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荻生徂徠の生涯:江戸の思想家が語った幕政と法の論理

こんにちは!今回は、江戸時代中期の儒学者・思想家として幕政にも関与した荻生徂徠(おぎゅう そらい)についてです。

朱子学の枠を超えた「古文辞学」を確立し、多くの門人を育てた徂徠は、幕府改革においても重要な役割を果たしました。元禄赤穂事件での切腹論や、徳川吉宗に献じた『政談』による政策提言など、彼の思想は日本の政治・法律・学問に大きな影響を与えました。

そんな荻生徂徠の生涯を紐解いていきましょう!

目次

将軍侍医の家に生まれ、逆境の少年時代を過ごす

徳川綱吉の侍医・荻生方庵の家に生まれる

荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、1666年(寛文6年)、江戸で生まれました。父・荻生方庵(おぎゅう ほうあん)は、幕府の医官として仕え、当時の将軍・徳川綱吉の侍医を務めた人物でした。江戸時代において、医師は幕府の重要な役職の一つであり、特に将軍付きの医師となれば、それは権力中枢に近い立場を意味しました。徂徠の生家である荻生家は、元々は学問と医術を家業とする家系であり、彼もまた父のように医学の道を歩むことを期待されていました。

幼少期の徂徠は、江戸の武家地で裕福な暮らしを送っていたと考えられます。当時、幕府に仕える医師の家では、一般的に漢籍や儒学の素養を持つことが求められていました。父・方庵は学識豊かで、徂徠にも幼い頃から漢文を教えていたと伝えられています。そのため、徂徠は早くから学問に親しみ、文献を通じて中国の歴史や思想に触れる機会に恵まれていました。しかし、この恵まれた環境は長く続かず、彼の人生は少年期にして大きな転換を迎えることになります。

父の失脚により上総国へ移住し、厳しい生活を経験

荻生家の運命が大きく変わったのは、1680年(延宝8年)、5代将軍・徳川綱吉の政権が本格化する頃でした。父・方庵は、幕府内の政治的な対立に巻き込まれ、失脚してしまいます。将軍付きの医師という要職を追われた方庵は、幕府からの庇護を失い、荻生家の生活は一変しました。

方庵は失脚後、江戸を離れ、上総国(現在の千葉県)に移住を余儀なくされました。これは、幕府の職を失ったことで江戸に留まることが困難になったためと考えられます。かつて幕府医官の家として繁栄していた荻生家でしたが、一転して地方の一寒村での暮らしを強いられることになりました。上総国での生活は厳しく、徂徠は少年期にして極端な貧しさを経験することになります。

この時期、彼の家族は経済的に困窮し、生活のために様々な工夫をしなければならなかったと伝えられています。医術の知識を持つ父・方庵は、地方の人々を相手に診療を行い、わずかな収入を得ていたものの、江戸時代の地方では医療の対価を十分に得ることが難しく、安定した生活には程遠いものでした。また、方庵が幕府を追われたこともあり、江戸時代の武士社会において「失脚した家柄」と見なされた荻生家は、地元の有力者からの支援を受けることも難しかったと考えられます。

徂徠自身も幼いながらに家計を助けるために労働を強いられることがあったと考えられます。彼がどのような仕事をしたのかは記録には残っていませんが、地方では農作業や雑用など、身分に関係なく働かざるを得ない状況が多かったため、徂徠も何らかの形で家計に貢献していた可能性が高いでしょう。このような過酷な経験は、彼の後の思想形成に大きな影響を与えることになります。

幼少期の困難が徂徠の独学精神を養う

上総国での生活は、徂徠にとって精神的にも大きな試練でした。しかし、この逆境の中で彼は学問への情熱を深めていきます。正式な教育を受けることが難しい環境にあった彼は、父・方庵から譲り受けた漢籍を繰り返し読み、自らの力で知識を身につけることに努めました。この「独学」の姿勢こそが、後の荻生徂徠の学問の礎となるのです。

当時の江戸時代の学問界では、朱子学(しゅしがく)が主流でした。朱子学は、宋の時代に朱熹(しゅき)が確立した儒学の一派で、徳川幕府の公式な学問として採用されていました。しかし、徂徠は朱子学の教えに疑問を抱き、別の学問体系を模索するようになります。彼が独学で学んだのは、より実践的で、社会の現実に即した儒学の思想でした。これは、少年期に苦しい生活を送り、現実の厳しさを身をもって知ったことが背景にあると考えられます。

また、徂徠は独学の中で言語の学習にも力を入れていました。彼は幼い頃から中国の古典を原文で読み解く力を養っており、後に彼が「古文辞学(こぶんじがく)」という新たな学問を確立する基盤となります。古文辞学とは、朱子学の解釈に依存せず、古代中国の文章をそのままの形で理解しようとする学問です。徂徠のこの独自の学問観は、幼少期の独学の経験があったからこそ生まれたものだったのです。

このように、徂徠の幼少期は決して恵まれたものではありませんでした。しかし、幕府の侍医の子として生まれながらも、父の失脚によって貧困の中で育った経験が、彼の独学精神を育み、後の儒学者としての道を切り開く大きな要因となりました。この少年期の困難こそが、彼をして新たな学問の扉を開かせた原動力だったのです。

独学で切り開いた儒学への道

独力で儒学を学び、朱子学に代わる新たな学問を模索

上総国での困窮生活を経て、荻生徂徠は学問の道に本格的にのめり込んでいきました。当時の江戸時代の学問界では、朱子学が支配的な学問体系として君臨していました。朱子学は、徳川幕府によって奨励され、士大夫(武士階級)が学ぶべき正統な学問とされていました。しかし、徂徠は独学の中でこの朱子学に疑問を抱くようになります。

朱子学は、道徳や倫理を重視し、形式的な解釈に重点を置く学問でしたが、徂徠は「それでは現実社会の問題を解決することはできないのではないか?」と考えました。幼少期に経済的な困難を経験した彼にとって、学問は単なる理論ではなく、社会をよりよくするための実践的な知識でなければならなかったのです。そこで彼は、朱子学とは異なるアプローチを模索し、より実用的な儒学を求めるようになりました。

この時期の徂徠は、限られた書物の中から自らの思想を築くための手がかりを探していました。書物は貴重品であり、一般庶民が自由に学問を修めることは難しい時代でしたが、彼は独学を貫き、様々な古典に触れることで、儒学の真髄を深く探求していきました。

林羅山の『大学解』との出会いが思想形成の契機に

徂徠の学問に大きな影響を与えたのが、林羅山(はやし らざん)の著した『大学解(だいがくかい)』との出会いでした。林羅山は、初期江戸幕府に仕えた朱子学者で、徳川家康から家光に至る将軍たちの側近として仕えました。『大学解』は、儒学の重要な経典『大学』の解説書であり、江戸時代の儒学教育において広く読まれていた書物です。

この書物を通じて、徂徠は朱子学の枠組みの中にある道徳的な解釈と、実際の政治や社会の関係性について考え始めました。特に、儒学の根本思想である「経世済民(けいせいさいみん)」(すなわち、世を治め、民を救うこと)の重要性に目を向けるようになったのです。

徂徠は、儒学の本質は単なる学問の探求ではなく、現実の政治や社会の改革にこそあるべきだと考えるようになりました。林羅山の『大学解』を深く研究することで、朱子学の論理を理解しながらも、その限界を見極め、より現実的な学問の可能性を追求する方向へと舵を切るようになったのです。

25歳で江戸に戻り、儒学者として本格的に活動を開始

徂徠が25歳になった1691年(元禄4年)、彼はついに江戸に戻る決断をしました。地方での貧しい生活の中で独学を続けてきた彼でしたが、やはり学問を深めるためには江戸という知識と人脈の集まる場所へ行くことが必要でした。当時の江戸は、元禄時代の文化が花開いた時期であり、学者や文人たちが活発に活動していました。

しかし、江戸に戻ったからといって、すぐに名を成すことができたわけではありません。彼は無名の若者であり、学問の世界においてもまだ広く認められてはいませんでした。そこで彼は、江戸での生活費を稼ぐために、武士や町人の子弟を対象に儒学を教え始めました。この私塾の運営を通じて、徐々に学問の知識を広めるとともに、彼自身の思想を発展させていくことになります。

また、江戸での生活の中で、彼は多くの学者や文人たちと交流を深めるようになりました。特に、同時代の学者たちと議論を交わすことで、朱子学に対する自身の疑問をさらに明確にしていきます。こうした議論の中で、徂徠は朱子学の形式主義的な側面を批判し、より古代中国の原典に立ち返る必要性を説くようになりました。

この時期、徂徠は「古文辞学(こぶんじがく)」の基礎となる思想を形成しつつありました。彼は、朱子学の注釈を重視する学問方法ではなく、漢文をありのままの形で読み解き、古典の本来の意味を理解することが重要だと考えました。この革新的な学問の姿勢は、やがて江戸の学問界に大きな衝撃を与えることになります。

徂徠は、決して幕府の正式な学者ではなく、独学で学問を極めた一介の儒学者でした。しかし、その独自の学問体系と実践的な考え方は、多くの弟子たちを惹きつけ、江戸の知識人の間で次第に評判を呼ぶようになりました。

こうして、上総国での厳しい独学の経験を経た荻生徂徠は、江戸の地で新たな学問の扉を開き、朱子学に代わる新たな思想を模索する儒学者としての第一歩を踏み出したのです。

柳沢吉保の知遇を得て幕政に参画

側用人・柳沢吉保に認められ、幕政の助言者となる

江戸に戻った荻生徂徠は、儒学者としての活動を本格化させ、学問を深めると同時に人脈を広げていきました。その中で、彼の人生を大きく変える出会いが訪れます。それが、当時の幕府の実力者であった 柳沢吉保(やなぎさわ よしやす) でした。

柳沢吉保は、5代将軍・徳川綱吉 の側用人として絶大な権勢を誇る人物で、将軍の信任を一身に受けていました。側用人とは、将軍の側近として政務を補佐し、幕府の実質的な運営に携わる役職です。吉保は、有能な人材を登用することに優れた人物であり、優れた知識人や儒学者を求めていました。その中で、独自の思想を持ち、朱子学にとらわれない斬新な視点を持つ荻生徂徠に強い関心を抱くようになります。

当時、幕府の政策決定には儒学の教えが深く関わっていました。特に、綱吉が推進した「生類憐みの令」をはじめとする政策には、朱子学的な道徳観が色濃く反映されていました。しかし、徂徠はこうした朱子学の道徳主義に疑問を抱いており、より現実的な統治論を模索していました。この思想が柳沢吉保の目に留まり、彼は徂徠を幕政の助言者として迎えることを決めたのです。

学問だけでなく、実際の政治運営の重要性を学ぶ

柳沢吉保に見出された徂徠は、幕府の政策に関与する機会を得るとともに、政治の現場に接することになります。それまでの彼は、あくまでも学者として学問を究めることに専念していましたが、幕府の政治運営に関与することで、学問が現実の政治とどのように結びつくのかを深く考えるようになりました。

特に、柳沢吉保の政治手法から多くのことを学んだと考えられます。吉保は、単なる将軍の側近にとどまらず、幕府の権力構造を深く理解し、政治的な駆け引きにも長けていました。彼は、将軍綱吉の信任を得るために、徹底した忠誠心を示す一方で、幕府内の有力者とのバランスを取ることにも細心の注意を払っていました。こうした実践的な政治手腕を間近で学ぶことができたことは、徂徠にとって非常に大きな経験となったでしょう。

また、徂徠はこの時期、幕府の統治に関する意見を述べる機会を得ており、現実の政治における儒学の役割について深く考えるようになりました。彼は、朱子学が強調する「仁義」や「道徳」だけでは政治は動かず、法律や制度による現実的な統治が必要であると考えるようになります。この考え方は、後に彼が唱える「法治主義」へとつながっていきます。

幕府内での発言力を増し、思想家としての地位を確立

柳沢吉保の庇護を受けたことで、徂徠は幕府内で一定の影響力を持つようになりました。彼の学問は、単なる儒学の枠を超えて、政治や経済、法律に関する実践的な議論を含むようになっていきます。

この時期の徂徠の思想の特徴として、「古文辞学(こぶんじがく)」の確立があります。これは、朱子学のように儒学の経典を解釈するのではなく、古典の文章をそのままの形で理解し、当時の政治や社会に適用する という考え方でした。朱子学が「経典の解釈」に重きを置いていたのに対し、徂徠は「古典に書かれた本来の意味を正しく理解し、それを政治に活かすべき」と考えたのです。

この思想は、柳沢吉保をはじめとする幕府の政治家たちにも一定の影響を与えました。徂徠の考え方は、単なる理論にとどまらず、幕府の実際の統治においても応用できるものであり、政治家たちは彼の意見に耳を傾けるようになったのです。

また、徂徠の思想は、当時の学問界においても注目を集めるようになりました。彼のもとには多くの門人が集まり、彼の教えを学ぶようになりました。この中には、後に「蘐園(けんえん)学派」と呼ばれる学派を形成することになる 太宰春台(だざい しゅんだい) や 服部南郭(はっとり なんかく) などの優れた学者たちも含まれていました。

こうして、荻生徂徠は柳沢吉保という幕府の実力者の庇護を受けることで、学問だけでなく政治の実務にも関与し、思想家としての地位を確立していったのです。

元禄赤穂事件における「法治主義」の主張

赤穂浪士の処遇をめぐり「法に従い切腹すべし」と論じる

荻生徂徠が幕政に関与する中で、大きな論争を巻き起こしたのが元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)に対する彼の立場だった。この事件は、1701年(元禄14年)、播磨国赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)が江戸城内で高家筆頭・吉良義央(きらよしひさ)に刃傷に及んだことに端を発する。浅野長矩は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易となった。しかし、翌1702年(元禄15年)、浅野の旧臣である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる47人の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ったのである。

この討ち入り事件を受け、幕府内では浪士たちの処遇をめぐって激しい議論が巻き起こった。赤穂浪士の行為は「主君の仇討ち」という武士の忠義を体現したものとして称賛する声もあったが、一方で幕府の法に照らせば、幕命によって裁かれた吉良義央を討つことは違法行為であった。幕府は浪士たちの処分について慎重に検討を重ね、儒学者や幕臣に意見を求めた。その中で、荻生徂徠は「法に従い、浪士たちは切腹すべき」と主張したのである。

徂徠の「法の論理」は、当時の武士道と鋭く対立

荻生徂徠の見解は、当時の武士社会において極めて異端なものであった。多くの武士が「忠義の美徳」に重きを置き、赤穂浪士の行動を肯定的に評価する中で、徂徠は「法治こそが社会を維持するために必要である」と説いたのである。彼の主張の根拠は、以下のような考え方に基づいていた。

第一に、幕府の法においては、仇討ちは公的な許可を得た場合にのみ認められるものであり、赤穂浪士の行動はこの規定に違反しているという点である。徂徠は、「個々の感情や忠義よりも、法の原則が優先されるべきである」とし、幕府が定めた秩序を守ることこそが武士の本分であると主張した。

第二に、彼は儒学の視点からも武士道の解釈を批判した。徂徠が推奨した学問である古文辞学では、古代中国の原典をありのままに解釈し、現実の政治や社会に応用することを重視していた。そのため、彼は朱子学が強調する「忠孝」や「名誉」といった価値観を盲目的に受け入れることを否定し、あくまでも統治の理論に基づいて行動すべきであると考えていたのである。

徂徠の考えは、元禄時代の武士社会における伝統的な武士道観と鋭く対立するものであった。彼は、武士道が単なる道徳や精神論ではなく、法と制度の枠組みの中で機能すべきものであることを強調し、「忠義」の美名のもとに法を破ることは許されないと断言した。この主張は、幕府内でも賛否を分けることとなり、最終的な決定を左右する一因となったと考えられている。

この見解が後の武士社会や司法制度に与えた影響

1703年(元禄16年)、幕府は赤穂浪士たちに対し、切腹を命じるという決定を下した。この判断は、徂徠の主張が直接的に影響を与えたものではないものの、彼の論理的な「法治主義」の考え方が幕府の意思決定の背景にあったことは間違いない。幕府はこの決定によって、武士の忠義よりも幕府の権威と秩序を優先する方針を明確に示したのである。

徂徠の「法治主義」は、後の江戸幕府の統治思想にも影響を与えることとなった。彼の考え方は、8代将軍**徳川吉宗(とくがわよしむね)**による享保の改革にもつながっていく。吉宗は、幕府の法制度を整備し、武士の統治を合理化することに努めたが、その背景には徂徠の「法の論理」があったとされている。

また、徂徠の赤穂事件に対する立場は、江戸時代後期の武士の価値観にも影響を及ぼした。それまでの武士道は、あくまで「忠義」や「名誉」といった道徳的な観念に基づいていたが、徂徠の思想は「法に基づく統治」という新たな視点を提示したのである。この考え方は、幕末の思想家たちにも受け継がれ、近代的な法制度を重視する方向へとつながっていった。

赤穂浪士の討ち入りをめぐる議論は、現代においてもなお評価が分かれる歴史的事件である。しかし、荻生徂徠の視点から見ると、それは単なる忠義の物語ではなく、「法の支配」と「武士の道徳」の対立を示す象徴的な出来事であった。彼は、感情的な判断ではなく、法に基づいた統治こそが社会の安定をもたらすと主張し、それを生涯貫いたのである。

こうして、徂徠は元禄赤穂事件を通じて、自らの思想を世に示し、「法による統治」という概念を江戸幕府に植え付けることに成功したのであった。

蘐園塾の開設と古文辞学の確立

1709年、日本橋茅場町に「蘐園塾」を創設

荻生徂徠は、学問をさらに発展させるため、1709年(宝永6年)に蘐園塾(けんえんじゅく)を開設しました。場所は、当時江戸の中心地であった日本橋茅場町でした。蘐園塾の「蘐(けん)」とは、トウガラシの一種である「蘐(けん)」の字を用い、「学問が盛んに燃え上がること」を意味するとされています。塾の名前には、知識を広め、弟子たちと共に学問を深めていく場にしたいという徂徠の思いが込められていました。

蘐園塾の特徴は、それまでの儒学塾とは異なり、単に朱子学を教えるのではなく、独自の学問体系を確立し、それを広めることを目的としていた点です。徂徠は、既存の儒学の枠組みにとらわれることなく、より実践的な学問を重視しました。そのため、塾では古典の研究だけでなく、政治や経済、法律などの幅広い分野にわたる議論が行われました。特に、幕政に対する具体的な政策提言を行うこともあり、単なる学問の場ではなく、現実社会に影響を与える場として機能していました。

また、蘐園塾には多くの門弟が集まりました。その中には、後に経済学者として名を馳せる太宰春台(だざい しゅんだい)や、漢詩人として活躍する服部南郭(はっとり なんかく)などがいました。彼らは、徂徠の教えを受け継ぎ、それぞれの分野で優れた業績を残しました。蘐園塾は、単なる学問の場ではなく、新たな思想を生み出し、次世代へと継承する場として、大きな役割を果たしていたのです。

古文辞学を提唱し、朱子学とは異なる学問体系を築く

徂徠が蘐園塾で提唱した学問が、「古文辞学(こぶんじがく)」でした。これは、朱子学の注釈中心の学問に対抗し、古代中国の文章をそのままの形で理解することを重視するという、新たな学問体系です。徂徠は、朱子学が儒教の経典に対する解釈にこだわりすぎており、時代ごとの政治や社会の実態に即していないと考えました。そこで、彼は「古典の本来の意味を正しく理解し、それを実際の統治や社会運営に活かすことが重要である」と主張したのです。

徂徠の古文辞学では、朱子学のような道徳的な解釈に頼るのではなく、文章そのものを歴史的な文脈の中で読み解くことが求められました。そのため、彼の塾では、古代中国の文献を原文のまま学び、当時の言葉や文法を厳密に分析することが重視されました。この方法により、単なる道徳論ではなく、より現実的で実践的な学問が可能となったのです。

また、古文辞学は、政治や法律の分野にも大きな影響を与えました。徂徠は、「統治とは道徳ではなく制度によって行われるべきである」と考えており、その考え方は彼の弟子たちにも受け継がれました。例えば、太宰春台は経済政策に関する議論を深め、徂徠の思想を具体的な政策論へと発展させました。

太宰春台や服部南郭など、優れた門弟を多数輩出

蘐園塾では、多くの優れた門弟が育ちました。中でも、太宰春台と服部南郭は、徂徠の学問を受け継ぎ、それぞれの分野で大きな功績を残しました。

太宰春台は、経済学に関心を持ち、幕府の財政政策について研究を行いました。彼は「経済は武士の倫理観だけでは成り立たず、現実的な政策が必要である」と考え、幕府の財政改革に関する提言を行いました。徂徠の学問が政治や統治に重点を置いていたのに対し、春台はそれを経済の分野に応用し、実践的な学問へと発展させました。彼の著書『経済録』は、江戸時代の経済政策を考える上で重要な文献となっています。

一方、服部南郭は、漢詩人として活躍しました。彼は、徂徠の古文辞学の思想を受け継ぎ、**『唐詩選国字解』**という書物を編纂しました。これは、中国の唐詩を日本人にも理解しやすい形で解説したものであり、日本における漢詩の普及に大きく貢献しました。徂徠の学問は、政治や経済だけでなく、文学の分野にも影響を与えたのです。

蘐園塾の門弟たちは、それぞれの分野で活躍し、徂徠の学問を広めていきました。彼らの活動を通じて、古文辞学の考え方は次第に江戸の学問界に浸透し、朱子学とは異なる新たな学問潮流を生み出していったのです。

荻生徂徠の蘐園塾は、単なる儒学塾ではなく、実践的な学問を追求する場でした。彼の提唱した古文辞学は、従来の朱子学にとらわれない新たな学問体系として、多くの学者や政治家に影響を与えました。そして、門弟たちが各分野で活躍することで、その思想はさらに発展し、日本の学問に新たな道を開いたのです。

徳川吉宗への改革提言『政談』の影響

享保の改革に際し、徳川吉宗に『政談』を献上

荻生徂徠の学問は、単なる思想研究にとどまらず、幕府の政治改革にも大きな影響を与えました。その象徴的な出来事が、8代将軍徳川吉宗(とくがわ よしむね)への『政談(せいだん)』の献上でした。

1716年(享保元年)、徳川吉宗が将軍職に就くと、幕府の財政難や社会不安の解決を目指し、改革に乗り出しました。これが歴史上有名な「享保の改革」です。吉宗は、この改革を進めるにあたり、学者や幕臣たちから意見を募りました。その中で、徂徠は「幕府の政治を根本から見直し、実践的な政策を導入するべきだ」という立場から、『政談』を著し、吉宗に献上しました。

『政談』は、徂徠の政治思想が凝縮された書物であり、幕府の政策全般にわたる具体的な提言が記されています。この書物の最大の特徴は、朱子学的な道徳論ではなく、現実の政治運営に即した実践的な政策を論じている点にあります。徂徠は、統治の基本は「法と制度」であり、単なる徳目や道徳によって政治を行うべきではないと主張しました。こうした考え方は、彼の法治主義的な思想に基づいており、元禄赤穂事件の際に示した見解とも共通するものがありました。

武士の土着政策や刑罰制度の改革を提言

『政談』の中で、徂徠はさまざまな政策改革を提案していますが、特に注目されるのは武士の土着政策と刑罰制度の改革に関する議論です。

まず、武士の土着政策について、徂徠は「武士は本来、地方の行政官として機能すべきであり、江戸に集めるのではなく、地方に戻して農民とともに生活し、地域の統治を担うべきである」と主張しました。江戸時代の幕府政策では、多くの藩士が江戸に常駐することを義務付けられていましたが、それによって地方の行政機能が弱まり、農村経済が衰退するという弊害が生じていました。徂徠は、この問題を解決するために、武士が地域社会と密接に関わることで地方の安定を図るべきだと説いたのです。

次に、刑罰制度の改革についても徂徠は大胆な提言を行いました。当時の幕府の刑罰制度は、しばしば過酷であり、罪人に対する苛烈な処罰が行われていました。しかし、徂徠は「刑罰は犯罪を防ぐための手段であり、極端に厳しい処罰は逆に社会を不安定にする」と論じました。彼は、中国の法律書である『明律国字解(みんりつこくじかい)』を研究し、合理的な法体系を基盤とした刑罰制度を導入するべきであると提案しました。これは、彼の法治主義的な思想に基づいた政策論であり、後の幕府の法制度の整備にも影響を与えました。

徂徠の思想は吉宗の政治にどこまで反映されたのか?

徂徠の『政談』は、享保の改革において一定の影響を与えたと考えられています。特に、吉宗が推し進めた「足高の制」(能力のある者を役職に登用する制度)や「目安箱」(庶民の意見を幕府に届ける制度)などの政策は、徂徠の実践的な政治観と共通する部分がありました。吉宗自身も、徂徠の法治主義的な考え方を評価し、幕府の統治に取り入れようとした節が見られます。

しかし、徂徠の提言がすべて実行されたわけではありません。特に、武士の土着政策については、当時の幕府の体制を大きく変えるものであったため、実現には至りませんでした。また、刑罰制度の改革も、一部で緩和される動きがあったものの、幕府全体の法体系を抜本的に変えるには至らなかったのです。

それでも、徂徠の政治思想は、幕府の政治運営に一定の影響を与え、江戸時代後期の統治思想にも受け継がれていきました。彼の提唱した「法と制度に基づく統治」の考え方は、後の幕府の政策立案においても重要な指針となったのです。

また、徂徠の弟子たちも、彼の思想を受け継ぎ、さまざまな分野で活躍しました。例えば、太宰春台は経済政策の分野で徂徠の学問を発展させ、幕府の財政改革に関する議論を深めました。服部南郭は、漢詩の分野で徂徠の学問を広め、文学の発展にも貢献しました。こうした弟子たちの活動を通じて、徂徠の学問は江戸の学問界に広く浸透し、後世に影響を与え続けることとなったのです。

荻生徂徠の『政談』は、単なる学問書ではなく、実際の政治改革に向けた提言書でした。彼の思想は、江戸幕府の政策に一定の影響を与えたものの、当時の体制を根本から変えるには至りませんでした。しかし、その考え方は、近代的な政治思想の先駆けともいえるものであり、江戸時代の学問と政治のあり方に新たな視点をもたらしました。

中国語学習の革新と明代文学の影響

日本における中国語教育に新たな視点をもたらす

荻生徂徠は、儒学者としての研究だけでなく、日本における中国語学習にも革新をもたらしました。徂徠が学んだ儒学の経典はすべて漢文で記されており、中国語の理解は学問の基礎となっていました。しかし、当時の日本では、漢文は「訓読(くんどく)」と呼ばれる日本独自の方法で読み解かれていました。訓読とは、中国語の文法や語順を日本語に置き換え、意味を理解する方法です。これによって、日本の学者たちは古典を読めるようになりましたが、本来の中国語の発音や語感とはかけ離れたものになっていました。

徂徠は、この訓読の方法に疑問を抱きました。彼は、「中国の古典を正しく理解するためには、漢文を中国語の音で読むべきである」と主張したのです。この考えは、徂徠の「古文辞学」の理念にも通じるものがあり、朱子学の解釈を重視する学問に対抗し、原典の本来の意味を忠実に読み取るべきだと考えました。彼は、日本の学者が中国語の音韻や文法を正しく学ぶことこそ、真の学問の道であると説いたのです。

この考えのもと、徂徠は中国語の学習方法を刷新し、弟子たちにも中国語の発音や言葉の使い方を意識するよう指導しました。彼の影響により、日本の学者の間で「漢文を中国音で読む」という新たな試みが広まり、中国語学習における大きな変革が生まれました。

「漢文は中国音で読むべき」との革新的な主張

荻生徂徠は、中国語の正しい読み方を研究する中で、当時の日本ではあまり知られていなかった「明律国字解(みんりつこくじかい)」という法律書にも注目しました。これは、中国の明代の法律を解説した書物で、当時の中国の法制度や言語の使い方が詳細に記されていました。徂徠は、この書物を読み解くことで、より正確な中国語の知識を得ようとしたのです。

また、彼は中国語の発音を学ぶために、長崎などで活動していた中国人との交流にも関心を持ちました。江戸時代には、中国(明・清)の商人や留学生が長崎に滞在しており、彼らを通じて中国語の音や語法を学ぶことが可能でした。徂徠自身が直接中国人と接触した記録は残っていませんが、彼の弟子たちが長崎で中国語を学んだことが伝えられています。

さらに、徂徠は署名にも中国風の名前を使用することがありました。彼は「物茂卿(ぶつもけい)」という中国風の号を使うことがあり、これは彼が中国文化に強い関心を持ち、中国語の研究にも真剣に取り組んでいたことを示しています。彼のこうした姿勢は、単なる学問的探求にとどまらず、文化的な交流の重要性をも示唆するものでした。

明代文学の研究が日本の文芸に与えた影響とは?

徂徠は、中国の古典文学にも深い関心を持ち、特に明代の文学を研究しました。明代(1368年~1644年)は、中国の文芸が大きく発展した時期であり、多くの小説や詩が生み出されました。特に、『三国志演義』や『水滸伝』などの物語文学は、日本でも広く読まれ、江戸時代の学者や文人たちに大きな影響を与えていました。

徂徠は、こうした明代文学の研究を通じて、日本の文芸にも新たな視点をもたらしました。彼は、「文学とは単なる道徳の教科書ではなく、人間の感情や社会の現実を描くものであるべきだ」と考えました。この考え方は、徂徠の古文辞学にも通じるものであり、朱子学が求める形式的な解釈を否定し、文学をより自由で実践的なものとするべきだと主張しました。

また、徂徠は同時代の俳人宝井其角(たからい きかく)と親交がありました。其角は松尾芭蕉の門人として知られ、江戸時代の俳句文化を発展させた人物です。徂徠と其角は、互いに影響を与え合い、中国文学や詩の表現について議論を交わしました。こうした交流の中で、徂徠の文学観が形成され、日本の文芸にも影響を与えることとなったのです。

さらに、彼の弟子である服部南郭も中国文学に深く精通し、『唐詩選国字解』という書物を編纂しました。これは、中国の唐詩を日本語で解釈したものであり、日本における漢詩の普及に大きく貢献しました。徂徠の学問は、政治や経済だけでなく、文学の分野にも広く影響を及ぼしていたのです。

荻生徂徠は、中国語学習に革新をもたらし、明代文学を通じて日本の文芸にも新たな影響を与えました。彼の学問は、単なる儒学にとどまらず、中国文化全般にわたる広い視野を持っていたことが特徴的です。こうした研究が、後の日本の学問や文化に大きな影響を与えたことは間違いありません。

63年の生涯を閉じた荻生徂徠の最期

晩年の生活と門弟たちとの交流

荻生徂徠は、晩年も学問に情熱を注ぎ続けました。彼の名声は広く知られるようになり、蘐園塾には全国各地から多くの門弟が集まりました。彼の思想に共鳴する弟子たちは、政治・経済・文学など各分野で活躍し、彼の学問をさらに発展させていきました。

晩年の徂徠は、江戸に居を構えながら、幕府の政治にも助言を続けました。特に、8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に対しては、前述の『政談』を通じて積極的に提言を行いました。吉宗との直接の交流は少なかったものの、その思想は幕府内で一定の影響力を持っていました。徂徠は学問を通じて政治に関与し、現実の社会問題に対して理論的な解決策を提示することに努めていました。

また、この時期の徂徠は、弟子たちとの議論を何よりも楽しんでいたとされています。門弟たちは彼の学問を深く学び、それぞれの専門分野に応用していきました。特に、太宰春台は経済政策に関する議論を進め、服部南郭は文学や詩の分野で活躍しました。徂徠は彼らと積極的に意見を交わし、次世代の学問の発展を見守ることに大きな喜びを感じていたようです。

しかし、晩年の徂徠は健康を徐々に損ない、病に苦しむようになりました。それでも彼は執筆や講義を続け、最期まで学問を探求し続けました。その姿勢は、弟子たちにとって大きな刺激となり、彼の死後も蘐園学派として発展していく礎となりました。

1738年、長松寺にて静かにこの世を去る

1738年(元文3年)、徂徠は63歳でこの世を去りました。死因については詳細な記録が残っていませんが、晩年の彼が病に苦しんでいたことから、持病の悪化によるものと考えられています。彼の葬儀は、弟子たちや多くの知識人によって執り行われました。

徂徠の墓所は、江戸の長松寺(ちょうしょうじ)にあります。長松寺は、江戸時代に学者や文人たちの墓所として知られ、多くの知識人がここに葬られました。徂徠の墓は、今も彼を慕う人々によって訪れられ、彼の学問を偲ぶ場となっています。

彼の死後、蘐園塾の運営は弟子たちに引き継がれました。特に、太宰春台や服部南郭といった門弟たちは、徂徠の思想を継承し、それぞれの分野で学問を発展させていきました。蘐園塾は、その後も江戸学問界において重要な役割を果たし、幕末までその影響を残しました。

徂徠の死後、蘐園塾の学問はどのように継承されたのか?

荻生徂徠の死後、彼の学問は蘐園学派として発展していきました。蘐園学派は、徂徠の提唱した古文辞学を中心とし、政治・経済・文学など多方面にわたる学問を展開しました。特に、弟子の太宰春台は、徂徠の政治思想を経済学の視点から発展させ、「経済は武士の倫理観だけでなく、実際の政策によって成り立つものである」という考えを打ち出しました。彼の著書『経済録』は、江戸時代の経済政策を考える上で非常に重要な書物となりました。

また、服部南郭は、徂徠の文学思想を継承し、『唐詩選国字解』を編纂しました。この書物は、中国の唐詩を日本人にも理解しやすい形で解説したものであり、日本における漢詩の普及に大きく貢献しました。徂徠の学問は、こうした門弟たちの努力によって、江戸時代後期の学問界に大きな影響を与え続けたのです。

一方で、幕府の政治においても、徂徠の思想は一定の影響を残しました。特に、法治主義的な考え方は、享保の改革以降の幕府政策にも影響を与え、武士の統治における「制度と法の整備」の重要性が認識されるようになりました。徂徠の考え方は、後の幕末の思想家たちにも影響を与え、日本の近代的な政治思想の発展にも寄与したと考えられています。

荻生徂徠は、その生涯を通じて学問の革新を追求し続けました。彼の死後も、蘐園学派の学問は受け継がれ、日本の思想史において重要な位置を占めることになりました。彼の提唱した古文辞学や法治主義の考え方は、江戸時代の学問界だけでなく、後の時代にも影響を与え続けたのです。

書物・映画・芸能でたどる荻生徂徠の足跡

書物:「『政談』」「『荻生徂徠全集』」に見る思想の真髄

荻生徂徠の思想や学問は、数々の書物を通じて後世に伝えられています。特に有名なのが、彼の代表的な政治論『政談(せいだん)』と、後に編纂された『荻生徂徠全集』です。

『政談』は、徂徠が8代将軍・徳川吉宗に献上した政治提言書であり、彼の政治哲学が凝縮された一冊です。この書物では、「幕府の政治は道徳ではなく、法と制度によって運営されるべきである」という徂徠の法治主義的な思想が強く打ち出されています。武士の土着政策、財政改革、刑罰の見直しなど、具体的な政策提言も含まれており、江戸時代の政治を考える上で非常に重要な文献となっています。

一方、『荻生徂徠全集』は、彼の講義録や書簡、随筆などを集めたものであり、徂徠の思想をより深く知ることができる貴重な資料です。彼の学問は、単なる儒学の枠を超え、政治・経済・文学など多岐にわたるものであったことが、この全集を読むことで理解できます。特に、彼の「古文辞学」の考え方が詳細に述べられており、朱子学に代わる新たな学問体系を築こうとした彼の姿勢が伝わってきます。

徂徠の思想は、江戸時代の学問界において大きな影響を与えましたが、現代においてもその価値は色あせていません。彼の法治主義や実践的な学問の考え方は、今なお政治哲学や社会科学の分野で注目されています。

映画:「義士始末記」—元禄赤穂事件における徂徠の姿

荻生徂徠は、元禄赤穂事件において「法に基づいて赤穂浪士を処罰すべき」と主張し、武士道の忠義に基づく仇討ちを厳しく批判しました。この姿勢は、江戸時代においても議論を呼びましたが、後世においても赤穂事件を扱った作品の中で徂徠の役割が取り上げられることがあります。

特に、1953年に公開された映画『義士始末記(ぎししまつき)』では、荻生徂徠が元禄赤穂事件に対して冷静な法治主義の立場を取る姿が描かれています。この映画は、赤穂浪士の討ち入りを美化するのではなく、当時の幕府の判断や武士社会の在り方を客観的に描いた作品であり、徂徠の思想がどのように政治に影響を与えたのかを知る上で興味深いものとなっています。

このように、荻生徂徠の思想は単なる学問的な議論にとどまらず、日本の歴史や文化の中で繰り返し取り上げられ、再評価されてきました。彼の「法による統治」という考え方は、江戸時代の価値観とは異なる視点を提示するものであり、現代においてもなお重要な示唆を与えてくれるものです。

落語・浪曲:「徂徠豆腐」—庶民に親しまれる貧乏時代の逸話

荻生徂徠は、儒学者・政治思想家としての側面だけでなく、その人間的な魅力に関する逸話も多く伝えられています。その中でも、落語や浪曲として語り継がれている「徂徠豆腐(そらいどうふ)」という話は、庶民に親しまれる彼のエピソードの一つです。

この話は、徂徠が若い頃、貧しくて満足に食事を取ることができなかった時代にまつわるものです。ある日、彼が豆腐屋に行き、持ち合わせがなかったにもかかわらず、「今度お金が入ったら払うので、豆腐を売ってほしい」と頼みました。店主は彼の人柄を見て信用し、豆腐を売りました。その後、徂徠は出世し、豆腐屋に借りを返したという話です。

この「徂徠豆腐」の逸話は、庶民の間で語り継がれ、江戸時代の人々に親しまれました。落語や浪曲の題材としても扱われ、徂徠の人間味あふれる一面が伝えられています。彼の学問や政治思想は非常に高度なものでしたが、一方で、こうした庶民的な逸話が残っていることは、彼が単なる学者ではなく、多くの人々に愛された人物であったことを示しています。

また、徂徠は学問を志す者に対して「学問は、ただ書物を読むだけではなく、実生活の中で活かされるべきである」と説きました。この考え方は、彼が貧しい時代を経験したこととも関係しているのかもしれません。彼は、自らの困窮した時代を恥じることなく、むしろそれを糧として学問を発展させたのです。

荻生徂徠の足跡は、学問書だけでなく、映画や落語・浪曲といった大衆文化の中にも残されています。彼の思想や人物像は、多くの形で後世に伝えられ、今なお語り継がれているのです。

まとめ

荻生徂徠は、江戸時代において学問と政治の両面で大きな影響を与えた人物でした。幼少期に逆境を経験しながらも独学で学問を究め、朱子学に代わる新たな儒学として古文辞学を確立しました。柳沢吉保に見出され、幕政に参画すると、法治主義の立場から元禄赤穂事件の処理に関与し、後に徳川吉宗に『政談』を献上して享保の改革に影響を与えました。また、中国語学習の革新や明代文学の研究を通じ、日本の学問と文化の発展にも寄与しました。

晩年には蘐園塾を開き、多くの優れた門弟を輩出し、その学問は蘐園学派として発展しました。彼の死後も、その思想は書物や映画、落語などを通じて語り継がれています。徂徠の学問は単なる理論ではなく、実践的な社会改革を目指した点に大きな特徴があり、現代においてもなお、多くの示唆を与えてくれる存在であるといえるでしょう。

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