こんにちは!今回は、日本のマルクス経済学と財政学を切り開いた経済学者、大内兵衛(おおうちひょうえ)についてです。
官僚としてのキャリアを捨て、学問の自由のために闘い、二度の弾圧を受けながらも学界に復帰し続けた不屈の知性──。
『財政学大綱』で日本型マルクス財政学を体系化し、戦後は統計制度や社会保障制度の整備にも尽力。日本経済学界の土台を築いた男の激動の91年をたどります。
大内兵衛の学びと成長のはじまり
淡路島・松帆村での七男としての少年時代
1888年8月29日、兵庫県三原郡松帆村(現在の南あわじ市)に生まれた大内兵衛は、七人兄弟の末っ子として育ちました。明治という激動の時代、淡路島の小さな農村にも、近代化の波は静かに、しかし着実に押し寄せていました。大内家は、農作業の合間にも教育を大切にする家風があり、兄たちの背中を追いかけて兵衛も自然と学びへの興味を持つようになります。家では日々の労働や生活を通して、努力することの大切さや、他人を思いやる心を育んできました。幼い兵衛は、島の四季や自然の豊かさの中で遊び、村の人々との交流から「人はなぜ働くのか」「なぜ学ぶのか」という問いを抱き始めます。農作業を手伝いながらも、夜になると家の灯りのもとで本を読む姿がしばしば見られました。身近な自然や家族との会話を通して、物事の本質を探ろうとする態度が芽生えた少年時代でした。兵衛の「もっと遠くを見てみたい」「世の中の仕組みを知りたい」という気持ちは、静かな島での暮らしの中から自然と生まれていったのです。
洲本中学校から第五高等学校へ――新たな世界への階段
地元の松帆村で学びを重ねた兵衛は、やがて洲本中学校に進学します。ここで彼は、地元の友人たちと学問や社会について議論することを楽しみにしていたと言われます。明治後期の地方中学校では、受験戦争のような雰囲気はなかったものの、各自が自分の力をどう伸ばせるか真剣に考える空気がありました。兵衛は好奇心旺盛で、自分で難しい課題にも挑戦し続ける性格でした。優れた成績を収めた彼は、1906年、17歳で熊本の第五高等学校へ進学します。親元を離れ、遠い地での寮生活が始まったとき、兵衛は大きな期待と少しの不安を抱いていました。熊本での生活は、これまで出会ったことのない多様な考えや文化、仲間との交流にあふれていました。学問の面白さに加え、時には失敗や壁に直面しながらも、「なぜ自分はここまで努力するのか」と問い続けました。五高で出会った仲間や教員との交流が、兵衛の視野を広げ、故郷で育んだ素朴な価値観をより深めていきます。自分の可能性と限界を自ら見つめ直す、重要な青年期となりました。
東京帝国大学時代と高野岩三郎との出会い
1909年9月、大内兵衛は念願かなって東京帝国大学法科大学経済学科に入学します。上京した彼を待っていたのは、人口の急増や新しい学問、激しく移り変わる都市社会の光景でした。大学では、当時まだ新しかった経済学や社会問題への関心が高まり、全国から集まった意欲的な学生たちが刺激しあう日々が続きます。兵衛は、知識をただ吸収するだけでなく、「なぜその理論が生まれたのか」「現実の社会でどのように役立つのか」を自ら問い続ける姿勢を崩しませんでした。ここで彼が出会ったのが、社会経済学のパイオニア・高野岩三郎です。高野の講義は、理論の背後にある社会的意義を重視し、学生に自ら考える力を求めるものでした。兵衛は高野の影響を受けて、講義後にも積極的に研究室を訪れ、熱心に議論を重ねるようになります。このような学問的対話を通じて、「学問とは社会の役に立つものでなければならない」という信念が形作られていきました。1913年、兵衛は同学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を受け取るという名誉を手にします。東京帝大での多彩な出会いと恩師との対話は、彼の人生観に大きな転機をもたらしました。
大内兵衛が官僚となり経済学へ歩み出す
大蔵省での仕事と社会観
東京帝国大学を首席で卒業した大内兵衛は、1913年に大蔵省に入省します。新しい時代の知識人として、社会の中枢で直接政策や財政の仕組みに関わることに大きな意義を感じていました。入省当初は、予算編成や統計調査などの実務を担当し、机上の学問だけでは見えなかった現実の日本社会と初めて深く向き合う日々が続きます。当時の日本は、欧米に追いつくための産業育成や、社会制度の近代化に必死で取り組んでおり、大蔵省の役割はますます重要になっていました。兵衛は、複雑な財政構造や現場の混乱を目の当たりにしながら、「どうすれば社会の不平等や矛盾を解決できるのか」という問いを持つようになります。現場で得た生々しい経験は、理想と現実のギャップに悩むきっかけとなりました。同時に、こうした矛盾や課題こそが、本格的な学問研究のテーマになり得ることを直感し始めます。
経済学へ目を向けた契機
官僚として働く中で、兵衛は社会問題の根本に迫るには机上の業務だけでは足りないことを痛感します。とりわけ大正期の日本社会は、都市と農村の格差や、労働運動の高まり、財政赤字の深刻化など、さまざまな矛盾が噴出していました。兵衛は、自らの手で現状を変えるためには「理論的な裏付け」と「現実への応用」を両立させた経済学の視点が不可欠だと考えるようになります。この頃、兵衛は統計調査の仕事を通じて社会の底辺の声に触れる機会が増え、数字やデータの背後にある人々の暮らしや現実を直視せざるを得なくなりました。なぜ経済の成長が必ずしも人々の幸福につながらないのか、なぜ政策が社会全体に公平に届かないのか――こうした「なぜ」に向き合うなかで、彼は官僚の枠にとどまらず、もう一度学問の世界で本質的な問題解決を目指したいという思いを強めていきます。
東京帝大助教授となるまでの道のり
兵衛は官僚としての実務経験を経て、1919年に東京帝国大学の助教授に就任します。この決断の背後には、恩師・高野岩三郎の後押しもありました。高野は兵衛の現場感覚と理論的思考の両方を高く評価し、大学での教育・研究の道を勧めたといわれています。助教授時代の兵衛は、官僚時代に培った実践的知識を活かし、学生たちに現実社会の問題を自分ごととして考えさせる授業を行いました。新しい時代の経済学には「社会の現実」と「理論」の架け橋が必要であり、自らがその役割を担うべきだという使命感に燃えていました。学内外からも注目される若手研究者として、経済学と社会問題の接点を追求し始めたこの時期が、後の大内兵衛の思想と実践の原点となります。官僚から学者へ――その転身は、個人のキャリアを超え、時代に新たな問いを投げかける一歩でした。
森戸事件と大内兵衛の学問への挑戦
マルクス主義との出会いと研究
東京帝国大学で助教授となった大内兵衛は、社会の矛盾や不平等に強い関心を抱きながら、どのように現実を動かす理論を生み出せるか模索していました。第一次世界大戦後の日本は、都市と農村の格差、労働運動の高まりなど新しい社会問題が噴出していた時代です。そうした現実に向き合う中で、大内はマルクス主義経済学に出会い、自らの研究テーマとして本格的に取り組み始めます。既存の経済学だけでは答えきれない「なぜ格差が生じるのか」「社会はどこへ向かうべきか」という問いに、マルクス主義は理論と実践の両面から応える可能性を感じさせました。彼は欧米の原典や最新の社会科学文献に日夜目を通しながら、日本の現実と照らし合わせて理論を深めていきます。理論的探求だけでなく、現実に目を向けた研究姿勢は、周囲にも新鮮な驚きを与えていました。
森戸辰男とともに進めた学問活動
大内は、同じ東京大学経済学部の森戸辰男と強い信頼で結ばれ、二人は日本の社会科学を刷新しようと情熱を注ぎました。1919年には、学部内に集まった若い研究者や学生と共に、機関誌『経済学研究』を創刊します。彼らの目指したのは、単なる理論の紹介ではなく、日本社会の現実に根ざした「生きた学問」を築くことでした。編集会議では、時に夜を徹して議論を重ね、どのように現実の矛盾や不条理にアプローチするべきか、真剣に語り合ったと伝わります。当時の経済学部には、美濃部亮吉や有沢広巳、櫛田民蔵といった多彩な仲間が集い、分野横断的な知的ネットワークが形成されていました。雑誌や勉強会を通じて、兵衛たちは「なぜ学問が必要か」「何をもって社会に応えるのか」という問いを、若い世代にも投げかけていきます。
森戸事件が問いかけた学問の自由
そんな知的探求の只中で、1920年1月、森戸辰男が『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したことを発端に、いわゆる「森戸事件」が勃発します。国家当局はこの論文を問題視し、森戸と編集責任者であった大内兵衛の二人を新聞紙法違反(朝憲紊乱罪)で起訴。最終的に森戸は禁錮刑、大内は罰金刑を受け、ともに東大を失職する結果となりました。この事件は、学問の自由と国家権力の対立を世に問う大きな衝撃となり、東京大学のみならず社会全体を巻き込む論争や学生運動へと波及しました。大内兵衛にとって、この出来事は「なぜ学問が社会で果たすべき役割を阻まれるのか」という根本的な問い直しのきっかけとなります。彼は困難な状況の中でも、「学問が批判精神を失わず、社会に新しい風を送り続けるべきだ」との信念を一層強くし、後進にもその大切さを語り継いでいくのです。
ドイツでの経験が大内兵衛にもたらしたもの
ヴァイマル期ドイツでの学び
森戸事件によって東京大学を去った大内兵衛は、学問の新たな地平を求めて1921年3月、私費留学という形でドイツへ旅立ちました。この時代のドイツはヴァイマル共和国の成立直後。社会の混乱と創造が渦巻くなか、兵衛はまずハイデルベルク大学に籍を置き、現地の学者や学生たちと交流を深めます。通貨の価値が激しく変動するハイパーインフレーション、労働運動や新しい思想の奔流、都市と農村の格差など、教科書では知り得なかった“生きた社会”の現場が、日々目の前に現れていました。兵衛は「なぜ社会はここまで揺れ動くのか」「経済政策が人々の生活をどう左右するのか」という問いに直面し、現地での体験と対話を重ねます。授業や公開講義だけでなく、夜遅くまでカフェで交わされた議論や市民たちの声に耳を傾け、現場感覚を積み上げていきました。多様な価値観や新しい学問の息吹に触れ、兵衛の視野はさらに広がっていきます。
マルクス主義財政学への理解の深化
ドイツ滞在中、大内兵衛は社会統計学や財政学、特にマルクス主義的財政学の本格的な研究に没頭します。現地の教授や研究仲間とともに、マルクスやエンゲルスの原典にあたり、財政政策が社会の構造や人間の暮らしにどのような影響を与えるのかについて徹底的に議論しました。とくにハイパーインフレーション下のドイツ社会では、政策が人々の日常にどれほど切実な変化をもたらすかを、肌で実感することができました。学問的には、従来の枠組みでは捉えきれない新しい理論や視点が必要であることに気づき、「なぜ社会主義やマルクス経済学がこの時代に求められているのか」を自問自答し続けます。兵衛は「現実から発想し、現実に応える」学問の姿勢をますます強めていきました。ドイツで得た知識と感性は、帰国後の日本社会に理論を根付かせるための大きな糧となっていきます。
帰国後の理論構築に向けた意欲
1923年10月、大内兵衛は日本に帰国しました。滞在中の1922年2月には東京帝国大学助教授への復職も決まり、帰国後まもなく教授にも昇任します。留学で培った経験と知見を持ち帰った兵衛は、今度は日本社会の現実に理論を根づかせることに全力を傾けます。復職後は大原社会問題研究所などで、マルクス主義財政学や社会政策論の研究と教育に精力的に取り組み始めました。「どのようにして理論を日本の現実と結びつけるか」「なぜ財政学が社会変革に不可欠なのか」――彼は自身の経験と問いを若い研究者や学生にも伝え、共に新しい経済学の可能性を追求していきます。ドイツでの体験は、大内兵衛の学問と人生に深い刻印を残し、のちの『財政学大綱』の基盤として結実していくのです。
大内兵衛が大学で伝えたものと『財政学大綱』
教授としての教育と学生への影響
ドイツでの留学を経て東京帝国大学に復帰した大内兵衛は、単なる知識の伝達者にとどまらず、学生たちに自ら考え、現実と格闘する姿勢を徹底して求めました。大内のゼミや講義では、暗記や受け身の学習はほとんど意味を持ちません。学生が現代社会の現実を自分の言葉で語り、なぜその理論が今の日本社会で必要なのか、どう応用できるのか――そうした「なぜ」と「どうする」の繰り返しが、教室を熱気と刺激で満たしていました。有沢広巳や美濃部亮吉といった後の経済学者たちも、大内のもとで「現実を見抜く眼」と「理論を疑う姿勢」を学んだといわれます。社会主義や労農派、さまざまな立場の若者たちが集い、時には意見が激しくぶつかる場面もありましたが、そうした多様な声と真摯に向き合う姿が、学生たちの記憶に深く刻まれていきました。
『財政学大綱』執筆が与えた学界への衝撃
1930年から31年にかけて刊行された『財政学大綱』は、日本の財政学と社会政策論に決定的な転換点をもたらしました。それまでの日本の財政学は欧米模倣や古典派理論が主流でしたが、大内は自らの現場体験とドイツで学んだマルクス主義財政学の成果をもとに、「なぜ日本の現実に即した理論が必要なのか」「どのように社会の矛盾に応答すべきか」を根本から問い直しました。著作は従来の教科書的な枠を超え、国家財政の本質と社会構造、政策の具体的課題に切り込む内容で、学界や政策当局にも強い衝撃を与えます。なぜ税制や予算編成が社会構造と直結するのか、どのような財政が「公正」なのか――その具体的な分析と提言は、学問の新しい地平を切り拓きました。刊行直後から議論が巻き起こり、大内の名は一躍全国に知られることになります。
社会政策学派との論争の意味
『財政学大綱』の登場は、日本の学界にさまざまな波紋を投げかけました。とりわけ社会政策学派との論争は、大内の理論と現実をつなぐ視点がどれほど新鮮で挑発的だったかを物語っています。社会政策学派は、従来から「社会改良」や福祉政策の充実を主張してきましたが、大内はそうした議論に対し、「なぜ構造的な経済分析なしに真の政策論は成り立たないのか」と批判を展開しました。議論は単なる学問的意地の張り合いではなく、財政や社会政策がどこまで社会の現実を変えうるのか、どんな理論がより深い変革を生み出せるのかを問う、実践的な問いかけでもありました。この時期、大内は櫛田民蔵、向坂逸郎らとの意見交換も活発に行い、多様な論点が生まれました。社会の奥深くに切り込むその知的挑戦が、のちの日本経済学界と政策議論のあり方を大きく塗り替えていったのです。
人民戦線事件が大内兵衛に残した傷跡
宇野弘蔵らとともに受けた検挙
1938年2月1日、第2次人民戦線事件が発生し、大内兵衛は宇野弘蔵(当時、東北帝大助教授)、向坂逸郎、脇村義太郎らとともに「教授グループ」の一員として逮捕されました。これは前年末の第1次事件での大量検挙に続く大規模な知識人弾圧でした。警察による突然の拘束は、大内の日常を一変させます。日頃ともに学問や議論を重ねてきた同僚や同志たちもまた、各地で一斉に取り調べを受けていました。なぜ自分たちの研究や思想がこれほどまでに社会から警戒されるのか、大内は深い戸惑いと憤りを抱きながら、長期間に及ぶ取調べや拘留に耐えました。仲間と励まし合いながらも、家族や教え子、そして学問への責任を思い、胸のうちでさまざまな葛藤が交錯していたことは想像に難くありません。
戦時中の言論抑圧と思想の苦悩
第2次人民戦線事件の後、大内兵衛は東京大学を離れ、激しさを増す戦時体制のなかで、公の場での発言や研究活動を大きく制限されるようになります。日本社会全体が戦争遂行へと一色に染められていく中、自由な言論や多様な思想は急速に排除されていきました。大内は、「なぜこの時代は、異なる意見や理論に対してこれほどまでに不寛容なのか」と苦しみながら、沈黙を余儀なくされる日々を送ります。表向きは静かな生活を続けていましたが、その内面では、過去の学問的信念と時代の現実との狭間で絶えず苦悩し続けていたと推察されます。密かに連絡を取り合う同志たちとの交流や、社会の動向を記録し続ける姿勢には、どんな状況でも自らの信念を手放さないという強い意志が感じられます。
終戦までの静かな日々と内面の変化
戦争の激化に伴い、大内兵衛の生活はますますひっそりとしたものになりました。1945年の敗戦を迎えるまでの間、彼は研究や読書を続けながら、時代の変化を静かに見つめていました。「自分たちがなぜ抑圧され、どんな歴史の力が社会の言論を縛ってきたのか」、その問いは心の奥に深く刻まれていきます。大内は、耐えるだけではなく、今後の社会にどのような学問や価値観を残すべきか、思索を続けていたことでしょう。終戦を機に、彼は再び社会との接点を持つ決意を新たにします。1945年11月28日、東京大学への復職が認められ、長い抑圧の時代を経て、大内は新しい時代に向かうための静かな準備を始めるのです。
戦後復帰した大内兵衛が目指したもの
東京帝大での教育活動の再開
1945年11月、戦後の混乱がまだ色濃く残るなか、大内兵衛は東京帝国大学経済学部へ正式に復職します。かつて弾圧を受けた場に、今度は再建の担い手として戻ってきたのです。敗戦直後の日本社会は、価値観も制度も根本から揺らいでいました。教室に集う学生たちも、これまでとは異なる不安と希望を抱えていました。大内はそうした状況を鋭敏にとらえ、「なぜ学問が今こそ必要なのか」「どうすれば社会の再出発を支えられるのか」と真剣に語りかけます。講義では経済理論だけでなく、戦争と国家、社会正義や公共性についても積極的に取り上げ、自らの体験と問いを率直に学生たちと共有しました。戦前とは違う、新しい学問の倫理と方法を模索する姿勢は、若い世代に強い影響を与えました。「知識は時代に従属するのではなく、時代に対して責任を持つべきだ」――その信念が、戦後教育の現場に確かな息吹をもたらしました。
統計委員会委員長として制度づくり
復職後、大内は研究と教育にとどまらず、日本の再建に直接関わる行政実務にも参加します。とくに重要だったのが、1946年から統計制度の整備に取り組んだことです。戦後日本では、経済再建や社会政策の策定にあたり、正確で客観的な統計データの収集と分析が不可欠でした。大内は総理府統計委員会の委員長として、制度の根幹設計に携わり、統計の独立性や信頼性を確保するための体制づくりに尽力します。彼が主張したのは、「なぜ国家の政策判断には、都合のいい数字ではなく、現実に根ざした事実が必要なのか」という信念でした。現場の調査員の教育、資料の整備、統計基準の策定など、多岐にわたる改革を進めながら、統計の社会的意味を問い続けました。この活動は単なる行政職務ではなく、学者としての倫理観と現実への責任を貫く場でもありました。やがてその功績は「大内賞」の創設へとつながり、統計学の発展と社会政策への寄与として長く評価されることになります。
定年退官と社会的な功績
1949年、大内兵衛は東京大学を定年退官します。戦前・戦中・戦後という三つの時代を生き抜いたその学問人生は、決して平坦なものではありませんでした。森戸事件や人民戦線事件、戦時中の沈黙、そして復職後の制度改革と教育再建――それぞれの局面で、大内は「なぜ学問を続けるのか」「社会にとって学問とは何か」を問い続けてきました。退官時には多くの学生・教員から感謝と敬意が寄せられ、その存在が一つの知的支柱として認識されていたことがうかがえます。また、統計制度改革における実績や、敗戦直後の知的指導者としての役割も高く評価され、学界内外からの信頼は揺るぎないものとなっていました。退官後も研究や執筆を継続し、静かながらも一貫した姿勢で社会と関わり続けました。大内の目指したのは、ただ学問を教えることではなく、「人間として社会とどう向き合うか」を問い続ける姿勢そのものでした。
法政大学総長として晩年を迎えた大内兵衛
法政大学の改革に取り組んだ姿勢
1950年、大内兵衛は法政大学からの要請を受け、総長に就任します。戦後の混乱を経て再出発を図る同大学は、制度・理念ともに新たな道を模索しており、大内にはその指針となることが期待されていました。彼がまず着手したのは、大学という組織の在り方そのものを問い直す改革でした。「大学は社会に対して開かれているべきだ」「学問の自由は、組織運営にも貫かれるべきだ」との理念をもとに、教育制度、学部構成、学生自治の整備にまで踏み込みました。なぜ今改革が必要なのか――その問いを学生や教職員と共有しながら、大内は一方的な決定ではなく、丁寧な対話を重ねて改革を進めていきます。形式に流されず、理念を根底から見直す姿勢は、当時の法政大学に新しい風をもたらしました。そしてそれは、教育機関が持つべき公共性や批判精神を再認識させる貴重な機会となっていきました。
「自由と進歩」を体現しようとした信念
総長としての大内兵衛が重視したのは、「自由」と「進歩」というふたつの理念でした。自由とは、思想の解放だけでなく、自分自身の思考に責任を持ち、他者の異なる視点と誠実に向き合うこと。進歩とは、既存の制度や価値観に安住するのではなく、「何を守り、何を変えるか」を常に問い直す態度です。こうした信念は、戦前・戦中の抑圧を経てなお、彼の内面に深く根づいていました。法政大学では、学生たちが自ら考え、自らの言葉で社会に問いかけることを奨励し、学問が社会の現実と切り離された閉鎖空間にとどまらぬよう常に意識されました。学内で意見が衝突する場面でも、大内は一貫して対話の場を閉ざすことなく、理念に基づいた合意形成を図りました。その姿勢は、単なる大学運営の枠を超え、一つの思想的実践として人々に記憶されていきました。
大内賞や記念施設としての遺産
法政大学総長としての在任中、大内兵衛が残した知的・制度的遺産は多岐にわたります。大学の組織改革や教育理念の刷新に加え、晩年にはその功績をたたえる形で、法政大学市ケ谷キャンパスには「大内山校舎」や「大内山庭園」といった記念施設が整備されました。これらは単なる名前ではなく、大内が体現した「社会と共にある学問」「内面からの自由」「制度と理念の接続」といった思想を、空間として継承するものでもあります。一方、学術界では1953年に大内の統計制度改革への貢献を記念し、統計界最高の栄誉として「大内賞」が創設されました。これは行政実務と学術の交差点で貢献した彼の業績を象徴するものであり、現在も統計学分野で高い評価を得た研究者に授与されています。晩年の大内が示した理念と実践は、制度や空間の中に確かに息づき続けているのです。
現代に受け継がれる大内兵衛の思想と評価
『財政学大綱』が果たした役割と評価
1930年代に刊行された大内兵衛の代表作『財政学大綱』は、戦後を経た今なお、日本における財政学の古典として読み継がれています。その理由は、単なる理論の整理ではなく、現実と理論の緊張関係を内在させたまま書かれているからにほかなりません。大内はこの著作の中で、「なぜ財政は社会構造と切り離せないのか」「国家の財政とは何を目的に行われるべきか」といった根本的な問いを、一貫して問い続けました。財政を単なる収入と支出のバランスではなく、社会の方向性や価値観を反映する営みとして捉えた視点は、今日の公共経済学や社会政策にも深い示唆を与え続けています。とくに現代の財政危機や社会保障制度の再構築が叫ばれるなか、大内が投げかけた「何のための財政か」という問いは、再び重みを増しています。その理論の核には、時代が変わってもなお揺るがぬ倫理と構造への洞察が刻まれています。
『経済学五十年』に込められた思い
晩年の大内が自らの学問人生を回顧した著作『経済学五十年』は、単なる自伝ではなく、一人の研究者が時代と思想の変遷をどう生き抜いたかを描く知的記録でもあります。大内はこの書で、森戸事件から人民戦線事件、戦後の教育改革や統計制度整備に至るまでの体験を、淡々と、しかし芯の通った筆致で綴っています。彼が生涯問い続けたのは、「なぜこの社会に学問が必要なのか」「どうすれば知が現実と結びつくのか」という問いでした。その言葉には、理論の重厚さとともに、個人としての誠実な姿勢がにじみ出ています。特筆すべきは、彼がどの時代でも自らの思想を絶対化せず、むしろ「どの地点にいても、常に問い直す姿勢」を持ち続けていたことです。それが『経済学五十年』の静けさの中に宿る力であり、読み手に深い余韻を残します。この一冊が示すのは、学問とは完成ではなく、未完であることの意味なのかもしれません。
大内賞・大内山校舎に残る精神とその伝承
大内兵衛が直接手をかけた制度や施設は、彼の死後も生き続けています。統計界では、彼の名を冠した「大内賞」が1953年に設けられ、今なお統計学分野の最高栄誉として位置づけられています。この賞が重視するのは、単なる技術的成果ではなく、「なぜその研究が社会に必要か」という視点を持った仕事であることです。まさに大内の思想の核心がそこに映し出されています。また、法政大学に設置された「大内山校舎」や「大内山庭園」は、彼の名を掲げた記念であると同時に、「自由と進歩」の理念を体現する空間として静かに息づいています。こうした目に見える形での伝承に加え、東京大学では現在も「大内兵衛賞」が経済学部内で若い研究者に授与されており、次世代の学問への励みとなっています。思想はかたちを変えて受け継がれる――それを示すのが、大内兵衛という人物が残した静かながらも確かな遺産です。
大内兵衛が遺した問いとまなざし
大内兵衛の生涯は、ただの経済学者としての歩みにとどまりませんでした。幼少期の淡路島から始まり、東京帝大での学び、官僚経験、森戸事件、ドイツ留学、戦時中の抑圧、そして戦後の教育・制度改革へと続く彼の軌跡は、時代と深く交錯する一人の知識人の探究と実践の歴史でした。「なぜ」を問い、「どうあるべきか」を考え続けたその姿勢は、学問だけでなく、生き方そのものへの示唆を今も私たちに投げかけています。『財政学大綱』に込められた構造へのまなざし、『経済学五十年』に滲む誠実な回顧、そして記念施設や賞に息づく理念。時代が変わっても、大内の問いは色褪せることなく、静かに私たちの思考を揺さぶり続けています。学問と社会のあいだに立ち続けたその背中に、今なお学ぶべきものは尽きません。
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