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アーネスト・サトウの生涯:幕末維新を駆け抜けたイギリス人外交官

今回は幕末に日本にやってきたイギリスの外交官、アーネスト・サトウについてです。日本に来て「佐藤」姓を名乗った人のように思ってしまいますが、Ernest Satowという本名になります。幕末の動乱期をつぶさに観察し、日本とイギリスの関係を築いた人物の生涯について紹介します。

目次

1. アーネスト・サトウの生い立ちと背景

サトウ家のルーツ:庶民的な家庭からの出発

アーネスト・サトウは、裕福な家庭ではなく、比較的庶民的な家庭に生まれました。彼のお父さん、デーヴィッド・サトウはラトビアのリガ出身で、11歳から船で働き始め、1825年にロンドンに移り住みました。デーヴィッドはルーテル派の信者となり、代書人メイソン家の長女マーガレットと結婚し、ロンドン塔近くのジューリー通りで土地家屋を売買する金融業を営んでいました。

学生時代の優秀さと日本への関心の芽生え

アーネスト・サトウは、幼少期から非常に優秀な学生でした。16歳でロンドンのユニバーシティ・カレッジに合格し、2年間で課程を修了しました。成績が抜群で、両親はさらに彼をケンブリッジ大学に進学させようと考えていましたが、日本に関する本との出会いが彼の人生を大きく変えることに。日本への興味が深まり、18歳でイギリス外務省の通訳生の試験に合格し、日本駐在を命じられました。サトウは日本語の習得に強い意欲を持ち、来日後も懸命に日本語を学び続けました。この経験が、彼の外交官としてのキャリアに大きな影響を与えました。

幕末日本への初めての訪問

日本への旅立ち:若きサトウ、東洋へ

1861年、アーネスト・サトウはイギリス外務省の通訳生として入省し、翌年の1862年に日本への赴任を命じられました。19歳という若さで、駐日領事部門の通訳生として横浜に着任します。当時の日本は開国して間もなく、外国人に対する攘夷運動が激化していた時期でした。サトウが到着した直後には生麦事件が発生し、外国人に対する緊張感が一層高まっています。さらに、英語を直接日本語に翻訳できる人材が極めて不足しており、日本語の習得に力を入れていたサトウは、非常に期待される存在でした。彼は、ジェームス・カーティス・ヘボンやサミュエル・ロビンス・ブラウンといった日本語学習の指導を受け、その能力を高めていきました。

通訳としての活動:幕府と薩長への接触

サトウは、駐日英国公使オールコックの通訳生として勤務を開始し、幕府との外交業務に従事しました。彼の任務は、幕府の高官との交渉を通じて、イギリス政府の立場を伝えることでしたが、次第に幕府だけでなく、薩摩藩や長州藩といった討幕派にも接触を持つようになりました。サトウは日本語の能力を活かして、これらの藩とのコミュニケーションを図り、彼らの考えや動向をイギリス政府に報告しました。この接触が、後に薩長同盟の支援につながる基盤を築くことになったのです。

サトウはまた、日本の自然や文化に深く感銘を受け、特に富士山の美しさを称賛していました。彼は日本社会や文化を深く理解しようと努め、その後の日本学の基礎を築く上で重要な経験を積みました。

薩長同盟とサトウの影響力

薩長同盟の舞台裏:サトウの果たした役割とは?

アーネスト・サトウは、薩長同盟の成立に直接関与したわけではありませんが、彼の活動が同盟の背景にある外交的な土壌を形成しました。サトウはイギリスの外交官として、薩摩藩と長州藩の双方に対して友好的な関係を築いており、彼らがイギリスと協力関係を結ぶ際に重要な役割を果たしました。その際、彼は西郷隆盛に対して「長州問題を解決できないほど幕府は弱体化している」と述べ、幕府に対抗するために薩摩と長州が手を組む必要性を理解していたと言えます。

イギリス外交官としての戦略:どのように薩長を支援したか

サトウは、イギリスが薩英戦争を通じて薩摩藩を親英的な立場に導き、さらに長州藩に対しても下関戦争後の講和交渉に関与することで、攘夷政策を転換させる手助けをしました。この戦略的な支援により、薩摩と長州は共通の敵である幕府に対抗するために手を結ぶことが可能となり、薩長同盟の実現が現実味を帯びてきました。総じて、サトウの役割は、薩摩藩と長州藩がイギリスとの関係を通じて国際的な視野を持ち、共通の目的である倒幕に向けて協力する土壌を提供することに貢献したといえます。

薩英戦争とサトウの外交戦略

薩英戦争の真実:サトウが見た戦場

薩英戦争は、1862年の生麦事件をきっかけに、1863年に薩摩藩とイギリスの間で発生した戦争です。生麦事件では、薩摩藩の大名行列にイギリス人商人が無礼を働いたとされ、殺傷事件が起こりました。これを受けて、イギリスは薩摩藩に賠償金と犯人の引き渡しを要求しましたが、薩摩藩は拒否し、結果として武力衝突に至りました。

アーネスト・サトウは、当時イギリスの外交官として日本に駐在しており、薩英戦争の際には通訳として関与していました。彼はイギリス艦隊の一員として薩摩藩との交渉に参加し、戦闘の現場にも立ち会いました。

戦争中の対応:巧妙な外交手腕

サトウの外交戦略は、イギリスの利益を守りつつ、日本の政治情勢を理解し、適切な対応を取ることにありました。彼は日本語に堪能であり、薩摩藩や長州藩との交渉において、その言語能力と文化理解を活かしました。特に、薩英戦争後の講和交渉では、薩摩藩がイギリスとの関係改善を図るきっかけとなり、サトウはその調整役として重要な役割を果たしました。

薩英戦争は、薩摩藩にとって西洋の軍事力を認識する契機となり、以後の薩摩藩の外交方針に影響を与えました。戦争後、薩摩藩はイギリスとの和平を選び、西洋の技術を取り入れる方向に転換しました。サトウはこの和平交渉の過程においても重要な役割を果たし、薩摩藩がイギリスから軍事技術を学ぶための土壌を築く一助となりました。

サトウの活動は、幕末から明治維新にかけての日本の近代化において、イギリスと日本の関係を深める上で重要な役割を果たしました。彼の外交戦略は、単なる軍事的対立を超えて、文化的・技術的交流を促進するものでした。

明治維新とアーネスト・サトウの関与

鳥羽・伏見の戦い:サトウが見た幕末の混乱

鳥羽・伏見の戦いは、1868年1月に京都の南部で始まった戊辰戦争の初戦で、旧幕府軍と新政府軍(薩摩藩と長州藩を中心とした連合軍)との間で行われました。この戦いは、大政奉還後も幕府の権力を維持しようとする徳川慶喜に対抗し、薩摩藩や長州藩が武力行使を準備していたことで引き起こされました。薩摩藩の挑発行動がきっかけとなり、鳥羽・伏見での戦闘が勃発。新政府軍は西洋式の銃器で旧幕府軍を圧倒し、最終的に新政府軍が勝利して旧幕府軍は大坂城へ撤退しました。この勝利により、新政府軍は戊辰戦争全体で勢いを増しました。

アーネスト・サトウは、この幕末の混乱を間近で観察していました。彼はイギリスの外交官として日本の政治的変動に深く関与し、特に薩摩藩や長州藩との友好関係を築くことで、イギリスの利益を守る役割を果たしました。また、幕府の弱体化や攘夷運動、倒幕運動の高まりを観察し、これらが日本の政治情勢を大きく変える要因であることを理解していました。サトウの活動と記録は、幕末から明治維新にかけての日本の大きな変革期を理解する上で、貴重な資料となっています。

大政奉還と江戸城無血開城:サトウの見解と影響

アーネスト・サトウは、大政奉還と江戸城無血開城という幕末の重要な出来事において、イギリスの外交官として日本の政治的変動を観察し、影響を与える立場にありました。1867年11月10日に徳川慶喜が大政奉還を行った際、サトウはこれを「終わりの始まり」と見なし、内戦が避けられないと予測していました。彼は、大政奉還が単なる政権移譲ではなく、幕府の権力が弱体化する一方で、新たな政治体制が確立されるまでの不安定な過渡期をもたらすと考えていました。サトウはこの状況を詳細に記録し、イギリス政府に報告することで、イギリスの対日政策に影響を与えました。

江戸城無血開城は、1868年5月3日に旧幕府軍と新政府軍の間で行われた交渉の結果、戦闘を避けて平和的に江戸城が引き渡された出来事です。サトウはこの過程で、イギリス公使ハリー・パークスの通訳として関与し、パークスが西郷隆盛に対して江戸総攻撃を止めるよう説得する際の橋渡し役を務めました。この説得は、既に降伏している徳川慶喜を攻撃することが国際法に違反するという論理を基にしており、これが西郷隆盛と勝海舟の会談において重要な決め手となりました。サトウの役割は、イギリスの立場を伝えることで、江戸城無血開城という平和的解決を促進する一助となったと考えられます。

日英同盟とサトウの晩年

日英同盟成立の背景:サトウが果たした最後の役割

日英同盟は、1902年に日本とイギリスの間で結ばれた軍事同盟で、主にロシアの東アジア進出に対抗するために締結されました。日本は日清戦争後、満州や朝鮮半島での権益を守るためにロシアと対立し、イギリスもまた中国やインドでの権益を守るためにロシアの拡張を警戒していました。この共通の利害が、両国の同盟締結につながりました。

アーネスト・サトウは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本とイギリスの外交関係の基礎を築く上で重要な役割を果たしました。彼は日本におけるイギリスの外交官として、日本の政治的変動を深く理解し、イギリスの対日政策に影響を与えました。特に駐日公使として日本に滞在していた期間、サトウは日本の近代化と国際社会への統合を支援し、イギリスが日本を重要な戦略的パートナーとして認識するための基盤を築きました。

サトウの活動は、イギリスと日本の間の信頼関係を深め、日英同盟の成立に向けた外交的な下地を作ることに貢献しました。彼は日英同盟の直接的な交渉には関与していませんでしたが、その長年にわたる活動が、両国の関係を強化し、同盟締結の背景において重要な役割を果たしたといえます。

サトウの晩年:日本への愛情とその後の影響

アーネスト・サトウは、晩年に至るまで日本に対する深い愛情を持ち続けました。彼は長年の日本滞在を通じて、日本文化や人々に強い愛着を抱くようになり、日本に内縁の妻である武田兼と3人の子供をもうけました。サトウは、家族に対して経済的援助を続け、日本語にも堪能で、日本の政治家や知識人と深い交流を持ちました。その日本への愛情は、彼の外交活動にも色濃く反映されていました。

外交官を引退した後、サトウはイギリスのデヴォンに隠居しましたが、日本での経験は彼の人生において重要な位置を占め続けました。彼は日本に関する多くの著作を残し、日本の近代化に関する貴重な記録を提供しました。これらの著作は、後の日本研究や日英関係の理解に大きな影響を与え、彼の名前は今もなお広く知られています。

著書と日本学の基礎

『公使日記』:サトウが残した歴史的記録

アーネスト・サトウの『公使日記』は、彼が日本駐在中に記録した詳細な日記であり、幕末から明治期にかけての日本の政治的、社会的状況を理解する上で重要な資料です。この日記には、サトウが1895年から1900年まで駐日英国公使として日本に滞在していた期間の出来事が収録されています。

『公使日記』には、サトウが日本で経験した出来事や要人との会談、外交交渉の詳細が記録されており、当時の国際情勢や日本の内政についての貴重な洞察を提供しています。たとえば、1894年に改正された日英通商条約の施行に関する詳細な記録が含まれており、これは日本が不平等条約の改正を達成し、国際的な地位を向上させる過程を示しています。また、日露間の緊張が続く中での外交活動や、サトウが清国公使として北京に転任する前の状況も詳述されており、極東地域における国際政治の変動が理解できます。

さらに、サトウが日光中禅寺湖畔に建てた別荘での滞在記録も含まれており、彼の個人的な生活や日本の自然に対する愛情が伺えます。このように『公使日記』は、彼自身の視点から見た日本の変革期を詳細に記録しており、当時の日本の政治的、社会的状況を理解するための重要な一次資料です。

サトウの記録は、日本とイギリスの関係だけでなく、広く国際政治史や日本近代史の研究においても重要な役割を果たしています。この日記は、サトウが日本に対して抱いていた深い愛情と理解を示しており、彼が日本の近代化にどのように関与したかを知る上で貴重な情報源となっています。

日本学の父:サトウの業績と後世への影響

アーネスト・サトウは「日本学の父」と称されるほど、日本に関する研究と理解を深めた人物です。彼は日本語を流暢に話し、書くことができ、日本文化、歴史、宗教、風俗に深い関心を持ち、これらを徹底的に研究しました。彼の外交活動は、駐日英国公使として日本の政治的変動期において重要な役割を果たし、日本の条約改正や国際社会への統合を支援する形で活動しました。これにより、日英関係の基礎を築く上で大きく貢献しました。

また、サトウは多くの著作を残し、日本の歴史や文化を海外に紹介しました。これらの著作は、日本研究の重要な基盤となり、後の研究者に大きな影響を与えました。サトウの研究と著作は、日本学の発展に大きく寄与し、日本の近代化や国際関係を理解するための重要な資料として利用されています。

さらに、サトウは能などの日本文化にも関心を持ち、これを海外に紹介することで、日本文化の国際的な理解と交流を促進しました。彼の外交活動は、日英関係の強化にも貢献し、両国の信頼関係が深まり、後の同盟関係の基盤が築かれました。

アーネスト・サトウの業績は、日本と西洋の橋渡し役として、日本の近代化と国際社会への統合に大きく貢献しました。彼の研究と記録は、現在も多くの研究者にとって貴重な資料となっています。

サトウと日本の文化財:古書と浮世絵師「写楽」

古書収集家としての顔:日本文化への深い理解と愛情

アーネスト・サトウは、日本文化に対する深い理解と愛情を持ち、特に古書収集家としても知られています。彼の古書収集活動は、日本の文化や歴史に対する深い関心を示すものであり、後世に大きな影響を与えました。サトウは、日本に関する内外の書籍を幅広く収集し、特に珍しい書籍や稀少な本が含まれていました。たとえば、『増補浮世絵類考』は浮世絵師「写楽」の研究において重要な資料とされています。彼は日本で約4万冊の書籍を収集し、そのうち1万冊はケンブリッジ大学に、3万冊は大英博物館に寄贈されました。その他にも、少数がオックスフォード大学やロンドン大学に、また数千冊が日本大学に収蔵されています。彼の収集した書籍は、日本の印刷文化史や文学、歴史の研究において重要な資料となっており、これを基にサトウは『日本古印刷史』を執筆し、奈良時代からの日本の印刷文化を英文で紹介しました。

サトウの古書収集は、単なる趣味を超えて、日本文化に対する深い理解と愛情の表れでした。彼は日本語を学び、日本の書道や文学にも精通し、訪れた先では必ず本屋に立ち寄るという習慣を持っていました。特に日本の古典や歴史書に強い関心を示し、その収集活動は後に日本学の発展に大きく寄与しました。彼のコレクションは現在も多くの研究者によって利用され、日本と西洋の文化交流の一環として重要な役割を果たしています。サトウの活動は、日英関係の深化や日本文化の国際的理解を促進する上で、今なお影響を与え続けています。

写楽研究の礎:サトウが収集した重要資料

サトウは浮世絵師「写楽」に関する研究においても重要な資料を収集しました。その中でも『増補浮世絵類考』は、写楽研究の礎となる重要な資料として知られています。サトウは、日本に滞在中に多くの古書を収集し、その中に写楽の作品や活動についての情報を提供するこの本が含まれていました。この資料は彼の手を経てケンブリッジ大学図書館に所蔵され、写楽の研究において貴重な情報源として利用されています。写楽はその生涯や作品の真贋について多くの謎が残されている浮世絵師であり、サトウのコレクションはこれらの謎を解明する手がかりとなっています。サトウの収集した資料は、日本学の発展に大きく寄与し、特に浮世絵や写楽の研究において重要な役割を果たしています。

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