MENU

賀茂真淵とは?万葉集を愛した国学者の生涯と思想

こんにちは!今回は、江戸時代中期を代表する国学者・歌人、賀茂真淵(かもの まぶち)についてです。

『万葉集』研究を通じて日本古来の精神性を探求し、「ますらをぶり」や「高く直き心」といった概念を提唱した真淵。彼の思想は本居宣長をはじめとする弟子たちに受け継がれ、近世の日本思想に大きな影響を与えました。

そんな賀茂真淵の生涯と功績について、詳しく見ていきましょう。

目次

神職の家に生まれた少年時代

遠江国に受け継がれた賀茂家の血統

賀茂真淵は1697年(元禄10年)、遠江国敷知郡(現在の静岡県浜松市)に生まれた。彼の家系である賀茂家は、上賀茂神社の神官を務める家柄を祖とし、代々遠江国で神職を担ってきた。この血統は、古来より神道と深い関わりを持ち、真淵も幼い頃から神職としての務めを学ぶ環境にあった。

遠江国は東海道に面し、京や江戸との往来が盛んな土地であった。そのため、文化や学問に対する意識も比較的高く、学問を志す者にとっては刺激的な環境であった。真淵の父・勝興もまた学問を重んじる人物であり、神道や和歌に造詣が深かったとされる。こうした家風の中で育ったことが、彼の学問への関心を育む基盤となった。

幼少期の真淵は、周囲の大人たちから「物覚えが早く、聡明な子」と評されていたという。彼の幼名は勝則といい、幼少期から書物を好み、神道に関する文献や古典に親しんでいた。特に家に伝わる神道関連の書物を手に取り、その意味を考えながら読むことを楽しんでいたと伝えられている。この時期から、単なる暗記ではなく、物事の本質を探究する姿勢が養われていたのである。

また、遠江国の地理的環境も、彼の学問への関心に影響を与えた。遠江は豊かな自然に恵まれた土地であり、そこに根付く神道の教えは、古代の日本人の精神性を色濃く反映していた。真淵は幼い頃から神社での祭祀に参加し、日本古来の信仰や儀式を目の当たりにすることで、古代文化への興味を強めていったのである。

神職の家で培われた学問への志向

賀茂家に生まれた真淵にとって、学問は特別なものではなく、日常の延長線上にあった。神職としての務めを果たすためには、祝詞や古典の知識が不可欠であり、幼い頃からそれらを学ぶことが求められた。父・勝興は、神道だけでなく、和歌や漢詩にも精通しており、息子にも学問を勧めた。こうした環境のもとで、真淵は次第に学問の世界に引き込まれていった。

当時の神職は、単なる宗教儀礼の担い手ではなく、文化や学問を広める役割も果たしていた。神道に関する知識だけでなく、歴史や和歌、さらには漢学も修めることが必要とされていた。そのため、真淵も幼い頃から漢籍に触れ、『論語』や『詩経』などを読む機会を得た。しかし、彼が本当に関心を抱いたのは、漢学ではなく、日本固有の文学や思想だった。

彼は幼い頃から「なぜ日本には日本独自の学問が少ないのか」という疑問を抱いていた。当時の学問の主流は儒学や仏教の経典であり、日本の古典を研究する者は少なかった。真淵は、漢籍を学びながらも、日本の古典に対する探究心を募らせていった。やがて彼は、漢学の枠を超えて、日本独自の思想や文学を深く研究したいという強い意志を持つようになる。

この時期の学問への志向は、後の国学研究の礎となった。真淵は神職の家に生まれながらも、単なる神道の学習にとどまらず、より広い視野で日本文化を捉えようとしたのである。

幼少期に影響を与えた師や人物たち

幼少期の賀茂真淵に大きな影響を与えた人物の一人に、杉浦国頭がいる。杉浦は遠江国で漢学を教えていた学者であり、真淵は彼のもとで漢籍の基礎を学んだ。杉浦は儒学に精通し、四書五経を講じることで知られていた。真淵は杉浦のもとで『論語』や『孟子』を学び、漢文の素養を身につけた。しかし、彼は同時に「日本にはなぜ孔子や孟子のような思想家がいないのか」と疑問を抱くようになった。

また、遠江国という土地柄、多くの学者や文化人と接する機会もあった。遠江は東海道の要衝であり、京や江戸から知識人が往来する場所だった。旅の途中の学者や詩人たちが語る日本の歴史や文学に触れることで、彼の興味はますます深まっていった。幼少期の彼にとって、こうした出会いは、日本の伝統文化への関心を高めるきっかけとなった。

さらに、彼の家族もまた学問への影響を与えた。特に父・勝興は、神職の務めの傍らで和歌を詠むことを好んでいたと伝えられる。幼い頃から和歌に親しんだ真淵は、次第に和歌の持つ力に魅了されるようになった。彼は、「なぜ和歌はこのように美しいのか」「和歌の本質とは何か」という疑問を抱き、やがて和歌の研究へと進んでいくことになる。

こうして、幼少期の真淵は、家族や師、さらには遠江国という土地の影響を受けながら、日本の学問に対する関心を深めていった。そして、その探究心が後の国学の大成者へとつながっていくのである。

学問への目覚めと最初の結婚

杉浦国頭に学んだ漢学と素養の形成

賀茂真淵が本格的に学問へ目覚めるきっかけとなったのは、遠江国の学者である杉浦国頭のもとで学んだことである。杉浦国頭は、江戸時代初期の儒学者であり、遠江国において漢学を広めた人物の一人だった。彼のもとで真淵は『論語』『孟子』などの儒学の経典を学び、基礎的な漢学の素養を身につけた。

当時、儒学は幕府の学問として重んじられており、多くの知識人が儒学を学んでいた。特に朱子学は幕府の公式な学問とされ、武士階級を中心に広まっていた。杉浦国頭も朱子学に通じており、真淵にその教えを説いた。しかし、真淵は儒学を学びながらも、どこかしっくりこない違和感を覚えていたという。彼にとって、朱子学の論理的な体系は優れたものであったが、日本の文化や精神に必ずしも適合するものではないように感じられたのである。

こうした疑問を抱きながらも、杉浦のもとでの学びは真淵にとって重要な基礎となった。漢学を通じて文章の構成や論理的な思考方法を学び、それが後に彼の国学研究にも活かされることになる。また、杉浦は単に儒学を教えるだけでなく、学問を追究する姿勢の大切さを説いた。真淵はその教えを受け、学ぶこと自体に喜びを見出すようになったのである。

和歌と国学への関心が芽生えた契機

漢学を学ぶ一方で、真淵が特に興味を抱いたのは和歌であった。幼い頃から父・勝興の影響で和歌に親しんでいた彼は、学問を進めるにつれ、和歌の持つ表現の奥深さに強く惹かれていった。

特に彼が感銘を受けたのは、『万葉集』の歌であった。当時の学界では、『万葉集』よりも『古今和歌集』や『新古今和歌集』といった勅撰和歌集が重んじられており、万葉集の研究はそれほど盛んではなかった。しかし、真淵は万葉集に記された和歌の力強さや素朴な言葉遣いに深い魅力を感じた。そこには、当時の日本人の率直な感情や、自然と一体となった生活の姿があり、彼はその表現こそが「日本の本来の姿」ではないかと考えるようになったのである。

この考え方は、後に彼が唱えた「ますらをぶり」の思想へとつながる。ますらをぶりとは、素朴でありながらも力強く、正直な感情を持つ日本人の理想的な精神を指すものである。彼は、平安時代以降の和歌が技巧的になりすぎ、真の日本の精神が失われているのではないかと考え、古代の日本人の感性を探求するようになった。この思想が、後の国学研究の根幹となっていく。

若くしての結婚と変わらぬ学問への熱意

真淵は20代の頃、結婚して家庭を持つことになる。江戸時代の学者にとって、結婚は家の存続や生活の安定のために重要なものであった。彼もまた家族の期待を背負い、結婚を決意した。しかし、結婚後も彼の学問への情熱は衰えることなく、むしろますます深まっていった。

当時、学者が生活を維持するためには、寺子屋の師匠となったり、藩や有力な家の支援を受けたりする必要があった。真淵もまた、学問を続けるために努力を重ねたが、当時はまだ名の知られた学者ではなかったため、安定した収入を得ることは容易ではなかった。しかし、それでも彼は学問を諦めることなく、書物を買い求め、研究を続けた。

特に和歌と日本の古典に対する関心は、ますます強くなっていた。彼は『万葉集』を独自に研究し、その背景にある思想や表現技法を深く掘り下げようとした。さらに、古典の解釈についても従来の学説に疑問を抱き、「本来の日本語の意味を正しく理解することが重要である」と考えるようになった。この姿勢は、後に彼が提唱する「万葉主義」へとつながっていく。

結婚という人生の大きな節目を迎えながらも、真淵の学問への情熱は少しも揺らぐことはなかった。彼にとって、学問とは単なる知識の習得ではなく、日本の精神を探求するための手段だったのである。そして、この情熱が、やがて彼を京都へと向かわせる原動力となっていく。

京都遊学と荷田春満との出会い

京都遊学を決意させた学問への飢え

賀茂真淵は三十代に差し掛かる頃、学問への飢えを強く感じるようになっていました。彼は遠江国で漢学や和歌、古典の研究を続けていましたが、地方での学びには限界がありました。当時、学問の中心地といえば京都や江戸であり、特に京都には優れた学者が多く集まっていました。より深く学び、見識を広げるためには、京都に赴く必要があると考えるようになりました。

また、当時の真淵は国学の研究に本格的に取り組み始めていましたが、十分な指導を受ける機会がありませんでした。彼の関心はすでに日本の古典や和歌に向かっており、『万葉集』や『古事記』の研究を独学で進めていました。しかし、これらの書物の深い理解には、専門的な知識や指導が不可欠でした。特に当時の学界では、日本古来の文献を真正面から研究する学者は少なく、真淵にとっては自身の考えを深めるための師が必要でした。

こうした状況の中、彼はついに京都へ遊学することを決意します。おそらく享保十八年(一七三三年)頃のことであったと考えられます。この頃の真淵はすでに三十代後半に差し掛かっており、学問の道を極めるための大きな転機を迎えようとしていました。

荷田春満との出会いと国学の転機

京都に赴いた真淵にとって、最も大きな出会いとなったのが、荷田春満でした。荷田春満は当時の京都で著名な国学者であり、特に日本の古典を正しく解釈することを重視した学問を展開していました。

春満は幕府の命を受けて『古事記』や『日本書紀』の研究を進めており、彼のもとには多くの学者や門弟が集まっていました。真淵は春満のもとで国学の指導を受けることになり、これが彼の学問にとって大きな転機となりました。特に春満が提唱した「古道説」は、真淵の思想に大きな影響を与えることになりました。

古道説とは、日本の古典を通じて古代日本人の精神や思想を探る学問のことです。春満は、儒学や仏教による影響を受ける以前の日本文化にこそ、真の日本の姿があると考え、それを明らかにしようとしました。真淵はこの考えに深く共鳴し、日本の本来の心を取り戻すことこそが学問の目的であると確信するようになりました。

また、春満は『万葉集』の重要性を説いており、これが後の真淵の研究にも大きく影響を与えました。春満のもとで学んだことにより、真淵は自身の研究の方向性をより明確にし、独自の国学を発展させる決意を固めました。

『万葉集』研究へと踏み出した第一歩

荷田春満の指導のもと、真淵は『万葉集』の研究に本格的に取り組むようになりました。当時の学界では、『万葉集』はまだ十分に研究されておらず、平安時代以降の和歌集に比べると軽視される傾向にありました。しかし、真淵は『万葉集』こそが日本の原初の精神を最もよく表していると考え、独自の視点で研究を進めていくことになります。

彼が注目したのは、『万葉集』に見られる力強い表現や、素朴で率直な歌の数々でした。平安時代以降の和歌が技巧を重視するようになったのに対し、『万葉集』の歌には、古代日本人の生き生きとした感情がそのまま詠み込まれていると考えました。この視点から、彼は「ますらをぶり」という概念を提唱し、日本の和歌の本来の姿を取り戻すことを目指しました。

また、彼は『万葉集』の言葉遣いや文法にも注目し、従来の注釈書に頼らず、自らの解釈を重視した研究を進めました。この姿勢は、後の国学の発展にも大きな影響を与えることになります。真淵の研究は単なる文学研究にとどまらず、言語や歴史、思想の領域にまで及び、国学の基盤を築くことになりました。

こうして京都での遊学を通じて、真淵は国学の道を本格的に歩み始めました。荷田春満との出会いは、彼にとって学問の方向性を決定づけるものであり、その後の研究に大きな影響を与えることになったのです。

江戸での活動と門人の育成

江戸における国学の普及と影響力

京都で荷田春満のもと学問を深めた賀茂真淵は、その後、江戸へと活動の場を移しました。江戸は当時、政治の中心であるだけでなく、学問や文化の発信地でもあり、多くの学者が集う場所でした。特に儒学や朱子学が広く普及し、幕府の政策とも密接に関わる学問として重視されていました。そのような環境の中で、真淵は国学の研究を推し進め、新たな思想の発展に寄与することになります。

江戸での彼の活動は、主に『万葉集』の研究と国学の普及にありました。彼は京都時代から取り組んでいた『万葉集』の解釈をさらに深化させ、従来の注釈とは異なる視点から、日本語の特質や歌の背景にある古代日本人の精神性を探求しました。真淵は『万葉集』を単なる文学作品としてではなく、日本人の精神を知るための重要な資料と位置づけ、学問の根幹に据えました。この考えは「万葉主義」とも呼ばれ、後の国学者たちに大きな影響を与えることになります。

また、江戸での活動を通じて、真淵は国学の思想を広めることにも尽力しました。当時の江戸は学問の発展が進んでおり、多くの武士や町人が学問に関心を持っていました。特に、儒学に代わる新たな日本固有の思想を求める知識人たちの間で、真淵の研究が注目を集めるようになります。彼は各地で講義を行い、国学の重要性を説きながら、多くの門人を育成していきました。

学問の師として高まる名声と門弟たち

江戸での活動を続ける中で、真淵は次第に「国学の師」としての名声を確立していきます。彼の講義は、多くの学者や知識人から高く評価され、江戸の文化人たちの間で次第に影響力を増していきました。特に、彼の門下に入った弟子たちの存在が、国学の普及に大きく貢献することになります。

真淵の弟子の中でも、加藤千蔭、加藤宇万伎、建部綾足といった学者たちは、国学の発展に寄与しました。加藤千蔭は、後に国学者として活躍し、和歌や古典研究を進めました。加藤宇万伎もまた、師の教えを受け継ぎ、日本語の研究に取り組みました。建部綾足は、国学の視点を取り入れた文学作品を著し、当時の文化に影響を与えました。彼らの存在が、真淵の学問が広く受け入れられる要因となりました。

また、真淵は単に弟子に知識を授けるだけでなく、学問の本質的な探求の姿勢を伝えることにも力を注ぎました。彼の講義は、単なる暗記ではなく、なぜその研究が重要なのかを問いかけるものだったと言われています。特に『万葉集』の解釈においては、従来の伝統的な解釈に縛られず、自らの視点を持つことの大切さを強調しました。この指導方法が、後に本居宣長のような優れた国学者を生み出す土壌を作ったのです。

真淵の思想を継承し発展させた弟子たち

真淵の死後、彼の学問は弟子たちによって引き継がれ、さらに発展していきました。その中でも最も有名な弟子が、本居宣長です。本居宣長は、真淵の学問を受け継ぎつつも、自らの研究を深化させ、国学をさらに発展させました。

真淵と本居宣長の出会いは、のちの「松阪の一夜」として語り継がれていますが、実際に真淵の教えを受けたことで、宣長は国学に目覚め、その後の日本思想に多大な影響を与える研究を行うことになります。真淵が「ますらをぶり」の精神を重視したのに対し、宣長は「たをやめぶり」の繊細な美しさを重視するなど、師弟の間には学問の方向性に違いもありましたが、根底にある「日本古来の精神を探求する」という姿勢は共通していました。

また、真淵の学問を受け継いだ弟子たちは、幕府や大名家の支援を受けながら、国学を広める活動を続けました。加藤千蔭は幕府の官職に就きながら学問を発展させ、加藤宇万伎もまた国学の普及に努めました。彼らの活動によって、国学は一部の学者の間だけでなく、広く社会に受け入れられる学問へと成長していきました。

江戸における真淵の活動は、単に研究を深めるだけでなく、国学という学問を体系的に広めることにもつながりました。彼のもとで学んだ弟子たちが、それぞれの分野で国学の研究を進めたことで、彼の思想はより広く、より深く日本の文化に根付いていったのです。

田安徳川家での栄達

徳川宗武の知遇を得て田安家に仕える

賀茂真淵の学問が広く知られるようになると、彼の研究に注目する有力者も現れるようになりました。その中でも特に重要な人物が、田安徳川家の当主であった徳川宗武です。徳川宗武は八代将軍徳川吉宗の次男であり、田安家の祖として知られています。彼は幼い頃から文学や学問に深い関心を持ち、とりわけ日本の古典研究に強い興味を抱いていました。

宗武は従来の朱子学や儒学だけではなく、日本の伝統文化や歴史を重視し、それを学問として確立しようと考えていました。彼は和歌にも造詣が深く、真淵の研究していた『万葉集』に関心を持つようになります。そして、真淵の学問を高く評価し、彼を田安徳川家に招いて学問を指導させることになったのです。

真淵が宗武と出会ったのは、宝暦年間(一七五一~一七六四年)のことであったと考えられます。この頃の真淵はすでに五十代半ばを迎えており、学問的にも成熟し、多くの門弟を育成する立場になっていました。彼は宗武の求めに応じ、田安家に仕えることを決意し、これが彼の学者としての地位をより確立させる契機となりました。

幕府内での学問的支援と影響力の拡大

田安徳川家に仕えるようになった真淵は、宗武のもとで学問を深めながら、幕府内でも一定の影響力を持つようになりました。宗武は将軍家の一門であるため、彼の学問的活動は幕府の知識人たちにも広く知られるようになり、真淵の名前もまた江戸の学者たちの間で広く認識されるようになったのです。

また、宗武は単に真淵から学問を学ぶだけではなく、彼の研究を支援し、学問の普及にも協力しました。真淵が研究を進めるための書籍を集める手助けをしたほか、彼の研究を公の場で発表する機会を与えるなど、様々な形で援助を行いました。これにより、真淵の研究はさらに深まり、特に『万葉集』の解釈において画期的な成果を上げることになります。

さらに、宗武のもとには多くの文化人や学者が集まり、田安家は国学研究の一大拠点となりました。真淵はここで研究を進めるとともに、門弟たちへの指導を続け、日本の古典を深く探究する学問の土壌を築きました。彼の教えを受けた弟子たちは、その後の国学の発展に大きく貢献することになります。

『万葉集』研究の深化とその画期的成果

田安徳川家に仕えながら、真淵が特に力を注いだのが『万葉集』の研究でした。彼はそれまでの注釈とは異なり、『万葉集』の言葉や表現をできるだけ古代の文脈に沿って解釈しようと試みました。従来の学者たちは平安時代以降の視点から『万葉集』を解釈することが多かったのに対し、真淵はより古代の日本語に近い形での解釈を目指しました。

この研究の中で、彼は「ますらをぶり」の概念を明確にし、『万葉集』に見られる力強い表現が日本人の本来の精神を表していると主張しました。これは、従来の和歌研究とは一線を画する考え方であり、後の国学者たちに大きな影響を与えることになりました。また、彼は『万葉集』の文法や用語についても独自の視点を持ち、より精密な言語研究を行いました。

真淵の研究の集大成の一つとして、『万葉考』という書物が挙げられます。これは『万葉集』の注釈をまとめたものであり、従来の解釈とは異なる独自の視点を示したものでした。この書は当時の学者たちの間でも注目され、国学の発展に大きく寄与することになります。

田安徳川家での活動を通じて、真淵の研究はさらに深化し、彼の学問は幕府内外に広がっていきました。彼がこの時期に残した研究成果は、その後の国学の発展に決定的な影響を与え、日本文化の再評価につながるものとなったのです。

松阪の一夜と本居宣長との邂逅

松阪訪問の背景とその意義

賀茂真淵が三重県松阪の地を訪れたのは、宝暦十三年(一七六三年)のことでした。この訪問は、彼の学問的活動の中でも特に重要な出来事の一つとして知られています。当時、真淵はすでに田安徳川家に仕え、『万葉集』の研究や国学の普及に力を注いでいましたが、門人の指導や諸国遊歴にも積極的に取り組んでいました。

松阪は、商業の町として栄えていただけでなく、学問の町としても知られていました。特に伊勢地方には、江戸や京都とは異なる独自の学問文化が根付いており、和歌や国学に関心を持つ人々も多くいました。真淵はこうした知的交流を求め、各地を訪ねながら自らの学問を伝え、また新たな知識を吸収しようとしていたのです。

この松阪訪問が特別な意味を持つのは、この旅の中で後に国学を大成することになる本居宣長と出会ったためです。宣長は当時三十代半ばの青年で、すでに和歌や日本の古典に深い関心を寄せていましたが、本格的な国学研究にはまだ踏み出していませんでした。そんな彼が、自宅近くにやって来た真淵に興味を持ち、直接話を聞く機会を得たことが、彼の学問人生を決定づけることになったのです。

本居宣長との対話と思想の継承

本居宣長と賀茂真淵が出会ったのは、松阪の小津定利(おづさだとし)という人物の家で開かれた歌会の席でした。この席で、真淵は『万葉集』の研究について語り、特に「ますらをぶり」の概念や、日本古来の精神を探求する意義について熱心に説きました。

宣長はこのとき、真淵の言葉に強く感銘を受けたと伝えられています。彼はそれまで、和歌や古典に親しんでいたものの、それを体系的な学問として捉える発想は持っていませんでした。しかし、真淵の語る「日本の本来の姿を探る学問」という考え方に触れたことで、国学という道を本格的に志すようになります。

特に、真淵が説いた「高く直き心」の思想は、宣長に大きな影響を与えました。これは、日本人の精神性の根幹にあるものとして、飾り気のない率直さや、正義を貫く姿勢を重視する考え方でした。宣長はこの思想を受け継ぎながらも、後に「もののあはれ」の概念を提唱し、日本人の感性の美しさを探求する独自の学問へと発展させていきます。

この夜の対話の詳細は明確に記録されていませんが、後に宣長が書き残した文章から、彼が真淵の教えを「生涯忘れ得ぬもの」としていたことがうかがえます。この一夜の出会いは、単なる師弟関係の始まりではなく、日本思想史の大きな転換点となる出来事だったのです。

宣長の国学への目覚めと後世への影響

松阪での出会いの後、本居宣長は真淵の学問を受け継ぎながら、独自の研究を深めていきました。特に『古事記』の研究に取り組み、後に『古事記伝』を著すことで、国学の発展に大きく貢献することになります。これは、真淵が『万葉集』の研究を深化させたのと同じように、宣長が『古事記』の解釈を独自に進め、日本古来の思想を明らかにしようとした試みでした。

また、宣長は師である真淵の思想を継承しつつも、「ますらをぶり」に対して「たをやめぶり」を重視する考えを提唱しました。これは、男性的な力強さを象徴する「ますらをぶり」に対し、繊細で優美な日本人の感性を表す概念でした。宣長の学問は、真淵の学問を基礎としながらも、新たな視点を加えることで、より多面的な日本文化の理解を深めるものとなりました。

このように、松阪の一夜は、真淵から宣長へと国学の精神が受け継がれた象徴的な出来事でした。そして、宣長が後に国学を大成させることで、真淵の思想もまた日本文化の中に深く根付くことになったのです。

県居での研究と執筆活動

晩年を過ごした「県居」の学問環境

賀茂真淵は晩年、江戸での学問的活動を一段落させ、静岡県浜松市にあたる遠江国浜松に帰郷しました。彼が晩年を過ごした屋敷は「県居(あがたい)」と呼ばれ、ここを拠点に研究と執筆に没頭する生活を送りました。「県居」という名は、彼自身が「郷里に隠棲しながらも、学問を続ける場所」として名付けたとされています。

この時期の真淵は、すでに多くの弟子を育て、学者としての名声を確立していましたが、それでも新たな研究をやめることはありませんでした。特に、『万葉集』の研究をさらに深めることに力を注ぎ、国学の体系化に取り組みました。彼にとって「県居」は単なる隠居の場ではなく、学問をさらに発展させるための静かな研究空間だったのです。

また、真淵のもとには多くの弟子や門人が訪れ、学問を求める人々の交流の場にもなっていました。江戸から訪れる学者や、地方の知識人たちが県居に集い、真淵の講義を受けたり、研究の議論を交わしたりすることもあったと伝えられています。このように、彼の学問的影響力は晩年になっても衰えることなく、むしろ深まっていったのです。

門弟たちとの交流と学問の伝授法

県居では、真淵の門人たちとの交流も活発に行われていました。彼の弟子には、本居宣長をはじめとして、加藤千蔭、加藤宇万伎、建部綾足など、後の国学の発展に寄与する学者が多くいました。真淵は弟子たちに対し、単に書物の知識を教えるだけでなく、国学の研究姿勢そのものを伝授していました。

特に、彼が重視したのは、独自の視点を持って研究を進めることでした。当時の学問の多くは、中国の学問である儒学の影響を受けており、日本の古典を研究する際も漢籍の枠組みを通して解釈するのが一般的でした。しかし、真淵はそのような方法を排し、日本の古典は日本の言葉と文化に基づいて解釈されるべきだと説きました。これが、後の国学の重要な理念の一つとなり、弟子たちの研究にも大きな影響を与えました。

また、彼は「問いを持つことの大切さ」を強調していました。例えば、『万葉集』の一首を解釈する際も、単に意味を理解するだけではなく、「なぜこの表現が使われたのか」「古代の日本人はこの歌をどのように受け止めていたのか」といった根本的な問いを立てることを重視しました。このような思考方法は、本居宣長をはじめとする弟子たちに受け継がれ、国学の発展に大きく寄与することになります。

『万葉考』『五意考』執筆の意図と影響

県居での晩年、真淵は数々の著作を執筆し、国学の基礎を築く重要な業績を残しました。その中でも代表的なものが、『万葉考』と『五意考』です。

『万葉考』は、その名の通り『万葉集』の研究書であり、従来の注釈にとらわれず、真淵独自の視点から解釈を試みた画期的な作品でした。彼はこの書の中で、万葉集の和歌に見られる力強く率直な表現に注目し、それが日本人の本来の感性を表していると論じました。また、言葉の用法や文法についても詳細な考察を加え、従来の和歌研究とは異なる新たな視点を提示しました。この研究が、後の国学者たちの間で広く受け入れられ、和歌研究の基礎となることになります。

一方、『五意考』は、日本語の成り立ちと表現の特徴について考察した書物です。真淵はこの書の中で、日本語には五つの基本的な表現の型があり、それを理解することで古典の解釈がより深まると説きました。彼の言語学的な視点は、単に文学研究にとどまらず、日本語の構造そのものを探求する試みとして高く評価されました。これは、後に本居宣長が『古事記伝』で示した言語研究の方法論にも影響を与えたと考えられています。

このように、真淵は晩年においても精力的に研究を続け、国学の基盤を築くための重要な著作を残しました。彼の学問は単なる過去の研究にとどまらず、日本人の精神や言葉の本質を探るものであり、その影響は後世の学者たちによって受け継がれていきました。

国学の大成と晩年

国学発展に果たした役割とその意義

賀茂真淵は、生涯をかけて国学の研究に取り組み、その発展に決定的な役割を果たしました。彼の最大の功績は、日本の古典や和歌を研究し、それを独自の視点で体系化したことにあります。特に『万葉集』を研究の中心に据え、日本人の精神や言葉の本質を探求する姿勢を確立したことは、後の国学の発展に大きく貢献しました。

それまでの学問の主流は、儒学や仏教などの外来思想に基づくものであり、日本の古典を深く掘り下げる学問は限られていました。しかし、真淵は日本古来の精神や文化に焦点を当て、「日本人とは何か」「日本語の本質とは何か」といった根源的な問いを立てました。この考え方は、弟子である本居宣長をはじめとする後の国学者たちに引き継がれ、国学という学問の確立につながっていきます。

また、彼の唱えた「ますらをぶり」という概念は、国学の思想を象徴するものとなりました。これは、素朴で力強く、正直な感情を大切にする日本人の精神を示したものであり、『万葉集』の表現の特徴として位置づけられました。真淵は、この「ますらをぶり」の精神こそが日本文化の根幹にあるべきだと考え、後世の学者に大きな影響を与えました。

さらに、彼は「高く直き心」という思想も重視しました。これは、日本人が持つべき理想の精神性を表すものであり、純粋で正直な心を大切にすることを説いたものです。この考えは、国学の精神的な支柱となり、のちに本居宣長の「もののあはれ」の思想へとつながる重要な要素となりました。

晩年に詠んだ和歌と学問の集大成

晩年の賀茂真淵は、学問の研究だけでなく、和歌の創作にも力を入れていました。彼は『万葉集』の精神を重んじながら、自らも多くの和歌を詠みました。特に、彼の晩年の歌には、自身の学問への思いや、日本の言葉や文化への深い愛情が込められています。

有名な歌の一つに、次のようなものがあります。

「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」

この歌は、日本人の精神を象徴するものとして、後の国学者たちの間でも広く知られるようになりました。「しきしまの大和心」とは、日本人が持つ本来の精神のことであり、それを「朝日に匂う山桜花」にたとえています。これは、真淵が生涯をかけて追求した「日本の本来の姿とは何か」という問いに対する、一つの答えともいえるでしょう。

また、彼は晩年に至っても、学問の探究をやめることはありませんでした。国学をより多くの人に広めるため、弟子たちに学問の重要性を説き続けました。彼の講義を受けた門人たちは、その教えを各地に伝え、国学の思想をさらに広めていきました。

賀茂真淵の死と弟子たちによる遺志の継承

賀茂真淵は、天明元年(一七八一年)、八十五歳でその生涯を閉じました。彼は最期まで学問に対する情熱を失うことなく、研究を続けながら静かに生涯を終えました。その死は、国学の発展にとって大きな損失でしたが、彼の学問は弟子たちによって受け継がれていくことになります。

特に本居宣長は、真淵の学問を継承しながらも独自の研究を深め、国学をさらに発展させました。彼の『古事記伝』は、日本の古典研究の金字塔とされ、真淵の研究を基礎にしながらも、より精密な解釈を加えたものとなっています。また、加藤千蔭や加藤宇万伎などの弟子たちも、国学の研究を進め、各地でその思想を広めました。

真淵の遺志を継いだ弟子たちは、彼の学問をさらに発展させ、日本文化の研究に新たな道を切り開きました。そして、国学という学問は、幕末から明治時代にかけての日本の思想形成にも大きな影響を与え、日本人の精神性を探求する上で欠かせない学問として確立されていきました。

このように、賀茂真淵は自身の研究を通じて、国学の礎を築き、後世に大きな影響を残しました。その学問は、彼の死後も生き続け、日本文化の本質を探る学問として発展していったのです。

書物・研究における賀茂真淵の評価

『江戸の学びと思想家たち』に見る真淵の功績

賀茂真淵の学問的功績は、近代以降の研究においても高く評価されています。特に、辻本雅史による『江戸の学びと思想家たち』では、真淵の思想や国学の発展における役割が詳しく論じられています。この書では、江戸時代の学問の特徴として、儒学や仏教だけでなく、日本の独自の思想が発展していった点に着目しており、その中心的な存在として真淵が紹介されています。

本書では、真淵が「外来思想に頼らず、日本古来の思想や文化を学問の対象としたこと」が、江戸時代の思想界において画期的であったと指摘されています。当時の学問の主流は儒学であり、中国の思想を基盤とすることが当然とされていました。しかし、真淵は『万葉集』を通じて、日本独自の言葉や精神にこそ、日本の学問の根幹があると主張しました。これは、従来の学問の枠組みを超えた、新しい視点をもたらすものだったのです。

また、本書では、真淵が「学問を個人の知識としてではなく、広く社会に役立てるものとして捉えていた」点も強調されています。彼の学問は、単なる研究のための研究ではなく、日本文化の本質を探求し、それを社会に還元することを目的としていました。この姿勢は、後の国学者たちにも受け継がれ、幕末から明治時代にかけての思想形成にも影響を与えたと考えられています。

『賀茂真淵全集』に刻まれた研究の軌跡

賀茂真淵の研究成果は、後に『賀茂真淵全集』としてまとめられ、彼の業績を知るための重要な資料となっています。この全集は、國學院大学を中心に編集され、彼の膨大な著作を網羅しています。特に、『万葉考』『五意考』などの主要な研究が含まれており、彼の学問の全貌を知ることができます。

『賀茂真淵全集』を監修した佐佐木信綱は、近代国文学の発展に大きく貢献した学者の一人であり、彼の視点から見ても、真淵の研究は極めて重要なものでした。佐佐木は、真淵の研究を「日本の言葉と心を正しく理解するための基盤を築いたもの」と評価しており、特に言語学的な視点からの分析に注目しています。

また、『賀茂真淵全集』には、彼の弟子や門人たちとの書簡も収録されており、真淵の学問がどのように継承され、発展していったかを知る上でも貴重な資料となっています。これらの書簡からは、彼が単に研究を深めるだけでなく、弟子たちとの交流を通じて学問を広めていった様子がうかがえます。

国学の基盤を築いた思想とその後の展開

賀茂真淵の思想は、単なる文学研究にとどまらず、日本の文化全体に対する深い考察を含んでいました。彼が提唱した「ますらをぶり」や「高く直き心」といった概念は、日本人の精神性を表すものとして、後の学者たちにも影響を与えました。

彼の研究がもたらした最も大きな成果の一つは、「日本の学問が独自の体系を持ち得ることを示した点」にあります。それまでの学問は、中国の思想を基盤とすることが常識とされていましたが、真淵は日本の古典を研究することで、日本独自の思想体系を構築できることを証明しました。この考え方は、後の本居宣長や平田篤胤といった国学者たちによって受け継がれ、さらに発展していきます。

また、明治時代に入ると、国学の研究は国家意識の形成とも結びつくようになります。近代の学者たちは、真淵の研究を再評価し、日本の文化や伝統の源流を探るための重要な手がかりとして活用しました。特に、『万葉集』の研究は近代に入ってからも盛んに行われ、真淵の影響を受けた研究者たちによってさらに深化していきました。

さらに、現代においても、真淵の研究は日本語学や古典文学の分野で重要な位置を占めています。彼の言語学的アプローチは、日本語の変遷を理解する上で貴重なものとされており、現在でも多くの研究者が彼の理論を基に研究を続けています。

このように、賀茂真淵の研究は、江戸時代において革新的なものであっただけでなく、現代に至るまで大きな影響を与え続けているのです。彼の学問は、日本の文化や精神を深く理解するための礎となり、国学の発展に決定的な役割を果たしたといえるでしょう。

賀茂真淵の学問が築いた国学の礎

賀茂真淵は、生涯をかけて日本の古典や和歌の研究に取り組み、国学という学問の礎を築きました。特に『万葉集』の研究を通じて、日本固有の言葉や精神を探求し、「ますらをぶり」や「高く直き心」といった概念を提唱しました。これは、それまでの中国思想に基づく学問とは異なる、日本独自の学問体系を確立する重要な第一歩となりました。

彼の学問は、本居宣長をはじめとする弟子たちによって受け継がれ、江戸時代後期から明治時代にかけて、日本の思想や文化の発展に大きな影響を与えました。さらに、彼の研究成果は、近代以降の日本語学や文学研究にも受け継がれ、今なお多くの研究者によって再評価されています。

真淵が追い求めた「日本の本来の姿を明らかにする」という学問の姿勢は、時代を超えて意義を持ち続けています。その探究心と情熱は、国学の礎として、日本文化を理解するための大切な遺産となっているのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次