また、春央の政策は、一部の有力大名や旗本からも反発を招いていました。幕府の収入を増やすため、彼は諸藩に対しても財政健全化を求め、余剰資金の上納を命じることがありました。これに対し、一部の大名は「幕府の財政のために藩の財政が圧迫されるのは本末転倒だ」として反発し、老中や若年寄を通じて春央の政策に異議を唱えるようになりました。

こうした状況を受け、幕府内では「徴税政策の見直し」が議論されるようになりました。特に、松平乗邑が主導する一部の幕閣は、「農民の負担を軽減し、長期的な財政安定を図るべきだ」との意見を強め、春央の方針を修正しようと試みました。こうした動きの中で、次第に春央の影響力は低下していくことになりました。

失われていく影響力、神尾春央の苦悩

1748年(寛延元年)、神尾春央は勘定奉行の職を退くことになりました。彼の退任は、表向きは「高齢のため」とされましたが、実際には長年の増税政策に対する反発や、松平乗邑をはじめとする幕閣内の圧力が影響していたと考えられます。幕府内では、彼の厳格な徴税方針を修正し、農村の安定を重視する新たな政策への転換が求められていました。

退任後の春央は、幕府の財政顧問として一定の影響力を持ち続けたものの、かつてのように改革を主導する立場ではなくなりました。また、彼の財政政策が一時的な成功を収めたにもかかわらず、長期的には農村経済の疲弊を招いたことが、後の時代に批判される要因となりました。

彼自身も、晩年には自らの政策の影響について考えを巡らせていたと伝えられています。特に、彼が推進した隠田摘発や増税が結果的に一揆を引き起こし、農民の生活を圧迫することになったことについては、少なからず悔恨の念を抱いていたとも言われています。しかし、彼は最後まで「幕府の安定のために必要な政策だった」と主張し、自らの財政改革を正当化し続けました。

こうして、神尾春央は幕府の財政を一時的に立て直すという大きな役割を果たしながらも、その代償として多くの農民の恨みを買い、政治の舞台から退くことになったのです。

晩年と歴史的評価の変遷

静かに迎えた晩年、その最期とは?

勘定奉行を退任した神尾春央は、1748年(寛延元年)以降、幕府の財政顧問として一定の影響力を持ち続けました。しかし、享保の改革を主導した中心人物としての役割は終わり、幕府の財政政策も彼の厳格な徴税方針から徐々に緩和策へと移行していきました。

春央は、退任後も幕府の財政状況を注視していましたが、幕閣内の権力争いや政策転換には深入りせず、比較的穏やかな生活を送ったとされています。彼は、江戸の神尾家の屋敷に留まり、若い官僚たちの相談役として幕府の財政運営について助言を与える立場にありました。しかし、彼の財政政策に対する評価は分かれ始めており、幕府内でも「短期的には効果を上げたが、長期的には農民の疲弊を招いた」とする批判が強まっていました。

晩年の彼は、書物の執筆や財政記録の整理に時間を費やしたと伝えられています。特に、彼が遺した財政報告書には、享保年間の財政改革の詳細や、年貢徴収の仕組み、幕府の収支バランスについての考察が記されていました。これは後に歴史資料として重要視されることになります。

1755年(宝暦5年)、神尾春央は江戸の自邸で静かに生涯を終えました。享年70。彼の死は大きく報じられることはなく、幕府からも公式な評価が下されることはありませんでした。しかし、彼が残した政策とその影響は、江戸時代後期の財政運営に大きな影響を与え続けました。

名官僚か、それとも暴政者か?—評価の分かれる理由

神尾春央の評価は、時代によって大きく変遷してきました。彼が生きた時代においては、財政を立て直した名官僚として高く評価される一方で、農民にとっては苛烈な増税政策を推し進めた人物として強い反感を買っていました。特に、一揆の原因を作ったとされる点では、彼に対する否定的な評価が根強く残りました。

幕府の立場から見れば、春央の財政改革は短期間で財政の安定をもたらし、享保の改革の成功を支えた功績がありました。しかし、その手法は極めて厳格であり、農民だけでなく、大名や旗本からも反発を受けました。彼の政策が長期的に農業生産を衰退させ、幕府の収入基盤を弱体化させたとする意見もあります。

また、春央の政策が後の財政危機の原因となったとも指摘されています。彼の厳格な徴税政策は、農民の不満を増幅させ、後の時代における一揆の頻発を招いたとする歴史観もあります。実際、享保の改革以降、江戸時代後半には大規模な農民一揆が増加し、幕府の統治基盤が揺らぐ要因の一つとなりました。この点で、彼の政策は短期的な成功を収めたものの、長期的には問題を生んだともいえるのです。

現代歴史学が見直す「神尾春央」という人物

近年の歴史研究では、神尾春央の評価が見直される傾向にあります。従来の「苛政の象徴」としてのイメージだけでなく、財政官僚としての卓越した手腕や、幕府財政の透明化に貢献した点が再評価されつつあります。

例えば、彼が導入した有毛検見取法は、一見すると農民にとって過酷な制度に見えますが、実際には幕府の収入を安定させ、一定の経済的合理性を持った制度であったとする意見もあります。また、隠田摘発の強化は、幕府の財政基盤をより正確に把握するための手段であり、当時の国家運営の観点からは必要な政策だったとも考えられています。

さらに、近年の研究では、彼が幕府財政のデータ管理を厳格化し、後の勘定奉行制度の基盤を整えた功績も注目されています。春央が作成した財政記録は、幕府の財政運営を可視化し、後の官僚たちが参考にする指標となりました。こうした点を踏まえると、彼は単なる厳しい徴税官僚ではなく、幕府財政を近代化する先駆者の一人であったともいえるのです。

しかし、彼の改革が農民の負担を増大させたことは否定できず、その点で「功罪相半ばする人物」としての評価が定着しています。彼の政策は、幕府の短期的な財政安定に貢献したものの、長期的には農村経済の停滞を招き、江戸時代後期の財政難へとつながる要因の一つとなったとも考えられています。

このように、神尾春央は単なる苛政の執行者ではなく、幕府の財政を改革しようとした優れた官僚であったと同時に、その手法の厳しさゆえに多くの反発を招いた人物でした。次の章では、彼が描かれた書物や歴史資料について詳しく見ていきます。

神尾春央が描かれた書物・歴史資料

『西域物語』が語る神尾春央の功績とは?

本多利明が著した『西域物語』は、江戸時代後期に書かれた地理・経済に関する書物であり、日本と海外の貿易や経済政策について論じた作品として知られています。この書の中で、神尾春央の財政政策についても言及されており、彼の改革が江戸幕府の経済基盤に与えた影響について分析されています。

本多利明は、財政政策における神尾春央の厳格さを指摘しつつも、幕府の財政管理能力を向上させた功績を評価しています。特に、有毛検見取法の導入によって幕府の収入が安定し、財政難に苦しんでいた享保年間の幕府財政が一時的に立ち直った点については、「幕府にとって不可欠な改革であった」と述べられています。一方で、農民の生活への影響についても触れられており、「農民にとっては重い負担となり、一揆の要因ともなった」と指摘しています。

『西域物語』は、神尾春央の政策を単なる苛政として批判するのではなく、その背景にあった幕府財政の必要性や、当時の経済状況を踏まえて評価している点が特徴的です。この書を通じて、彼の政策が持つ二面性—すなわち、幕府財政を立て直した功績と、それに伴う農民の負担増—が浮き彫りになっています。

『世界大百科事典』での評価—歴史の中の彼の位置づけ

『世界大百科事典』では、神尾春央を「江戸幕府中期の代表的な財政官僚の一人」と位置づけています。この事典では、彼の政策について客観的な視点から評価がなされており、特に享保の改革における役割が強調されています。

『世界大百科事典』によると、彼の政策は「短期的な財政安定をもたらしたが、長期的には農村経済の停滞を招いた」とまとめられています。具体的には、増税政策が一時的には幕府の財政を潤したものの、農民の生活を圧迫し、結果的に江戸時代後期の財政難の一因となったと指摘されています。また、彼の導入した有毛検見取法や隠田摘発が、幕府の収入を増加させる一方で、農村社会の不安定化を引き起こした点にも言及されています。

さらに、『世界大百科事典』では、彼の政策が後の幕府財政に与えた影響についても分析されています。彼が確立した財政管理の手法は、幕府の財政運営において一定の基準を設ける役割を果たしましたが、その厳格さゆえに柔軟な対応が難しくなり、幕末の財政危機に対応できなかった要因の一つになったと考えられています。このように、現代の視点から見ると、神尾春央の政策は功罪両面を持つものとして評価されています。

『日本史小辞典』が伝える彼の果たした役割

山川出版社が刊行する『日本史小辞典』にも、神尾春央に関する記述があります。この辞典では、彼の役割について「享保の改革期における幕府財政の立て直しを担った勘定奉行」と簡潔に紹介されています。

特に注目すべき点は、彼の政策が幕府の財政運営において「画期的な変化」をもたらしたとされていることです。例えば、有毛検見取法の導入により、それまでの固定税制から実収穫量に応じた年貢徴収へと移行し、幕府の収入がより安定した点が評価されています。また、隠田摘発によって財政の透明化が進んだことも、財政官僚としての功績として挙げられています。

一方で、『日本史小辞典』では、彼の政策が農民の生活を厳しくし、結果的に一揆を引き起こしたことにも触れられています。特に、摂津・河内延享2年一揆の発生を「彼の厳格な徴税政策がもたらした結果の一つ」として位置づけており、農民にとっては負の側面が大きかったと指摘されています。

このように、彼の評価は史料によって異なりますが、共通しているのは「幕府財政に大きな影響を与えた官僚であった」という点です。彼の政策は、一時的には幕府を財政難から救いましたが、その代償として農民の生活を圧迫し、後の時代に問題を残す結果となったのです。

これらの歴史資料を通じて、神尾春央の人物像は単なる苛烈な徴税官僚ではなく、江戸幕府の財政を立て直そうとした改革者としての側面を持っていたことが分かります。

まとめ

神尾春央は、享保の改革期において幕府財政の再建を担った重要な官僚でした。彼の導入した有毛検見取法や隠田摘発の強化は、短期間で幕府の収入を大幅に増やし、財政の安定化に寄与しました。しかし、その一方で農民の負担を増大させ、一揆の引き金となるなど、社会的な混乱を招く要因ともなりました。

松平乗邑との協力と対立、摂津・河内延享2年一揆の鎮圧、幕府内での影響力の低下など、彼の生涯は幕府財政と深く結びついていました。晩年には顧問として助言を続けたものの、次第に幕府の方針は緩和策へと移り、彼の政策は次の時代に引き継がれることなく終わりました。

現代では、彼の政策の功罪が改めて見直されています。短期的な財政再建の成功と、長期的な農村経済の疲弊という二面性を持つ彼の改革は、江戸時代の財政政策を考える上で避けて通れない重要なテーマとなっています。

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