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勝海舟の生涯:咸臨丸で太平洋横断し、幕末を駆け抜けた海軍の父

こんにちは!今回は、幕末の動乱を生き抜き、江戸無血開城を実現した幕臣・政治家、勝海舟(かつ かいしゅう)についてです。

剣術の達人でありながら国際感覚にも優れ、海軍創設に尽力した彼の生涯は、日本の近代化に大きな影響を与えました。そんな勝海舟の波乱に満ちた人生を詳しく見ていきましょう。

目次

野良犬事件と剣術修行の少年期

幼少期の衝撃体験—野良犬事件とは?

勝海舟(本名:勝義邦)は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区)に生まれました。彼の少年期における最も有名な逸話が「野良犬事件」です。この事件は、彼の人格形成に大きな影響を与えた出来事として語り継がれています。

幼少期のある日、海舟は道端で野良犬に襲われそうになります。父・勝小吉はそれを見ていながら助けようとはせず、「自分でどうにかしてみろ!」と突き放しました。幼い海舟は恐怖に震えながらも、必死に立ち向かいます。しかし、まだ身体も小さく非力だった彼は犬に噛まれ、激しい痛みと恐怖を味わうことになります。傷を負った海舟に対し、小吉は「これが現実だ。武士とはこういうものだ」と諭したと伝えられています。

この出来事は、単なる幼少期の危険な体験ではなく、武士の覚悟とは何かを海舟に教えるための試練でした。父・小吉は、海舟に自らの力で困難を乗り越えることを求めたのです。この野良犬事件を通じて、海舟は「恐怖に打ち勝ち、自分の力で道を切り開く」という生き方を学びました。後に幕末の動乱の中で、西郷隆盛や徳川慶喜と渡り合い、江戸無血開城を実現させる胆力を持つに至る背景には、このような幼少期の経験が大きく影響していたのです。

父・勝小吉の型破りな教育と剣術修行

勝海舟の父・勝小吉は、江戸の旗本ながら破天荒な生き方をした人物でした。剣術の達人でありながら酒や博打を好み、しばしば問題を起こしては処罰されることもありました。小吉は自身の武士としての在り方に疑問を持ち、型にはまらない教育を息子に施そうと考えていました。

そんな小吉の方針により、海舟は幼少期から剣術の稽古を始めます。彼が学んだのは「神道無念流」という剣術流派で、これは実戦的な技を重視する剣風でした。江戸の剣術道場で鍛えられた海舟は、次第にその腕を上げていきます。また、剣の腕を磨くだけでなく、武士としての気構えも学んでいきました。

海舟の剣術修行の中で特に有名なのが、彼の愛刀「海舟虎徹」です。虎徹は江戸時代に名を馳せた刀工・長曽祢虎徹の作品であり、名刀のひとつとして知られています。海舟はこの刀を愛し、生涯を通じて手放さなかったといわれています。

しかし、海舟は剣術のみに没頭することはありませんでした。彼の関心は次第に学問へと向かい、特に地理や歴史を深く学ぶようになっていきます。これには、小吉の影響も大きかったと考えられています。小吉自身は学問を軽視する人物ではなく、むしろ「武士として生き抜くためには、剣だけではなく知恵も必要だ」と考えていたのです。こうして、海舟は剣と学問の両方を重んじる人物へと成長していきました。

武士の覚悟と学問への目覚め

幕末の動乱が迫る中、武士の生き方そのものが揺らぎつつありました。武士とは何か、どう生きるべきか——この問いに直面したのが、若き日の勝海舟でした。幼い頃から父の厳しい教育を受け、剣の道を学んできた彼でしたが、やがて「剣の道だけでは時代の波を乗り越えられない」と考えるようになります。

この頃、彼の関心は兵学や蘭学へと向かい始めます。西洋の学問に興味を持ち始めた海舟は、オランダ語を学び、西洋の最新兵学書を読み漁りました。当時の日本は鎖国政策を続けていましたが、オランダを通じて海外の知識を得ることができました。こうした学びの中で、海舟は次第に「日本の防衛には海軍が必要である」という考えを持つようになっていきます。

また、武士の生き方についても、彼は独自の考えを持つようになります。従来の「忠義」に重きを置く武士道ではなく、より実践的な「国を守るための武士道」を模索するようになったのです。この考え方は、後に彼が幕府の海防政策に関与し、さらには江戸無血開城の交渉を担うことになる伏線ともなっていました。

少年期に培った剣術と学問への興味は、やがて彼を日本の海防政策へと導き、さらには咸臨丸での渡米や幕末の政局を動かす人物へと成長させる土台となりました。こうして、勝海舟は幼少期の経験を糧に、時代の変革者としての道を歩み始めるのです。

蘭学への目覚めと海防意見書提出

蘭学との出会いと兵学への傾倒

勝海舟が西洋の学問、特に蘭学(オランダ学問)に興味を持ち始めたのは、20代の頃でした。彼が蘭学と出会った背景には、当時の日本の国際情勢が大きく影響しています。19世紀初頭、ヨーロッパ列強やアメリカがアジアへ進出し、日本の鎖国政策は次第に揺らぎ始めていました。海舟はこの流れを敏感に察知し、国内にいながらも海外の情報を学ぶことが必要だと考えました。

蘭学を学ぶ上で鍵となるのがオランダ語の習得でした。彼は独学でオランダ語を学び始め、『ハルマ和解』(オランダ語辞典)を使って必死に単語を覚えました。特に興味を持ったのが兵学で、西洋の戦略や戦術を学ぶことに没頭していきます。この時期、彼は西洋式の砲術や海軍戦略に深く関心を持ち、従来の日本の軍事体系では外国に太刀打ちできないことを痛感していました。

また、勝海舟はこの時期に長崎へ赴き、「長崎海軍伝習所」で本格的に西洋式の軍事学を学びます。長崎は鎖国下の日本において唯一海外と交流が許されていた地であり、西洋の最新技術や学問を学ぶことができる貴重な場でした。海舟はオランダ人の指導のもと、最新の航海術や造船技術、砲術などを学び、日本の防衛に必要な海軍の重要性を強く認識するようになります。この経験が、後に彼が海軍の創設に尽力するきっかけとなったのです。

幕府の海防政策に対する問題意識

当時の日本は、ペリー来航(1853年)を目前に控え、諸外国の脅威に晒されていました。しかし、幕府の海防政策は極めて遅れており、大砲や艦船の技術は西洋諸国に比べて大きく劣っていました。海舟はこの現状に強い危機感を抱き、日本が欧米列強と渡り合うためには、海軍の整備が不可欠であると考えました。

当時の幕府では、異国船が日本沿岸に出没するたびに、一時的な防衛策を講じる程度で、長期的な海防戦略はほとんど立てられていませんでした。海舟は、西洋の戦術や技術を取り入れなければ、日本はやがて植民地化されてしまうと危惧していました。特に、海上戦の重要性を説き、幕府に対して西洋式の海軍創設を進言する必要性を強く感じていたのです。

また、当時の幕府の上層部は、蘭学や西洋技術に対して懐疑的な見方をしていました。しかし、海舟はオランダの軍事技術を学んだことで、日本の防衛力を強化するには、西洋の知識を積極的に取り入れるべきだと確信していました。彼のこの考え方は、幕府の伝統的な価値観と衝突するものであり、若き日の海舟にとって大きな挑戦となったのです。

海防意見書の提出と幕府内での評価

1853年、アメリカのペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航しました。この出来事は日本全体に衝撃を与え、幕府内では開国か攘夷かをめぐって激しい議論が巻き起こります。この危機的状況の中、勝海舟は自らの考えをまとめた「海防意見書」を幕府に提出しました。

この意見書では、日本の海防体制が極めて脆弱であることを指摘し、以下のような改革案を提言しました。

  1. 海軍の創設—西洋式の軍艦を導入し、洋式の訓練を受けた海軍を編成すること。
  2. 造船技術の向上—国内での造船技術を発展させ、西洋に依存しない軍艦建造を目指すこと。
  3. 海防拠点の整備—日本各地の沿岸防衛を強化し、外国艦隊の侵入を防ぐための砲台を整備すること。

この意見書は幕府内で大きな注目を集め、海舟は海防の専門家として評価されるようになります。特に、幕府の中でも開明的な考えを持つ人物であった大久保一翁や小栗忠順などから支持を得ることができました。

しかし、幕府の保守派からは「西洋かぶれ」と批判されることもありました。当時の幕府は伝統を重んじる傾向が強く、西洋の知識を取り入れることに対する抵抗感が根強かったのです。それでも海舟は諦めることなく、自らが学んだ知識を活かし、日本の未来のために尽力し続けました。

この海防意見書の提出が、後に彼が「咸臨丸」での渡米を果たし、日本の海軍創設へと進んでいく大きな転機となります。ここから、海舟の人生はさらに大きく動き始めるのです。

咸臨丸艦長としての太平洋横断

咸臨丸への乗船—異国への挑戦

1860年(万延元年)、勝海舟は日本人として初めて太平洋を横断する航海に挑みました。彼が艦長を務めたのは、幕府所有の軍艦「咸臨丸」であり、この航海は日米修好通商条約の批准交換のために行われたものでした。幕府は正式な使節団をアメリカへ送るため、正使・新見正興らをアメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗せましたが、咸臨丸は日本側の船として単独で太平洋を渡るという大きな使命を背負っていました。

当時の日本には、本格的な外洋航海の経験を持つ者はほとんどいませんでした。咸臨丸の乗組員は、長崎海軍伝習所で西洋の航海技術を学んだ幕臣たちでしたが、実戦経験は皆無に近い状態でした。海舟自身も長崎で航海術を学び、オランダ人教官から最新の技術を習得していましたが、実際の長距離航海がどれほど過酷なものかは未知数でした。

この航海には、通訳として福沢諭吉も乗船していました。彼は後に慶應義塾を創設する人物ですが、当時は幕府の一員として海外事情を学ぶために渡航を希望していました。ほかにも、海軍伝習所で学んだ若手士官や船大工などが同行し、日本の将来のために貴重な経験を積もうとしていました。しかし、彼らはこの航海が想像以上に困難なものとなることをまだ知らなかったのです。

日米の技術格差と苦難の航海

咸臨丸は、出航直後から数々の困難に直面しました。最大の問題は、日本人乗組員のほとんどが外洋航海の経験を持たず、船を適切に操縦することができなかったことでした。強風や高波に対する対応も不十分で、航海のほとんどをアメリカ人の水夫たちに頼ることになりました。操船を担当したのは、アメリカ海軍のジョン・ブルック大尉であり、彼の指導のもとで日本人乗組員たちは懸命に航海技術を学びながら太平洋を進んでいきました。

もう一つの大きな問題は、咸臨丸の老朽化でした。この船はもともとオランダで建造されたもので、日本に輸入された時点ですでに中古の軍艦でした。船体は傷みやすく、嵐に遭遇すると大きく揺れ、内部に浸水することもありました。乗組員たちは必死に修理を行いながら航海を続けましたが、嵐のたびに状況は悪化していきました。

さらに、航海中に乗組員の多くが重度の船酔いに苦しみました。特に福沢諭吉は、後にこの航海を「生き地獄だった」と回顧しており、彼がどれほどの苦痛を味わったかがうかがえます。実際に、サンフランシスコに到着した際、ほとんどの乗組員が疲労困憊し、自力で歩くことすらままならなかったといわれています。

このような困難の中で、勝海舟は艦長として冷静に判断を下し、乗組員の士気を維持し続けました。彼はアメリカ人の指導を素直に受け入れ、学ぶ姿勢を貫きました。自らが率いる日本人乗組員とアメリカ人との橋渡し役となり、異文化交流の中で柔軟な対応力を示しました。このような姿勢は、彼が後に国際的な交渉の場で活躍する素地を形成することにもつながっていきます。

太平洋横断が勝海舟にもたらした変化

1860年3月17日、咸臨丸はようやくアメリカ・カリフォルニア州のサンフランシスコに到着しました。これは日本にとって画期的な出来事であり、日本人が自力で太平洋を横断した初めての事例となりました。しかし、勝海舟自身にとって、この航海は単なる成功体験ではなく、西洋文明との圧倒的な技術格差を痛感する機会となりました。

サンフランシスコで目にしたのは、近代的な都市の姿でした。舗装された道路、整然とした建物、蒸気機関を利用した交通や産業の発展に、海舟は衝撃を受けました。これまで学問を通じて西洋の技術を知っていたつもりでしたが、実際に目の当たりにすると、その進歩の度合いは想像をはるかに超えていました。日本がこのままの状態であれば、西洋列強に太刀打ちできるはずがないと痛感したのです。

この経験を通じて、勝海舟の考えは大きく変わりました。それまでは日本の防衛、すなわち「海防」を強化することが彼の使命でしたが、サンフランシスコを訪れたことで「単なる防衛ではなく、日本そのものを近代化しなければならない」と確信しました。軍備の強化だけではなく、社会の仕組みや人々の意識を変えなければ、日本は西洋列強に飲み込まれてしまうという危機感を抱いたのです。

帰国後、勝海舟は幕府に対して本格的な海軍創設の必要性を改めて提言しました。そして、これが後に神戸海軍操練所の設立へとつながっていきます。咸臨丸の航海は、日本の近代化に向けた第一歩であり、勝海舟自身の思想を大きく変える転機となりました。この経験をもとに、彼はより積極的に日本の変革に関わっていくことになります。

神戸海軍操練所と坂本龍馬の師弟関係

海軍育成の必要性と神戸海軍操練所の創設

勝海舟は、咸臨丸での渡米を通じて西洋の圧倒的な軍事技術と産業の発展を目の当たりにし、日本が近代国家として独立を保つためには海軍の育成が不可欠であると確信しました。帰国後、彼は幕府に対し、本格的な海軍の創設と西洋式の教育を導入することを提言します。この結果、1863年(文久3年)、幕府の許可を得て、兵庫(現在の神戸)に海軍士官養成機関として神戸海軍操練所を設立しました。

この操練所は、単なる武士のための軍事訓練場ではなく、西洋の航海術や砲術、造船技術を本格的に学ぶことができる教育機関でした。従来の武士の戦い方が陸戦中心であったのに対し、海舟は「これからの時代は海を制する者が国を制する」と考えていました。そのため、彼は長崎海軍伝習所で学んだ経験を活かし、操練所の教育方針を定めました。

神戸海軍操練所は、身分にとらわれず広く人材を受け入れた点でも画期的な機関でした。当時の幕府では、武士以外の者が軍事教育を受けることは一般的ではありませんでしたが、海舟は「日本を守るためには優秀な者を身分に関係なく育てるべきだ」と主張し、これを実現させました。この革新的な考え方により、全国各地から優れた才能を持つ者が集まりました。その中には、後に日本の海軍や政治に大きな影響を与える人物も多く含まれていました。

坂本龍馬との出会い—思想と行動の共鳴

神戸海軍操練所の設立に際して、勝海舟と深い関係を築くことになったのが坂本龍馬でした。龍馬は土佐藩の脱藩浪士であり、西洋の技術に強い関心を持ち、日本の未来を見据えて行動していました。彼は勝海舟の考えに強く共感し、自らを「弟子」と称して操練所で学ぶことを希望しました。

勝海舟と坂本龍馬の出会いは、1862年(文久2年)にさかのぼります。当初、龍馬は幕府を敵視し、攘夷の立場を取っていましたが、勝海舟と対話を重ねる中でその考えを大きく変えていきます。海舟は龍馬に対し、「日本が生き残る道は、単なる攘夷ではなく、西洋の技術を学び、国を強くすることだ」と説きました。これに感銘を受けた龍馬は、単なる武士の枠を超え、日本全体の未来を考えるようになりました。

操練所での龍馬は、航海術や砲術を学ぶだけでなく、組織運営や戦略の重要性についても海舟から指導を受けました。彼は操練所での経験を通じて、単なる剣士から政治的なビジョンを持つ人物へと成長していきました。後に彼が設立する「海援隊」は、この時の学びが大きく影響を与えています。

勝海舟は、龍馬の行動力や発想の柔軟さを高く評価していました。操練所にいた多くの若者の中でも、龍馬は特に異才を放ち、将来大きなことを成し遂げる人物だと確信していたのです。この信頼関係は、後に龍馬が幕末の政治の舞台で活躍する際にも続いていくことになります。

操練所閉鎖がもたらした影響と龍馬の決意

しかし、神戸海軍操練所は長く存続することができませんでした。幕府の財政が逼迫する中で、1864年(元治元年)、操練所は開設からわずか1年ほどで閉鎖されてしまいます。幕府内の保守派は、西洋式の軍事教育に対して強い反発を持っており、勝海舟の考えを全面的に受け入れることができませんでした。さらに、長州藩との対立が激化し、幕府は海軍よりも陸軍の整備を優先せざるを得なくなったことも、操練所が閉鎖に追い込まれた要因の一つでした。

操練所が閉鎖されたことは、勝海舟にとって大きな挫折でした。しかし、ここで学んだ多くの若者たちは、その後の日本の変革に大きく貢献していきます。特に坂本龍馬は、この経験を活かし、独自の道を歩む決意を固めました。彼は操練所閉鎖後、勝海舟の指導を受けながら、日本の未来のために新たな組織を作ることを模索し始めます。

この後、龍馬は薩摩藩や長崎の商人・小曽根英四郎の支援を受け、海運業と軍事活動を兼ねた「亀山社中」を設立します。これは後の「海援隊」へと発展し、彼は勝海舟の教えを実践する形で、日本の近代化に向けた独自の活動を始めていきました。

勝海舟にとって、神戸海軍操練所は日本の未来を担う若者を育成する重要な場でした。わずかな期間で幕を閉じたものの、ここで培われた精神や知識は、坂本龍馬をはじめとする多くの人々の中に生き続けました。そして、この操練所での経験が、後の江戸無血開城や明治維新に向けた動きへとつながっていくのです。

幕府崩壊前夜の軍事総裁就任

幕府軍事政策と新政府軍の台頭

1866年(慶応2年)、幕府と長州藩の間で再び戦争が勃発しました。いわゆる「第二次長州征討」です。この戦いは、幕府が長州藩を徹底的に制圧しようとしたものでしたが、長州は西洋式の軍隊を整備し、幕府軍を圧倒しました。特に、薩摩藩が密かに長州を支援し、西洋式の最新兵器を供給したことが勝敗を決定づけました。幕府軍は敗北し、結果として幕府の権威は大きく揺らぐことになりました。

こうした状況の中、1867年(慶応3年)には将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上する「大政奉還」を決断します。しかし、大政奉還を行ったとはいえ、旧幕府の権力が完全になくなったわけではありませんでした。朝廷のもとで新たな政権が樹立される過程で、徳川家の処遇を巡る問題が浮上し、新政府軍(薩摩藩・長州藩を中心とする勢力)と旧幕府軍の対立が深まっていきました。

こうした状況下で、勝海舟は幕府の軍事総裁に任命されます。彼に託されたのは、もはや風前の灯火となった幕府軍の指揮でした。しかし、彼は従来の武力闘争に固執せず、より大局的な視点から幕府と日本の未来を考える立場を取ることになります。

江戸防衛の難題と戦略的判断

1868年(慶応4年/明治元年)、新政府軍が江戸に向けて進軍を開始しました。これが「戊辰戦争」の始まりです。幕府軍の中には、徹底抗戦を主張する者も多く、特に江戸市中では武装蜂起の機運が高まっていました。しかし、勝海舟は冷静に情勢を分析し、江戸を戦火に巻き込まないための方法を模索します。

江戸の町は、日本最大の都市であり、当時の人口は約100万人に達していました。ここで大規模な戦闘が起これば、多くの市民が巻き込まれ、甚大な被害が出ることは避けられません。さらに、江戸の経済基盤やインフラが破壊されれば、日本全体の安定も損なわれることになります。

こうした背景から、勝海舟は徹底抗戦ではなく「無血開城」に向けた交渉を進めることを決意しました。彼の狙いは、戦火を回避しつつ、徳川家の存続を図ることにありました。そのためには、新政府軍の中心人物である西郷隆盛との直接交渉が不可欠でした。

幕府再建を模索する勝海舟の苦闘

しかし、幕府内には依然として強硬派が多く存在しました。特に、幕臣の中には「徳川の名のもとに最後まで戦うべきだ」と主張する者が多く、勝海舟の和平交渉に対して反発が強まりました。こうした状況の中で、彼は単独で新政府軍との交渉を進めるという困難な立場に立たされました。

このとき、勝海舟を支えたのが山岡鉄舟や高橋泥舟といった幕末の剣豪たちでした。彼らは勝海舟の意志を理解し、戦闘を回避するために奔走しました。特に山岡鉄舟は、単身で西郷隆盛のもとへ赴き、交渉の道を開く重要な役割を果たしました。

また、勝海舟はこの交渉の裏で、徳川慶喜の安全を確保するための工作も行っていました。慶喜はすでに上野の寛永寺に謹慎していましたが、新政府軍がどのような処遇を下すかは不透明でした。勝海舟は新政府側に対して、慶喜の助命と徳川家の存続を求め、江戸城を無血開城することで事態を収束させる道を模索しました。

勝海舟のこの冷静な判断と交渉能力が、後の「江戸無血開城」へとつながっていくのです。彼は単に幕府の存続を求めるのではなく、日本全体の未来を見据えた決断を下していました。

西郷隆盛との運命の会談~江戸無血開城

江戸無血開城交渉—勝と西郷の駆け引き

1868年(慶応4年/明治元年)3月、新政府軍は東海道を進軍し、いよいよ江戸総攻撃が目前に迫っていました。これに対し、幕府側の軍事総裁である勝海舟は、江戸を戦火から守るため、交渉による解決を模索していました。そして、この運命を分ける交渉相手が、新政府軍の指揮を執る西郷隆盛でした。

西郷隆盛は薩摩藩の実力者であり、倒幕の中心人物として幕府側にとっては最大の敵ともいえる存在でした。しかし、彼は単なる軍人ではなく、戦闘を回避できるならばそれに越したことはないと考える合理的な人物でもありました。勝海舟はこの西郷の性格を見抜き、交渉の余地があると判断しました。

3月13日、西郷隆盛は江戸城総攻撃の指揮を執るために品川に入りました。この動きを察知した勝海舟は、すぐさま山岡鉄舟を使者として送り、西郷との会談を申し入れます。山岡は単身で新政府軍の陣営に赴き、西郷に対して「勝海舟が直接会談を希望している」と伝えました。この申し出を受けた西郷は、3月14日に駒込の薩摩藩邸で勝海舟と会談することを決めました。

心理戦と交渉のポイント

3月14日、勝海舟と西郷隆盛の会談が行われました。この時、江戸の運命は彼ら二人の手に委ねられていたといっても過言ではありません。会談の場で、勝海舟はまず江戸の市民を戦火に巻き込まないよう訴え、新政府軍が江戸城を攻めることの無意味さを説きました。

西郷は最初、「江戸城は無条件降伏すべきだ」との立場を取っていました。しかし、勝海舟は冷静に反論します。「もし江戸で戦が起これば、100万の民が苦しむことになる。それは徳川家だけでなく、新政府にとっても得策ではないはずだ」と主張しました。さらに、彼は江戸城の開城と引き換えに、徳川慶喜の身柄の安全を保証するよう求めました。

また、勝海舟は戦略的な視点からも交渉を進めました。当時、新政府軍の中には旧幕府軍との戦闘を望む強硬派もおり、特に長州藩の一部の勢力は徳川家を徹底的に潰すべきだと主張していました。しかし、長期戦になれば新政府側にも多大な損害が出る可能性がありました。勝海舟はこの点を突き、「ここで徳川家を完全に潰せば、新政府にとっても混乱が生じる。むしろ、穏便に事を収めたほうが得策だ」と説得しました。

西郷はこれを聞き、「確かに一理ある」と考えるようになりました。西郷自身も戦争を好むわけではなく、できるだけ平和的に新政権を樹立したいと考えていました。そのため、彼は江戸城総攻撃を中止する方向で話を進めることに同意しました。

無血開城の決定とその後の影響

この会談の結果、江戸城は戦うことなく新政府に明け渡されることが決まりました。3月15日、西郷隆盛は新政府軍の指揮官に対し、江戸総攻撃の中止を正式に通達しました。そして、4月11日、徳川家家臣たちは静かに江戸城を退去し、城は無血で新政府軍に引き渡されました。

この「江戸無血開城」は、日本史上類を見ない大規模な平和的政権移行でした。通常、政権が交代する際には激しい戦闘が伴い、多くの血が流れるものですが、勝海舟と西郷隆盛の冷静な判断によって、江戸という巨大都市は破壊を免れました。この結果、江戸の町はその後も繁栄を続け、明治時代には「東京」として新政府の中心都市となることができたのです。

この無血開城により、勝海舟は「江戸を戦火から救った英雄」として歴史に名を残しました。一方で、新政府内の一部からは「なぜ徳川を徹底的に滅ぼさなかったのか」との批判もありました。しかし、西郷隆盛もまた、「日本を内戦の泥沼にしないためにはこの選択が最善だった」と考えていました。彼と勝海舟の間には、単なる敵味方を超えた信頼関係があったのです。この出来事の後、勝海舟は旧幕臣たちの処遇に尽力し、さらに新政府での海軍創設にも関わっていくことになります。

明治政府での海軍整備と旧幕臣救済

明治政府における勝海舟の役割と海軍改革

江戸無血開城を成功させた勝海舟は、その後、新政府に仕える道を選びました。戊辰戦争が続く中、多くの旧幕臣が職を失い、徳川家の存続も危ぶまれていましたが、彼はそうした状況の中でも冷静に日本の未来を考えていました。勝は「徳川が滅びようとも、日本そのものが滅びるわけではない」と考え、旧幕臣たちを救うためにも、新政府の中で影響力を持つ必要があると判断したのです。

1869年(明治2年)、新政府のもとで海軍の整備が進められることになりました。そこで海軍の運営に詳しい人物として白羽の矢が立ったのが勝海舟でした。彼は幕府時代に長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸での渡米経験もある数少ない海軍の専門家でした。そのため、新政府にとっても彼の知識と経験は必要不可欠だったのです。

勝海舟は、新政府の海軍を強化するため、次のような改革を提言しました。

  1. 西洋式の海軍教育を導入し、実戦的な訓練を行うこと
  2. 旧幕臣の海軍技術者や船員を積極的に登用し、彼らの技術を活かすこと
  3. 日本国内での造船技術を発展させ、海外の軍艦に依存しない体制を築くこと

彼の提言により、旧幕府の海軍要員の多くが新政府の海軍に採用され、日本の海軍力は着実に向上していきました。さらに、勝海舟はフランスやイギリスの海軍制度を参考にしながら、日本独自の海軍組織を確立することにも努めました。こうして、日本の近代海軍の基礎が築かれることになったのです。

旧幕臣たちの救済と徳川家の名誉回復

明治維新後、多くの旧幕臣たちは生活の糧を失い、困窮していました。特に、幕府の要職に就いていた者たちは、新政府から厳しい処分を受けることもありました。勝海舟は、こうした旧幕臣たちを救済するために奔走します。

彼が最も力を入れたのは、旧幕臣たちの生活基盤の確保でした。その一環として、彼は彼らに開拓民としての道を開くよう政府に働きかけました。その結果、北海道開拓の事業が始まり、旧幕臣たちの多くが移住して開拓に従事することになりました。これが後の「屯田兵制度」へとつながり、日本の国土開発に大きな役割を果たすことになったのです。

また、勝海舟は徳川家の名誉回復にも尽力しました。戊辰戦争後、徳川慶喜は謹慎を命じられ、政治の表舞台から完全に退くことを余儀なくされていました。しかし、勝海舟は新政府に対し、慶喜の復権を求め、彼を静岡に移住させることで徳川家の存続を図りました。これにより、徳川家は完全に没落することなく、後に華族として明治政府の一翼を担うことができるようになりました。

さらに、勝海舟は経済的な支援も行いました。彼は幕臣たちに対して商業や農業を学ぶことを奨励し、新しい時代に適応するための道を示しました。こうした努力が実を結び、旧幕臣たちは商人や実業家として新たな人生を歩む者も多く現れました。その代表格が渋沢栄一であり、彼は後に日本資本主義の父と称されるまでになりました。勝海舟の支援が、彼らの成功の土台となったことは間違いありません。

海軍卿としての功績と辞職の理由

1873年(明治6年)、勝海舟は正式に「海軍卿」となり、新政府の海軍行政のトップに立ちました。このころ、日本は近代国家としての体制を整えつつあり、軍の近代化も本格化していました。しかし、勝海舟は次第に政府の方針と対立するようになっていきます。

彼が最も問題視したのは、政府内の「軍拡路線」でした。西郷隆盛を中心とする政府の一部勢力は、大規模な軍備拡張を推進しようとしていました。しかし、勝海舟は「国の発展には、軍事よりも経済や産業の充実が重要だ」と考えていました。そのため、無闇に軍拡を進めるよりも、まずは国の基盤を固めるべきだと主張しました。

また、政府内部では薩摩藩や長州藩出身者が権力を独占する傾向が強まり、勝海舟のような旧幕臣出身者の立場は次第に弱くなっていきました。彼はこの状況に嫌気がさし、1878年(明治11年)に海軍卿を辞職し、政界からも退くことを決意しました。

辞職後、彼は「自分の役割は終わった」と考え、政治の世界から距離を置くようになります。そして、自らの経験を後世に伝えるために執筆活動に取り組むようになりました。その集大成が「氷川清話」であり、これは幕末から明治にかけての貴重な証言として現在も読み継がれています。

勝海舟の辞職は、彼の信念の表れでもありました。彼は単なる政治家ではなく、常に「日本の未来」を見据えた行動を取っていました。彼が築いた海軍の基盤は、その後の日本の発展に大きく寄与し、旧幕臣たちの救済活動もまた、明治時代の社会に良い影響を与えました。

晩年の歴史編纂と西南戦争への思い

『氷川清話』に見る幕末の回顧録

勝海舟は1878年(明治11年)に海軍卿を辞職した後、政治の表舞台から退き、悠々自適な生活を送るようになりました。彼は東京・四谷にある「洗足軒」と呼ばれる邸宅に住み、来客との談話や執筆活動に没頭しました。勝は多くの知識人や旧幕臣たちと交流を続け、時に厳しく、時に茶目っ気のある言葉で幕末の出来事を語りました。この晩年の語りをまとめたのが『氷川清話』です。

『氷川清話』は、幕末から明治にかけての日本の激動の歴史を勝海舟自身が回想した記録です。政治や軍事に関する鋭い洞察だけでなく、当時の人物評や世相についても率直に語られており、そのユーモアや皮肉交じりの表現が特徴的です。彼は西郷隆盛や坂本龍馬を高く評価し、特に西郷に対しては「日本にはもうああいう男は現れない」と称賛しています。

また、勝海舟は幕末の武士たちについても厳しい意見を述べています。彼は「幕府の武士たちは形式ばかりにとらわれ、時代の変化を理解できなかった」と指摘し、剣術や武士道に固執するだけでは、近代化の波には勝てなかったと回顧しています。さらに、幕府が西洋の進んだ制度を取り入れなかったことを悔やみつつ、「日本はもっと早く開国していれば違った未来があったかもしれない」と語っています。

このように、『氷川清話』には、勝海舟が経験した幕末の出来事や人物に対する鋭い分析が詰まっており、現在でも幕末史を知る上で貴重な史料となっています。彼の言葉は、単なる回顧ではなく、日本がどのように進むべきかという未来への警鐘でもあったのです。

西南戦争に対する複雑な感情

1877年(明治10年)、明治政府に対する最大の反乱である西南戦争が勃発しました。西郷隆盛が率いる不平士族たちが鹿児島で挙兵し、新政府軍と激しい戦いを繰り広げたこの戦争は、日本国内に大きな衝撃を与えました。勝海舟もこの戦争を見守っていましたが、その心境は複雑なものでした。

勝は、西郷隆盛の人間性を深く尊敬していました。彼は江戸無血開城の際に西郷と直接交渉を行い、その器の大きさを知っていました。彼にとって西郷は、武士としての誇りを持ちながらも時代の流れを見据えることができる、稀有な存在でした。しかし、西郷が政府に反旗を翻し、結果として戦争に突入したことについては「惜しいことをした」と嘆いています。

また、勝海舟はこの戦争が避けられなかったのかについても考え続けました。彼は明治政府の政策を批判し、「もっと士族たちに活躍の場を与えていれば、西郷が戦わねばならない状況にはならなかったはずだ」と述べています。実際、明治政府は廃刀令の施行や俸禄の廃止など、旧武士階級にとって厳しい改革を推し進めており、それが士族たちの不満を高めていました。

しかし、勝海舟は西郷の戦いを無条件に支持することもありませんでした。彼は「今さら武力で政府を倒そうとしても、時代は元には戻らない」と冷静に分析し、「西郷は自らが築いた新時代の中で生きるべきだった」と考えていました。西郷の死を知った際には、「ああ、西郷は死んだか。日本はつまらなくなったな」と寂しげにつぶやいたと伝えられています。

このように、西南戦争に対する勝海舟の感情は単純なものではありませんでした。彼は西郷を敬愛しながらも、戦争という手段に訴えたことには疑問を持ち、同時に明治政府の政策にも批判的な視線を向けていました。この戦争を通じて、勝海舟は改めて「時代の変化に適応しなければならない」という持論を強く意識するようになったのです。

晩年の勝海舟が語った「歴史の証言」

晩年の勝海舟は、歴史の証人としての役割を果たすことに力を注ぎました。彼のもとには、政府関係者や旧幕臣、若手の政治家、さらには新聞記者までが訪れ、幕末の出来事や維新の裏側について話を聞きました。彼は決して自分の功績を誇ることはなく、むしろ「自分は時代の流れの中で、たまたま役割を果たしただけだ」と語っていました。

特に、江戸無血開城について語る際には、「あれは自分一人の力ではなく、西郷や山岡鉄舟、高橋泥舟といった人々がいたからこそ実現したものだ」と強調しています。また、坂本龍馬についても、「あの男は面白いことを考える天才だった。もし生きていたら、明治政府の形も変わっていたかもしれない」と述べ、早すぎる死を惜しんでいました。

勝海舟は1901年(明治34年)、77歳でこの世を去りました。彼の生涯は、幕末から明治という激動の時代を生き抜き、日本の未来のために尽力したものでした。彼の思想や行動は、後の日本に大きな影響を与え、海軍の発展や旧幕臣の救済、さらには平和的な交渉による問題解決の重要性を示した点で、高く評価されています。

彼の死後、『氷川清話』は多くの人々に読まれ、現在でも幕末の重要な証言として親しまれています。彼が残した言葉の中には、「歴史を知ることは、未来を考えることだ」というものがあります。これはまさに、彼が生涯を通じて伝えようとしたことそのものであり、現代にも通じる深い意味を持っているといえるでしょう。

勝海舟を描いた作品たち

小説に描かれた勝海舟—『勝海舟』『私に帰せず』

勝海舟の波乱に満ちた生涯は、多くの作家によって小説の題材として取り上げられてきました。その中でも、代表的な作品が子母澤寛の『勝海舟』と津本陽の『勝海舟 私に帰せず』です。

子母澤寛の『勝海舟』は、1974年のNHK大河ドラマの原作にもなった名作です。この作品では、幕末の動乱を生き抜いた勝海舟の視点から、江戸無血開城を中心に物語が描かれています。勝海舟という人物の大胆さや交渉力だけでなく、剣術家としての側面や、父・勝小吉の影響も丁寧に描かれています。特に、勝海舟と西郷隆盛の交渉シーンは、幕末最大の歴史的決断をリアルに再現しており、読者に強い印象を与えます。

一方、津本陽の『勝海舟 私に帰せず』は、勝海舟の人物像に焦点を当てた歴史小説です。この作品の特徴は、勝海舟の内面に深く切り込み、彼の信念や苦悩を描き出している点にあります。特に、彼がどのようにして幕臣としての立場を超え、日本全体を見据えた決断を下していったのかが、細かく描かれています。また、坂本龍馬や徳川慶喜といった歴史的人物との関わりも詳述され、幕末の政治的駆け引きを知る上で非常に興味深い作品となっています。

映画やドラマの中の勝海舟—『江戸最後の日』『幕末高校生』

映画やドラマでも、勝海舟はたびたび描かれています。特に有名なのが、1941年に公開された映画『江戸最後の日』と、2014年の『幕末高校生』です。

『江戸最後の日』は、江戸無血開城の過程を描いた歴史映画であり、勝海舟がいかにして西郷隆盛との交渉をまとめ、戦争を回避したのかが詳細に描かれています。戦時中に製作された作品でありながら、単なる英雄譚ではなく、冷静な判断力と交渉力を持つ勝海舟の姿が際立っており、当時の日本人に強い影響を与えました。

一方、『幕末高校生』は、タイムスリップした高校生たちが幕末の江戸で勝海舟と出会うというユニークな設定の映画です。この作品では、勝海舟が単なる歴史上の人物ではなく、現代の価値観と対比される存在として描かれています。勝海舟の合理的な思考や柔軟な対応力が、現代人とどのように交錯するのかが見どころの一つです。史実を重視した作品ではありませんが、勝海舟の人物像に親しみを持つきっかけとして、若い世代にも楽しめる内容となっています。

また、1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』では、主演の渡哲也が威厳のある勝海舟を演じ、彼の生涯をドラマチックに描きました。このドラマでは、勝海舟の青年期から晩年までを網羅し、幕末の激動の時代における彼の役割が詳細に描かれています。

漫画やアニメで描かれる勝海舟—『JIN-仁-』『風雲児たち』

勝海舟は、漫画やアニメの世界でも重要なキャラクターとして登場します。特に、村上もとかの『JIN-仁-』や、みなもと太郎の『風雲児たち』では、彼の魅力が存分に発揮されています。

『JIN-仁-』は、現代の医師が幕末にタイムスリップする物語で、勝海舟は幕末の指導者の一人として登場します。この作品の中での勝海舟は、合理的で開明的な人物として描かれ、主人公の南方仁と協力しながら歴史を動かしていきます。彼の実直な性格と柔軟な思考が、物語の中で重要な役割を果たしています。

一方、『風雲児たち』は、幕末から明治にかけての歴史をユーモラスに描いた作品であり、勝海舟も重要な登場人物の一人です。この作品では、勝海舟の交渉術や政治手腕が、軽妙なタッチで描かれています。歴史の複雑な流れをわかりやすく解説するスタイルのため、勝海舟の役割を知る上でも貴重な作品です。

また、NHKの教育アニメ『ねこねこ日本史』では、勝海舟が猫のキャラクターとして登場し、江戸無血開城のエピソードなどがコミカルに紹介されています。こうした作品を通じて、勝海舟は歴史を知らない世代にも広く親しまれる存在となっています。

勝海舟は、単なる軍人や政治家ではなく、時代を見据えた先見の明を持つ人物として、多くの創作作品で描かれてきました。小説、映画、ドラマ、漫画、アニメとさまざまな媒体で表現されることで、その多面的な魅力がより広く知られるようになったのです。

まとめ

勝海舟は、幕末から明治にかけての激動の時代を生き抜き、日本の近代化に多大な影響を与えた人物でした。幼少期に培った剣術の精神と、蘭学を通じて得た西洋の知識をもとに、彼は日本の海軍創設に尽力し、やがて幕末の最重要局面である江戸無血開城を実現しました。戦争を回避し、平和的な政権交代を成し遂げた彼の交渉術と決断力は、今なお評価されています。

また、明治政府では海軍の整備と旧幕臣の救済に尽力し、日本の未来を見据えた行動を続けました。晩年には『氷川清話』を通じて歴史の証言者としての役割を果たし、後世に多くの示唆を残しました。彼の生涯は、単なる武士の枠を超え、常に時代の先を見据えた革新者の姿そのものでした。勝海舟の思想と行動は、現在の日本にも多くの教訓を与え続けています。

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